ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:人格障害

 
  楽山の鈍麻~不感
 
 
 『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』大川隆法著
 2022年11月12日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
楽山は、また、長いだけの記事を書いてきました。自称アンチHSの楽山のHS批判かと思いましたが、むしろ、賛同しているようです。楽山の、今までが、真っ赤な嘘だったということが明らかです。同時に、アンチ芝居と、賛同芝居によって、楽山が自己中を表している記事です。
 
楽山は、今後は、HS寄りとして活動するのでしょうか。ならば最悪の卑怯者です。やはり、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)は、自己中以外に何も持っていないことの証明と言えるでしょう。誰にでも尻尾を振って、また、裏切って、自己満悦できる人なのです。
 
 
*ひさしぶりの再読
『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』を再読してみた。旧版は以前よく読んでいたので、ところどころで懐かしい言葉と再会できて愉快だった。
今回も前記事と同じく、記事の前半にに共感できたところ、後半には共感できなかったところを書いてみる。
 
楽山の正体は、誰によっても迷惑ですが、今回は、ORを引用して「懐かしい言葉」と言っています。
 
 
*克己心
こういうわけで、まず本書ではじめに共感できたのはここである。  
克己心を持てること自体が一つの才能だと私は思います。
(『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』大川隆法著、幸福の科学出版、2003年、p.77)
 」
これは全くその通りだと思う。やる気、向上心があるという大切なことだ。
克己心が旺盛だと、やりたいこと、やらねばならないことが沢山あって、毎日が忙しくてたまらなくなるのだが、こういう日々が幸福というものなのだろう。
 
アンチHSのはずなのに、「全くその通り」と言っています。アンチではありません。宗教を、ここは賛成、ここは反対、という感想文で論じるのは間違いです。例えばカルトの、敬虔がなく、決めつけてくるという本質を、部分的に賛成か反対かで語ったつもりになる時点で、楽山は的外れなのです。
 
 
*魂の器
あなたが責任をとれる範囲が、あなたがどのような人間であるかを物語っています。自分はどれだけのことに責任を持っているか、あるいは責任をとれるかということが、自分の器を知る指標なのです。
(同上、pp.101-102)
 」
この考え方は、以前、本書を読んで以来、ずっと記憶に残っており、今でもよく思い出すものである。
これはアドラー心理学の課題の分離、個人主義などとは正反対の考え方であるし、やや自己処罰的傾向が強いので、モラハラ被害を招く危うさはあるものの、自己研鑽という視点からみればよい面はあるだろう。
 
また、大嘘を吐いています。無反省、無責任の、無神教カルトで、アドラー教宣伝者の、楽山が、白々しくも「責任」を語るのは、もはや、罪悪感自体が皆無であることの証拠になるでしょう。実際、楽山は、人を低く見てくるモラハラ人格であり、壊れ続けており、人間性を失っているのです。
 
 
*人それぞれ
世の人びとはさまざまな考え方を持っています。みなさんも経験があるでしょうが、こちらがあぜんとするような考え方を持っている人もいます。向こうからみればこちらがそうであって、まったく逆になるわけですが、こうしたことは実に多いのです。
(同上、p.121)
 」
これも本当にその通りだ。ものの見方、考え方は、それぞれ違っているのが現実である。
 
楽山は「人それぞれ」で自分の無責任の正当化を、してきたことがあります。人それぞれは、責任ある大人について言えることです。それができずに、また言ってくるのは、他者も、自分の過去も、起こったきたことも、何も気にしないでいられる劣悪な異常人格だからなのです。
 
 
事実関係についての話でさえ、他者と一致させるのは困難な場合もあるのだから、ましてや信仰、信条、主義、価値観などを他者と一致させ、共有しようなどというのは無理なことだ。大雑把に話を合わせることは可能かもしれないが、細部まで詰めようとすれば、お互いの間にはどうしても埋められない深い溝があることを自覚させられるだけである。
それだから、ものをよく考える人ほど孤独感を抱えることになり、場合によっては、死ぬか、狂うか、宗教に走るかしかないと思い詰めることにもなるのだろう。
 
楽山の孤独感は病質がバレたことによります。楽山は、元々病質のために、見せかけの交流しか出来ない人ですから、ずっと孤独で孤立しています。誰も楽山を真に好意的には理解することは出来ず、楽山が騙していただけなのです。自覚もないので、今も、まとも芝居をしているのです。
 
 
*学ぶべき人
気にいらないと思うと、その人から何も聴きたくない、何も学びたくないということになりますが、実際は、自分がきらいになる人や、自分と対極にある人のなかにこそ、学ぶことは多いのです。
(同上、p.125)
 」
恥ずかしながら、自分にも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという感情を抑えがたいときはある。ただ思想に関しては、そういうことは殆どない。以前は唯物論アレルギーみたいなものはあったが、最近はなくなった。
なので、自分が拒絶しているものにこそ、学ぶべきことは多いというのはよく分かる。
 
楽山は、対極にある私の意見を、ことごとく無視してきました。コメントの遣り取りを数か月した際には、不感不応で、同じことを繰り返すことしか出来ませんでした。楽山は、理路も、情緒も、理解できない成長不全の人です。
 
 
*開拓
知識の面では、これまで自分が関心を示さなかったところ、まったく無視していたところ、勉強しなかったところに、努力して少しでも手を伸ばしていくべきです。やがて新たな視点が得られ、大きな道が開けてくるでしょう。
(同上、p.163)
 」
これも共感できる。元々右寄りの考え方をしているなら、意識的に左寄りの知識を仕入れてみたり、霊的な方面に関心があるなら、あえてその反対の唯物論について学んでみるのも、新たな視点の獲得のためには有意義なことだ。
 
ORに「共感できる」そうです。楽山は、右寄りというより、A級戦犯に賛同するような記事を書いたのだから、ネトウヨなのです。また、楽山は、病質のために、学習するということが出来ない人です。「新たな視点の獲得」どころではなく、今も、視点など持っていないと思います。
 
 
*求不得苦
ここからは、本書中、あまり共感できなかったことについて書いてみる。まずはこの言葉である。
当時の私が欲しかったのは他の人の愛です。他の人にやさしくしてほしい。ほめてほしい。「あなたは素晴らしい」と言われたい。そうしたものが欲しくて苦しんでいた
(同上、p.19)
 」
正直言って、私にはこの感覚はよく分からない。私はどちらかといえば問題児で、幼少時から褒められることよりは叱られる方が多かったのだが、それでも称賛や優しさが欲しくて欲しくて堪らないという気分になったことはなかった。
 
過去形で書いていますが、楽山は、以前から、そして、今も、人を騙しているのであって、本当に褒められることは、全くないのです。「称賛や優しさ」が欲しくないのは、恐らく、高等感情の鈍麻によるものでしょう。自我に固まり修正不能になって、感情が鈍くなっているのです。
 
 
著者は幼少時から優等生だったそうだから、私よりもずっと褒められ、優しくされて育っただろう。それなのにこれほどまでに、称賛や優しさに飢えていたというのはよく分からない。
 
「分からない」というより、楽山には、そういう経験もなく、そういうことへの感受性も獲得していないということでしょう。それで、正当芝居をするのは、悪意であり、病質の症状なのです。優等生でないことは言い訳になりません。学校の成績云々ではなく、自分を見る洞察がないからです。
 
 
*損得勘定
そのため当初は、「そうしたことをして、何の得があるのだろうか」という気持ちがありました。
(同上、p.19)
 」
著者は「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という教えに対して、このような感想を持ったそうだ。
私は倫理道徳は損得勘定ではないと思うので、こういう考え方はよく分からない。親切というものは、そうしないではいられないからそうするのであって、それが得だからするのではないだろう。「人に親切にしましょう」というのに対して、「それに何の得があるのか」という問いがなされるというのは、それこそ唖然とさせられる思いがする。
 
また嘘を吐いています。楽山は、人を、愛したことも、生かしたことも、赦したことも、ないのです。今までの楽山の発言が、自己愛・自己中しか示していないことが証拠です。また、楽山は、深い情緒がないために、思想や信仰について、複雑な中身を理解できず、短絡~妄想で決めつけてきました。
 
 
*人の言葉
また、当時の私は、人がほめてくれても素直に喜べず、逆に、少しでも悪く言われると、とげが刺さったように感じて、二年も三年も、あるいはそれ以上も、刺さったとげが抜けないという状況でした。
(同上、p.21)
 」
私の場合は、他人から褒められれば、素直に嬉しくなる。たとえば、コンテストに入賞したら、だらしがない話ではあるが、にやにやが止まらなくなる。自分はまだまだだという謙遜はあっても、それでもやっぱり嬉しさは止まらない。人というのはそういうものじゃないかな。
 
また、嘘を吐いています。楽山は、騙したり、世辞を言うので、誰にも褒められることは、恐らくなかったと思います。素直さが全くないと思います。「人というのはそういうものじゃないかな」・・この口調こそ、楽山の芝居であり、見るたびに吐き気を催すインテリ気取りなのです。
 
 
悪口については、少しは気にするが、何年も苦しみ続けるというのはない。そういうものは時間が経つと、大体が笑いに転化されるもののように思う。女性から、きつい言葉でふられた時などは特にそうではなかろうか。
 
悪口も、正当な批判も、高等感情鈍麻によって、不感不応でいられるのが、楽山です。笑いに転嫁してゆくのも、共感のない楽山には、容易いことでしょう。いつも人を、下に見て、あざ笑っている病質です。それを、自慢げに語っているわけだから、人格の不全は、どうしようもないと感じます。
 
 
*愛の貸借対照表
そこで私は、「愛を与えた部分と、愛を与えられた部分とを、書き分けてみたらどうなるか」と思い、心の中で並べてみました(これを幸福の科学では「愛の貸借対照表」と呼んでいます)。
(同上、pp.23-24)
 」
これは方便だろうと思うのだが、愛を損得勘定で語っているようで、あまり良い気分はしない。
映画やドラマの中で、強者達が人の命を救ったり、救われたりしたのを、貸し借りで表現するのは格好良いが、真面目な顔をして「愛の貸借対照表」うんぬんはないだろう。
 
楽山は、高等感情がないために、出来の悪い辻褄合わせに終始して、いつも、論点から外れてきました。感じるべきことを感じられないのです。ゆえに、愛について、楽山が理解しているとは、到底思えません。楽山には、例えば心の痛みがなく、その冷酷さから、平気で痛みを与える人となっています。
 
 
*カトリック批判
カトリックの信者でも、霊やあの世を理解していない人がわりといるのです。こうした人たちの特徴は、二千年前のイエスの時代で時間がとまっているということです。そこで時間がとまってしまっているために、理解ができないのです。
(同上、p.122)
 」
HSでは、カトリックに限らず、伝統宗教を批判する際に、霊界の話が少ないことを問題視することが多い。HSは常々、人は如何に生きるべきかという心の教えの学びと実践ことが大切であって、霊界話にばかり夢中になる霊好きはいけないと戒めてはいるものの、伝統宗教を批判するときは、霊界話が少ないからだめだというのである。
こういうところをみると、霊界話より、心の教えこそが重要だというのはあくまで建前であって、本音は何よりも霊界話が大好きだし、それこそがもっとも重要だと考えているのだろうなと思う。
 
キリスト信仰は、人間としての身の程を弁えた心の共感を大切にする信仰です。楽山は、霊界、霊言、心霊にこだわる記事を、うんざりするほど書いてきました。今までの記事から、宗教を、霊の話だと曲解しているのが楽山です。しかも、ことごとく、本気ではなく、興味本位なのです。
 
 
嘘吐きは鈍くなる

嘘吐きは鈍くなる
 
 
(2022年11月13日)
 
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように

要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  ずだだ
 
ズダダダダ
私が何をしたというんだ
乱射される
首を振り
目をそらし
よけるのが精一杯だった
それにしても君って
不思議な人だ
言ってることが
聞かれてると思ってる
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山の詭弁物語
 
 「私の聖書物語」椎名麟三著
 2021年03月13日 楽山日記(LD)
 
 
何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。
 
*私の聖書物語
先日、椎名麟三の本を読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しい本だったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。
 
楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。
 
*愛すること
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものであるからだ。 
(『椎名麟三全集15』「私の聖書物語」、椎名麟三著、冬樹社、昭和49年、p.344)
 」
愛がどうしたこうしたと言うのは気恥しいものであるが、このくだりを読んで、随分前に大恋愛中の友人がこんなことを言っていたのを思い出した。
「相手に、自分のどこを愛しているかと聞いたとき、ここが好きとか何とかいったら、それは本当には愛してないってことなんだぞ。本当に愛してたら、ここが好きとか、こういうところを愛してるとか、そんなことはいえないもんなんだ」
こんな彼が上の文章を読んだら、「その通り!」と喜びそうである。
 
エロス・性愛、フィリア・人間愛、アガペー・神の愛、のいずれのことを言っているのか、書いていません。「愛している」という台詞からは、エロス、性愛、恋愛のことを言っているのでしょうか。また、楽山の不備の言が始まっています。
 
楽山が、どう思うかを書いていません。分からないからでしょう。愛と性欲の区別がつかないのでしょうか。性欲も分からないのでしょうか。どこを愛しているかということではないと、わざわざ言っているのは、どこはチャームポイント・好み・魅力であって、愛という関係とは質が違うことを、楽山は知らなかったのでしょうか。
 
*自由と愛
また著者は、自由についても次のように書いている。
愛というものは、究極には理由のないものであるならば、自由というものも究極には、理由のないものなのである。
(同上、p.344)
 」
自由も、愛と同じく、ああだこうだ言っても仕方のないことなのだろう。ただ、ああだこうだ言っても仕方ないと分かってはいても、ああだこうだ言わないではいられないのだから仕方がない(笑)。
 
引用の理路も、愛=自由ではないのだから乱暴で不十分ですが、楽山は、引用しておきながら、またしても、説明を書きません。なのに、ああだこうだという文句だけは言ってくるのです。「仕方がない」は、何の説明にもなりません。これで勝手な書き方の弁解にはなりません。
 
散々、詭弁と嘘で、人を侮辱し、だまし、おとしめておきながら、何が「(笑)」なのでしょう。楽山には、何も言わないでほしいのです。偽善で腐った楽山の言論は、ノートにでも書いて、一人で笑っておればよいのです。無反省、無責任、無神経、無理解の病的ナルシストの言など、迷惑なだけで、誰のためにもならないからです。
 
訂正不能で、学習する気がなく、都合のよさそうな言葉だけを使い捨てで悪用してきて、結果、嘘と詭弁しか出してこないような、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。そういう者は、批判の対象にしかなりません。
 
*人間はすべて許されている?
キリーロフは、小さいとき見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。
(同上、p.361)
 」
これは、ドストエフスキーの「悪霊」についての文章である。
「悪霊」は、ウン十年前の夏に汗をかきながら読んだ覚えはあるものの、その内容はきれいさっぱり忘れてしまっているので、上の文章については自分は何も言えない。
でも、「人間はすべて許されているのだ」という言葉には、はっとさせられた。これは前々から考えているテーマなので。
 
今までの経過から、楽山語の「人間はすべて許されているのだ」は、何をしてもええじゃろ・・ということです。なお、キリスト教においては、許される、ではなく、赦される、であります。許可ではなく、赦免であります。それを、楽山は、何でも許可、何をしてもいい、ということに、すり替えています。
 
何もまともに考えることの出来ない自己愛性病質者の楽山の解説は、すべて恣意的です。自己正当化と自慢だけをしたいだけの詭弁なのです。
 
*信仰と許し
許しについて、本書では次のような文章もある。
キリストを信じない人にははなはだ申し訳なくて申し上げかねるのだが、その人さえも実はキリストにおいて救われてあるのである。また私に叱責の手紙を下さった熱心派の方々にはまことにお気の毒であるが、イエスをキリストとして信じられなかった私も、驚いたことにキリストにおいて救われていたのである。その事実が私をいつも震撼させるのだ。
(同上、p.401)
 」
宗教では、信じれば救われる、悔い改めれば許されるという具合に、許され、救われるには一定の条件があると説くことが多いのだが、著者はそれとはちがう考えらしい。
 
楽山は、「信じれば救われる、悔い改めれば許される」という言葉の意味を全く理解していないことが、今までに明らかになっています。自己顕示欲の知ったかぶりだけで書いています。どうか、真に受けないでください。
 
疑いがあっても、信仰が全くないわけではない、という意味かもしれませんが、楽山は、それを、反キリストでも、何をやっても許される、という恣意によって、ねじ曲げています。このような話の進め方をすること自体が、既に、反キリストの宣伝者以外ではないということです。
 
ちなみに自分も、信仰や悔い改めなど、何らかの条件を満たしてはじめて許され、救われるというのではないように感じられる。それらによって許され、救われるというよりも、それらによってこそ許され、救われていることに気づくことができるというのが本当ではないかと思うのである。
 
今度は、条件という言葉だけで、楽山は、信仰を、教条主義にすり替えています。ベースが理解が皆無の楽山からは、嘘と詭弁しか生まれてこないのです。
 
自分の罪に気づかず、自分の罪を認めない者は、救いに気づくこともないのです。信仰は、罪が赦されて生きる、という救いだからです。
 
楽山は、悔い改めもせず、反省もしないで、救われているつもりなのでしょうか。それこそ、宗教と信仰を悪用する自己顕示欲の悪夢であります。ますます、ふてぶてしくなり、ひどくなっています。
 
*神義論
神が、キリスト教のいうように全能だとするならば、アダムとイブが禁断の木の実を食べたのも神のせいである。何故なら人間の一切やこの世の一切を決定しているのが神であるなら、禁断の木の実を食べることも神において決定されていたことにちがいないからだ。だがもし禁断の木の実を食べるということだけは、神の決定から逃れ出ていて、神の知らないことであったとするならば、そんなぼんくらは、神でも全能でもあるわけはないではないか。
(同上、pp.370-371)
 」
これは上と同じく、自分には興味深いテーマだ。
神は全能であるとすれば、どうしても考えないではいられないことなので。
 
このように、同じような、いちゃもんを言っているように見える小説家の言を、楽山は、フルに利用し悪用してきます。楽山の言い分は、神が、楽山にも分かるような都合のよい辻褄の合う言動をしないなら信じない、ということです。既に否定されたのに、また、平気で書いてくるのが、楽山の病質であります。
 
(ネットより)
椎名 麟三(しいな りんぞう、1911年10月1日 - 1973年3月28日)は、日本の小説家である。
・・・
1950年(昭和25年)、キリスト教へ入信。日本基督教団上原教会にて赤岩栄牧師から洗礼を受ける。以後キリスト教作家として活動。
 
楽山の引用と解釈は、神の辻褄が分かるなら信じる、という、楽山の自我の完全欲の言であります。
 
信仰は、自らの完全を否定することから出発します。人間は、決して完全にはなれず、神に希望を託さなければ、愛も癒しも希望もなく、楽山のような謀略者に食い殺されてゆくだけです。
 
ゆえに、価値観を、この世に置くのではなく、最終的結果を、神に任せる道が、信仰です。辻褄が合わない世界だからこそ、不完全を自覚する人は、神を必要とするのです。
 
神が分かるなら、信じる必要はないのです。楽山のような完全欲の病質的ナルシストは、自己満足が得られないと気が済まず、いくら批判しても、同じようなことを書いて、疲れさせてきます。
 
信じないのは楽山の勝手ですが、誰かに影響を与えようとする意図は、これもまた、悪夢のようなものなのです。早く過ぎ去ってほしいと思います。楽山は、人間性を破壊する悪夢です。
 
どうか、楽山にだけは、関わらないでください。関わることが、楽山の他害性であり、徒労であり、疲労であり、地獄であり、人間としての思考も情緒も失ってゆく兆候なのです。
 
*信じないけれども信じている
「それが実に全くほんとうに困ってしまうんですよ。お前は信じているんだとおっしゃるなら信じているんですし、信じていないんだとおっしゃるなら信じていないんだからです」
「どちらがほんとうなんだ!」
「ところが全く困ったことにどちらもほんとうなんです。つまりその二つは、実に平和に共存しているわけなんですよ」
(同上、p.374)
 」
これは奇跡を信じるか、信じないかという話であるが、著者のなかではこの二つが「平和に共存している」そうである。
 
「これは奇跡を信じるか、信じないかという話」ではありません。キリストに共感するか、キリストを好きになるか、という話なのです。楽山の勘違いは、人間にとって、どこまでも世迷言です。
 
楽山は、おびただしい嘘と詭弁で、他害と破壊を及ぼしている自覚、即ち、病識がないのです。楽山には、平和もありませんし、共存もありません。自我の満悦と訂正不能の悪夢があるだけです。
 
これは自分も同じだ。奇跡なんかないだろうと思いつつ、奇跡が起きたら起きたで、そういうこともあるだろうとさほど抵抗なく受け入れることはできる。
 
楽山は、奇跡が起きても、起きなくても、平気でいられるそうです。楽山には、霊が分かるっぽいという妄想的発想症候群は起こっても、本当の奇跡は起こらないでしょう。
 
楽山の言から明らかなのは、楽山のように偏向し腐敗した心には、心の奇跡など起きようがないということです。起きないのは仕方ないが、他者の心の奇跡と目覚めを、邪魔するのはやめるべきです。誰も、楽山のようになってしまっては、ささやかな幸福さえも失ってしまいます。
 
あれこれ見て、あれこれ考えた上で、どうやら神は存在しないようだと結論づけたとしても、神を信じて祈ることにさして抵抗はない。
 
白々しい嘘です。逆説の哲学者シモーヌ・ヴェイユじゃあるまいし、存在しない神に祈る楽山の正体は、信仰を欠片も持たないで、だますために、祈り芝居の記事を書く詐欺師です。
 
祈ることに抵抗がないそうです。それは、楽山が嘘を平気で吐く異常者だからです。祈りを何と思っているのでしょう。祈りは、神への唯一の音信です。神は、人の総てを見抜きます。楽山は、神を何とも思っていないから平気なのです。
 
楽山は、おのれの自我が神を、物か人のように、机上の対象にする怨念のような異常な確信から、この軽さで、神も、上から眺めて、かわいがってやろうとでも言うのでしょうか。黙っておればよいものを・・、何も知らない、ということの、怖さです。
 
我ながらおかしなことだけれども、こういう矛盾は平気である。何かの本で野蛮人かどうかは矛盾に無頓着であるかどうかによるという話を読んだ記憶があるが、この基準からすればどうやら自分は野蛮人であるらしい(笑)。
 
楽山が、こういう矛盾に平気なのは、自己愛性パーソナリティ障害だからです。逆説的真実も何もなく、自慢したい、ひとかどの人物と見られたい、特殊の霊的境地がある、分かっている、という妄想に、酔い痴れて生きているのが、楽山であります。
 
*人であり、神であるということ
荒本さんの反逆は、イエスを神として、人間であることを捨象したキリスト教に対する反逆だったのだと思う。私は、イエスをキリストとして信ずる者であるが、キリスト教界のことはあまりよく知らない。だがおそらく荒本さんの反逆したくなるようなものが、少なくとも荒本さんの所属していた教会にあったのではないかと推測されるだけだ。ただ荒本さんは、そのイエスの人間を強調しすぎたのである。
(同上、p.439)
 」
著者によれば、荒本さんは「熱心なクリスチャン」でありつつ、「イエスが、人間であってなぜわるい、とか、マグダラのマリアに恋愛していてなぜわるいとかいって、キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」と主張して教会から離れ、マルクシストになり、「アンチ・クリスト」という論文を発表するようになった人であるが、やがて病に倒れ、最期のときには「おれは、神を信じていたのに…」と言い残していったという。
 
「キリスト教の偽善は、イエスを神の子とするためにイエスの人間性を無視していることだ」
・・楽山とは全然違って、椎名麟三という人が思考するキリスト者であることが表れています。私も教会からは離れていますが、おかげでか皮肉にか、悪夢のような楽山という偽善者を、人間として批判することが出来ます。
 
キリストを、人間かどうか、決めつける必要が、断定する根拠が、能力が、人間の、いったい、どこにあるというのでしょう。
 
また、キリストの、人間性をもっているからこそ人間に共感するという恵みを否定したら、信仰は、おしまいです。楽山のような、超常だけのカルトになってしまうからです。
 
キリストの人間性を無視することは、超常奇跡信仰であり、人間が受け取れるものを見失ってゆく袋小路への堕落であります。なお、経験上、私が通っていた教会をはじめ、まともな教会は、キリストの人間性を無視したりはしません。教会もいろいろであります。
 
恐らく、キリストの人間性を無視する教会には、楽山に似た外道の訂正不能の者がいるのでしょう。そういう者は、どこにいても、真実を、人々から遠ざける定めなのでしょう。
 
キリスト者でもなく、必要な知識も理路もなく、信仰など持ったことがなく、教会外にいて、減らず口だけをたたいているのが、楽山その人であります。どれだけ、信仰を語る圏外にいても、自己愛性の病質者は、身の程を知ることがなく、弁えることがないのです。
 
著者は、イエスは人であり、神であるので、どちらか一方の見方に偏することに注意喚起しているようであるが、近頃の自分の関心は、信仰上のイエスより、歴史上のイエスに大きく傾いているので耳に痛い話ではある。
 
先ず、楽山は、信仰上のイエスを知りません。むしろ、憎んでいると思います。そういう人だから、知りもしないのに、無神論関連の本から、信仰をけなし、信仰関連の本から、信仰を揶揄してくるのです。
 
歴史上のイエスに傾くなどと平気で言っているのが、思慮が浅いのに思い上がっている証拠です。歴史上のイエスは、二千年前ですから、いつになっても、詳細は不明であります。過去は、いかなる資料によっても、その資料の信憑性が問われ続けます。
 
大切なのは、聖書が、超常ではなく、人間に何を伝えようとしているか、ということです。
 
それに、信仰もないのに、キリストの史実だけを追い求めることは、世界で一番の徒労であり、無駄であります。楽山が、いかに問題外であるかを、楽山が表しています。
 
*これから
椎名麟三の本は、以前、とあるクリスチャンから勧められて一冊読んだきりだったのだが、今回改めて読んでみると難しくて分からないところもあるが、著者独特の思考と語り口によって様々なことを教えてくれ、読みごたえがある。つづけて他の著作も読んでみるつもり。
 
楽山は「難しくて分からないところもあるが」「読みごたえがある」のだそうです。この軽さと浅さが、楽山の特徴であり、厚かましさであり、本気の無さであり、自己顕示欲の権化であることを表しているのです。
 
楽山が、どれだけ、本を読んだといっても、信用しないでください。自分に都合のよい言葉を漁っているだけの楽山が、真の読書をすることはないのです。
 
本に学ばないで、自分の言い分を、肯定してくれそうな言葉面を探して検索しているだけです。そうして、楽山は、勘違いの妄想を、詭弁によって、ごまかして書いてくるのです。
 
楽山の言は、丁寧語で書いてくる分、少しばかり、人を誘いますが、注意してください。楽山は、理路を学び、信仰を知っている者からは、石にも砂にも値しない、嘘との偽善の有害物です。
 
キリストが、なぜ、手加減せずに、パリサイ人という偽善者を、あそこまで厳しく否定したかが、楽山という偽善者を通して、表されています。現代にも通じる警告であり、教えであります。
 
私は死んで何も言わなくなっても、神は、いつまでも偽善を黙って見ておられる御方ではないのです。このことが、一見、空しいことをしているように見えても、臨死において、キリストが、父なる神が、与えるところの、最終的な平安であり、救いであります。
 
 
ウソの首は赤い

ウソの首は赤い
 
 
(2021年03月14日)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
なんだか、こんな話を聞くと、もーれつに読みたくなってくる。
トンデモ本は好きなので(笑)。
引用ツイート
>>
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 2時間
実は、ずっとやりたいと思ってたけど、まだできてないことがある。それは、この本を論評すること。
以前ざっと読んだのだが、あまりに言っていることが無茶苦茶で、かえって霊言の胡散臭さが際立つ名作だったww 
<<
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
引用することで、どんどん、他の批判者を、自らの偽善の正当化に巻き込んでゆく、トンデモ的外れの楽山です。いつも、楽山は「(笑)」なのでしょう。楽山は詭弁を弄して、発言の責任を負わず、人を、疲労させるだけの人です。
 
自分の落ち度についての問題も、その指摘も、これだけ無視して、ふつうの人を気取ることの無理を感じないで笑って、明るい言葉を発していられるというのは、ふつう考えられないことです。
 
楽山の、嘘と詭弁と、反キリストの言と、無反省・無責任を批判しています。あまりに言ってることが無茶苦茶で、霊が分かるっぽいと言っていた楽山が、ブログ記事とツイッターで、馬脚をあらわしてゆく成り行きです。
 
楽山に、他者の言を引用する資格はないと思います。理由は、真実を追求する資格のない病質的偽善者であり、楽山自身が、真実を裏切り続けているからです。
 
いちばんおかしいのは楽山であり、おかしいことをしてきたのであり、その楽山が、他者に向かって、おかしいなどと意見を言う資格はないということです。今までの2年間の楽山批判が根拠です。
 
 
(2021年03月14日)
 
 
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  楽山の独り言
 
 KENTO氏による楽山批判(5)(ネット上の議論についての反省)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月07日
 
 
また、性懲りもなく、楽山は書いてきます。しかも、何の説明にも弁明にもなっていないことを、的を逸らして、お互いさまみたいに言って、今まで同様、自己正当化してくるわけです。これが、病質者のやり方だと思ってください。折れないのも、書いてくるのも、無反省・無責任と同じく、病質の症状なのです。だから、楽山の言は、全否定しかないのです。
 
*反省メモ
今回の議論についての、反省点をメモしておきたい。
メモしないと、すぐに忘れて、また同じ失敗をしてしまいがちなので(笑)。
 
議論は双方向のはずですが、楽山は、議論はしていないわけです。さらに、楽山は、無反省なので、反省点のメモも、自己正当化だろうと予想がついてしまいます。まだ、まともなつもりで書いて、だませると思っているようです。
 
*過去の教訓
まずは、ネット上の議論について、過去の教訓を思い出してみる。
リアルでの議論なら、長くても二、三時間で済む。でもネット上の議論は延々続く。他のことをする時間を奪われる。
 
何を基準に、二、三時間で済むと言っているのでしょう。真実の追求は、一生涯にわたることもあると思います。いつものことですが、楽山の気安く甘い見方です。
 
楽山との話は、世辞で終わらせない限り、永久に終わりません。こっちの言うことを、まるで聞いていないのですから、しかも、自らを省みず、責任も負わないわけですから、「時間を奪われる」というのが、まず、被害者意識でしかありません。ふつう、無反省・無責任は、議論で成り立たない、ということが、楽山には分からないのです。
 
事実関係の議論なら結論が出ることもあるが、宗教・思想など価値観に関する議論は、水掛け論になり延々続く。時間を奪われる。
 
楽山が相手だと、水をかけ合うのではなく、楽山が勝手に掛けてくるだけなので、時間を奪われるというのは、気力を奪われるということです。これが、無反省・無責任を相手にするときに、まず、うんざりすることです。
 
楽山の掛けてくる水は、廃液であり、そこには、説得力や真実や、その糧になるようなものや、正直さが、まるで含まれていません。小便を引っ掛けられているようなものです。まともに受け取らないでください。総て、罠です。楽山に対しては全否定するしかないのです。それが、病質者というものです。
 
楽山は、ここでも、問題を、双方同じという方向に持っていこうとします。話し合う気がないものだから、このようなことを書いて、そっちも悪いということにするのです。みんな嘘さ♪・・という歌がありましたが、まさに、楽山は、疲労の上塗りをするサディストです。
 
意見の相違、対立だけならまだしも、それはじきに感情的な対立にすすみ、やがては恨まれて、延々粘着されることになる。そうならないうちに議論は止めるべし。
 
楽山は、最初から、単方向で言いたいだけで、議論する気がありません。体裁だけ、議論について話しているように見せかけています。したがって、止めるかどうかではなく、楽山と議論しよう、議論できる、などと思うことが、元々間違いです。
 
檻の中の猛獣が唸っているのに、しかし僕は・・なんて言っても、通じるはずはないのです。いつの日も、独り言に過ぎないのが、楽山です。
 
このように、「感情的な対立にすすみ」と言って、楽山は、自分の原因、即ち、無反省・無責任、高等感情の鈍麻、高慢、間違いを認めない、つまり、間違いを認める性質が全く欠如している人格です。このような、人間とは思えない精神病質ですから、どこまでも、自らの非を認めることがありません。
 
全く違う人種なのです。まともな人間とは違うのです。普通に生きていてはいけない異常者なのです。楽山のような人、やり取りするだけで、失うものが大きい相手、即ち、エナジーバンパイアを、相手にしてはいけません。
 
人格批判は無視すべし。人格批判に反論すれば、議論は本題からどんどんズレてゆく。
人の意見は変えられない。好悪の感情も変えられない。議論によって相手が変わることを期待してはいけない。
 
楽山については、人格を中心に問題としてください。楽山相手に、議論は、どこまでも、成立しません。総てがズレているのは、楽山です。広い意味での精神異常ですが、訂正不能なのは、基本的に、治療不能であり、それが、楽山という体質です。
 
自分で「相手が変わることを期待してはいけない」と言っています。つまり、お互いが、柔軟に話し合って、双方が、良い方向に変わってゆく、成長する、という議論や交流の方向性が、楽山には無いのです。それを、まさに、楽山が白状しています。議論めいた言葉を使うのは、自己満悦のための手段であり、それが、楽山の趣味なのです。ですから、真剣味はゼロです。
 
悪口を書かれれば反論したくなる。でも反論を始めてしまえば、これで終わりということはなく、延々やりあうことになりキリがない。
 
楽山の勝手な気持ちで、キリを設定してはいけないのですが、楽山は、勝手に、終わりにするでしょう。食い下がれば、ストーカーと言うでしょう。こういう者を批判するときには、人格を問題とするしかないのです。まさに、人格に全ての問題があり、それだけが表れてきます。
 
楽山は、自分勝手が病気になると、こうなるという例なのです。誰も、楽山を相手にしないでください。批判するならば、人格を中心に批判するしかありません。総てが、そこから始まっています。あとは、何も成り立っていないということなのです。受け取っているように見えるのは、嘘であり、芝居です。
 
分かるヤツはすぐ分かる。分からないヤツはどんなに説明されても分からない。話が通じないヤツとの議論は、さっさと切り上げるべし。
 
先ず、楽山の書いた文章を分かる人はいません。分かったと思うのは、むしろ、だまされ、ごまかされている証拠だと思います。無反省で無責任で無神経に書かれた文章は、誰にも理解されることはないのです。
 
「分からないヤツ」という乱暴な言い方に、楽山の傲慢が表れているのが分かると思います。分からない、話が通じない、ということを、楽山が決めています。我執と我欲だけで生きているサイコパスの特徴です。だから、平気で、「さっさと切り上げる」と言うことができるのです。平気で、人を傷つけて、屁とも思わない病気の人格です。
 
こういう人は、それこそ、「分からないヤツ」であり、「話が通じないヤツ」なのです。楽山が、アドバイスめいたことを言っても、決して受け取ってはいけません。精神衛生の問題として、さっさと切り上げて、というより、あらゆる個別のテーマについて、楽山の人格が問題であり、議論できない人であり、議論禁忌の相手であります。
 
ただ間違っているだけではなく、それ以前に、議論できない病気の人格だということです。何を言って来ても、人格の欠損だけを指摘し続けるしかない相手です。あらゆる個別のテーマの議論において、楽山が言ってきたことは、有毒ガスと思っていたほうがよいと思います。ボンベが悪質なのです。
 
そういう人なので、楽山は、自分が悪趣味を楽しむために、人格批判禁忌を何度も言ってきました。治らないからです。インテリ気取りの、いい気持になりたいだけの、楽山の罠にはまらないようにしてください。
 
その他いろいろ。
今回はこれらの教訓を破ってしまったところがあるので反省。
 
楽山は、反省しない人です。ひょっとして、ボクって、ヨワくて、オチャメでしょ、という、受けねらいでしょうか。気色悪いトホホ言語の反省芝居です。その虚偽については何度も何度も指摘してきたところです。楽山には、欲望はあっても、教訓はないと思います。教訓という言葉を言って、その都度、でっち上げてきたに過ぎないのです。
 
*今回の教訓
今回の教訓は、事実に関する議論と、評価に関する議論はきちんと分けようということ。
自分は、この議論は、盗用の有る無しという事実に関する議論だと思ったのではあるが、よく考えてみたらこれは事実に関する議論ではなく、評価に関する議論であり、ある意味、価値観に関する議論に踏み込んでいたのだった。
自分は迂闊にもこの辺りのことを見誤り、盗用問題の議論は、事実に関する議論だと思い違いをしていた。これは失敗。ひたすら反省。
 
評価や価値観に踏み込まない議論はないと思います。どうあるか、だけでなく、必ず、どうあるべきか、ということは問われているのです。ゆえに、論者の人格のあり方は、いつも問われることです。そこに議論についての真摯さが表れてくるからです。その点で、楽山は、既に、まったくの欠格です。
 
*評価に関する議論
ちなみに、この手の議論はHS界隈ではよくある。
たとえば、代表的な事例としては、「大川隆法は仏陀か否か」というものがある。大川隆法は存在するというのは事実に関する話だろうけれども、「大川隆法は仏陀か否か」というのは、評価に関する議論なので、大方の人々が仏陀ではないと判断し、それが事実であったとしても、仏陀であると言い張る信者に意見を変えさせることは困難だということになる。
「霊言は本物かどうか」という議論も同じ構図だ。大方は霊言は嘘だと判断し、それが事実であったとしても、「霊言は本物だ」という信者の評価を覆すことはできない。
 
信条を覆すことは出来ない、ということを、まわりくどく、あたかも、理論であるかのように、言っている楽山です。このような、論者気取りに、どれだけの人が、だまされてきたのでしょう。
 
信条の問題には、心情が深くかかわってきます。楽山は、人の気持ちが分からないし、高等感情の、悔いる心や、思いやりや、共感が欠如しているから、こういう書き方しかできないのでしょう。
 
HSから離れて、極端な例を挙げるとすると、殺人事件にもこれと似た構図がある。ある人がある人を死に至らしめたのは事実としても、それが殺人であるか、過失致死であるかの判断については、一方が正しく、もう一方は間違いであるとはっきり決めることは困難だ。大多数が殺人と判断する場合でも、過失致死だと言い張る人にその判断を変えさせるのは難儀だろう。
 
殺人か過失致死かは、はっきり決められないで済ませていい問題でしょうか。それで、警察や裁判所は成り立つでしょうか。楽山は、誰か、殺すか、殺す予定でもあるのでしょうか。楽山は、先回りして、弁解しているのでしょうか。
 
殺人か過失致死かは、犯人が判断することではなく、社会の要請に応じて、裁判が判断することです。楽山は、よりによって、とんでもない方向へ話を持ってゆくようです。
 
したがって、ある論文には他の論文と同じ文章がいくつも発見されたという事実に対して、大方が盗用だと判断したとしても、盗用ではないという判断を完全に排除するのは無理だ。ことに大川隆法は仏陀であり、霊言は本物だと判断する人がそのように主張する場合にはそうなる。
 
意見を交わすのに、反対意見を排除する目的で、楽山は書いているのでしょうか。排除されるのは、双方向の成り立たない無反省と無責任の楽山だけであります。
 
ちょっと考えれば、分かると思いますが、当たり前のことを、楽山が、いかに、もったいぶって言っているかということです。元々低劣な理路が無理をすると、このような、蟻地獄のような、堂々巡りのような、原始的な、実に、まわりくどい話になります。
 
恐らく、楽山には、自覚がないのでしょう。高尚なことを書いているつもりなのです。・・君らには分からないかもしれないかなあ・・とでも言いたげに。
 
こうしてみると、やっぱり評価に関する議論はやっかいだし、深入りしてもしょうがないということになる。
 
厄介なのは、楽山という人格だけです。自分で、こじらせて、自分で、言い訳して、自分で、納得してゆくような、孤独な作業に明け暮れるしかない楽山です。
 
評価に関する議論は、厄介ではありません。正常な人は、いつも、やっていることです。誰も深入りしてなどいません。楽山が、独りで、迷惑な、空回りをしているだけです。
 
まあ今回は、盗用問題を話題にし、ネット上に記録を残せたという点ではよかったとは思うが、自分の中では上の区別…事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か…があいまいになってたところは、やっぱり反省しなくちゃならん。今度は間違わないように注意しよ。
 
「まあ」という、いい加減さで始めて、当たり前になされている「事実に関する議論か、評価・判断に関する議論か」を、「あいまいになってた」などと言い、またしても、オチャメを装った反省芝居で、「注意しよ」という、いい加減さで締めています。
 
訂正・謝罪は、一切ないことを、見逃さないでください。自分のための辻褄合わせです。そして、それが、楽山という人格の産物です。
 
一切、本気にしたり、まともに受け取ったりしてはいけません。楽山は、何か、テーマや議論の方向を限定して書いていたのでしょうか。否、思いつくままに、好きなように書いていただけです。
 
事実を言い、評価を言い、判断を言う、それが言論であり議論であります。それが、全く整理されておらず、できておらず、殺人と過失致死の話にすり替えてピントをぼかして、お茶を濁している楽山の作為です。まともなことは、ひと言も言っていないと思います。
 
病的に自己愛だけが強い異常人格を相手にするのは、とても疲れる作業です。できることは、こういう、話にならない人がいることを敷衍して、警戒を呼びかけることだけでしょう。
 
楽山の納得は、誰の納得にもなりません。楽山の言論は、誰の言論にもなりません。そして、何の意義もなく、何の糧にもならないのです。ただ、やたら、病的な疲労をもたらしてくるだけです。腹が立っても、人格を含めた否定だけをして、深入りしないようにしてください。楽山は病気です。
 
 
股の間の黙考

股の間の黙考
 
 
(2021年02月08日)
 
 
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