ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:リツイート

 
  楽山の舐めるもの
 
 
楽山は、他者の口を借りるしか能がないので、またしても、人に舐めてもらうように、他者のツイートを載せています。最も見苦しい手口で、宗教をおとしめて、自分の言い分を肯定したいのでしょう。恥も外聞もない。こうは、なりたくありません。
 
楽山は、人を無視して見なくなったために、自らがいかに醜いことをしているか、気づかないでいられます。こうやって、言論者を、舐め続けているのです。殆ど、思慮のない原生動物です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·6時間
そうです。ついでに言うと、ただインチキであるだけならとやかく言わないけど、インチキであることが明白で、そのインチキが害悪を生んでいる場合は「インチキ!」という批判はします。カルト批判も、教義への批判・否定を一切しないというわけではないのです。
引用ツイート
 」
ジャポニスタン
@japonistan
 · 6時間
幸福の科学の非科学的なインチキ霊言についても人様に迷惑をかけない以上は勝手だけど、周庭さんの霊言みたいに本人の命を脅かしうるものというのは明らかに問題なので、我々は抗議に行ったわけですね。 twitter.com/suspendednyora…
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害による詭弁と嘘の丁寧語によって、付き合い続ければ、人格を破壊するほどに、大きな害毒を与えるインチキです。約2年の批判を無視したままです。楽山は、人を人とも思っていないようです。
 
楽山は、机上の幼稚な神否定を繰り返して、成り立たないクレームによって、キリスト教を否定し、人を惑わせ、楽山自身と同じような人格破壊をもたらします。極めて害毒性の高い、祭りの出店や見世物小屋のインチキより、さらに迷惑で悪質なインチキです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·8時間
宗教に科学的合理性はないと思います。ただし「カルト批判」の場合、教義や思想が正しいかどうかや科学的・合理的かどうかではなく、人権侵害的な行為が存在する(具体的個人に具体的被害がある)ことを批判するという基本があります。
引用ツイート
 」
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 9時間
あくまで個人的な意見だけど。やっぱり、カルトに限らず宗教全般に違和感を強く感じる。
例えばキリスト教にしたって、処女が子供を産めるわけ無いじゃん。
イスラム教だって、豚は不浄だから食べちゃいけないとか、科学的合理性は無いよね。
 」
 
楽山は、詭弁と嘘によって、低次元の批判をし、自身に返ってきた批判をことごとく無視して、平気で訂正不能に繰り返すことによって、人権を侵し、おとしめ、破壊してゆく悪魔性です。
 
「処女が子供を産めるわけ無いじゃん」・・これが事実と信じたから救われるというキリスト信仰ではないということです。ゆえに、もっと大切なことは、別にあるのですが、楽山のような人は、そこを全く理解しないでキリスト教を否定している反キリストの偽善者です。
 
 
 
※ 信仰の中心
 
何度も書いてきたことですが、例えば、処女懐妊、数々の奇跡、肉体の復活などは、二千年前、起こったにせよ、起こらなかったにせよ、キリスト信仰の中心ではありません。
 
何故なら、起こるにせよ、起こらないにせよ、その奇跡は、私たちには、分からないからです。さらに、起こったと信じることで、救いにつながるとも思えないからです。
 
そういう奇跡は、神に任されることです。人が神の意志と行為を決めつけてはいけません。分からないことは、正直に、分からないと言うのは、信仰の条件であります。
 
物や肉体の奇跡について、起こると確信することは、この地上での視点が、超常に向いてしまい、日常を疎かにする危険があります。さらには、誰も知らないが起こるんだよ、と信じることが、誤った信仰者の優越意識にもつながりかねないのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者に比べて、優位に立つのではありません。同じ罪人であることは、信仰があってもなくても、変わりはないのです。ゆえに、福音伝道は続くのであって、そこに、他者は劣る者という視線を持つことは、神に背く傲慢だと思います。
 
信仰の中心は、私たちにも理解可能な、キリストの、人間に対する洞察と共感であります。ゆえに、二千年前に、偽善を最悪として批判したのです。そこを外してはいけないと思います。
 
私たちは、聖書から、人間としての心に響いて、受け取れることを、受け取るべきであり、それ以外は、保留の箱に入れておくべきであります。
 
さらに、キリスト信仰は成長するものですから、訂正不能に思い込んだり信じ込んだりすることは、厳に、戒めるべきであります。信仰は、繰り返し念じて、こびりつかせて、肯定の癖をつけるような安物ではないのです。
 
信仰の中心は、経験によって深めてゆく人間としての共感です。原初の信仰は大切ですが、訂正不能にしてしまったら、言葉だけの教条に堕してゆくでしょう。
 
一挙に、神の真理を、さらに、信仰の奥義さえも、人が得ることはないということです。自閉的な人も、社交的な人も、人間関係の中で、それなりに学習し成長することが大切なのです。
 
ゆえに、私事ですが、自閉的で疑い深い私も、キリスト者になったのであります。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間の持つ心の、"土の器" と書いてあるものに、信仰は与えられ、成長します。譬えだと思います。人が、神によって、土から造られたことによるのでしょうか。
 
ところが、この土の器を、何やら、超常の魔法の器のように信じ込んで、信仰は心のどこにもないと言っていた者があります。自分を特別な恵みを得たと特別視して自慢するためです。
 
その者シャロームは、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、などとも言っていました。悔い改めていないことを正当化するためです。しかし、彼の言を言い換えると、彼には、神は悔い改めを与えていない、導いてもないということです。
 
つまり、これは、人を見下すこと甚だしいところの、真っ赤な偽者の例です。キリスト教に疑問をいだくのは自由ですが、このような大馬鹿者にだけはならないでください。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 
 (ローマ2:4-5、新約聖書)
 
神の、慈愛、忍耐、寛容、と書いてあり、人間にも理解できることです。
 
このシャロームの言を、当たり前のように、肯定していたのが、楽山であります。このことで、楽山の語る宗教・思想の言は、信頼度ゼロであることが明らかになりました。
 
つまり、神の怒りを自分の身に積んでいる楽山とシャロームであります。
 
シャロームは、神の導きということを、まるで、魔法がかかって操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。笑止であります。
 
悔い改めは、神の前に、罪を正直に告白して赦しを乞うことです。つまり、祈るとき、世俗から、神へ、方向転換していることになります。神様のほうを向く・・という言い方があります。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
4:8-9
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 (2コリント4:7-10、新約聖書)
 
信仰による勇気を語っていることは明らかです。
 
土の器は、自慢するためではない。魔法でもないのです。
 
カルトや妄想家は、直感的な理解が、劣っているか、ない場合が多いです。
 
 
悪用

悪用
 
 
(2021年04月24日)
 
 
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  うそのまま2
 
 ありのままの自分でいること
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、我を張ってくるものです。
 
今までの2年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は、その恥ずかしさを感受できないのだろうと判断しています。
 
仏様の心が分かるっぽいと言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態。
 
最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。
このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」
 
嘘吐きが、ありのままでいるのだそうです。楽山は、意地の悪い快楽刺激にしか反応できない人です。そして、人を傷つけても、疲れさせても、迷惑をかけても、悔いることがありません。罪悪感がないからです。楽山のありのままは、詐欺師のそれでしかないのです。
 
嘘吐きを止めない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとすることが真実に生きることなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。
 
また、嘘を吐いています。"道徳的な詭弁" というのは、古い形式的な道徳を皮肉った言葉なのでしょう。楽山は、非道徳的で詭弁屋、つまり、偽善者です。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも狡猾な楽山です。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念することのようです。楽山の本能だから、良しとするのでしょう。
 
シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだん、言い張りから、ケダモノの遠吠えになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 
ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。
私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの? 
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」
 
楽山の、小説家の口を悪用した悪意の意志表示です。既に、ケダモノなのでしょうか。思考も情緒も意志もない雪という自然現象のお伽噺の因果に喩えている小説の悪のセリフを、そのまま真に受けて、変わっているから気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山は、人間としての基本的な節操・分別さえも持っていないのでしょう。
 
楽山は、信じることは裏切りだ、積むことは崩れることだ、降るのは溶けることだ、だから、自分が悪を働くのは善だ、正しいとか正しくないとか無いんだ、裏切りがなぜいけないんだ・・とでも言いたいのでしょうか。逆説の悪用です。雪の言葉ではなく、表現というものを全く知らない楽山の臭い臭い詭弁です。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人ならば、小説の文学的逆説の価値を認めても、こういう楽山のような、小説の文言を悪用して、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような悪の言葉には、同意しないはずです。
 
恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、
 
楽山は、情緒ではなく、快楽原則で判断していると思います。なんでもかんでも、自分に都合がよければ拾ってくる作業を読書と呼んでいるのです。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れてきたからです。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。堅苦しくない自分、反封建という前提で、婉曲的に、見苦しく自己正当化を図ろうとしています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は、悪意の産物であり、善意の知性に見せかける罠であります。
 
宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。
 
楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。
 
でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。
 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山日記です。
 
楽山の "生来の情緒" は恐ろしいものがあると感じています。曲がった知性の総てを自己正当化だけに費やして、反省も学習もせず、都合のよい文言を漁っては、有名人の名前で、自らの正当性を刷り込むなどは、人間味から遠く、非人間の鬼畜に近いものを感じます。
 
また、こういうところでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで詭弁屋で人間離れしたことばかり書いている楽山のどこに、取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、嘘っぱちの霊感の優越意識を満足させたいだけだと思います。
 
楽山の変わらぬ性質として表れてきたのが、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することもないでしょうし、さらに、だらだらと書いてくることさえ、しないはずだからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは逆であって、むしろ対極にあるもので、真っ向から、何の罪悪感もなく、自分はこんなに謙虚だと見せかけるための、白々しい芝居のです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。
 
楽山は、ずっと、狂った情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。宗教の価値を、楽山は、全く知りません。そういう、自我しかない心性ですから、生来の情緒など持っていないと思います。あるのは、イド的欲求だけのように思います。
 
こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。
 
楽山は、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、無かったのではないかと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊が分かるっぽいという自慢からの我欲に過ぎません。
 
それに、キリスト信仰は、規範や道徳に合致させる教条主義を行為義認と呼んで否定して生まれてきたものです。そのことを、旧勢力に殺される路程で、明らかにしたのはキリストご自身であります。いつものように、楽山の、宗教に対する無知が表れています。
 
楽山の宗教理解・信仰理解は、超常ホラーアニメを見た子供の感想のように、極めて幼稚であることが表れてきました。楽山は、娯楽の視野と真実の追求を区別できない人です。
 
しかも、もはや、訂正不能のようです。学ぶことなく、言い張り続けるのは、とても醜いことですが、楽山は、罪悪感も羞恥心もないために、気づかないのです。
 
自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。
 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を除いてしまったら、楽山のような、極めて傍迷惑なケダモノになるということです。
 
楽山において、ありのままは、自然体ではなく、天然の我欲のみ、すなわち、うそのままです。
 
当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、それを否定しています。
 
楽山の、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。
 
小説というフィクションにおける反発~逆説という表現を、読み取らず、学ばないで、逆に、真に受けて悦ぶ楽山の著しい詭弁です。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山が、自分では何も言えないものだから、またしても、他者のツイートを引用して、拡大解釈で曲解して、自己正当化に励んでいるようです。誰が何と言おうと好きなことをしておればよいと自分に言い聞かせているのでしょうか。人の口を、どこまでも、悪用する楽山です。
 
楽山にとって、人生とは、嫌なことを無視して、どんなに人が思おうとと、好きにやっていることが一人前に過ごしたことになると思っているのでしょう。楽山の今までの自己中を続けるぞ・・と、これからも、自分だけを愛し続けるのに、字面だけ都合のよいツイートを引用しています。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
·7時間
幸せになる1番簡単な方法は時間の使い方を見直す事だ。嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ。例えば、無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する。ウジウジ悩む代わりに運動して心身共にリフレッシュする。これだけで超幸せになれる。
午後7:10 · 2021年3月25日·Twitter for iPhone
 
「嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ」・・楽山は、自分の好きなことだけしていようと思っているようです。楽山のような病的ナルシストは、こういう発言を、自分の好きなようにしてよい、それが自由だからと、自己中で妄想的に曲解して、そういう言を探しては悪用します。人間ならば持っているはずの深い思考・理解・共感がないからです。
 
何となく読んで、ふつうに同意してしまうと、じわじわと自己中が、楽山から、うつされることになります。楽山は、ふつうではありません。自己中で曲解して引用したものを、なぜ、何度も何度も、手を変え品を変え、読ませようとするのでしょう。
 
他者から不快を与えられたから、別の他者の口を使って、これ、もっともでしょう、当たり前に正しいじゃないですかぁ・・という感じで、自己満悦して、刷り込もうとしてくるのです。
 
それにしても、詭弁が成り立たないと、別の詭弁を出してくる、しかも、他者の言を勝手に解釈してのことだから、どこまでも、精神の貧困と狡猾さだけが伝わることになります。
 
「無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する」・・この言が、成り立つのは、大人として、責任を弁えて行動する人の場合です。
 
楽山のような自己愛性パーソナリティ障害では、無反省・無責任の体質によって、趣味、読書、創作、いずれも著しく偏ってゆきます。
 
趣味に独りで没頭して、誰にも迷惑をかけないなら、自由です。しかし、もしそうなら、何も書かず、リツイートでも自己中が表れるのだから、引用して書くなどということはしないはずです。
 
どうしても、自己正当化しないと気が済まないから、都合の良い文言を、他者の言に求めて、出してくるのでしょう。
 
リフレッシュによる気分転換と、自閉による逃避は違います。自閉による逃避は、無視することと同じです。目をつぶり気をそらすことでは、悪意と病質が沈殿して蓄積されるだけです。
 
人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言う、これが、まさに、自閉の生き方です。ということは、今までも、楽山が、ずっと、やってきたことです。リフレッシュではなく、自己中が、無視を続けて、自閉するだけです。
 
過去の問題を反省しないまま、無視して、ふつうに過ごしているつもりでいると、結局、また、活動を再開するときに、同じ経過を辿ることになります。
 
人間は、学習することで成長します。学習するために、不完全な自分を意識し、自分に非があれば反省するわけです。その姿勢が、楽山には全く見られません。リフレッシュどころか、自己中再確認、それが、この楽山のリツイートなのです。
 
問題を無視して自閉することで、リフレッシュされるものは何もありません。フレッシュなものは何も生まれません。自己中→自閉→・・ここに、また、同じように、自己愛で物を言う楽山が表れるだけなのです。
 
それこそ、嘘を、嘘のままを保存し、嘘のままにして、そのうち、また、書き始めたら、嘘を吐き始めて、今までと同じように、迷惑をかけ、誰かを害するだけなのです。
 
 
独りで過ごす嘘吐きの日々

独りで過ごす嘘吐きの日々
 
 
(2020年03月22日、同日一部修正)
 
(2021年03月27日、再録+)
 
 
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  細い道
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。
聖書を読んでも読まなくても
キリストの共感に共感できる人は少ないのです。
 
信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。実際に、そうなる人もいるかもしれません。信仰を勘違いして、豪語したり、夢~妄想的なことばかり言う人がいるかもしれませんが、それは、宗教の間違った有り方です。
 
宗教と信仰は、人間の良心、あるいは、その潤いと温もり、すなわち、悲しみと共感に、人間の求める情感によって惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊に見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。
 
それが忘れられないことになっても、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ、人間としての真実追求に向かうでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。
 
真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。
 
そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。
 
反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、実に、いい加減で中途半端なことを言ってきます。何の助けにも救いにもなりません。
 
そういう、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは自慰か自慢をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいと思っています。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは、矛盾だからです。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
ポエムのようなものです・・2つ再録・・
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
 ダンシン、ダンシン、20代
 ディスコなんか行ったことないのに
 飲み会、二次会、空いたスペースで
 酔っぱらって踊っているタコのオレ
 向かいの女の子が
 きれいな笑顔で近づいてきて
 怖じけて引いた
 今も後悔
 または
 今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年03月04日)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
   憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
(2016年06月27日)
 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
(2019年09月20日、一部修正再録)
 
(2020年03月15日、再録+) 
 
 
細い道

細い道
 
 
※ 
 
 14日見たTVタクル
 
オリンピックについて、
やるかやらないかではなく、やることは決まっている。
中止するかどうか・・云々・・
 」
 
やらないが中止なのだから、やるかやらないかだろう。詭弁くさい。
 
 
(2021年03月15日、再録+)
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
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午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
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「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖にはなれません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものじゃないですね。
 
楽山は、神を知りません。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、そのたびに、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いことが表れてきただけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性でした。丁寧語に、だまされないでください。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
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一休み。旧い古いポエム再録と、
精神科医の言葉を悪用する楽山批判の追加です。
この2つ、特に関係はないです。
あとで、楽山ツイッター批判を付け加えました。
 
 
  冬の終わり
 
吹雪の向こうに
耐えるように 朧(おぼろ)げに
眼差しを向けてくる
少女のような顔
幼くて泣きそうなのか 唇は
かすかに微笑んでいるようにも見えて
初恋の人でもなく
知っている人でもないのに
去りがたく 目を
そらすことができない
 
いつの想いに
吹かれて 顔
動かないのに確かに
遠ざかる方向を
こちらへ向けている
 
ここでは吹雪なんて滅多に
吹かないんだよ なのに
どこへ 君は
誰のために
 
雪に
風に
忍ぶ 面差(おもざ)し
思わず伸ばそうとした手の先に
最後のように寒気(かんき)
触れて 巻いて 不意に
鳥だろうか ふと
横切って いつの影も
裏切って ここでは
吹雪はないんだ
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
(1997年頃)
(2020年03月06日、再録+) 
 
 
冬の終わりに

冬の終わりに
 
 
(2021年03月13日、再録+)
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
精神科YouTuber男性医療関係者メンタルドクターSidow脳
@dr_sidow
·3月8日
“メンタル弱い=ちょっとしたことで傷つきやすい”
と思われがちだけど少し違う。むしろ
「本来はちょっとしたことなのに大きく捉えてしまう」
が正しい。
だからメンタル弱い人が鍛える必要があるのは防御力ではなくて解釈力。
「実際は大したことじゃないんだ」
という認識への軌道修正が大事。
午前11:12 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
 
楽山が引用しそうなツイートです。
「本来はちょっとしたことなのに大きく捉えてしまう」
「実際は大したことじゃないんだ」
楽山は、極めて自分に都合のよい文言を、精神科医らしい人の口から、引用しています。
この精神科医らしい人のツイートは、鬱的な思考の歪みを改善するために書かれていると思います。
同ツイッターを見ると
固定されたツイート
精神科YouTuber男性医療関係者メンタルドクターSidow脳
@dr_sidow【うつ病の方への禁句・まとめ】
うつ病は心の免疫力が下がっている状態です。
自覚がなくうつ病の方を傷つけてしまわないように、十分注意してくださいねNGサインの男性
午後7:05 · 2019年2月8日·Twitter Web Client
 」
と書いてあります。楽山には、全く当てはまりません。
 
楽山は、自分を批判されている弱い人、悲劇の主人公とでも思っているのでしょうか。実際は、楽山は、自己中から、人を騙すような、狡猾な人であって、そこに問題点があり、批判される必然があることを、悪口言われた、くらいにしか思っていないのです。
 
楽山は、決して弱い人としての性質は持っていません。
 
自らの、自己愛性の病質をごまかすために、楽山自身の重大な問題を矮小化しています。それで、大したことじゃないことを大きく捉え過ぎなんだと、それこそ、解釈しているのです。
 
またしても、楽山という病質者が、自分についての問題意識がなく、責任を感じることがなく、反省することがない、という、異常な人格であることを、自分で、露呈しています。
 
このように、悪いことを、いつも、人のせいにしてきて、自分については、そんなに気にしなくてよかったんだ、と思い込みたいのです。自己正当化であり、合理化機制であり、詭弁であります。
 
恣意的な解釈を、人の口から載せてくることが、楽山を許してはいけない動機となってきたのですが、楽山が、いかに、改善の見込めない悪質な病者であるかが表れています。人格障害というのは、このように、どこまでも、言い逃れしかしないのでしょう。しかも、他者の口を悪用して。
 
ずっと、このような、自己中心の生き方・考え方をしてきたことが、うかがえるリツイートです。そうでなければ、このような内容のツイートを引用する必要はないからです。
 
楽山の思考は、自己愛性人格障害からの自己中な作為の思考です。楽山の思考は、全く鬱的な思考の歪みではありません。こういう嘘や芝居や詭弁や恣意的選択によって、楽山は、だましてくるということです。楽山の書くものには、しばしば、このようなやり方が目立ちます。
 
楽山は、罪悪感がないために、一般的な精神療法的文言さえも、自分の都合のよいように悪用して、気が咎めることがないということです。だまされることのないように注意してください。
 
 
(2021年03月13日)
 
 
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  避け所2
 
 
私は、神様を、分かっているわけでも、詳しく知っているわけでもありません。
聖書には、神様についてのヒントとエピソードが書かれています。
そして、神と人の違いと、キリストの人への洞察と共感が書かれています。
人間には、ヒントのようにしか、受け取れないということです。
しかし、ヒントでありながら、人を生かす力を持っていると信じています。
キリストの共感は、人の心に響く共感であり、神の愛だからでしょう。
 
旧約聖書(口語訳)の詩篇から
全部ではないですが「避け所」という言葉を載せてみます。
 
 
36:7
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
 
46:1
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
 
52:4
欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
52:5
しかし神はとこしえにあなたを砕き、
あなたを捕えて、その天幕から引き離し、
生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
52:6
正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7
「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、
その宝に寄り頼む人を見よ」と。
 
セラ:
(ネットより)
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
 
57:1
神よ、わたしをあわれんでください。
わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは
あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
 
142:3
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
142:4
わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
わたしは言います、「あなたはわが避け所、
生ける者の地でわたしの受くべき分です。
142:6
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。
 
143:9
主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
 
 」
 
キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
祈るとき、物理的にはどっちなのかか分からないけれど、神のほうを向きます。
仰ぐように見上げる人もいるだろうし、罪人らしく頭を垂れる人もいるでしょう。
 
神は総てを見ておられ、知っておられます。人は、神の前で、生きています。
祈りは、人が、自発的に主体的に述べるところの唯一の、神への音信です。
 
言い換えれば、神のほうを向くとは、神に祈ることです。
 
そして、祈りの時と所は、信仰者個人のための、避け所です。
 
神の言葉と言われ、人の言葉で書いてある聖書を読んで、
また、信仰生活の、折に触れて、祈りにおいて、
 
 なぜ、人は、
 
主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分かりません、
 
 ということを告白しないのでしょう。
 
聖書に書いてある完全なる神の性質は、
私たち人間の視野では、理解したとは言えないことです。
 
善悪、正邪、善行と悪行、真偽、偽りの排除、など、様々ですが、
不完全な罪人である私たちは、
限られた能力によって判断し実行しているだけだということです。
 
全能ではない不完全な私たちは、身の周りしか、目が届きません。
私たち人間は、善も悪も、最後までたどることなど出来ません。
 
卑近なところでさえ、良いと思ったことが、何の悪気もないことが、
悪く取られていたりもする、傷つけることもある、という具合です。
 
にもかかわらず、
信仰の行為として、正しいことをするように勧められています。
それで、私たちの意志と行為など、神の意志と行為に比べて、
非力、ということだけではなく、
正しさを決めつけすぎているということです。
 
総ての、時空を、善悪と真偽を、支配する神に向かって、
私たちは、
人としての自らの感覚と感情と思慮で明らかであることだけをもって善悪と言っているのではないか。
 
あらゆることにおいて私たちの善悪と真偽の判断は不完全であります。
しかし、その判断に基づいて行動しています。
 
したがって、私たち信仰者は、
自分で思っている以上に、神に対して罪を犯していると思います。
 
罪と悪と偽善と孤独など、また、自分自身の怒り、憎しみ、恨み、様々の、
心を惑わせ迷わせるものから解放されるのが、避け所であり、祈りです。
 
それは、その時の、解放と癒し、ゆえに、時々に寄り添うものであって、常に備わっているものではありません。時々の祈りに答えて与えられるものであって、完全であるかのように人が誇るものではありません。
 
私たち信仰者は、神の前で生きているのに、それを自覚することに、しばしば失敗します。しかし、避け所にて、祈りを捧げるとき、そこは、地上の特定の時と場所ではなく、神の前です。
 
神に対しては正直以外通用しないということは、言い換えれば、精いっぱいの正直な告白というだけで、人間の心のうちを拾って聞いてくださるところの "神の前" なのです。
 
 
避け所

さけどころ
 
 
(2020年03月05日)
 
避け所(さけどころ、避け処)
 
(2021年03月10日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
  もちろん避け所にはなりません。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ひなこ
@hinacoccoro
·3月8日
おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神がいると思いますか?
私自身にもこの恐怖心は刷り込まれていましたが、
「自分のこの気持ちは決して悪ではない。こんなことをする神が本物であるはずが無い」と結論付けるに至りました。
 
批判することで、嫌がらせをしてくる者はいます。それが楽山です。粘着性の習慣的恐怖を植え付けて言動を制御し、人格破壊を招く者です。
 
「おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神」はいないと思います。神の前に人が出来ることは、精いっぱい正直であることです。神は、その正直さを見て信仰の義を与える御方です。
 
しかし、そういう、正直を全く持っていないのが、楽山です。そんなことをする人が本物の批判者であるはずがない、という気持ちで、楽山を批判するに至っています。
 
>>
引用ツイート
napple
@napple71165698
 · 3月8日
返信先: @darknessZ96969さん
裏切ると阿鼻叫喚堕地獄への道避け難し、って何百何千回と唱えて信者は自分に刷り込んでますからね、相当怖いんだと思います。
午前9:44 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
<<
午前9:51 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
 
刷り込みは、本当に怖いです。それを平気でやってくるのが、楽山です。学習機能がないので、同じことを繰り返し言ってきます。そうして、相手を消耗させ、疲れさせるのが、楽山のやり方です。
 
しかし、楽山のうちには、既に地獄があり、楽山は、それを他者に広めようとします。楽山は、そういう魂胆を隠して、正義の味方を気取っているだけなのです。
 
なりふりかまわず、他者のツイートや、本などを、好き勝手に、都合のよいところだけ、汁をすするように引用し悪用して、自分の責任を逃れようとしています。リツイートもそうです。
 
 
楽山は、自分で書いてないからええじゃろ・・と考えるのでしょうか。どこまで、常識的思考が遅滞しているのでしょう。引用者が、引用するツイートを選択する時点で、既に、引用者の思想が表れているのです。当然、引用の責任が、引用者に問われることになります。
 
批判目的でなく、他者の意見を引用すれば、それは、賛同を意味します。ゆえに、自分の意見と同様に、責任が生じます。このことは、本からの引用でも、リツイートでも、同じです。さらに、引用には、賛同した引用の内容とともに、引用元に対する責任も伴います。
 
誰もが、引用コピーするときには、その責任を、当然のこととして、負いながら引用しているのです。その責任を負えるからです。楽山は、発言の責任を負わないために、負えないために、ツイート引用、即ち、リツイートをすれば、責任を免れて楽になるとでも思っているのでしょうか。
 
言論に、責任の逃げ道も避け所もないのです。楽山は、本からの引用や、リツイートなら、自分が書いたものじゃないからぁ・・という責任逃れの言い訳が成り立つと思っているのでしょうか。だとしたら、この愚かさは、驚きです。
 
 
(2021年03月10日)
 
 
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