ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:人格破壊

 
  我欲のエコラリア楽山
 
 『日本国紀』百田尚樹著(2018年)
 2021年12月18日 楽山日記(LD)
 
 
ネトウヨですが人格破壊の進行した楽山は、史実への執着性によって浮かれ、気分高揚を来たしています。ゆえに、現実の問題を、何一つ、理解も自覚もできない有り様で、無駄口を叩き続ける自己愛性パーソナリティ障害NPDの証拠を積み重ねてゆくのです。
 
*日本人はすごい!
『日本国紀』を通読してみた。日本人の優秀さを示すエピソードがいくつも紹介されているので、「日本人はすごい!」と思えた。
とはいえ、万世一系に関する記述については疑問に感ずるところはあった。
 
「日本人の優秀さ」と、楽山は、何の関係もないと思います。「日本人の優秀さ」は、優秀な人々がいたということでしょう。それで、舞い上がる楽山の「日本人はすごい!」は、自分もすごい、という我欲による、楽山の中だけのエコラリア(反響言語)なのでしょう。人格破壊の実相です。
 
*万世一系
まず著者は、万世一系についてこう書いている。
我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない。 
(『日本国紀』百田尚樹著、幻冬舎、2018年11月10日第一刷、p.8)
 」
日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった。
(同上、p.486)
 」
日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だというのは、保守としては当然の主張だと思う。
 
万世一系という神話時代からの伝統であり象徴であるわけです。今さら、その史実性にこだわって、何か良いものが生まれるでしょうか。楽山は、このように、何の役にも立たないことを、学識もなく、云々して、自分を、インテリ評論家に見せかけたいだけなのです。
 
*王朝交代あり?
でも著者は、他の箇所では皇統は断絶しているとしている。
歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかという説を唱える人が少なくない。仲哀天皇は、熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという説だ。なら、なぜ日本書紀にそれが書かれていないのか。記紀が書かれた八世紀頃は、「皇統は万世一系であらねばならない」という不文律がすでにあったので、記紀編纂者がそのあたりをうまく工夫して書いたというのだ。定説にはなっていないが、私はこの説はかなり説得力があるものと考えている。
(同上、p.26)
 」
現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。
(同上、pp.31-32)
 」
万世一系に対して異説が存在するという紹介だけなら、さして問題はない。
でもここでは、その説を紹介するだけにはとどまらず、強く支持するところまで踏み込んでいる。
これは、日本は「万世一系の天皇を中心に成長した国」だという先の主張と矛盾するのではなかろうか。
 
このように、楽山は、過去の辻褄にこだわって、それで、現代を語ろうとする半端者だと分かります。私たちは、現代を生きています。皇室の歴史よりも、今皇室の果たしている役割のほうが大事だということが、楽山には分からないのです。
 
楽山は、歴史を、ろくに知らないにもかかわらず、歴史家などの意見を引用して、自分を、学者であるかのように見せかけたいのでしょう。それが、楽山の生業なのでしょう。宗教についても、奇跡と超常にこだわって、神を否定したいのでしょう。心に響くことを全く理解できないからです。
 
*著者の見解
この矛盾について、著者の真意はどういうものなのかと頁を繰ってみると、こんな記述があった。
「万世一系」という考え方がどのようにして生まれたのかはわからない。しかし『日本書紀』編纂時にはすでに、崩してはならない伝統としてあったと見られる。これ以後、千三百年以上にわたって男系は一度も途切れることなく継承されている。
(同上、p.34)
 」
つまり万世一系は途中からだということらしい。
著者はさらりと書いているけれども、これは保守、右派という立場からすれば相当に大胆な発言だろうと思う。
 
「万世」なのに「途中から」だそうです。楽山は、否定しているのでしょうか、擁護しているのでしょうか。どちらも書いて、どちらも断定せずに、責任問題は生じない、ということが、楽山の、以前からのスタンスらしくて、つまり、何の主張もない人です。
 
それで、一方では、信仰を批判したつもりになり、信仰を否定するわけです。まともな意見を、何一つ持ち得ないことを、今まで、ごまかして、善人ぶってきたのが、楽山という偽善者であり、もはや、真実の追求を、かき乱すだけの人でなしであります。
 
*いろいろな歴史観
本書にはさまざまな批判があり、その中には「歴史ファンタジー」という揶揄もあった。
自分はこれらを読んで、本書は相当に右寄りなものなのだろうと想像していたのだけれども、上記の点を見る限りにおいては自分にはとても右寄りとは思えなかった。むしろ左寄りではなかろうか。もっともこの辺りの判断は相対的なものにすぎないかもしれないけれど…。
 
右も左も、一枚岩ではない、という当たり前のことが、楽山には分からないようで、相対的と言ってバランスを取ろうとしています。相対性さえも定位置に置くことが、楽山の安心なのですが、中身が空っぽです。思想ではなく、楽山が納得するための辻褄合わせの合理化規制なのでしょう。
 
ところで、『日本国紀』の評価は人それぞれとしても、一人の作家による通史というアイディア自体は実に面白い試みであると思う。これを機会に、他の著者による通史も読んでみたいものである。
通史ブームが到来し、幾人もの作家たちがそれぞれの視点から綴ったさまざまな通史…皇国史観によるもの、唯物史観によるものなど…を刊行したなら愉快だろうと思う。
 
楽山は、結局、いつものボンヤリ言語で、何も始まらない結論「それぞれの視点から綴ったさまざまな通史」「愉快だろうと思う」と言うわけです。楽山の記事に、時間を使うのが、いかに無益であるかを、楽山自身が明らかにしています。毎度、呆れてしまう楽山の暇つぶしです。
 
楽山は「愉快」になっている場合ではないのです。「愉快だろうと」思っている場合でもないのです。積み重ねてきた罪と偽善が、人を疲労させ傷つけてきた自己中の病質が、楽山自身の人格を虫食み、何も状況を把握できない盲目の常同行為へと運んでいます。
 
 
独りで反響する無駄口

独りで反響する無駄口
 
 
(2021年12月19日)
 
 
 
  ブレーキングボール
 
ひねったつもりのブレーキングボールは
力なく外角へ落ちていく
そのあとに黒い軌跡が残る
 
一日を無駄にしたような気持ちで
メモ帳を一枚破り捨てる
 
部屋から出ていったあの男
別の自分に会いにいったつもりなのだ
 
行きつけの喫茶店などないのに
無駄な空気と
家畜になったような気持ちといっしょに
やがて帰ってくる
 
ぼろぼろの顔になって
また一枚ボールを走らせては
また一日意味のない軌跡を残す
 
あしたどんな軌跡を残すのか
もう一枚
もう一枚
ぼろぼろのメモ帳が笑っている
 
 
  ため息
 
瞬きと一緒に
どれだけの呼気の中に
ため息が去っていったのだろう
 
ゆっくり吸い込まれ
声帯を震わせないで
粘膜を撫でながら漏れるときの
湿気と温もりと過去
 
今ため息が出て行きました
熱を失う体のどこかで
フイルムが瞬く間に早送りされました
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は書き、読まれることで、堕ちてゆくのですが、本人は、上のコメントと同様に、全く、それを自覚しません。空疎に空疎を重ねて、文字が並んでいることで、インテリらしくかけた!・・と満悦するのでしょうか。そういうとき、いかに自分が見苦しいか、分からないのでしょうか。
 
 
 
 
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  楽山の詭弁と正当化2
 
 『実践 快老生活』渡部昇一著
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
去年の記事ですが、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 
*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。
 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、実に見苦しいです。
 
*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。
 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養を摂取する人間を語れず、人間の心を語れません。楽山が、「なるほどと思える話」を信用しないでください。「体調によって調整」などは当たり前で、さらに、誘導の詭弁と嘘が入ってくるからです。
 
気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのではないかと思われます。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。良いことではなく良さそうに見えることを書いてだますのが楽山です。
 
論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。
 
(ネットより)
どんなに立派な人でも、自分の行動を完全にコントロールできるようになるのは、七〇歳くらいになってからだ、ということ。
「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」で終わっています。
このことばから、七〇歳のことを「従心」と呼ぶようになりました。
コトバンク七十にして矩を踰えず
 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところのみに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって大事なことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、記事を何も書けなくすることだけのようでもあります。楽山の文章から、嘘、詭弁、自己顕示欲、などを、あぶり出すことです。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、人間の良心を捨てて、あるいは、良心に捨てられて、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。また、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語の詭弁を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、だまそうという意図でありながら、逆に、楽山を斬っている有り様です。楽山は、むしろ、君側の奸(くんそくのかん)のような体質であり、欲のために、丁寧語のアドバイスに見せかけて、他者を操り、虚偽と疲労へ誘導することを楽しみとする者です。
 
*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。
 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 
読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。
 
 
楽山の、自己正当化のために、独立心を、我欲・我執の自己中と混同する詭弁です。我執により我欲だけで言動している者は、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、おぞましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのです。
 
*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。
 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天獄であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。自己愛性パーソナリティ障害NPDのために、あらゆる思考と言葉の軸が狂ってしまっている楽山を相手にしてはいけません。
 
たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。
 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純明快に暴露されてしまう詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さ皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、平気で悪意だけを熱して" 生きることと、混同する楽山の、自己愛性人格障害の自己正当化です。
 
こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。
 
真っ当な宗教は、伝道者に、楽山のような、霊が分かるっぽい自覚?や、超常の知識なるもの?によって宗教を論じるなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、宗教も神も縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 
ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡(サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。
 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。つまり、シンプルを、安易と、履き違える深みのない楽山のような者は、救いなど、本気で求めていないことが分かってくるのです。
 
*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。
 
批判を受け取らず、不都合な意見を全部無視して、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために好都合な字面を、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。
 
涙の代わりに、見境もなく、弁えもなく、言葉を失禁して、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを混同し、著者に、見当違いの賛同をしています。
 
このように、楽山の理路は、ことごとく嘘っぱちであり、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、自己正当化の詭弁であり、恐らく、楽山の体質か作為であろうと思われます。
 
渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。
 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそが、その悪意の主因となっていることでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の不正直な言い逃れによって続いているだけの、見るも無残な地獄であります。
 
この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。
 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれ育ちが原因なのか、臆病どころか、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、いつも、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。また、妄想的に勘違いして、見習いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。
 
しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの子供だましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用が白々しくなって、自己満悦だけになるでしょう。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりでも、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交を大事に思っている人は、簡単に、だまされてしまうでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、どんどん、分かりやすく表れるようになっています。他者の人格を疲労させて破壊するものは、ついには、自分の人格を破壊してゆくのです。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
ウソッピ物語

ウソッピ物語
 
 
(2020年07月03日)
(2021年10月22日、再録+)
 
 
 
 『国家の品格』藤原正彦著
 2021年10月20日 楽山日記(LD)
 
 
新しい記事です。どういう品格を書こうとしたのかさえ分からない文章です。人間としての品格を欠いている楽山らしい投げやりな筆致となっています。
 
これは大分前に評判になった本だけども、先日ようやく通読することができた。
その内容は、戦後ながらく正義とされてきた民主主義、自由、平等、論理といったものを批判しつつ、日本的な情緒、美、武士道などを再評価しようというものであり、保守よりの自分としては気分よく読めた。
 
「民主主義、自由、平等」は、何らかの主張を含んでいますが、「論理」を並列する意味が分かりません。そして、批判するのだそうです。楽山が「日本的な情緒、美、武士道」を再評価するというのは、ネトウヨらしいのかもしれませんが、楽山は、保守ではなく、思想家でもなく、破綻者です。
 
こういう日本人論はいくつか読んでいるが、数学者が論理の限界を語り、情緒の大切さを訴えるというのは意外でもあり、説得力がある。岡潔の場合はあまりに独自性が強く、この世離れしすぎているようでついて行けないことが多いが本書なら自分にも理解できる。
 
楽山は、数学を理解しているとは思えませんし、情緒の大切さについては、何のセンスも持っていないと思います。その上で、「説得力がある」などという判定をするのは、自己愛性人格障害らしい傲慢か作為を表しているだけでしょう。
 
思想、特に、宗教と信仰には、人間的な視野と共感性は必須と言ってよいでしょう。この世離れして、霊能者気取りで、非常識な楽山が書いていますが、この記事の短い文章で、何を表し得たと思うのでしょう。「理解できる」という、その理解を、何も書いていないのです。
 
また本書は、文章が非常に整理されていて読みやすくなっているのも印象的である。これほど整理整頓が行き届いた文章は珍しいのではないだろうか。本書が多くの人々に読まれたのは、その内容だけではなく、文章がよかったためでもあるにちがいない。
 
理路も感性も整理されていない楽山に読みやすい本とは、絵本ではあるまいし、「整理整頓が行き届いた」と書いて、何を伝えたつもりになっているのでしょう。そして、「文章がよかった」と書いています。この舌足らずのまま、アップしてくるところに、病質が表れています。
 
不明が多すぎて、文章としては短かすぎて、感想にならず、また、見出しとしては長すぎて、真理めいたことを書こうとして、何も書けない楽山です。楽山は、ちょっと書いて様子をみて、続きを書くつもりでしょうか。いくら書いても、いっしょです。楽山の孤独で行方不明の思想と宗教です。
 
楽山のような、これくらい書いておけばええじゃろ・・という算段で、ちょうどよい文章を適当に書いたつもりで、他者を、いなして、はぐらかして生きてゆく者は、結局、賛同者からも対立者からも、最も嫌悪される存在となってゆく定めなのです。
 
「気分よく読めた」「理解できる」「文章が非常に整理されていて読みやすく」「整理整頓が行き届いた文章は珍しい」「文章がよかった」・・このような、中身のない褒め言葉が、楽山の読書と感想なのです。中身を、全く表現できない稚拙な評論家気取りに惑わされないでください。
 
 
(2021年10月22日)
 
 
 
  創造
 
今の今
今しかない
今に長さはない
時に長さはない
時などない元々
神は今を創造された
人は過去と未来を想像している
感じる
感じるから存在する
存在するから居場所を求める
場所などない元々
神は存在を創造された
存在は場所を想像している
そのように
神は人を創造された
人は神を想像している
 
ばあちゃんが失禁した
ばあちゃんは落ち着かない
ばあちゃんはわからない
何もわからないから
わからないことをする
それが病気だから
病的なことをする
と思われてきた
ばあちゃんは感じる
感じるから想像する
想像がはっきりしないから不安になる
感じるから不安になる
不安だから落ち着かない
ばあちゃんは失禁する
存在するから失禁する
 
存在するから不安になる
不安になるから言葉を求める
人は言葉を求める
言葉は神であった
言葉は神から贈られた
ウソは人から送られてくる
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
楽山がブログに載せたまま、ずっと無視しているコメントです。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、根拠もなく、自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労だけを与えられることになります。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
ここに、神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、自分がそうだ・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、当然ながら、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格も最低という人もいるわけです。
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
宗教や思想以外にも病的人格によって人を自分より低く見て決めつけて書いてくる楽山のような者もいます。そういう者は、理路も感性も無いので、そういう者に過小評価されることには何の意味もありません。評価そのものが、出来ない人なのです。自分の評価だけ、有頂天なのです。
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的な立ち位置を言っているようですが、楽山に立ち位置はありません。自らを過大評価しているだけの者には、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。したがって、楽山に、保守も革新もありません。今も、最低の自惚れが、楽山を動かしているだけです。
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。それで、「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な、別の分野です。
 
楽山は、自分を飾る材料として、字面だけで、意味を理解していないから、なんでもかんでも、いっしょに見えるのでしょう。そして、無知蒙昧の、とてつもなく思い上がった山上の快楽の奇態を晒してゆくのです。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる者の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように、並んでいるという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしている詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき的外れの悪意の人です。
 
無反省の自己中になると、公平などというのは最初に無視されていますから、言葉の字面だけを振り回すようになります。その手段が、刷り込みと誘導のための見かけの丁寧語、すなわち、根拠のない婉曲のボンヤリ言語です。
 
そして、ときに、反省や努力などの、言葉だけ書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、はっきり断定することが出来ないことから、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っているのでしょう。それで、賛否両方なら何を言ってもよいという言い方で責任を負わないのです。
 
推測ですが、例えば、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、結局、何も語っていないのと同じであり、また、何も受け容れていないということでもあります。そんなもので、だましてくる楽山を、信用してはいけません。
 
楽山の視野には、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間らしいし、主張を変えたときには、ちゃんと修正したというメッセージが、ときには、謝罪が、必要だという人間の必然的な視野が欠けているのです。恐らく、真剣には、何も考えていないのだと思います。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、成り立たないことを主張したり、それを知っている?自分が、自分で、中庸かつ冷静な言論者気取りのような自覚になって言い続けることは、それを公表してきます。
 
他者が読んで受け入れてしまうと、その先に刷り込まれる影響が、楽山ん本人に起こっているのと同じような鈍化のプロセスを通して、人格破壊の病因となってゆく危険があります。楽山の無反省と無責任は、受け入れることで伝染します。
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
他者を、面倒臭くさせ、疲れさせ、傷つけ、壊してゆくのが、楽山です。今さら、改めて書くのではなく、早く書くのをやめることだけが、世の中のためです。
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
いちばん自分を客観視できない自己愛性妄想の楽山が言っています。こういう、病識のない、見え透いた自慢を書いてくることで、自信ありげに見せかける狙いでしょう。
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・まさに、楽山の持ち物です。
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているつもりの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。( )内が、楽山の補足のつもりでしょう。
 
楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。嘘と詭弁だからです。そういう人に、証明を・・と言われるのは、気の毒、不運としか言いようがありません。
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
真否と是非という重要な問題を、特殊という自覚に、ズレを解消する問題に、すり替えています。楽山が、解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。楽山は、誰よりも対話のズレがあり、殆ど通じないレベルであり、偏見と先入観だけなのです。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。さらに、楽山は、「きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」と言って、自分はきちんとしていることを、暗に宣伝しているところです。やはり、教祖願望があるようです。
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
一例をあげると、↓
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。楽山は、どちらでもなく、自分が、いちばん、客観的だから、偉い・・と言っているだけなのです。
 
今まで、自分勝手な、妄想的で、先入観的な、小学生レベルの、幼稚な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。つまり、「仏教もキリスト教も正式に学んだことがない」のは、楽山その人です。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解できないのだと思います。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。
 
対話になっていないような気もします。どっちが批判者なのでしょう。ひょっとして、独り芝居だろうか、全部、独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、独り芝居をして代償している自慰行為ではないだろうか、などということも考えています。
 
シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同の事実も頷(うなず)けます。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また、否定もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の詐欺師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して、近寄らないでください。待っているのは疲労と破壊だけです。
 
 
霊が零となる日

霊が零となる日
 
 
(2020年08月26日)
(2021年08月28日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
 
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
 
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
 
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
 
見て見ぬふりのあなた
 
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
 
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
 
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
(かなり昔の作)
 
 
 
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  人のことばかり語る楽山
 
 神秘体験の影響力
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月13日 楽山日記(LD)
 
 
本を読んだつもりで書いて、自分を高めたつもりになって、自分の非だけは認めず、宗教と信仰を空想の理屈で語ってきて、誰の役にも立っていないことも、迷惑になっていることも無視してゆく根拠を、神秘や心霊に求めても無駄だということが、楽山が何か書けば表れてくるのです。
 
*神秘体験の影響力(本人)
神秘体験の本人に与える影響について、『宗教的経験の諸相』には次のように書いてあった。
神秘的状態は、それが十分に発達した場合には、普通、その状態になった個人に対しては絶対的に権威をもち、そして権威をもつ権利がある。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.249)
 」
さらに著者は、体験者本人に対して合理主義によって「どんな不平を唱えても無駄である」し、
 
霊が分かるっぽい楽山の霊能者気取りに対して、何を言っても無駄であることは、約2年間批判してきても不感不応である楽山に表れています。実際には、楽山は、気取りだけで、何の洞察もなく思考の糧にもならない人です。
 
それが、楽山が、体質的な病的ナルシスト、即ち、自己愛性パーソナリティ障害者であることを示しているのです。楽山は、不平を言っても無駄だから、何を言ってもいい、何を言っても正しいと言いたいのでしょうか。楽山は、不平を言われているのではなく、否定されているのです。
 
仮に「その人を監獄や精神病院へ投げ込」んだとしても、その者の「心を変えることはできない」どころか、むしろ「彼の信念をますます頑固にするばかり」であり、結局のところその者を「私たちが好もうと好むまいと、そっとその信条を享受させておくほかない」のだという。
 
だから、楽山は、精神病院に入れても治らないし、楽山が信じこむこと自体は、変えることは出来ないでしょう。その成れの果てとして、慢心し、傲慢になり、訂正不能になって、人間離れしてゆく楽山の有り様を、楽山自身が説明していることになります。
 
これはよく分かる話だ。恥ずかしながら自分は、とある新興宗教を「これは本物だ!」という神秘的直感によって信じてしまい、他からどんなに意見されても判断を変えなかった過去がある。この時の自分の心を思い出せば上の話に首肯せずにはいられない。神秘体験なり、神秘的確信によって特定の宗教または信条を信じ込んでしまっている人の心は、どれほど合理的な反対意見であっても、それを否定する客観的な事実を提示したとしてもそう簡単には変えさせることはできないものだ。
 
何が「よく分かる話」なのでしょう。楽山は、仏様の気持ちが分からない家族に驚いたという記事を書いています。冗談だろうと思っていたら、何を考えるにも、霊とかの超常のことを書いたり、霊言なるものを引用したり、神を否定したりなど、傲慢だけが表れてきたのです。
 
霊能にこだわらなくても、はっとさせられたり、洞察や共感があれば、優れていると分かりますが、そういう目を覚まさせる発言内容は、楽山には、皆無であります。楽山は、新しい何かを語れる人ではなく、ただ、自己顕示欲だけの超常フェチの退屈な人です。
 
超常にこだわり、その方向に思考が流れて、宗教も信仰も、人間の問題として考えることのできない人です。だから、いかなる問題も、解決の方向には向かず、ああでもないこうでもない曖昧な話になり、ボンヤリ言語と、トホホ言語の謙虚芝居でごまかしてきたのです。
 
楽山は、宗教を語れる人ではなく、宗教を批判できる人でもなく、オタク的趣味に生きるしかない人だから、非合理で、理路を組み立てることが出来ず、結局、神秘気取りの妄想で、無反省に、無責任に、雑言の一方通行で、人心を煩わせる経過にしかなっていません。
 
*神秘体験の影響力(第三者)
同書には、神秘体験の第三者に対する影響力についてはこうある。
神秘的状態の啓示を、その局外者に対して無批判的に受け容れることを義務付けるような権威は、そこからはけっして出てこない。
(同上、p.249)
 」
著者はこれとは別な言い方で、神秘体験をした者がそうでない者に対して、その者が「召命を感じて」自ら受け容れる場合を除いては「その独特な経験について伝えるところを受け容れよ」と要求する権利はないともいう。
 
楽山の無反省で無責任な発言は、いかに神秘と絡めても、受け入れてはいけないし、受け入れる価値はないし、批判され、否定され、雑巾のように干されて捨てられてゆく経過しか待ってはおらず、楽山の自己満足に付き合うことは、人生の大切な時間を無駄にすることに他なりません。
 
これも確かにその通りだ。たとえばある者が神の声を聞くという神秘体験をしたとして、万人にこれを信じなければならぬという義務が発生するはずもないし、そもそもそれは不可能なことでもある。
 
ならば、霊が分かるっぽい楽山の言も、何の価値もないわけで、楽山は、自分の無価値を主張したいのでしょうか。ならば、宗教と信仰について、信じてもいないのだから、何も言わないでほしいと思います。
 
宗教的に偉大な存在というのは、人間にとって、知らなかったことを知らせ、感じなかったことを感じさせ、新しい目覚めを促す存在でありますが、楽山には、そのような賜物はありません。楽山は、宗教にも信仰にも、全く縁のない、煩わしいだけの人なのです。
 
大袈裟なたとえ話をするならば、もしある宗教がこの道理をわきまえず、教団の内側に向かってだけでなく外部に向かっても教祖の語る神秘体験を信じなければならない、これえを疑ってはならない、そのまますべてを信じなければならないと主張したとしても、それは外部には説得力はもたないし、場合によっては偏狭なカルト集団とみなされ強く反発されることにもなりかねず、そういう当然の結果に教団が不満を述べても仕方がないということでもある。
 
当たり前のことです。人間に神秘が分かるはずはないのです。人間は、何からの恩恵を感謝して、神秘の存在を仰ぐだけなのです。また、宗教も信仰も、決して強制されないものであり、また、楽山のように嘘と詭弁で刷り込んでくる者は、最初に、除外されるべきなのです。
 
霊がらみの楽山の発言は、もっと、質(たち)が悪くて、はっとさせる何ものも含まれておらず、信じるに値しない惑わしに過ぎなくて、いかに執拗に楽山が語っても、もたらされるのは疲労と妄想的な害毒だけなのです。これほど、徒労と疲労を与えてくるだけの人物も珍しいです。
 
*神秘体験とその後
著者は本書において、すべては一つであると感得する神秘体験について触れつつ、その一方で上のように神秘体験を経験した者とそうでない者との意思の疎通は極めて困難であることをも説明しているが、もし神秘体験によってすべては一つであると悟ったがために、その経験のない者と分断され、争いが生じる結果になるとしたらなんとも皮肉な話である。
 
楽山には関係のないことです。楽山が物を言えば、混乱要素にしかなりません。楽山こそ「意思の疎通は極めて困難」な人です。なにせ、人の言うことを聞いていないのですから、どうしようもありません。「争いが生じる結果」にならないために、楽山は黙るべきです。
 
しかし考えようによっては、これを乗り越えられるかどうか、乗り越えるとしたらどのように乗り越えるかということが、その神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬし、
 
「乗り越える」という言い方にだまされないでください。こういう企みが、楽山の特徴です。人間らしい知恵の欠乏しているところを、詭弁の悪知恵でごまかして、それこそ、「乗り越え」ようとするのです。
 
結局、霊が分かるっぽい自覚の楽山は、結局、神秘体験を受け入れて、自分がそうだと言いたいのでしょう。孤独なヒーローを、三文芝居で、演じているのでしょう。神秘体験を「乗り越える」前に、楽山の妄想刷り込みを、受け入れることなく、廃物として、乗り越えるべきです。
 
どう「乗り越える」というのでしょう。中身のない楽山が、中身のないキレイごとを言っても、何の足しにもならないのに、言葉だけ、もっともらしく付けて、分かっている自分、許容力のある自分を、捏造アピールしてきます。
 
そして「神秘体験の正統性を推し量る材料となるのかもしれぬ」・・何も言わないよりマシと思うのでしょうか、否、楽山は、何も言わないのと同じです。何か言い得たことにしたいだけなのです。この、楽山の、ごまかしこそが、楽山が異常な疲労を与える大きな要素なのです。
 
もしそうであれば、神秘体験とは神秘体験そのもの以上に、その後その人物がどのように変わるか、またはどのような道を選択するかということこそが重要だということにもなりそうだ。結局、神秘体験の本当の意義はここにあるのかもしれない。
 
霊が分かるっぽい楽山は、どう変わったのでしょう。知性が無知性になり、感性が不感性になって、嘘を吐き、妄想を振り回して、詭弁を弄するようになって、こともあろうに、人間の、最も醜い有り様を、恥も知らずに、ずっと、見せびらかし続けているのです。
 
「神秘体験の本当の意義」だそうです。やっぱり信じているのですね・・ということです。だまされないでください。楽山は、恐らく自らの神秘性を認めて「人物がどのように変わるか」「どのような道を選択するか」が本当の意義だと言っています。つまり、受け入れ前提の発言です。
 
結局こういうことになるから、楽山の毒性は、その詭弁と刷り込みによって、病気を伝染することになるのです。これは、偽善者の、そして、体質的病質者の、必然であります。実に、楽山は、まわりくどくて否定しにくく、かつ、執拗に、刷り込んでくるのです。
 
人の言うことが理解できないで、自分の言っていることが人に理解されるべきだと訂正不能に思い込んでいる人、自分の非を認めないで、人の非を当然のように云々する人、あらゆる悪と不義を人に向けて、自分に向けず、お山の上から駄弁と詭弁を弄する人、それが楽山です。
 
楽山の言を否定する根拠は、楽山の今までのブログなどの発言です。だから、また、否応なしに、これから言うであろうことが、新たな根拠となってゆくでしょう。楽山は、恐らく、いつまでも、どこまでも、敬虔と謙虚から、真実の言論から、はてしなく遠ざかってゆくでしょう。
 
楽山のような人は、恐らく、無反省だから何も学習せず、無責任だから何もはっきり言わず、一生を煙の中で過ごして、主観においてだけ、断定していないから自分はバランスが取れているつもりでいるのでしょう。・・はっきり言って、人間ではないです。
 
そう言えばそうかな・・なんて思ったら楽山の思うつぼです。誠意の代わりに作為、善意の代わりに悪意、説明の代わりに詭弁、謙虚の代わりに丁寧語、魅力の代わりに誘導、それが、楽山です。決して、関わらないようにしてほしいと思います。
 
 
聖的独り言

聖的独り言
 
 
(2021年07月14日)
 
 
 
  ヨブ記とお叱り
 
ヨブ記などを読んでみますと、
神様に叱られているような気がします。
一人称を用いるので恐縮ですが
「お前(人間)は私(神)の造ったものだ。
私のものだ。
私のものを壊し塵に帰すのに
いちいちお前の考えに沿って説明し納得させ
了承を得る必要がどこにあるか!」
という具合に。
 
被造物である私は泥の中に
ひれ伏すしかありません。
ヨブ記では神様が言葉をかけてくださる。
今の世においては神様の声を聞くこともできない。
異言も止(や)み、預言も廃(すた)れた。
しかし、いや、だからこそ
代わりにヨブ記も福音書も含む聖書がある。
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
(2000年代か)
 
 
 
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  被害的・他罰的2の2
 
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
(以下、「〇」印が、今回新たに書き加えたか修正したところです。)
 
〇 実際は、 「st、shalom 問題」ではなく、 「st、楽山、shalom 問題」であり、最も大きな問題は、楽山の、無反省・無責任・訂正不能・自己愛性病質であります。
 
・shalomさんが、stさんのことを自他未分化と批判してた。
初めて聞く言葉なので、その意味ははっきりとはわからないものの、字面からゆくと、一理あるかもしれぬとは思う。
 
〇 ここで、はっきり、私が自他未分化、ということに、「一理ある」と賛同しています。おとしめる発言の重大性を考えれば、「かもしれぬ」は、付けても付けなくても一緒です。婉曲表現を重ねながら、だんだん、シャローム寄りに導いてゆこうとする作為です。
 
〇 シャロームこそ、人間としてあるべき分化をしていないと思います。何故なら、神と自分の区別もつけていないからです。いつも神の啓示と聖霊の導きだと訂正不能に確信して、どこにも届かない妄想教を捏造し、教えようとします。これは、常に、徹底的に拒否し、根こそぎ否定しなければいけません。
 
〇 人間としての身の程を弁えないと、シャロームのように、神の立場から人を裁いて、ふんぞり返るようになります。そういう神と人の区別が、信仰も宗教も知らない楽山には分からないのです。
 
stさんは、楽山に対して、shalomさんと口を利くなとか、あれこれ命令してきて、楽山が独立した人格であることに、てんで気づいていないようだったので。
 
〇 そう言ったかどうかは覚えていませんが、少なくとも、今は、口をきくなとは言いません。シャロームも楽山も、独立した人格ではなく、受け入れれば、社会悪につながるような狂った判断を決めつけてくる同じ穴のムジナとして同調していると判断しているからです。
 
・もう一つ、shalomさんがstさんのことを、自戒と他戒の区別がついてないとか批判してたことがあった。
そう言われて見れば、stさんが訂正不能はダメとかいうのは、訂正不能にならないようにしようという自戒というより、shalomは訂正不能だからけしからんと裁くことに使われてた。偽善とか、その他のことについても同様だ。
 
訂正不能を批判するのが、どうして、裁くことになるのでしょう。被害的とは、このこと。
けしからん、などと、感情的な言い方はしていないと思いますが。
 
〇 私は学習を意識し努めています。ゆえに訂正可能です。楽山もシャロームも、訂正するような、よりよい意見を言ったことが、一度もないだけです。このことも、何度か書いてきたのに、受け取っていないようです。
 
誰よりも、自戒が出来ず、他戒にもならない嫌らしい当てつけや、嫌がらせをしてくるのが、楽山とシャロームであります。今回もそうです。不治の病のようです。
 
〇 シャロームは、訂正不能の妄想を豪語し、楽山は訂正不能に理路にならない決めつけを、曖昧ボンヤリ言語で、一方的に言うだけなのです。決して近づかないでください。彼らは、一時的ではなく、常に明らかに病的な異常です。
 
〇 読み返してみると、なおさら、楽山の卑怯さと狡さが、身にしみて感じられます。実に嫌らしい。
 
・shalomさんはお話し好きなようで、他のブログのコメント欄を訪問することがよくあった。でもそうすると、そこにstさんが突撃して、shalom批判を連投していた。
そういう場合、そこのブログ主さんは、shalomさんとは対話しても、stさんはスルーしてるようであった。
 
〇 私は警鐘を鳴らしているだけです。シャロームは、他のブログの言い分を理解していないのに、他者の言葉にシャロームのゴタクを混ぜて、褒めあげるという卑しいやり方をして、悦に入るという常習の性癖があります。だまされないでください。
 
〇 楽山とシャロームは、病的な自己愛からの、だまし好きであって、お話好きではありません。二人は、深い意味では、誰とも話が通じない者たちです。だから口数は多いでしょう。シャロームは、妄想からのベタ褒め讃美、楽山は、曖昧ボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語が特徴です。
 
・易坊さんはいつどや、stさんと楽山はさびしいんだと思うとか、友達を欲しがってるとかそんなふうなことを言ってて、私はいまいちピンとこなかったのであるが、今はstさんはそういうところはあるように思う。
 
実に、余計なお世話であり、同情とは全く別の、楽山の軽蔑のやり方でしょう。シャロームもそのような同情めいたことを言うことがありますが、結局、自分を高みにおいて、相手を哀れで未熟な者として下に見ることが目的です。
 
つまり、さびしいんだ、友達を欲しがっているんだ、という決めつけは、それだけ、相手にされない哀れなやつ、という、おとしめに他なりません。楽山は、今回も、婉曲的に、持ち前の嫌らしさを出してきました。
 
〇 加えて、相手を、低く見なすための、一種の常套手段なのです。同情の言葉など通用しない状況でも言ってくることで、バレる嘘なのです。
 
二人とも、相手を低く見て、シャロームは教師として教えようとし、楽山は注意・忠告のような書き方をしてきますが、そういう上からの話は無礼だから控えるべきなのに、自分を見ることが出来ないために、分からないのです。親切ごかし、そして、偽善です。
 
話し合いをする上で大事なことが何も分からない二人なのです。決して二人と話し合おうなどと思ってはいけません。付き合い続ければ、異常・病気が体質として刷り込まれる可能性が高いです。自分を見ないゆえに反省不能で、ゆえに他者の気持ちが全く分かっていない自己中心なのです。
 
shalomさんと私が話をしてると、強引に割り込んできたし、人は人、自分は自分という風に、他に過干渉することもされることも回避する考え方に、猛烈に反発するのはそのせいかなと。
人恋しい人が、スルー推奨という考え方に賛同するわけもなかろと。
 
コメント欄では、そういうことはあるわけだから、それを異常と思うことが、むしろ異常です。答えられないものだから、今、いちゃもんを付けているだけです。
 
〇 スルーということで言えば、二人は、都合の悪いことを、スルーというやり方で無視します。しかし、自分の都合の良いことだけを発言し、注意してもスルーするなら、交流も議論も成り立ちようがありません。
 
〇 こういうことさえ、理解しないのが、楽山とシャロームなのです。都合の良いことだけ言って、都合の良い世辞しか受け入れないような相手と、いったい誰が交流し議論するというのでしょう。
 
人は人、自分は自分、というのは、独り立ちしていて、それぞれに、するべきことをしている人間同士に成り立ちます。楽山とシャロームは、人の気持ちも、人の迷惑も、何も考えていないと思います。だから、今回も、一方的主張で、私をおとしめています。そうしないと気が済まないのは、それこそ、病気でしょう。
 
・そんなこんなで、私の立ち位置は少しずつshalomさん寄りになって行ったのではあるが、私が、過干渉はよくない、人は人、自分は自分、人それぞれをよしとする記事を出したことが決定的となったようで、以降、私はstさんから、shalomさんと同軸だと判定され、批判対象とされるに至った。
 
〇 楽山の宣伝と詭弁に合うような「そんな」も「こんな」もありません。人それぞれを、自己中正当化に使うのは、シャロームも楽山も、同じのようです。楽山やシャロームなどの易坊類は、一人による成りすましではないかという疑いもあります。
 
自己中心、無反省、訂正不能、罪悪感と羞恥心の欠如、いつも人のせいにする、人の言うことは聞かない、だけど言いたいことは言う、という点において、楽山とシャロームの二人はお仲間であり、体質的にも似ていて、同軸であります。ゆえに、許容してはならず、また、成りすましも疑っています。
 
それ以降は、私もshalomさんと同じく、やることなすこと全否定されることになった。
ただstさんの楽山批判は、自分の見た範囲でいうと、私の意見を曲解、歪曲したうえで非難したり、私の内面を邪推したうえでボロクソ貶したりで、私怨まる出しで読むに堪えないものばかりだった。
 
〇 全否定に相当することをしてきたのは楽山であります。批判に対して、反論も弁明も成り立ったことがありません。まるで根拠がなく反省が見られません。楽山の災いは、ずっと書いてきました。それでも、ここでも、そして今も、記事を書き、正常人のように振る舞う楽山は、腐っています。
 
楽山の記事について、私の批判が曲解・歪曲であるという根拠と例示などを上げての説明を、楽山は、一切していません。何を、勝手にまとめて、根拠もなく、言っているのでしょう。
 
〇 楽山の文章は、ストレートな批判より、はるかに質(たち)の悪い、当てつけと嫌がらせという雑言で出来ています。そこが分からない楽山だから、丁寧に書いておけばよいという気安さで、人を侮辱しているのです。
 
ボロクソ節の豪語は、シャロームの得意技です。私怨ではなく、社会悪につながる危険があるから、批判し、二人のことを広く知らせる必要があるのです。極めて偏った人格の二人です。丁寧語に騙されないでください。
 
stさんのshalom批判を見てるときは、stさんの文章をここまで酷いとは思わなかったけど、こういうのは自分が批判対象になると、どこが曲解、歪曲、邪推かよくわかるし、その酷さをはっきり認識できるもののようだ。そういうわけで、今は前以上に、shalomさんに同情しているし、当初はshalomさんに批判的で厳しすぎたようで申し訳なく思う。
 
〇 酷さを認識できるなら、根拠を説明できるはずですが、楽山は、まともな理路を組み立てることが出来ないので、このように、決めつけて文句を言うだけです。
 
〇 そして、「酷さをはっきり認識できるもののようだ」と書いていることに注目してください。「はっきり」と言いながら、「もののようだ」と、やわらげて、あとで、断定していないから責任問題は発生しない、などと言うのが楽山です。
 
〇 これが、恐らく体質的な人格の異常からの作為と悪意の誘導であり、結論であり、以後訂正不能であり、ときに悪口の機関銃みたいに書いてくる楽山の正体なのです。一切、根拠が示されていません。
 
〇 楽山から見て、酷くない文章というのは、楽山の文章なのでしょう。しかし、私から見れば、楽山の文章は、自らの人格破壊を表し、他者に人格破壊をもたらすだけなのです。そういう文章を書くようにだけはなりたくないのです。
 
批判というものは、自分に向けられたとき、不当に思われ、被害的、他罰的になりやすいものです。そこを自覚し反省し克服できる人が、真実の追求に向いています。楽山の言っていることは、真逆であります。
 
〇 楽山の言っている議論は、まるで、怒りながら、否定しながら、世辞を入れるようなものです。
 
〇 楽山は、自分が批判対象になって、ますます、その反応に理解力のなさが目立ってきています。今回の記事も、最近の記事も、それを表しています。省みる姿勢が何も感じられません。丁寧語によるボロクソ節を言うことに躍起になっている楽山です。
 
・以上、この件についての顛末はこのようなものである。
こんなことを書くと、ますます恨まれて粘着されるだろうことは予想されるけど、このようなことは何回も繰り返されてきたようだし、今後、面倒に巻き込まれる人が出ないように記事にしておいたつもりである。
もちろんこれは私から見た顛末であるし、相手には相手の言い分があるのだろうから、この問題に興味がある人は、相手方のブログも確認してみたらよいと思う。
 
まるで、正当な顛末になっていません。楽山の理路は、相手のせいにし、相手を責める一方向に固定して、駄々を捏ねているだけの子どもだましです。
 
〇 私は、粘着するような魅力を、楽山には全く感じていません。楽山には、真実追求のテーマを扱うブログの世界から、一日も早く、いなくなってほしいと思っています。
 
〇 楽山という面倒は、全く自覚のない粘着性の訂正不能の自己愛性の病質者ですから、誰も関わらないように、近づかないように、心から願っています。
 
・ついでに、この件での教訓を書いとくと、
ネットストーカーとか、
他人を攻撃せずにはいられない人とか、
サイコパス、人格障害とか、
その手の知識は前もって知っておいた方がよいということ。
これ、ほんと、大事。
 
〇 このように、気に入らない相手には、ネットストーカー、攻撃だけする人、サイコパス、人格障害、などと、あっさり決めつけてきます。
 
〇 自分が言われそうなことを、何の根拠も示さないで、相手に当てはめて、まともに返したつもりなのです。思慮がないというか、結論だけというか、話にならない人です。こういうことが、ずっと続いてきたのです。
 
〇 楽山とシャロームに対して、善人芝居と詭弁と嘘という偽善の予備知識は「ほんと、大事」です。しかし、この二人は、慣れているようですから、だまされないためには、相手にせず、関わらず、近づかないのが、いちばんでしょう。
 
〇 楽山は、本当に大事なことを全く知らないと思います。自分の決めつけや思い込みが災いだということを認識できないのです。恐らく情緒面にも欠陥があり、冷静な理路の判断も出来ないのだろうと思います。
 
〇 このことは、哀れではありますが、もともとの体質が、そうなのかもしれませんし、少なくとも、私が関わってから、私がトホホ言語と呼んでいる反省芝居を時にするようになりましたが、一度も、真実味のある内省的なところを見せたことがないのです。
 
〇 やさしげで砕けた言い方に惑わされないでください。楽山は、自分が上の異常に当てはまることを認めたくないから、逆に、そういう丁寧語で書いて、ごまかすしかないのです。
 
〇 よくも知識が必要などと言えたものです。楽山は、子供じみており、一方的で、話の分からない駄々っ子なのです。かといって、やさしく接すれば、それだけ、思い込みを強くするだけでしょう。
 
楽山は、言葉を覚えるだけで、その意味も、使い方も、理路も、感性的理解も、分かっていない人です。本を読むけど、煙に巻くような、ああでもないこうでもないというボンヤリ言語しか表せません。
 
今までは、それで、だまされて受け容れてくれる人が多かったのでしょう。しかし、重大なテーマ、宗教、思想、人生などについて、楽山が語ることは、一切、信頼できるものではないのです。決して、関わってはならないと思います。
 
今回、楽山は、何を、だらだらと書いているのでしょう。あることないこと、ぶちまけて、私のせいにして、何が、よくなると思っているのでしょう。憂さ晴らしと嫌がらせ以外の何ものでもない、いちゃもんと、ひねくれた一人前気取りの独り相撲に過ぎません。
 
〇 私の批判対象として、今は、楽山とシャロームです。易坊はどうしているか知りません。ただ3者の成りすましを疑っています。
 
〇 楽山は、今回、まとめて批判したつもりなのかもしれません。しかし、読んでみると、楽山が、いちゃもん、クレーム、文句、不平不満、という悪口と、正当な批判を、全然、区別できていないことが分かります。理路がなく、決めつけているだけです。
 
シャロームのような楽山のお仲間や、楽山やシャロームと仲良しで、既に、楽山のボンヤリ言語やシャロームの丁寧語に染まって、すっかり、二人を無条件で贔屓しているような人については、何を言っても無駄でしょう。恐らく、似たような、破壊された人間の様相を示すようになるでしょう。
 
しかし、楽山やシャロームとの関係を断つなら早いうちがいいです。致命的な影響を受けないうちに、染まることのないように、冷静に、楽山から、離れてください。そして、二度と関わらないようにしてください。二人は、自分が何者か、まるで分かっていないのです。
 
私は、誰でも批判しているわけではない、という事実が、楽山がだらだら書いた長文を、全部否定しているわけですが、この二人だけは、それが分からないのでしょう。
 
シャロームの丁寧語や楽山のボンヤリ言語を聞くと、吐き気を催すようになっています。もう殆ど、生理的に、感知している臭いなのです。
 
今回の楽山の記事で、楽山は、何か弁明か、批判返しをしたつもりなのでしょうか。全く、理路がなくて、じめじめした、しつこくて陰湿な悪口だけになっています。文章の歯切れが悪く、掘り下げることが出来ず、判断することも出来ず、わざとらしい砕けた言い方で、柔和に見せかけて、ごまかしていますが、受けを狙っているのでしょうか。
 
〇 今回の楽山の文章に賛同する人は、かなり、自我の弱い人で、それこそ、楽山に騙されている御ひいき筋ということになるでしょう。楽山に影響されて、楽山と同じように、言葉の組み立ては出来ないのに執拗にねちねちと文句だけを言うような人にはならないでほしいです。
 
〇 そして、今後は、楽山の文章こそが、ブーメランのように、被害的で他罰的な精神が固定されて訂正不能になっている楽山を否定してゆくのです。そこには、楽山の異常が、前にもまして、積まれてゆくでしょう。自己中心が招く人格破壊は進行性だからです。シャロームにおいては、既に、如実に表れてきました。
 
〇 楽山が、正直であろうとするなら、間違っていたことを認めることから始める以外ないのです。正直とは、そういうことです。いくら、言葉面を、よさそうに、まとめても、無駄なのです。
 
 
 
(※ ここは、新規投稿部分です。)
 
問題は、楽山とシャロームなどの小さい二つの異常な個人カルト思想屋も、ひょっとしたら、大きなカルトと関係があるかもしれないということです。その辺は、なかなかネットでは分からないところです。
 
そして、気味の悪いのは、楽山とシャロームが、示し合わせたかのように、同調していることです。一人による成りすましも疑われますが、今のところ、主張内容の異常さは明らかでも、どういう関係で繋がっているのかまでは分かりません。
 
楽山とシャロームが、個人カルトに留まるのか、ゆくゆく社会問題となるのか、既に大きな組織のメンバーなのか、そういったところも見てゆかねばなりません。この辺が、個人が批判してゆく限界なのかもしれません。
 
 
闇から闇へ

闇から闇へ
 
 
(2019年11月23日、同日一部修正)
(2020年11月29日、加筆して再録)
何度でも再録することになるかもしれません。
 
 
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