ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:人の不完全

 
  理解すること3
 
 
神は全能。人間は不完全。
ここから信仰を考える必要があります。
 
聖書は神の言葉であるが
私たちは人の言葉しか持っていない。
さらに
神の言葉だからと聖書を持ち出すとき
その解釈に人の言葉を使っている。
 
理解を目指す心の作業において
心が連動しているかどうかが重要である。
 
理解することは辻褄を合わせることではない。
辻褄合わせは多く自分に納得を強いて
分かったという思い込みに至っている。
恐ろしいことに、それを自慢することさえある。
 
理解は辻褄を超えたところにあり
共感という情緒的解放感を伴うゆえに
そこから活力と説得力が生まれる。
 
同じ言葉を言っても聞いても
心にあるものも受け取るものも
人と時と状況によって
特に学習と経験によって違ってくる。
 
ゆえに
理解するために説明するために
同じ言葉を繰り返せばいい
ということはあり得ない。
 
あるとき感動しても
次に同じものを受けたときは
感動したという記憶の知識になっていることが多い。
 
理解は心を揺さぶられる
という情緒的反応を伴う。
当たり前ではなく
気安く再現できることでもなく
辻褄合わせでもない。
 
知情意は分けられない。
分からない複雑な心を
便宜上、言葉で分けているだけだ。
 
多くの場合
辻褄が合うと分かったという。
数学ならそれでもいいように思われるが
初歩的な数学でも
整合性が分かっただけで嬉しいことがあるのは
そこから広がる世界があるからだ。
つまり数学においても
解放されて世界が広がることを理解と言う。
 
理解しなければ問題と答えを覚えるだけになる。
最悪なのはそれで理解を装うことである。
 
数学でなくても
理解は解放感という情緒的反応を伴う。
 
 
無自覚の無理解は辻褄だけにこだわり
同じ言葉を繰り返し
感動、理解、驚き、分かった、よかった
などと言うだけで
反省、トホホ、などと卑下して見せることもあるが
文脈の中の言葉の無味乾燥に気づかないで
殆ど呪文を自慢している。
そして負けないために
だます手口だけを覚えてゆく。
 
 
私の場合
数学は3次元以上が無理で学者になれず
国語は読書障害の傾向があって読書家になれず
絵画は遠近感覚が乏しく
音楽は楽譜の読み書きが全く出来ず
さらに寄る年波で健忘が激しくなり
対人関係が苦手で鬱も統合失調も怖くて
狭い部屋の中で独り言の多い私はどうしたらいいのか。
 
無理解を自覚するしかない。
出来ないことは出来ない。
知らないことは知らない。
分からないことは分からない。
 
死ぬまでは生きているのだから
理解しているつもりの
理解していなければならないはずの
ただ一つのことを求めて
細く細く感じて
狭く狭く考えている
という不完全の自覚のうちに生きる。
 
これも一つのワールドで
病と傷と欠点の多い心で出来ることをしている。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)10:38-42
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
妹のマリヤはキリストにベッタリで、キリストをもてなす家事を手伝わないものだから、姉のマルタは、何とかしてくださいみたいに、キリストに言います。その時の言葉ですが、マリヤを褒めるためではなく、マルタのために言っているのです。
 
キリストが来ているのだから、マリヤのようにキリストにベッタリくっついていることが信仰だ、と言っているわけではありません。それぞれに、性格の違いがあり、求めるものの違いもあり、人によって違うところを、キリストは見抜いて認めているのです。
 
マリヤは一途にキリストのそばにいる、それでいい、マルタはキリストを持て成そうと努めている。キリストは、それを承知の上で、それでいいけど、ご自身のもてなしのために、そんなに思い煩わなくていいと言っているのでしょう。
 
家事を手伝わず、キリストのそばにくっついていることが、信仰に反するなら、キリストご自身が、マリヤに注意するはずです。マルタは、思いわずらい、心をいためているので、そこに気づかないでいるから、責めたのではなく、キリストは、諭したのです。
 
思いわずらうことなく、できることをするのが、信仰だと思います。私にとっては、できることの範囲が、とても狭くなっています。
 
 
聖書をを理解するということは、人の言うことを信じ込むことではなく、単なる意味でもなく、自分の人生に解放感と活性を与えてくれる言葉の "心" に出会うことです。
 
御心を成就するのが信仰ではありません。
御心に叶うかどうを、不完全な人は、完全には判断できません。
不完全な自分の言動に、完全なる神の御心を当てはめてはいけません。
 
できる限りの言動に努め、神に、正直に告白し祈る自覚こそが信仰です。
完全ではない人が、寛容なる神の赦しを得て暮らす日々が、信仰生活です。
 
 
 
神の全知全能は、人が全知でも全能でもない不完全な存在であることを知るための、節操の理路となり、心の弁えとなるでしょう。人は、神の全知全能の詳細など分かってはいません。しかし、聖書を通じて、個々の場合において、神聖を想うことは出来るでしょう。
 
神は全知全能だから、既に、一人一人が、何を思い、何を悩み、どういう罪を犯したか、既に、ご存知のはずです。罪を犯さないように守ってくださるという信条は、人の心情であって、現実によって肯定されるばかりではないことを知るでしょう。信仰を得ても、私たちは、皆、罪人であります。
 
誰もが、失敗し、うなだれ、罪を抱えてしまうのです。そこに信仰の恵みとして、祈る機会として、救いがあると思います。ゆえに、全知全能の神は、人が、正直に祈ることのみを待っておられると思います。神を裏切らないということは、罪を犯さないことではなく、正直な祈りを捧げることです。
 
 
理解と解放

理解と解放
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年10月12日、再録+加筆)
 
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのでしょうか。
 
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれません。
 
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなります。
 
しかし相手が神様となると事情は違うでしょう。
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持ちます。
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もありません。
 
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分です。
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるでしょう。
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
  なくてもいい時間
 
なくてもいい時間を過ごしている
約三億匹の精子の中から
ただ一匹だけが卵子と結ばれ
私が生まれたのに
なくてもいい時間を過ごしている
何となく残され死んだ
約三億(マイナス一匹)匹の精子から
恨めしそうに睨まれているような・・・
素っ気無く答えてみる
何なら譲ってあげてもよかったんだよ
でも私に生(な)る卵子も精子も
そのとき意識も意志も無かったのだから
しようがないじゃないか
私がいてもいなくても世界は変わらない
などという大袈裟な話を持ち出さなくても
(もちろん変わらないさ)
なくてもいい時間を過ごしている
誰も自分の必要性を
理解して生まれてきたわけじゃない
生まれた覚えはない
だがそれは生まれたときのことだ
もう大人だ必要も必然も
理解していていいはずだ
なくてもいい時間
お返ししますと言って返せるものでもない
これからもやって来るに違いない
しかしでは私にとって
なくてはならない時間とは
なくてはならなかった時間とは
なくてはならないであろう時間とは
精子から世界まで
なくてはならない時間とは
なくてもいい時間とは
また考えあぐねて過ごしている
なくてもいい時間
あってはいけないか
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
事実や言葉の合理性に、執拗に、こだわっても、共感のない辻褄合わせだけの場合があります。なんとなく分かったような気がするだけです。楽山は、そこから結論に至り、訂正不能となってます。楽山は、そういう妄想?で、人の意見を裁こうとします。よって、無知と無恥を生むだけなのです。
 
 
 
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  神と人と言葉2
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように、人間に理解できるような神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。 しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心を持つところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、よく見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性によるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。
 
そういう隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない愚痴です・・去年、母の転院のこと・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神の言葉・人の言葉

神の言葉・人の言葉
 
 
(2020年7月11日)
(2021年07月21日、再録+)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
(90年代か)
 
 
 
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