神について語るには3
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが
神という御方を考えるとき
全知全能の神については
私たちの概念の箱には到底納まらない
ということを先ず言いたいのです。
 
神と聖書について人間が持つべき箱は
修正可能な分かった "つもり" の箱と
分からない保留の箱だけです。
 
したがって
「神」を概念や観念として
言葉で考えることは
無理すれば
人が全能者を扱うことになり
教条主義という罠に堕ちるでありましょう。
 
 最悪の例を、一人は10年、もう一人は2年、批判しています。
 
全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ
全能ではない人が
神の概念を語ることは困難であり
語るにあたって
少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのか
ということになりますが、
恐れを持つということは
語るなということではなく、
語る内容を言葉で決めつけてはいけない
ということです。
 
どういう姿勢で
神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく
導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど
神が人に及ぼした作用の
人における経過と結果から
推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、
導きを受けた人のことを語ってもよいし
そういう人の様子や経緯から
推測できることを語ってもいいでしょう。
 
神そのものは
人によって捉えられるものではありませんが
神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については
人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから
人が聖三位について語るとき
最も多く語れる対象はキリストであります。
人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については
なお人間の理解の届かないところにあります。
キリストについて
物や肉体の奇跡を追いかけて
魔法使いの言行みたいに語ってはいけないと思います。
そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと
キリストが救った人々との交流から
救いとは何か
 
キリストが批判した人々との遣り取りから
救われないとは何か
 
こららのことを学ぶことは
決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで
自分に、そして人間関係に、
さらに思考や感情に、
そして人生に
どのような変化があったのかを
語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの
信仰がどうあるべきか
信仰者がどう生きるべきか
などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として
心が揺さぶられることは
キリストからの愛に
そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて
総じて
導きは祈りに帰してゆきます。
祈りは
その日までの経過であり
その日からの出発点なのです。
 
 
(2019年04月アップ)
(2020年04月18日、一部修正)
(2021年04月23日、再録+)
 
 
神様のことは
ちょいと徳の高いお爺さんがいるから
話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから
会えば分かるわけでもないのだから
会って直接話を聞ける相手でもないのだから
おとぎ話に出てくる仙人みたいな人でもないのだから
 
少なくとも信仰者は
善の代名詞みたいに
気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように
自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして
形容だけ大袈裟にして
大真面目を装って嘘を吐く輩が
キリスト教内外にいますから
彼らのように気負って
神の意志と行為を決めつけてよいものでもありません。
 
神聖について
人が持つべきなのは
確信ではなく
恐れであります。
 
人に起こることというのは
聖書からだとしても
よく語られる超常話が人を救うのではなく
つまり物や肉体の奇跡ではなく
 
人間であれば理解できるような
人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか
人間に理解できることが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが
聖書にはたくさんあります。
そこに価値を見出した人は
理解できないことや疑問や矛盾は
人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は
自らの経験と思考の届きうるもの
すなわち、人間であれば
理解できること、共感できること
それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは
こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ
・・すごぉい!・・と
奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく
 
信仰の学びとは
主イエス・キリストが思いを共にして下さる
という孤独からの解放を
人間らしい心の深みにおいて聖書から学び、
また、生きているあいだ考えて
伝えてゆくことなのです。
 
 
同伴と共感

同伴と共感
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの主への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知り得ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
(2020年04月21日)
(2021年04月23日、加筆して再録)
 
 
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