ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:不可知

 
  虫のように迷惑(1)4
 
 2019年11月12日
 『神は妄想か?』の感想つづき
  楽山日記(仮)
 
 
過去の批判記事を、加筆修正して、再録、批判します。楽山の無理解と幼稚さが表れています。
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、幼稚な辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めることは出来ません。自己中からの短絡した妄想です。
 
 
マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。
 
(ネットより)
アリスター・エドガー・マクグラス(Alister Edgar McGrath、1953年1月23日 - )は、北アイルランド出身の聖公会の執事でキリスト教神学者、哲学博士、名誉神学博士Doctor of Divinity。前オックスフォード大学歴史神学教授。2008年9月からロンドン大学教授。彼は講義と著書で「科学的な神学」(scientific theology)を提唱し、科学的な無神論に反対している。
マクグラス(ウィキペディア)
 
完全に理解されることはないでしょう。理解したら信じる必要など無いわけです。しかし、神について、人間として弁えるべきことはあるのです。そのことを全く理解しないで、理解されえないということからキリスト教を否定する楽山は、自己正当化をしているだけで、かつ、いつも失敗しています。
 
神の救済を、何かの現象と同じように考えて、人間に理非が分かるかのような前提で、楽山が語っても、神を否定も肯定も出来ません。神の存在と救いの実証的根拠など、人間は持ちえません。それが、キリスト信仰の前提です。つまり、楽山の言は、ことごとく無意味です。
 
キリストに救われた人々が、自分で救いを求め得ないような、そういう人だったというのが根拠であります。自分で、自分の胸を打つほどに悔いたことがなく、何事にも真剣味がなく、うっすらボンヤリ物事を単純短絡で考えている楽山には、近づくことさえ出来ない世界なのです。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
 (ルカ18:11-14、新約聖書)
 
通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)
 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは、キリスト信仰において、行為義認と呼ばれ、間違いの典型であります。しなくていいというのではなく、人間が、善行に励んでも、神に及ぶべくもないということです。それで救われると思ってはいけないのです。
 
つまり、人に気に入られようとして詭弁と嘘を垂れ流す楽山の、虚偽の処世の話で、神を語ることは決して出来ません。楽山は、俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、神と人と信仰をけがしています。俗物根性も、ここまで来ると、欠陥人格と判断せざるを得ないのです。
 
人間には、心に感じるということがあるのが正常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも受け取ることが出来ないのでしょう。だから、神に対しても条件交渉みたいなことしか考えられないのです。最初から間違っています。
 
前にも書いたことを繰り返します。心貧しさは、余計な先入観を持たないことです。楽山などの、高慢と自己満悦からの精神の貧困は、余計な先入観しか持っていないのです。
 
 
この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。
 
人の信仰の有無と正当性をを判断し裁くのは、神であります。神の裁きは、人間に理解できるものではありません。ゆえに、神の存在と意志と行為について、人が、とやかく言えるものではないのです。私たちに、神の完全は、理解できません。楽山が、汚い口で文句を言っても、一切は無駄です。
 
楽山の、悪意に満ちた、また、他者の口を借りた雑言が続いています。未熟で幼稚な反キリストは、誰とも共感できないので、誰でも騙してやろうと思うしかないのか、自己満悦と悪意だけで書いてきます。この楽山のように、恐れを知らず、文句を言い続ける者が、典型的な反キリストであります。
 
人の善行は、高が知れています。人間が、神に捧げられるのは、精いっぱいの、正直さだけなのです。正直な祈りをして、あとは神に任せるべきことに、お粗末な理屈を振り回す楽山は、他者の言も、無視するか、悪用するだけです。罪悪感がないので、迷惑行為に気づかないからです。
 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。違うと思います。浅薄な知識を、自慢のように振り回すほど、楽山は、ますます見苦しくなるばかりです。
 
人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、個別を全体のように見なす短絡によって雑言を吐いているだけです。こういうのを、決めつけと言うのです。無反省で無責任の楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
 
ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。
 
信仰を持たず、信仰の行いも見られない楽山が言っています。楽山は、行いによっても、信仰によっても義とされない自分を証明しているのです。なお、大した行いが伴わなくても、信仰者は、神の前に正直であれば信仰の義とされるでしょう。
 
何も分かっていない楽山です。キリスト教内部の対立を面白がる楽山です。行いが伴うことと、善をなしていると思い上がる偽善とは、全然違います。反キリストや無神論者は、そして楽山も、そういうところで、とても短絡した論理にとどまっています。楽山とは、いかなる議論も成立しません。
 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化している偽善者です。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、不十分でも信仰者らしい言動が伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャローム同様、極めて質(たち)が悪いのです。批判を受け取ることなく、書き続ける姿は、病理としか思えません。
 
人類の敵は、国でも国家でもありません。人類の敵は、サイコパスです。それが疑われる楽山とシャロームの二人については、同一人物の成りすましの可能性も考えています。人間の知能を持ちながら、それを欲望を満たすためにしか使えず、かつ、悔いることがありません。
 
 
最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、
 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、善行は、非信仰者も努めるべきことでしょう。その最低限さえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、信仰の本質であるかのように書き加え、知りもしないのに、キリスト教が、迷っているかのように主張しています。次元が低すぎるのです。
 
キリスト教の人々が、一枚岩だとは思いません。内外に、理解不十分や、誤解や、曲解などや、また、偽者や、カルトがいるということも現実でしょう。しかし、キリスト教は、人の不十分と不完全を、神が、承知の上で、裁き、救うべき人を救って成長に導く宗教なのです。
 
キリスト教も信仰も、何も知らず、何も分かっていない楽山のような者が、口出ししてくるのは、自己顕示欲によるものでしかなく、ゆえに、楽山を、大迷惑な信仰の敵、即ち、反キリストと判断しているわけです。楽山の語るキリスト教と信仰は、ルサンチマンの妄想と怨念に他ならないのです。
 
 
現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。
 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。「信仰のみ」という言葉について、理屈ではなく、人間の在り方として考えてください。楽山に云々できることではありません。
 
真の信仰を与えられた人間は、どう行動するでしょう。信仰だから特別とばかり、勝手な理屈をこねて、楽山やシャロームのように、無反省に無責任に、嘘と詭弁で偽善を働くでしょうか、否です。シャロームも楽山も、自らの言葉によって、自らの腐敗を表しているのです。
 
楽山やシャロームに、いちばん、だまされやすいのは、詭弁というものをよく知らない一般の人か、いい言葉を一途に求めている宗教人でしょう。だますために、いい人と思われるために、いい言葉に見えることを並べようとするのが、楽山とシャロームなのです。
 
 ※
 
訂正不能の無神教カルトとなって教祖願望の絶対を欲しがる楽山には絶望的ですが、訂正不能にしないということは、成長するということです。正直な祈りを通して、聖書と体験からの感動と共感が、その原動力となるでしょう。
 
低劣な詭弁を弄する楽山に、決して誰も関わることのありませぬように
主イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 
 
知ったかぶりの地獄

知ったかぶりの地獄
 
 
(2021年)
(2022年12月06日、再録+加筆)
 
 
 
  水と空気
 
ときに無常
ときに空しさ
 
形の定まらないもの
汚染されやすいもの
汚染されているかどうか
わかりにくいもの
 
しばしば意識されないが
無いと生きてゆけないもの
わかりにくいけれど
必要不可欠
 
水と空気のような
知・情・意
分けられない心の中から
 
汗、涙、唾、息、……
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと 
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
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  努力と我執2
 
 2020年04月03日
 宗教的な不可知論者?(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山には、自分がどれだけ的外れか、自覚がないのです。かつ、一言も、反論も弁明も成り立ったこともないのに、書き続けるのは、意地を超えた病理があると考えるしかないでしょう。
 
今回も、身の丈に合った書き方ではなく、ボンヤリ言語で断定して悦に入っているようですが、こういう楽山の執拗さと粘着性は、"仏様の心が分からない親族に驚いた" という彼の記事のように、当たり前に霊能者としての訂正不能の自負があるからなのでしょう。
 
その霊感の表れを示すのには、ことごとく失敗しても、限界を感じるわけでもなく、恥を恥とも思わず、反省も学習もなく高じてゆく末路には、自分を認めない者たちへの復讐として、やはり、社会悪に近接してゆく危惧が大いにあります。
 
努力と我執は違うのです。楽山は、霊が分かるっぽい自覚から、努力せずに、一気に獲得できる真理への、実は怠慢根性の、安易なショートカットを選んで、いつか、評価されて褒められる、という悪夢を見続けているのでしょう。
 
この2年余り、楽山の記事を読んで批判してきたことから、楽山は、神を、否定することも、肯定することも、信じることも、できない人だと判断しています。この手の哀れな人に同情して関わると、同じように、かわいそうなほど悲惨な地獄に巻き込まれるでしょう。
 
本に紹介されている体験談を読んでいると、これは自分と同じだと感じることが時々あるが、自分にとってはこの文章がまさしくそれだ。孫引きになってしまうのではあるが、こんな風に不可知論的になりながらも絶対的実在を感じるというのは本当によく分かる。
二十歳から三十歳までの間に、わたしはだんだん不可知論的となり、無宗教的になったが、しかし、現象の背後にある絶対的実在についてのあの『ぼんやりした意識』――ハーバード・スペンサーは巧みにこう呼んでいる――まで失った、とは言えない。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.100)
 」
 
楽山は、哲学者ジェイムズの体験談を「自分と同じだと感じる」そうです。理性も情感も、オモチャの作り物のように、いい加減なのに、学者か批評家気取りの自らに満悦して、肩を並べている気分でいるのでしょうか。ストーカーを見るような気味の悪さを感じます。
 
少なくとも、キリスト信仰については、楽山は、否定することにも、肯定することにも、何一つ、着手できていません。それで、学者の名前を出して、しかも、「ボンヤリ」という引用までして自慢したいのでしょうか。身の程を知らない楽山は、学者の"実在についての表現"に、"自分のボンヤリ"を当てはめています。
 
理屈で無宗教と言い、理屈で宗教と言っても、信仰は理屈ではないという部分を、楽山は、信仰について、自分の言葉で、書くたびに詭弁と循環論法が明らかになるほど、何も言えていないのです。ゆえに、また、詭弁だらけのお粗末な理屈だけで宗教を考えて、無宗教になった、ということは、ほとんど意味がありません。
 
信仰は理屈ではなく、信仰がなければ宗教は、資料に過ぎず、資料だけなら、それは、楽山の詭弁の記録と同様、信仰として何の意味もないからです。楽山は、一度も神など信じていないのに、徒労から徒労に逃げながら、いい気になっているだけなのです。
 
とはいえ当然のことながら他人の経験や思惟が何から何まで自分と同じだということは有り得ないので、この文章と自分との間に相違点がないでもない。たとえば自分の場合は、不可知論に向かい始めたのは二十代ではないし、絶対的実在に対する感覚はぼんやりとしているというよりは、真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである。ここは上の体験者とは違っている。
 
「真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである」・・じりじりと苛立って、かつ、他者を苛立たせるだけの徒労の的外れが楽山です。病識がないので、開き直ったかのように「ぼんやり」を見つけたら、見せつけるように入れてくるし、どう批判されても、平気で無視してくるのです。自分の言葉を持たない慢心したカルトの特徴です。オカルトに近いかもしれません。
 
楽山は、神を知りえないとする不可知論ではありません。反キリストであり、神否定であります。キリスト教とキリスト信仰とキリスト者に対する侮辱によって快感を得ているに過ぎません。いちゃもん屋に過ぎないのに、言論者を装う見栄だけで生きているのです。
 
ちなみにこのリアルさは、人には人知を超えた絶対的存在については確たることは何もいえないが、それでもそれは実在するだろうことを予感するいわば宗教的な不可知論者でいるときはもちろん、手持ちの材料から検討する限りにおいては、どうも創造主というようなものは存在しないようだという無神論寄りの不可知論者になっているときでさえもさほど変わらないのだから我ながら不思議であり、おかしくもある。
 
絶対的存在について、「実在するだろうことを予感する」なら無宗教ではないですし、ならば「いわば宗教的な不可知論者」などと言っていることは気取っているだけの矛盾に過ぎません。人格が崩壊に向かっていることが文章に表れてきたのでしょうか。
 
楽山は、今まで、幼稚に、単純に、屁理屈で、いちゃもんで、神を、舐め続け、否定し続けているのです。信仰者なら決して出来ないことをして、不都合を聞かずに無視して、自分だけの、押し入れの中の孤独な快感を舐めているだけなのです。
 
楽山の思想の根源は、神と人について、皮相だけを舐め続けている、というシンプルな表現しかありません。とても、良心も、思慮も、成り立たない者の立場あるいは倒れる場でしかないのです。そこで、楽山が、一人前に立っているつもりで書いてくるのは、滑稽としか言いようがありません。
 
不可知論は、楽山が前に引用してきた無神論とは違います。神を知り得ないという考えであり、神の意志と行為を人が確認できないという意味においては、神を恐れよ、という教えとともに、私も、神は不可知という立場であります。どう思い上がったら、神を知り得るなどという、私に言わせれば、背教発言が可能なのか、こちらが聞きたいくらいなのです。
 
一方、不思議ではなく、不可知でもなく、楽山は宗教も信仰も知らないのです。心に受け取ることもないし、信仰など持ったことはない。そういう内容しか書いていないのです。したがって、楽山が宗教を語ること自体が無意味なのです。
 
「無神論寄りの不可知論者」というのは、ひどい言い方です。不可知論は、神が不可知であることを表しており、無神論ではありません。楽山は、矛盾なく知ることなしに信じることはない、という考え方のようですが、人が神を矛盾なく知ることなどありません。
 
自分の非を認めない自己愛性に凝り固まって、本当に、何度も何度も幼稚な言葉で、誤謬と詭弁を弄して、楽山は、信仰とは何の関係もないことを宗教として、実に無意味な、まるで、茅(かや)の草むらの中を走るときに出来る傷のような、うっとうしいだけの嫌がらせを続けています。
 
誰にとっても、感動も意味も価値もなく、自分は批評家だ、自分は学者と同等だ、という自尊過大の執着を捨てきれないナルシシストの成れの果てなのです。
 
この感覚がどこから来るのかについては、宗教的にはそれこそが神の存在証明とされそうであるし、進化心理学的には進化の過程で獲得した本能の誤作動による錯覚とされるのかもしれず、自分には一体何が正しい答えなのかは判然としないのではあるが、ただ少なくとも自分にはどうもこの感覚を消すことは無理であって、もし仮に自分が無神論にどれだけ傾倒したとしても、無神論的有神論者、無神論的不可知論者くらいまでにしか進めず、根っからの無神論者には決してなることはできないだろうということだけは確実のようではある。
 
そもそも、信仰は論ではないし、楽山が、宗教と、進化心理学などとを、並列するところから、宗教と信仰に対する無理解と真っ赤な嘘の詭弁が始まっているのです。楽山は、論者ではないし、論者だったことも、この2年間、ありません。
 
そのベースは、心理学の「心の理論」を、楽山の曲解と妄想によって霊能の話にしている妄想思考に明確に表れています。ひとかどの人物を気取り続けるナルシストであり、何を言っても、修正されることのない妄想的確信なのでしょう。
 
"本能の誤作動"は、楽山が、宗教について語り出してから、ずっと起こっていることです。錯覚と見なされるのではなく、殆ど楽山の妄想なのです。感覚を正すことが無理だという妄想的な誤認識ですから、良識をもって高慢な思いを自ら戒めない楽山は、全く健全ではなくなっていて、もはや、読む人を誤作動に誘導・誘発しかねないほど有害であります。
 
名のある他者の理屈をなぞって、同僚同士であるかのように賛否を云々するほど、楽山は、思い上がるだけで、楽山の書いてくる文章は、思考と感性の第一歩から、今まで、何か分かったという結実を示せていないことが、楽山の妄想的自己愛の精神病理を表しているのです。
 
楽山の宗教観は、ホラーアニメや、霊の話、というような、趣味の見物が、楽山というフィルターを通して、楽山によって、宗教であるかのように吹聴されているものであり、楽山の言は、無と無駄を小脇に抱えて気づくこともなく、無病識の高ぶったフィクション・空想・幻想・妄想のペンを走らせて、公共に向かって発せられる迷惑メールのようなものです。
 
自分は別に無神論にそこまで入れ込んでいるわけではないのではあるが、ただそれでも根っからの無神論者には世界がどのように見え、何を感じるのかということは自分には決して知り得ないだろうことは残念であり、物足りないような気がしないでもない。結局のところ、人は自分の視点からでしか世界を見ることはできず、他人の見ている景色は分からないものなのだから、こんなことを残念がっても仕方ないのではあるが、それでもやっぱり残念ではある。
 
無神論にも、有神論にも、キリスト教にも、キリスト信仰にも、一歩も、入り込めないのが、楽山です。彼が、「入れ込んでいわけではない」のではなく、入れ込むほどの知識も感受性も、今まで示しえたことがないということです。楽山が、今まで表したのは、劣悪な詭弁と悪意だけです。楽山は、残念がっても仕方のないことに、勘違いで、残念芝居をしているだけです。
 
楽山の言は、全くの自慰行為であり、他者の意見のうち都合の良いものだけを取り上げてくる態度は、それもまた的外れになって、独りで書いて独りで笑っているだけの反復運動に過ぎません。自らの愚かさに目をつぶって書けるなんて・・と思うほどの厚い面の皮です。
 
バクテリアが、顕微鏡下で、細かく震えているように見えるのに似て、実は、主体としての存在をなしていない楽山が、真面目に考える人々を、惑わすか、苛立たせるだけで、収穫のない培地に巣食って、自覚もなく、学者気取りだけで棲(す)んで、誰も答えないところで、どんなもんだいと、得意顔で、凄(すご)んで悦に入っているだけなのです。
 
他人の見ている景色が分からないことは、他人の見ている景色を無視する根拠にはなりません。他人の見ている多くの異なった景色の表現から、思慮において学ぶこともあり、また、自分の視点を執拗に書くことは慎むのが大人ですが、楽山は、自分の視点から世界を見て、それをしつこく書いて、かつ、的外れで著しい見当違いであることに気づかないだけなのです。どうしても、一人前の学者か批評家のように振る舞いたい欲望の執念の虜(とりこ)なのでしょう。
 
一部の読者に、やさしい人柄だと、宗教と信仰の記事だと、これがキリスト教だと、平気で勘違いさせようとする分だけ、迷惑で有害です。
 
学習と我執は違うのです。
 
 
我執の澱

我執の澱(おり)
 
 
(2020年04月04日)
(2021年04月09日、加筆して再録)
 
 
※ 
 
 大人の教養TVで、幸福実現党について解説していた
 2021年04月06日 幸福の科学とは何だろう?(楽山)
 
*大川隆法の夢
ところで、宏洋氏の動画で、大川隆法は総理大臣になりたがっていたとしているが、この話の真偽については、大川隆法が自身の過去世をなんと言っているかを考えれば、容易に見当はつくと思う。
大川隆法は、自身の前世は、釈迦、ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムーなどとしており、釈迦が王子だった以外はすべて王だったとしているのだ。生まれ変わりというものは、さまざまな家柄に生まれ変わるものだろうに、大川隆法は自分は常に王族として生まれ変わってきたというのである。
こういっては何だけども、このようなことを公言する大川隆法という人は、自らの理想、願望に正直な人であり、分かりやすい人である。
 
楽山の認識の偏奇が表れています。総理大臣になりたがっているとか、生まれ変わりがあるものとして、過去世が王だった、さまざなな家柄に生まれ変わる、などという話が必要でしょうか。
 
それより「ヘルメス、リエント・アール・クラウド、トス、ラ・ムー」について説明しないのでしょうか。さらに「自らの理想、願望に正直」「分かりやすい人」と言っています。実に奇妙な精神です。あるいは、悪意だけの、楽山からの皮肉なのでしょうか。
 
批判する気なら、それは妄想だと言うべきなのです。しかし、言えないのです。同じ穴のムジナだからです。楽山こそ、根底を流れている妄想性のベースからしか発言できないことを表しているように思えます。
 
楽山も、自己愛からの、根拠のない、霊が分かるっぽいとかの、実に奇妙な妄想に生きているからでしょうか。批判しているような、ご機嫌取っているような、まとまりがなく軸のない者が、他者のことを言えば、こうなる、という例でしょう。
 
楽山の思考は、成長し熟成するということがありません。いつも、思いつきの段階で止まって、そこで、訂正不能になってゆきます。ゆえに、深みを思うことも、悩むことも、悔いることも、反省することも、自己の責任を考えることも、一度もないということを、気にしないでいられるのでしょう。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
愛情不足のために、一体感を求めて不純異性交遊にはしる例もあるという話を読んだことがある。
親が子との時間を大事にし、夜は添い寝するようにしたら、子の不純異性交遊がなくなったと。
二世信者に性の乱れがあるとして、それは肉欲ばかりが原因だろうか。
午後9:47 · 2021年4月6日·Twitter Web App
 
愛のない楽山が、他者の愛情不足を批判しています。よく書けるものだと思います。人に寄り添うということの出来ない楽山です。もし愛すべき人々を大切にすることが出来ていたなら、今までの、無反省・無責任・無理解・無神経・破綻の経過は、なかったはずなのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
エネルギー自給率を上げることは大事ですが、あまりにそれを求めすぎると、水からガソリンを取り出すというようなトンデモ詐欺に騙されかねません。山本五十六でさえ、その被害にあったといいます。お気をつけください。
 
自己愛から、神の真理と理屈を出す、というようなトンデモ詐欺のペテン師が、楽山です。付き合えば付き合うだけ、精神神経の疲労という被害に遭い、気づかないうちに、人格を破壊され、奴婢にように、おとしめられます。くれぐれも、気をつけてください。
 
 
(2021年04月09日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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