ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:不完全

 
  原初から3
 
 2012年02月24日の記事
 「原初から」を修正再録
 
 
原初の信仰が生まれるとき、それは復活の類似体験であると言えば、かなり語弊があるかもしれません。復活=死人が蘇る・・という先入観があるからです。キリストの復活と違って、ここで信仰における復活というのは、それまでとは違った生の体験として、人を解放するということです。
 
原初体験は、自由意思による神のみへの服従の決意へと導きます。つまり、神への服従が、人の世の様々な執着からの解放だということです。勘違いしてほしくないのは、人の世を無視するということではないということです。無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても、それに耐えて生きるための信仰であります。つまり神への服従というのは、襲い来る不幸に、いつまでも泣いて過ごすか、信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと、そうとも言えない神秘の部分があります。不思議な御縁ということです。原初体験は出会いであり、縁付くことであり、絆されることであり、これらは、ある種の受身の直感~直観であり、芸術の享受にも似るが、恋愛や結婚にも似ています。
 
具体的に言うと、イエス・キリストを好きになることです。むしろ、キリストの共感と同伴という恵みを享受しながら、そこから何を目指すことになるか、という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか、自分の確信で自分を縛り付けてゆくか、自己陶酔に陥るか、・・これらは目に美しく耳に心地よい偶像に、人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであります。そういう人間の作為は、原初の面影すらないところへ誘導することになります。
 
信仰は、自由と服従のバランスではなく、思いわずらいからの自由と、人間らしさへの一途な希求であります。ゆえに信仰においては、自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく、よって常に信仰はその原初から、自他による思いこみや固定観念を、拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は、個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために、全信仰者について、一つの言葉で確定できるものではないと思います。ゆえに、人それぞれということが、個人の生きる方向性については個別であります。信仰は、神の個人の関係ということになります。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰と言ってもよいものですから、祈りだけは必須ということになるでしょう。そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは、嘘と飾りは通用せず、ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
 
完全な信仰などあり得ません。
 
信仰とは
人間の不完全ゆえの罪深さを
正直に祈ることで
神によって赦されて信仰の義とされることです。
 
 
完全と不完全

完全と不完全
 
 
(2012年02月)
(2020年10月29日、修正再録)
(2021年11月01日、再録+)
 
 
 
  それというほどのもの
 
それは花というほどには咲かず
穀類というほどには収穫されない
それは動物のように子孫を残すこともなく
もちろん神の完全無欠を持つわけでもない
 
それは個でありながら全体であり
いつも涙も汗も見られるわけではない
 
それは以上すべてを慕いながら
近づくために炎を凍らせるほどの
激しい孤独を要求することがある
 
しかして砂利の礎(いしずえ)に
泥の柱を立て
引き潮の砂浜を床に敷いて
水溶性の屋根をかぶせ
照明のない夜を
遥か彼方で過ごしている
 
以上すべてを照らす光と引替えに
 
 
  夢の花
 
好きな花は
ヒヤシンス
というより
好きな花の名は
風信子(ヒヤシンス)
風(かぜ)信子(のぶこ)さんではない
好きな名は
むしろ「ふうしんし」「ふうしんす」
と呼びたいくらい
 
風媒花でもないのに
風信子
子供でもないのに
風信子
 
ヒヤシンスに当てられた漢字
それは叶(かな)わぬ夢
風の子になって
風の便りを伝えたい
風に乗って
信じられる通信の
飾らない素子になりたい
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること。
単純にそういう意味として考えてみる。
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
悟り、目覚め、なども似たような意味かもしれない。
 
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
 
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい。
人の知恵にすぐれていればできることだろう。
不全なる人に完全を教えても無駄だろう。
不全なる人が完全を教えられても理解できないだろう。
 
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう。
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
 
何故にこのようなことを私は言うのか。
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲があることを知るからであります。
 
 
信仰の原初において、多くの信仰者は、体験と聖書から、人間の潤いと温もり、即ち、悲しみと癒し、孤独と解放、という体験を持っています。癒される体験を持っています。このような体験は、人間の心を持っていれば、誰に起こっても不思議はないのです。
 
 
 
 祈り
 
悟らず、気づかない私をお赦し下さい。私の罪をお赦し下さい。私が間違いと罪に気づけますようにお導き下さい。生きる糧をお与え下さい。今日、生きていることに感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
母をどうかお守りください。兄をどうかお守りください。父と叔母(伯母)さんたちが御国で安らかでありますように。私が愛すべき人々とと、私が勝手に思っている人々を、どうか守り導いてください。この祈り、主イエスキリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる場所を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。ふつう、それを、"身の程を弁える"、と言います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  考える信仰2
 
 
宗教そして信仰は
一見、客観性を失わせるように見えるかもしれません。
 
というのは
信仰を知らなければ
まず信仰については語れない。
信仰者であれば
信じているのだから客観的には語れない
というような理屈になるのでしょう。
 
しかし
ここには大きな勘違いがあります。
信仰が
超常から日常まで教えられたとおりに
信じ込むことだという勘違いです。
 
キリスト信仰の場合
教えられるのは大方言葉であり
そのまま思い込み信じこんでも信仰にはなりません。
 
キリスト信仰において期待されるのは
不変の悟りではなく
即ち言葉を鵜呑みにすることではなく
考えることです。
 
考えることには感じることが必要であり
感受したことについて考えるわけだから
そこには
正直に感じることで
当然生じる疑いというものがあります。
おもに超常の奇跡についてです。
 
疑いを気合いで排除するのが信仰ではありません。
それはカルトのやることです。
 
疑いを含めて考えることが信仰です。
したがってキリスト信仰が
人生を縛ることではなく
むしろ人生の知情意の活性を促進するからこそ
私は信じているのです。
 
キリスト信仰は
神を絶対としますが
神を人は詳細に知りえないので
人が自らを相対化することでなければ
神を信じることは成り立ちません。
 
したがって
人が教えられ覚えた言葉である信条を
絶対化することは
即ち信仰を絶対化することは
背教であります。
 
信仰の相対性については
既に言われてきたことだが
何故か、絶対でなければ、絶対でなければと
思い込んでいる人が少なくないようです。
 
神の絶対を人が負えるかと聞かれて
負えると、また、負うべきと言う者は
少なくとも勘違いしているか
最悪の場合、背教者です。
 
人が信じる総てのものは
いつも絶対ではなく相対的である。
人は不完全で罪深いということを自覚しているなら
当たり前のことであります。
 
信仰は
絶対の神の存在を仰ぐゆえに
自らを絶対ではない者とすることです。
 
そうでなければ
悔い改めの祈りなど意味がなくなるでしょう。
 
私たちキリスト信仰者が
折に触れて正直に告白して
悔い改める
即ち祈りにおいて
神との関係を新しくしていただくのは
まさに私たちが
心貧しく不完全であることを
正直に認めて
神に憐れんでいただくためであります。
 
自ら信仰を絶対として
神に対して讃美ばかりを豪語するような
偽善者になってはいけません。
 
私たちキリスト信仰者は
心の解放を受け取ったのだから
信仰についての疑問も含めて
よく感じ、よく考えて、折に触れて正直に祈り
反省し学習し成長することが期待されています。
 
 
ゆえに
楽山がボンヤリ曖昧に言うような
またシャロームが豪語するような
信じ込むことが信仰であるという固定観念は
全く信仰を知らない偽善者の言であり
この二人は信仰について
何も知らずに言い張っているだけなのです。
 
 
 
   宗教と狂気と堕落
 
長い歴史をもつユダヤ教を母体としていても、キリスト教は成立当時は新興宗教と思われました。ユダヤ教は選民思想と排他的色彩の強い宗教です。聖戦の名のもとに短い勝利と長い敗北の歴史をもち、その中でつちかわれた唯一神への絶対的信仰とその形式としての律法・掟を持っています。
 
律法の中には慈愛や思いやりを感じさせるものもあるのですが、イエスの時代には律法主義という形式主義・教条主義を頑なに守っていた人たちがイエスの敵となりました。
 
その後ユダヤの内外にキリスト教を広めるにあたっては当然、国により民族により宗教観も異なり布教するうえでの意見の対立や問題も多かったのでしょう。そのために福音書をはじめとして異なった色付けをされてキリスト教は伝えられ広められていきました。
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのでしょうか。そこに、神聖に対する思いこみや決めつけの先入観や偏見があってはいけません。神聖は、神のものであり、人のものではありません。
 
聖職者も、神と違って、信仰者と同じ人間だから、不完全という罪深さを持っており、ゆえに、教えられたことを鵜呑みにして、思考停止してはいけません。信仰は、思考と感性を、活性化してゆく道である。信仰の道は、成長してゆく道であります。
 
宗教は、うっかり訂正不能にしてしまうと、古い新しいを問わず人間離れという狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていることを忘れてはいけません。ゆえに、経験から感じることを、じっくり考えてゆくべきです。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくとも正当なキリスト教においてはありえないことのように思われるのですが、利害関係や政治的な争いに宗教がからんで訂正不能の過ちを犯す経過では、戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなります。
 
一方、クリスチャンの接頭語のように付けられる「敬虔な」という言葉があらわすものは何かを考えると、おとなしくて静かで「社会のお邪魔にならない」影響力の乏しい人畜無害のような印象を覚えますが、もちろん、これは間違いです。信仰は、経験を考え、成長する道です。
 
確かに宗教が社会に有害であってはなりません。しかし、キリスト教の大きな迫害の歴史とその殉教者たちの死を思うとき、主イエスキリストの愛と魂の救済という強い目的意識を持ちつづけることの難しさを感じざるを得ません。
 
人間の感性と知性を軽んじて、神霊を訂正不能に思い込むような、成長を忘れた信仰は、聖書の言葉をも、意味を固定してしまって、カルトと同じようなものになるでしょう。
 
人間の罪深さ、また、人間の言葉の曖昧さ、即ち、不完全さを思うとき、反省と修正と成長のない信仰が、いかに自分信仰になりやすいかを知るべきであります。
 
キリストの教えは、人間に理解できない超常奇跡よりも、はるかに、人間に対する共感と愛に満ちています。それに反応する信仰者は、キリストへの共感という愛に生きる道に気づくようになるのです。
 
それを、贖罪の辻褄と超常の仕組みとして信じ込む信仰?によって損なうことのないように、日々の祈りの正直さだけが求められていると思います。
 
 
考えること そして共感すること

考えること、そして、共感すること
 
 
(2020年08月11日)
(2021年10月24日、再録+)
 
 
 
  無意味の意味
 
すべての人はそれぞれに
生まれてきた意味がある
使命さえある
私はそれに気づいていない
気づいていない以上
それは神様だけが知っている
ということだから今
私は考える動物として
生きる意味など持とうとせず
生きることは死なずにいること
くらいの無意味で充分だ
 
守らねばならぬ節というものがある
それがどんなに空しく
負の人生であろうとも
私はその虚無を愛さねばならない
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
 
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりする
 
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
 
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか 
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
 「確信」2
 2018年04月30日
  かなり前に書いた記事、一部加筆修正。
 
 
確信をもって、ということが信仰でも言われます。
しかし私は、以前から、
神の意志について、どうして人が確信を持てるんだ、
と言ってきました。
 
神の意志について人が確信を持ったら
それは訂正不能になってしまう、という危惧であります。
 
人は神に比べて不完全なのだから、
人には訂正不能にしてよいものは何もない。
 
ましてや
神事を人が訂正不能にする?とんでもないと思うわけです。
そんな能力は人にはないから、
神のみを絶対と仰ぐなら、
訂正不能は信仰の敵だとさえ思うわけです。
 
言葉で言うなら、私は現時点の判断を語っています。
修正可能の一点をもって確信ではない
ということですが、
何らかの行為に結び付くときには、
今は他にないという一点をもって確信に近くなる、
という微妙さもあります。
 
つまり確信を持つことは
訂正不能にすることではない
と言いたいわけです。
 
このことを言うのは
広く一般に、人が
確信を持てと言われると
訂正してはいけない
と思い込む傾向があるからです。
 
ここで申し上げます。
確信を持て
と言われたとき
信仰者が考えるべき確信は、
信じ込み思い込むことではなく
何よりも
今これしかないだろうという確認です。
 
何かの決断のとき
このことを弁えておけば
結果の導きと
反省の祈りにおいて
私たちは
先へ進むことも
本来の道へ返ることも出来るでしょう。
 
訂正不能は反省不能に結び付き
神を心の偶像に固定することです。
 
修正可能は
いつでも神からの新たな導きに反応できるように
人間の側が弁えるべき節操であります。
 
弁える(わきまえる)
 
 
※ 
 
ここで、誤解しやすい一つの聖句をあげておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
16:10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 
16:11
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
 (ルカ16:10-13、新約聖書)
 
10節は分かるけれど、11節の、不正の富に忠実ということが、分かりにくいところです。結局、13節の、二人の主人、即ち、神と富とに両方仕えることは出来ない、神に仕えよ、神を主とせよ、という教えに帰結するわけです。
 
神に忠実ということが、この世の富という観点から見れば、しきたりや馴れ合いなどに従わないことで不忠実や不正に見えることがあるから、そういうことに惑わされることなく、神に忠実であることを勧めています。
 
そのためにも、信仰者は、反省し学習できる人でなければいけません。人間は不完全ゆえに罪深いからです。楽山、シャロームshalom、易坊という3人は、忌むべき訂正不能のナルシストです。同一人物の成りすまし、即ち、今の、楽山ではないかと疑っています。
 
つまり、それは、詭弁屋のペテン師の反キリストである楽山のように、表面的な理解で教えてきて、その実は、利己のために、だまそうとする者がいるけれども、そういう者の甘い言葉に惑わされてはいけないという意味に受け取ります。
 
※ 
 
訂正不能と言えば、10年批判した偽牧師シャロームや、荒らしの易坊や、3年批判しているペテン師の楽山に、常態として見られることです。有頂天の慢心が著しく、何を言っても無駄、話にならない人、こちらの言うことを聞いていない、という人物になってしまっています。
 
また、"信仰に確信を得た" などという奇妙な言い方を聞くこともあります。これは、他に道はないという確認や決断としてはあり得ます。信仰は、神との関係です。しかし、確信は、人間がすることですから訂正不能にしてはいけないことです。
 
このように、地上を生きる上において、訂正・修正が可能ということは、必須だと思います。今は、これしかないと、決断して実行しても、反省して、考え、修正も出来るようにしておく心の余裕が必要だと思います。誰も、神には、なれないのです。それを知ることが信仰です。
 
 
訂正不能の罪業・確信の罠

訂正不能の罪業・確信の罠
 
 
(2018年04月30日)
(2021年10月16日、加筆して再投稿)
 
 
 
 楽山の悪だくみツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
あなたはこれらの神々を信じますか?あなたが、人々がかつて信じてきた神々のうち、どれに関して「無神論者」なのかのチェックです。ぜひ信仰者の方々に試してあげてください。
午後9:52 · 2021年10月12日 (画像省略)
 
神なんて、こんなにいっぱいいるんだよ、いい加減だね・・とでも言っているようなリストが載っています。でも、画像が不鮮明で、良く見えません。いっぱいいるから当てにならないよ・・とでも言いたいのでしょうか。いかにも、楽山が好みそうな乱暴な話です。
 
楽山は、神を知りません。知性と理路において知りません。感性と情緒において知りません。考えることも、感じることも、できません。楽山は、いつも、超常のお伽噺か作り話で、神?を語ったつもりになります。楽山は、感動などの深い情緒を持っていないのです。
 
信仰者にとって、出会ったと思っている神が、そんなにはっきり確定できているわけではありません。何故なら、神は全能だとしても、私たち人間は全能ではないからです。だから、神に付けられた名前を並べて、どれを信じている?・・と聞くことにはほとんど意味がありません。
 
人間にとっての、神は、その意志と行為は、不確定です。だとしても、無神論者が何も福音をもたらさない現実において、神の全能の存在から、人の不全を知ることは、生きるために大切なことです。自らの人並み外れた不全を、知ろうともしない楽山のような者もいるからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
  旧約・イザヤ・20~21
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて灰だけが残る者よ
家の鍵を失う者よ
開けて閉じることなく
閉じて開くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈んで聞くに堪えず
見るに堪えない
 
憧れた黄昏は
もはや戦きとなった
頭を禿にし
荒布を纏うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
--------------------------------------
※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。
 
屈む(かがむ)
戦く(おののく)
禿(かぶろ、(はげ))
纏う(まとう)
何時(なんどき、(いつ、なんじ))
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク、最近コピペ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  共感性 2
 
   (以前の記事を修正加筆しています。)
 
 
共感とは
相手の心情を全部でなくても理解すること。
相手と同じような心情を共有すること。
世辞や言葉だけではなく
相手を思いやること。
人間の最も大切な心です。
 
私のような者でも
少しは共感する性質があると思っています。
最近、台風が窓を破るのではと恐れましたが
自分が恐れるだけでなく
他者の無事を祈ってもいました。
我がことのように祈ったかは疑問ですが
全然気にならないわけではない
くらいのことは言えるでしょう。
 
特に、リアルな知り合いでなくても、
ほんの一部でも似た境遇だったりすると、
察している、察しているつもり、察していたい、
という気持ちが湧いてくるものです。
 
共感は人間の性質ですが
神様も人間に共感する御方です。
さらにキリストの人間への共感性は深く
鋭く悩み苦しみ悲しみを見抜いて
命を惜しまぬほどの共感と愛を表しました。
 
十字架は、究極の共感なのかもしれません。
 
人間は、なかなか、そうはいきません。
知ったという発言だけなら誰にでもできるでしょう。
しかし神については、人には、思いこみが入ります。
入らないようにしましょう、ではなく
入るものだという自覚が必要です。
 
人は、ある時点においては思い込みの生きものです。
それを補うのは反省力です。
反省力も共感という土台の上に成り立ちます。
共感は信仰に近似してきます。
 
いつの日も
人は不完全です。
人の心は不完全です。
人の思考も不完全です。
人の言葉も不完全です。
人の信仰さえも不完全なのです。
 
ですから不完全な一人が
不完全なもう一人の心を
完全に理解することは出来ません。
 
ましてや不完全な一人が
完全で全能なる神の御心を理解するなど
到底できることではありません。
 
このことを理解しておかないと
カルト的な決めつけの信仰?になってしまうでしょう。
 
決めつけないことのベースには
人間の不完全つまり罪の性質への人間同士の共感があります。
それゆえに個別でありながら信仰の心を分かち合うことが
ある程度は可能になります。
 
福音書におけるキリストと救われた人々との交流は
物や肉体の奇跡とは比べものにならないくらい
福音書の最も重要なところです。
 
キリストは人を見抜き
人への惜しみない深い洞察と共感のために
特に悲しみを共にされます。
キリストが人生の同伴者と言われるゆえんです。
 
 キリストに敵対するカルト思想の者たちは
 殆ど共感性を持ちません。
 ゆえに私たちも彼らに共感を覚えません。
 そういったところ、つまり共感性の有無が
 両方とも神を唱えているにもかかわらず
 真の信仰と反信仰を分けるだろうと考えています。
 
共感は高等感情ですが素直な心です。
やさしい思いやりの心でもあります。
 
 やさしげな言葉は使いまくるが共感性はゼロで
 共感は必要ないとまで言っていた偽善者もいて
 根拠は聖霊と神の啓示だと言い
 議論の対象にならないと言っていましたが
 その者は、元々まともな議論をしたことなど皆無なのです。
 この人がキリスト者なら、この世は闇です。
 
 信仰者めいたことを言い
 別のときには否定的なことを言い
 断定できないのだから
 責任問題はないという者がいますが
 学ぶ姿勢もなく
 いい加減なことを人に言うのは人を惑わしたことになる
 ということが分からないようです。
 真実の追求において、
 言論の責任を負わない者に言論の自由はない
 ということを繰り返し突き付けるしかありません。
 
 自分が批判されても無視して
 反論も弁明も返せない者には
 他者を批判する資格はない
 ということは良心と常識があれば分かるはずです。
 それが分からず批判されていることを無視して
 正義の味方気取りで別のところを批判して平気でいる場合
 次のようなことが考えられます。
 1.常識的思考に欠陥がある。
 2.良心が欠けているために共感性が身についていない。
 3.最初からだます目的と悪意のみである。
 いずれにしても
 受け取って反省し学習し成長する気がないわけですから
 そのような者の発言は害毒でしかありません。
 
共感は、人間の場合
弱い人が弱さを自覚しているときに
おもに弱い人々の間で生まれます。
ふと思い出した聖句ですが
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間は、弱さを自覚しないとき
高ぶることが多く、共感することは難しくなります。
つまり、人間の共感は
自分の低さを知っている人間同士において生まれるものです。
それは信仰の態度でもあります。
 
共感は信仰を情緒的に成り立たせるものかもしれません。
また信仰の心を分かち合うときに必要なのかもしれません。
 
罪、低さ、弱さ、分かち合い、共感、信仰、
救われる人と救われない人を
人が区別するのは困難ではありますが
人を差別するためではなく
むしろ、自分が何を大切にして生きてゆくか
ということを考えるときヒントになるかもしれません。
それは少なくとも信仰の周辺事情ではないと思います。
 
このように、信仰については
教理的な言葉を駆使すれば語れるというものではなく
人間の日常の言葉の中に
信仰と切っても切り離せないものがある可能性を感じます。
 
信仰は人間のためにあります。
信仰は決して人間離れではありません。
 
すなわち信仰は
キリスト教の用語だけでは語れないのです。
 
いわば懐(ふところ)の広さというような幅をもって
様々な境遇にある全ての人が
優秀になれるというのではなく
 
一人一人が個別でありながら
共感において一つになりうるということを伝えています。
 
すなわち信仰は特別な悟りではなく
個別の事情において惹きつけ
私たちを招いているのでしょう。
 
ゆえに信仰は
特別な学習・学問・能力によって獲得・規定されるものではなく、
良心からの敬虔と共感と反省と学習が可能な総ての人に
いかに不完全で罪深くても与えられ
信仰ゆえに人に与えられる恵みは
絶対の "神の義" とは異なるものとして
"信仰の義" と呼ばれます。
 
共感は、人間性に与えられた賜物です。
共感できる人は人間らしいのかもしれません。
欲望などと違って
信仰が支えて動かす良心の表れの一つでもあります。
 
良心については直感的に理解しているだけですが
良心の欠落をカルトなどに見ることが出来ます。
そこに欠けているものは、他に、
反省力、学習機能、自己修正機能、責任感などがあります。
これらは、自己中心の自己愛やカルトなどに欠けていることです。
 
そして、似ている機能を表しているこれらは、
誰もが、自分で心がけるべきことで、誰にとっても必要なことです。
 
神を信じて、教理を学んで、
自分が特別になったなどと思わないでください。
また
自分が特別だから選ばれたなどとも思わないでください。
 
言ってみれば、上に書いたように、みな個別の恵みなのです。
しかも優劣はないということが、信仰のもたらす恵みの特徴です。
 
信仰は、折々の正直な祈りによって成長します。キリストに癒され赦されることは、自らに同伴し共感する御方を知ることであり、絶対孤独から解放されることであり、物や肉体に起こる奇跡よりも、遥かに実感に溢れていて、悔い改めを通して起こる魂の奇跡に支えられる道であります。
 
 
覗(のぞ)く人

覗(のぞ)く人(再録)
 
何となく敬意を表したい感じがしました。
今は私がこのご老人のように年を取りました。
 
このご老人は、生命の根源を覗いている・・
 
あるいは、何か落としたのかもしれません。
 
 
(2019年09月27日)
(2020年10月03日、修正加筆して再録)
(2021年10月03日、再録+)
 
 
 
  土の旅
 
草原
芽吹かぬ種子とともに沈む
河原
流れからの距離
乾いた石の間から伸びる草
隠れた根元を培(つちか)う
山道
旅人の足の重さ
押しつぶす
足跡の下
水源
名も知らず
潤す
その奥に
雨を分かつ
谷間からの雲
かつてすべてはそこに
 
 
  森と住人
 
切り倒された樹(き)の
切り株の年輪だけが
長寿を物語る嘗ての森の
若い住人たちの自意識は
多くの場合過剰で
実際とは別人のような自分の顔を
さらに違った方向へ養っている
 
それゆえ夢が叶う時が来ても
収穫は盗まれやすいが
盗んでもいて
食べ方を知らないわりに
栄養にもなれば毒にもなるので
若い肉体はどこか突っ張っていて
引きつった分だけ傷も出来るし
傷つけもする
 
特に老いに対しては辛辣(しんらつ)で
その酷さが老いを老いにしている
と気づく者は殆どいないから
年輪は同心円というには歪(ゆが)んでいて
水分とともに中身も長寿も
乾いて毀(こぼ)れてゆく空洞の枯れ方で
象(かたど)る立体も失われてゆくために
切る必要はなかったという
有り触れた結末などあるはずもなく
長寿の物語も
永遠の命の話も
終わりの顔を持てないまま続くのである
 
 
  深夜の明かり
 
星明かりの下を歩む深夜の暗い道
この町の明かりは既に
すべて消えてしまったか
まだ消えてはいない外灯以外にも
ところどころ窓のカーテン越しに
明かりの灯っている部屋があって
光の秘密を膨らませている
誰にも渡さない時間の中で
闇もまた内部で成長しているのだ
部屋の中の住人は
年齢も性別も分からない
生死さえ知りようがない
限られた明暗の広がりは
深夜の道に投げ掛けられた問いだ
答とともに沈んでゆく
夜の深い深い息づかいに
星空に浮かぶ朝への航海は
見上げた顔を
うっすらと照らしている
 
 
  御礼
 
自分を責めることのできる人たち
の中のごく一部が
私の作品の
ごく一部に共感に似たものを
善かれ悪しかれ
受け取るかもしれない
それが狙(ねら)いではないけれど
もしそうであれば私は充分なのです
それが今の精一杯だから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
死後に、若い頃の習作が発見されて、全集に収録されるならまだしも、自分で出版するんだね。
この調子だと、書簡集とか、日記とかも本にしそう…。
午前6:19 · 2021年10月2日
 
ORの出版物のことを言っていて、弁護する気はないですが、嘘と詭弁を並べて、たくさん書いてきた楽山に、ゴシップみたいに、あざ笑いながら、批判する資格はないと思います。楽山は、人のアラを、面白おかしく書いているだけで、中身のある文章を書けない人です。
 
楽山は、感動、共感、反省、などに必要な情緒・情感がないことが文章に表れてきました。だから、いつも興味本位で書いて、反省せず、責任を負わず、上から見下ろして、笑うことしかできません。あらゆる尊さ、真実、信仰、などについて、何を書いても、いい加減さが表れるだけなのです。
 
 
心機一転★こも楽山
#ゼイリブ 
古い映画だけど、人でないものが、人のフリをして人間社会に入り込んでいるという設定は、もはや定番だし、陰謀論好きにはたまらんだろな。
午前7:05 · 2021年10月2日
 
楽山が、今まで、宗教と勘違いして結びつけてきたのがホラーであり、その勘違いの延長線上で、宗教や信仰を捏造して、「人のフリをして」「人間社会」のネットに「入り込んで」きて刷り込んできた「人でないもの」です。楽山の有り様は「陰謀好き」ではなく、陰謀そのものです。
 
楽山が、他者に向けてきたことは、楽山を表すことになります。何故なら、そこに、だまそう、ごまかそう、という悪意があり、よって、楽山が表してゆくこと自体が、直接間接に、悪意、悪霊、超常、フィクション、ホラーということになるのです。ブーメランという現象です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
 「排泄の口、誰の前で幼子?」2
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけですが、
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられるでしょう。
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえあります。
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたいです。
 
人間はおかしいところがいっぱい、
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的、
など、いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていないと思います。
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しいと思います。
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるでしょう。
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業です。
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいます。
 
意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうるのです。
 
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢であります。
そしてそれは正直さに他なりません。
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ません。
だから悔い改めの祈りがあるのです。
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになります。
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはなりません。
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者であります。
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言うでしょう。
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではありません。
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけません。
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよいでしょう。
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのです。
 
そのような説教者を裸にしなければなりません。
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけません。
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけません。
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいません。
 
また、神に対する従順は人には確定できません。
 
ゆえに「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えないでしょう。
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様であります。
 
 
自分を含めて、人のもとにあれば、人を恐れるが、
 
神のもとにあれば、神のみを恐れる。
 
 
心貧しさ = 先入観のないこと  = 柔軟で成長可能 = 幼子  =  敬虔
 
精神の貧困= 先入観しかないこと = 固着と成長不能 = 偽善者 = 傲慢
 
 
固定の災い

固定の災い
 
 
(2011年10月10日)
(2019年04月27日、修正)
(2020年08月28日、修正再録)
(2021年09月08日、再録+加筆)
 
幼子(おさなご)
巷(ちまた)
 
 
 
  ふくらむ陰と影
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
 
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らにまつわる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊した
虚脱の揺籃に
身を委ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘びて怠い
漠(ばく)
粉々に崩れ落ちた楼閣
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
 
(昔々の作)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
Pさんの書き方だと、一般のアッパレな「高校生」だと思えるけど、実際は占いビジネスで稼ごうとしたり、HS支部長からもう関わりたくないと言われてる特殊な人で、手放しで褒めるのは無理なんだよなあ。
Pさんは、印象操作のために重要な事実は伏せて報道するという悪徳マスコミと同じやり方してる。
午前7:15 · 2021年9月7日
 
楽山が、印象操作を批判しています。今まで、人それぞれ、自分を貫く、個人の自由、などといった広い意味の言葉で、まともだと印象を吹き込もうとしてきたのは、楽山であります。この3つ、いずれも、公共の福祉に反しない範囲、迷惑かけない範囲、という条件が付くわけです。
 
このように、公共の害として、詭弁と印象操作によって、自己正当化を企んできた楽山に、他者の悪徳を批判する資格はないと思います。楽山は、恐らく、自分のしたことを記憶できないのだろうと思いますが、ならば、なおさら、平気で書いてはいけないことがあるはずです。
 
楽山は、若いのかどうか知りませんが、大人でしょう。決して、アッパレなどではなく、人のことを言える立場も器量もないと思います。褒めるどころか、今まで、やってきたのは、詭弁、嘘、印象操作、無視、無反省、無責任、・・どこまでも、追及されてしかるべき人です。
 
振り返って、私は・・と言えば、特に優れたところもなく、褒められたものではありませんが、そういう自分の有り様を、少なくとも、ある程度、折に触れて内省もしています。そういう自分を弁えてさえおれば、どこまでもハナタカな楽山に対して、批判を遠慮する必要はないと思っています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ