ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:仏教

 
  楽山の褒め殺し
 
 『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』中村元著、前田專學監修
 2021年09月20日  楽山日記(LD)
 
 
宗教についても思想についても感性と知性を台無しにしてきて、腹いせのように、キリスト教をおとしめていたら批判を食らってきた楽山は、今度は、仏教を、褒め殺しにかかっているようです。いかなる宗教と信仰にも、人間らしいセンスを持たない楽山が明らかになっています。
 
*概略
本書は、NHKラジオで放送した中村元の講義をまとめたものである。全編にわたって、原始仏典の記述を紹介しつつ、その解説をするという体裁になっているが、一般にも理解しやすいように終始、平易に語られているところは有り難い。
以下に、自分にとって特に強く印象に残った箇所をメモしておきたい。
 
「終始、平易に語られている」本についての、大袈裟な「強く印象に残った箇所」という表現が、既に、ペテンくさいのです。つまり、楽山は、感動したと言っています。べた褒めモードになります。しかも、褒め殺しです。
 
*人はいかに生きるべきか
まず著者は、毒矢のたとえにからめて、ブッダの教えの方向性を次のようにまとめている。
解決のできないような哲学的議論に巻き込まれないで、ここに生きている人がいかに生きるべきであるか、その生きる道を明らかにするということをブッダは人々に教えたのです。
(『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』〈岩波現代文庫〉中村元著、前田專學監修、岩波書店、2017年、p.40)
 」
さらにブッダは、さまざまな宗教儀式にもこだわることなく、いかに生きるかということを重視していたとのことである。
 
「いかに生きるかということを重視」・・当たり前です。しかし、この感想文で、いかに生きるかということを、楽山は、書いているでしょうか。
 
人間のほんとうの道を追求する、それがブッダの一生のつとめであり、課題であったということをいうのです。
(同上、p.157)
 」
両者をまとめると、霊魂がどうしたとか、宇宙観がどうしたとか、宗教儀式がどうしたとか、そんなことより、現実をいかに生きるかということの方が大事だということらしいが、自分はこれには賛成である。ただ自分は物好きなので、いまだにややこしい議論はすきなのではあるが…。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は「霊魂がどうした」とかいうことより「現実をいかに生きるか」に賛成だそうです。当たり前です。宗教もそのためにあります。楽山が、そうでなかったのなら、それは、楽山の責任です。
 
「現実をいかに生きるか」と言っていますが、ならば、今まで書いてきた、うるさいほどの霊の話は、どうでもよかったのでしょうか。楽山を真に受けないでください。楽山は、ただ、読書家をアピールするために、言っているだけです。
 
「ややこしい議論はすき」・・楽山は、議論などしたことはないと思います。屁理屈をこねて、相手を煙に巻いて、疲れさせることが好きなのです。だんだん正体が見えてきます。何も言えない、何も感じないが、読書家を気取るためだけに、もっともらしい飾り言葉だけを並べているのです。
 
*教えの根本
著者によれば、八万四千の法門を貫いているのは慈悲であるという。
そこを一貫する精神は何かということになりますと、これは人々に対するあたたかい気持ち、人々の身になって考えるというその気持です。これが世の中を明るく保ち、なだらかに進めていくことになる。
これを仏教では「慈悲」と申します。
(同上、p.41)
 」
これはよく納得できる。別な言い方をすれば、慈悲のない教えはブッダの教えではないとも言えるのかもしれぬ。
またこの考え方からゆくと、本書とは別のとある本で読んだことだが、ブッダは生まれ変わりについては在家には説いたが、出家にはあまり説かなかったという話も了解できる。慈悲の精神によって、相手の信仰とその環境に合わせて方便を用いつつ導いたということなのだろう。
 
「あたたかい気持ち」「慈悲」という言葉で、読んで感じましたアピールをして、書いているのは、「環境に合わせて方便を用いつつ導いた」という誰でも言いそうなことだけなのです。しかも、「別のとある本で読んだこと」だそうです。当たり前の、そして、別の本の話です。
 
「慈悲のない教えはブッダの教えではない」ことは、楽山が今まで書いてきたこと、議論に見せかけてきたこと、などが、疲労だけをもたらし、何の成果もないことと符合します。このように、体よく書いたつもりでも、今までの事実から、楽山のペテンぶりと無益な文章の特徴は表れてきます。
 
今までのことから、楽山は、「慈悲」、言い換えれば、思いやりとか、やさしさとかを、心で受け取ることが出来ず、三文芝居のセリフでしか表現できない人です。つまり、言葉だけを繰り返して、そこから広がることのない文章しか書いて来なかったのです。
 
*世界は美しい
仏教の考え方は、一切皆苦というように厭世的なものだと思っていたのだが、著者によれば死期の迫ったブッダは世界の美しさをうたっていたという。
みなに別れる、この世を去るということになりますと、そうすると、いまさらながらこの世の美しさに打たれて、恩愛への情に惹かれるのです。
(同上、p.148)
 」
 
楽山は、何が言いたいのでしょう。死は世界の美しさ、世を去るとき恩愛の情、・・その心は何も書いていないのです。このように、賛同し、感動したような、褒め言葉だけ並べて、読書家を気取る楽山の、一切は、ペテンの飾りで彩られています。
 
楽山は、他者の言にも、他者の行いにも、他者の説法にも、感動したことはないと思います。感動を経た人の心が、何も書かれていないからです。今までも、ずっと、そうです。ただ、自己顕示欲で、分かる人アピールをしてきただけなのです。
 
このような、死は美と愛だ、と書いて、死と美と愛が伝わると思っているのでしょうか。だまして、何か、よさそうな人と思わせてきただけの人生が、いかに虚妄であるかということだけが伝わってきます。関わらないでください。皮を舐めて髄を知ってるふりをするペテン師、楽山です。
 
著者は、自然の美しさ楽しさを語るブッダの言葉を紹介しているが、それは読んでいるだけで切なくなってくるものであるし、
 
「読んでいるだけで切なくなってくる」・・切なさを、具体的に表現し説明する器量のない者が書いたということだけが明らかになってきます。「自然の美しさ楽しさ」では終わらない話のはずです。楽山が、いかに読めていないか、なのに、いかに感想をでっちあげているかということです。
 
小学校の作文でも、いい点数はもらえないでしょう。楽山は、そこにいるのです。学者、宗教家、インテリ、評論家、様々な、楽山の気取りが、よく見せるためのだまし文句に過ぎなかったことの傍証として、あらわになっています。感動芝居の大根役者、楽山に、どうか、だまされないでください。
 
これからするとブッダはこの世のすべてを厭い、離れようとばかりする人ではなかったようだ。
 
仏陀の教えや仏教の厭離穢土が、死にたがり精神ではないことは、それだけじゃ宗教にならないのだから、常識的に誰もが知っています。このような、先入観と言葉のうわべだけで、インテリ宗教家を気取る楽山は、自己顕示欲だけの、嘘吐きの、詭弁屋の、幼稚な未熟者に過ぎないのです。
 
楽山は、読書できない人です。かつ、自己愛性人格障害によって、反省も学習も出来ず、分かっていると思われたい自己顕示欲から、結局、人を惑わし、だますだけの、独り芝居の大根役者に堕ちているのです。空っぽが、身の程も知らずに偉そうに言っても、無駄だと分かるのです。
 
そういえば、とある評論で梶井基次郎の自然描写の美しさをたたえつつ、死に近い人には自然はこのように見えるのだろうとしていたのを思い出す。ブッダの言葉にもこれと同じことがいえるのかもしれぬ。
 
死にゆくときの自然が美しいという話で、まるで、死を勧めているような文章になってしまっています。仏陀も評論家もこれと同じ・・ではないと思います。楽山だけが、小学校以下のレベルで、短絡して、とんでもないことを言っています。
 
本書を読んで、ブッダは自然の美しさを解する人だったと分かったのはうれしい収穫である。
 
楽山は、仏陀が死にたがり屋で、自然の美しさが分からない人だと思っていたのでしょうか。呆れます。いよいよ、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山に、人格崩壊の時が来ているのでしょうか。自己愛によって知性と感性を損なってきただけでは済まないようです。
 
 
結局は褒め殺し

結局は褒め殺し
 
 
(2021年09月21日)
 
 
 
キーワード:殺
 
 
  夜
 
夜である
昼よりも静かだと思ってはならない
昼の騒ぎよりも
より騒がしい思惑が
入り乱れて飛んでいる
あるいは欲望が
壁を突き破ったり隠れたりする
夜には夜の苦しみ
夜には夜の夥しい挨拶
 
夜は悲劇を
喜劇をのせて音もたてずに流れてゆく海のよう
生も死も同じなのだ
生けるものも死せる者も
動物でさえ屍のまま
声もあげずに
乱れた問いを投げかけてくる
 
いったいいつまで笑っていればいいの
泣いていればいいの
暗闇から海のように
大河のように流れる裏の広さから
答えられなかった問いが
問われなかった夢が
叫びを押し殺してゆく
沈黙の
騒然とした夜である
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
(昔々の・・)
 
 
 
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  悪用する楽山
 
 念仏を悪用する善人?
 (『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著)
 楽山日記(LD) 2021年06月16日
  を批判。
 
楽山は、字面の机上の表面的理解?だけですから、実質が何もないということだけが表れてきます。キリスト教において、そうであり、今度は、仏教において、また、同様です。言ってることと、してきたことが、まるで、整合しない、という病的な人物の日記です。
 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』を読んでいたら、念仏について書いてあったのでメモしておきたい。
まず念仏には、次の誤解がつきものだったという。
「どんなに悪いことをしても、死ぬ前に念仏を唱えれば阿弥陀さまが救ってくれるんですよね。じゃあ、どんどん悪いことをしちゃいます。よし、おまえら! 偉いお坊さんのお墨付きが出たぜ、ヒャッハー!」
(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、2018年、p.382)
 」
 
楽山やシャロームの意地悪な笑いじゃあるまいし、念仏を唱えれば何をやってもいい、なんてことは、恐らく浄土宗・浄土真宗の人も考えていないと思います。楽山は、今度は、すさまじい仏教への侮辱です。楽山は、野良犬から、狂犬へと向かっているようです。
 
ヒャッハー!・・は、楽山の笑いでしょう。また、楽山へのブーメランか吹き返しとなっています。いかなる良書も、自分を飾り正当化するためだけの、言葉あさりとなってしまう楽山には、実りなき砂漠の乾燥した痛い風が、返ってくるだけなのです。
 
しかし実際のところ、「そういった誤解をする者は、すべて「(親鸞が言うところの念仏の効能が働きにくい)善人」なのだという。その理由は次による。 
なぜなら、彼らは「他人に迷惑をかけようと、最後に自分だけが救われればよく、それが賢い『うまい生き方』なのだ」という価値観を持っており、その価値観のとおり「自分が正しいと思うこと」をやって満足しているのだから、実際には悪事を働いていようとも彼らは「善人」であり、「他力」の境地にいたることはないのである。
(同上、pp.382-383)
 」
なるほど、悪人正機説でいう悪人は、罪の自覚が強くあり、正しくありたいと願いつつも、それができず、残された道は他力にすがるしかないという心境にある者とすれば、上の念仏を誤解する者は罪の自覚なく、他力にすがることもなく、自分で自分の生き方を決定できると思い込んでいるのだからそれとは正反対である。
 
恐らく、親鸞の言う善人は、善人の自覚だけか、偽善者に近いのではないかと思います。人間が、完全な善の人になることは不可能です。私たち人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思って傷つけることがあり、善とは言えないのです。
 
ゆえに、悪人、そして、罪人の自覚は、最低限、必要なのでしょう。その自覚のベースにおいて、キリスト信仰においては、赦しと祈りがあるわけです。それを、全く自覚しないで、無反省と無責任の生き方をしている楽山は、対立軸以外の意味はありません。
 
楽山は「自分で自分の生き方を決定」して、宗教をオモチャにしているのだから、仏教においても、キリスト教においても、正反対のあり方ということです。よりによって正反対の楽山が、他者一般のことを「正反対である」などと言うのは、自分を見ない者の宿命であり、とても、滑稽です。
 
「死ぬ間際に念仏を唱えれば救われるんだったら、それまでは好き勝手にヤリたり放題して生きようぜ」というのは間違いだと感じはしても、どこがどう間違っているかはうまく説明できなかったのだが、この解説を読んでよく合点がいった。いい気分。
とはいえ、この定義でゆけば、自分はまだまだ「善人」の傾向が強く、「悪人」になりきれていないのがつらいところだ。とほほ。
 
楽山は、そういう意味では、"善人" でもなく、罪人より悪質の、偽善者という言葉がぴったりなのです。それで、善が分かったとばかり「いい気分」なのです。自分を人間として俎上に載せることのできない自己愛性人格障害の楽山ですから、真剣味が表れたことなど一度もない人です。
 
詭弁屋そして嘘吐きの楽山の「とほほ」=テヘヘ(ごまかしウソ泣き)と思ったほうがいいと思います。病質者なので、書くことを止められないのです。おそらく、一生、しらばくれて、善人ぶっては、裏切り、疲労と徒労だけを他者に与え続けることでしょう。
 
楽山の今までを見れば、否定を言って、のちに反省も訂正もなく、肯定を言う繰り返しですから、矛盾であり、平気で言い続けるのは、責任感がなくて、高等感情もなくて、いい加減な人格であることを示すと同時に、内実は何もないということを示し続けているだけなのです。
 
 
自らの不毛を知らず

自らの不毛を知らず
 
 
(2021年06月17日)
 
 
 
  切符
 
前触れもなく場面が変わって
切符がない
切符を切る人もいない
大事な仕組みだったような気がする
探す街並みは区別がつかない
名前を忘れていることさえ忘れて
切符を探す
ここに住んでいる埃(ほこり)は
どこにでも入っていって水や油と親和する
埃を逃れて郊外へ続く道すがら
幾つもの大小の跳躍が道の限界を教えるが
切符さえあれば
切符
片道でもいい
なくした顔の数々を刻んで
切符
数々の挨拶を葬りながら
辿(たど)り着き立ち尽くす
廃線の廃虚の駅から
敷き詰められた砂利の下に
どこまでも続く線路が
片道切符を教えている
 
 
  烏兎怱怱(うとそうそう)
 
太陽が烏(カラス)だったころ
烏は金色の熱と霜を連れてきた
 
月が兎(ウサギ)だったころ
兎は満ち欠けと星を連れてきた
 
烏兎怱怱(うとそうそう)
 
兎は逃げて切り株に転び
逃げ回って草を食(は)むことに長じた
 
烏は人里を飛んで黒い雲に染まり下りて
啄(ついば)んで嘴(くちばし)を曲げた
 
日が昇ると人里に幾つもの縮んだ瞳が瞬き
月が昇ると森に光る瞳が開くのだが
 
霜から泥濘(ぬかるみ)に落ちた
かつての縁(えにし)を
星はもう映さなかった
 
(90年代か)
 
 
 
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  楽山の有為と煩悩
 
 『万人に語りかけるブッダ 「スッタニパータ」をよむ』雲井昭善著
 2021年04月24日 楽山日記(LD)
 
 
また、楽山の、理解力、感受性、共感力の欠如を、偽りの机上の屁理屈を、真実に向き合うことのない怠惰を、いつものように都合のよい言葉漁りで、人の口を無断で借りて、筋の通った、などと言う身の程を知らない賛同などして、楽山は、せっせと、ごまかそうとしてきます。
 
しかも、楽山は、無常を語りながら、この記事の後に、本文たった4行の記事を書いて、この批判されるべき記事を目立たないようにしています。何が宗教でしょう。楽山の言は、世俗のヤニのような存在です。
 
本書は著者の「あとがき」によるとNHKラジオ番組のガイドブックを「再録」したものとのことであり、序盤は「スッタニパータ」の成立過程と仏教全体における位置付けなどについて説明し、その後は各章ごとに一定のテーマを設定し、それに関連した「スッタニパータ」等の原始仏典のことばを紹介するという体裁となっている。
では本書では具体的には仏教についてどのように語っているかといえば、まず仏教で思考される範囲は次のようなものだとしている。「仏教では今、現にここにある存在、目に見えるもの、現に見られるもの、万人が納得しうることが問われていて、目に見えない世界、経験されない世界を問うことはしなかった」(2003年 p.274)。
 
楽山が賛同する要素はないと言うことです。楽山が好むのは、フィクションと魔法と超常の空想の世界であり、そこから、宗教と信仰を語ったりするので、とても迷惑です。
 
楽山は、現にある自らの偽善に対する指摘を受け取らず、まるで気づかない自己愛性人格障害者です。いつどこで何を言っても、煩わしさと混乱以外、もたらさないと思います。
 
>したがって、人はどこから来てどこに行くのかという問いは取り扱わないし、
 
楽山は、神を机上の空論で否定し、その次元の低さに、呆れるばかりの文章をずっと書いてきて、反省もしないのです。つまり、「どこからきてどこに行くのか」を、知りもしないのに、何の救いにもならない、いちゃもんとして、法螺を吹いているだけです。
 
「人間存在としての「生」は本来、「因縁和合」(五蘊仮和合)によってなり立っているのであるから、その因縁が壊れれば消滅するのは当然」(p.232)ということとなる。人間以外についても、「因縁によって仮に和合したものはすべて滅びゆく存在である」となる(p.231)。 
 
どう理解したのでしょう。「こととなる」「となる」では、引用しているだけで、楽山が引用したということが、知性と感性の障害を通しているのだから、引き締まった理路も、理解を促す説明もなく、いかに楽山の自己顕示が無意味であるかを示しているだけなのです。
 
悪魔については、苦行の放棄をすすめるなど仏典にある「悪魔のささやきは、いずれも当時の修行法と人間の心に内在する内なる悪しき者のささやきであった」(p.205)としており、人から独立して存在するものではないとする。
 
そういう見方は、人間として、共感できることですし、楽山についても、外からの悪魔ではなく、楽山自身の内在する悪意の酷いものを悪魔性と呼んでいます。
 
それにしても、楽山のホラー好みが滲み出ています。楽山が、悪魔と言えば、人を誘惑する恐ろしい外部の魔物しか想定してこなかったことが、楽山の書くものに表れているからです。
 
それは、結局、神聖についても、楽山にとっては、神も、聖霊も、超常の魔物なのでしょう。そして、楽山に、自滅の刃でも与えているのでしょうか。論外です。
 
では仏典に繰り返し書かれてある輪廻転生はどう解釈するかといえば、当時の仏教教団では「在家者は生天を、出家者は涅槃をゴールとすべきことを教えています」(p.95)とのことである。他の書籍で、仏教教団では生まれ変わりについては在家者には説いても、出家者には説かなかったという話を読んだことがあるが、それと同じ考え方であろうか。
このような仏教解釈にはさまざまな意見があるかもしれないが、仏教の基本は諸行無常、一切皆苦、諸法無我にあるとするならば、これらは一応は筋の通った解釈ではあろうと思う。
 
えらく粗く、仏教の基本を、諸行無常などと、熟語だけ書いてまとめたものです。このように、短絡で、思考のプロセスを説明できないまま、「筋の通った」などと言えるのが、楽山です。
 
幾千年の歴史の重みを、一息で文章にして、それで、満悦するなんて、ふつうはないし、書かないです。何かを受け取ったのではなく、楽山の言の総てが、理解を装う芝居と言っていいでしょう。どうか関わらないでください。
 
たとえば、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我はあくまで原則にすぎず、人に限ってはこの例外であり、人には人を人たらしめている本質が存し、これは永遠不変である」とするよりは、「諸行無常、一切皆苦、諸法無我は真理である。人もこの例外ではない」とする方が理にかなっているだろうことはいうまでもない。
 
だから、楽山が、それで分かっているのなら、楽山の諸行は我欲だけなのだから、わざわざ矛盾することを書くべきではない、ということになるのが、楽山には、分からないわけです。
 
我執しかない楽山が、無我を真理とは、呆れてしまいます。いかなる宗教の悟りも、我欲だけで心の無い楽山には、空疎なオモチャでしかないのでしょう。暇つぶしのオシャブリでも銜えている精神状態だと思います。
 
またこの仏教解釈は、釈尊が悟りを得たときに、他者の理解を期待せず、その内容を他に語ろうとしなかったという言い伝えともよく符合する。
 
ここで、楽山は、喜ぶのでしょう。「他者の理解を期待せず」を、自己中を正当化してくれていると、また、勘違いして、曲解して、悦に入るのです。言葉を、小学生ほどにも、勉強しなかったゆえ、節操のない楽山です。
 
釈尊とは別の事情ですから、理解されない自己満足など求めず、「他に語ろうとしな」いでほしいと思います。
 
それゆえに、難しい宗教用語を多用するのですが、読んでも、何も「符合」しないですし、何も響いて来ないのです。言葉の表面的な類似を漁っては、ひたすら、自己満足につなげて、考える人を演じて滅びてゆく大根役者であります。
 
当時は一般に輪廻が信じられている社会であったという。それなら輪廻を悟り、これは一般に理解されないだろうと考えたというのは理屈に合わない。けれどもたとえば五蘊仮和合を悟り、これは一般には理解されないだろうと考えたのであればそれはごく当然の思考ではあろう。
 
またまた、ごまかしの、用語の羅列です。「五蘊仮和合」の人間における意味を説明しないで、書ける根性は、ただただ、面の皮の厚さを示しています。
 
(ネットより)
個々の事物は因縁によって五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合(ごうんけわごう)という[3]。五蘊仮和合は、特に有情の個体については、我として執着するような実体がないことを表す[3][注釈 2]。
 
有為の奥山、越えられず、己を飾る独り芝居、・・何の無常も理解せず、有為の我執にしがみつく楽山であります。欲望の刹那にいて永遠を自慢するような愚かさです。
 
釈尊は何を悟り、何を説いたかということは度々議論になることではあり、浅学非才の自分には容易には結論は出せず、断定的なことは何も言えないのではあるが、以上のような理由から本書で述べられていることは筋は通っているように思えた次第である。
 
浅学菲才なら、仰々しく分かったかのように「筋は通っている」などと書いてはいけないと思います。恐らく、楽山は、リアル・バーチャルを問わず、いかなる宗教についても、いちゃもんは言っても、実践的な交流をしていないと思います。、
 
楽山は、思想・宗教に、元々疎い人々を、詭弁で堂々巡りから袋小路に誘導しているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。近づいてもいけないと思います。楽山という存在こそが、恥も罪も捨てて、人を害するだけの醜悪な伝染性の煩悩なのです。
 
今までの言動から思えば、楽山は、何かを言った後、直ちに、何を言ったかを忘れてしまう病気の人のようなものです。だから、責任など負えるわけがありません。と同時に、誰も相手にしてはいけない人ということになります。
 
無責任が常習になると、そういうことになるのです。良識ある人は、決して、楽山の真似をしてはいけません。楽山は、独りだけ架空の異常な世界に生きている不治の障害~病気なのです。
 
 
 いつも不真面目な楽山のツイッターです。
 楽山の、まとも芝居にだまされてはいけません。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
なんとなしに、『ジョーズ』で、人喰いザメ対策より、経済優先を主張する人がいたことを思い出しました 顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
引用ツイート
釈 量子
@shakuryoko
 · 4月23日
“戒厳令”で支持率が上がるとでも思っているのでしょうか。経済を回さなければ、生きていけません。“独裁者ごっこ”はやめていただきたい。
#灯火管制
 」
午後5:11 · 2021年4月24日·Twitter Web App
 
コロナ禍の問題を、「なんとなしに」『ジョーズ』で語ったつもりの楽山です。万事このような考え方であることが、この2年間で明らかになっています。真剣味が、まるで無いのです。
 
宗教を、趣味の、ファンタジー、ホラーアニメ、パニック映画、お伽噺、といったレベルで語って、批判し、否定したつもりになっている笑う邪魔者、それが楽山であります。
 
※ 
 
コロナ禍については、そろそろ、医療崩壊、経済崩壊、パニックに備えて、法律や命令だけではなく、生存権を直接強力に守る政策を考えるべきではないのか。
 
人口3億2千万アメリカ:感染数3200万人(人口の10分の1)、死亡57万人。
人口1億2千万の日本:感染数56万人、死亡1万人弱。
(人の死を「万」単位で見ているとは・・。オレも、そのうち、行くんか・・の世界。)
アメリカの死亡数と日本の感染数が同じくらいというのは、まだまだ、日本では、終わらないという意味でしょうか。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福の科学では、公式でもこんな言葉遣いをするんですね 絵文字(にやにやした顔)
引用ツイート
幸福実現党政務調査会
@hr_party_prc
 · 4月22日
緊急事態宣言の発出とCO2の大幅削減を同時間帯に発表するとは恐れ入った感覚です。これはサービス業、製造業はじめ日本経済が何によって支えられているかを政治やマスコミが理解していないかの証しではないでしょうか。依らしむべしってか?「うっせぇわ」。
 」
午前7:13 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 
開き直りの楽山の、笑いの顔文字付きの悪趣味です。「うっせぇわ」を「こんな言葉遣い」と言うのなら、楽山は、まともな言葉を使っているでしょうか、否です。またしても、自分を省みない楽山が、書けば失禁するという醜態です。笑うモンスターです。
 
つまり、「うっせぇわ」より、悪質なのは、反省や丁寧を装って、同情を引こうとするような、本音ではなく嘘と偽善の、楽山の、だまし言葉です。全部、嘘さ♪・・という歌がありますが、そんな感じです。
 
例えば、心にもない「反省。トホホ」とかで茶化して、同情をひこうとしたり、「言えなくもない」「かなあ」「ていうか」などの曖昧ボンヤリ言葉を、悪い印象を吹き込むときに、楽山は、やわらげたつもりで、よく使います。悪を隠して、だまそうという意図があり、最悪です。
 
しかも、それで、断定していないから責任はない、などと言うに至っては、常識の欠如であり、良心の欠如としか思えません。楽山の、有為ではなく故意の、有情ではなく無情の、無反省、無責任の、温もりも潤いもない自己中の慢心が止まりません。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
幸福の科学は部外者から見るととても笑える宗教ですが、彼ら的にはガチなので、自分たちが運営する中学・高校では学習指導要領はおろか教育基本法すらも無視して「笑える」内容を本気で子供たちに刷り込んでいます。ぼくが常々「笑えるカルトほどヤバい」と言ってるのは、こういうことです。
午後3:56 · 2021年4月25日·Twitter Web App
 」
 
楽山は、あざ笑う自己中です。恐らく、他者すべてに対して、そういうスタンスしか持っていない自己愛性人格障害の病質者だと判断しています。よく読めば、楽山の言は、極めて浅薄で、何の助けにもヒントにもなりません。笑える自己中ほどヤバい・・と思います。
 
楽山は、道徳も倫理も宗教も教訓も学問も批判も無視して、まともを装う筆致で、関わる人を、嘘と詭弁で、邪悪な自己満悦のために、誘導して、刷り込んで、だまして、悪用してゆきます。それだけが、趣味で、生き甲斐なのでしょう。まともには誰とも交流できないのです。
 
楽山は、感性も知性も鈍麻して、もうかなり人格の崩壊が進んできたようです。自分で書いても、他者を引用して他者の口を利用しても、言葉や文章の選択において、人格破壊が、だらだら漏れてくるようです。
 
私は、楽山について、常々、「楽山の丁寧語にだまされないように」と言っています。
 
正常な人は、自身への批判に対して、いつまでも無視し続けることは出来ないものです。書くのをやめるか、理由を知ろうとするか、悲しむかするわけですが、楽山は、良心と良識が鈍麻~麻痺しているので、反省することなく、性懲りもなく、同じようなことを書いてくるのです。
 
つまり、楽山が書けば書くほど、楽山の病質が証明されてゆく成り行きになっています。楽山は、我欲と詭弁の発泡酒になっています。悪臭を醸造しているかのようです。
 
 
発泡する我欲

発泡する我欲
 
 
{2021年04月26日)
 
 
ストレスフルの私の遠吠え:
 
そうです。わたしは、もはや、おいぼれて、
ぶよんぶよんの、だらんだらんの、かっさかさの、ぎっとぎとの、ぶっつぶつです。
 
 
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