ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:不感不応

 
  楽山の無理の路3
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、だらだらと長い記事を書いています。内容は、殆ど空疎であります。自慢に過ぎないと指摘しても、執拗に、飾りのように貼りつけて、文脈から浮いている謙虚芝居のトホホ言語と、整わない理路と、鈍麻した高等感情の有り様を見ることになります。
 
 
*シルバー・バーチの霊訓
最近、スピ系のツイートを見るようになったせいか、にわかにその方面への興味が復活してきたので、
 
以前から、楽山は、霊が分かるっぽい自覚だけの人です。超常の辻褄だけをデタラメにあげつらって、人間について考え学ぶことを疎かにすると、人間離れ、現実離れして、楽山のようになるのでしょう。
 
 
『シルバー・バーチの霊訓(一)』を読んでみた。ものの考え方だとか、人はいかに生きるべきかという話には、思わずハッとさせられる箇所があって面白い。
 
「人はいかに生きるべきか」ということを、霊訓?から学んで「思わずハッとさせられる」のだそうです。自分で考えることはできないのでしょうか。一気に分かったことにしたい自己顕示の霊能への欲望が表れています。
 
スピリチュアル、即ち、霊から得たものだから悦んで信頼して、人からの言葉は信頼できないのでしょう。人に対しては嘘と詭弁で騙すことしか考えないようです。人間の世界の怪しさのランキングが逆になっています。
 
恐らく、楽山は、自分も霊能者という自覚があり、教祖願望があり、霊が分かるっぽいから、霊でないと信じない、になっているのかもしれません。努力をしたくない怠慢と、人間嫌いで人間離れしたがる傾向が、楽山をそうさせてきたのでしょう。
 
 
年を取って感性が鈍ったせいもあってか、
 
元は感性が鋭かったかのような書き方です。
 
 
今はもう霊がどうしたこうしたという話にはさほどリアリティは感じなくなったのだが、
 
昔は、霊にリアリティを感じていたのでしょうか。感じなくなったのに霊の話をするのでしょうか。良心的なスピリチュアルは、人間を見ることを忘れないでしょうに、霊にばかりこだわってきた楽山には、良心も良識もあるとは思われず、人間らしい感性の名残すらも見られないのです。
 
 
人生論だとか、価値観の話には今でも心を動かされるというのはうれしい。
そんなわけで、今回の読書でハッとさせられた部分について書いておきたい。
 
楽山は、人生論と価値観とスピリチュアルが、同質になっているようです。怖いことです。楽山にとって、心霊の話は、楽をして、お山に登りたい欲望だと思います。実際には幼稚な興味だけで、楽山が「ハッとさせられ」ることは、恐らく、一度もなかったのではないかと思います。
 
 
*ものごとには時期があるということ
まず本書では、霊的な思想を他人に押し付けてはいけないということが繰り返されているの印象的だ。
真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(一)』アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳、潮文社、平成3年、p.55)
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。
(同上、p.35)
 」
実をいえば、以前の自分はこのことが全然分かっておらず、とある新興宗教の影響を受けて、真理を受け入れない人がいると、下根だとみなしていたのだった。
 
「以前の自分はこのことが全然分かっておらず」・・今は分かっているような口ぶりです。楽山は、人間にとって大切なことが何も分かっていないと思います。だから、発言の信用度はゼロです。
 
(ネットより)
げ‐こん【下根】 の解説
《「根」は本来の性質の意》仏語。教えを受ける性質・能力が生まれつき劣っていること。仏道を修行する力の乏しいこと。また、その者。下機 (げき) 。下機根。→上根 →中根
 
楽山は、しっかりした思想を持っておらず、もっと邪悪な妄想や先入観のほうを選んで、自らの思想を詭弁によって執拗に刷り込もうとしてきたのです。私のブログに、いっぱい楽山の妄念が引用として表れています。ここもそうです。下根とかは知りませんが、楽山は下劣です。
 
楽山は、今までの経過から、他者を下根と見なしていたが、自らに、下根を当てはめる、罪や偽善を当てはめる、ということがないようです。評論家気取りの文章で、他者を見下ろす姿勢は、今も変わりません。訂正不能の自己中の表れであります。
 
 
でもさすがに今はもういい年なので、
 
反省は、いい年だからする、というものではありません。若いときからの積み重ねであることが、全く分かっていないようで、相変わらず、いい加減なことしか言わない楽山です。書けば書くほど、いたるところに、自己愛、慢心、いい加減さが、漏れ出てくる楽山です。
 
 
そんなことは思わず、シルバー・バーチと同じ考え方になってきている。霊的なことを受け入れない人がいたとしたら、その人にとってその時期が来ていないか、はたまたその人の個性に応じて他の方面での役割があるということなのだ。下根だとか、上根だとかとは別のことだ。
 
「シルバー・バーチと同じ考え方になって」・・これが、高ぶりの霊能者気取りを表していることが分からない楽山です。詭弁を弄してきたことに、何の反省もないほどに悪質な楽山です。しかも、責任逃れに、教訓的でもある霊言を引用→悪用しています。
 
「時期が来ていない」「個性に応じて」という言い方は、思いついた体のいいことを書いただけだと思います。楽山は、恐らく、真摯に反省して考えることさえできない人だろうと思います。「下根だとか、上根だとかとは別」・・上根ということなら、批判に答えられるはずです。
 
 
*真理の独占?
これは耳に痛い言葉だ。
人間はとかく自分のかかわった組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。
(同上、p.79)
 」
いつも書いている如く、かつて自分はとある新興宗教の信者だったのだが、その教団ではまるで自分たちが真理を専有しているかのように主張していたのだった。
 
楽山が、今、霊力を専有しているつもりがないなら、本当に謙虚であったなら、批判を無視することはなかったはずです。偽牧師シャロームshalomに無条件賛同もしなかったでしょう。またしても、邪悪な作為です。過去がどんどん追いかけてきて、無反省の楽山を斬っているのです。
 
つまり、楽山の、昔は専有、今は違う、という嘘です。楽山の今までの発言が、否定しています。言論の履歴によって、今の言論の嘘が表れてくる例なのです。真理を占有することを批判している楽山こそが、今までの経過から、訂正不能の自己中だということが明らかになっています。
 
 
教団の創成期のうちは、他にも真理にかなった教団はあるとして、他教団にも一定の敬意を払っていたのではあるが、じきに当教団の教えは最高、最大、最強であって、天上界の高級諸神霊も当教団に集結しているとして、まるで自分たちだけが真理を独占しているかのような主張をするようになり、自分はそういう教祖、教団の主張を信じて、他宗教を低く見ていたわけである。これは今となっては実に恥ずかしいし、自分史としてはまさに黒歴史である。とほほ。
 
ならば、キリスト教への、難癖、いちゃもん、一方で、ほめ言葉、そして、今、他宗教を低く見ていた、などと言う、ばらばらの反省は、本気ではない芝居だということになります。「黒歴史」「とほほ」、これも嘘、そのまま、嘘吐きの謙虚芝居のトホホ言語と呼んでいます。楽山の詭弁の正当化です。
 
楽山の言は、粘着して収まるところがないようで、このことが、楽山の、他者を見下ろす自己愛と自己顕示の無反省による訂正不能なのです。しかも、しつこく何度も、自分を出して、グリグリと押してくるように繰り返すのは、自己愛性人格障害のサディスティックな体質の表れなのでしょう。
 
 
*善と悪
これは勇気ある発言だ。
私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。
(同上、p.83)
 」
悪を捨てて善を取れ、闇から離れて光を求めよと説くのは、ある意味、楽である。これなら多くの人々が納得できる話であろうし、余計な波風も経たず、面倒がなくてよい。
 
善人となることは、それほど楽ではありません。完全な善人は、一人もいません。楽山は、納得できないことが多く、波風が寄せてきて、面倒なことの多い、この地上の世界を、すべて無視して言っているということを覚えてください。幼稚な短絡なのです。
 
善だけでなく、悪にも神の存在が宿る、と楽山は、言いたいようです。楽山には、神と悪魔の区別がつかないことが分かります。どちらも目に見えない存在ですが、目に見えて、楽山は、自らの悪の正当化を、こともあろうに「神」という言葉によって企んでいるのです。
 
神が悪に宿るというのは、悪も救われるかのような、誤解を招きやすい言い方です。早速、楽山に利用されています。神が、悔い改めない悪に及ぼすことは、結局、裁きしかないのです。どうして、訂正不能の悪を救う神?がいるでしょうか。どうして、そういう神?が信じられるでしょうか。
 
楽山に、神が宿っていたら、楽山が、悪そして偽善者でなかったら、善または偽悪者であったなら、今までのような嘘と詭弁の経過はなかったはずです。楽山に宿っているのは、一時的な悪以上の、嘘と詭弁の偽善の最悪でしかないのです。罪悪感がなく反省しないことが証拠です。
 
 
でも、善と悪、光と闇、神の絶対性などについて思案すれば、ことはそう単純でないことはすぐわかるし、上のような考えに行き着くのも道理ではある。
こういうところは、シルバー・バーチの霊言は、単純な二元論を語るそこいらの新興宗教よりも、よほど思想的である。
 
善を勧め、悪を離れよ、というだけの説教は、言うだけなら誰にでもできる、という、はっきり言って、何も言っていないのと同じです。そこに、人間の闇の部分を考察しなければ、空疎で幼稚な説教であります。その典型的な幼稚さが、楽山を通して、霊言の解釈にも、表れています。
 
楽山は、妄想的であって、思想的ではありません。ゆえに、楽山は、単純な言葉では表せないところを、一度も説明できたことがありません。逆説的な香りに、興味本位の原始反応を加えて、自己顕示欲から、強迫的に繰り返し言っているだけなのです。
 
それが、楽山のような、自己愛からの自己顕示欲という、反省できない者の宿命なのです。そして、楽山が、実質の深さも示すことのないまま、資格も能力もなく、霊言を褒め讃えているのは、個人でありながら、有害なカルト性を示していることにしかならないのです。
 
善と悪には、二元論以前に、既に、良識からの直観的な区別があります。楽山は、そこに欠陥があり、「二元論」などと、知ってるふうを装いますが、実際には、自分を正当化し、結果として、悪だけを勧める者でしかありません。良心のない者、心ない者は、こういうことしか言えないのです。
 
 
無理な詭弁に生きる災いと不幸

無理な詭弁に生きる災いと不幸
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年11月12日、再録+加筆)
 
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりして
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  委ねるとき
 
たとえば癒しの御言葉
「思い煩うな」が
ときに無理強いの「してはならない」に
否定の「べき」になってはいないか
自分で自分に強いてはいないか
 
すでに思い煩っているのだが
思い煩え
と試しに言ってみる
思い
わずらってみる
すると思い煩うこと
に耐えられない自分しか残っていない
そういう時ではないかと・・・
 
いかなる優れた言葉も
自分の持ち物のように使えば使うほど
持ち物のように磨(す)り減って
死んでゆく性質を持っているようです
そういうときには
そのたびに改めて正直に悔いて祈り
新品として頂くしかないようで・・・
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。「人間の性」のせいにしています。一般化という詭弁です。2019年だから、それほど古いコメントではありません。このコメントは、しばしば載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の痴的生活2
 
 『知的生活を求めて』渡部昇一著
 2021年10月17日 楽山日記(LD)
 
 
(ネットより)
渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年〈昭和5年〉10月15日 - 2017年〈平成29年〉4月17日[1])は、日本の英語学者、歴史家、評論家。上智大学名誉教授。専攻は英語文法史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80
 
批判されて、弁明できないのに、また書いてくるというのが、不感不応で、病識のないサイコパスの特徴です。自己愛性人格障害だからでしょう。楽山は前に、"スルーする" とか言っていましたが、要するに、無視することしかできないという証拠の履歴になります。
 
 
*概要
本書の前半は、体が弱い著者がいかにして健康を保ちつつ知的生活を送ってきたかが語られ、後半はもっぱら健康法について語られている。その中では下痢対策はいかにも効果はありそうである。興味のある方は本書で直接確認することをおすすめしたい。
 
楽山は、自分が精神の健康を保ち得ないために、健康法について読んでも偏向し、書いても偏向してゆく特徴があります。ここでは、不健康に気づいておらず確認できない楽山の欲望と意地から、破綻して危険な自己満悦の下痢が続いているだけです。
 
したがって、健康のための対策や効果など、全く期待できない雑言だけになっています。本を読んで、このような短い記事一つで感想を終わらせること自体が、異常なのです。今までも、ずっと、そのような安易な短絡で書いてきたことに、楽山は、気づくことがなかったのです。
 
 
*肉食肯定
本書では宗教に関連した話題もあり、その中で興味深かったのは肉食に関しての話だった。
著者は元々は肉は食べられない質だったが、大学に入って神父の話を聞き、人間には魂はあるが動物はそうではないと確信し、その後は肉を食べられるようになったという。この確信と行動を一致させるために一度だけ蛙を踏み潰してみたこともあったそうだ。
 
「大学に入って」から「神父の話を聞」いてから「人間には魂はあるが動物はそうではない」と確信するというのは、少し変ではないでしょうか。だから、肉を食べられるようなったというのは、もっと変ではないでしょうか。本当に著者のことでしょうか。
 
楽山は、考える職業の人とは思えないことを評論家に当てはめて書いています。楽山は、文脈を間違えて読んではいるのではないかとさえ思います。楽山のように、自己中に、自分に都合のよいところだけ読んで書いてゆくやり方だと、文章の随所に誤読や曲解が入ってくるのかもしれません。
 
健康法と知的生活について書くのに「蛙を踏み潰し」たことを書く必要があるでしょうか。著者が楽山と同じ残酷な変態だと言いたいのでしょうか。楽山は、不正直な虚言が当たり前になっている変態ですから、文章を書くセンスがないことが分かっています。
 
 
また、霊媒師が死んだペット(犬)の霊を呼び出すことができなかったことも動物には霊魂はないことを確信する遠因になったともいう。人霊を呼び出すことができる霊媒師であっても、もとから存在しない動物霊は呼び出せないのだと。
 
霊魂がないのを、霊媒師によって知るというのは、本当に、著者の文章なのでしょうか。楽山が書きそうなことです。学者が、霊魂を信じているのでしょうか。楽山なら、霊が分かるっぽい自覚の変態で異常者だから考えられますが。
 
 
これらは自分には理解し難い考え方ではあるが、著者のようにはっきり割り切ることができるなら余計なストレスはなくなるだろうし結構なことではあるかもしれない。
 
楽山は、自分に似ているから、「理解し難い」と書きながら「はっきり割り切る」「ストレスはなくなる」「結構なこと」などと、賛同しています。ここで疑問をいだかない楽山は「かもしれない」などと語尾を濁しても、異常です。
 
 
*蓄積効果
知的生活についての話では、勉強の遅れていた者が地道な努力を重ねるうちに急に周囲が目を瞠るような実績を上げはじめただとか、クラシック音楽のよさが理解できなかった著者が、クラシックを聴き続けるうちにある日突然クラシックに感動できるようになったというように蓄積効果に触れた箇所は実に興味深かった。
 
著者は、楽山が好きになりそうな心霊オタクなのでしょうか。楽山が勝手に妄想を込めているだけなのでしょうか。「蓄積効果」について書いています。それは、努力した人に恵まれるものであって、自己中の怠慢は、幻の満悦に依存して悪酔いするだけです。
 
(ネットより)
蓄積効果:
薬剤を反復投与したとき,初回の投与時よりも著しい効果が発現する現象.
蓄積作用:
〘名〙 薬物をつづけて服用する場合に、薬物が体内に蓄積して、過量に服用したのと同じ中毒作用を現わし、危険な中毒症状を呈すること。
 
楽山は、恐らく、心霊的インスピレーションみたいに受け取って、自分も今そうなんです・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、楽山ブログのどこにも、そのような目覚めは感じられません。いつも、うんざりするような退屈で幼稚な文章ばかりです。自己愛毒の蓄積作用でしょうか。
 
 
努力は必ず報われるとは限らないことは承知しているが、それでも自分のように天分に恵まれない者にとっては努力が報われた話は愉快なものである。こういう希望を持てる明るい話はいつ読んでもいいものだ。渡部昇一の著作は、ただ読むだけで前向きな気持にさせてくれるのでありがたい。
 
楽山に「天分に恵まれない」自覚があるなら、とっくに書くことを遠慮しているでしょう。ずっと、学者気取りで思い上がって書いてきたことが、そして、批判されても、返せないことと、ブレーキが効かないことが、既に、この謙虚芝居を全否定しているのです。
 
楽山は、努力したことはないと思います。何故なら、自己愛性パーソナリティ障害NPDは、既に完全に出来ている自分を訂正不能にしているからです。「希望を持てる明るい話」「前向きな気持にさせてくれる」・・楽山は、無根拠に、努力もないで、希望ではなく、欲望と妄想を持っています。
 
楽山は、このように、有名人の話を、自分の都合に勝手に引き寄せて、自己正当化に結びつける病質者です。楽山の引用は、悪用と言っていいでしょう。楽山の読書は、妄想から多幸症を呼び覚ます手段に過ぎません。有名人を引き寄せる謙虚芝居、だまされてはいけません。
 
 
※ 
 
前の記事で、楽山が画像で示して、賛同していたツイートについて、引用元のツイートをあげておきます。
 
 自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう? 2021年10月16日
 元ツイート
 
 
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
たまに「自分の意見を言うなんてそんなわがままなことできません」とおっしゃる方がいますが、自分の意見を言うことは普通です。わがままではありません。
午前0:27 · 2019年2月1日·Twitter for iPhone
 
「自分の意見を言うことは普通です」・・これで楽山は自己正当化したいようです。自分の意見に責任を持つ範囲での話です。楽山は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、訂正不能の自己愛性パーソナリティ障害NPDです。精神衛生のために、誰も関わることのないように、批判を続けています。
 
言い換えると、意見を言うことは普通です。そして、批判も意見です。つまり、批判を言うことも普通なのです。言いたいことを言って、批判はするな・・などという言い分は成り立ちません。
 
 
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
·7月12日
返信先: 
@takeheart_dさん
「状況を考えずに自分の意見を何が何でも押し通す」というのならわがままになりますが、「自分の意見を言う」という段階ではわがままにはなりません。モラハラ加害者や毒親は、相手が自分の意見を言う、というその段階で、相手のことを「わがままだ」と言うことによって意見を言えなくさせて支配する。
 
楽山は、状況も、それまでの文脈も、無視して、詭弁で、繰り言のような宗教否定を繰り返します。その多くは、印象操作であり、キリスト教に対する幼稚な偏見を語り、訂正不能です。その都度、否定してゆくしかありません。丁寧な意見というだけで肯定し、刷り込まれてしまう人がいるからです。
 
言い換えると、状況を弁えない勝手な楽山は、いつでもどこでも、状況を考えて書かれた批判の対象になります。言い逃れの詭弁、とても醜いです。楽山の筆致に、よく似ている。
 
 
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
当たり前のことを書きますが、「自分の意見を言う」ことと「自分の意見を押し付けない」は両立しますからね。
「自分の意見を言う=相手に押し付ける」と思ってしまっている人が結構います。
「私はこう思う」は意見を言っているだけで、「私はこう思うからあなたもそう思いなさい」が押し付けです。
午後11:55 · 2021年8月2日·Twitter for iPhone
 
趣味とか語っているのではなくて、真実というテーマで語る場合、相反する意見がある場合は、説得するか、修正可能であるか、控える、ということです。根拠もなく言い張り続ける楽山は、訂正不能の自己愛性人格障害なので、修正することも、控えることも出来ません。言論が成り立たない人です。
 
楽山が何と言っても、意見を言って、言ったことに責任を負わないのは、無責任発言という邪悪です。「こう思う」ことが、傷つける発言となり、正常でなく幼稚であれば、批判があるのは当然であります。批判も「意見を言う」ことです。
 
意見を言っているだけだという言い逃れは通用しません。知りもしないで、責任も負わないで、意見を言うことは許されません。楽山は、公共の言論の場を使って言っているのだから。意見を言い、公表すれば、必ず、読み手に何らかの作用を及ぼします。それが邪悪だから批判されるのです。
 
意見を言っているだけだと言いながら、公表すれば、必ず、何らかの影響があるはずです。多くの人が影響を受けるのに、批判が押しつけだと決めつける楽山は、意見の一つである批判が公表されることに、とやかく言う資格はありません。楽山の嘘と詭弁は、必ず、批判という意見に出会うのです。
 
繰り返しておきます。「自分の意見を言う」ことは自由ですが、中身が不穏当な場合、当然、他者の「自分の(批判という)意見」が追いかけてくるということです。上記の2つのツイートは、殆ど、説得力のないものだということです。
 
小中学校レベルの道徳ですが、言論の自由は、言論の責任を負う人に許される自由であります。つまり、間違えたら反省し修正できることが条件です。自由には責任が、権利には義務が付いてくるのです。それを全く理解していないのが楽山です。呆れます。
 
 
嘘と詭弁の醜い自己弁護

嘘と詭弁の醜い自己弁護
 
 
(2021年)
(2022年11月09日、再録+加筆)
 
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも外れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  繰り言の目
 
また引っ張り出すのか
泣くこともできないくせに
それとも時々引きつけみたいに
顔をわなわな震わせるのは
泣いているつもりか
 
それに時々独りの部屋で
ホーとかガーとか奇声を発するのも
笑っているのではなさそうだな
テレビのお笑いにも
顔の肉は薄暗く弛んだままだ
 
最近ちょっと変なのは
前にも言ったようなこと
また今になって並べるのは
言ったこと忘れてしまったのか
 
繰り言という兄弟だ
愚痴も兄弟だ
引っ張り出すことが勝手でも
長いこと涙したことないだろう
 
歪んだ分別が邪魔しているのか
その赤い結膜の炎症の眼
涙一滴も落としていないくせに
つり上がって尖った細い眼で
強がるのは止めろ
 
 
 
★こも/楽山ツイート
@komo266
恥ずかしながら自分も本を読んでないけど、
P氏は、日本人としてのアイデンティティを持つことと、カルトに入れ込んでカルト的思考に染まることの違いに無頓着で、マイコンは主体性を奪い、自分の人生を生きられなくするものだということは全く理解できてないのはわかったよ。 
 
楽山は、今までのことから、無神教カルトの妄想的確信に染まって訂正不能です。ゆえに、人間としての同一性を持っていません。楽山こそ、無責任、無頓着、無理解です。さらに、楽山は、詭弁によって他者の主体性を奪う加害者です。自分を見ず、理解を装う無節操な芝居に、いつも呆れます。
 
誰かを批判する楽山の言葉は、実際には、楽山を批判し否定してゆきます。自分から発した言葉が自分に返ってくるのを、ブーメランと言います。大方の、楽山のきれいごとはブーメランとなっているのに、それに気づかないのは、自分を見る目がないために起こっています。呆れるほどの愚か者です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自己弁護を返してきます。無責任の言い逃れです。吐き気がするほど幼稚で、一度も成り立ったことはありません。つまり、そういう、しょうもないことをやってくる人だということです。楽山の誉め言葉は、心にもない世辞ですので、丁寧語に騙されないようにしてください。
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の捨ててゆく時3
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、どうか巻き込まれないでください。
 
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
楽山こそが、その人、話の通じない人です。世辞か無視かしか返ってきません。楽山にとっては、相手の言うことは、いちゃもんを付けるか、体よくあしらうか、無視するかになります。自分が言いたいだけなのです。当てつけ、世辞、そして、何も気にせず、何も進展しない。・・相手にしないことです。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てることに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。またブーメランで楽山に返ります。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかすために、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、出禁にして、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。楽山は、アドラー教ゆずりの自己中によって、自分に都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。反省せず、学習せず、使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、楽山が、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習せず、成長しないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、無視からの正当化の詭弁です。
 
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、いつも他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の、ふざけた芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔性です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。反省ではなく、楽山の、ふざけた言い回しです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間を大切にすることを「けちん坊」と言うのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。楽山と直接やり取りすることこそ、時間をドブに捨てるようなものです。こういう魔性とは、何より関わらないことが大事です。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。人格から、良心や罪悪感や共感などが、見られません。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。人格破壊にもつながります。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。他者を無視することを正当化したい楽山の詭弁=汚言です。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
詭弁→汚言クラブ

詭弁→汚言クラブ
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月31日、再録+加筆)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・同様の楽山について、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
 
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  農道
 
空の色とは似ても似つかぬ
ソラ色のビニールの
雨に汚れたカバーの下に
石灰に包まれた魂が
瞳のない目をあけている
材木が二本
細く黒ずんで
不揃いにソラ色から足を出し
降ってくる空の恵みの下で
垂れてくるソラの恵みを受けながら
暖かい腐敗を待っている
 
点々と水たまりが追いかけてゆく
走り去る轍の上を
その向こう遠くの山が
流れない雲になって
消えるあたりを目指して
近づかない風景を歩む
雨は上がった
音・・・?
 
生き物がいる
瞬(まばた)きしている
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑤ 信仰者でも地獄へ行く事はある。生き方次第では私が地獄に落ちる事も当然ありえる。
 」
昔はそう説かれてましたが、『救世の法』によれば、HS信者は、悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ。
>>>(サーバーか)
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。
<<<
午後10:33 · 2022年7月29日
 
「悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ」・・楽山は、HSを支えたいのでしょうか。自分が教祖にでもなりたいのでしょうか。天国に行くための何の準備も言動もしていない楽山です。どの口で、安心できることを言うのでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏が自分教になってる原因に、恐らく総裁の言葉の軽視があります。
普通の信者は①であり総裁の言葉から離れませんが、棒氏は②だから総裁の言葉から離れてしまうのでしょう。
①総裁の言葉→気づき→総裁の言葉→気づき→総裁の言葉…
②総裁の言葉→気づき→気づき→気づき→気づき…
午後2:16 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
楽山は、総裁の言葉を重視しているのでしょうか。つまり、HSに賛同しているのでしょうか。楽山は、総裁の言葉を重視して、気づきを重ねて、アンチHSという立場は嘘だったということでしょうか。自分教の楽山は、実は、アンチではなく、信者なのでしょうか。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
他の信者と交流していれば、自然と①になり、総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れると思うので、棒氏はアンチに噛みつき、自説を書き綴るより、もっと積極的に信者と交流したらいいです。
午後2:23 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」と言っている楽山は「信者と交流」し「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」ことを勧めているようですが、楽山がアンチではないことを、自ら証明しているのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心を育て損なっている楽山には罪悪感がありません。サイコパスという言葉は、元々、精神病質と呼ばれる病気でした。精神病と紛らわしいからか、最近は、反社会性人格障害と言われているようです。反社会性が表れてからでは遅いような気がして、自己愛性でいいのではないかと思います。
 
楽山は、書けば書くほど、自己主張と嘘と詭弁だけだと、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスである証拠となってゆくのだと、分からないのでしょう。宿命か因業のように、悪臭をネットに垂れ流してゆくようです。丁寧語が汚言となる例であります。
 
 
 
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  不感不応=無知3
 
 心に思ったことは現実になる?(詩篇108[109])
 2020年05月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、自業自得ということが分からないようです。また、訳の違いで検索しても一致しにくい聖句について、本任せで、解釈の根拠を示しません。そんなに、独りで、言いたいこと言って、引用して満悦したのなら、人に見せずにやってくれと言いたいのです。
 
書くことで満悦したいだけの楽山の自己顕示欲という我欲の産物なので、私は、訳を気にせずに、楽山の聖句引用として批判してゆきます。それでも、楽山が書けば、積み重なった悪意と自慢と自己中の醜さは表れていますから、詭弁の資料となってゆくでしょう。
 
 
スピリチュアル精神世界の方面では、心に思ったことは現実になるとか、その思いに相応しいものが寄ってくるとかいうけれども、それと似た考え方が詩篇でも語られている。
彼は呪うことを好んだので呪いが彼にかかり、
祝福することをきらったので祝福は彼から遠ざかった。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.273)
 」
 
楽山は、とうとう、結論だけを投げてきます。聖句についても、また、楽山のことも、ただの自業自得でしかありません。「心に思ったことは現実になる」とか・・ひどい解釈です。
 
 (詩篇、口語訳)109:17
彼はのろうことを好んだ。
のろいを彼に臨ませてください。
彼は恵むことを喜ばなかった。
恵みを彼から遠ざけてください。
 (詩篇109:17、旧約聖書)
 
これは、例えば、不正をする者に対して、復讐を神に祈り願い、かつ、神に任せる態度です。そうでなくても、例えば、楽山の不正に対する報いは、最終的には、神に任されます。人は、できることをして、神に祈るしかありません。
 
常識的には、訂正不能の悪の自業自得、ということだと思いますが、またしても、楽山は、心に思うと現実になるぞ・・というような、ホラー話として魔界の解釈をしているようです。人間的な見方が出来ない者は、そういう理路をでっちあげてきます。何でも超常的に見るのは、カルトには、よくあることです。
 
ごまかしに次ぐごまかしで、デタラメに次ぐデタラメの解釈で、聖書を恣意的に曲げて、自らへの批判をしにくくしたいようですが、批評として幼稚すぎて何の意味もありません。このようなズルをしているのに、幼稚だと気づかず、何の罪悪感も感じないのが楽山の程度の低さです。
 
楽山の言は、とうとう、誰とも議論などしたくない、例えば「オレは自分の書きたいことを書く、聞け。」・・とでも言ってるようなものです。こういう人の学者気取りの自己満足の話こそ、単方向の寝言に等しいのです。出会うことが災いとは、このことです。
 
一般には、祝福することを嫌う者は、祝福しないのだから、あとは、無視するか、呪うだけになり、ゆえに、祝福されることもなくなるのは、当然のことであり、自業自得であり、それは、まさに、今の楽山に起こっていることなのです。
 
 
こういう法則性が現実にあり得るかどうかは、万人を納得させるべき形で証明するのは難しいことではあろうけれども、ただそれでも自分は根が迷信深くできているせいか、こういうことを信じてしまう方ではある。
 
何の法則なのでしょうか。聖書を読んで、どこかで起こっている現象と見なしているのでしょうか、そう信じてしまうのだそうです。ただの的外れの間違った思い込みです。楽山が聖書から何も良いものを見いだせないのは、当然のことです。
 
楽山は「根が迷信深くできている」・・根深い病理と病原性ですが、ふつう、反省の対象になることを、できているから仕方ない、とでも言い訳しているのでしょうか。そのまま、宗教の批評~批判をする資格などないということを自分で表しているのです。
 
 
それだから、悲観的なことを口に出したり、思ったりすれば、それが現実になってしまうかもしれないので、そういうことは言ったり思ったりしないようにしよう、できるだけ良いことを言ったり思ったりするようにしようと心掛けたりする。
 
心に思うと現実になることを恐れるらしい楽山は、今まで、嘘と詭弁ばかりで、良いことを言ったことなどありません。楽山は、心から良いことを言うことを、心にもないことを良さそうな言葉を見つくろって言うことに、すり替えています。そして、読者に、混同させようとしています。
 
悪意による婉曲の、ボンヤリ言語の悪口と詭弁で、キリスト信仰に、嫌がらせをしているだけです。ナルシストは悲観的なことを考えることがないという無反省と自己満足の狭い部屋で、悪意と嘲笑いだけを育てている楽山の異常さがうかがえます。
 
 
井沢元彦は、日本では言葉に出したことは現実になるという言霊信仰があるために、危機について具体的に言葉に出して議論し、その対策を講ずることが難しく、したがって危機管理が疎かになりがちだとしていたし、これは一理ある意見ではある。
 
楽山個人のことにとどめておけばよいものを、大言壮語に結び付けてゆく自尊過大の誇大化を避けられない楽山です。かっこつけないと気が済まないようです。そして、批評家気取りで、引用した他者の発言を、一理もない楽山が、上から、一理ある、などと言っています。
 
曖昧な書き方しかできない楽山は、どう一理あると言うのでしょう。言霊信仰のほうでしょうか。言霊信仰によって危機管理が疎かになることでしょうか。楽山は、何の役にも立たないくせに、詭弁という邪悪な言霊をまき散らしてきました。
 
 
ただ自分はこれを承知しつつも、それでもやっぱり悪いことを考え、口に出すことには若干の躊躇があるのだから、我がごとながら呆れてしまう。もうちょっとでも頭を近代化して、合理的思考のできる現代人になりたいものだ(笑)。
 
いつも悪意の企みしか考えていないという経過と結果しか表れていない楽山が言っています。合理的思考が出来る現代人になれるのは、反省と学習機能を持っている人だけです。本を読みましたという自慢からは何も生まれてはこないのです。
 
そして、また、冗談を言う文脈ではないのに、ズレた感性からの、真剣味のない「((笑))」です。楽山の、おふざけは、楽山の文脈と理路を、壊して、楽山を、孤独なピエロに変えてゆきます。
 
楽山は、他者の意見を無視する分、思慮が驚くほど浅く幼稚になり、エネルギーのない泥の飾りまみれになって、感動のない隙間を徘徊しているだけなのです。よく「(笑)」などと書ける。これは、偽善カルトのシャロームと同じ症状です。
 
 
 
 聖書と多神教(詩篇95-3)
 2020年05月11日
 楽山日記(LD)
 
 
タイトルは失念したが、何かの本で聖書は一神教だと思われがちだが、実際には多神教であるという指摘を読んだ記憶がある。先日、詩篇を読んでいて、ふとそれを思い出した。
まことにヤㇵウェは大いにして、いとほめらるべく
すべての神々の上に恐るべきもの。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.232)
 」
これは字面だけを見ると、神は複数存在して、ヤハウェはその上に立っているといっているようだ。自分には一神教の世界を想像するのは困難だが、こういう多くの神々と、その上に立つ神という形であれば大分想像しやすくなっていい。天照大神とその他の神々だとか、毘盧遮那仏とその他の如来菩薩という世界観と似てくるので。
 
字面を見るだけで、思いつきで書いています。信仰の実感もない楽山には、神さえも、上から眺めるという傲慢のために、神々と書いているから複数だと言い張ります。否定的か肯定的かという文脈を全く読み取れない楽山です。自分の都合のよいように、読めば曲解しかしないのでしょう。
 
軽々しく好都合だからと思い付きで言ってくる、これは、まさに、自分を最上とする自分信仰の傍若無人の為せるわざであります。異教の神々のことでしょうか、厳密な解釈について、私はよく知らないということを知っています。私の信じる神は御一方なので、こだわる必要は感じません。
 
しれっと「神は複数存在して」と言うのが、情けない短絡による楽山の詭弁です。聖書での神々というのは、異教の偶像の神々のことだと思いますが、楽山は、この情ない話で、神が複数いるという話にして、おとしめてきます。この理解不足は、哀れです。なのに書いてくる楽山は、暗く硬く、陰湿です。
 
 
ずいぶん前のことだが、さる匿名掲示板でHSを退会してキリスト教の洗礼を受けたという人が、神社に神はいない、何もいないというようなことを書いていて、びっくりしたことがあった。
自分はどうも根っからの多神教世界の住人のようで、神社仏閣、祠、山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ、畏れてしまう性質だ。唯物論や無神論に傾いているときであれば、その感覚は薄れるが、それでもまるっきり消失してしまうことはない。
 
「根っからの多神教世界の住人」とは、楽山の、いい加減宗教観の告白です。「山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ」と、まるで真剣味のない楽山の言う宗教観は、楽山に干渉しない人生観的な飾りのようです。自らの崖っぷちに気づかないからでしょう。
 
あらゆる自然や人工の物に、この世ならざる存在を感じると言っている楽山は、霊能者を気取りながら、人間にだけは共感を持つことが出来ないようです。芝居でなく本気で、祈ることも考えることも出来ない理由は、ここにあるのでしょう。楽山の駄弁は、いつも、そこから生まれてくるのです。
 
他者の、そして、人間の存在について何も感じられない楽山は、それを人のせいにして、代償行為的に、自然や物をあがめる、というより、上から "あわれんであげる" 方向に、人間離れして、さらに、霊が分かるっぽいなどと思い込み信じ込むようになったのでしょう。
 
自分は特別だと思い込んで人間離れしてゆく者には、キリスト信仰が芽生えることはないと言ってよいと思います。それは、ただ、人間として人格として異常だということを、霊能者気取りで自己正当化するという幼稚な成り行きを宿命とした堕落に過ぎません。
 
ちなみに、楽山は、自己愛が過剰なので、何も恐れてはいませんし、何を信じてもいないし、何をまともに感じてもいない、ということだけが、書くものに表れてきました。ゆえに、結果として、原始反応だけになって、知性も感性も働かないのでしょう。
 
人間の理路が組み立てられない楽山は、「唯物論や無神論に傾いている」でしょうか、否です。楽山の頭で扱うものが、物しかなく、神はいない、ということであって、「論」にはなっていないと思います。また、どこまでも、見栄を張って、分かっているふうの非現実の偉そうな物言いをしています。
 
 
だからキリスト教の神のみが実在し、その他の神は存在しない、神社には何もいない、空っぽだと信じ、それをリアルに感じることはできないし、それが可能だという人には驚いたのだった。
 
何を言っているのか不明です。神社には歴史と何があるのか、誰も知りません。だから、恐れをいだくのでしょう。説としては、散らされたユダヤ人が、中国、そして、日本に渡って、日本の宗教に影響したという説がありますが、信憑性は不明ですし、個人の信仰に影響するわけでもありません。
 
楽山が唯一感じるのは、なんでも感じているつもりの自我の満悦感でしょう。実際は、感じているのではなく、感じているつもりで思い上がる唯我独尊の慢心だけとなり、感じないことへの恐れがなくなり、情性の鈍麻と、修正不能の傲慢から、主張がことごとく的外れになってしまう定めなのです。
 
 
この辺りのことからすると、一神教と多神教世界の住民の自分との間にある溝は、想像以上に深くて、そう簡単に埋められるものではないらしい。
 
一神教と多神教をまとめてしまうことは元々されていないわけです。楽山が、宗教について何も知らないことを表しているだけなのです。結局、楽山の、自他未分化、神聖と自分未分化、ということです。そのことは「心の理論」の誤解~曲解に表れていました。
 
さらに、楽山は、恐れをいだくべき対象を考えられず、全部、自分の世界の持ち物扱いになっています。自分の貧困な枠の中で、あたかも、世界の真理を語っているかのように装い、その報いとして、自己愛だけの崩壊した精神となっているのです。
 
腹いせのためだけにキリスト教を攻撃し、嫌がらせする悪意だから理路も共感もなく書ける、ということに、楽山は、満悦できる人物のようです。書けば書くほど、楽山という病魔の根深さを感じます。壊れた人、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
人の信仰は、悪魔性に勝てるでしょうか。単独で勝てはしません。できることをして、結果を神に委ねるだけです。そうして、積み重ねられてゆくものが、必然的に、信仰においては神への捧げものとなり、人が受け取るものは、いつも、与える神に任されています。
 
 
魔性は、信仰に勝てるでしょうか。勝てるでしょう。人間的なエネルギーを、少しも使わず、消費しないのですから。しかし、そういうエネルギーは、神の前では、泡沫以下になることを知っています。
 
楽山は、自分あての独り言の手紙でしかないものを、他者への悪口で満たして、公共の場に貼りつけ、かつ、何も受け取らず、自己満足の砂場に、怒気だけを積み重ねて、破壊の鉱毒を自らに満たしてゆくのでしょう。
 
シャロームと同様に、宗教についての偏見を訂正不能にして、否定の先入観を、公共の場に垂れ流しているから、楽山の言は、文責を負わない分、理路も共感もなく、短絡的に乱暴で、侵襲性のある誘導となり、とても有害なのです。
 
 
無知の増殖

無知の増殖
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月11日、再録+加筆)
 
 
 
  無知の人
 
信仰についてならば
私の体験を少しばかり
乏しい記憶に基づいて
出会いのように語れるかもしれない
しかし神様の話となると
全知全能には耐え難く
話は乾いた土壁のように
ぽろぽろぼろぼろと崩れてゆく
遺書も残さず無縁の墓へ独り
素っ裸で逃げ出したくなる
 
万物の創造主について語ろうとすれば
例えば時に科学者が
宇宙の摂理の代名詞として
神の名を口にするように
話は宗教に向かおうとせず
むしろ進むほどに無機質に近い
 
道端の石ころが
それを拾う者
ならべて数えて遊ぶ者
投げ捨てる者
見向きもせぬ者を数えるかのようだ
石ころが万物の
空と陸と海とを測るかのようだ
 
その口の端に神を呼び
祈り求めることがあったとしても
私は無能の者・無知の人
神を理解しなければ救われぬのなら
私は遠ざかる永遠の転落である
 
 
  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
しかし私は語れない
そのことばかりは
 
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
 
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
 
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
 
  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
逆流の雑音を奏でる聴診器
は既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
 
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
 
  雑草と無知
 
飾っておくほど綺麗じゃないとか
どこにでも生えて邪魔になるとか
で呼ばれているけど
雑草
じゃないんだよ
みんな名前ついてるんだ
知らないだけなんだ
無知が括(くく)ってしまう不覚
 
名を呼んでもらえなくても
次の世代の種を残し
綺麗じゃなくても
邪魔になっても
雑草は生き続ける
 
無知はこれからも括るだろう
次の世代の種を残すとは限らないが
無知は無知で生きてゆく
名を呼ばれながら
しかし無知は括られた名で
普通と呼ばれている不覚を
しばしば忘れる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「反省、謝罪は大事なことだと」まるで分っていない楽山です。求められてもいないのに、同じように誘導の詭弁を書いてきます。何か言われたら、論理の迷路を当ててきます。何も分かっていないのに、理解者を気取ります。根腐れ、そして、厚顔無恥が、また、活動を始めています。
 
「恥ずかしながら」が嘘であることは、恥ずかしさに、他者を巻き込んで、「自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね」という一般化に表れています。こういう、痒くなるような詭弁で、自己正当化が成り立つと思っている楽山の闇は、恐ろしく深いと、いつも感じます。
 
 
 
 楽山の最近のツイッターですが
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
一方、退会者がよく言う台詞に「ありのままの自分を認めることができた」というものがあります。シンプルな自己肯定です。
短絡的に決めつけることはできませんが、精神的に不安定な人は退会者より、信者に多いのは、このことと関連してそうに思います
午前6:10 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
「ありのままの自分を認めることができた」という退会者の発言は、退会したときなのでしょうが、楽山は、またしても、まともアピールのために、「精神的に不安定な人は退会者より、信者に多い」と論評しているつもりです。他者のことばかり言って、自らの惨状を見ません。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、ずっと精神的に不安定どころか、症状を露呈しています。しかも、人の意見は聞かずに無視して、それで批評できると思っている病質なので、同情するべきところが何もありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、信者も総裁と同じく、自己実現を求めている人が多いです。
光の天使になりたい、理想的信者になりたいとか…。
HSではこれを自己変革と表現しますが、実際は自己実現です。
言い換えれば、自己肯定ができていない、今の自分以外のものになりたがってるということです→
午前6:04 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
楽山には、教祖願望があるようです。そして、既に、批評家気取りです。楽山の自己肯定も自己実現も、自己についての誇大妄想です。楽山は、反省をしないのだから、自己肯定も自己実現も、今のままでは、してはいけない人です。自分というものに妄想的自己愛で絶対肯定するのが楽山の病気です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
HSは、総裁の自己実現なのだと思います。
総裁は仏陀、救世主、至高神、国師、ワールド・ティーチャー、大金持ち、大霊能者になりたがっているから、霊言をしたり、指導者として他者を叱ったり、富を自慢するのでしょう。
金儲けは一要素にすぎないので、それで全てを説明するのは無理だと思います。
午前5:54 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
楽山の自己実現は、成り立ちません。正常な人格が成立していないからです。楽山も、霊能者気取りがあり、霊が分かるっぽいという自覚を記事に書いています。そこからの誇大妄想と異常な自己愛が、関わる人の人格を破壊する恐れがあります。楽山の自己実現は、恐ろしい妄想なのです。
 
「金儲けは一要素にすぎない」「全てを説明するのは無理」・・どういう意味でしょう。HS・ORに対して、肯定でしょうか、否定でしょうか。楽山は、時に、HSの用語を自論に用いたりすることがありますが、本当にアンチなのか、疑問です。否定していない可能性があります。
 
というのは、いちばん問題なのは無神教カルトの楽山その人だからです。底意地の悪い策士なので、どうか、真に受けないようにしてください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、丁寧語を使って、人を惑わします。どうか関わらないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
·15時間
やっぱり、こうしてツイッターをやる上で
・情報は漏らさない
・秘密は守る
・他人のプライベート等を詮索しない
って大事だよね。お互い、身バレのリスクとかもある訳だし。
とにかく信用第一!
午前9:49 · 2021年5月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/asasfjgg/status/1396266952536952832
 
ツイートに対しての反論ではなく、楽山を批判しています。なぜ、楽山が、このツイートを引用しているかということです。「情報は漏らさない」「秘密は守る」「他人のプライベート等を詮索しない」・・楽山の秘密は、罪悪の秘密だからでしょうか。何か悪いことに誘導する意図があるのでしょうか。
 
知らせなければ、だまされる人が増えるでしょう。いわゆる、悪の隠し事ですから、プライベートではなく、詮索ではなく、隠そうとする者を放置してはいけないから、公開して敷衍すること、即ち、批判して、広く知らせることが必要だということになります。
 
他者の口を、詭弁に変える楽山のリツイートです。楽山が隠しているのは、尊厳にかかわる個人情報や秘密ではなく、無視と無反省と無責任の、反道徳の罪悪です。どんどん暴露して明らかにして、楽山を裸にするしかありません。楽山は、決して信用してはいけない人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
幸福の科学における二世問題は、(略)幸福の科学学園や「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ」という、無認可の”大学もどき”に2世の多くが通い、
そこで社会性や常識が身につかないまま「宇宙人」や「霊言」などの荒唐無稽な教義を刷り込まれ、反発する者は悪霊扱い、などの点が問題。
午前0:40 · 2021年5月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/asasfjgg/status/1396128780683563014
 
ツイートした人ではなく、リツイートした楽山を批判しています。楽山は、また、他者の言を、恣意的に、悪用しています。「社会性や常識が身につかない」典型は、楽山です。反省しないですし、発言の責任を負いません。大人なら弁えることを、楽山は、必要を感じないし、考えない人です。
 
楽山ブログは、霊の問題に執着して、ふつう、なくてもいいし、結論が出るわけでもないような、霊の関連の記事が多いわけです。霊能があって霊が分かるつもりでいるのでしょう。ゆえに、霊言についても記事にしています。楽山にとって、他者は人間ではなく、霊か、お化けなのかもしれません。
 
つまり、楽山は、常識人ではなく、HSを批判しても、本当の批判になっていないのです。宗教と信仰についても、霊とかの超常の問題としてしか考えていません。現実の生き方に必要だとは思っていない、というより、楽山には、現実に向かう視線がないと思います。
 
つまり、楽山の考え方は、空想的なカルトに近いということです。超常の辻褄合わせに、執拗に、こだわって、日常の考え方と感じ方が、習得されておらず、したがって、現実の宗教と信仰について、何も、まとまった意見を書けません。お伽噺のヒーロー願望ではないかとも思われます。
 
 
 
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  矢印の人々3
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは、都合のよい出来事を奇跡に結びつける。「何度、奇跡に救われたことでしょう」「私たちは、いつのときも安らかです」・・怪しい宣伝文句になってゆきます。カルトに顕著ですが、キリスト教にも、そういう傾向を持つ人がいるようです。
 
自分に都合の悪い出来事、悲惨な死や自殺については、語ることが背教であるかのように、無かったこととして口を閉ざし、記憶から消してしまうかもしれません。考えても結論は出にくいけれど、本来、最も重要な人生の課題なのです。
 
ひどい偽善者になると、強烈なベクトルを持っていて、いつも自分の味方をする神への信仰になり、違うベクトルに対しては、びくともせずに、逆に、へし折って悔いることがありません。
 
そして優しさのつもりで、気に入らない人に対して、冷ややかに「彼は少し冷静さを欠いたようです」というような、慇懃無礼な冷酷さだけが目立つことがあります。
 
言い古された言葉を並べただけで、納得し陶酔するような、彼らがこしらえた感謝のレセプターは、人間的感性のレセプターを押し潰すほど強力な条件反射になっているでしょう。人間同士の共感のない讃美には、救いの共感も生まれません。
 
いつどこで起こる災いも不幸も、自分と同じ信仰を持たないからだという因果律を当てはめて、ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続けるでしょう。いつどこで起こす災いも不幸も、不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって、すべて信仰の名の下に隠して、彼らは結束し増殖するのです。
 
彼らの強さによって、何度、正直な人間性は潰されてゆくことでしょう。彼らは、実に、まるで肉欲のように、いつも単方向のベクトルを突出させ、固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくるのです。
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
優しい言葉や、丁寧な言葉を書いて、理路や文脈に隠された悪意を隠している者がいます。いたわりの言葉は嘘で、へりくだりは芝居です。じわじわと恣意の狭小な思想を刷り込んできます。そういう人の言は、思想も体験も、実感がなく、月並みで、単調で、感動を与えないのが、特徴です。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さず、いつも余裕ありげに振る舞い、悟りの境地を得ているふうの、うわべだけの偽信仰者や偽伝道者たちの穏やかでない正気も狂気も、私は書いてゆくしかないようです。そういう人は、正直な助言をせず、正直な祈りをしない人たちです。
 
 
思い込みの単方向

思い込みの単方向
 
 
(2011年)
(2019年)
(2021年)
(2022年06月05日、再録+加筆)
 
 
 
  存在について
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを元にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、自他の存在を受け取っており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認識しようとします。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
 奇跡について
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、"分からない" ですと答えるべきなのです。神のものは、神に任せるべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
私たち一人一人の、奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、人間としての心に起こって、共感できるゆえに生きる縁(よすが)となる魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。
 
 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない
と幾度も心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなくて
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  酸素
 
酸素が必要だ
 
目は開いている
呼吸が止まった
 
わずかに声帯を震わせて
圧迫された息が解放される
 
 0・一秒いや0・0一秒
 気道の中に閉じ込められた空気は
 誰にも見えない闇の中
 誰にも見えない方向に
 壁を打ち破ろうとした力
 熱の加速
 神経が電撃となり
 筋が一挙に統制され
 収縮したことは確かだが
 
呼吸が再開した
収縮を繰り返す筋肉
目は開いている
動いている
眩しい視線と
光が天に走る中
呼気のように汗が吹き出す
さらに激しく取り込まれる空気
 
酸素が必要だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
不感不応の単方向の意見を繰り返してゆくと、その間、無思考になり、修正不能になり、それを、常識であるかのように、繰り返して、自ら、考えない人生をアピールしてゆくことになります。単方向の、単一次元の、何の面白みもない頭から、平気で、ぬるりと、つんのめってくる見苦しさです。
 
 
 
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