ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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  楽山の捨ててゆく時3
 
 時は金なり、命なり
 2020年07月19日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
引用して、結局、当たり前のことを、お陰様で勉強になる、時間の大切さ、時は金なり、その通り、という、宿題に困った小学生の幼稚な感想文のようなことだけしか書けない楽山です。書く必要のないことを書いて、一人前の言論者のつもりでいる自己満足の楽山です。
 
その一方で、批判されたことを、ことごとく無視して、無反省で訂正不能の、唯我独尊の悦楽に入るような、見かけの飾りだけの楽山であり、いちばん、時を無駄にしている楽山であります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、どうか巻き込まれないでください。
 
 
ツイッターを眺めていたら、次のツイートが流れて来た。
「あぁ、この人話通じないな」って感じの人に出会ってしまったら2秒で諦めて感情オフモードに入るといい。真面目な人ほどわかり合おうとするから体力も感情もゴッソリ持ってかれる。わかり合うには双方の歩み寄りが必要で、相手がそれする気ないならわかり合うとか無理だから。諦めちゃっていいんだよ
 」
2秒で決断できるのはスゴイ。リプも深い言葉が沢山ついている。お陰様で勉強になる。
 
楽山こそが、その人、話の通じない人です。世辞か無視かしか返ってきません。楽山にとっては、相手の言うことは、いちゃもんを付けるか、体よくあしらうか、無視するかになります。自分が言いたいだけなのです。当てつけ、世辞、そして、何も気にせず、何も進展しない。・・相手にしないことです。
 
切り捨てる他者についての乱暴な文章です。2秒で決断できるとは思えません。楽山は、自己正当化に都合がよければ、そこだけに無条件に賛同して引用してきます。「スゴイ」「深い言葉が沢山」「お陰様で勉強になる」・・人を切り捨てることに、これだけ喜ぶ人も珍しいでしょう。
 
楽山は、通じないからではなく、自己中から、無視してゆきます。私は、この楽山に、批判する前、数か月、振り回されました。残ったのは、言いようのない異常な疲労感です。楽山は、相手の意見を受け取って、考えて、返すということが、全くできない人です。またブーメランで楽山に返ります。
 
楽山は、ああでもない、こうでもない、ていうか、かなあ、というような婉曲的な筆致と、浅ましいほどの詭弁によって、私がボンヤリ言語と呼んでいるのですが、ごまかすために、振り回してきます。楽山とのコメントなどの遣り取りは、百害あって一利なしです。
 
楽山こそ、「わかり合おうとする」と「体力も感情もゴッソリ持って」ゆく人です。楽山が「双方の歩み寄り」というのは、自分に賛同することが前提ですから、まるで、話になりません。話にならない人については、誰も近づかないように、批判することしか出来ません。
 
上のような引用をして、またしても、自己正当化と、遠回しに他者への貶めをしてくることから明らかですが、楽山の記事というのは、大方、このような恣意的な意図をもって書かれており、一見、まともに見せてきますが、実際は、良識に、いちばん背いているのが、楽山なのです。
 
だまされないでほしいと思います。私にとっては、いつもの楽山の卑怯な筆致です。楽山は、私の批判に対して、一度も、まともな反論や弁明をしたことがありません。同じような苦情を並べるだけだったので、出禁にして、直接の対話を避けています。
 
だます人なので、誰も引っかかることのないように、批判記事を書いています。楽山は、アドラー教ゆずりの自己中によって、自分に都合の悪いことを総て無視しています。このような単方向しか持たない人との会話は避けてください。無駄に疲れるだけです。
 
楽山は、自己愛性人格障害NPDなので、孤独になっても、この記事のようなことを書いて、独りで悦に入る、ということが出来るのです。反省せず、学習せず、使命感もなく、責任感もなく、思いついたら書いて、人に見せることで、独り満悦するのでしょう。
 
しかしながら、楽山が、不都合を無視することは、自らの非を認めず、反省せず、学習せず、成長しないということです。したがって、知性も感性も鈍麻して、中身の殆どない記事を書いてきます。他者の文章の中から、都合の良い文言だけを書いてきます。まさに、無視からの正当化の詭弁です。
 
 
ただ自分は根が優柔不断であり、いらぬ口をはさみたい一言居士でもあるので、これを実践するのはなかなか難しい。
 
このような卑下は、楽山が同情をひくための嘘であり、今までも、しばしば見られてきたことです。優柔不断で一言居士が治らないなら、直す努力の後も見られないわけですから、人に向けて公開する文章など書くべきではないのです。
 
 
つい先日も、ツイッター上の議論をみて、つい横から口をはさんでしまい、そのあとすぐに「しまった! これは話が分からん人だ」と気づいたものの、話を打ち切ることができず時間を無駄にしてしまったのだった。最近はネット上の巡回先を狭めて、自分の趣味と家族のための時間を増やそうとしていたのに、また振出しに戻った形であった。とほほ。
 
このように、「しまった! これは話が分からん人だ」というように、不都合を、いつも他者のせいにしてきます。自分の非を認めません。さらに「とほほ」というワンパターンの常習の、ふざけた芝居を入れてきます。楽山の言語には、成長がありません。話が分からないのは楽山のほうです。
 
楽山は、自分と関わる人の時間を、ことごとく無駄にしてゆく魔性です。そして、反省と書いたり、この記事のように、とほほ、とか書いていますが、その実がなく、その前と全く変わりなく、勝手な思い込みを前提に書いてくるのです。反省ではなく、楽山の、ふざけた言い回しです。
 
この楽山の、詭弁としての、わざとらしい書き方を、トホホ言語と呼んでいます。曖昧な書き方をするボンヤリ言語と並んで、人を煙に巻く善人気取りの、三文芝居を当ててくる大根役者が楽山です。楽山は、だますことを目的とする典型的な偽善者です。
 
楽山は、優柔不断なのではなく、自分の都合だけで、自分のためにだけ、記事を書きます。そして、だまされた人が、やさしい人柄ですね、など世辞を書いてくるのを待っているのです。実質的な議論や話し合いなど、全くする気がないのです。
 
楽山の記事もコメントも、どこからか、自己中心に拾ってきた、自分に賛同し、自分を褒める言葉でしかありません。楽山は、人と交わすための言葉を、全く持っていない人です。それで、自分に都合がよい言葉を引用して、べた褒めすることは、結局、自画自賛しているのと同じです。
 
 
あまりにけちん坊すぎるのも嫌だけども、それでもやっぱり時間は大切にしたいものだ。「時は金なり」というけれど、これは控えめな言い方であって、本当は「時は命なり」といっても、ちっとも大げさではないのだ。
 
時間を大切にすることを「けちん坊」と言うのでしょうか。時間を大切にしないことは物惜しみする「けちん坊」なのでしょうか。日本人として、言葉がおかしいと思います。楽山と直接やり取りすることこそ、時間をドブに捨てるようなものです。こういう魔性とは、何より関わらないことが大事です。
 
前に書いたことですが、シャロームは、ブログで参照する教会が韓国の教会で、韓国に友人がいると言っていたので、在日のようです。そのシャロームに無条件賛同する楽山も在日だろうかと思っています。シャロームと楽山のしていることを、日本人アホ化計画か・・と言ったことがあります。
 
どの国にも、どの民族にも、民族宗教が偏向して狭量となる悪者はいるわけですが、そういう例となる楽山とシャロームなのでしょうか。だとすれば、カインの末裔であるかのように、道理として、どの国でも、どの民族でも、無反省、無責任の自己中は、許されるわけははないのです。
 
楽山は、時間をことごとく無駄に消費して、人生の可能性を捨ててゆく生き方です。そのために、思考も情緒も、恐ろしく鈍感になり、ますます、気づきというものがなくなっています。人格から、良心や罪悪感や共感などが、見られません。
 
この方向は、ずっと続くだろうと思います。楽山の言うことを真に受けて、付き合い続ければ、言いようもない疲労に陥れられて、かつ、同じように鈍感になるでしょう。人格破壊にもつながります。それが狙いで、楽山は、壊れた言葉をつないで、自己満足する人なのでしょうか。
 
 
と、ここまで書いてから検索してみると、やっぱり既に「時は命なり」と言っている人がおられた。 内容紹介を読むと、時間の大切さを説いているようだ。まさしくその通りと思う。
 
ここで、「時は命なり」を「言っている人がおられた」などと、初めて聞いたかのような書き方をしています。誰でも知ってる「時は金なり」を、意味を強めて自己中正当化に使っているだけでしょう。楽山の詭弁の作為を見逃してはいけません。他者を無視することを正当化したい楽山の詭弁=汚言です。
 
そして、「時間の大切さ」と、これまた、当たり前のことを書いて、締めに「その通り」と言って、記事を書いたつもりなのです。自分の言葉を持たない楽山の世界に、どうか巻き込まれることのないように祈っています。文章の見かけより、はるかに、悪質な性根だと思います。
 
 
詭弁→汚言クラブ

詭弁→汚言クラブ
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月31日、再録+加筆)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
(※ 昔、ネットの詩の投稿サイトに参加していて、そこに雑言を書き込んできた荒らしのことを書いたものです。90年代でした。・・同様の楽山について、しばしばアップすることになりそうです。)
 
 
  衰える繰り言
 
衰えは隠せない
年を取れば
耳は遠くなるだろう聾(ろう)に向かって
目は薄くなるだろう盲(もう)に向かって
ついには沈黙と暗闇の中で
頭は更に呆けて想念も飛ばなくなるだろう
繰り言ばかりが増えるだろう
 
そんな歳まで生きていたくない
もう言葉も・・・眠らせて・・・
 
そんなとき不意にエンジン音を響かせて
弱き身を支えんと目を覚ます一つの不安と
不穏、不穏不穏!
黙(しじま)はあまりにも遠く
果てしなく響く叫び
聞かれるのを待っている
 
闇はあまりにも薄く
広がりすぎた光の世界
見られるのを待っている
 
それが身をもって分かれば
またも繰り言なれど
死んでもいい生きてもいいと何故言えぬ
 
言葉は要らないなんて
決して言えない決して言わない
どんなに遠くどんなに薄くても
叫びも光も言葉を求めるだろう
黙に聞き入る耳と
闇を睨み続ける目がある間は
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
 
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
 
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
 
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
 
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
 
※ 「果(はか)」は辞書によって違いますが、「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  農道
 
空の色とは似ても似つかぬ
ソラ色のビニールの
雨に汚れたカバーの下に
石灰に包まれた魂が
瞳のない目をあけている
材木が二本
細く黒ずんで
不揃いにソラ色から足を出し
降ってくる空の恵みの下で
垂れてくるソラの恵みを受けながら
暖かい腐敗を待っている
 
点々と水たまりが追いかけてゆく
走り去る轍の上を
その向こう遠くの山が
流れない雲になって
消えるあたりを目指して
近づかない風景を歩む
雨は上がった
音・・・?
 
生き物がいる
瞬(まばた)きしている
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
⑤ 信仰者でも地獄へ行く事はある。生き方次第では私が地獄に落ちる事も当然ありえる。
 」
昔はそう説かれてましたが、『救世の法』によれば、HS信者は、悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ。
>>>(サーバーか)
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<<<
午後10:33 · 2022年7月29日
 
「悪霊に憑依され、言動に問題ありの状態が続いた人でも、天国に還れるようですよ」・・楽山は、HSを支えたいのでしょうか。自分が教祖にでもなりたいのでしょうか。天国に行くための何の準備も言動もしていない楽山です。どの口で、安心できることを言うのでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、棒氏が自分教になってる原因に、恐らく総裁の言葉の軽視があります。
普通の信者は①であり総裁の言葉から離れませんが、棒氏は②だから総裁の言葉から離れてしまうのでしょう。
①総裁の言葉→気づき→総裁の言葉→気づき→総裁の言葉…
②総裁の言葉→気づき→気づき→気づき→気づき…
午後2:16 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
楽山は、総裁の言葉を重視しているのでしょうか。つまり、HSに賛同しているのでしょうか。楽山は、総裁の言葉を重視して、気づきを重ねて、アンチHSという立場は嘘だったということでしょうか。自分教の楽山は、実は、アンチではなく、信者なのでしょうか。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
他の信者と交流していれば、自然と①になり、総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れると思うので、棒氏はアンチに噛みつき、自説を書き綴るより、もっと積極的に信者と交流したらいいです。
午後2:23 · 2022年7月30日·Twitter Web App
 
「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」と言っている楽山は「信者と交流」し「総裁の言葉を中心にした信仰に立ち返れる」ことを勧めているようですが、楽山がアンチではないことを、自ら証明しているのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心を育て損なっている楽山には罪悪感がありません。サイコパスという言葉は、元々、精神病質と呼ばれる病気でした。精神病と紛らわしいからか、最近は、反社会性人格障害と言われているようです。反社会性が表れてからでは遅いような気がして、自己愛性でいいのではないかと思います。
 
楽山は、書けば書くほど、自己主張と嘘と詭弁だけだと、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスである証拠となってゆくのだと、分からないのでしょう。宿命か因業のように、悪臭をネットに垂れ流してゆくようです。丁寧語が汚言となる例であります。
 
 
 
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  不感不応=無知3
 
 心に思ったことは現実になる?(詩篇108[109])
 2020年05月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、自業自得ということが分からないようです。また、訳の違いで検索しても一致しにくい聖句について、本任せで、解釈の根拠を示しません。そんなに、独りで、言いたいこと言って、引用して満悦したのなら、人に見せずにやってくれと言いたいのです。
 
書くことで満悦したいだけの楽山の自己顕示欲という我欲の産物なので、私は、訳を気にせずに、楽山の聖句引用として批判してゆきます。それでも、楽山が書けば、積み重なった悪意と自慢と自己中の醜さは表れていますから、詭弁の資料となってゆくでしょう。
 
 
スピリチュアル精神世界の方面では、心に思ったことは現実になるとか、その思いに相応しいものが寄ってくるとかいうけれども、それと似た考え方が詩篇でも語られている。
彼は呪うことを好んだので呪いが彼にかかり、
祝福することをきらったので祝福は彼から遠ざかった。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.273)
 」
 
楽山は、とうとう、結論だけを投げてきます。聖句についても、また、楽山のことも、ただの自業自得でしかありません。「心に思ったことは現実になる」とか・・ひどい解釈です。
 
 (詩篇、口語訳)109:17
彼はのろうことを好んだ。
のろいを彼に臨ませてください。
彼は恵むことを喜ばなかった。
恵みを彼から遠ざけてください。
 (詩篇109:17、旧約聖書)
 
これは、例えば、不正をする者に対して、復讐を神に祈り願い、かつ、神に任せる態度です。そうでなくても、例えば、楽山の不正に対する報いは、最終的には、神に任されます。人は、できることをして、神に祈るしかありません。
 
常識的には、訂正不能の悪の自業自得、ということだと思いますが、またしても、楽山は、心に思うと現実になるぞ・・というような、ホラー話として魔界の解釈をしているようです。人間的な見方が出来ない者は、そういう理路をでっちあげてきます。何でも超常的に見るのは、カルトには、よくあることです。
 
ごまかしに次ぐごまかしで、デタラメに次ぐデタラメの解釈で、聖書を恣意的に曲げて、自らへの批判をしにくくしたいようですが、批評として幼稚すぎて何の意味もありません。このようなズルをしているのに、幼稚だと気づかず、何の罪悪感も感じないのが楽山の程度の低さです。
 
楽山の言は、とうとう、誰とも議論などしたくない、例えば「オレは自分の書きたいことを書く、聞け。」・・とでも言ってるようなものです。こういう人の学者気取りの自己満足の話こそ、単方向の寝言に等しいのです。出会うことが災いとは、このことです。
 
一般には、祝福することを嫌う者は、祝福しないのだから、あとは、無視するか、呪うだけになり、ゆえに、祝福されることもなくなるのは、当然のことであり、自業自得であり、それは、まさに、今の楽山に起こっていることなのです。
 
 
こういう法則性が現実にあり得るかどうかは、万人を納得させるべき形で証明するのは難しいことではあろうけれども、ただそれでも自分は根が迷信深くできているせいか、こういうことを信じてしまう方ではある。
 
何の法則なのでしょうか。聖書を読んで、どこかで起こっている現象と見なしているのでしょうか、そう信じてしまうのだそうです。ただの的外れの間違った思い込みです。楽山が聖書から何も良いものを見いだせないのは、当然のことです。
 
楽山は「根が迷信深くできている」・・根深い病理と病原性ですが、ふつう、反省の対象になることを、できているから仕方ない、とでも言い訳しているのでしょうか。そのまま、宗教の批評~批判をする資格などないということを自分で表しているのです。
 
 
それだから、悲観的なことを口に出したり、思ったりすれば、それが現実になってしまうかもしれないので、そういうことは言ったり思ったりしないようにしよう、できるだけ良いことを言ったり思ったりするようにしようと心掛けたりする。
 
心に思うと現実になることを恐れるらしい楽山は、今まで、嘘と詭弁ばかりで、良いことを言ったことなどありません。楽山は、心から良いことを言うことを、心にもないことを良さそうな言葉を見つくろって言うことに、すり替えています。そして、読者に、混同させようとしています。
 
悪意による婉曲の、ボンヤリ言語の悪口と詭弁で、キリスト信仰に、嫌がらせをしているだけです。ナルシストは悲観的なことを考えることがないという無反省と自己満足の狭い部屋で、悪意と嘲笑いだけを育てている楽山の異常さがうかがえます。
 
 
井沢元彦は、日本では言葉に出したことは現実になるという言霊信仰があるために、危機について具体的に言葉に出して議論し、その対策を講ずることが難しく、したがって危機管理が疎かになりがちだとしていたし、これは一理ある意見ではある。
 
楽山個人のことにとどめておけばよいものを、大言壮語に結び付けてゆく自尊過大の誇大化を避けられない楽山です。かっこつけないと気が済まないようです。そして、批評家気取りで、引用した他者の発言を、一理もない楽山が、上から、一理ある、などと言っています。
 
曖昧な書き方しかできない楽山は、どう一理あると言うのでしょう。言霊信仰のほうでしょうか。言霊信仰によって危機管理が疎かになることでしょうか。楽山は、何の役にも立たないくせに、詭弁という邪悪な言霊をまき散らしてきました。
 
 
ただ自分はこれを承知しつつも、それでもやっぱり悪いことを考え、口に出すことには若干の躊躇があるのだから、我がごとながら呆れてしまう。もうちょっとでも頭を近代化して、合理的思考のできる現代人になりたいものだ(笑)。
 
いつも悪意の企みしか考えていないという経過と結果しか表れていない楽山が言っています。合理的思考が出来る現代人になれるのは、反省と学習機能を持っている人だけです。本を読みましたという自慢からは何も生まれてはこないのです。
 
そして、また、冗談を言う文脈ではないのに、ズレた感性からの、真剣味のない「((笑))」です。楽山の、おふざけは、楽山の文脈と理路を、壊して、楽山を、孤独なピエロに変えてゆきます。
 
楽山は、他者の意見を無視する分、思慮が驚くほど浅く幼稚になり、エネルギーのない泥の飾りまみれになって、感動のない隙間を徘徊しているだけなのです。よく「(笑)」などと書ける。これは、偽善カルトのシャロームと同じ症状です。
 
 
 
 聖書と多神教(詩篇95-3)
 2020年05月11日
 楽山日記(LD)
 
 
タイトルは失念したが、何かの本で聖書は一神教だと思われがちだが、実際には多神教であるという指摘を読んだ記憶がある。先日、詩篇を読んでいて、ふとそれを思い出した。
まことにヤㇵウェは大いにして、いとほめらるべく
すべての神々の上に恐るべきもの。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.232)
 」
これは字面だけを見ると、神は複数存在して、ヤハウェはその上に立っているといっているようだ。自分には一神教の世界を想像するのは困難だが、こういう多くの神々と、その上に立つ神という形であれば大分想像しやすくなっていい。天照大神とその他の神々だとか、毘盧遮那仏とその他の如来菩薩という世界観と似てくるので。
 
字面を見るだけで、思いつきで書いています。信仰の実感もない楽山には、神さえも、上から眺めるという傲慢のために、神々と書いているから複数だと言い張ります。否定的か肯定的かという文脈を全く読み取れない楽山です。自分の都合のよいように、読めば曲解しかしないのでしょう。
 
軽々しく好都合だからと思い付きで言ってくる、これは、まさに、自分を最上とする自分信仰の傍若無人の為せるわざであります。異教の神々のことでしょうか、厳密な解釈について、私はよく知らないということを知っています。私の信じる神は御一方なので、こだわる必要は感じません。
 
しれっと「神は複数存在して」と言うのが、情けない短絡による楽山の詭弁です。聖書での神々というのは、異教の偶像の神々のことだと思いますが、楽山は、この情ない話で、神が複数いるという話にして、おとしめてきます。この理解不足は、哀れです。なのに書いてくる楽山は、暗く硬く、陰湿です。
 
 
ずいぶん前のことだが、さる匿名掲示板でHSを退会してキリスト教の洗礼を受けたという人が、神社に神はいない、何もいないというようなことを書いていて、びっくりしたことがあった。
自分はどうも根っからの多神教世界の住人のようで、神社仏閣、祠、山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ、畏れてしまう性質だ。唯物論や無神論に傾いているときであれば、その感覚は薄れるが、それでもまるっきり消失してしまうことはない。
 
「根っからの多神教世界の住人」とは、楽山の、いい加減宗教観の告白です。「山川草木いたるところに神、カミ、精霊など、この世ならざる存在を感じ」と、まるで真剣味のない楽山の言う宗教観は、楽山に干渉しない人生観的な飾りのようです。自らの崖っぷちに気づかないからでしょう。
 
あらゆる自然や人工の物に、この世ならざる存在を感じると言っている楽山は、霊能者を気取りながら、人間にだけは共感を持つことが出来ないようです。芝居でなく本気で、祈ることも考えることも出来ない理由は、ここにあるのでしょう。楽山の駄弁は、いつも、そこから生まれてくるのです。
 
他者の、そして、人間の存在について何も感じられない楽山は、それを人のせいにして、代償行為的に、自然や物をあがめる、というより、上から "あわれんであげる" 方向に、人間離れして、さらに、霊が分かるっぽいなどと思い込み信じ込むようになったのでしょう。
 
自分は特別だと思い込んで人間離れしてゆく者には、キリスト信仰が芽生えることはないと言ってよいと思います。それは、ただ、人間として人格として異常だということを、霊能者気取りで自己正当化するという幼稚な成り行きを宿命とした堕落に過ぎません。
 
ちなみに、楽山は、自己愛が過剰なので、何も恐れてはいませんし、何を信じてもいないし、何をまともに感じてもいない、ということだけが、書くものに表れてきました。ゆえに、結果として、原始反応だけになって、知性も感性も働かないのでしょう。
 
人間の理路が組み立てられない楽山は、「唯物論や無神論に傾いている」でしょうか、否です。楽山の頭で扱うものが、物しかなく、神はいない、ということであって、「論」にはなっていないと思います。また、どこまでも、見栄を張って、分かっているふうの非現実の偉そうな物言いをしています。
 
 
だからキリスト教の神のみが実在し、その他の神は存在しない、神社には何もいない、空っぽだと信じ、それをリアルに感じることはできないし、それが可能だという人には驚いたのだった。
 
何を言っているのか不明です。神社には歴史と何があるのか、誰も知りません。だから、恐れをいだくのでしょう。説としては、散らされたユダヤ人が、中国、そして、日本に渡って、日本の宗教に影響したという説がありますが、信憑性は不明ですし、個人の信仰に影響するわけでもありません。
 
楽山が唯一感じるのは、なんでも感じているつもりの自我の満悦感でしょう。実際は、感じているのではなく、感じているつもりで思い上がる唯我独尊の慢心だけとなり、感じないことへの恐れがなくなり、情性の鈍麻と、修正不能の傲慢から、主張がことごとく的外れになってしまう定めなのです。
 
 
この辺りのことからすると、一神教と多神教世界の住民の自分との間にある溝は、想像以上に深くて、そう簡単に埋められるものではないらしい。
 
一神教と多神教をまとめてしまうことは元々されていないわけです。楽山が、宗教について何も知らないことを表しているだけなのです。結局、楽山の、自他未分化、神聖と自分未分化、ということです。そのことは「心の理論」の誤解~曲解に表れていました。
 
さらに、楽山は、恐れをいだくべき対象を考えられず、全部、自分の世界の持ち物扱いになっています。自分の貧困な枠の中で、あたかも、世界の真理を語っているかのように装い、その報いとして、自己愛だけの崩壊した精神となっているのです。
 
腹いせのためだけにキリスト教を攻撃し、嫌がらせする悪意だから理路も共感もなく書ける、ということに、楽山は、満悦できる人物のようです。書けば書くほど、楽山という病魔の根深さを感じます。壊れた人、楽山に、決して近づかないでください。
 
 
人の信仰は、悪魔性に勝てるでしょうか。単独で勝てはしません。できることをして、結果を神に委ねるだけです。そうして、積み重ねられてゆくものが、必然的に、信仰においては神への捧げものとなり、人が受け取るものは、いつも、与える神に任されています。
 
 
魔性は、信仰に勝てるでしょうか。勝てるでしょう。人間的なエネルギーを、少しも使わず、消費しないのですから。しかし、そういうエネルギーは、神の前では、泡沫以下になることを知っています。
 
楽山は、自分あての独り言の手紙でしかないものを、他者への悪口で満たして、公共の場に貼りつけ、かつ、何も受け取らず、自己満足の砂場に、怒気だけを積み重ねて、破壊の鉱毒を自らに満たしてゆくのでしょう。
 
シャロームと同様に、宗教についての偏見を訂正不能にして、否定の先入観を、公共の場に垂れ流しているから、楽山の言は、文責を負わない分、理路も共感もなく、短絡的に乱暴で、侵襲性のある誘導となり、とても有害なのです。
 
 
無知の増殖

無知の増殖
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月11日、再録+加筆)
 
 
 
  無知の人
 
信仰についてならば
私の体験を少しばかり
乏しい記憶に基づいて
出会いのように語れるかもしれない
しかし神様の話となると
全知全能には耐え難く
話は乾いた土壁のように
ぽろぽろぼろぼろと崩れてゆく
遺書も残さず無縁の墓へ独り
素っ裸で逃げ出したくなる
 
万物の創造主について語ろうとすれば
例えば時に科学者が
宇宙の摂理の代名詞として
神の名を口にするように
話は宗教に向かおうとせず
むしろ進むほどに無機質に近い
 
道端の石ころが
それを拾う者
ならべて数えて遊ぶ者
投げ捨てる者
見向きもせぬ者を数えるかのようだ
石ころが万物の
空と陸と海とを測るかのようだ
 
その口の端に神を呼び
祈り求めることがあったとしても
私は無能の者・無知の人
神を理解しなければ救われぬのなら
私は遠ざかる永遠の転落である
 
 
  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
しかし私は語れない
そのことばかりは
 
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
 
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
 
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
 
  聴診器の幻想
 
悔いながら懐かしみ
死にそうで生きていけそうで
ここまでは大した心臓で
逆流の雑音を奏でる聴診器
は既に昔の熱(ほとぼり)のように
胸を叩く幻想を傍らに
後ろ向きの赤子と
笑う喀痰の老人を同時に記帳して
費え去る収支のページをめくり
破れた扇子を広げ
無知なる未知に語り続ける
 
初めて字を書いたときの
初めて言葉を失ったときの
初めて忘れたと言ったときの
肉体と精神の継続が
幻想でも現実でもなくなるまで
内緒話の途切れ間を
管のカルテに送り続ける
 
 
  雑草と無知
 
飾っておくほど綺麗じゃないとか
どこにでも生えて邪魔になるとか
で呼ばれているけど
雑草
じゃないんだよ
みんな名前ついてるんだ
知らないだけなんだ
無知が括(くく)ってしまう不覚
 
名を呼んでもらえなくても
次の世代の種を残し
綺麗じゃなくても
邪魔になっても
雑草は生き続ける
 
無知はこれからも括るだろう
次の世代の種を残すとは限らないが
無知は無知で生きてゆく
名を呼ばれながら
しかし無知は括られた名で
普通と呼ばれている不覚を
しばしば忘れる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「反省、謝罪は大事なことだと」まるで分っていない楽山です。求められてもいないのに、同じように誘導の詭弁を書いてきます。何か言われたら、論理の迷路を当ててきます。何も分かっていないのに、理解者を気取ります。根腐れ、そして、厚顔無恥が、また、活動を始めています。
 
「恥ずかしながら」が嘘であることは、恥ずかしさに、他者を巻き込んで、「自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね」という一般化に表れています。こういう、痒くなるような詭弁で、自己正当化が成り立つと思っている楽山の闇は、恐ろしく深いと、いつも感じます。
 
 
 
 楽山の最近のツイッターですが
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
一方、退会者がよく言う台詞に「ありのままの自分を認めることができた」というものがあります。シンプルな自己肯定です。
短絡的に決めつけることはできませんが、精神的に不安定な人は退会者より、信者に多いのは、このことと関連してそうに思います
午前6:10 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
「ありのままの自分を認めることができた」という退会者の発言は、退会したときなのでしょうが、楽山は、またしても、まともアピールのために、「精神的に不安定な人は退会者より、信者に多い」と論評しているつもりです。他者のことばかり言って、自らの惨状を見ません。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、ずっと精神的に不安定どころか、症状を露呈しています。しかも、人の意見は聞かずに無視して、それで批評できると思っている病質なので、同情するべきところが何もありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、信者も総裁と同じく、自己実現を求めている人が多いです。
光の天使になりたい、理想的信者になりたいとか…。
HSではこれを自己変革と表現しますが、実際は自己実現です。
言い換えれば、自己肯定ができていない、今の自分以外のものになりたがってるということです→
午前6:04 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
楽山には、教祖願望があるようです。そして、既に、批評家気取りです。楽山の自己肯定も自己実現も、自己についての誇大妄想です。楽山は、反省をしないのだから、自己肯定も自己実現も、今のままでは、してはいけない人です。自分というものに妄想的自己愛で絶対肯定するのが楽山の病気です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
HSは、総裁の自己実現なのだと思います。
総裁は仏陀、救世主、至高神、国師、ワールド・ティーチャー、大金持ち、大霊能者になりたがっているから、霊言をしたり、指導者として他者を叱ったり、富を自慢するのでしょう。
金儲けは一要素にすぎないので、それで全てを説明するのは無理だと思います。
午前5:54 · 2022年6月9日·Twitter Web App
 
楽山の自己実現は、成り立ちません。正常な人格が成立していないからです。楽山も、霊能者気取りがあり、霊が分かるっぽいという自覚を記事に書いています。そこからの誇大妄想と異常な自己愛が、関わる人の人格を破壊する恐れがあります。楽山の自己実現は、恐ろしい妄想なのです。
 
「金儲けは一要素にすぎない」「全てを説明するのは無理」・・どういう意味でしょう。HS・ORに対して、肯定でしょうか、否定でしょうか。楽山は、時に、HSの用語を自論に用いたりすることがありますが、本当にアンチなのか、疑問です。否定していない可能性があります。
 
というのは、いちばん問題なのは無神教カルトの楽山その人だからです。底意地の悪い策士なので、どうか、真に受けないようにしてください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、丁寧語を使って、人を惑わします。どうか関わらないでください。
 
 
 
 楽山の過去のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
·15時間
やっぱり、こうしてツイッターをやる上で
・情報は漏らさない
・秘密は守る
・他人のプライベート等を詮索しない
って大事だよね。お互い、身バレのリスクとかもある訳だし。
とにかく信用第一!
午前9:49 · 2021年5月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/asasfjgg/status/1396266952536952832
 
ツイートに対しての反論ではなく、楽山を批判しています。なぜ、楽山が、このツイートを引用しているかということです。「情報は漏らさない」「秘密は守る」「他人のプライベート等を詮索しない」・・楽山の秘密は、罪悪の秘密だからでしょうか。何か悪いことに誘導する意図があるのでしょうか。
 
知らせなければ、だまされる人が増えるでしょう。いわゆる、悪の隠し事ですから、プライベートではなく、詮索ではなく、隠そうとする者を放置してはいけないから、公開して敷衍すること、即ち、批判して、広く知らせることが必要だということになります。
 
他者の口を、詭弁に変える楽山のリツイートです。楽山が隠しているのは、尊厳にかかわる個人情報や秘密ではなく、無視と無反省と無責任の、反道徳の罪悪です。どんどん暴露して明らかにして、楽山を裸にするしかありません。楽山は、決して信用してはいけない人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
幸福の科学における二世問題は、(略)幸福の科学学園や「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ」という、無認可の”大学もどき”に2世の多くが通い、
そこで社会性や常識が身につかないまま「宇宙人」や「霊言」などの荒唐無稽な教義を刷り込まれ、反発する者は悪霊扱い、などの点が問題。
午前0:40 · 2021年5月23日·Twitter Web App
https://twitter.com/asasfjgg/status/1396128780683563014
 
ツイートした人ではなく、リツイートした楽山を批判しています。楽山は、また、他者の言を、恣意的に、悪用しています。「社会性や常識が身につかない」典型は、楽山です。反省しないですし、発言の責任を負いません。大人なら弁えることを、楽山は、必要を感じないし、考えない人です。
 
楽山ブログは、霊の問題に執着して、ふつう、なくてもいいし、結論が出るわけでもないような、霊の関連の記事が多いわけです。霊能があって霊が分かるつもりでいるのでしょう。ゆえに、霊言についても記事にしています。楽山にとって、他者は人間ではなく、霊か、お化けなのかもしれません。
 
つまり、楽山は、常識人ではなく、HSを批判しても、本当の批判になっていないのです。宗教と信仰についても、霊とかの超常の問題としてしか考えていません。現実の生き方に必要だとは思っていない、というより、楽山には、現実に向かう視線がないと思います。
 
つまり、楽山の考え方は、空想的なカルトに近いということです。超常の辻褄合わせに、執拗に、こだわって、日常の考え方と感じ方が、習得されておらず、したがって、現実の宗教と信仰について、何も、まとまった意見を書けません。お伽噺のヒーロー願望ではないかとも思われます。
 
 
 
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  矢印の人々3
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは、都合のよい出来事を奇跡に結びつける。「何度、奇跡に救われたことでしょう」「私たちは、いつのときも安らかです」・・怪しい宣伝文句になってゆきます。カルトに顕著ですが、キリスト教にも、そういう傾向を持つ人がいるようです。
 
自分に都合の悪い出来事、悲惨な死や自殺については、語ることが背教であるかのように、無かったこととして口を閉ざし、記憶から消してしまうかもしれません。考えても結論は出にくいけれど、本来、最も重要な人生の課題なのです。
 
ひどい偽善者になると、強烈なベクトルを持っていて、いつも自分の味方をする神への信仰になり、違うベクトルに対しては、びくともせずに、逆に、へし折って悔いることがありません。
 
そして優しさのつもりで、気に入らない人に対して、冷ややかに「彼は少し冷静さを欠いたようです」というような、慇懃無礼な冷酷さだけが目立つことがあります。
 
言い古された言葉を並べただけで、納得し陶酔するような、彼らがこしらえた感謝のレセプターは、人間的感性のレセプターを押し潰すほど強力な条件反射になっているでしょう。人間同士の共感のない讃美には、救いの共感も生まれません。
 
いつどこで起こる災いも不幸も、自分と同じ信仰を持たないからだという因果律を当てはめて、ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続けるでしょう。いつどこで起こす災いも不幸も、不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって、すべて信仰の名の下に隠して、彼らは結束し増殖するのです。
 
彼らの強さによって、何度、正直な人間性は潰されてゆくことでしょう。彼らは、実に、まるで肉欲のように、いつも単方向のベクトルを突出させ、固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくるのです。
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
優しい言葉や、丁寧な言葉を書いて、理路や文脈に隠された悪意を隠している者がいます。いたわりの言葉は嘘で、へりくだりは芝居です。じわじわと恣意の狭小な思想を刷り込んできます。そういう人の言は、思想も体験も、実感がなく、月並みで、単調で、感動を与えないのが、特徴です。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さず、いつも余裕ありげに振る舞い、悟りの境地を得ているふうの、うわべだけの偽信仰者や偽伝道者たちの穏やかでない正気も狂気も、私は書いてゆくしかないようです。そういう人は、正直な助言をせず、正直な祈りをしない人たちです。
 
 
思い込みの単方向

思い込みの単方向
 
 
(2011年)
(2019年)
(2021年)
(2022年06月05日、再録+加筆)
 
 
 
  存在について
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを元にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、自他の存在を受け取っており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認識しようとします。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
 奇跡について
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、"分からない" ですと答えるべきなのです。神のものは、神に任せるべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
私たち一人一人の、奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、人間としての心に起こって、共感できるゆえに生きる縁(よすが)となる魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。
 
 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない
と幾度も心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなくて
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  酸素
 
酸素が必要だ
 
目は開いている
呼吸が止まった
 
わずかに声帯を震わせて
圧迫された息が解放される
 
 0・一秒いや0・0一秒
 気道の中に閉じ込められた空気は
 誰にも見えない闇の中
 誰にも見えない方向に
 壁を打ち破ろうとした力
 熱の加速
 神経が電撃となり
 筋が一挙に統制され
 収縮したことは確かだが
 
呼吸が再開した
収縮を繰り返す筋肉
目は開いている
動いている
眩しい視線と
光が天に走る中
呼気のように汗が吹き出す
さらに激しく取り込まれる空気
 
酸素が必要だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
不感不応の単方向の意見を繰り返してゆくと、その間、無思考になり、修正不能になり、それを、常識であるかのように、繰り返して、自ら、考えない人生をアピールしてゆくことになります。単方向の、単一次元の、何の面白みもない頭から、平気で、ぬるりと、つんのめってくる見苦しさです。
 
 
 
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  超常の神、日常の人 2
 
 
人には手に負えないところの
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神の性質は
人が神を恐れるためにあります。
 
人がそれらを身につけるためでもないし
理解するためでもありません。
 
人は、神の性質・意志・行為を
推測したり想像したり
行動するために判断したりすることはありますが
それは経過と結果を神の前に祈りとして捧げて
人が人として反省し成長するためであります。
 
全知全能ではない人は
限られたこの地上で
人に限られた能力しか持たないのだから
全知全能の神を理解することはないのです。
 
神は、こんなだ、すごいだろ
と言うのが伝道ではありません。
神のすごさを理解できる人はいないのです。
 
また
神のすごさを信じ込んで
人は何を受け取るのでしょう。
 
すごい神が味方だとでも思って
強くなりたいのでしょうか。
これは
強い自分を誇ることであって
神を恐れる態度ではありません。
 
愛と寛容の神は
妬む神でもあります。
金の偶像を否定するだけではありません。
神を思い込む心の偶像をも妬まれるでしょう。
 
神を恐れる態度は
愛と寛容の神だけを信じることだけではなく
戒める神と懲らしめる神を恐れる態度です。
神の妬みを買わないように生きるのが信仰の道です。
 
戒める神と懲らしめる神の妬みを恐れることは
神のごとく完全になる欲望ではなく
神のごとく完全になれないことを弁えるためなのです。
 
道徳を守ったからと
施しをしたからと
誰かを助けたからと
罪深い自分を忘れるくらいなら
 
道徳を守れない意志の弱さを
施しのできない貧しさを
誰も助けることのできない臆病を
そのまま祈り、神に捧げるほうが
まだマシな信仰なのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
 (マタイ18:9、新約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
神について、信仰について、
見える、知っている、分かっている、と思い上がることは、
罪であり、傲慢であり、信仰に反します。
 
揺るがない信仰、そして、
固く信じる、ということは
信仰の忍耐強さを表しています。
思い込みを固くすることではありません。
 
信仰の忍耐強さを支えるのは
キリストの同伴という共感であり、
キリストの愛であり、キリストへの愛に他なりません。
 
 
       きずな・共感

               絆(きずな)は共感
 
 
(2020年05月10日)
(2021年05月12日、再録+)
 
 
古い古いポエム
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
 
そらを みれば
 
そらに すわれ
 
こなごなに なって
 
きえて しまいそうで
 
 
ひとを みれば
 
ひとみの おくに すわれ
 
すきとおる こどくの なかで
 
いきが たえて しまいそうで
 
 
いつのまにか
 
うすい いのちに さく
 
はなの あいだに
 
ただよう かおり まつみの
 
ほのかな
 
ぬくもりのかげに にている
 
 
(90年代か)
 
 
※ いい気持で結びたかったのに、性懲りのない楽山のツイッターで、また、汚れてしまいますが、
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
もう一つ、付け足してはどうだろう。
④ ①②③を理解しない相手には近づかない事
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 3時間
①自分が間違ってるかもしれないと常に自分を疑う事
②世の中には絶対的に正しい意見なんてないと認識する事 
③立場が変われば正義も正解も変わると意識しておく事
視野が狭い人、偏見や思い込みが激しい人、他人とよくモメてしまう人はこの3点を覚えておくだけでだいぶ改善するのではないでしょうか
 」
午後9:29 · 2021年5月11日·Twitter Web App
 
⑤ 視野が広く偏見も思い込みもなく他人とうまくやってるつもりだけの楽山には、近づかない事。
 
楽山は、訂正不能の自己愛のために、自分の間違いに気づかず、視野狭小にて理解力がなく、正義も正解も固着した偏見のままで、深く考えることができず、どこまでも、笑いながら、人を不快にしてしまうのです。まるで自覚と自省がないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山は、人間の心と理路が育っていない自己愛性人格障害なので、どこまでも、人のせいにして、気づかない人です。因業とでもいうか、芝居をするしかない変質者で、反省せず、どんなに恥ずかしいことになっても、書くことをやめないのです。舞い上がり方が、とても陰険です。
 
楽山が、他者を悪く言うとき、その悪口は、ことごとく、楽山に当てはまります。それでも、楽山は、書かずにはおれないのです。わざわざ、自身の醜さを、自分で、あらわにしてゆく、という、恐らく不治の、体質的な病です。のぼせ方が、さらに、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
本性がバレてしまって、それでも、書いて、楽しいのでしょうか、楽山の保身と他罰のリピートについては、理解不能です。未熟と不足と欠損のまま、修正不能だから、人間としての、どん底の評価が変わることもなかったし、今後も続くのですが、舞い上がり方が、とても陰険です。
 
 
(2021年05月12日)
 
 
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  楽山の神噛み
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」
皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。
 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。人として当たり前のことが、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
そして、楽山は、次には、祈らなくても、神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
何が「通じる」というのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、そのキレイさが、自分を斬ってくるという例になってしまいます。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。
 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。どこか、軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、いつも、楽山です。しかも、関わると、関わった相手をも、おかしくしてゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。言っておきますが、楽山は、既に地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。
 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターになっています。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込めるなら、ホラーです。
 
もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。
 
信じられないのではなく、信じる気など最初から無いのが、楽山です。どうでしょう、これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。
 
しかも、楽山は、それで「気がとがめることもない」のだそうです。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。一言も正直のない手遅れ地獄か。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい新作造語で言われても、笑止であるにとどまらず、地獄へのガイダンスに過ぎません。まさに悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで地獄に堕ちてください。
 
いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。
 
世の中には、こういうことでは決して嘘を吐いてはいけない、ということがあるのです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじったわけです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者、「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
嘘と詭弁の孤独

嘘と詭弁の孤独
 
 
(2021年05月09日)
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。
及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」
返信
及川幸久 香港加油!
@oikawa_yukihisa
·5月6日
返信先: 
@viva_mattu
さん, 
@YouTube
さん
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。
 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、残念で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家
 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけなのです。何を、他者のことを、一人前の常識人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。まず、楽山を、批判する人々と批判される人々から、つまり、真面目な言論者から、除外するべきであります。
 
*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。
 
こういう問題は、理屈遊びができるから、楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、ロボットのようなことしか書けなくなります。
 
*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。
 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りません。約2年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、表れてきました。
 
反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。
 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、自分が評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、何を言われても、平気で無視します。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。
 
 
(2021年05月09日)
 
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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