ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の褒め殺し2
 
 『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』中村元著、前田專學監修
 2021年09月20日  楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
宗教についても思想についても感性と知性を台無しにしてきて、腹いせのように、キリスト教をおとしめてきたために、報いとして批判を食らう楽山は、今度は、仏教を、褒め殺しにかかっているようです。いかなる宗教と信仰にも、人間らしいセンスを持たない楽山が明らかになっています。
 
 
*概略
本書は、NHKラジオで放送した中村元の講義をまとめたものである。全編にわたって、原始仏典の記述を紹介しつつ、その解説をするという体裁になっているが、一般にも理解しやすいように終始、平易に語られているところは有り難い。
以下に、自分にとって特に強く印象に残った箇所をメモしておきたい。
 
「終始、平易に語られている」本についての、大袈裟な「強く印象に残った箇所」という表現が、既に、ペテンくさいのです。つまり、楽山は、感動したと言っています。べた褒めモードになります。しかも、褒め殺しです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴なのでしょう。
 
 
*人はいかに生きるべきか
まず著者は、毒矢のたとえにからめて、ブッダの教えの方向性を次のようにまとめている。
解決のできないような哲学的議論に巻き込まれないで、ここに生きている人がいかに生きるべきであるか、その生きる道を明らかにするということをブッダは人々に教えたのです。
(『〈仏典をよむ〉1 ブッダの生涯』〈岩波現代文庫〉中村元著、前田專學監修、岩波書店、2017年、p.40)
 」
さらにブッダは、さまざまな宗教儀式にもこだわることなく、いかに生きるかということを重視していたとのことである。
 
「いかに生きるかということを重視」・・当たり前です。しかし、この感想文で、いかに生きるかということを、楽山は、書いているでしょうか。否です。実のあることを全く書けない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の症状が、楽山の実績なのです。
 
 
人間のほんとうの道を追求する、それがブッダの一生のつとめであり、課題であったということをいうのです。
(同上、p.157)
 」
両者をまとめると、霊魂がどうしたとか、宇宙観がどうしたとか、宗教儀式がどうしたとか、そんなことより、現実をいかに生きるかということの方が大事だということらしいが、自分はこれには賛成である。ただ自分は物好きなので、いまだにややこしい議論はすきなのではあるが…。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は「霊魂がどうした」とかいうことより「現実をいかに生きるか」に賛成だそうです。当たり前です。宗教もそのためにあります。楽山が、そうでなかったのなら、それは、楽山の責任です。実際には、現実を生きていない楽山です。
 
「現実をいかに生きるか」と言っていますが、ならば、今まで書いてきた、うるさいほどの霊の話は、どうでもよかったのでしょうか。楽山を真に受けないでください。楽山は、ただ、読書家をアピールするために、言っているだけです。
 
「ややこしい議論はすき」・・楽山は、議論などしたことはないと思います。屁理屈をこねて、相手を煙に巻いて、疲れさせることが好きなのです。だんだん正体が見えてきます。何も言えない、何も感じないが、読書家を気取るためだけに、もっともらしい飾り言葉だけを並べているのです。
 
嘘と詭弁が明らかになったという現実を無視して、現実を生きることとは真逆の、議論ではなく詭弁をもって、超常趣味の空想の世界から、自己顕示欲だけの、視野狭窄の、傍迷惑な、インテリ気取りからの妄想語りを止めない楽山です。
 
楽山は、賛成かどうか、という評価を書いています。つまり、楽山は、評価する人であり、至らぬところが当てはまる自覚のない人だということです。一言でいえば、評論家気取り、上から見下ろす態度、などが当てはまってくるわけです。自分に、真剣に、非を当てはめることが出来ないのです。
 
 
*教えの根本
著者によれば、八万四千の法門を貫いているのは慈悲であるという。
そこを一貫する精神は何かということになりますと、これは人々に対するあたたかい気持ち、人々の身になって考えるというその気持です。これが世の中を明るく保ち、なだらかに進めていくことになる。
これを仏教では「慈悲」と申します。
(同上、p.41)
 」
これはよく納得できる。別な言い方をすれば、慈悲のない教えはブッダの教えではないとも言えるのかもしれぬ。
またこの考え方からゆくと、本書とは別のとある本で読んだことだが、ブッダは生まれ変わりについては在家には説いたが、出家にはあまり説かなかったという話も了解できる。慈悲の精神によって、相手の信仰とその環境に合わせて方便を用いつつ導いたということなのだろう。
 
「よく納得できる」・・嘘です。楽山は、温もりと潤いのない、冷酷な精神の持ち主です。楽山には、冷静な思慮がなく、他者の気持ちを理解して思いやる共感性がありません。いつも、世辞か、深みのない言葉で、やさしい人格を装う三文芝居が生業なのです。
 
「あたたかい気持ち」「慈悲」という言葉で、読んで感じましたアピールをして、書いているのは、「環境に合わせて方便を用いつつ導いた」という誰でも言いそうなことだけなのです。しかも、「別のとある本で読んだこと」だそうです。当たり前の、そして、別の本の話です。
 
「慈悲のない教えはブッダの教えではない」・・楽山は、今まで、議論に見せかけてきたが、疲労だけをもたらし、何の成果もないことによって、真の慈悲がなく、仏陀の教えに背いているわけです。体よく書いたつもりでも、今までの事実から、楽山の悪意と嘘と詭弁の特徴は表れてきます。
 
今までのことから、楽山は、「慈悲」、言い換えれば、思いやりとか、やさしさとかを、心で受け取ることも、施すことも、三文芝居のセリフで空しくしてきただけなのです。つまり、言葉だけを繰り返して、そこから広がることのない文章しか書けないのです。
 
 
*世界は美しい
仏教の考え方は、一切皆苦というように厭世的なものだと思っていたのだが、著者によれば死期の迫ったブッダは世界の美しさをうたっていたという。
みなに別れる、この世を去るということになりますと、そうすると、いまさらながらこの世の美しさに打たれて、恩愛への情に惹かれるのです。
(同上、p.148)
 」
 
楽山は、何が言いたいのでしょう。死は世界の美しさ、世を去るとき恩愛の情、・・その心は何も書いていないのです。このように、賛同し、感動したような、褒め言葉だけ並べて、読書家を気取る楽山の、一切は、ペテンの飾りで彩られています。楽山は、生よりも死を讃美したいのでしょうか。
 
楽山は、他者の言にも、他者の行いにも、他者の説法にも、感動したことはないと思います。感動を経た心が、何も書かれていないからです。今まで、ずっと、そうなのでしょう。ただ、自己顕示欲で、分かる人アピールをしてきただけなのです。
 
死は美と愛だというような引用を書いて、死と美と愛が伝わると思っているのでしょうか。だまして、何か、よさそうな人と思わせてきただけの人生が、いかに虚妄であるかということだけが伝わってきます。関わらないでください。皮を舐めて髄を知ってるふりをする香具師(やし)の楽山です。
 
 
著者は、自然の美しさ楽しさを語るブッダの言葉を紹介しているが、それは読んでいるだけで切なくなってくるものであるし、
 
「読んでいるだけで切なくなってくる」・・切なさを、具体的に表現し説明する器量のないのでしょう。「自然の美しさ楽しさ」では終わらない話のはずです。楽山が、いかに読めていないか、なのに、いかに感想をでっちあげているかということです。
 
小学校の作文でも、いい点数はもらえないでしょう。楽山は、そこにいる劣等生なのです。学者、宗教家、インテリ、評論家、様々な、楽山の気取りが、よく見せるためのだまし文句に過ぎなかったことの傍証になっています。感動芝居の大根役者、楽山に、どうか、だまされないでください。
 
 
これからするとブッダはこの世のすべてを厭い、離れようとばかりする人ではなかったようだ。
 
仏陀の教えや仏教の厭離穢土が、死にたがり精神ではないことは、それだけじゃ救いにならないのだから、常識的に誰もが知っています。一方、先入観と言葉のうわべだけで、インテリ宗教家を気取る楽山は、自己顕示欲だけの、嘘吐きの、詭弁屋の、幼稚な未熟者に過ぎないのです。
 
楽山は、読書できない人です。かつ、自己愛性人格障害によって、反省も学習も出来ず、分かっていると思われたい自己顕示欲から、人を惑わし、だますだけの、独り芝居の大根役者に堕ちているのです。読んだつもりだけの空っぽが、偉そうに繕っても、書いた文章が、恥ずかしい性根を表します。
 
 
そういえば、とある評論で梶井基次郎の自然描写の美しさをたたえつつ、死に近い人には自然はこのように見えるのだろうとしていたのを思い出す。ブッダの言葉にもこれと同じことがいえるのかもしれぬ。
 
死にゆくときの自然が美しいという話で、まるで、生よりも死を勧めているようになってはいけないのです。仏陀も評論家もこれと同じ・・ではないと思います。楽山だけが、小学校以下のレベルで、短絡して、とんでもないことを言っています。最も醜い生と死の穢土(えど)を徘徊している楽山です。
 
 
本書を読んで、ブッダは自然の美しさを解する人だったと分かったのはうれしい収穫である。
 
楽山は、仏陀が死にたがり屋で、自然の美しさが分からなかった人だと思っていたのでしょうか。いよいよ、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山に、人格崩壊の時が来ているのでしょうか。自己愛によって知性と感性を損なってきただけでは済まないようです。楽山は何も分かっていません。
 
 
乾いた砂の誉め殺し

乾いた砂の誉め殺し
 
 
(2021年)
(2022年10月02日、再録+加筆)
 
 
 
  夜
 
夜である
昼よりも静かだと思ってはならない
昼の騒ぎよりも
より騒がしい思惑が
入り乱れて飛んでいる
あるいは欲望が
壁を突き破ったり隠れたりする
夜には夜の苦しみ
夜には夜の夥しい挨拶
 
夜は悲劇を
喜劇をのせて音もたてずに流れてゆく海のよう
生も死も同じなのだ
生けるものも死せる者も
動物でさえ屍のまま
声もあげずに
乱れた問いを投げかけてくる
 
いったいいつまで笑っていればいいの
泣いていればいいの
暗闇から海のように
大河のように流れる裏の広さから
答えられなかった問いが
問われなかった夢が
叫びを押し殺してゆく
沈黙の
騒然とした夜である
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 鳴く
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省する気がなく、それを「人間の性」として一般化しても自己正当化は出来ません。何か書くたびに、気取りと嘘と詭弁と悪意と偽善の、楽山の病質が明らかになってゆきます。批判を書いても、楽山が何も受け取らないことが、楽山の自己愛性パーソナリティ障害を、逆に、明らかにしてゆくのです。
 
 
 
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  楽山の遠吠え
 
 信仰観は人それぞれ(st氏と楽山の場合)
 2022年01月05日 楽山日記(LD)
 
 
人それぞれ・・前に書いたことがありますが、楽山が、自己中の正当化に使った言葉です。大人でなければ、成り立たないことを、楽山は、人を傷つける自分の自己正当化に悪用しています。楽山は、何か、悪口をたくさん書いて、私を疲れさせたいようです。
 
愚かな間違いと無理解と詭弁と嘘が、ちりばめられています。楽山の知能そのものが低下してきたのでしょうか。書いていることの次元が、地獄に落ちてゆくようです。決して、巻き込まれないようにしてください。楽山は、病質の定めのように、良心の欠片もないことを、自ら表してゆくのです。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、相手にぶつけてきます。この記事でも、しばしば見られることです。恐らく、楽山の処世術なのでしょう。つまり、きわめて次元の低いところで、楽山は、黒く黒く世渡りをして、とても醜いインテリ評論家?の面(つら)だけを向けてきます。毎度、吐き気します。
 
*st氏の信仰観
st氏のツイッターを見たら信仰について書いてあったので、ここに保存し、個人的な感想も書いてみたい。
 
ということで、私の記事を引用するのですが、引用だけのようです。
 
私の意見の引用
 
「 
 
人の人格や尊厳をおとしめる発言を公開した場合は、「個人的な感想」では済まないことさえ、楽山は、自覚できない哀れな病質者なのです。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。人間として、生きるために必要な、心に響く言葉が見つからないなら、黙っているべきです。
 
聖書は、そこから、絶望を希望に変えるような、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、生きることの間を、何度も往復する動機となります。
 
信仰は、キリストの一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、拙劣なものになるのです。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それを救いとして生きる縁(よすが)にして生きるのです。不躾に神聖を並べて、自分の屁理屈で判定する、・・楽山に似ています。
 
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 
このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。既に救われ癒された人の信仰の、神とキリストに向けることは、即、侮辱となるのです。
 
 」
 
*st氏とHS信者との共通点
st氏のツイートを読んで、まず思ったのは幸福の科学(HS)と同じことを言ってるということだった。
HSではよくこんな事が言われている。
「大川隆法総裁の言葉に、心を癒やされ、救われた。これは神でなければ説けない教えだ。総裁は神だ」
「凡人の小さな頭で、総裁の本心が分かるはずもない。にもかかわらず、総裁を疑い、信者を惑わすのは罪だ。それよりは黙って自らの未熟さを反省すべきだ」
「信仰は尊いことだ。信仰を汚すことは許されないことだ」
こうしてみると、st氏とHSとでは信仰対象に違いはあるものの、思考回路は同じだと言っていいだろう。以前、st氏の信仰観を支持していたHS信者がいたが、さもありなんである。
 
キリストに「癒され」「救われ」、神の「本心が分かるはずもない」・・何がおかしいのでしょう。HSではなく、キリスト信仰です。当然のことを言っているのですが、言葉が似ているから、おかしいと言いたいようです。信仰対象が違います。楽山は、そんなことも分からないのでしょうか。
 
信仰対象が違うということは別の宗教だということです。どうして思考回路が同じという話になるのでしょう。楽山に、知能はあるのでしょうか。
 
「st氏の信仰観を支持していたHS信者がいた」・・違います。信仰観ではなく、楽山はとんでもない奴だということが一致しているのです。恐ろしい詭弁です。
 
楽山は狂いだしたようです。なりふり構わず、理路も情緒もお構いなしに、嘘吐き楽山がディスってきます。ふつうは、あまりに恥ずかしくて、こういうやり方はしない者ですが、羞恥心がなく、混乱している楽山は、やってくるのだということが表れています。実に、凶暴な楽山です。
 
 
*st氏と楽山との相違点(判断)
次に改めて思ったのは、st氏と私との相違点である。たとえば、この部分だ。
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという罪が明らかです。また、信仰は、神を判定することではありません。
 」
神と神の言葉を、自分で決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。
 」
前の記事でも触れたことではあるが、st氏は、人には神のことは分からず、決めつけてはいけないとしつつ、自分自身はイエスと聖書とを神と神の言葉であると断定しているようだ。
 
断定ではなく、救いと癒しは、個人として否定できないということです。そういう体験のない人に向かって決めつけているわけではありません。楽山の、意見に対する評価の前提となる理路の判断が、やみくもに刀を振り回しているだけで、既に、落城しています。知能そのものが低下しています。
 
信仰者というものは、人には神のことは分からないと言いつつも、「これこそ真の神だ」「これが神の言葉だ」「神の御心はこのようなものだ」などと、さも自分は神のことを分かっているかのように断言しがちなものであるが、st氏も例外ではないということなのだろう。
 
分かるでしょうか。楽山は、アンチHSでもなく反キリストというわけでもなく、ただ仕返しをして信仰そのものを否定しています。「神のことを分かっているかのように」・・私は、何度も、神を完全に理解することは人には出来ないと書いてきましたが、楽山が読み取っていないことは明らかです。
 
信仰について・・聖書は神の言葉でありますが、私たち人間は、人の言葉しか持っていないことを自覚するべきです。つまり、人の理解は不完全だということを書いてきました。楽山が、それを、今さら「分かっている」と「断言」していると言うのは、人の話をまるで理解できていない証拠です。
 
ちなみに私はと言えば、人には神のことは分からないと考えているので、「これは神でない」とも、「これは神である」とも断言するつもりはない。個人的な感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない。
 
「人には神のことは分からないと考えている」・・嘘です。仏様の心が分かるっぽいと書いていたのは楽山です。楽山は自分が神仏同等のように思い上がって、訂正不能になっているのです。信仰がないことだけを、正しいかのように思い込んで自慢しています。ここまで、見苦しくはなりたくないものです。
 
「感想を述べることはあっても、その判断を他人に押しつけようとは思わない」・・感想が、否定であれば、さらに、嘘と詭弁であれば、感想ではなく、悪口そして偽善です。楽山に、罪悪感が全然ないことが表れています。意見と悪口の区別もつかないほど、知能が低下しているようです。
 
 
*st氏と楽山との相違点(聖書)
個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。
 」
このS氏というブロガーが、批判するべきなのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で、神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。
 」
ここを読むと、st氏の考え方は、人が決めつけた理屈である教義教理は批判すべきものであるが、聖書については批判は許さぬということであるらしい。
 
違います。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、こんなに的を外してしまうのです。分からないのでしょうか。聖書を読めば、受け取るプロセスで、必ず、解釈しています。それが、教理に結びつきますが、絶対ではないということです。
 
楽山の、聖書とキリスト教に対する批判が、常識に非常識を、良心に悪意を、塗りたくるように、あまりに的を外し過ぎているので、批判対象となっています。ここまで、訂正不能の曲解は、妄想とでも言うべきもので、ゆえに、楽山は正常人ではないということです。楽山は、病識のない病人です。
 
私はどうかといえば、人が決めた理屈…教義教理には聖書も含まれると考えている。その理由は以下のページだ。
・下世話なQ&A「聖書の記述はウソ? ホント?」
 
聖書は、解釈されるのは当然のことです。しかし、楽山が言っているのは、聖書とキリスト教と信仰の否定を広めようという、嘘と詭弁教の宣伝であり、屁理屈で聖書を捏ねまわして、何の収穫もない徒労を繰り返しています。それは、楽山に正常な理路がないからなのです。
 
 
*st氏と楽山との相違点(自由)
とはいえ私は、他人の信仰や行動をコントロールしたいとは思わぬので、他人に向かって「聖書について自分と同じ見方をしないのはけしからん」とは考えない。上の見方に反対して、「聖書は神の霊感によるもので、人によるものではなく、一つも間違いはない。批判することは許されない」と信じたい人は信じればいいし、言いたい人は言えばいい。
 
楽山が、間違いに気づかず、誰も救えないボンヤリ言語を発して、キリスト教と信仰を揶揄してくることは、常に、批判対象となります。同じ見方でないどころではなく、あまりにも、理路も感性もお粗末なまま、いちゃもんを言うので、批判しています。
 
もし私が、神について正しい判断をくだせるなら、他人の信仰について、ああしろこうしろと口出しするかもしれないが、そうではないのだから自分は自分の判断をしつつも、他人には他人の判断があることを尊重しないわけにはいかないのである。
 
楽山は、キリスト教について、既に、さんざん悪口を言い、否定してきたのです。青っ洟を垂らして泣き止まない子供のように、楽山の判断は、すべて、炎症性の、だまし文句の詭弁に過ぎません。ひどすぎて、議論にも交流にもならず、疲労と徒労を与えるだけです。人に自分の病気を移さないでほしいです。
 
st氏は自分の意見を述べ、かつ他者もそれに従わなければ承知しないようだが、
 
違います。言っていることが、この記事もそうだが、理路も感性も成り立っていません。妄想的な思い込みで、被害的で、他罰的で、結論しかないのが、楽山です。楽山は、同情も共感もなく、他者を傷つけてゆきます。そして、罪悪感がなく後悔することもない変質者なのです。
 
私は自分の意見を述べはするが、他者の思想や行動までも指図する気はないのである。他者に向かって「信じろ」「信じるな」「意見を言え」「意見を言うな」などと求めるつもりはないのである。また他人からそんな命令をされたところで、自らの自由を放棄する気はないのである。
 
指図どころか、人格を、おとしめ、疲労させています。それは、楽山が、無反省で無責任だからです。言ってるだけだから・・は、言い訳にならないのです。公開しているわけですから、否定すれば否定した責任が、肯定すれば肯定した責任が生じます。その責任を、一切負わないから批判します。
 
キリスト教について、否定して、別の記事で、肯定めいた記事を書いて、両方言ったから、断定していないから、責任問題は生じない・・などということないのです。大人なら分かることです。言論の自由には、言論の責任が伴います。楽山は、この当たり前のことが、分からない人です。
 
前々から分かっていたことだけど、やっぱりこの辺りの考え方は、st氏と私とではまるきり違うようだ。
 
「まるきり違う」のは「ようだ」ではなく決定的ですが、根拠もなく、こちらの意見を踏まえす、繰り返し言い張ってくる自己愛と自己中は、反社会性だと思います。批判にも意見にもならない幼稚なことを言い、かつ、責任を負わない楽山との意見交換は成り立たないので、公開するべきではないのです。
 
 
*st氏と楽山との相違点(信仰)
上のツイートによると、st氏は信仰については批判すべきであるとしつつ、批判ではなく沈黙すべきであるとして矛盾したことを書いている。
 
批判するなら、批判として成り立つ文章を書くべきであり、責任も負うべきだということです。そういう当然のことが出来ていないから、書くなと言っています。やはり、人格崩壊による知能低下が進んだのか、楽山は、何を聞いても無駄で、何を書いても成り立たなくなっています。
 
これはどのような意図で書いているのかは判然としないが、信仰には、人によるものと、神の恵みによるものとがあるという見方があるので、前者については批判すべきだが、後者については批判はできないということは言えば言えるだろう。
 
ボンヤリ言語です。詳細をぼかして婉曲的に、否定しています。卑しいことです。人による信仰が、人が作ったものということなら、それは信仰ではありません。恵みを受けたことのない楽山は、人によるとか、神によるとか、書くことが、いかに無意味であるかも分からないのです。
 
ただ私はこれはあくまで理屈であって、実践はできなかろうと考えている。「この信仰は人によるものである」とする場合も、「この信仰は神の恵みによるものである」とする場合も、結局、どちらの判断も人が行うものである。人には神のことは分からないのだとすれば、「この信仰は神の恵みによるものである」という人の判断は必ずしも正しいとは言えないからである。
 
こういうふうに、ややこしく語るのは、楽山は、正しいと自慢したいようだが、言葉遊びに過ぎません。楽山の詭弁の理路には、付き合うだけ、無駄な疲労がたまります。信じるということが、まるで分っていません。百害あって一利なし、これが、楽山の言であり、楽山と付き合うことです。
 
信仰の成り立ちは、聖書を読むことから始まります。しかし、楽山が、神と言うときには、神を、恐ろしく幼稚な概念として、楽山が、既に、分かったことにして、訂正不能となっています。恐らく、楽山は、これからも、自分の思い込みにないことは、全く理解しないでしょう。
 
そして、楽山は、安っぽい理屈をこねて、人を悩ませ、苦しめ続けるでしょう。理解力も感受性もないのに、背伸びした楽山の自己愛がもたらす害は、相対する人に心の傷を負わせます。楽山を、決して相手にしてはいけません。幹が悪いのに、葉っぱがどうのというような屁理屈が、楽山の自慢です。
 
それだから人には「この信仰は人によるものだから批判すべきである」とも、「この信仰は神の恵みによるものだから批判すべきではなく、沈黙すべきである」とも、断言することはできないのだ。
 
「できないの」は、楽山です。神と人の区別なら、思い込み、訂正不能、先入観を排除するべきでしょう。しかし、楽山こそは、偏見に固定されて、自己中のために訂正不能になっている典型なのです。悪意は、批判にはなりません。救いの代わりに疲労を、平安の代わりに鬱を、もたらすのが楽山です。
 
せいぜい、どちらの信仰についても、「自分はこのように判断しています」と言えるくらいであって、それを他人に押し付けることは無責任な行為でしかないのだ。
 
私は、楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断します。症状として、身勝手で、自己中で、無反省で、無責任で、妄想的確信があり、訂正不能で、温もりと潤いの高等感情と共感のない、羞恥心のない、そして、罪悪感のないサイコパス(精神病質)だと判断しています。
 
st氏は自己の信仰についての判断を他人に押し付けることに何らの疑問も感じていないようであるが、私はこのような考え方なので絶対にそんな風にはなりたくないと考えている。
 
こちらを、押しつけだと決めつけるのは、傷つけ、疲れさせるのが目的でしょう。根拠のない結論だけのようです。これが、他者を害して、得意になるサイコパスの言です。一日も早くネットからいなくなってほしい存在ですが、信仰者としては、批判できるだけ批判して、神の裁きを待つことにします。
 
良心のある人は、信仰者でなくても、宗教と信仰については寛容です。楽山には、良心がないので、自説を錆びた刀のように何度も振り回して、顰蹙(ひんしゅく)を買うのでしょう。楽山は、宗教の代わりとなるものを何も語れません。楽山は、ホラーだけを表して、救いを邪魔する悪魔性です。
 
 
上を下への大迷惑

上を下への大迷惑
 
 
(2022年01月06日)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ることもできるが
迷うことも飢えることもある不自由
 
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる楽山は、人間であることをやめて、我欲から神の立場で決めつけて、ゆえに魅力の欠片もなく、人に迷惑をかけるだけで、誰のためにも存在せず、それで、嘘と詭弁で人を騙すことに快感を覚えて、自分が、どれだけ醜くなっているかも、知能が低下して、気づかないのです。
 
 
 
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  楽山の謙虚芝居
 
 内村鑑三とスピリチュアリズム(「死後の生命」内村鑑三著)
 2021年01月16日 楽山日記(LD)
 
 
白々しい楽山の芝居と、結局、いつものように、尊ぶようで、実は、おとしめる、という、キリスト教を侮辱して自らの優位に立ったつもりで満悦したい欲望が、表れています。不感不応の性懲りの無さだけが特徴です。こちらとしては、まともに相手しないことが大事になる繰り返しです。
 
*内村鑑三とスピリチュアリズム
岩波の「内村鑑三選集」をつまみ読みしていたら、『第八巻 生と死について』の「死後の生命」で、スピリチュアリズム方面に触れている箇所があったのでメモしておきたい。
 
つまみ読みを、メモした記事なのだそうです。そういう軽さが、楽山の趣味的扱いの宗教と信仰?なのです。そして、スピリチュアリズム、つまり、安易に、死後の世界に直結させています。宗教も信仰も、そういうものだという、邪悪な固定観念を隠さなくなっています。
 
といっても、スピリチュアリズムについてそれほど深く語っているわけではなくて、死後生命はあるとする内村鑑三自身の主張を補強するために、近代的、科学的な方法によって死後の生命の存在を証明しようとした人々もいたとして、フレデリック・マイヤーとその言葉を紹介したり、、W・L・ウォールカーの『霊と受肉』、ウィリアム・オスラーの『科学と死後生命』、ウィリアム・ゼームスの『人間永生論』にある一文を抜き書きしているという程度ではあるが…。
 
そして、早速、死後の生命の話になっています。宗教と信仰は、そういうもの、それが宗教という考えで、一方、いちばん大事な、生きるということを、楽山は、考えようともしないために、ボロクソの精神を露呈することになっています。楽山が関わると、死後の話は、死語の話になってしまいます。
 
スピリチュアリズムはキリスト教および教会に対して批判的なところがあるので、キリスト者が自説を補強するためにスピリチュアリズム側の人物の言説を用いるというのは少々意外な感じがしないでもないが、内村鑑三は外国の宣教師には複雑な思いをもっていたり、教会と意見の相違はあったようなので、スピリチュアリズムとはある程度の共通点があり、そこまでの悪感情は無かったということなのかもしれぬ。少なくともこの文書を書いた時点では。
でも両者の関係については、自分はまだ何も知らないのと同じなので、少しずつでも調べてみたいとは思う。
 
内村鑑三を、そして、キリスト教を、スピリチュアリズムと関係づけています。何が本質かを、全く知らない者は、こういう決めつけ方をして、宗教と信仰を、奇跡と超常の不思議話じゃろとばかり、卑しめてくるのです。
 
*信仰者
ちなみに内村鑑三は、この文章の中で、次のような理由で死後の生命を信じるとしている。
死後生存について、「其存在を否定せんとする反対論あるに拘らず遂に抛棄する能はずして古来人類の多数が来世を信じ之を熱望し来りし事実は何を示す乎、その人類の輿論又は根本的思想なりとの事実其者が来世存在に関する強力なる証明の一である」
 
人間は、神の存在も不在も証明できないように、人間は、超常を、来世を、証明することは出来ません。いつ見ても、楽山の興味と都合に合わせた同じ傾向の文章の一部だけを引用してきます。内村鑑三については、無教会派のことのほうが、よっぽど重要でしょう。
 
「現世は人の限なき知識慾を充たさんが為には余りに短小である、来世の存在を認めずしては人生の円満なる解釈をくだすことは出来ないのである」
 
こういう死後・来世の話は、推測・試論・説としては、可であります。しかし、楽山の手に渡ると、恐ろしいことに、こんなことを真理だと思っているのがキリスト教なんですよぉー・・という印象操作にされてしまいます。あくどい作為の持っていき方が、ずっと変わらない楽山の因業です。
 
「十年二十年の努力を経て育成したる子女ほど母に取て貴きものはない、然るに之をしも棄てゝ顧みざるが如きは何の愛である乎、若し天然と人類との凡ての努力が破壊に終らん為であると言ふならば人生は絶望である、神は決して愛ではない、我等は来世の存在に由てのみ人生を此の大なる不合理より救ふ事が出来るのである、神は愛である、故に来世は必ず有る」
 
このように、内村鑑三は、愛について、喪失について、つまり、人間の切実な話について、悲しみについて、書いているのに、楽山は、そういうことを、自分の言葉で書けないのです。
 
「汝の自己中心的生涯を棄てよ、而して幾分なりともキリストに倣ふ生涯を送れよ、然らば明日より必ず来世を確認するに至るであろう」
「死後の生命は信仰を以てする冒険である」
当たり前の話ではあるが、こういう言葉を読むと、内村鑑三は根っからの信仰者なんだなと改めて思う。
 
このように、内村鑑三にとって、来世の話は、地上の必然である愛と悲しみの話であり、人の道を説くために心を砕いた話なのです。楽山は「信仰者なんだな」としか書けません。言葉というものの表層的辻褄に生きていて、心が無いからです。
 
*余談
同書に収録されている「不死の生命に就いて」の冒頭には次の文章が見える。
若し不死の生命が有るとすれば、それは有るが故に有るのであつて、有つて欲しいが故に有るのでない。
「不死の生命に就いて」内村鑑三著
 」
 
ここを、不死の生命は、有るから有るんだという確信の強さと受け取っているようです。しかし、内村鑑三は「有るとすれば」と条件法で書いているのです。
 
同じく同書に収録されている「死後生命の有無」にはこうある。
死後の生命は人の固有性にあらず、信仰の報償として彼に与えらるうものである。
「死後生命の有無」内村鑑三著
 」
これらをまとめると内村鑑三は、死後生命について、「死後の生命」(大正8年)では人類は古来より強く求め信じるが故に有るとし、「不死の生命に就いて」(大正13年)では人の願望や信仰に関係なく客観的に存するとし、「死後生命の有無」(昭和4年)では信じるから与えられるとしており、なんだかその時々で微妙に話がちがっているようだ。
 
ここでの楽山の言い分が、いちゃもんであることは明らかです。内村鑑三には、地上で知りえない死後という前提があり、楽山には、何でも知っていないと気が済まないという前提があって、後者の前提で前者の前提の話を読むと、このような、話が違うというクレームにしかならないのです。
 
楽山の幼稚な二進法・二者択一への短絡です。0か1、有か無、という短絡二元のみで、その場で確定的に不死も死後も語ろうとし、それによって、キリスト教はそういうものと思い込んできたのでしょう。それで、物知り顔の評論家気取りで書いてくるから、これ以上の迷惑はないのです。
 
さらに、他者の話を「微妙に話がちがっている」と言って、著者についてクレームを書き、なのに、自分の意見は書かず、その場で、結論を出したつもりになる楽山です。
 
超常の話は、あくまで、推測か想像であり、せいぜい仮説であり、ゆえに、確定ではなく、改めてもよいので、自由に話してよいものとなっています、そこに信仰の中心があるわけではないからです。
 
それを、楽山が、中心においてしまうのは、病的ナルシストの特徴でしょう。それで、キリスト教を揶揄したり、おとしめたりの、知ったかぶりをする楽山の、無理解前提の世界など、人間にとって、何の役にも立ちません。その場で、真理をつかんだことにしないと気が済まない楽山の、強欲の因業でしかないからです。
 
人の考えは変わるものであり、矛盾を抱えているものであろうから、その意見が変わったり矛盾があったとしても、それは当たり前のことであって取り立てて非難すべきことではなかろうが、内村鑑三であってもこうだというのは少々驚かないではいられない。
 
「非難すべきことではなかろうが」と言いながら、「少々驚かないではいられない」という丁寧語の非難めいたことを書くのは、一挙に真理を知ったことにしたい楽山の強迫観念からであり、不満なときの、楽山の嫌らしいマイナスへの誘導の筆致であります。そうして、結局、少々ではなく、内村鑑三を侮辱しているのです。
 
ドラマの悪役の上司が言いそうな、婉曲的な言い方を、下司にもなれない楽山が言っています。楽山は、責任逃れのために、こういう作文の醜い書き方だけを積んできたということでしょう。
 
でも現実はこの通りであって、偉人賢人であろうが何だろうが、人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはないんだろうな。自分は、誰かを尊敬してしまうと、すぐに心酔しきってしまい、この人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖があるのでよくよく注意したいと思う。
 
「人である限りは、その言葉が百パーセント確実に正しいということはない」・・今ごろ分かったのかと言いたいほど、当たり前のことですが、前にも見かけ謙虚なことを書きながら、楽山自身は、全く、その自覚がないことだけが表れてきたのです。
 
楽山に限って「人の言葉も行動も何でも正しいと思い込んでしまう悪癖」の自覚はありません。何故なら、自己愛・自己中の楽山は、自分以外、誰も信用してなどいないからです。そういう自己満悦の訂正不能の言を、ずっと繰り返してきたのです。今になって、嘘の弁明が通用すると思っていることに、あきれるばかりです。
 
温もりと潤いのない、即ち、思いやりといった悲しみに共感する高等感情が育っていない人格が、作文をすると、知性も理路も、無反省で無責任になり、感じることのできない部分を、辻褄合わせだけの、実感のない、言葉面の形骸を、もっともらしく並べて、ごまかすようになるという筆致が、否応なしに表れてきます。本人だけが気づかないのです。
 
楽山が書けば書くほど、それを読めば読むほど、あきれて、相手にしたくはないのですが、キリスト教を、オモチャにしていることは看過できないので、批判を続けています。どうか、関わらないでください、近づかないでください。
 
 
誘導

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(2021年01月17日)
 
 
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