ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:人間離れ

 
  楽山の人間離れ2
 
 「第十八講 ヨブの見神(二)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、人格に興味がないことが表れています。さらに、楽山は、人間ではないのかもしれません。宗教を考えるときに、自分以外のもの、被造物であるとか自然であるとかを考えて、人間の心を考えないし、心に感じない楽山が、宗教と信仰、即ち、人間を生かす道を説くことなど出来ないでしょう。
 
 
「第十八講 ヨブの見神(二)」を読んだので、印象に残った箇所と感想をメモしておきたい。
「第三十八章の研究」。
「有名なるドイツの科学者フンボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を説く能わずというた」。
海の動揺(心の動揺)は人には制御し難い。しかし「我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う」。
「神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる」。
「一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする」。神を見るには「彼の所作物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる」。
 
この引用は、楽山の興味を表しています。「海を制し」「荘大なる宇宙」「深妙なる運動、神の所作と支配」「所作物たる宇宙とその中の万物を見る」・・楽山の誇大妄想の世界でしょう。大きく偉大な者が好きで、そういうものとの関わりでないと神を考えることが出来ないのです。
 
宗教と信仰は、人を生かすためにあります。しかし、楽山は、人間の心が分からず、ゆえに人間の存在に興味がなく、人間を見たり考えたりが出来ないために、どんどん人間離れした誇大的なものしか見ないようになっています。
 
「一人の人」である自分「を真に知らんために」自分を見ることだけは出来ない楽山です。
 
楽山自身は、今まで楽山が書いてきたものから、スケールの大きいものだけでなく、人間一人にさえも洞察や共感が出来ないでいて、できないことの反動のように、安っぽい空想だけで、宇宙と万物とかデカいものを語ろうとするのです。
 
一つには、スケールの大きなものは想像するしかないために、批判を受けにくいと見ているのでしょうか。誇大妄想的空想は、それだけで、身の程知らずを表すことになります。身近なものが、全く、意に反して、手に負えない楽山ならではの、子供じみた自慰行為の誇大広告なのです。
 
そういう事情だから、批判しても、返しも弁明も出来ないということでしょう。もう、2年以上も続いていることです。そうして、反省しない、責任は負わない、悪いことは人のせいにする、・・そういう人格が、自他を破壊する悪魔性の体質として養われてきたのでしょう。
 
 
自然の中に神を見るというのはよく聞く話ではあるし、それは自分も感じたことはある。「このようなものが偶然にできるものだろうか。そんなことがあるとは思えない。このようなものが存在するということは、やはりその背景には何らかの意思があるはずだ」など。
 
楽山の、月並みな、荘厳気分からの陶酔を語る口は、一方では、人間一人も、好きになれない、うまく関われない、共感できない、ならば、傷つけてやれ、壊してやれ、という方向に、堕ちてきたのだろうと思います。
 
私は、人付き合いが苦手ですが、聖書が、信仰が、キリストが、人間らしい道を示していることには気づいて、残り少なくなった人生において、今も、なお、人間として少しでも成長したいと思うゆえに、努力可能で修正可能な道を歩もうと努めています。楽山の語る神?は、楽山が作った張りぼてなのです。 
 
 
でも自然の中には美しいものばかりではなく、醜いもの、酷いことも多くある。肉食獣は他の動物を生きたまま貪り喰うし、寄生バチ、カッコウなどの残酷な習性をもつ生物もいる。これまでに多くの種が無残にも絶滅したともいう。これらの事実からすると、自然は神に由来するという考え方にはどうにも疑問を感じないで入られなくなるし、自然によって神を知ろうとするのは想像以上に困難な道になりそうにも思えてくる。もしかしたら自然の見方が浅いせいでこのような考え方をしてしまうのかもしれないが、とりあえずはこれが現時点での正直な感想ではある。
 
「醜いもの、酷いことも多くある」・・その典型例が、楽山自身であることに、自己愛性人格障害の楽山は気づかないのです。そうして、平気で、人を無視し、あるいは、悪口を言い、自己正当化の詭弁を弄して、みすぼらしい自身と我執を隠そうとしては、いっそう恥ずかしい失敗と欠陥を露呈するのです。
 
楽山は、何事についても、決して、批評、評論する立場に立ってはいけない人です。すべて嘘となり、偽善となってしまうからです。自己愛性が、自分を、まともに見せかけようとするとき、最も、人を傷つけやすくなります。どうか気をつけてください。無反省、無責任の、楽山です。
 
また、今回も、楽山は、自分を良く見せようとあがいて、結果として、わざわざ、最も見苦しい自分を表してしまいます。一生、これを、繰り返す因業(いんごう)なのでしょうか。
 
自分を見ることなく、人に向かって、書いて表すことで、泥の靴を履き、虫の羽音を立て、笑いの口を引き伸ばして、なお、人の血を求めて、歪んでゆきます。
 
 
因業の空と海と道

因業の空と海と道
 
 
 
(2021年)
(2022年05月11日、再録+加筆)
 
 
 
  なくしたアルバム
 
少しは懐かしくもあるけれど
格別お名残惜しいわけではない
ともかくも君らが私と別れたのは幸いだった
お互い結局
いいことばかりじゃなかっただろうから
 
君らが今どこにいるのか知らないが
私よりは多くの陽を浴びているだろう
私は暗いところにいる
といっても気持ちはそれほどでもない
いま会ってもわからないかもしれないけれど
君らの笑顔はぼんやり残っている
それで気分のいいときもあるのだから
起きたいときに起きて
汚れたまま街を徘徊したっていいんだけれど
なかなかそこまで気が進まない
 
私が何をしているかといえば相変わらずで
傷を集めたりしている
かすり傷、細い傷、いろいろだ
傷つきながら夢中になって
君らが丈の高い萱(カヤ)の中を
あんまり急いで走り回るから
あとで血がにじんできて
びっくりして痛がっていた傷とか
けんかしたり転んだりして
君らが遊んでつくったアザとか
私の目に
はっきり写らなかったものを集めている
そして並べてみて
くすっと笑うことだってある
 
君らが川や海辺や山にいても
路地や工場の跡や
お化け屋敷にいても
泥んこや田んぼとだって友達で
君らの声がきらきら輝いて
何を言っているのかさっぱりわからなくて
みんな名付けようもなくひとつだった
 
若者になって並んでいた君らはもう
埃(ほこり)を被(かぶ)った私には
ぼんやりしていて
虹の向こうでかすかに微笑んでいるんだ
あの頃は
と君らは言うかもしれないけれど
あの頃いちばん大切だったものは
君らは捨て去るしかなかったこと
私はわかっていた
君らは私と
知らないまま別れるしかなかったことも
 
君らが遊んだ人形や玩具
もう二度と触れることはないと
気づかないまま手を離した瞬間が
スローモーションのように写っているよ
 
君らが私をなくした日のこと
私は覚えている
でも君らは忘れていい
君らは皆、私を卒業していった
私は埃を被ったままでいい
これから先、君らが何か
咎(とが)められることがあったとしても
咎めるのは私の役目ではないのだから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田氏は、及川氏とは交流があっても、幸福の科学とは距離をおいてるんだろうと思ってたけど、それは間違いだったようだ。
百田氏は何年も前からリバティ(幸福の科学)との付き合いがあったんだね。
午後7:03 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389158571686858752
 
また、自分のことを棚に上げて、他者のことだけは語ろうとする楽山です。自己愛に凝り固まると、こういうことになります。今まで、自分を語っても、自分はこうだ・・みたいな書き方しかできず、反省と書いても、全く自分を斬ることのできない楽山です。
 
しかも、楽山は、発言の責任を負わず、反省もしないのだから、言論や批判をする者としては、完全に失格です。そのことさえも無視して書いてくるのは、病質者だから・・以外に考えられないのです。
 
遠い先のことを慮ること、すなわち、遠慮することの出来ない楽山です。楽山には、誰も、関わらず、近づかないことだけを願っています。
 
慮る(おもんばかる)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できない楽山です。反省の実践が難しいのだそうです。「恥ずかしながら」は嘘です。楽山に羞恥心も罪悪感もないと思います。全部、人のせいにして、自らを省みない人です。「人間の性」と言って一般的なことのように見せかける詭弁は、しばしば、楽山に見られてきたことです。
 
 
 
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  楽山の人間離れ
 
 「第十八講 ヨブの見神(二)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
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楽山が、人格に興味がないことが表れています。さらに、楽山は、人格ではないのかもしれません。宗教を考えるときに、自分以外のもの、被造物であるとか自然であるとかを考えて、心を考えないし、心に感じない楽山が、宗教と信仰、即ち、人間を生かす道を説くことなど出来るわけはないのです。
 
「第十八講 ヨブの見神(二)」を読んだので、印象に残った箇所と感想をメモしておきたい。
「第三十八章の研究」。
「有名なるドイツの科学者フンボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を説く能わずというた」。
海の動揺(心の動揺)は人には制御し難い。しかし「我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う」。
「神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる」。
「一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする」。神を見るには「彼の所作物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる」。
 
この引用は、楽山の興味を表しています。「海を制し」「荘大なる宇宙」「深妙なる運動、神の所作と支配」「所作物たる宇宙とその中の万物を見る」・・楽山の誇大妄想の世界でしょう。大きく偉大な者が好きで、そういうものとの関わりでないと神を考えることが出来ないのです。
 
宗教と信仰は、人を生かすためにあります。しかし、楽山は、人間の心が分からず、ゆえに人間の存在に興味がなく、人間を見たり考えたりが出来ないために、どんどん人間離れしたものしか見ないようになっています。
 
「一人の人」である自分「を真に知らんために」自分を見ることだけは出来ない楽山です。
 
楽山自身は、今まで楽山が書いてきたものから、スケールの大きいものどころではなく、人間一人さえも洞察や共感が出来ないでいて、できないことの反動のように、安っぽい空想だけで、宇宙と万物とかデカいものを語ろうとするのです。
 
一つには、スケールの大きなものは想像するしかないために、批判を受けにくいと見ているのでしょうか。誇大妄想的空想は、それだけで、身の程知らずを表すことになります。身近なものが、全く、意に反して、手に負えない楽山ならではの、子供じみた自慰行為の誇大広告なのです。
 
そういう事情だから、批判しても、返しも弁明も出来ないということでしょう。もう、2年以上も続いていることです。そうして、反省しない、責任は負わない、悪いことは人のせいにする、・・そういう人格が、自他を破壊する悪魔性の体質として養われてきたのでしょう。
 
自然の中に神を見るというのはよく聞く話ではあるし、それは自分も感じたことはある。「このようなものが偶然にできるものだろうか。そんなことがあるとは思えない。このようなものが存在するということは、やはりその背景には何らかの意思があるはずだ」など。
 
楽山の、月並みな、荘厳気分からの陶酔を語る口は、人間一人も、好きになれない、うまく関われない、共感できない、ならば、傷つけてやれ、壊してやれ、という方向に、堕ちてきたのだろうと思います。
 
私は、人付き合いが苦手ですが、聖書が、信仰が、キリストが、人間らしい道を示していることには気づいて、残り少なくなった人生において、今も、なお、人間として少しでも成長したいと思うゆえに、努力可能で修正可能な道を歩もうと努めています。楽山の語る神?は、楽山自身であり、嘘っぱちです。
 
でも自然の中には美しいものばかりではなく、醜いもの、酷いことも多くある。肉食獣は他の動物を生きたまま貪り喰うし、寄生バチ、カッコウなどの残酷な習性をもつ生物もいる。これまでに多くの種が無残にも絶滅したともいう。これらの事実からすると、自然は神に由来するという考え方にはどうにも疑問を感じないで入られなくなるし、自然によって神を知ろうとするのは想像以上に困難な道になりそうにも思えてくる。もしかしたら自然の見方が浅いせいでこのような考え方をしてしまうのかもしれないが、とりあえずはこれが現時点での正直な感想ではある。
 
「醜いもの、酷いことも多くある」・・その典型例が、楽山自身であることに、自己愛性人格障害の楽山は気づかないのです。そうして、平気で、人を無視し、あるいは、悪口を言い、自己正当化の詭弁を弄して、みすぼらしい自身と我執を隠そうとしては、いっそう恥ずかしい失敗と欠陥を露呈するのです。
 
楽山は、何事についても、決して、批評、評論する立場に立ってはいけない人です。すべて嘘となり、偽善となってしまうからです。自己愛性が、自分を、まともに見せかけようとするとき、最も、人を傷つけやすくなります。どうか気をつけてください。
 
また、今回も、楽山は、自分を良く見せようとあがいて、結果として、わざわざ、最も見苦しい自分を表してしまいます。一生、これを、繰り返す因業(いんごう)なのでしょうか。
 
自分を見ることなく、人に向かって、書いて表すことで、泥の靴を履き、虫の羽音を立て、笑いの口を引き伸ばして、なお、人の血を求めて、歪んでゆきます。
 
 
因業を踊る者

因業を踊る者
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田氏は、及川氏とは交流があっても、幸福の科学とは距離をおいてるんだろうと思ってたけど、それは間違いだったようだ。
百田氏は何年も前からリバティ(幸福の科学)との付き合いがあったんだね。
午後7:03 · 2021年5月3日·Twitter Web App
 
また、自分のことを棚に上げて、他者のことだけは語ろうとする楽山です。自己愛に凝り固まると、こういうことになります。今まで、自分を語っても、自分はこうだ・・みたいな書き方しかできず、反省と書いても、全く自分を斬ることのできない楽山です。
 
しかも、楽山は、発言の責任を負わず、反省もしないのだから、言論や批判をする者としては、完全に失格です。そのことさえも無視して書いてくるのは、病質者だから・・以外に考えられないのです。
 
遠い先のことを慮ること、すなわち、遠慮することの出来ない楽山です。楽山には、誰も、関わらず、近づかないことだけを願っています。
 
 
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