ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  超常と日常3
 
 
聖書に書いてある超常現象、つまり、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活について、信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。何故なら、超常現象の奇跡を信じても、そういう奇跡は、少なくとも、人間には理解できないことであり、かつ、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで、もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから、超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。神の超常は
神に任されることです。
 
さらに、人が超常にこだわることは、日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は、神のみのわざです。神のみに任されることです。人が自分の都合で、神のわざを信じ込むのは、神のわざを決めつけることであり、不遜というものです。
 
一方、心の奇跡は悔い改めであり、神と人との関係において起こることです。心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を信じますと言っても、信じると何が起きるというのでしょう。処女のまま妊娠しますか。何か超常現象を起こせるようになりますか。死んでも肉体が蘇りますか。誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。信じたら超常の奇跡が起こると言われても、実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。病気になってもすぐ治るのでは、病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
 
超常に執着することで生じる鈍感さは、日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。超常の奇跡に頼ってしまえば、人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから、奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは、神の御心に任されていることです。
 
信仰は、信じれば奇跡が起こるという交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は、怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような、
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると、もっと考えるべき日常のこと、人間としての節操や、愛と共感そして真実の追求など、人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが超常現象を信じることは、思考と感情をゆがめてゆくのです。大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら驚きを持って見るでしょう。それで命が助かったら感謝もするでしょう。しかし、それはその時の驚きと感謝以上にはなりません。そういう奇跡で人は成長しません。私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
奇跡に頼って
過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
その上にあぐらをかいて、
もはや人間とすら思えない状態になっています。
この人のどこが救われた人なのでしょう。
滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は、超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。私たちは、私たちに与えられている良きもの、つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において、それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、キリストに対して正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
聖書において
教条と戒律主義に陥った者たちは
儀式の形式を守ることで
良心の実質を疎かにして
守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
選ばれた者という自覚に思い上がり
そしてキリストを殺す者となり
神の怒りを買いました。
 
信仰は共感の可能な心によってのみ受け取られ、悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、神のごとくであることを求めない敬虔によって、代わりに人間らしい心を与えられ、育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるためには、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、
神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常

超常と日常
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月21日、再録+加筆)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業は、何を言われても、何事もなかったかのように無視して書いてくることです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、継続的に批判しなければならなくなります。
 
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。しばしば書いてきた「反省」「とほほ」などは、もはや、楽山の嘘の典型です。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、自覚がないか、または、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明するだけです。根腐れの進行であり、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
 
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
 
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
 
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
 
遭遇から終焉に至るまで
出会(でくわ)す有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
 
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
 
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
 
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
  秘密と定め
 
二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  信仰と固定(再)3
 
 
人間が、神と関わることは、祈りであり、それが全てであります。
 
神が、人間と関わるのは、人間には、知る由もないことであります。
 
人間は、神の全能を知って、神の味方になるのではなく、神を恐れるべきなのです。
 
神を理解すること、神の意志を受け取ること、神の御心を行うこと、これらは、努力目標ではあっても、出来ると思ってはいけないことです。
 
人間が、その身の程を弁えず、神の御心を知って行っているという立場に立とうとすると、神のためにと勘違いして、やたら讃美しまくるようになります。発言がカルトに似て一方向になり、視野と思考が狭小化して、自由な思考が妨げられ同じ言葉が多くなり、声だけが大きくなります。
 
 
信じられることは、信じるようになることは、人間性で理解できて、人間性で共感できることです。それらが心を動かすからです。信仰を固定することは、動こうとする心を止めることであり、祈りによって折々に与えられる癒しよりも、固定して成長しない凝固と思考停止を願う反信仰であります。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが、人間が、神とキリストから受け取ることが出来るのは、人間の知性の範囲で理解できることであり、人間の感性の範囲で共感できることです。つまり、人間として、心の奇跡は、しんみりと受け取れますが、物や肉体の奇跡は信じ込んではいけないことです。
 
物や肉体の奇跡は、神のわざであり、人間の生き方とは異なるからです。人間を超えた物事を理解できるのは、人間を超えた存在になることですが、地上の人間である限り、人間を超えることはありません。その弁えが信仰の節操です。神を恐れるという言い方もします。
 
神や聖霊が教えてくれたからだ、と言うならば、超えた存在ではない人間に、教えたのが神や聖霊だと、どうして分かるというのでしょう。恐らく、大方は、その人の自己顕示欲だと思います。
 
そこにおいて人間は、神を恐れているか否か、神の前に敬虔であるか否かが表れてきます。神聖を知らない私たち人間が、神聖が教えたと言い張るのは傲慢です。神聖を振り回す人は、自らを神聖とする信仰自慢と人間離れの自分信仰です。
 
物や肉体の奇跡そのものを信じることは、人間を、人間らしい心の成長から遠ざけ、超常の超人願望に結びつける、という危険な方向を持つからです。人間が理解できて、感動できて、信仰になるのは、生きている人間の心を動かす言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは、ご利益信仰に過ぎません。物や肉体の奇跡は、人知を超える神を恐れるためにあり、恐れるべきことであり、神にお任せするしかないことです。人知を超えている奇跡を、人知が理解することは出来ないのです。そういう奇跡は、人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする。このことは、限りある人間の能力を思えば当然であります。物や肉体の奇跡は最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは、奇跡で救われた人が、なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか、キリストが、なぜ、その人を憐れんだか、という、心の奇跡または魂の奇跡、それこそ軌跡、すなわち、人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては、物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。物や肉体の奇跡で救われると信じるのは、まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように、石がパンになる=物への奇跡、この世の栄華によって悪魔を崇拝=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて、人を騙しているのがこの世界です。もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 
4:4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 
 (マタイ4:3-4、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:8-9
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 (マタイ4:8-10、新約聖書)
 
 
知性と感性は、特別な才能ではありません。神が人に与えた賜物として、人間ならば誰でも持っているもので、その中に不完全ながら、思慮が含まれ、理路と分別が含まれ、良心と共感が含まれ、温もりと潤いが含まれ、かつ、成長しています。
 
人は、その賜物によって、聖書を理解し、信仰に至ります。人間の信仰理解は、完全な理解ではなく、心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。聖書から、そして、体験から、神とキリストに出会い、共感し、聖三位は、信仰の対象であって、敬って友だちのように仲良くする対象ではありません。信仰は、動かし気づかせるのであって、固定することではありません。
 
信仰は、固定した安穏ではなく、成長する共感なのです。信仰者は、訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも、去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。そこに不変の境地はありません。共感と学びと成長を促す道があります。
 
神を知ることは、人間が自らの罪深く不完全なる身の程を知ることです。キリストを知ることは、人間が、キリストからの共感の尊さを知り、自らが生きて共感を伝えることの尊さを知ることです。信仰は、超常が、超常ではない人間に共感することを知った人間が、そこに生き方を見い出してゆく道です。
 
 
※ 
 
神は、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変の存在です。
人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、不完全、永遠ではなく限りがある、変わりやすい存在です。
つまり、神を知ることは、人間が自らを知ることです。神を信じることは、人間が神を恐れ、自らを弁えて生きることです。
 
神ならぬものを信じてしまうと、神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。心について考えない者が受け取るのは、手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり、あるいは知っていると自慢するために他なりません。
 
それゆえに、そういう者は、理解も共感もなく自己中心に、やたら讃美しまくって、奇跡の必然を自己暗示して、信じ仰ぐ希望ではなく、思い込み信じ込む固定観念となり、心を訂正不能にして、柔軟性と共感を失ってゆくでしょう。
 
このような信じ方が、思い込み信じ込むカルトの信仰?であり、自分で神を決めつけてしまう信仰です。そうなると、まず自分の人間性を破壊し、次には関わる人に作用して、他者の人間性をも破壊してゆきます。それは人間離れの心性を固定して、信仰のカルト化が始まってゆくプロセスなのです。
 
 
思い込み信仰

思い込み信仰
 
 
(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年06月06日、再録+加筆)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
 
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
 
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
思いも塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
 
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
 
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
 
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
 
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
 
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を
残したままにしておこう
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Megmix43
@hamayokomegumi
「幸福の科学を下支えするカルチャーは「努力・精進」です。」と建て前では「努力・精進」を謳っておきながら、「英会話ペラペラ祈願」とか「強力ダイエット祈願」とか「突然秀才になるための祈願」とか自助努力を否定する祈願ばかりなのは何故だろう?しかも成就率は金額に比例ww
午前8:21 · 2021年5月24日·Twitter Web App
https://twitter.com/hamayokomegumi/status/1396607209417547778
 
ツイート元ではなく、ずっと、楽山を批判しています。「努力・精進」をしなかったし、する気もないのが楽山です。ゆえに、霊とか、超常とか、自分の浅薄な結論で宗教を語っても、そこから進歩する生産性がありません。不都合を総て無視して、自己愛の自己満悦に浸る異常者だと思います。
 
そして、都合のよい文言を探しているだけなのに読書家気取りで、例えば「心の理論」という心理学を、心霊に結び付けて、霊が分かるっぽい自覚を語り、自分を霊能者や学者と同列に並べて、自己満足しているだけなのです。これだけ孤独な慢心に陶酔し続ける人は、正常だとは思えません。
 
楽山には、決して、関わらないでください。詭弁で、混乱させて、相手が疲れるのを、楽しむサディスト的な人格であり、まともに受け取っていると、こちらの、理路と感性が鈍麻してゆきます。この約2年半の間、楽山を読んできて、何か良いことの糧(かて)になったことは一度もありません。
 
※ 
 
人間は、何か分からないことに出会って、悩み苦しみますが、その袋小路や堂々巡りから、分からない自分、限界のある自分、不完全な自分を、自覚するときに、そのことを、正直に祈る相手を得ることは、恵みとなり救いとなりうるでしょう。
 
信仰は、超能力が身についたり、矛盾のない神聖の仕組みが分かったから信じることではありません。そういう思想は、むしろ、信仰とは逆で、思い上がりの原因になるだけでしょう。ゆえに、神聖が分からない・・ということは、信仰の動機にこそなれ、決して、信仰の否定にはならないのです。
 
楽山は、この点において、正反対の先入観を訂正不能に持っているために、神がいるなら悪を退治しないのはおかしいじゃろ・・などと言って、神を否定できた気分になるのです。この幼稚さは、思考力と感受性を育て損なって、異なる意見や批判を無視してきたからでしょう。
 
さらに、楽山は、信仰の代わりに、何か救いになることを提示できるかと言えば、何も用意してはいないのです。楽山の言ってることは、神義論・弁神論でもなく、もはや、論でさえなく、宗教嫌い以上に、自身の高慢からの、詭弁説教であり、病的ナルシストの症状に過ぎません。
 
極端なことを言えば、楽山の、元々の本来の人格が見えません。時々に、様々な、芝居、装い、偽装、詭弁、嘘、成りすまし・・を演じているのでしょう。本音というものがなく、虚偽の人格だけが豊富なのかもしれません。私は、楽山が表してきた偽りを批判していることになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の文章は、真剣味がない、新しいものがない、深みがない、だるい、独創性がない、良さそうに思えても洞察がない、読む前と呼んだ後で広がるものがない、しばしば詭弁であり、幼稚な短絡であり、印象操作であり、刷り込みであります。
 
楽山に疑問を投げても何も返ってこず、楽山は、同じことを繰り返してきます。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感がないからです。議論は進まず、訂正不能の楽山の言に惑わされていると、人格も、響きを失い、鈍く乾いてゆきます。
 
 
 
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