ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:体質

 
  楽山のケツの穴3
 
 ケツの穴
 2020年07月11日
 SNS上の誹謗中傷について
 2020年07月11日
 
 
改めて批判します。今回は、ちょいと、おふざけになります。
 
楽山が、ツイッターからコピペして書いているようです。今回は、抜粋しておきます。はっきり言えるのは、自分の、当てつけや詭弁による攻撃性、という、誹謗中傷の中でも、最も悪意に満ちた策略的な、陰険なやり方についての、反省も悔いも、微塵もないということです。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、自分を、被害者の立場においても、加害者の立場には決して置かないのです。反省するはずがありません。だから、記事に引用して、笑うことが出来るのでしょう。
 
今日の私の記事は、言葉遣いが下品ですが、楽山が、すこぶる下品な言葉を使っているので、私も、使うことにしました。なお、元々、私は、それほど上品ではありません。
 
 
(引用)
みんな 真剣に/受け止め過ぎなんだ/ツイッターなんて/ただの意見に過ぎない/意見はケツの穴と一緒/誰にでもある
 」
 
楽山は、これに反応して、
 
これには思わず笑ってしまった。この大らかさは気持ちがいい。
ただ、この譬え話を知ってしまったからには、今後はSNS上で、汚い言葉を見掛けるたびに、ケツの穴…しかもきちんと拭いていない汚いケツの穴を連想してしまいそうだ。これはつらい。どうかそんなことにはなりませんように…(笑)。
 
「笑ってしまった」「おおらかさは気持ちがいい」、などと軽い扱いで、笑う楽山です。"ケツの穴"、から、「きちんと拭いていない汚いケツの穴を連想」してしまうそうです。楽山が出しているのは、自分のケツの穴から出るものでしょうか。そして、人に浴びせるつもりでしょうか。
 
自分のケツの穴を、除外しているから、笑えるわけです。そう、楽山は、批判されている間、ずうっと、ケツの穴で笑っていたのでしょう。楽山のケツの穴は、そんなにきれいでしょうか、否、今までの、嘘と詭弁によって、糞まみれのような気がします。つまり、汚く笑うケツの穴なのです。
 
明らかなのは、楽山が、全く、自分のこととして考えていないことです。他人のケツの穴と思っているから、拭いてなくても笑えるのでしょう。このように、楽山は、真剣味が何もなく、人も神も、笑って、排泄物扱いする人なのです。
 
このように、自己愛の自己中の偽善者は、病識がなく、どんなことを仕出かしても、他人事で済ませて、たとえ、批判されても、びくともしない不感不応のケツの穴?を身につけているのです。だったら、ケツの穴に相応しいところに住めばいいのです。
 
 
二、三の誹謗中傷に対してはスルー対応もできるかもしれないが、大量に長期にわたっての誹謗中傷に対してはスルーだけで済むわけもないということか…。
 
「大量に長期にわたっての誹謗中傷」・・このように、楽山は、いつも、自分を被害者の側において、スルー、即ち、無視することを、正当化します。そして、そのことが、楽山の体質として、批判のテーマとなってきました。こういう人に、勝手にさせると、議論も交流も成り立ちません。
 
楽山の長期にわたる嘘と詭弁に対して、私は、3年余りにわたる批判を続けています。もちろん、ケツの穴をほじくる趣味はないので、笑ってはいません。私の批判に対して、楽山は、批判と誹謗中傷を区別できないまま、趣味のようにとらえているのでしょうか。
 
 
たしかに、正義の立場から不道徳な行いをただすとか、自分の好きな番組を台無しにされて被害を受けたとか、そういう主張が目立つ。
こうしてみると、被害者意識だとか、正義だとかいうものは、本当にやっかいだ。
 
被害者が、被害者としての意識を持たなければ、悪が栄えるだけです。また、まともな人間なら、正義を考えないで、生きることは出来ません。しかし、楽山は、「被害者意識だとか、正義だとかいうものは、本当にやっかいだ」と言っています。どういうことでしょう。
 
自身の被害者意識を認めないということは、鈍感だということでしょう。しかし、他者の被害者意識を認めない、ということは、他者に対する加害者意識も罪の意識も持たない、ということでしょう。つまり、思いやることが出来ないということです。
 
正義などは、厄介だから、気にしない、気にしなくていい、と宣言しているようなものです。楽山の墓穴が、どんどん深くなってゆきます。楽山は、他者の意見を無視すると、他者の意見は、ますます、大きなうねりとなってゆくでしょう。楽山は、深い深い真っ黒なケツの穴になるのでしょうか。
 
私が、楽山を批判するのは、被害者意識でもなければ、正義と信じ込んでのことでもありません。楽山の書く宗教と信仰の記事が、カルト的で、有害と判断したから、批判しています。これは、判断であって、正義と信じ込むのとは違います。
 
楽山が正当であると分かる弁明があれば、私は、訂正するでしょう。しかし、楽山は、そのような弁明の記事を、この2年余りの間に、一度も書いたことはありません。いつも、被害者意識から、当てつけの悪口と、嫌らしい嘘と詭弁ばかりです。
 
楽山には、嫌らしいという感覚がないのかもしれません。楽山は、今回、「ケツの穴」という、絶妙な喩えを持ち出してきました。まさに、楽山の書く文章は、ケツの穴から失禁されるところの、とても臭い"もの"なのです。痔核があるが自覚はないのです。そして、呆然痔疾なのでしょうか。
 
楽山の口は、その "穴" であり、そして、その、しばしば真っ赤にのぼせるケツの穴を、丁寧語と詭弁のボンヤリ言語で、やさしい "くちびる" に見せかけてきたのです。実際は真っ赤な嘘を吐く口と唇です。だから、いずれ、真っ黒になるでしょう。
 
そして、あろうことか、楽山自身が、人のケツの穴を、自らのケツの穴で、笑っているのです。誹謗中傷、悪口、罵詈雑言のみならず、さらに、嘘と詭弁で塗り固めたような、嫌がらせと当てつけの言葉は、まさしく、いつも未消化の、楽山の、下痢便の臭い臭い失禁であります。
 
私は、批判するときには、辛辣な比喩表現も使ってきました。今回は、楽山が、自分を棚に上げて、しかし、いつもの気取りとは裏腹な、絶好の辛辣な "ケツの穴" という比喩を、提供してきました。つまり、虚飾の言葉を使わなければ、実際は、締まりなくケツの穴まで落ちる楽山ということです。
 
当てつけのつもりが当てつけられる、人を笑えば自分が笑われる、というブーメランという常識を、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、考えないのでしょう。笑えば笑われる、人に言ったつもりが自分にぴったり当てはまる、自業自得の楽山の因業が続いています。
 
 
ケツの穴、穴、穴

ケツの穴、穴、穴
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月11日、再録+加筆)
 
 
 
  老いと病
 
三十代から始まる
ひとこと言われた後に
続く笑いが気に掛かる
自分は照れ笑いしているくせに
 
事故で入院する
白髪がごそっと増える
面(つら)の皮が厚くなる
鼻の皮が硬くなる
放屁する場所を余り構わない
放屁自体が増えてくる
腸のグルグルが増えてくる
便秘も下痢も増えてくる
小便も近くなる
間に合わないことがある
尿漏れパッドを買ったりする
おむつも買おうかと思ったりする
 
すっかり白髪頭になってしまう
一つ難しいことを覚えると
二つ易しいことを忘れる
覚えた一つも忘れる
ひとこと言った後に
続く笑いに気づかない
ひとこと言われた後に
続く笑いに笑っている
気に入らないのに笑っている
いつまでもいつまでも笑っている
 
以上に気づいて黙ってしまう
人のせいにしたくなる
病気で入院しない
いつまでもいつまでも黙っている
わけにいくか!
と何か言い始める
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
  穴と窓
 
上から下まで穴だらけ
だが吸い込める穴は三つしかない
でも取り込める窓は無数にある
しかし滅多に窓は開かれない
それでも稀(まれ)に出入りする風
上から下まで穴だらけ
しかして風の方に体液は乗る
 
(人体のことです)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
相手が不機嫌な顔をしているからといって、こちらも無愛想な態度を取るなら、それは自分の行動を相手に左右されるということ。どんな相手にも、心からにっこりほほ笑みかける。誰に対しても自分のやり方を貫く。それが本当の自由です。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
午後11:31 · 2021年8月1日·Twitter Web App
 」
 
楽山は、相変わらず他者の口を悪用して自己顕示の宣伝を続けています。不機嫌に対して無愛想は、自分の行動を左右されることだそうです。どういう人なのか情報を集めるとか、危ない人なら無愛想どころではなく、逃げるか避ける、等々、多様な状況を考慮しないのでしょうか。
 
「どんな相手にも、心からにっこりほほ笑みかける」・・楽山が三文芝居でやっていそうな、気色悪い芝居だと思います。"ありがたや宗教" か "幸福信じてます教" の境地自慢でしょうか。こういう人は、楽山のような偽善者の世辞の褒め言葉に一番だまされやすいと思います。
 
「誰に対しても自分のやり方を貫く」・・安易な言い方です。楽山は、誰に対しても、自己中の裏道を貫いています。人の言うことを、聞いてるふりして、聞かない者もいるという典型として、まさに、楽山は、丁寧語でごまかして、実は何も受け取っていない、という無視の権化です。
 
信仰の道徳を説いたつもりでしょうか。「それが本当の自由」・・違うと思います。重要な「本当の」「自由」というテーマについて、気安く短く結論してしまうのは、人間を巡る状況の多様性や奥深さを考えない人に、よく見られることです。
 
総ての場合に「それが本当の自由」だと、キリストが言ったわけではないでしょう。言葉は、心を伝える暗号です。聖書は神の言葉でも、聖書を読む私たちは人間の言葉しか持っていません。付け焼刃の言葉を伝えて、考察もしないで公言してしまうのは、説教する態度ではないと思います。
 
説教者の、自己陶酔には気をつけましょう。それを自己満足で気安く引用する楽山には、決して、近づいてはいけません。楽山は、宗教でも思想でも本でも発言でも、自分の妄想に少しでも似ていれば、自分を高めるために利用するのです。楽山の、安い道徳話を受け入れないでください。
 
楽山は、神の存在を否定してたのに、信じないのもよくないが信じ過ぎてもよくない・・などという、いい加減な宗教を考えているようですが、それは、何の救いにもなりません。楽山が何か書けば、楽山の、知性も感性も鈍くなっている病質が表れてくるだけなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 2.の発言は、楽山のケツの穴からです。だから、「反省」という必須の作業を「難しいんだよなあ」「自分もそんな風です」「人間の性なんでしょうかね」などと、必要悪のように正当化する、白々しい嘘と出まかせなのです。このような排泄ばかりしてきたのが楽山です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
記事を読んで思ったけど、悪口と批判の違いはこんな感じかもね。
・悪口…邪推、錯誤、決めつけで、相手を悪く言うこと
・批判…客観的事実に基づいて難点を指摘すること
悪口が投影になりがちなのは、自他を客観的に見ることができていないせいなんだろう。
午後10:33 · 2022年8月9日
 
楽山は、悪口しか書けない人です。客観性がないのは、楽山が、自己中だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。いつも決めつけてきます。根拠を示したことはありません。示したつもりになって上のようなことを書くのは、自分を見る目を持っていないからです。
 
つまり、楽山は、悪質な加害者なのですが、いつも自分が被害者であり、自分は正しいと思い込んでいるのです。楽山は「客観的事実に基づいて難点を指摘」したことは、一度もありません。そもそも、事実というのは、主観によって選択され、解釈が付き、純粋な客観性など、厳密には殆ど無いのです。
 
議論や意見において、大事なのは、解釈の真偽と、説得力であります。それを知らずに、楽山の「批判…客観的事実に基づいて難点を指摘すること」は、楽山の書くことが、先入観か決めつけで、おおよそ、客観性から、ほど遠いという事実が否定します。まだ何か言えると思っているのか。呆れる。
 
 
 
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  楽山の体質的精神障害
 
 命の尊さと進化論
 2014年03月23日 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の楽山の記事です。しかしながら、最近言ってきたことと、基本的に、ほとんど変わりがありません。つまり、無反省と無責任をきたす体質的精神障害、即ち、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状が、ずっと前から、成長もなく、書いたものに表れ続けてきたということです。
 
楽山は、キリスト教と信仰について、何も勉強していません。そして、印象操作として、キリスト教についての浅薄で幼稚な偏見を並べて刷り込んできます。そして、神はいないとか、無神論の引用とかで、信仰というものを、信じ過ぎてはいけない・・などと言ってきました。
 
信仰は、浅く信じたり、深く信じたりするような、程度問題では語れません。信仰は、有無であり、その有無を最終的に裁くのは、神ご自身であります。他者について、偽物であるかどうかを云々することは、信仰の根幹に触れた場合だけ、人にも判断できることがあります。
 
しかし、楽山のような、詭弁を弄し嘘を吐く者が、信仰の欠片もないのに、信仰の根幹に真っ向から反する妄想や否定の発言を繰り返すならば、悪意ある反信仰・反キリストであることは、その言動から、他に考えられないことをもって、明らかになってきました。
 
もはや、嘘によって、発言の信用度もゼロとなっている楽山に対しては、精神衛生上の悪影響を避けるために、直接の遣り取りを断絶し、記事で批判を続けるしかない事態となっています。あざ笑いの悪意を隠しながら、丁寧語で誘ってくる楽山の口車に、決して乗らないように、お願いします。
 
このブログの批判記事は、約10年、楽山については約3年ほど、病質的偽善者の情報を広く知らせるために書いているものです。治療法がなく回復の見込めない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)について、今までに表れてきた症状を明らかにしてゆくつもりです。
 
進化論の本を読んでいると
生命について考えさせられます
今、自分が生きているということは
生命の誕生から、今の自分まで
一度も途切れることなく
生命がつながっているということ
 
神否定と、進化論礼賛を企んでいるようです。まず、神と進化という2つを対立させることが、良心を持たない楽山の、悪趣味と言えるでしょう。しかも、その悪趣味を、ボンヤリ言語の曖昧表現で言ってくるのが、楽山の無責任誘導の本性であります。
 
一見、何か、感動しているような書き方ですが、きわめて単純かつ短絡であることを見逃さないでください。この程度のことは、小学生でも考えることです。大人の、何かを伝えたいという真摯な態度ではないのです。人に対して、操ろうとすることしか考えない者の所業であります。
 
進化論を読まないと、生命の誕生や自分や他者の命のつながりが、考えられないのでしょうか。生まれ育って家族を見て、ふつうに勉強して、人の話を聞いて、考えることは可能です。そこで、わざわざ、進化論を持ち出し、反宗教へ誘導しようとすることが、楽山の気取りと陰謀体質なのです。
 
祖先たちが
天災、疫病、戦乱など
さまざまな危機を乗り越え
生き延びてくれたからこそ
今の自分がいるということ
 
このことは、宗教も、進化論も、関係ありません。宗教を考えなくても、科学を考えなくても、これくらいは誰でも思いますし、いい大人が、今さら、気づきましたという口調で語ったところで、少しも新しくはないことです。しばしば、楽山は、企みのために、大仰なことを言ってきます。
 
そうであれば
自分はこの生命を大切にして
次につなげなければ……ということ
 
小学校か・・と思うほど、発展性のない月並みな道徳を語る楽山です。実際は、こう書けば、感動してくれるじゃろ・・という狙いがあるのでしょう。楽山は、自分大事で、他者を大切にしておらず、平気で人を傷つけます。これを、「次につなげ」られたのでは、甚だ迷惑です。
 
人は霊であって
永遠の命を持ち
輪廻転生している
と信じていたころは
祖先のことはほとんど考えることはなく
肉体生命の維持を軽んじるところがありましたが
 
霊が分かるっぽい・・という自覚の楽山の妄想は、しばしば霊を強調し、永遠とか、輪廻とか、過去形ではない超常趣味として、今も変わり映えもなく、退屈に続いています。楽山は、むしろ、自分は特別だからと、軽んじるどころか、永遠不変に結びつけて妄想を語ってきたのです。
 
進化論に興味を持ってからは
祖先の労苦と
生命の大切さをより強く感じるようになったように思います
 
進化論によって、祖先の労苦が感じられるものなのでしょうか。進化論によらなければ、生命の大切さを強く感じないのでしょうか。それ以外では、例えば、生きていることだけでは、生きている姿を見るだけでは、生命が大切だと分かりにくいのでしょうか。
 
ふつうは、逆なのです。生きている命を通じて、命の大切さを思い、生命というものに興味を持つものなのです。いったい、どういう精神を持てば、このような、人間的直感のない、人間離れした生命観を書けるのでしょう。楽山の思考、ボロボロではないでしょうか。
 
さらに、いかに自分が他者を苦しめているかを、まるで感じない楽山が、「祖先の労苦」「生命の大切さ」など、感じているとは思えません。人を操るための、こう書いておけば、ひとかどの人物と思われるじゃろ・・という自己顕示欲の醜さだけが表れています。
 
真の謙虚さを持たない病的ナルシストの、おぞましさが、直感の鈍さとともに表れています。自己愛性パーソナリティ障害NPD、自己愛性人格障害、などと言われ、サイコパスと同系統の体質的病魔が、楽山を、このような、鈍感をごまかす三文芝居へと導いています。
 
 
 
 いろいろな信仰
 2014年03月30日 楽山日記(LD)
 
 
気持ちの悪い文章を書いてくる楽山です。宗教と信仰は、小学校の算数ではないのだから、幼稚な決めつけと未熟な理路で語れるものではないのです。自己愛性人格障害のために、身の程を知らない、深い思考も感受も出来ない、ということの悲劇が楽山なのです。
 
聖典のことばは
不合理なものも
そうでないものも
すべてそのまま事実である
とする信仰
 
聖典の読み方も、まるで知らない楽山に、信仰の合理・不合理を語る資格はありません。このように、不合理という言葉で、宗教と信仰を、平気で表す者には、悪意はあっても、洞察はなく、敵意はあっても、直観はないのです。
 
不合理が、間違えた算数の計算のように、不合理のままなら、人が受け取ることはないはずです。思考と情緒の広がりを全く持っていないのが楽山であり、ゆえに、何を書いても、通念を超える理解に結びつかず、かさばるボール箱のように、煩わしさを積み重ねてゆくだけなのです。
 
聖典のことばのうち
不合理なものはすべて
何らかの象徴、比喩、たとえ話などである
とする信仰
 
今までの発言から、「象徴、比喩、たとえ話」なども、楽山は理解していませんし、受け取って考えることも出来ていません。いったい、何を読解したつもりで思い上がって、語ろうというのでしょう。思い上がった小学生が、そのまま大きくなって、髭だらけの有頂天になっているだけなのです。
 
上の二つを折衷する信仰
 
宗教と信仰のパターン分類しているつもりでしょうか。それは、宗教と信仰について、少しでも分かっている人がすることです。通念的に不合理と断定するだけの楽山は、未熟で低劣な精神のままであり、単純に短絡して、図々しく書いてくること以外、何も出来たことがありません。
 
一つ目の信仰は
純粋性という点では優れているのだろうし
二つ目の信仰は
信者の範囲を広げる効果があるのだろうし
三つ目の信仰は
宗教と現実との間でバランスをとるものだろう
 
直観と洞察の欠如は、このような安易な分類の仕方になるという例です。「優れて」「効果」「バランス」・・このような言葉で、宗教と信仰を表すこと自体が、楽山の、思考障害、妄想前提、劣悪、無効、アンバランスを表しているわけですが、楽山だけは、気づかないのです。
 
宗教と信仰を、オモチャか文房具のように扱って、宗教人と信仰者の気持ちを何も理解できないのに、分かったつもりになって対象化して、独りだけで満悦してきたのが、楽山の人生なのでしょう。批判されないために、ボンヤリ言語の曖昧さで化粧した文章は、悪臭と痒みを催させるだけです。
 
おそらくこの三つ目の信仰が
もっとも無難だろうけれども
どの辺りを視点にしてバランスを取るかは
難しそうではある
 
そして、物でも扱うように、「バランスを取る」「無難」などと気安い見方に短絡し、最後は「難しそうではある」などと、責任逃れを書いて終わりです。人の迷惑を考えないで、宗教と信仰という真実の追求に、厚かましく突っ込んでくる楽山を、決して相手にしないでください。
 
楽山は、未熟を自覚できず、反省もしないがゆえに、学習と成長ができないのです。ここが、治らない限り、まともな言論者には、決してなれません。なのに、病識欠如の無自覚で、勝手なことを書いては、ますます、信仰からも、そして、人間としても、的外れになってゆきます。
 
 
ボンヤリ精神のトンデモ世界観

ボンヤリ精神のトンデモ世界観
 
 
(2021年10月13日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
 
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
 
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
 
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
 
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  体質と言葉2
        (再録+)
 
 
体質とは、ここでは、
先天的または後天的に規定されるところの
その人の言動を特徴づける人格の意味で使っています。
 
(ネットより)
百科事典マイペディアの解説。
体質:
すべての精神的・身体的な人間の形質の総和で,遺伝と環境の相互作用によってつくられる。
 
思想・宗教の言葉は
それを表した人の言葉によってではなく
それに反対する人の言葉によってでもなく
それを発する人の体質によって
救いともなり
邪悪ともなる。
 
神の言葉は
受け取った人の言葉になると
人を生かすことがあり
人を壊すこともある。
 
こういうことがなぜ起こるかは神の秘密であろう。
以上は、認めるしかない事実である。
認めない者は、自分信仰になる。
 
神の言葉は
人の言葉となって
先ず、人は、
神と人の、そして、
神の言葉と人の言葉の違いを学ぶべきである。
 
神の言葉の真理は不可知であり
人の言葉の真実は曖昧に可知である。
 
この違いのみが、心掛けて弁えるべき信仰の節操である。
 
 
受け取ることと、信じ込むことは違う。
 
思うことと、、決めつけることは違う。
 
判断と、断定は違う。
 
救いの希望と、不変の境地は違う。
 
いずれも、前者がキリスト信仰である。
 
絶えることがないのは、
常時の平安ではなく、
必要なときに
祈りに答えて与えられる癒しと平安である。
 
人は、受け取れるものを受け取るが、
信仰が、物としてのプレゼントと違うのは、
受け取って忘れるのではなく、
受け取ってそのまま置いておけるものでもなく、
即ち、固定できるものではなく、
いつも人生に必要だから否定できなくなることであり、
 
それは、信仰が、
固定して揺るがないのではなく、
忍耐強く求め続けるものであり、
否定の判断が下せないほど必要だと思い、
希望し続ける祈りの生き方による。
 
それゆえ、信仰は、
いつも、新しい目覚めを求め続ける。
 
完全に知ることが出来ないゆえに、求め続けるのである。
信仰は、成長する。
 
正直な祈ることによって人は
神の偉大さとキリストの愛と共感を新たに知るからである。
 
 
異常な体質の特徴。
 
自分を責めることができない。
罪悪感がない。
しんみりと悲しむことがない。
自己中心にしか考えることができない。
 
思考と感情に深みが見られない。
短絡しやすく、上気しやすく、妄想化、固定化しやすい。
 
それゆえに
不都合において、自分の罪を認めず、反省せず、すべてを人のせいにする。
思慮深く理路を整えることができず結論的決めつけを繰り返す。
情緒面で、深い高等感情が発達しないし、
他者の意見を受け取っておらず、学習不能で、自己修正できない。
 
能力ではなく、異常な人格が、理路と感性を奪うからです。
ふつうに共感できることが、過大な自尊のために出来なくなります。
 
ゆえに、バランスが保てず、バランスが分からず、
ゆえに、大仰な讃美言葉や、世辞の褒め言葉、
そして、整わないまま結論を、でっち上げて、
作り話や、デマなどで、相手を侮辱するしかなくなる。
暴論も正論も理解できず区別できずに、
自分に都合の良い欲望の方向と、相手をおとしめ罵る言葉だけを繰り返します。
 
しかも、その間、高みから見下ろす嘲りが感情の表現として見られる。
自分が上だという立場から抜けられないために
相手を見くびった発言しか出来ず、そういう見下し言葉だけを探しては出す。
 
そういう者が、人の意見を聞く耳を持たず、しかも、上から教える態度だけに凝り固まって、万事が益となると信じ込んで、自分の利益、つまり、正当性の根拠として、よく引き合いに出しているのが以下の聖句です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
共に働くことなく、自説に慢心している者には、"万事を疫"病となるように、今に至る成り行きが出来ているようです。
 
決して、友達にも、仲間にもしてはいけない破壊的人格です。
批判するのでなければ、遠ざかることだけが最善の方法です。
 
 
(2020年03月16日)
 
嘲る(あざける)嘲笑い(あざわらい)
 
 
逃げなさい

逃げなさい
 
 
(2021年03月24日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山は、他者の言を引用すれば、責任はないと思っているようです。
 
しかし、例えば、リツイートなどで引用して、批判対象としないことは、引用の意図が、そのまま賛同か、利用したことになるという責任を、全く理解しないのが楽山の、自己愛からの自己中の病質なのです。口出しするな・・ということを、他者の口にしゃべらせて平気な楽山です。
 
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
·3月21日
何にでも口出ししてくるお節介な人っているじゃない?
そういう人はね、
暇なのよ。
別にアナタのことを気にしてるんじゃないの。暇つぶしなの。
 
他者を気にせず、暇つぶし、これは、まさに楽山のことでしょう。楽山は、おおよそ、関わるだけの真実も心得も持たない宗教とカルトの問題に、さも分かっているふうに、コメントや記事を入れてきます。
 
人の迷惑を考えず何でも自分勝手にやるのが自由だと思っているのです。それに文句を言っているのは、全部、余計な口を出すことで、お節介だといいたのです。
 
通らない屁理屈の刷り込みで、いちゃもんだけのボンヤリ言語で、真実に反する卑怯な迷惑行為をして、根拠もなく良いこと言っているつもりでいる裸の王様が楽山なのです。
 
そして、批判されると、このリツイートのように、他者のツイートから都合のよい文言を選んで当てつけてくるのです。自分で説明とか弁明とかが、全然できないからです。
 
それに、楽山が、暇つぶしで宗教・信仰・真実について書いているとしか思えないわけですから、とんでもない無礼な話であり、ゆえに、引用元に対しても、無礼な話であります。
 
以上より、このツイートを引用する妥当性は、楽山が、していること、してきたこと、言ってきたことなどを考えれば、どこにもありません。人のことを考えず、なりふり構わない楽山の自己中の病質が今回も表れています。
 
中途半端に相手すると、どんどん入り込んでくるから、
笑顔で一言こう言いなさい。
「あ、大丈夫です」
午後2:45 · 2021年3月21日·Twitter for Android
 
人を巻き込み、評論家気取りで、子供じみた幼稚な先入観で物を言い、かつ、責任は一切負わず、詭弁で言い逃れを書いて、全くの無反省でいられるような楽山は、ずいぶん前から、病質の者であり、全く "大丈夫" ではない、とても有害な人です。
 
前に書いたように、楽山の笑顔は、微笑みではなく、意地悪な、ほくそ笑みか、高笑いであります。それ以外に求めるものがないようです。また、他にすることもないようです。
 
楽山は、悪意と作為について、結果を気にしなければ、平気でいられると思っているようです。あらゆる結果を気にしないということは、正常心理では、ありえないことなのですが、楽山は、病識がないので、反省することもなく悔いることもなく生きていられるのでしょう。
 
そのようにして、何度も何度も、楽山は、自ら、醜い自分を表して、恥をさらしに来るのです。
 
 
(2021年03月24日)
 
 
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