ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:不完全

 
  信仰の情熱3
 
 を再録+
 
 
既に前に、信仰は、言葉で表された教理や信条を思い込み信じ込むことではない、と書きました。では何なのだろうと考えます。
 
人間が、変わるのは、心が動くからです。便利だなあ、とか、なるほどなあ、では、人間は変わりません。心がふるえていないからです。なんとなく辻褄があったような気がしているだけで、感動がないからです。 
感動をもたらす信仰の体験とは何でしょう。一部の人々は、聖霊体験とか神の臨在とかを明言しています。超常の聖霊を明言できるというのはどういう人でしょう。超常が分かる人ではありません。超常が分かったつもりの人です。それは信仰ではありません。
 
人の欲望の中には恐ろしいほどの超人願望があります。他者より神聖になった、あるいは、神聖に近い自分でありたいのです。そういう人は、自分が超人になったことを担保したいのです。その方向で宗教を考える人には、日常体験を疎かにする傾向があります。
 
宗教を超常として教える向きには注意してください。そこにあるのは超常ではなく、他者より上に立ちたがる欲望なのです。だから、どこか、非信仰者をかわいそうな人と思っています。自分は、出来ている、という自覚からです。
 
本当の信仰の体験は、人間の良心に響く深みをもって与えられます。そうでないと人間は動かないからです。それは欲望の成就ではなく、真実の人間の正直な姿に立ち返ることです。非人間性に囚われている心が、人間性に目覚めることを魂の奇跡と呼んでいます。
 
人間には、良い心である良心と、悪い心である悪意とがあります。それらは常にありますが、場合によって、どちらかが優位に立つことになります。それが、それぞれ善行と悪行に結び付きます。悪意は、さらに、偽善に結び付きます。
 
この世が偶然に支配され、自分についてもどうなるか分からないと思えば、もはや、何を楽しめばよいのだろうということになります。この世は偶然に支配されているように見えるけれど、その背後に大きな愛と善と平安の摂理が働いているならば、この世を生きることの意味が変わってきます。
 
日常を、駆け引きや、勝ち負けや、好き嫌いで過ごす自覚だけになることは、生き甲斐や生きる理由さえ奪うほどの虚無の恐怖に成りえます。そんなことのために人間は生まれてきているでしょうか。そうじゃない、そうじゃない、という叫びが、いつも、心の中で、響いているのではないでしょうか。
 
勝ちを求めて、人と争い、人に頼ることは、誤りというより儚いのです。自らを見てください。争う自分など、そんなに立派に頼られる人間ではありません。その自覚と共感こそが、人間の側に起こるところの、宗教、そして、信仰の始まりなのです。
 
人間は関係の中で生きています。他者を無視しては生きられません。他者を無視すれば、やがて自分が無視されます。ひどくなれば人間扱いされなくなることだってあるでしょう。どのような関係が、人生を預けてもよいほどに人間を支えるのでしょう。それは人間でも人間離れでもありません。
 
人間を不完全なまま支えてくださる御方を、私個人は慕っております。その御方は自らの完全の道ではなく、不完全な者に下される致命的な罪の報いの犠牲となって歩まれました。その御方の教えは、そのたぐいまれなる洞察と共感と慈愛とともに今に伝わっています。
 
その御方は、その生涯における目的の主旨として、こうしたら救われるという行為の条件を、条文のようには言いませんでした。取り引きを、人とも、悪魔とも、しませんでした。代わりに寛容な愛をもって、多くの人が忘れられないご自身の姿を表したのです。ゆえに、新約と呼ばれます。
 
 
多くの信仰者と、多くの偽善者が、この神という御方の名を呼びます。
 
信仰者は
自らの低さを自覚します。
 
偽善者は
自らを高めるために豪語します。世の中は偽ものだらけです。
 
どうか独り言のように静かに正直に、でもどうか本心で祈ってください。そのような祈りを、誰よりも聞かれる御方がいます。
 
 
信仰の情熱

信仰の情熱
 
 
(2020年01月31日)
(2021年02月03日、加筆して再録)
(2022年02月05日、再録+)
 
 
 
※追加記事、同日一部修正 :
 
 
  楽山の別ブログ
 
 大川家長女は、卒論で盗用していたのか!?(3)〈KENTO氏の主張〉
 2021年02月02日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 抜粋して批判。
 
 
楽山の、無反省・無責任・無理解からの、無能力と、それをごまかす詭弁が表れています。楽山は、どうしても、見栄だけは張りたい、自分は一人前なんだ、という子供だましの子供なのです。
 
 
次のブログ記事では、咲也加氏の書籍と、盗用されたとされる側の論文との比較検証が保存されているので一読をおすすめしたい。
・【2ch】咲也加の卒論を検証してみた(8/4 修正、追加) - 幸福の科学元二世信者ルジェのブログ
 
このリンク付けた記事は一読できるようなものではなく、実に、詳細な批判になっています。楽山は、なぜ、書かないのでしょうか。・・書けないからです。理路も説得力もなく、通念的な言葉を並べて、しかも、自己愛・自己中のために、破たんするような楽山には、整った批判の文章など、書けないのです。
 
だから、人の文章をあげても、詳しく書くことができず、もっともらしい短文で済ませるしかないのです。ゆえに、この記事も、引用ばかりが多くて長い記事になっています。
 
楽山が自分で書けば、私に対する返しのように、一方的で、嘘と詭弁と被害妄想だけになります。書く能力がないのに、一人前を気取ろうとするから、こういう記事になってゆきます。
 
いっぱい貼り付けて、人の文章をリンクして、「一読をおすすめしたい」と書くしかない楽山です。ご機嫌取りの見え透いた褒め言葉で、自らの不全を表してしまいます。
 
 
この件については、私も、関係書籍、論文を直に調べたわけではないので断定的なことは言うつもりはないのだが、それでも意見を言う際には、ネット上に散らばってる資料くらいは、ざっと確認するくらいはする。
 
楽山は、暫定的にも断定できないのです。そのような理路を持っていないからです。賛同を書き、批判を書き、どちらも成立せず、それで、責任を取れない、でも、見栄は張りたい、それが、楽山です。
 
楽山は、いつも「ざっと」見て、放言して、終わりです。「ざっと」で「確認」とかできるわけがありません。楽山は、しっかりしたものを何も持っておらず、無反省・無責任なのに、評論家気取りなので、「さっと確認」という、いい加減な言葉で済ますしかないのです。
 
 
KENTO氏もせめてそのくらいはしてから意見を言ってほしいものだと思う。そうしたら単純な事実誤認はもっと減らせるし、その意見にももっと深みが生じ、説得力が出てくるはずである。この点、お願いしたい。
 
言ってることに何の深みもなく、説得力が皆無の楽山が執拗に気取って語ろうとしますが、楽山には、言葉で気取るしかありません。だから、評論家口調になるのでしょう。誰かに何かを要求する資格はないと思います。実に曖昧な言い方で、これが、楽山の、いい子ぶりっ子なのです。
 
楽山に関わり、楽山を、誠実だ、まともだ、と思うことは、詐欺師にだまされるのと同じです。むしろ、詐欺師を助けることになるとも言えるのです。それが、楽山の丁寧語の狙いだからです。どうか、楽山に、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違ったこと、失敗したこと、過ちを犯したことを、認めたことがありません。代わりに、実感のこもっていない、反省、とほほ、共感、といった言葉で済ましてきました。最初は、反省してるんだと受け取っても、前後をよく見れば、全然変わっておらず、嘘の芝居だと分かるのです。
 
 
 
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  信仰と確信2
 
 
信仰と確信は対立軸だと思います。信仰の反面教師が確信なのでしょう。
 
信仰は仰ぎ、確信は見下ろす。
 
信仰は、神と人の関係そして契約。
確信は、人の思い込み。
 
確信は、信条や信念と似るが、人が神の意思と行為についての疑問と不都合から目を逸らして無視し、自己においても他者に対しても、それらを排除してゆく。確信は詰まるところ自分信仰なのだ。
 
信仰に信条はない。
信仰に、固定して訂正不要となるような確信はない。
信仰は疑問を排除しない。
 
人は不完全である。
人の言葉も不完全である。
人の思考も不完全である。
 
目を見張ることはあるし、瞬きはするが、わざと目をつぶったりはしない。
信仰は信じるところを知らない。確信は信じることの罪を知らない。
 
信仰は信仰者にとって不可避であり、よってきたるところを知ることが出来ない。
確信は人の業であるのに、由来を聖書と神に帰して、人ならぬ者になりたがる。
 
信仰は文章化しにくく、経験の情緒と思考によっても、伝わるとは限らない。
確信は文章化しやすく、明文化することによって、宣伝・伝染されることをむしろ目的とする。
 
信仰は信仰の罪深さを自覚し、しばしば痛感するが、
確信は確信の罪深さを、自覚しないから確信となるのである。
 
信仰だけでなく確信も、誤って「信仰」と呼ばれることがある。
 
信仰は「信仰」と呼ぶことに不全感と恥ずかしさを伴うが、確信は確信であるから堂々と「信仰」と名乗るだけでなく、信仰に対しては「ふっ、何を言っとる」と小馬鹿にしながら、ときには敬虔を装って慇懃無礼な態度で押さえ付けてさえ来るだろう。
 
信仰は心を揺さぶり、安定を許さないだろう。
揺るがない信仰とは、忍耐力のある信仰のことであり、訂正不能ではない。
 
確信は安定を求め、不動を誇ることになる。
 
信仰は恐らく確信を否定することによって、ようやくその一部を暗示のように表現するだろう。
 
なお信仰と確信は罪深さによって同居していることもあり得る。心の内部にも対立軸があるということだ。確信は常に信仰を覆い隠して表され、人前で明らかと見られることを好む。
 
信仰は常に、確信を打ち砕かれるところに、ひっそりと生まれるだろう。
 
 
信仰と確信

信仰と確信
 
 
(2013年02月26日、同日一部修正)
(2021年12月16日、再録+)
 
 
 
  ただ

無料=ロハ=只の ただ
無駄・普通=徒の ただ
唯一の ただ
あるいは責任逃れの但し書き
利用条件
保証内容
そんな自信も確信もないことだから
つい付け加えてしまう ただ
守ろうとして
捨て去っていることに
まるで気付かない
ただ は ただ
まだ気付かないでいるものがあることを
告げながら 教えてはくれない
 
 
  実存的にたとえると
 
千人殺した者を
英雄と呼ぶのは
百人殺した者たちである
百人殺せない者は
落ちこぼれたり
いじめられたりして
そのまま消えていくか
せいぜい数人を殺して
刑務所に入ったつもりで
おびえている
 
一人も殺してない?
いや確かに百人殺した
何故なら「まだこれからだ」
「負けるものか」と思っている
 
そのようにして勝ち負けがあり
勝負があり
戦いの結果があり
生死があり
次から次へ死が見過ごされ
数え切れない死の種がまかれ
数え切れない生が摘み取られ
英雄がいて
凡人がいて
凡人にもなれない人がいる
これを健全な社会という
 
ところで
かつて百人殺した私だが
今から何人殺せるだろう
心細い
何故なら「もうよかろう」
「負けた」と思っている
 
(※ 何人殺した・・は、競争社会の比喩です。殺されてもいる?。)
 
 
  昼夜逆転
 
部屋の明かりを消して暫(しばら)くすると
夜から差し込む微(かす)かな光と
待機電源の光と網膜の暗順応のために
天井や窓の輪郭がうっすらと目に映る
 
見るべきものは何処にある
目を開けたり閉じたりを繰り返し
やっぱり眠れないと
明かりをつけて一服すれば
もうすでに2時間ほど経っている
 
また明かりを消して横になる
また朝までの同じ繰り返しのうちに
想うことといったら
昼間ずっと起きていられるのは
月曜日だけという睡眠リズムが
ここ2週ほど続いていることや
次第に目立ってきた顔の紅斑のこと
醜い顔だ皮膚の老化かアレルギーか
もしや紅斑性狼瘡(エリテマトーデス)
ではあるまいか・・・取り留めもなく
 
もっと見つめるべきもの
どこへいった どこへやった
衰えた羽(はね)をゆっくり揺らしながら
死は招かずとも来るものと
穏やかに止まっていたはずなのに
いったい何処を飛びたがっている
今さら病気を気にするなんて
と心のうちに苦笑する
 
毛虫も未だ見ない
寒い日が続いている
独り男が独り笑みする
蛾(が)のような夜である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
「人それぞれ」「自分を貫く」・・これらが容認されるのは、自立した自我を持ち、責任ある大人の場合です。楽山は、責任を負わず、反省もしないのに、この2つを自己正当化に悪用してきました。自己愛性人格障害は、徹底して他者を無視するので、責任という概念がないのかもしれません。
 
同じようなこととして、「意見を言ってはいけないのですか」・・これも、同様です。真実の追求などの大きなテーマにおいて、楽山のような、言ったら言いっぱなしで、後は、何を言われても無視するような者に、意見を言う資格はないのです。
 
 
 
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  原初から3
 
 2012年02月24日の記事
 「原初から」を修正再録
 
 
原初の信仰が生まれるとき、それは復活の類似体験であると言えば、かなり語弊があるかもしれません。復活=死人が蘇る・・という先入観があるからです。キリストの復活と違って、ここで信仰における復活というのは、それまでとは違った生の体験として、人を解放するということです。
 
原初体験は、自由意思による神のみへの服従の決意へと導きます。つまり、神への服従が、人の世の様々な執着からの解放だということです。勘違いしてほしくないのは、人の世を無視するということではないということです。無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても、それに耐えて生きるための信仰であります。つまり神への服従というのは、襲い来る不幸に、いつまでも泣いて過ごすか、信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと、そうとも言えない神秘の部分があります。不思議な御縁ということです。原初体験は出会いであり、縁付くことであり、絆されることであり、これらは、ある種の受身の直感~直観であり、芸術の享受にも似るが、恋愛や結婚にも似ています。
 
具体的に言うと、イエス・キリストを好きになることです。むしろ、キリストの共感と同伴という恵みを享受しながら、そこから何を目指すことになるか、という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか、自分の確信で自分を縛り付けてゆくか、自己陶酔に陥るか、・・これらは目に美しく耳に心地よい偶像に、人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであります。そういう人間の作為は、原初の面影すらないところへ誘導することになります。
 
信仰は、自由と服従のバランスではなく、思いわずらいからの自由と、人間らしさへの一途な希求であります。ゆえに信仰においては、自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく、よって常に信仰はその原初から、自他による思いこみや固定観念を、拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は、個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために、全信仰者について、一つの言葉で確定できるものではないと思います。ゆえに、人それぞれということが、個人の生きる方向性については個別であります。信仰は、神の個人の関係ということになります。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰と言ってもよいものですから、祈りだけは必須ということになるでしょう。そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは、嘘と飾りは通用せず、ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
 
完全な信仰などあり得ません。
 
信仰とは
人間の不完全ゆえの罪深さを
正直に祈ることで
神によって赦されて信仰の義とされることです。
 
 
完全と不完全

完全と不完全
 
 
(2012年02月)
(2020年10月29日、修正再録)
(2021年11月01日、再録+)
 
 
 
  それというほどのもの
 
それは花というほどには咲かず
穀類というほどには収穫されない
それは動物のように子孫を残すこともなく
もちろん神の完全無欠を持つわけでもない
 
それは個でありながら全体であり
いつも涙も汗も見られるわけではない
 
それは以上すべてを慕いながら
近づくために炎を凍らせるほどの
激しい孤独を要求することがある
 
しかして砂利の礎(いしずえ)に
泥の柱を立て
引き潮の砂浜を床に敷いて
水溶性の屋根をかぶせ
照明のない夜を
遥か彼方で過ごしている
 
以上すべてを照らす光と引替えに
 
 
  夢の花
 
好きな花は
ヒヤシンス
というより
好きな花の名は
風信子(ヒヤシンス)
風(かぜ)信子(のぶこ)さんではない
好きな名は
むしろ「ふうしんし」「ふうしんす」
と呼びたいくらい
 
風媒花でもないのに
風信子
子供でもないのに
風信子
 
ヒヤシンスに当てられた漢字
それは叶(かな)わぬ夢
風の子になって
風の便りを伝えたい
風に乗って
信じられる通信の
飾らない素子になりたい
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること。
単純にそういう意味として考えてみる。
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
悟り、目覚め、なども似たような意味かもしれない。
 
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
 
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい。
人の知恵にすぐれていればできることだろう。
不全なる人に完全を教えても無駄だろう。
不全なる人が完全を教えられても理解できないだろう。
 
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう。
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
 
何故にこのようなことを私は言うのか。
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲があることを知るからであります。
 
 
信仰の原初において、多くの信仰者は、体験と聖書から、人間の潤いと温もり、即ち、悲しみと癒し、孤独と解放、という体験を持っています。癒される体験を持っています。このような体験は、人間の心を持っていれば、誰に起こっても不思議はないのです。
 
 
 
 祈り
 
悟らず、気づかない私をお赦し下さい。私の罪をお赦し下さい。私が間違いと罪に気づけますようにお導き下さい。生きる糧をお与え下さい。今日、生きていることに感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
母をどうかお守りください。兄をどうかお守りください。父と叔母(伯母)さんたちが御国で安らかでありますように。私が愛すべき人々とと、私が勝手に思っている人々を、どうか守り導いてください。この祈り、主イエスキリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる場所を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。ふつう、それを、"身の程を弁える"、と言います。
 
 
 
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  考える信仰2
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょうか。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、経験を考え、成長する道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること そして共感すること

考えること、そして、共感すること
 
 
(2020年08月11日)
(2021年10月24日、再録+)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか 
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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 「確信」2
 2018年04月30日
  かなり前に書いた記事、一部加筆修正。
 
 
確信をもって、ということが信仰でも言われます。
しかし私は、以前から、
神の意志について、どうして人が確信を持てるんだ、
と言ってきました。
 
神の意志について人が確信を持ったら
それは訂正不能になってしまう、という危惧であります。
 
人は神に比べて不完全なのだから、
人には訂正不能にしてよいものは何もない。
 
ましてや
神事を人が訂正不能にする?とんでもないと思うわけです。
そんな能力は人にはないから、
神のみを絶対と仰ぐなら、
訂正不能は信仰の敵だとさえ思うわけです。
 
言葉で言うなら、私は現時点の判断を語っています。
修正可能の一点をもって確信ではない
ということですが、
何らかの行為に結び付くときには、
今は他にないという一点をもって確信に近くなる、
という微妙さもあります。
 
つまり確信を持つことは
訂正不能にすることではない
と言いたいわけです。
 
このことを言うのは
広く一般に、人が
確信を持てと言われると
訂正してはいけない
と思い込む傾向があるからです。
 
ここで申し上げます。
確信を持て
と言われたとき
信仰者が考えるべき確信は、
信じ込み思い込むことではなく
何よりも
今これしかないだろうという確認です。
 
何かの決断のとき
このことを弁えておけば
結果の導きと
反省の祈りにおいて
私たちは
先へ進むことも
本来の道へ返ることも出来るでしょう。
 
訂正不能は反省不能に結び付き
神を心の偶像に固定することです。
 
修正可能は
いつでも神からの新たな導きに反応できるように
人間の側が弁えるべき節操であります。
 
弁える(わきまえる)
 
 
※ 
 
ここで、誤解しやすい一つの聖句をあげておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
16:10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 
16:11
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
 (ルカ16:10-13、新約聖書)
 
10節は分かるけれど、11節の、不正の富に忠実ということが、分かりにくいところです。結局、13節の、二人の主人、即ち、神と富とに両方仕えることは出来ない、神に仕えよ、神を主とせよ、という教えに帰結するわけです。
 
神に忠実ということが、この世の富という観点から見れば、しきたりや馴れ合いなどに従わないことで不忠実や不正に見えることがあるから、そういうことに惑わされることなく、神に忠実であることを勧めています。
 
そのためにも、信仰者は、反省し学習できる人でなければいけません。人間は不完全ゆえに罪深いからです。楽山、シャロームshalom、易坊という3人は、忌むべき訂正不能のナルシストです。同一人物の成りすまし、即ち、今の、楽山ではないかと疑っています。
 
つまり、それは、詭弁屋のペテン師の反キリストである楽山のように、表面的な理解で教えてきて、その実は、利己のために、だまそうとする者がいるけれども、そういう者の甘い言葉に惑わされてはいけないという意味に受け取ります。
 
※ 
 
訂正不能と言えば、10年批判した偽牧師シャロームや、荒らしの易坊や、3年批判しているペテン師の楽山に、常態として見られることです。有頂天の慢心が著しく、何を言っても無駄、話にならない人、こちらの言うことを聞いていない、という人物になってしまっています。
 
また、"信仰に確信を得た" などという奇妙な言い方を聞くこともあります。これは、他に道はないという確認や決断としてはあり得ます。信仰は、神との関係です。しかし、確信は、人間がすることですから訂正不能にしてはいけないことです。
 
このように、地上を生きる上において、訂正・修正が可能ということは、必須だと思います。今は、これしかないと、決断して実行しても、反省して、考え、修正も出来るようにしておく心の余裕が必要だと思います。誰も、神には、なれないのです。それを知ることが信仰です。
 
 
訂正不能の罪業・確信の罠

訂正不能の罪業・確信の罠
 
 
(2018年04月30日)
(2021年10月16日、加筆して再投稿)
 
 
 
 楽山の悪だくみツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
あなたはこれらの神々を信じますか?あなたが、人々がかつて信じてきた神々のうち、どれに関して「無神論者」なのかのチェックです。ぜひ信仰者の方々に試してあげてください。
午後9:52 · 2021年10月12日 (画像省略)
 
神なんて、こんなにいっぱいいるんだよ、いい加減だね・・とでも言っているようなリストが載っています。でも、画像が不鮮明で、良く見えません。いっぱいいるから当てにならないよ・・とでも言いたいのでしょうか。いかにも、楽山が好みそうな乱暴な話です。
 
楽山は、神を知りません。知性と理路において知りません。感性と情緒において知りません。考えることも、感じることも、できません。楽山は、いつも、超常のお伽噺か作り話で、神?を語ったつもりになります。楽山は、感動などの深い情緒を持っていないのです。
 
信仰者にとって、出会ったと思っている神が、そんなにはっきり確定できているわけではありません。何故なら、神は全能だとしても、私たち人間は全能ではないからです。だから、神に付けられた名前を並べて、どれを信じている?・・と聞くことにはほとんど意味がありません。
 
人間にとっての、神は、その意志と行為は、不確定です。だとしても、無神論者が何も福音をもたらさない現実において、神の全能の存在から、人の不全を知ることは、生きるために大切なことです。自らの人並み外れた不全を、知ろうともしない楽山のような者もいるからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
  旧約・イザヤ・20~21
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて灰だけが残る者よ
家の鍵を失う者よ
開けて閉じることなく
閉じて開くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈んで聞くに堪えず
見るに堪えない
 
憧れた黄昏は
もはや戦きとなった
頭を禿にし
荒布を纏うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
--------------------------------------
※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。
 
屈む(かがむ)
戦く(おののく)
禿(かぶろ、(はげ))
纏う(まとう)
何時(なんどき、(いつ、なんじ))
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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