ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:不完全

 
  返信(2)
 
 
先日コメントをさせていただいた者です。
返信をどうもありがとうございます。
今回も非公開コメントとして送信いたします。
人を信じすぎる、と言われてしまったからでしょうか。不確実性の中で、無自覚な共依存が増大し、自分の判断、考えというもの、それこそ自信(自分の責任)が保てない乱暴な社会になってしまっているように小生も含めて感じています。
 
様々な共依存が支配しているように思います。縛りと気安さがあると思います。そこで、同じことを言い、讃美し合い、団塊となるのが、安心なのでしょうか。そこから離れると、言い知れぬ不安・孤立感・孤独に襲われるのかもしれません。
 
できることは、極めて限られているけれど、この地上で、精神において個として自立するために、神聖の存在を信じているのに、そこでも集団への従属が強いられているところがあるのでしょう。
 
私は、一人の信仰者として信仰を持つ者を思う気持ち(愛)を示されている戸田様の言葉を贈り物として受け取っただけです。神の御前で人間である自らの正しさを疑う姿勢、謙虚で敬虔な姿勢について共感を抱きました。
 
「自らの正しさ」が否定されて、疑いに満ちた行き場のない状況で、キリストの共感と、神の寛容が、救いになっていると思います。
 
信仰こそが人を救う、それが最も尊重されることならば、その神髄を聖書全体が通して語っているはずで、それに気づかせていただいたように思います。私はメシアニックという立ち位置から聖書について学んでいましたが(互いが互いを補足しあうという事から旧約も新約も通しで。無意味なものを神はこの世に残されはしないとも思い…)、基本的には聖書が説くのは宗教ではなく、神と私(人間)の関係であると思っております。響くことしか受け取らない、というのは本来の形かもしれません。それこそ聖霊の成すことなのかもと思います。
 
私は、聖三位のうち、聖霊という存在が、いまいち、分かりにくく、キリストの臨在、神の導き、ということと区別できずにいます。いずれも目に見えない御方ですが、神については旧約に、キリストについては新約に、その言動が記されているので、どういう御方か、少なくとも想うことが出来ます。嘘を嫌う御方だろう、そして、愛と共感に満ちていて、不完全な被造物である人を救う意志のある御方だろう、そして、とても、寛容な御方なのだろうと思っています。
 
聖霊については、ヒントさえも書かれていないような気がして、霊+聖で、聖霊と言われても、概念上の言葉のようで、ピンときません。
 
今、信仰に情熱を持ち、自分が正しいと信じ、隣人愛を前面に押し出した多くの宣教者を目にします。(聖職者ではないです)「隣人愛から私は●●をしている、自分は謙虚、神の言葉を代弁している。」と言い、ただ…何かが違います。キリストもパウロもこんなことを口にせねばならなかったことはないのです。
 
この宣教者の発言は、自慢ですし、「神の言葉を代弁している」と言った時点で、自らの罪性を無視して、絶対性と無謬性を唱えているので、私に言わせれば、人の立場を弁えない背教に思えます。
 
正しさの根拠は、歴史であり、書物であり、科学であり…人が作ったものです。そのどれが正しいと判断するのも人間で、まるで謎解きが出来たことを知らしめているだけのような怖さを感じます。心情が異なると根拠が異なり、順じて説くことが異なってしまうのです。聖書は万人のためのもの、なのにです。
 
謎解きが出来て何でも分かっているつもりになっているところが、既に、おかしいわけです。こういう発言を見るたびに、人間の、罪性、不完全、非絶対性、ということを再認識します。信仰者であろうと、聖職者であろうと、同じですから。
 
「キリストにおいて生まれ変わったら人間の罪の性質はなくなるのだから、信じたらそれはもうない」と豪語する人たちは自分の偽りに気づけていないように思うのです。そうであるために、たくさんの戒律を守るのです。個人的には、戒律を守ることで本当に嘘偽りなく罪を遠ざけられ、またそこに確信(不完全である自覚)が伴うのならすべきだと思いました。キリストは『法律や預言を廃止するために来たのではない』と仰いました。
 
律法を成就するために来たという聖句があったと思います。パリサイ人は、律法を、戒律として守ればよいという主義によって、人間の深い心情を損なっていたからだろうと思っています。キリストの言葉は、律法のための人、ではなく、人のための律法、という意味の成就だろうと思っています。
 
私たちが本当に生まれ変われるとしたら、それは肉であるこの体がなくなるときではないのでしょうか。
 
よく分からないのですが、生きているあいだ肉は付いていますから、死ぬ時という意味でしょうか。死後のことは人には分からないので、神に任せるしかないと思っています。
 
だとすれば、そういう超常のことより、もっと、地上で、倒れそうな時に、死んでしまったような気持ちから、生きてゆこうと思い直すという人間の人生の再出発のことを人の復活として考えたいです。
 
こうしてお話をさせていただきながら思うことは、『わたしの軛は軽い』『自分の十字架を背負って』というのも、多分『授けられた信仰の度合いによって』と同様に、各人が信仰を何と心得るのかで軛も十字架も異なり、それは自由意思の範疇にあるのかもしれません。伝わり辛い思考・表現かもしれません。
 
『わたしの軛は軽い』・・キリストが、人々の罪を背負って十字架につくゆえに。キリストが与える荷は軽い、キリスト者への縛りは自由意志を妨げるものではない、というくらいの意味に受け取っています。おかげで、今、自由に考え、書いています。
『自分の十字架を背負って』・・十字架は、罪のしるし、しかし、罪なきキリストが負うたゆえに、逆説的に、信仰による解放のしるしとなっていることでしょうか。
『授けられた信仰の度合いによって』・・信仰者それぞれに、役割・使命は違うということでしょうか。生きて証しを立てるか、死んで証しを立てるかを含めて。
 
私は、聖書にはすべての答えがある、そう思って勉強していました。今も、まだそう思っています。何が何のために、そしてなぜ創造されたのか(自分も含めてです)。何がどうして善とされ悪なのか。どこからきて、何を全うしどこへ行くのか。神は分別を教えてくださると思っています。しかしそれを行うのは自分で、神は自由意思を最大限尊重されるお方です。でもだから、人間の私はいつも不完全です。
 
聖書と信仰生活上の体験とでしょうけれど、私は、何らかの楽しみをもって、祈りの暮らしを送れたらいいと思っています。
 
私たちが生涯理解することのない皆無・零から万物を創造された方の偉大さを、それを想像することですら成しえない無力さを、信仰の理由にしています。なくても生きていける人がたくさんいるのに、弱い私は考えずにいることなんてできない。これからもです。
 
キリスト者として共感いたします。拝。
 
>※記事についている写真と一言、個人的には楽しんでいます。
 
手持ちの画像が少ないので、色を変えたり、文字を入れたり、
・・似たような画像が多いと思います。失礼。
 
 
これも、記事にしたいと思います。
 
信仰は、人間としての、思慮においては分別、情においては共感であります。
 
 
共感3

共感
 
 
(2021年04月06日)
 
 
※ 上の記事とは別儀であります。
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
初期のHS本では
批判は、自分の至らぬところを教えてくれ、さらには自分の名を広めてくれる有り難いものだとか
自分は間違ってなくとも、相手が怒っているなら、自分の何かが相手を不快にさせたのだろうから、そこは謝るべきとしてたと思う。
この点、荒井氏はHSよりも心の教えに忠実ですね。
午前6:45 · 2021年4月5日·Twitter Web App
 
楽山は、至らぬところを指摘しても、返してくるのは、いちゃもんだけで、不感不応の無視であります。楽山は、自分の名を広めるためだけに書いてくるとしか思えません。書かないと自尊が保たれないので、衝動的か、反射的に、性分だから書くのかもしれません。
 
楽山は、アンチHSではありません。楽山という自己愛性人格障害者は、幸福の自分教の奴隷であり、言ったことの責任を負う気などありませんから気をつけてください。宗教の教えとか忠実ということから、最も遠い人です。楽山の言うことを真に受けないでください。
 
楽山の詭弁は、丁寧語に隠れて、直ぐには気づかない人が多いかもしれません。私も、数か月、楽山の嘘と詭弁に、だまされ、すかされ、ごまかされ、はぐらかされ、疲労しました。
 
よって、その場で短いことを書く感じのツイッターベースではなく、おもに、じっくり考えて書けるブログ記事ベースで批判を続けています。ツイッターにもコピーはしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4月4日
信者は減ってない、増えていると主張するとは、
大きく出ましたな。ははっ。絵文字(笑った顔)
 
楽山は、真実を分かち合うという姿勢がなく、ただ「ははっ」と笑うことで満足するようです。人が、いさかうのを、楽しんでいるようです。人が、自分に負けるのを、悦びとしているようです。誠意の欠片もないと思ったほうがよいです。
 
 
(2021年04月06日)
 
 
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 コメントへ返信 (一部修正してます)
 
 
コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
 
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
 
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
 
私も、確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかということを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
 
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
 
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
 
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
 
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。信仰について共感や感動に結びつくのは、聖書の言葉+人の言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
 
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
 
 
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。半世紀も経ってしまいました。
 
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、その後の福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
 
聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
 
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
 
2021-04-04-22:41
トダサトシ URL [ 返信 ]
 
 
信仰は心を大切にするところに生まれます

信仰は心を大切にするところに生まれます
 
 
(2021年04月05日)
 
 
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  細い道
 
 
信仰は、この巷では、細い管、細い道です。
聖書を読んでも読まなくても
キリストの共感に共感できる人は少ないのです。
 
信仰を信じ込むことだと思っている人は、一つの宗教を信じると、視野が狭くなると思っているのかもしれません。実際に、そうなる人もいるかもしれません。信仰を勘違いして、豪語したり、夢~妄想的なことばかり言う人がいるかもしれませんが、それは、宗教の間違った有り方です。
 
宗教と信仰は、人間の良心、あるいは、その潤いと温もり、すなわち、悲しみと共感に、人間の求める情感によって惹きつけ、働きかけるものなのです。
 
良心を持っていない人には、宗教が、ご利益の都合のよい超常現象か、念じて頷く自尊に見えるのでしょう。そういう人は、人格障害の病質者として、現に存在しています。
 
信仰は、信じ込むことではありません。共感することです。
 
それが忘れられないことになっても、心も思考も、人間らしさを失うことはなく、むしろ、人間としての真実追求に向かうでしょう。
 
一部の、言葉だけの絶対化に走る教条主義が、わざわざ人間の器を狭くしている、というカルト的な事情は、二千年前と、まるで変わっていないのです。
 
真の信仰は、信じ込むこととは全然違います。洗脳とは全然違います。
 
信仰に、そのような偏見を生み出したのは、一部の曲解している人たちです。それは、カルトの道であります。人が決めた道から外れると、とたんに、呪いのような言葉をかけてくるでしょう。
 
そして、そのような、呪いのような決めつけは、宗教を自認している人だけではありません。
 
反宗教にも、そのような、偏見を与える者たちがいます。彼らは、自分の傷当てに、宗教をけなします。では、彼らが宗教の代わりになる救いを与えられるかといえば、何も提示できはしないのです。
 
宗教をけなして、けなしっぱなしの者には、責任など負えません。まわりまわって、彼らが、ついには、けなされるのを、待っているだけの存在です。
 
反宗教の煽動者は、せいぜい、宗教は、信じ足りなくてもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などという、実に、いい加減で中途半端なことを言ってきます。何の助けにも救いにもなりません。
 
そういう、悩み苦しむ人に何の助けにもならないようなことを言って自慢してくる者がいます。その中に、自己愛性人格障害者・病的ナルシスト・サイコパスも含まれていることを知ってください。彼らは自慰か自慢をしているだけなのです。
 
真の宗教は、悩みがないという自覚の人に信仰を勧めたりはしません。不安を煽ったりもしません。宗教と信仰を知るのは、何らかの悩み苦しみが生まれた時からでいいと思っています。何故なら、悩みのない人に、悩みから救われる道を伝えるのは、矛盾だからです。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
ポエムのようなものです・・2つ再録・・
 
 
  細い管
 
 
まことに そこはかとなく
細い管の先で 出会うもの
泣いたり笑ったりの
デリケートなところを
もらっている
または
覗いている
 
求める主体も
求める対象も
人間
または
温もり
 
それを追うためだけに
彷徨う
または
遊ぶ
 
響き合うメロディやリズム
ふらちな首や手足が
貧乏ゆすりのように
合わせようとして
外れる
または
踊る
 
喜 怒 哀 楽
 歌 音 楽 快 不快 悲
顔を向け 背け 振る
受け取って
我流に
流す
または
楽しむ
 
自己中の自己満の自覚から
流してしまいたい欲求に
答えてくれよと
欲望
または
共感
 
導かれてリンク先
ヘビメタ 重金属
顔が分からぬ
メロディが分からぬ
歌詞が分からぬ
ノイズ
または
サウンド
 
 ダンシン、ダンシン、20代
 ディスコなんか行ったことないのに
 飲み会、二次会、空いたスペースで
 酔っぱらって踊っているタコのオレ
 向かいの女の子が
 きれいな笑顔で近づいてきて
 怖じけて引いた
 今も後悔
 または
 今も思い出
 
まぶしいライトの
デコレーション
ミュージック
点滅
または
煌めき
 
数分が重なって
一時間二時間
過ぎる
または
過ごす
 
まことに 
そこはかとなく
費やす時間の
傷当て
または
娯楽
 
 
(2020年03月04日)
 
彷徨う(さまよう)
煌めき(きらめき)
怖じける(おじける、怖ける)
 
 
   憂い
 
 
若者は虫歯が痛くなり
老人は歯が無くなる
 
若者は食べ物の味を気にするが
老人は食べ物の硬さを気にする
 
若者は肌の色と荒れを気にするが
老人は肌があれば気にしない
 
若者は前に足を伸ばして進むが
老人は前に倒れるのを
足をつっかい棒にして進んだことになる
 
若者はソファーの上に跳ぶことが出来るが
老人はソファーの上にいつも落下している
 
若者は慌ててトイレに駆け込むが
老人は慌ててトイレの前で濡れる
 
若者は疲れて眠るために
老人は眠るだけなのか知らないまま
目を閉じる
 
 
(2016年06月27日)
 
憂い(うれい)
慌てる(あわてる)
 
(2019年09月20日、一部修正再録)
 
(2020年03月15日、再録+) 
 
 
細い道

細い道
 
 
※ 
 
 14日見たTVタクル
 
オリンピックについて、
やるかやらないかではなく、やることは決まっている。
中止するかどうか・・云々・・
 」
 
やらないが中止なのだから、やるかやらないかだろう。詭弁くさい。
 
 
(2021年03月15日、再録+)
 
 
  楽山のリツイートですが
 
楽山は、また、他者の発言を借りて、言い逃れをしてきます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
山本芳久
@201yos1
「ヨブ記」の講座の準備の為に内村鑑三『ヨブ記講演』(岩波文庫)を読んでいるが、めちゃくちゃ面白い。ヨブの苦しみに肉薄していく内村自身が人生の中で味わった様々な苦難が、迫力のある文体を呼ぶ寄せ、稀有な作品となっている。人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。
>>>引用ツイート
山本芳久
@201yos1
 · 2月28日
【4月期オンライン講座のお知らせ】
新設講座「旧約聖書入門:「ヨブ記」を読む」を開講します。この世界に生きる誰もが避けて通ることのできない「悪」や「苦しみ」にはどのような意味があるのか。この根本問題に正面から取り組んだ「ヨブ記」を冒頭から丁寧に読解します。
>>>
午後1:01 · 2021年3月14日·Twitter Web App
>>
 
「人間をよく知る者こそ、神をよく知るのだ。」・・そうです。私の主張でもあります。この発言において、引用元は、正当だと思います。楽山は、人間を、考えることすら出来ません。だから、超常のことばかりで宗教を語ります。
 
神を努めて知る、ということは、人間を努めて知ることと同値であります。人について考えることなくして、神を知ることはありません。神を知ることは、聖書を読んで考えること、そこから、人間について考えることと同値であります。
 
神を知ることは、決して、人間を超えて、神聖や心霊になることではありません。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
人は、この地上で生きる限り、神聖にはなれません。人は、人と世界を見て、神聖にあこがれ、希望を託す身であります。ここを間違えている例が、楽山その人であります。
 
楽山は、人間を知りません。その表れが、無反省・無責任・無理解・無神経となって表れています。人間を知らないから、楽山は、そのままでいられるのです。そして、性懲りもなく、また、人の口を借りて、言い逃れをしてきます。
 
楽山は、神聖も分かるんだ!・・と、妄想を叫んでいるようなものです。リツイートにしても、本からの引用にしても、利用~悪用されたほうは、たまったものじゃないですね。
 
楽山は、神を知りません。楽山は、屁理屈で、神?を、オモチャのように、もてあそんでいるつもりのようです。実際には、そのたびに、楽山が、救いからも聖書からも、はてしなく遠いことが表れてきただけなのです。
 
楽山には、真面目さ、真摯さが、どこにもありません。この2年間で、楽山が表したのは、そのような偽善と作為と悪意と訂正不能の自尊過大の凝固性でした。丁寧語に、だまされないでください。
 
 
(2021年03月15日)
 
 
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  分からないと言える勇気2
 
 
B:私

キリストの教えについて、分かることと分からないことがあります。
ずっと分からなかったが、あるとき分かったということもあります。
キリストの教えを理解することは、信仰の成長に伴います。
分からなければと、思い込もうとしたり、決めつけたりしないでください。
 
Q:「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
  (マタイ5:27より、口語訳)
  「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
  (同、新共同訳)
  
A:情欲をいだいてはいけない。
 
B:情欲をいだかなければ人類は滅亡する。
 
A:子供を造るためにだけ許される。
 
B:さあ子作りを始るぞ・・だけでセックスする男女はいない。
   いたとすれば、偽善者の嘘か、気色悪いかだ。
 
A:「他人の妻」ということなら、守れるだろう。
 
B:情欲は、湧いてくるものであって、湧かないようにすることは出来ない。
 
A:だから、できるだけ心掛けようということ。
 
B:そんな教えなら、ありきたりの道徳と同じ安っぽさだ。
 
A:無意味だというのか。キリストの教えを。
 
B:守れという教えではないということだ。
 
A:教えは守るためにあるんじゃないのか。
 
B:この教えは、守れない私たちのためにあると思う。そして、できるだけ・・みたいな甘いものではない。信仰の根幹にかかわることだ。
 
B:恐らく、神のように完全になるには?と問う者が多かったゆえに、キリストは、守れないことを承知の上で、完全になるため?の教えを説いた。これは、到底守れないことの例示である。つまり、完全になることが信仰ではないという教えだ。
 
B:ゆえに、信仰は、守れない不完全な人間である罪人が救われるための信仰である。したがって、この教えは、結局、罪なき人は一人もいない、信仰者も罪人でなくなるわけではない、ゆえに、祈って、赦しを乞いなさい、という教えである。他に解釈のしようがない。
 
 
偽善者は、守れと言って、守っていない自分を隠して偽ります。
 
こまごまと、ああせよ、こうせよ、こうするな、などを考えるのは、行為義認に走りやすく、また、傲慢な偽善者の自慢話のネタになるだけでしょう。
 
神の前に、不完全で罪深い自分を正直に告白することが、信仰です。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 
聖書には、分かりにくいところが、いっぱいあります。そのような場合に、気安く分かったと言わないでください。聖書は、人間存在のあり方について、奥が深いのです。
 
信仰は、誰でも理解できるように、上の解釈が可能なように、すぐれてシンプルでもありますが、たとえ、分かったつもりでも、もっと深い話~解釈によって、信仰を新しくすることが必要な場合があります。自分の理解を固定しないことが大切です。
 
なんとなく言葉の辻褄が合った気がして、そうですね・・と言うのと、分かる、すなわち、理解する、ということは別です。分かったと思ったときに解放感を伴うのが理解です。伴わないのは実感のない辻褄合わせに過ぎません。
 
全能の神と、不完全な人の、決定的な違いを弁えることが信仰です。キリストは、それを伝えて、人々を救う使命をもって来られました。その上で、愛と共感を示されたのです。
 
信仰が、守れという教えならば、教条主義となり、欺瞞によって、守っていると言って、守っていない自分を隠して、パリサイ人のようになるでしょう。そういう偽善者は、現にいます。
 
人が守れないことを承知の上で、人が完全でないことを承知の上で、そのような人々を救いに与(あずか)らせる福音を宣べ伝えるために、キリストは来られたのです。
 
中途半端に納得して頷いて、分かったことにしないでください。知識の優れた人も、いちばん大事なことを分かっていないかもしれません。信仰は、知識自慢ではありません。
 
私たちは、神の、計画も、意志も、教えも、行ないも、心も、分かるから信じるのではありません。分からないほど不完全であるゆえに、神の憐れみによってのみ救われるのです。
 
ですから、肯定でもなく、否定でもなく、分からないことは、分からない箱に入れて、保留にしてください。分からないことを分かったことにしないでください。また、分かっても、それに従って行動するときに、神の意志として絶対化しないでください。
 
分かっても、分からなくても、よりよい理解を求めるために、再考と反省の余地を残すこと、これは、人間そして信仰者が、学習し成長するための務めとして、とても大事なことです。
 
信仰において、いちばん大事なことは、分かることではなく、分からないことを分からないと言える勇気なのです。それゆえに、キリストの荷は軽い、つまり、キリストは、人の荷を軽くする、人を解放する、ということになるのでしょう。
 
 
わからないのにわかったなんて言わない

分からないのに分かったなんて言わない
 
 
(2020年03月03日、同日一部修正)
(2021年03月04日、再録+、同日一部修正)
 
 
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  無神論と有神論2
   過去記事の再録+加筆修正
 
 
神は、道理を通すが、概念ではない。
ゆえに、人の理屈によって語れる御方ではない。
神は、希望であるが、人は、神によるものを区別できず確定できない。
 
語れるのは
人の側における現象からの推測の域を出ない。
 
私たちは、憧れの救い主を想うことによって救われている。
そこは、概念よりも理屈よりも、共感が捉えて放さない関係性である。
 
(ネットより)
有神論(ゆうしんろん、theism)は、「神は存在する」という主張のこと。 名付け親は『橋本和哉』である。 対義語は無神論。 多くの宗教は、その教義の中に有神論を含んでおり、その宗教が信仰する神が唯一なのか複数なのかによって一神教、多神教などに分けられる。
 
 
神は、人による存在証明も不在証明も明確に拒否する立場におられ、人の、いかなる知恵も視野も、神の領域に届くことはなく、神を対象にすることは出来ない。
 
神の、全知全能・絶対完全・永遠不変は、人の理解を超えており、人の視野に決して納まることはない。旧約は、神と人の決定的な違いを伝えており、新約は、ならばどうすれば救われるかを、キリストを通して、改めて告げている。
 
無神論は成り立たない理屈であり、また、有神論が理屈なら有神論は成り立たない。
在って在る者である神を、人の論理や学問で語ることは出来ない。
経験上、人が、神を否定できなくなるのが、信仰である。
 
 
無神論が成り立たないのは人間の理屈だからである。
無神論の状況証拠は、人のわざを根拠としているだけである。
 
有神論が成り立たないのは有神を前提として
神を概念の理屈にしているからである。
有神の状況証拠は、信仰を暗示するのみである。
 
以上より、人間にとって、神の存在は、理屈にはなりえない。
神を、演繹の論理によって論じることは出来ない。
 
人は、神よりも人が不完全であることを知っているだけである。
 
人にとって、神は、いかなる概念にもなりえない。
 
人があてがう神の概念は、神ではなく、藁人形のようなものである。
 
 
無神論は、嫌悪感によって、理路の領分を逸脱する。
有神論は、贔屓の引き倒しによって、理路を領分を逸脱する。
どちらも頑固であるところが共通している。
 
だから、科学と論理に見せかけたカルトになると
そこが、ただの頑固に留まらず
結局、感情的になり先鋭化して危険になるのだろう。
 
神の存在を強く絶対否定して問い詰めてあざ笑う者と
神の存在を強く絶対肯定して笑って侮辱してくる者は
なぜか、似てくる。
 
 
客観的事実と言われるものから
無神論は証明できない。
 
客観的事実と言われるものから
有神論は証明できない。
 
神を、論理によって論じることは出来ない。
 
地上の事実は
神を暗示することはあっても
神の存在も風情も証明することは不可能である。
 
証明できなくても信仰は可能だからである。
 
ゆえに、神に対しては、信仰が可能であり
人の、いかなる知恵によっても、証明は不可能である。
人は人の身の程を知るべきである。
 
信仰は信仰対象を証明する必要はない。
 
信仰は信仰対象すなわち神の
地上における影響を人を通して表すのが務めと努めである。
 
 
人は、神の意志を表すことがあるだろう。
ここに既に信仰が機能しているが
それは神のわざを含むので確定することはない。
 
信仰対象である完全の神によってもたらされる救いの
人における不完全の必然ゆえの人の弁えを考えない信仰はあり得ない。
 
したがって
人の自尊を肯定し続けるだけの信仰はあり得ない。
うち続く自尊は、いずれ、神と人に対する高慢~傲慢に通じてゆく。
 
ゆえに、不完全な信仰者にとって
不変の自尊が信仰によって肯定されるものではない。
 
信仰による人の自尊の担保は
神と人の区別を弁えない無節操である。
 
したがって自尊を肯定し続けるだけの信仰は
無理な思い込みを前提としてしまう。
思いこみ信じ込むことは意志が無理をすることであり
心は無理をすると次第に壊れてゆく。
 
信仰は一途であってよいが
信仰は盲目であってはいけない。
 
信仰は人の目を開くものだからである。
 
一途は心を支える感動が動機であるが
盲目は目と心を閉ざすことである。
 
 
感動は永続しない。
人間は感動の影響を残せるが
同じ感動を保つことはできない。
 
あるとき感動しても
次のときには感動したという記憶になっている。
 
人間は、ほぼ恒常的だが
神と同じ不変になることはない。
 
人間は、振り向くたびに時空の
違う風景が見えているから思慮と情感と意志が成長するのであって
目と心を閉ざすところに新しい世界はない。
 
閉ざされた目と心は
いつも同じ良いものがあると思い込み慢心して石になるだけだ。
 
人は、良きものを手に入れると、
それを永続するものと思い込みがちだが
神の与える平安は、変化しない世界のものではない。
 
不変は目覚めも期待できないから
不完全な存在である人には不向きである。
 
不完全だから人は変わり得るものとして成長するしかない。
 
 
神は
危機に際して慰めと励ましを与えるが、
常時快適な揺り籠を与えない。
 
神は
人の超人願望や完全欲に答えることはない。
そこには、どこまでも、沈黙の神がおられるだろう。
 
信仰は、
人間が成長するための必然的遭遇に際して
思い込みを豪語する狂気に陥らないために与えられており
 
神は、信仰を通して
思いわずらいに支配されることのないために
無神の絶対孤独につぶされることのないために
癒しと赦しと導きを与えるのである。
 
 
楽山やシャロームのような、神を偽り、神に偽る者は、
人に対しても偽りをもって、あざむき、だまし、
日々滅びを積み、滅びを礼賛している者たちである。
 
 
私たち信仰者は、
ただ、神という、正直に告白し乞い願う相手を、知っている人である。
人の不完全な善悪や正邪と、その判断は、信仰の救いを左右しない。
 
神に対しては、正直さ以外、何も通用しない。
 
 
神

 
 
(2020年02月04日)
(2021年02月10日)
 
 
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