ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:三文芝居

 
  楽山の被害者芝居3
 
 楽山日記(LD)
 『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉
 占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著
 2020年07月13日 
  を改めて批判。
 
 
楽山は、今までもあったことですが、カルトの被害者を気取っています。しかし、楽山こそが、訂正不能、不感不応の、カルトだと思います。無神教カルトと呼んでいます。柔和、謙遜、中庸、とほほ、何でも平気で芝居してくるところに、楽山の恐ろしさがあります。
 
そして、それら楽山の芝居は、ことごとく、今までの経過において否定されています。それに対して、楽山は、何も答えられなかったのです。にもかかわらず、否定されたことを忘れて、また、平気で書いてくるのです。無節操と鈍麻の極みです。
 
 
本書は、1巻と同じく、中学生女子を主人公にした物語と、香山リカの解説という構成になっている。
物語のあらすじは、中学生女子はひょんなことから某カルト教団のことを知り、カルトの危険性について学ぶというものである。終盤、主人公の友人が、あやしげな占い師に騙されそうになる場面はスリルがあって面白い。
 
ドラマを見ている気分でしょうか。「カルトの危険性について学ぶ」のが「スリルがあって面白い」と書いています。実感というものを感じられず、分別も節操もなく、全くの興味本位で語ってきます。楽山は、どんなテーマでも、冗談半分でしかなく、本気がないのです。
 
 
香山リカの解説では、マインド・コントロールの手口について次のようにまとめてある。これはすごく分かりやすい。
・あなたを待っていました。ここに来たのは運命です、などと言って歓迎する。
・これまでの人生は間違っていたのです、などとその人の生き方や考え方を否定する。
・これを信じればすべてが救われます、と新しい価値観を与える。
(『香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?』香山リカ、中塚圭骸共著、汐文社、2009年、p.45)
 
嘘と詭弁と婉曲表現と同情芝居で、人の心をもてあそんできた楽山が、マインドコントロールについて語る資格はないです。カルトの、大袈裟で安請け合いの説教と違って、楽山は、常識人を気取って仲介でもするかのように、優しい言葉遣いで近寄ってきます。もっと厄介な新手なのでしょう。
 
運命と言って歓迎、これまでの人生は間違っていた、新しい価値観を与える、こういう勧誘と脅しが、カルトの手口、ということを書いて、楽山は自らを、カルトに対峙する者、という印象を吹き込んできますが、いちばん、怪しいのは、今、楽山その人なのです。
 
何事についても、理解力に欠けているのに、遺伝子がどうの、超常がどうの、学者の本がどうの・・と書いて、知識があるかのように宣伝してきました。カルトもスピリチュアルも大好きで霊が分かるっぽい自覚?の楽山ですが、評論家気取りで書いてきます。
 
このように、意見の方向性が、バラバラなのも、楽山の特徴です。恐らく、カルト被害者に共感するように見せかけて、実際は、宗教と信仰を、軽い道徳レベルにおとしめたいのだと思います。そのリーダーか教祖になって、正義の味方として讃えられたい自己顕示欲が動機でしょう。
 
 
振り返ってみれば、自分がカルト宗教にハマってしまった時も、これと似た話を聞かされたのだった。たとえばこんな感じだ。
 
元HS信者でアンチHSを気取っていますが、この2年余りの経過では、楽山が常識人だとは、とても思えません。今までのことを訂正もしないで、ときによって、カルトの犠牲者を装い、カルトを「(笑)」を入れながら、批判めいたことを書いて面白がっているのです。
 
しかし、一方で、霊が分かるっぽいことを書いていましたし、また、霊言などを引用しています。宗教と信仰についての理解は、小学生レベルの、超常ホラー趣味以上ではありません。いちばん警戒するべき相手は、カルトと心霊の妄想にこだわっている楽山その人です。
 
 
「あなたには大きな使命があります。天上界において『地上に降りたならば、〇〇様の下に集い、その教えを広め、人々の幸福のために働きます』と誓って生まれてきたことを思い出してください。あなたが今、〇〇様と出会ったことは偶然ではないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、様々な詭弁で、キリスト教をけがし、自らを、まるで、学者であるかのように、刷り込んできました。その楽山が、白々しく、カルトの手口を言っているというのが、楽山の新しい手口なのです。実際は、楽山は、自分教の教祖です。
 
こうやって、楽山は、自分は違います、自分は大丈夫ですと、印象を吹き込んでゆくのです。このような騙し方は、まるで、悪魔の狡猾さに似ています。訂正も修正も学習もなく、平気で、なおも、だましてくるのは、良心のない悪魔性としか思えません。教祖願望の表れでしょう。
 
 
「自らの間違いを反省し、この教えによって自己変革をしましょう。この教えを知る前と、知った後で変わらなかったら嘘です。本当の自分に目覚めてください。
「現代社会では、唯物論という間違った考え方が広まっているために、多くの人々が死後、地獄に落ちています。今こそ、正しい教え…真理を明らかにすべきときです。これこそすべての人を幸福にする教えです。この教えに基づくユートピア建設を目指しましょう」云々。
 
反省、自己変革、変わる、これらは、楽山には、全然できないことです。ゆえに、それを、楽山は、カルトの説教に当てはめて批判し、責任を逃れようとしてきます。楽山の、いちばん大きな悪性は、自らの非を認めず、反省をせず、一切の責任を負わないことです。
 
キリスト信仰の反省は、罪深く不完全な自分を自覚して、世俗の騒音から、神の前に、正直な祈りをすることです。決して、楽山が言うような、正しくなることでも、真理を明らかにすることでも、ユートピアを目指すことでもありません。人間は、どこまでいっても、不完全です。
 
唯物論こそ、楽山が、その曲解によって、宗教をおとしめ、人の心を腐らせるために選んだ手段であり、それによって、逆に唯物論をもけがし、進化論もけがし、自己流に、自己中に、悪用し、人々から宗教も信仰も心も奪ってゆく手法なのです。
 
 
改めて思い出すと、こんな主張はカルト丸出しであり、陳腐この上ないものだ。これで騙される奴なんかいるのかよと思わないではいられない。でも、ほかならぬ自分がそうだったのだから恥ずかしくてたまらない。根がどこまでも、お人好しの理想主義者にできていたので、重要感を持たせられ、向上心を刺激され、世のため人のために働きましょうと持ち掛けられて、コロッとまいってしまったのだろう。
 
他ならぬ自分が、カルトに嵌ったなどと言っていますが、これも、恐らく嘘です。楽山は、だますほうであり、だまされるほうではありません。楽山は、自己中なので、他者の影響を受けません。楽山は、自分カルトの、霊も、科学も、分かっている、知っている、という妄想がベースなのです。
 
楽山は、恥知らずで、どこまでも、悪意によって、理想も宗教も信仰も科学も自己愛の下に置いて、けがす者です。楽山は、信仰なんか持たずに、向上心も持たずに、世のために働くこともせずに、怠慢を貪って、楽山の言うことを聞いておればよいと、自己満悦教?を広めたがっています。
 
 
結局のところ、宗教にしろ、占いにしろ、それによって、いい気分になったり、不安になったり、感動したりするなど大きく心を動かされたなら、そのまま突進するのではなく、ある程度の距離をとって冷静さを取り戻すことが大事なのだろう。結論を出すのはその後で十分だ。
 
ある程度の距離を取って、と言って、楽山が言いたい本音は、宗教否定であり、その矛先を、何度もキリスト教に向けながら、私の批判に答えられず、結局、自分は何でも知っている神?相当のものだということを、極めて狡猾な婉曲的表現によって、植え付けようとしてきます。
 
楽山は、悪霊のブタのように、崖に向かって突進する厄病神として生まれたのでしょうか。楽山は、自分以外とは、距離を取って、信じるな、と言っているわけです。楽山の宗教観は、小学校レベルの幼稚なものであり、そこになびいたら、知性も感性も破壊されるでしょう。
 
信仰には、距離を取るとか、信じ過ぎるとか、信じ足りないとかは、ありません。
 
聖書は、人間らしい、潤いと温もり、悲しみと愛を知る心がある人には、響くものです。
 
響くという共感性に、過ぎるとか足りないとかはないのです。
 
楽山には、心がありません。だから、何も響かないのです。
 
楽山は、自分の心無いカルト思想を基準に、宗教と信仰を語っていますが、はっきり言って、楽山については、本当の信仰に触れたことが一度もない、ということが明らかになってきただけです。だから、信仰を語っても、的外れだけがあらわになってきました。
 
 
宗教側は「天変地異が迫っている」「早くしないと大きな不幸が起きる」などと急かしてくるかもしれないが、そんな脅しに耳を貸してはいけないのだ。こういうことは当たり前のことだけども、宗教と出会って、「これは間違いなく本物だ!」と感動してしまうと、ついつい忘れてしまいがちなことではある。恥ずかしながら自分はそうだった。この点はよくよく反省したい。
 
「これは間違いなく本物だ!」とカルトを信じるのは、話の辻褄にだまされているだけで、本当の感動ではありません。人間らしい良心のない楽山の勝手な見なしに、だまされないでください。批判者を装って、自分の自己中妄想に染めようとしているのです。
 
「恥ずかしながら」「よくよく反省したい」・・楽山の反省芝居に、だまされないでください。こう書いておけばいい・・という軽さで書いてきます。楽山は反省したことなど一度も無いと思います。楽山は非を認めることができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、だまされるほうではなく、恐らく最初から、だますほうとしか言いようがありません。楽山は、悪意の、カルト、偽善者、自己愛性人格障害、教祖願望、霊能者気取り、有識者気取りを持つ、凶悪で狡猾なカルト煽動者です。
 
楽山の言語は、一見、物わかりのいいような語り口ですが、結局、理路は詭弁であり、情緒的感受性に欠けており、洞察のない屁理屈だけしか持っていません。満足するのは、楽山だけであり、誰も、何も、深くて良いものを受け取ることなどあり得ない、口先の虚偽につながってゆきます。
 
楽山の言は、ボンヤリ言語とトホホ言語と名付けていますが、柔和に見せかける婉曲表現と、謙虚を装う芝居で出来ています。この記事も、中庸(ちゅうよう)を気取っていますが、実際は、何も理解できないまま、自説だけを吹聴する、単方向の、軟派カルトの楽山の悪知恵に過ぎません。
 
楽山には、宗教を語る理路がありません、信仰を語る良心がありません。ゆえに、楽山の語る宗教と信仰には、節操も敬虔も、他にないという真剣さも、感動を呼ぶ説得力も、皆無です。平板で、通念的なことから始めて、いかがわしい超常の話を語ることで悦に入るのです。
 
楽山には、小学生レベルの、軽佻浮薄の思い付きしかなく、そこから、全く、成長していないのです。だから、読んでも、見栄と執拗さ以外には何もないので、疲労と徒労が残るだけです。付き合い続けると、楽山と同じような、ボンヤリして鈍い人格破壊に至る恐れがあります。
 
(ネットより)
けいちょう-ふはく【軽佻浮薄】
考えや行動などが軽はずみで、浮ついているさま。▽「軽佻」は落ち着きがなく、よく考えないで言動するさま。「浮薄」は浮ついて軽々しいさま。信念がなく他に動かされやすいさま。「佻」は「窕」とも書く。
 
楽山は、真面目に真実を追求するブロガーとも、趣味を書くブロガーとも、日常を書くブロガーとも、全く違う人種です。楽山ブログは、妄想的結論から始まって、詭弁から破壊に至る害毒日記です。
 
恐らく、楽山は、自己愛性パーソナリティ障害のために、生きてゆくのに、芝居をするしかなかったのかもしれません。しかし、それは無責任であってはならず、無反省であってはならないものです。どちらも楽山は無視して、人を傷つけるだけのサディストになっています。
 
性悪の根腐れの楽山に声を掛けるなら、今までも、これからも、
 
・・あっちに行け・・だけです
 
人生を大切にしたいなら、決して、楽山に関わってはいけません。
 
 
※ 
 
楽山は、神がいるなら神が悲劇から救うはずだから悲劇は起こらないはずなのに、救われない悲劇が実際あるのだから神はいない、という言い分のようです。楽山の考える幸・不幸を、知りもしないし信じてもいない神に向けて決めつけています。こういう柔和の欠片もない確信が悲劇をもたらすのです。
 
信仰からではなく、心からでもなく、楽山は、物と好都合だけを欲しがる欲望の人です。そういう人が、声高に、無神論なるものを吹聴しています。人は、有神も、無神も、証明できません。信仰という形無きものは心の中で活きています。それが分からないのが、楽山のような心無き者たちです。
 
楽山の大きな罪そして偽善は、神に代わる救いを何も提供できないことであり、さらには、絶望している人に、神はいないぞと、傷に塩を塗るようなことを言っているに等しいということです。絶望を解決できず、いかなる救いも知らず、自説自慢だけで、口だけは減りません。
 
信仰者としては、どうしようもない地上の世界だからこそ、神という最善の絶対者を信じ仰ぐことが必要になるという動機であります。そして、救いがあるとは思えなかった人が、キリストの愛と共感に導かれて、祈りにおいて神の前の正直さだけを捧げて生きているのです。
 
神は、その全能を、人の卑しい欲望含みの思考で分かるように示すことは、なさらないのです。神の救いは、地上だけでもないかもしれません。例えば、地上以外のことについて、感性の貧困な楽山は、ホラー以外、何も希望を語れないにもかかわらず、神?とか霊について得々と語る偽善者です。
 
神と人を引き離そうとする反キリストの幼稚で次元の低い話に惑わされないでください。信仰者も、あの世の希望だけにすがっているわけではありません。理屈ではなく、既に、地上において、キリストの気高さへの憧れと共感という賜物を恵まれて、キリストを忘れられない人が、信仰者になります。
 
 
ずるっとだまして知らぬふり

ずるっとだまして知らぬふり
 
 
(2021年)
(2022年07月30日、再録+加筆)
 
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
 
  台風一・上陸間近
 
台風は上陸するらしい
お前はもう終わりだ
おしまいだ
と言わんばかりに
 
風音が家を壁を窓を
軋(きし)ませる震わせる
時々金物か瓦か何か固い物が
ぶつかり合う音が聞こえる
 
外のバイクは大丈夫か
月極駐車場に置いてある車は
夏に除草剤を撒(ま)いた庭に
秋になって思いがけず
生えてきた草の中に
咲いていた赤紫の小さい花たちは
テレビは終夜放送で台風情報
 
外は荒れ狂っている
 
言わんばかりに
死の実感を持たないのは
お前だけだと
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
幸福の科学も、このタイプですね。
すべての宗教が入ってて、「俺様偉い」と。
>>引用ツイート
@rumrumrumrum
 · 21時間
もう一回、韓国の統一教会の
孔子とブッダとキリストとコーランが腰に手を回し合う像の写真を載せておこ。コーラン(本)と仲良くしてるキリストが不憫。
カルトって「全ての宗教がオールインワンで入ってます」みたいな思想好きよね。聞いてみたら、すっとこどっこいの「俺様偉い」の内容だけど。
<<
午後9:27 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
すべての宗教より「俺様偉い」と思っているのは楽山です。自己愛性人格障害の楽山は、宗教も信仰も見下ろす視線しか持っていません。伝統宗教もカルトも、同じ視線で見ています。霊言などの超常が宗教だと思っているのです。聖書も読み方も、頭の中だけの辻褄合わせだけで、心が無いのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
>>
唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。
<<
これは耳に痛い言葉だ。新興宗教にハマって、「これこそ、本当の真理だーっ」と思いこんでしまった経験があるので。
>>引用ツイート
本ノ猪
@honnoinosisi555
 · 7月28日
「唯一無二の真実を探し求める人は、世界をたった一つの固定された言葉へと単純化しようとします。唯一無二の真実を宣言するということは、言葉を「急速冷凍」して、その結果、新しい意味が現れる可能性を狭めてしまうということです。」(伊藤守監訳『現実はいつも対話から生まれる』P49)
<<
午後9:08 · 2022年7月28日·Twitter Web App
 
「新興宗教にハマって」は、かなり嘘くさいです。楽山は、真理=自分の思想、という見方です。つまり楽山は「世界をたった一つの固定された言葉へと単純化」して客観視だと思い込んでいるのです。その結果、心無いために、洞察も根拠もなく、言論を月並みな「急速冷凍」食品にして満腹しているのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
kazu 訳あり3児育ててます(^^)
@kazu75543205
精神科から親子がポロポロ泣きながら出てきた。子に病名がついたらしく、母親が「今まで叱ってばかりでごめんね。そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいいよ。あなたはあなただからね。お母さんがいるうちは全力であなたを守るから!」と話していて、盗み聞きした私号(泣号)(泣汗マーク)
午前11:24 · 2021年7月19日·Twitter for Android
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
自分の精神的利益のために都合がよいと思ったら、人の迷惑お構いなしに引用してくる楽山を批判しています。楽山は、どこまでも正義の味方のふりをして、背伸びして、背伸びして、自分の言うことは意味があると思わせたくて、顎を外しかけています。
 
楽山が、これを引用するのは、「そういう脳で産まれてきたからあなたは何も悪くない。そのままでいい」というところでしょう。楽山は、自分も、こういう脳で生まれてきたから悪くない、そのままでいい、と言いたいのです。違いが分からないのは幼稚すぎます。
 
これまでも、言葉面だけ都合のよさそうな話を、本から、ネットから、引用してきた楽山です。反省と修正のための知性と感性が足りないことの証明です。言葉面だけで、直感がないのです。自分で弁明できないから、人の口を利用して、その目的は、自分の正当化・・なんて、呆れた話です。
 
不可抗力の過ちや病気と、悪意からの悪行は違います。楽山は、意志を持ち、その意志によって、嘘を吐き、詭弁ばかりを弄してきたのです。これが悪くないなら、この世は、悪人の天国になります。楽山は、だんだん、程度の低い詭弁を弄するようになっています。
 
過ちを認めて、親が責任を負うのと、楽山のように、非を認めず、無視して、無反省、無責任に、悪行を続けるのとは、全く違います。大人の年齢である楽山の責任を負うてくれる人はいないでしょう。この話を、お涙ちょうだいにおとしめて、楽山は、恥ずかしくないのでしょうか。
 
楽山が、他者を引用するとき、必ずと言っていいほど、楽山の都合に合わせた暗示か詭弁の作為が働いています。読者が読んで何となく良い話として受け入れることを楽山は狙っているのです。どこまで、いつまで、言葉の盗人家業を続けるのでしょう。最低だと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
罪悪感のない、真剣味のない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山を批判しています。楽山が書けば書いただけ、その病理と症状が現れてきます。それでも書いてくれば、それが、無反省で無責任で無神経な、楽山という人格だという証明になってゆく経過です。
 
 
 
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  ボンヤリ言語の誘導(7)2
 
 自分を映す鏡としての幸福の科学
  2020年05月02日
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言は、批判を向けられても、いっさい、気にしないという他者無視と一体の執着から出来ています。宗教と信仰における異常者とは、教祖的強引さだけではなく、ペテン師の嘘と詭弁という場合もあることを示している楽山です。
 
人間らしさ、謙虚さ、断定を避ける、そういうところに破壊の根を持つカルト妄想は、罪悪感と羞恥心を全く欠いているので、何を言われても、何ごとも無かったかのように、誘導を続けます。素顔が血も涙もない仮面の芝居なのです。こうやって、誰に対しても、人間性喪失に向かって誘導してきます。
 
 
前々から薄々気が付いていたことではあるけれど、自分にとってHSを批判するということは自己を知ることであるらしい。
 
自分についての真実を追求する楽山の言を一度も見たことはありません。楽山の言は、いつも、他者に向いており、印象を植え付け、シンパ(シンパシー、共鳴、同情)を求めてくるという柔和芝居であり、そのためのボンヤリ言語なのです。
 
その分、教祖として豪語し、従え、という妄想家カルトより、むしろ、悪質と言えるのでしょう。楽山のやり方では、人間を、心という器(うつわ)から破壊してゆきます。
 
 
たとえば現在のHSは、神は人に信仰を求めており、信仰を持たない者には神罰が下されるとしている。自分はこれに対して、そのような神は祟り神ではあっても、真の神であるはずもないと異論を述べるのだが、これは表向きはHS批判ではありつつも、別の面ではHSに反発することで自己の持っている神のイメージを再確認しているという面もあるのだ。この意味で自分にとってのHSは自己を知るための鏡だといえる。
 
楽山は「真の神であるはずもない」と言いながら、信じてもいないのに「神のイメージを再確認」と言っています。統合失調の傾向とも見えますが、無節操であることは確かです。神は、イメージでも概念でも捕らえられる対象ではありません。楽山は神を文字だけで語っている心無い無神教カルトです。
 
このように、カルト批判を装って、そこから、自らを高めてゆきます。神のイメージを再確認、などという言葉は、楽山が神を信じる者ではないことの証拠です。神は、確認できるような御方ではありません。ゆえに、信仰対象となるのです。
 
 
ちなみにこの構図は自分がHSの会員だった頃も同じだ。当時HSは神は愛であり、人を裁いたりはしない、人は死後に神に裁かれてではなく、波長同通の法則によって天国的な心の人は天国へ、地獄的な心の人は地獄に赴くことになると説いていた。
自分はこれに共感することで自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができたのだった。
 
楽山は「波長同通」という妄想的なことを、当たり前の言葉として書いて、なお、否定しないわけです。神についての話で「共感」と言うのは楽山の嘘です。ましてや「自己の中にあった神のイメージに自覚的になることができた」などは、神とは何の関係もない妄想だと思います。
 
 
自分は無宗教の家で育ち、特定の宗教教義を信じているわけではなかったので、神の存在を信じつつも、その神とはどのような存在であるかを説明できなかった。でもHSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができたのだ。
 
上の説明で「自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言っていることが、楽山の思考の幼稚さが表れています。いかに、楽山の神?が、いかに安い出来であるかを知ってほしいです。「神を言葉という形で知ること」など出来ません。楽山の安易な曲解からの大嘘です。
 
ここは、神を、例えば、あ、分かったよ、知ってるよ、と言っているような、救いがたいほどの浅はかさが表れているのです。まともを装う表面的な筆致とその内容の浅さ幼稚さの、決して一致しない対照が、ボンヤリ言語なのです。
 
 
自分は昔と今とではHSに対する立ち位置は会員から批判者へと百八十度変わっている。
 
変わっていないと思います。うまく利用したつもりなのです。
 
 
でも上に書いた通り、HSによって自己を知るという点では少しも変わっていない。
会員だった頃はHSへの共感によって、批判者になってからは反発によって自己を知る機会としている。HSにとっては迷惑なことではあろうが、どうもHSと自分との関係は前からこのようなものであるらしい。
 
上のほうで「HSの説明を聞き、それに共感することで自分にとっての神を言葉という形で知ることができた」と言ったばかりです。どこが「反発」なのでしょう。日本語を壊して使うのがボンヤリ言語で、楽山は、HSを、適当に、不適当に、気分次第で、利用しているだけなのです。
 
 
 
 神秘体験と宗教の正邪
  2020年05月02日
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、悲惨な、分かるんだ、知っているんだ、体験したんだ、自分は特別なんだ、というアピールが、神聖に対する微塵の恐れも謙虚さもなく、さらさらとボンヤリ言語で、表れています。
 
 
幸福の科学(HS)の会員だった頃、会員の集いで皆と神理の話で盛り上がった後の帰り道で不思議な感覚を味わったことがあった。これは光輝く神と出会っただとか、その声を聞いたというような派手なものではなかったが、とにかくそのときの幸福感は圧倒的なものだった。
自分にとってこの体験は一体何だったのかということが長年の疑問だったのだが、先日ジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、自分の体験と同種のものと思われることがいくつも紹介、考察されていて驚いた。
 
楽山は、自己愛性人格障害の自己顕示欲から、自分の、宗教が分かるっぽい、心霊が分かるっぽい、という印象を、学者の名前を通して、まるで既知であるかのように刷り込んできます。楽山は、感動、理解、共感、ということから、最も遠い人です。「幸福感」は一種の異常気分ですが、嘘だと思います。
 
 
もちろん本書で紹介されているものと比較したら、自分の体験は随分とつつましく、貧弱なのだが、それでもその本質的な部分では共通するものがあり、同系統のものと思われるのだ。
 
このように、ぼんやり、謙譲から自慢へと、当たり前に成立しているように、本と体験が共通、同系統、というボンヤリ言語の言い方です。実際には、心霊についての自分の超能力をを肯定する自慢話になっているのです。
 
 
このことからすると、どうやらあの体験は、宗教的にはそれほど悪いものではないようだし、またHSに限定されるものではなく、他宗教でもあり得るものであってそれほど特殊なものではないようだ。
 
「それほど悪いものではないようだ」・・何なのでしょう。こういう言葉で信仰と神を表すこと自体、何も理解していない証拠です。珍味のグルメレポートでしょうか。しかも、内容は皆無なのに、他宗教でもと、一般化したいようです。楽山は、いかなる宗教も知りません。
 
 
よく言われることだと思うのだが、神秘体験というものは宗教に属するものではなく、個々人に属するものであり、もっと言えば、その時、その場所、その心境に依存するものであるというのは真理の一面を表してはいるのだろう。
 
(ネットより)
神秘(しんぴ)とは、人間の知恵では計り知れない不思議、普通の認識や理論を超えたこと[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98
 
神秘は、言ってみれば、神の秘密であり、人に属することなど無いのです。楽山の、すっとぼけた慢心が、神という真理の秘密を「人に属する」つまり、自分は分かると言わせています。
 
霊が分かるっぽいと思っている楽山や、神の啓示だから議論の対象にならないと言うシャロームなど、こういう者が、妄想をもとにカルトを捏造してゆくのです。
 
 
だからカルトでも神秘体験はあり得るし、神秘体験があったからその宗教は正しいものであるとはいえないのだ。
 
神秘体験=宗教、という安っぽい先入観を否定して、逆に、カルトでもありうる、などという誘導は、詭弁以外の何ものでもありません。ここは、神秘体験はあり得ると言って、宗教の正しさではないと言い、結局、自分にも、そういう神秘体験があると言いたいのでしょう。発言の軽さに驚きます。
 
カルトでも、宗教でも、人間が神秘体験を根拠にし始めたら、人間性を捨てる方向に向いてしまうので、宗教による人間の救いは、終わりなのです。楽山は、どこまで、デタラメを言い、自分を霊能者気取りで高めるために、嘘を吐き続けるのでしょう。
 
 
HS信者をみていると、残念なことに自身の神秘体験とHSとを別個に分けて考えることができず、両者を安易に結びつけてHSで神秘体験があったからHSは本物であり正しい宗教だと主張する人が散見される。
 
実に軽く、安易に、神秘体験を扱っている楽山です。いかなる神秘も、すっとぼけた軽口の楽山に縁(えん)はないと思います。神秘は、神の秘密、人間が驚くテーマであっても、人間が扱えるテーマではありません。
 
 
聞くところによると、オウムでもそういう信者はいたという。この二つを分けで考えることは口で言うほどやさしいことではないのでそれも致し方ないことではあるが、判断をあやまらないためにはここはぜひとも気をつけなければならないことではある。
 
他のカルトを引き合いに出して、宗教と神秘体験を分けると言っていますが、神秘は、結ぶことも、分けることも、できないから、人知を超えた神秘なのです。神秘体験にこだわっている間、神秘からの救いはないと言っても過言ではないのです。
 
「やさしいことではない」ことを、実に気楽に書いてくる楽山です。人間らしい良心を失った、あるいは、捨てた、楽山の心性は、特別の存在になって、神が分かる、体験した、神秘体験だだだ・・と、機関銃のように言わないと気が済まないようです。
 
 
なんだか偉そうなことを書いてしまったが、自分もこの点についてはまだまだ徹底することはできず未熟であるし、この点よくよく自戒したいと思う。
 
だったら、偉そうなことなど書かなければよいのです。自戒する精神を持たず、偉そうなことだけを書きたい楽山であることが、もはや、ザルのように漏れ出てきます。実に恥ずかしい男です。
 
楽山については、思い切りバカにしていいのではないかとさえ思います。求めること、学ぶこと、反省すること、成長すること、これら一切をしなかったゆえの、常識と良心のない知恵足らず、と申し上げておきます。霊が分かるっぽいと思ったときから、そうなってきたのでしょう。
 
 
 
 拝み屋さんと伝統宗教に対する偏見2020年05月02日
 
 
楽山という人は、やさしいと書いて、やさしさを知らず、思いやりと書いて、思いやりを知らない人だと思います。良心に欠ける部分を、温もりを表す感想の言葉の飾りだけで補うことなどできません。温もりは、良心の産物だから、言葉以上に、体験の実(じつ)を持っているのです。
 
楽山に、発言の実(じつ)はありません。その代わりに、温もりのない楽山は、言葉で、べた褒めという手段を使うことになります。それを、思いやりと言ったり、共感と言ったりして、自己満足する言葉の稚拙さから、嘘も詭弁も思い込みも妄想もバレてきました。
 
そういう言葉の技(わざ)で、でっちあげても、楽山のボンヤリ言語では、芝居に過ぎず、わざとらしい言い過ぎになったり、ピント外れであったりするために、今までの記事の流れを考えて読むと、不自然感満載の文章だと分かるのです。
 
そのことにも、楽山だけは気づかないのでしょう。だから、平気で、どんなもんだい、わかってるんだとばかり、図々しく書いてくるのです。記事の中の言葉だけでなく、今までの楽山の記事の、反キリストの主張の流れというものが楽山を否定する、ということにも、楽山だけは気づかないのです。
 
今回の題材は、すなわち、楽山の自慢のネタにされているのは、拝み屋さん、祈祷師と呼ばれる人たちです。自分の霊感以外を正当と認めることのない楽山に褒められることは、災いでしかありません。
 
 
HSの教義はその時々で改変されるものなので、いまはもう変えられたかもしれないが、自分が会員だった頃のHSでは、拝み屋さんや伝統宗教についてはかなり否定的な見方をしていたのだった。拝み屋さんのほとんどは偽物で悪霊に憑依されているとか、伝統宗教は形式主義に陥っているだとか…。
 
楽山の狙いは、自らが、柔和で、視野が広く、人間味に溢れていることを主張したいがために、拝み屋さんも認めていますとアピールしたいようです。楽山が、今まで、しばしば、ボンヤリ言語で、やさしさ芝居をしてきたことを忘れてはいけないと思います。
 
どんなに詭弁を弄しても、頑強にキリスト信仰を否定してきた今までの流れから、策略としか見なされないだろう、という予測すらも出来ない楽山であります。そういう鈍麻の無頓着から、何を言われても、平気で記事を書いてきたのでしょう。
 
 
自分は会員だった頃はこれをそのまま信じていたのだが、退会したあとは、実際に拝み屋さんと会ったり、宮司さんの仕事ぶりを見る機会があったりして、段々とそういう考え方からは離れて行った。
まず自分が会った拝み屋さんは物静かで、落ち着いた雰囲気の人だった。悪霊に憑依されていると感情の起伏が激しくなり、ちょっとしたことで激怒したり、常識から外れた奇行が出たりするというけれども、そういうところは全くなかった。神様のことを信じていて、神様の話をすることが大好きで、迷っている霊がいればたすけてあげたいと思っている優しい人だった。
 
楽山こそ、いつも「物静かで、落ち着いた雰囲気」を装う嘘吐きであります。実際には、自分が否定したことにも、肯定したことにも、訂正不能に凝り固まっているのに、一貫して無責任です。つまり、どちらも、言ってはみたが、忘れるか、ぼかすかして、一定の主張に達することがないのです。
 
言葉だけの神様、即ち、紙様の話をするのが無責任に無反省に大好きで、人が本当に優しいかどうかなんて簡単に分かるはずもないのに、気安い世辞を言って、神霊に結びつけ、神霊の話をでっちあげて、自分と結び付けてくる楽山です。
 
そのことは、批判記事に対して以前返してきたのが詭弁だけであり、結局、不感不応で訂正不能である、ということを楽山自ら証明してきたデタラメな記事の流れに表れているのです。何をネタにして語っても、ペテン師とバレた以上、一切は無駄なのですが、病質によって、気づかない楽山です。
 
 
肝心の儀式の際には、拝み屋さんは祭壇に向かって正座をし、二、三時間にわたって一心不乱に祝詞を唱え続けていた。その間、背筋を伸ばし、膝を崩すこともなく、気を引き締めて、本気で祈りつづけていた。それでいてお金はロウソク代という名目で二千円だった。
 
2~3時間の祈祷で二千円だからと、拝み屋さんが良い人のようだからと、その宗教と信仰自体を、本気だと、本物だと、判断してよいものでしょうか。ここに、楽山が、宗教と信仰を、いかに軽く見なしているかが表れています。楽山は、いつもそうです。
 
 
次に伝統宗教について書くと、自分が出席したとある神葬祭における宮司の祝詞は、故人の生涯を語り、労い、讃え、平安を祈るものであって、もし故人が聞いたらきっと喜んでくれるにちがいないと思えるものだった。この宮司さんは神葬祭のときはいつも、遺族から故人の話を教えてもらい、それをもとにして祝詞を用意する人だとのことである。きっとそれだからこそ、宮司さんの祝詞には、参列者のみなが熱心に聴き入ったのだろうと思う。これはどんな詭弁を用いても、形式主義に陥っているなんて言えなかろう。
 
楽山の、根拠にならないような、嫌がらせの、言いがかりの、いやみったらしい、今までの、キリスト教とキリスト信仰に対する攻撃からは、楽山が、祈祷する人が一生懸命な態度であったら形式主義ではなく、本物の宗教だと思っているなんてのは、これまた、大嘘としか思えないのです。
 
楽山には、積み重ねられてきた負の、狡猾な悪の、偽善の、凶暴な悪意の履歴があります。みんな自分に好都合なように、その時その時で、出まかせを言ってきたのが、楽山です。だまされないでください。楽山に付き合うと、精神が鈍麻して奴隷のような精神を植え付けられる恐れがあります。
 
楽山は、恐らく、宗教を、超常言葉と儀式くらいにしか見なしていないのです。その宗教は、まるで、悪くない習慣のようなものでしょう。楽山には都合が良いのでしょうが、それで、人間が救われることはないと思います。
 
 
もしかしたら自分が出会った拝み屋さんも、宮司さんも宗教界では例外的な存在であり、自分はたまたま当たりを引いただけなのかもしれない。でも自分は根がお人好しにできているせいなのか、これが普通であるように思えてならない。拝み屋さんにしろ、宮司さんにしろ、基本的には善い人が多いのではないかなと…。
 
ここで、たまたま当たりを引いた、お人好しにできている、良い人が多いと、謙譲な善人芝居をしてきます。これら一切と、今までの、キリスト教への妄想的誹謗中傷は、全面的に、矛盾します。褒める、という、気持ちのよさそうなことを、楽山は、めいっぱい、悪用する人です。
 
 
そういうわけで、先に書いたようにHSでは他の宗教者を低く見るところがあって、自分はそれを信じてしまったこともあったけれども、いまははっきりとそれは間違いだったんだと思うようになっている。
 
楽山の謙譲は、ことごとく大嘘です。楽山は、自分と自分の主張だけを100%客観的だと信じ込んでいる病的ナルシストです。明確に間違いなのは、楽山に、まともに関わることです。無駄な疲労をもらわないように、人格を破壊されないように、楽山にだけは近づかないでください。
 
記事全体が、ホンヤリ言語、世辞、嘘、という楽山の詭弁の罠であります。反省という要素が全くなく、まともな情緒が育っていないにもかかわらず、やさしさ芝居の台詞だけで、言い得たと満悦することのできる非情・冷酷の機械的な仕掛けを持つ欲望が、楽山なのです。
 
 
落日に追われる者

落日に追われる者
 
 
(2020年)
(2022年05月14日、再録+加筆)
 
 
 
  ひっこし
 
破れて失われた
日記の頁には
何が書かれてあったのか
読めない字
意味のない落書き
詩のようなもの?
 
どこを捜しても見つからない本
ふとこぼれ落ちた小銭
買った覚えのない週刊誌
紐を取ろうとして
けつまずいて倒れた
お腹の上に文庫本落ちる
ほこりが鼻をくすぐる
ボール箱には奇怪な傷
いつのまにか壁にはしみ
窓の外では風が止み
くすんだ青空
虫が横切る
 
はて
どこかで同じような?
 
破れて失われた日記の頁に
何が書かれてあったのか
 
 
  初夏
 
夏の光めがけて
手元がくるった
水があふれる
きらきらと
小さく跳ねる水の光
閉じこめられた夏
 
 
  処理
 
耳ザーザーと鳴って
目のまわりや
顔のこわばり
皮脂の具合など気にする
 
累々と並んだ屍を
無雑作に引きずっていく男達
今日のうちに彼らも
この列に並び横たわるかもしれぬ
 
耳ゴーゴーと鳴って
筋肉の痛み
胸のつかえ
骨のねじれた感覚のために
眠ることかなわず
食欲低下し
衰弱して横たわる
 
穴を掘る
大きな穴
小さな穴
屍を放り込む
そのとき
男の眉間に黒い点現われ
そのまま穴の中へ落ちてゆく
一人処理が済んだ
 
耳サーサーと鳴って
横たわったまま
口をきかなくなる
最後に痙攣して
動かなくなる
 
真っ先に
いなくなる人達
涙は
メディアの向こうで乾いてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害のもたらす大きな災いは、成長しなくなることです。反省しないために、新しい学習をしなくなるので、身につけるのは自分に都合のよいことだけという生き方で、金太郎飴のように同じような顔のままです。金太郎飴と異なり、無駄に肥厚するのは、堕落という経年劣化なのです。
 
 
 
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  楽山の捨ててゆく時2
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。どうか巻き込まれないでください。
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てるのに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかし、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。アドラー教ゆずりの自己中によって、都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習することが出来ないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、この記事がそうです。
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔物です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など、世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間に「けちん坊」というのがあるのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
悪意の詭弁

悪意の詭弁
 
 
(2020年07月20日、同日一部修正)
(2021年07月23日、加筆して再録+)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 前にもアップしたと思いますが、昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・楽山については、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
(90年代か)
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと一致しているとは限りません。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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