ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:ルサンチマン

 
  楽山の悪意2
 
 最近、よく見ているブログ
 2020年11月22日 楽山日記(LD)
 (一部省略)改めて批判。
 
 
殺伐とした記事が続いて申し訳ないです。我執だけが臭気と持ち味の楽山です。今回、楽山は、キリスト教を、新しい批判ではなく、またしても、同じ勘違いで書いてくるのです。人の言うことを、まるで受け取っていないことを、自ら表しています。
 
ずっと前に楽山が書いて、そういう言い分はキリスト教批判にはならないと言ったのに、また同じことを、昔の、針のとんだレコードプレーヤーみたいに、繰り返しています。こういうことをやって満悦する楽山は、訂正不能の一方的な病質者だから、誰も関わってはいけないと思います。
 
この記事に潜ませた悪意が、楽山の本性です。そして、またしても、他者のブログを悪用して、反キリストを表し、神否定を表しているつもりです。既に、読んで、問題外だったのに、まともなことを言えない者が、嫌がらせだけをしてきます。
 
数か月だまされて、そのあと、批判を始めて約3年、何も良きものの欠片さえ返すことのない、そこだけ、徹底している、いちゃもん屋の、議論不能の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)で、無反省・無責任で、書くことをやめられないままの、成長のない楽山です。
 
今回も、ずっと前に書いてきて、批判したことを蒸し返すというより、前のまま、何の進歩もなく同じことを、キリスト教批判の他者の言い分に、迎合する形で書いているだけなのです。自己愛性人格障害は、学習も成長もしないということです。
 
*神義論(弁神論)
最近、よく見ているブログで、神義論に関連した記事が公開されていた。。
・神と災害 - キリスト教の問題点について考える
 」
自分がこの矛盾に気がついたのは、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』を読んだことが切っ掛けだった。この物語の主人公は、友達が交通事故に遭い、意識不明の重体になったことから、神は友達を守ることができたのに、そうしなかった、神は友達が事故に遭うことをゆるした、なぜ?と悩んでいたのだった。
 
楽山は、神が、ご利益的に人の都合に合わないことに、いちゃもんをつけて、キリスト教を否定していますが、神は、神秘であり、いつも、人が神の行為に納得できるわけではない、ということが、理解できない、というより、理解など、する気がないのだと思います。
 
人には成り立たないところの神の全能を考えるならば、むしろ、神の考える幸いと、人の考える幸いは、違っていて当然なのです。神の考える信仰と、人の考える信仰も、違っていて不思議はないのです。ゆえに、人間には、神を恐れ、キリストの愛に縋(すが)る信仰があるのです。
 
楽山が、神を否定するのは、楽山が、神をも、上から辻褄を追うように眺めているからであり、その楽山の辻褄は、ずっと、楽山の恣意に表れてきたところの、自己中による学習不能を経て、楽山の合理性?という低次元で、神も、超常も、霊も、宗教も眺める、という、身勝手で幼稚な話なのです。
 
神の合理が、人の合理によって、説明されることはありません。ゆえに、人は、この地上に不可避的に起こる不運と悲劇に耐え忍ばねばなりません。信仰は、むしろ、そのためにあります。神の合理を、物知り顔に讃美して満悦する信仰は偽物です。
 
神の非合理が、人の合理または非合理によって成り立つことはありません。ゆえに、人は、神を恐れる態度が必要です。楽山は、条件を出して、神の合否を決めており、信仰に一歩も近づいてはいないのです。神の非合理を豪語して、神を否定したつもりの思想は、稚児の譫言であります。
 
楽山は、稚児の譫言をもって、しかも、他者の勢いを借りる卑怯さで、実際には、実に惨めったらしく、神を否定するような、知ったかぶりだけの、楽なお山の大将を気取っている偽善者であります。読めば、楽山の高慢な姿勢は、神にも信仰にも縁はないだろうと分かるのです。
 
キリスト教の総ての救いは、人が、キリストの共感に支えられて、それゆえに、神の前に正直な祈りを捧げることによって、人ではなく、人の合理でもなく、神の御心の成就によってもたらされます。信仰は理屈ではなく、現実を生きるための希望であります。楽山は、外部の野次馬です。
 
神は善であるが、全能ではないとすると、悲劇があったとしても、神はそれを止めたくても止められなかったのだろうということで神の善性を疑うことにはならないが、神は善であり、かつ全能であるとすると、悲劇が起きたときには、「神は全能で悲劇を止めることができなのに止めなかった。なぜ? どうして?」という疑問を持たないではいられなくなる。
これは本当にやっかいな問題だと思う。
 
恐ろしいことに、楽山は、神を、人の論理で扱えると思っているようです。この時点で、楽山は、信仰には一歩も近づくことのない人となっています。だから、楽山は、信仰が「やっかい」なものに思えてならないのでしょう。「やっかい」と思うなら、何も書かないことです。
 
楽山が、神の行動方針を決めて、悲劇を止めるかどうかで、是非を決めつけているさまは、恐れを知らず、自らを高みにおいて、こともあろうに、神を、裁いていることになります。まるで、神にも、人にさえ、何の縁もないところの、虚妄の空間を徘徊する楽山です。
 
難しく飾って言っても、きわめて単純で、短絡した幼稚な理屈を、神に当てはめていることが自明であります。神は、楽山のような、やっかい者が、すっきりするように辻褄を合わせることはありません。疑問は、信仰者でもいだきますが、楽山には、ベースとなる人間性がありません。
 
楽山は、いちゃもん宣伝者であります。楽山の言は、神の意志と行為を、人が説明を受けて納得いかないと信じないということですが、そのような説明好きな?神?のあり方など屁のようなもので、そういう神ならば、私は、信じることはなかったでしょう。
 
楽山は、何でも言うことを聞いてくれる奴隷のような童話の神を所望のようです。全ての、恐らく、楽山の悲劇を止めてくれる都合のよい神でないと信じないのです。こういう御利益信仰の在り方は、現実によって全否定されるものです。楽山の都合で守ってくれる神は、どこにもいません。
 
安っぽい楽山は、宗教を考えても、安っぽく、幼稚で、なんでもかんでも、うまくいかないと信じないぞ、という、自己中の言い分に過ぎないのです。呆れたへっぴりの卑しさです。「やっかいな問題」と思うなら、書かなければいいのに、自己顕示だけのために書いてくるのです。
 
まさに、楽山のような反キリストが、いかなる愛にも、いかなる救いにも、感じるところがなく、逆に、自身の堕落を、神のせいに、宗教のせいにして、悦に入るような、この世の真善美にも、神の与える信仰の義にも、永久に恵まれないであろうルサンチマンの不細工を表しているのです。
 
楽山は、この地上に、良きものを何一つ見いだせずに、世の中を、人を、神を、キリストを、恨み続けているのでしょう。楽山は、書くたびに、潤いも温もりもない、殺伐とした、下手くそな、お絵かきの幼稚さだけを見せてきます。その惨状が楽山の精神世界なのです。
 
そして、その実質のない、みすぼらしい知性と感性を、反省することもなく、学ぶこともないまま、自慢げに、丁寧語の芝居で、人をだます行為を、もはや、やめることが出来ないでいるのです。こちらの言ったことを、何一つ受け取らないで、自分の言い分だけを繰り返しています。
 
しかも、ずっと、自分の言葉を持たず、まとまらず、学習せず、他者の、字面だけ都合のよい言葉を悪用することしか出来ません。何かを追求する意志もなく、楽山は、最初考え始めたときから一歩も進んでいないのではないかと思います。
 
楽山の言は、例外なく、下劣です。正直言って、何というクズだろうと思います。やっていることは、小蝿の所業です。いくら真面目そうに装っても、本気、真剣、真摯、誠意、という言葉から、最も遠い人です。自分を省みないで思い上がる者は、こうなるという見本です。
 
楽山が満足するような、宗教も、思想も、この地上にはありません。楽山は、現実を認識しないために、現実の地上に、現実離れした空想だけを当てているのです。だから、最初のQ&Aから、いつまでも卒業できないのでしょう。信じないなら、信仰について語らないでほしいです。
 
楽山には、人間的な潤いと温もりがありません。その欠損を自覚することも出来ません。「反省。とほほ」など、自覚に類する言葉を使ったとしても、何も変わらない前後関係と文脈から否定されています。物わかりが悪いのに、字面だけ、まともを装う楽山に、だまされないでください。
 
楽山にあるのは、悲しみでもなく、思いやりでもなく、冷笑と憎悪だけです。楽山が何か言ってきたときには、私のように批判する人以外は、返さないでください。決して楽山に近づかないでください。結局、楽山は、人をだまして、地獄への道連れにしたいだけだろうと思います。
 
 
道連れを求める闇

道連れを求める闇
 
 
(2020年11月23日、同日一部修正)
(2021年11月30日、さらに修正して再録)
 
稚児(ちご、ややこ)
譫言(うわごと、せんげん)
ルサンチマン ≒ 弱者に募る怨念。負け犬の遠吠え。自省しない妬み根性。
 
 
 
  時の筈
 
こんな筈(はず)ではないと嘆いても
朝起きたら朝起きた分だけ
いわれもなく理不尽に
訪れてくる昼を待つことになり
同じように夕を夜を待つことになる
だからといって
朝も昼も眠って夕を迎えれば
ますます理不尽ということになって
こんな筈ではないと嘆くのだが
もともと時間は来るのにも去るのにも
いわれなどある筈(はず)も
示す筈も必要も必然もないもので
ただ留まることを知らないという道理に
適(かな)うだけの
筈を誰にでも取りつかせている
 
 
  夢より勝手に
 
まだ生きてたの
と言うのだ
かつての好ましからざる同僚が
まるで家畜を見るような目で
悪し様に言うのだ
もちろん夢の話だ おぞましい悪夢だ
いったいどんな思惑(しわく)が見させたのか
室温十四度の部屋で
汗をかいて目が覚めた
朝だ 夜は眠れたということだ
しかも晴れだ
何と裏腹な・・・こんな目覚め方
窓もドアも開けていないのに
蠅が一匹部屋の中を飛んでいる
 
まともなパターンの睡眠
悪夢のうちに取れましたと
日記に書いて落ち込んで
またベッドに入って
ふて寝して一日を過ごすか
 
嫌だな 夢にまで負けるなんて
気晴らしに出かけたからといって
どうなるものでもないが
二十日間ずっと眠っていたオートバイ
タンクの汚れをざっと拭(ぬぐ)って
起こして 逃げるとしよ
 
まとわりつく夢を振り切って
かつて衝突して骨折した防波堤のある
海沿いの道へ 晴れた春の海が
待っているということはないのだが
それで我が身の汚れが
拭えるわけでもないのだが
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
殆ど動物の反射のように、覚えた弁明の言葉を並べても、一切、弁明になっていない楽山です。悪意が、いずれ自分を破壊してゆくのを待つしかないのでしょうか。とはいえ、こちらは、疲労と徒労という被害を既に被っているので、さらに広がるのを防ぐために、批判を続けるしかありません。
 
 
 
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  見当違い2
 
 悟りとは何か?(『漱石全集月報』)
 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、二人の小説家の言葉を、単純と言っています。単純なのは、楽山です。
 
野村傳四氏によると、夏目漱石は悟りについて次のように言っていたそうだ。
私は途中、先生に「悟り」と云ふ事を御尋ねしたら、先生は言下に「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」と敎はつた事を明らかに記憶して居る。
(『漱石全集月報』岩波書店、1976年、p.355)
 」
これは「一切は過ぎ去ってゆきます」と言うように、目の前の現実をそのままを語っているだけで、言葉としては随分単純なものではある。
 
「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」の、同じ人間、過ちを犯す人間、という意味を、太宰の「人間失格」だったと思いますが「一切は過ぎ去ってゆきます」という時間の無常と言い換えが出来るでしょうか。
 
私は、前者を、同じ人間、後者を、過ぎ去って消えてゆく、空しい、という意味に受け取りましたが、楽山は、説明もしないのでしょうか。いつもながら、乱暴です。
 
さらに、「目の前の現実」を無視して、嘘と詭弁ばかり書いてくる楽山よりは、「彼も人なり我も人なりと云ふ事さ」も「一切は過ぎ去ってゆきます」も、人間としての、限界や悲哀という深い意味に結びつく言葉なのです。
 
楽山は、それが分からないのか、また、自分で広げて考えることが出来ないために、自分の未熟と不足を嘆くのではなく、「そのままを語っているだけ」「随分単純」と、小説家のほうをおとしめるという厚顔を表しています。
 
こういう、できない自分ではなく、できる人を低く見ることは、自己愛性人格障害であることの根拠の一つとなるでしょう。才能とか読解力とかで、ありもしない持ち物を、あると思い込んで批評する誇大妄想性の愚かさです。
 
でも自分はミジュクであるせいか、いまだにこの考え方を身につけることができていないのだから恥ずかしい。言葉の意味は分かっているつもりなのだが、どうにもこうにもこの言葉通りの思考ができないのだ。
 
上で、眉を潜めたくなるような誇大・尊大を、楽山は示しておきながら、ここでは、白々しくミジュクと書いてくる・・全て、芝居だという証拠であります。未熟の自覚があるなら、上の「そのままを語っているだけ」「随分単純」などと言う言葉遣いはしません。
 
楽山は、言葉の意味が分かっているつもりと言っています。違うんじゃないでしょうか。それと、これらの言葉は、思考を表しているのでしょうか。人生観だと思いますが。楽山は国語を語れない人のようです。しかも、傲慢です。だから、未熟ではなく、「ミジュク」という、ふざけた書き方をしてしまうのでしょう。
 
生まれつき、根がどこまでも理想主義者にできているせいか、
 
楽山は、利己主義であって、理想主義者ではないと思います。何故なら、宗教の理想も意味も、分からないのに否定し、あざ笑っているだけだからです。
 
いったん相手に惚れ込んでしまうと、極端に美化して神のような存在にまつりあげてしまったり、はたまた臆病で被害妄想の癖があるせいか、相手によくない印象を持った時には、その人は悪意に満ちたモンスターかなにかのように決めつけてしまったりして、ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまうのだ。これは本当に反省しなければならぬ。
 
この部分は、人間としてアウトになるようなことです。こういう人になってはいけないということです。極端に美化、神のような存在、被害妄想の癖、悪意に満ちたモンスター、など、悪い例をボロクソに書いていますが、楽山は、これを、婉曲的に、批判者に向けたいのでしょう。
 
楽山は「ついつい相手も自分と同じ人間だということを忘れてしまう」と書いていますが、相手を人間とは思えないほど異常だと思うとき、つまり、無反省、無責任、不感不応、訂正不能、自己愛性、人間的配慮の欠損など、自己中に徹底している者に対しては、人間だからお手柔らかに・・ということは、除外されます。精神病質に対しては甘くなってはいけないからです。
 
無反省という実績しかない楽山が「本当に反省しなければならぬ」と書いています。このように、反省という言葉だけ書いてくるのが、楽山の特徴です。「ついつい」「忘れてしまう」「反省しなければならぬ」と書いていることが、楽山が、今まで、そうしてこなかった証拠になります。
 
謙虚芝居も、良識的センスが病質のために欠損して、ここまで、下手くそになると、バレるわけですし、バレた以上、楽山の立場など、どこにもなくなっているのです。何も書く資格のない人が、自己顕示欲と我執で書くと、こうも白々しいことになるという例です。
 
信仰は、このような言い訳めいた反省を勧めてはいません。神の前に正直であることは、ネガティブな言葉だけを当てはめて反省を装うこととは、全然、違います。自己愛性をごまかすために、妄想を癖という軽さで言ったり、気楽に「ついつい」と書いて反省したつもりになるのとも、全然、違います。
 
この違いは、楽山の虚偽によるものです。楽山の自己愛は、癖ではなく、病気なのです。それが、言い訳にも表れているということです。
 
楽山と太宰は、違います。太宰は嘆くべきことを嘆いていますが、楽山は嘆いたことなどない人だと思います。悲劇のヒーロー芝居でしょうか、気取りでしょうか。太宰や他の小説家を持ち出しては、最も恥ずかしい自分の下劣さを表してしまうのが、楽山の常となっています。
 
楽山が、次から次に書いてくる言い訳は、とても見苦しい詭弁ですから、成り立つことはなく、根拠もなく批判者を侮辱し、かつ、有名人の言動を恣意的に悪用する悪意の産物として、さらに批判記事という資料を重ねる結果と経過になってゆきます。
 
楽山は、時に、反省と書いてきますが、その前と、そのあとで、何も変わらない筆致であることと、自らを省みず人のせいにばかりする姿勢と態度が、まるで変わらないことをもって、逐一、見せかけだけだと、言い逃れだと、否定されてゆくのです。
 
そういうことも、楽山批判に組み込まれているのですが、楽山が気づかないということこそが、病的ナルシストの症状として記録されてゆくでしょう。
 
そういえば随分前に見たジョン・レノンのドキュメンタリーでとても印象的な場面があった。ジョン・レノンは自宅の庭内に忍び込んできた熱烈ファンらしき若者に対して、自分の姿をよく見ろ、他と変わらぬ人間だろうとか何とか言っていたのだった。
 
また、同じ人間、ということを言っています。どうやら、記事の文脈には、とても臭い作為があるようです。楽山は、同じ人間ではありません。「とか何とか」ではなく体質的異常者です。
 
どうも自分のことを英雄視したり、偶像化するなということらしかった。そしてその後は、しょんぼりしている若者に朝食は済ませたかを問いかけ、まだなら食べて行けと優しく声をかけていた。
これはヤラセ無しの事実だったのか、それとも脚本があったのかは分からないが、どちらにしても名場面であろうし、ジョン・レノンは「彼も人なり我も人なり」を悟り、身につけた人だったのだろうと思う。
 
ジョン・レノンの行為は、同じ人間ということなら、ヒーロー願望からは対極にあるでしょう。また、悟りと言うほどの、珍しい発想でもないでしょう。当たり前のことを、実践的に掘り下げたかどうかということでしょう。楽山は、格言を、誇大妄想で、勝手に結びつけています。
 
楽山は、違う人の言った言葉に勝手に結びつけて、まともぶって、都合のいい意味付けをして、また、著しい曲解によって、人をけがしています。どこまでも、教える立場に立てない楽山が、毎度毎度、話にならない文章を、気取って書いてくる厚顔無知に呆れます。
 
でも自分はこの場面を思い出すたびに、やっぱりジョン・レノンはすごいと、ますます神格化してしまっているのだからどうしようもない。自分がこれを悟るにはまだまだ時間がかかりそうだ(笑)。
 
ますます神格化、というのは、楽山の言葉の信頼度ゼロという私の立場からは、むしろ、楽山の、こんなに自分は特別なのに不当に扱われているという恨み、いわゆるルサンチマンを感じます。だから、こういう種類の文章に不似合の「悟る」などと書くのでしょう。
 
楽山の、人を上から見る「(笑)」は、苦笑いではなく、苦笑いを装うだけで、あらゆることを軽視して、掌か机上で軽く扱って、分かってるんだと言ってしまう尊大な態度なのです。そのような卑下の言葉をもって、改まるような自己愛性人格ではないということです。
 
ルサンチマンは、弱者に募る怨念、負け犬根性、負け犬の遠吠え、などとも言われます。
 
(ネットより抜粋)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
ジラールによればルサンチマンとは、乗り越えることのできない理想的モデルに対して誰もが抱く単なる嫉妬心にすぎない。
 
ルサンチマンは、意識されず、隠れていることが多いでしょう。楽山の今回の記事にも、隠れている、隠している、隠されている、とても暗いものがあるような気がします。暗い暗いところで悪意を燃やしている潜熱を、これまで、楽山は、性懲りもなく書かずにはおれない自己顕示欲によって、自ら醜い芝居の役者となっているのです。
 
楽山が隠している詭弁と誘導は、よく読まないと見えにくいが、とても邪悪な一方向をもって、病識も自覚もなく、人をおとしめてゆく攻撃的な悪魔性なのです。
 
 
闇の袋小路

闇の袋小路
 
 
(2020年04月23日)
(2021年04月30日、加筆して再録、同日一部修正)
 
 
※ 
 
 楽山のツイッターですが、国語の勉強もかねて。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福の科学では、公式でもこんな言葉遣いをするんですね 絵文字(にやにやした顔)
引用ツイート
幸福実現党政務調査会
@hr_party_prc
 · 4月22日
緊急事態宣言の発出とCO2の大幅削減を同時間帯に発表するとは恐れ入った感覚です。これはサービス業、製造業はじめ日本経済が何によって支えられているかを政治やマスコミが理解していないかの証しではないでしょうか。依らしむべしってか?「うっせぇわ」。
午前7:13 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 」
 
また、楽山の、開き直りの、にやにや顔文字です。公開でも「こんな言葉遣いをするんですね」ということを、既に、おかしいと言ってるのに、わざとやってくる厚かましい病的な自己愛です。
 
今までの、詭弁と嘘の履歴からは、言葉遣いについて、何も言えない楽山が、何も気にせず、好きなように言っている。つまり、図々しく、憎まれっ子世に憚る、という例です。
 
(ネットより)
憎まれっ子世に憚る
【読み】 にくまれっこよにはばかる
【意味】 憎まれっ子世にはばかるとは、人から憎まれるような者ほど、逆に世間では幅をきかせるものであるということ。
「はばかる(憚る)」とは、「幅をきかせる、のさばる」ということ。
はばかり【×憚り】
[名]
1 はばかること。遠慮すべきこと。「大先輩に対して何の憚りもない」
2 差し支えること。差し障り。「実名を出すのは憚りがある」
3 《人目をはばかる所の意から》便所。
[形動][文][ナリ]「憚り様」に同じ。
「お酌は―だが先生に願うで」〈二葉亭・其面影〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
はばか・る【×憚る】 の解説
[動ラ五(四)]
1 差し障りをおぼえてためらう。気がねする。遠慮する。「世間体を―・る」「他聞を―・る」「だれにも―・らず自由に生きる」
2 幅をきかす。増長する。いばる。「憎まれっ子世に―・る」
3 いっぱいに広がる。はびこる。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖がこんな発言をするとは怖い、怖すぎる…顔文字(絶叫した顔)
 
教祖が殺人を正当化したというツイートに付けたリツイートですが、「怖すぎる」と言いながら、まるで他人事のように、ネタと同じように、真剣味の無い絶叫の顔文字で、怖がり芝居をする楽山です。
 
こう言っている楽山が一番怖いと思います。大袈裟に怖がって見せるのは、他者が怖がるのを面白がりたい心境の表れです。怖いのだからと、わざわざ顔文字を付けるのも同じでしょう。絶句、唖然、本当の恐怖、という心からの表現を持たないのです。
 
原始感情だけがあって、高等感情がない、つまり、共感や思いやりのない者が、下手に感情を表そうとすると、こうなるという例でしょう。また、病質を表してしまう楽山です。
 
 
楽山は、深い思考力と感受性に欠けていて、遠慮がないので、いっそう、憚るようなことをしてきます。憚りのある人を、差し障(さわ)りの大いにある人を、憚らせてはいけません。批判目的以外で、楽山を相手にしないでください。改めて、本当に、ひどい文章です。
 
 
{2021年04月30日}
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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  矛盾の信仰2
 
 
神は人知を超えた御方だから
神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと
なぜか神の奇跡とその意味を得々と語る人がいる
 
神は人知を超えているのに
なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのか
そのような説明は不可であり
それが確信ならば
その確信は信仰ではない
 
人は考える動物だから分かるはずなのに
しばしば人は自らの確信を信仰として神の御心として語る
 
聖書は神の言葉でも
人の解釈を通さずに読まれることはなく
人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに
しばしば聖書を解釈した自分の言葉を
神の言葉として語ることで満足してしまう
 
神を信じようとすればするほど
ますます神は理想化された偶像として人に作られてゆく
このように
自らの信仰は原初において既に矛盾しているのに
矛盾を省みず
神について聖書について
誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず
確信として押し通せば
もはや信仰ではない
 
矛盾の原罪は避けることが出来ない
それが
「思い描く神はどこにもいない」
「思い込むのは信仰ではない」
また「聖書は人の言葉」の理由であり
人の罪性は執拗にかかわってくる
 
矛盾は信ずるに値しないなら
「信仰は捨てたほうがよい」の理由でもある
 
しかし同時に
キリストに繋がってしまった者において
「祈るしかない」の理由でもある
 
動物よりもマシに生まれて
寸足らずの思慮を持って
矛盾があることを認めても
祈ることをやめられないならば
それが理屈抜きの信仰であり
尾ひれの付かない信仰であり
原初からの信仰の経過である
 
神が人知を超えた御方というのは
人知を超えている神を確信することではなく
神を思えば思うほど
神について確信を持って語ることは出来なくなるということだ
 
神の立場はもちろん人にはなく
人の立場においても
達し得たと思うとき既に足元は崩れつつあるという常態
 
ゆえに信仰の言動において
柔和でバランスの取れた
口数の少ない「敬虔なクリスチャン」は
社会通念のイメージに過ぎない
 
神を正しく信じるのが正当なら
救われるクリスチャンは私を含めて一人もいない
 
正しくないことを認めたところから信仰は始まって
信仰によって赦されることはあっても
信仰によって正しさが担保されることはない。
 
神を恐れる人は
矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり
それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえない。
 
しかし
うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても
「神への恐れ」を知る人は極めて少なく
 
神のみに希望を寄せる者は
大方は孤立しており
さらに倒れており這っており狂っており
ときに悲鳴のように呼ばわるが
その声を聞く者が殆どいないという現実に返され
うちのめされている
 
そういう状況でも
神の与える希望が絶えることはなく
キリストの目に見えない臨在も絶えることがなく
信仰者は
キリストの共感によって生きているのである
 
信仰者は祈り
乏しい信仰の心のうちに讃美するだろう
 
 ホサナ(救いたまえ) そして ハレルヤ
 
 
人からの白目

人からの白目の視野に生きて雪
 
 
(2012年03月)
(2020年03月26日、一部修正)
(2021年04月01日、再録+)
 
 
 楽山のツイッターです
 
心機一転★こも楽山
@komo266
優秀な人に対しては、たいていの人は「すごい」と称賛するか、「よし、自分も頑張ろう」と励みにするかであって、劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人はそんなに多くないのではなかろうか?🤔
午後8:50 · 2021年3月31日·Twitter Web App
 
不遇の体験から、信仰に目覚めるのではなく、勘違いの逆恨みで、神は何もしてくれない!と、激しく憎み、それが、持続する怨念となって、神を否定し続けて、人を恨み、宗教について、人を騙すことだけに専念している者もいます。
 
神が、勝手に、自分の都合に合う存在でないと気が済まず、その、矛盾と思い込んだことを克服できず、単純に、怒り、憎しみ、恨み、その陰性の感情を隠して、丁寧語で、神不在を宣伝するものとなっています。
 
その報いであるかのように、単純で浅い思慮と鈍い感性によって、ますます、聖書や本のみならず、人の言葉すらも理解できなくなり、むごたらしい有り様となっています。自分信仰に走って、反省も後悔もしなくなったからです。
 
自分なりに頑張ろうとは思わず、それこそ、神に対しても、人に対しても、「劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人」即ち、ルサンチマンの人になって、痛めつけることばかり考えているのです。近づくと危険な人になって黒い道をふらついています。
 
 
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