存在について
 
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを基(もと)にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、それを得ており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認知します。実際にあるかどうかが、五感で感じるかどうかになります。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、分からないですと答えるべきなのです。神のものは、神に帰するべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。
 
奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、心に起こって生き方を変えた魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
 
聖書によって、神を知り、キリストを知ることは、人が自らの不完全さ罪深さを知ることと同値であります。誰が、神の意志と摂理と行為を知り得るでしょう。つまり、人が知り得るのは、そこまでなのです。あとは、神にお任せするしかないことです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
ここを勘違いすることで、批判をしなくなり、そのことが、キリスト教内外に、おびただしいカルトを野放しにしてきました。批判という非暴力の手段さえも捨てたなら、残るのは、キリスト教をネタにしたカルトの天国です。
 
暴力ではなく愛に生きることを伝えている聖句の勘違いによる批判禁止は、多大な災いを、忍びやかに、もたらしています。キリスト者を総じて軟弱にし、権威主義を容認し、さらに、カルトをも容認しているのです。これは、背教の罪~偽善であります。
 
キリスト者とキリスト教組織の中に、キリスト教的キレイごとによって、悪を許し、偽善を許し、悪意の者たちを野放しにしている者がいます。嘘吐きがいます。詭弁屋がいます。ペテン師もいるでしょう。聖書からの「柔和」と「博愛」に見せかけて、好きなように悪用しています。
 
 
「女」を「人の妻」と書き換えて "情欲の聖句" を "不倫をしないように" という道徳律に変えた者は、信仰の知恵足らず~偽善者です。「神を恐れよ」を「神を畏れなさい」に書き換えた者も同様です。神という存在は、それだけでは脅威であり恐怖であり、畏敬で済むような御方ではありません。
 
神は、やさしいだけではなく、全知全能・絶対完全・永遠不変の、裁きの主であります。神への恐れを忘れたら、信仰はありません。神の愛だけを語って、神への恐れを語らない者は、ゆくゆく、安穏病の、陳旧性偽善者となります。
 
 
批判が出来ない、批判は苦手、批判する気がないと言う人は、批判する必要はありません。能力には適性が伴います。しかし、聖句を引用して批判禁忌が正しいと言う人は、怠け者の偽善者です。そういう者に従うようになれば、"できること" さえ、しなくなるでしょう。
 
 
存在

存在
 
 
(2022年06月12日)
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  絶望から生まれて
 
絶望から生まれてきたものがある
やさしそうな
さびしげな顔をしている
それでいて うすい笑みをうかべている
肩の力が抜けてゆく
 
 私は眠っているのか
 夢を見ているのか
 
何か言いたそうに
こちらを見ている
 
 私の体は動かない
 夜明けは遠い
 
光は遠いのに
そこにいて
静けさでまわりを包む
存在
 
 存在は不安
 不安は友だち
 君は誰?
 
答えず
話しもしない
ある深夜気づく
そのとき
もう誰もいない
 
 ひとり思いがまわっている
 君が私を
 支えてきたのですか
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく

私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  いつのまにか
 
時計がいつのまにか止まっていた
人がいつのまにか死んでいた
そのあっけなさ
唐突さ
忘れることの幸い
忘れないことの不幸
両方味わうのが
尾を引くという鈍さなのだ
その鈍さの表面を
滑らせ
変えられるのは
時間だとは限るまい
長くもなれば短くもなり
味わおうとして
匂いさえかげず
ましてやつかむことも
追うこともできず
五感でとらえきれないまま
意識するときだけ
その人の記憶の中
その人の形で
存在する時間
 
時計がいつのまにか止まっていた
時計で計れない長さを
人はいつのまにか生きてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、共感する心が無いために、表面的な辻褄合わせだけで、実感もなく、神をいないと言い、信仰を否定してきます。反省しないために、人の意見を受け取らず、いつまでも、自分の妄想を繰り返してきます。批判されても、反論する理路も自己中に凝り固まるしかないのです。
 
前から言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。人格障害の中のサイコパス(精神病質、反社会性人格障害)こそが、他害性を常に持っている犯罪予備群です。そこには必ず自己愛性が含まれます。病的ナルシストこそサイコパスなのです。
 
 
 
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