ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:信仰

 
  返信(3)超常と人間
 
 
コメントありがとうございます。
 
さて、聖霊について、改めて自分で考えてみることにしました。
至ったのは、聖霊とはキリストが、神が心の内に住まわれた状態であり、その心に従うことなのではないかと。端的には、キリストへの愛ではないかということです。[1ヨハ2:20-]
信仰があれば、聖霊が降りる。キリストが約束されたこと。
 
聖霊については
1.神が心に住んだということが人間に分かるかどうか。
2.その心に従うことが出来ているかどうかが人間に分かるかどうか。
3.信仰があれば聖霊が降りるが、降りましたと実感として経験しているかどうか。
という問題になるでしょう。
 
教派によっては、信徒は、聖霊様と呼び、昨夜も聖霊様とお話ししました、などという発言もあるかに聞いています。この問題には、人が、自己暗示して、そういう気になり、それに聖霊の名を与えてしまうという問題があります。念じればその気になる、という心理的思い込みから、求めれば聖霊と話が出来る、ということになりはしないかと危惧しています。心の中の一種の偶像ではないかと。
 
自分で思い込んだ心の中の偶像との区別がつくのだろうか、区別がつくのなら、その人は、聖なるものを見分ける聖なる分別の能力があることになり、それは、人間が聖人レベルになったということを意味していて、それだと、信仰は超常現象ということになります。本当なのかという疑いは、私がずっといだいている疑問です。超常が手に負えるのは、超常の神聖なる御方だけですから。
 
神聖が与えるから分かるようになるといっても、心の中に生じたものを、人間が、どう区別できるのだろう、信仰があれば分かりますと言われそうですが、私の信仰は、超常に生きるためではなく、この世界の日常を生きるためだと思っているので、実感として、自分が、超常の存在の意志と行為を確認できるとも、できるようになるとも、思えまないのです。
 
私たちは、正直な祈りの生活において、知らず知らずのうちに、神によって、恵まれ、運ばれてゆくのだろうから、いつも、神の民として相応しく、神聖に対しては仰ぐ姿勢しか持っていない人間として生きていないといけないと思っています。
 
聖書を読んで、キリストが、どういう人を救い、どういう人と対立したか、ということを学びました。その学習は、キリストの洞察力と共感力つまり愛であり、一生涯、忘れてはいけないし、忘れないだろうと思います。キリストについては、大事なことを学習できるわけです。
 
聖霊はいないとまでは言いませんが、人間が、それだと確認できる御方ではなく、祈りにおけるキリストと神の臨在以上の認識は、私は持っていません。聖霊は、キリストの臨在がなくなることはないという意味ではないだろうか、あるいは、神の御心に沿うような心の働き以上ではないような気がします。
 
キリストの愛に答えて、聖三位に対しては、愛することが大切ですが、それが、完全には出来ないのが人間です。神聖を愛する以上に、聖なる自分になりたがる傾向を戒めて、神聖を恐れる必要があると思います。ゆえに、神聖のなさることを、自分に結びつけて、聖霊が云々と言うようになってはいけないと思います。
 
聖書というのは、超常現象がたくさん書かれているわけですから、聖書に書いてあるから、あるんだという理解の仕方では、信仰は超常に付き合うことになってしまいます。先ほど描いた、キリストによって、誰が救われ、誰が敵となったか、ということを考えれば、そこから、神聖に対しては、恐れをもって、へりくだって、祈ることしか出来ないと思っています。
 
キリストの臨在や神の導きと区別出来ないというのはごもっともと小生も思います。神と直接的交信が旧約、新約でキリストを介した神との交信を経て、今は私たちの直中、神殿である体に宿るのが聖霊と捉えます。
 
そこで、聖書のどこが事実であったかという話になるでしょう。それよりも、事実であった、説教のための神話つまり作り話だった、どちらも決めつけてはいけないのです。聖霊を人の理解で捉えてはいけないと思います。聖霊が、私たちの気づかないうちに、私たちを捉えるのです。神聖なる聖三位は、いずれも、そのような御方として、私は恐れています。
 
聖霊が信仰を強め、聖霊が掟を守らせると言われます。従いたいと思う気持ちは、聖霊の働きであると。キリストが心の内に住まうこと(聖霊)で、信仰が強められ自らの意思がキリストに添うように働くこと。そこにキリストへの愛があれば自ずと果たされるということではないでしょうか。
 
ならば、捉えられておればよいのであって、あたかも身近にいる御方のように、あるいは、概念として理解しようとしたり、机上に置いても、言動においても、捉える必要も能力も、人にはないと思っています。
 
掟を守る事がすべてとなるような偽りの信仰は、なんとなく現代の偏った独りよがりの愛を彷彿させるのです。説かれただけで分かることのほうが少ない。私たち人間は、知らないものは想像もできない。体験したことのない愛を体現することなど毛頭できない。できると思うなら、それは知っているつもりの愛でしかない。知らない愛の在り方を教えてくれるのが聖霊で、それには、信仰それ自体が地についていなければどうにもなりません。自分の醜さを認めることのできない醜さこそが、信仰を邪魔しているように思います。
 
信仰それ自体が地につくためには・・というテーマになります。それは、聖霊をはじめ、聖三位の存在を、どう受け止めるかによるので、堂々巡りみたいな問いになりますが、大事なことは、人間として受け取れることだけを、受け取って考えるのが、信仰者の信仰のあり方だと思います。
 
知らない愛のあり方を教えてくれる聖霊という考えは聖書的であり教理的でもありますが、人間の不完全さを思えば、むしろ、知らない愛のあり方を知るようになるところに、神の支配も、キリストの臨在も、聖霊の導きも、人に知らせず、働いている、あとになって、そうだったのかな・・くらいの感慨にとどめておかないと、やがて、聖霊の行為を断定し期待し始めるようになる危惧を感じます。
 
神の御心が、祈れば分かるとばかりに、自分で考え判断することを放棄しどこからともなく聞こえる声を待ち望む。これは人間でありながら人間性を忘却する・葬り去ることだとは気づきもせずに。見た夢は神の啓示だと思い込む。啓示がないのは、行いが至らない(戒律を守れていない)からだと、自分の信仰の在り方をそっちのけで傾倒していく。
 
自分と自分の今までの生き様を思えば、聖霊を受けて、何か正しくなり、高潔になり、神の御心に従っているとは、直感として、とても言えない、ということは分かるはずなのです。
 
一般的にも視野狭窄し、教理の概念だけに集中したり、人間として考える努力を怠り、神聖へ、超常へ、と向かう傾向は、稀ではないようです。信仰は、人が人として生きるためにあります。人が人間以上になるためではない、ということを肝に銘じたいと思います。
 
>戸田様の執筆ペースを乱しているのではないかと
 
執筆というほどのものではないですし、考える機会を与えられて感謝です。拝。
 
 
超常と人間

超常と人間
 
 
(2021年04月08日)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
OR、HSは、日本の領土、経済、国民の生命財産などは守るといっても、日本の文化伝統は軽視してます。
日本の領土、経済、国民の生命財産は守っても、文化伝統が失われたら、それは日本を失うことであり、日本を守ることにはなりません。
OR、HSには、この点に注意してほしいです。
午後8:26 · 2021年4月7日·Twitter Web App
 
防衛問題、日本の文化伝統の軽視、というような国の重大問題を語るのに、楽山は、「日本を失うこと」とまで言いながら、結びには、あっさり「注意してほしいです」とだけ書いています。お店か何かで、気をつけてくださいね・・と同じ程度の、クレームか小言を言うような書き方です。注意してほしいと言えば、良くなる問題でしょうか。責任を負わないで、逃げ口上ばかり書いてきたツケが回ってきているような気がします。
 
理路のテーマの重大性の認識を表すのに、表現の強さと重みがバランスを欠いています。結局、楽山は、危惧というものを、真剣に考えていないのだろうと思います。あるいは、日本語の語彙とセンスが、不自然な気もします。楽山は、日本人なのでしょうか。
 
 
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  逆説2
 
 
ある事柄について神の御心を思います。
悪のほうに従ってはいけないと思えば
善のほうを選ぶはずです。
しかしそれは完璧でしょうか。
 
先ず、人に、善悪の判断が、
神と同様に正しく出来るでしょうか。
否であります。
 
既に完璧な正しさについては不可であると
何度も書いてきました。
 
人の語る正しくて人生肯定的なことが
神の御心とは限らないということです。
 
かといって否定したら正しい
というわけでもないのは明らかです。
 
では、少なくとも成長するために
どう学習すればよいでしょう。
 
世の中には逆説というものがあります。
多くの格言が
そして何より聖書の言葉が
逆説に溢れています。
 
否定には闇の部分が含まれ
闇の部分を知る者は
闇によって、
その逆である光を知るのでしょう。
 
さらに人の言葉は
飼いならされたかのように月並みになり
人を裏切ることがあります。
 
逆もまた真なりとも言いますが
人の言葉では
逆のほうが真と思えることもあるということです。
 
逆説は、必然の光なのです。
 
罪を犯さない人が救われるのではなく
罪人だからこそ救われるとは
 
罪を犯すから救われるということではなく
罪を犯す人間という自覚があるから救われる
という説明が可能な逆説なのです。
 
人はみな罪人であるのに
信仰によって罪はなくなると言う者は
信仰を理解してはいない。
 
詳しくは知らないが
仏教に似たような教えがあるのを
知っている人は少なくないでしょう。
 
善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや
(歎異抄 by 親鸞)
 
他力を頼むことで往生を遂げる教えだと書いてありました。
https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111279.html
 
キリスト者において他力とは
神の赦しと導きと救い、すなわち、神の力に他なりません。
 
それほど、人の頼りなさを知っている人の言葉なのでしょう。
 
キリストも、また、いかに人が頼りないか、いかに罪深いか、
いかに闇が多くを支配しているか、ということを知っている御方であったと
聖書を読めば分かるはずです。
 
親鸞については
高校のとき通っていた教会の牧師さんが
親鸞の言うことはキリスト教に似ていると言いました。
不思議なことだと思って
大学の時に「歎異抄」(たんにしょう)の小さい文庫本を読みました。
問答の部分は、私の性分でしょうか、私には分かりにくいものでしたが
他力という言葉が心に残りました。
私自身が、自力について、絶望に近かったからです。
 
多くの私の記事にも表れている通り
キリストについて書くのと違って
私が自分発信で書く私個人のことは
失望、落胆、絶望、自虐に溢れているのです。
それは、今も、多くそのままであり、
それゆえに、赦しと癒しと救いを必要としています。
 
罪を犯したり災難に出会うのはつらいことですし、
加害であっても被害であっても、
信仰が育つから良いことだなどと言いたいわけではありません。
 
ただ、そういう機会には、誰もが出くわす可能性があり、
そういうときに、"過剰に" 被害的・他罰的にならないために、
また、そういう体験が尾を引いて後の人生を損なうことのないように、
信仰は、世の中や個人の思惑に左右されるよりも、
より大きな心によってコントロールされる生き方がある
という福音でもあるのでしょう。
 
嘘と詭弁で人を操ろうとするカルトの主張に惑わされることなく、リップサービスや、豪語や、飾り言葉や、電飾や、お祭り騒ぎに呑みこまれることなく、この地上の闇に目を向けることを忘れないことが、光を求めるために必要だと思っています。闇を知ることで、人は、光を知るからです。
 
 
私は、キリスト信仰のことを書いてきましたし、これからも、生きて書けるあいだ、キリスト信仰について書いてゆくつもりです。
 
キリスト教内外のカルトは、大きいこと、めでたいこと、救われること、恵まれること、ありがたいこと、安心することばかりを、これからも語って、人を惑わしてくるでしょう。
 
彼らは、戒める神と懲らしめる神を無視しています。にもかかわらず、恣意的に聖句を引用しては、大仰に、神を讃えます。讃美すれば熱心な信仰だと、高をくくる連中をキリスト者として認めないために、私は、ずっと批判を書いています。
 
彼らカルトは、罪を認めたくないがために、神を誉めておけばよいと思っているのです。それも、人を欺(あざむ)くためであり、本気で讃美する信仰など欠片(かけら)もないのです。そのような、讃美が偽りであり、罪を認めない者たちに、神が、信仰の義を与えることはなく、不法の者として処することは明らかであります。
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば
山上の垂訓から
神の前に
身の程が情ないものだと気づいて
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
 
  神とキリスト
 
この世から見れば神の正しさは
分からないのが正常です
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
 
これらを感じないで
神を讃えるのは信仰ではありません
 
神は全能だから
人の正直な気持ちを既にご存知です
 
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
 
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから人間としては
共感の救い主キリスト以外の
神を知らない
 
 
(ずっと昔+)
 
 
逆説

逆説
 
 
(2020年04月01日、同日一部修正)
(2021年04月07日、再録+)
 
 
 楽山に筆致が似ている人ですが
 
raku
@rakusyo34
·2時間
ひとの人生にどうのこうの言える資格はないと思った。
その人にはその人の景色しか見えないと思ったから。
木しか見えていない人に、森全体が見えている人が、あなたおかしいよと言っても伝わらないことと一緒。
午前0:57 · 2021年4月4日·Twitter for iPhone
 
楽山は、人の人生に大きな影響を与えることのある宗教について、特にキリスト教について、否定して、どうのこうの言ってきました。楽山には、楽山の欲望しか見えていないと思います。
 
我欲しか見えていない人に向かって、おかしいということは、誰も、おかしな人に、これ以上近づいてほしくないことを、できるだけ多くの一般の人々に伝えるためです。
 
森全体が見えている自覚で物を言っているのは、楽山ですが、それは妄想で、実際には、森全体が見えている人などいないと思います。
 
皆、限られた視野しか見えていないから、情報交換も、他者の見識も、必要になります。そこに、しゃしゃり出てきて、整わない余計なことを言って、疲れさせたり、混乱させたりしているのが楽山です。
 
楽山は、倒錯した邪悪な思惑によって、真実の追求のための言論や交流を邪魔して、幼稚に偏ったことばかり言い、真剣味もなく、「(笑)」や「ハハハ」などのように、勝ったつもりで、ほくそ笑みと、あざ笑いと、高笑いを向けてくるのです。いつ見ても、現実離れした言い分が、とても醜いです。
 
 
(2021年04月07日)
 
 
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  返信(2)
 
 
先日コメントをさせていただいた者です。
返信をどうもありがとうございます。
今回も非公開コメントとして送信いたします。
人を信じすぎる、と言われてしまったからでしょうか。不確実性の中で、無自覚な共依存が増大し、自分の判断、考えというもの、それこそ自信(自分の責任)が保てない乱暴な社会になってしまっているように小生も含めて感じています。
 
様々な共依存が支配しているように思います。縛りと気安さがあると思います。そこで、同じことを言い、讃美し合い、団塊となるのが、安心なのでしょうか。そこから離れると、言い知れぬ不安・孤立感・孤独に襲われるのかもしれません。
 
できることは、極めて限られているけれど、この地上で、精神において個として自立するために、神聖の存在を信じているのに、そこでも集団への従属が強いられているところがあるのでしょう。
 
私は、一人の信仰者として信仰を持つ者を思う気持ち(愛)を示されている戸田様の言葉を贈り物として受け取っただけです。神の御前で人間である自らの正しさを疑う姿勢、謙虚で敬虔な姿勢について共感を抱きました。
 
「自らの正しさ」が否定されて、疑いに満ちた行き場のない状況で、キリストの共感と、神の寛容が、救いになっていると思います。
 
信仰こそが人を救う、それが最も尊重されることならば、その神髄を聖書全体が通して語っているはずで、それに気づかせていただいたように思います。私はメシアニックという立ち位置から聖書について学んでいましたが(互いが互いを補足しあうという事から旧約も新約も通しで。無意味なものを神はこの世に残されはしないとも思い…)、基本的には聖書が説くのは宗教ではなく、神と私(人間)の関係であると思っております。響くことしか受け取らない、というのは本来の形かもしれません。それこそ聖霊の成すことなのかもと思います。
 
私は、聖三位のうち、聖霊という存在が、いまいち、分かりにくく、キリストの臨在、神の導き、ということと区別できずにいます。いずれも目に見えない御方ですが、神については旧約に、キリストについては新約に、その言動が記されているので、どういう御方か、少なくとも想うことが出来ます。嘘を嫌う御方だろう、そして、愛と共感に満ちていて、不完全な被造物である人を救う意志のある御方だろう、そして、とても、寛容な御方なのだろうと思っています。
 
聖霊については、ヒントさえも書かれていないような気がして、霊+聖で、聖霊と言われても、概念上の言葉のようで、ピンときません。
 
今、信仰に情熱を持ち、自分が正しいと信じ、隣人愛を前面に押し出した多くの宣教者を目にします。(聖職者ではないです)「隣人愛から私は●●をしている、自分は謙虚、神の言葉を代弁している。」と言い、ただ…何かが違います。キリストもパウロもこんなことを口にせねばならなかったことはないのです。
 
この宣教者の発言は、自慢ですし、「神の言葉を代弁している」と言った時点で、自らの罪性を無視して、絶対性と無謬性を唱えているので、私に言わせれば、人の立場を弁えない背教に思えます。
 
正しさの根拠は、歴史であり、書物であり、科学であり…人が作ったものです。そのどれが正しいと判断するのも人間で、まるで謎解きが出来たことを知らしめているだけのような怖さを感じます。心情が異なると根拠が異なり、順じて説くことが異なってしまうのです。聖書は万人のためのもの、なのにです。
 
謎解きが出来て何でも分かっているつもりになっているところが、既に、おかしいわけです。こういう発言を見るたびに、人間の、罪性、不完全、非絶対性、ということを再認識します。信仰者であろうと、聖職者であろうと、同じですから。
 
「キリストにおいて生まれ変わったら人間の罪の性質はなくなるのだから、信じたらそれはもうない」と豪語する人たちは自分の偽りに気づけていないように思うのです。そうであるために、たくさんの戒律を守るのです。個人的には、戒律を守ることで本当に嘘偽りなく罪を遠ざけられ、またそこに確信(不完全である自覚)が伴うのならすべきだと思いました。キリストは『法律や預言を廃止するために来たのではない』と仰いました。
 
律法を成就するために来たという聖句があったと思います。パリサイ人は、律法を、戒律として守ればよいという主義によって、人間の深い心情を損なっていたからだろうと思っています。キリストの言葉は、律法のための人、ではなく、人のための律法、という意味の成就だろうと思っています。
 
私たちが本当に生まれ変われるとしたら、それは肉であるこの体がなくなるときではないのでしょうか。
 
よく分からないのですが、生きているあいだ肉は付いていますから、死ぬ時という意味でしょうか。死後のことは人には分からないので、神に任せるしかないと思っています。
 
だとすれば、そういう超常のことより、もっと、地上で、倒れそうな時に、死んでしまったような気持ちから、生きてゆこうと思い直すという人間の人生の再出発のことを人の復活として考えたいです。
 
こうしてお話をさせていただきながら思うことは、『わたしの軛は軽い』『自分の十字架を背負って』というのも、多分『授けられた信仰の度合いによって』と同様に、各人が信仰を何と心得るのかで軛も十字架も異なり、それは自由意思の範疇にあるのかもしれません。伝わり辛い思考・表現かもしれません。
 
『わたしの軛は軽い』・・キリストが、人々の罪を背負って十字架につくゆえに。キリストが与える荷は軽い、キリスト者への縛りは自由意志を妨げるものではない、というくらいの意味に受け取っています。おかげで、今、自由に考え、書いています。
『自分の十字架を背負って』・・十字架は、罪のしるし、しかし、罪なきキリストが負うたゆえに、逆説的に、信仰による解放のしるしとなっていることでしょうか。
『授けられた信仰の度合いによって』・・信仰者それぞれに、役割・使命は違うということでしょうか。生きて証しを立てるか、死んで証しを立てるかを含めて。
 
私は、聖書にはすべての答えがある、そう思って勉強していました。今も、まだそう思っています。何が何のために、そしてなぜ創造されたのか(自分も含めてです)。何がどうして善とされ悪なのか。どこからきて、何を全うしどこへ行くのか。神は分別を教えてくださると思っています。しかしそれを行うのは自分で、神は自由意思を最大限尊重されるお方です。でもだから、人間の私はいつも不完全です。
 
聖書と信仰生活上の体験とでしょうけれど、私は、何らかの楽しみをもって、祈りの暮らしを送れたらいいと思っています。
 
私たちが生涯理解することのない皆無・零から万物を創造された方の偉大さを、それを想像することですら成しえない無力さを、信仰の理由にしています。なくても生きていける人がたくさんいるのに、弱い私は考えずにいることなんてできない。これからもです。
 
キリスト者として共感いたします。拝。
 
>※記事についている写真と一言、個人的には楽しんでいます。
 
手持ちの画像が少ないので、色を変えたり、文字を入れたり、
・・似たような画像が多いと思います。失礼。
 
 
これも、記事にしたいと思います。
 
信仰は、人間としての、思慮においては分別、情においては共感であります。
 
 
共感3

共感
 
 
(2021年04月06日)
 
 
※ 上の記事とは別儀であります。
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
初期のHS本では
批判は、自分の至らぬところを教えてくれ、さらには自分の名を広めてくれる有り難いものだとか
自分は間違ってなくとも、相手が怒っているなら、自分の何かが相手を不快にさせたのだろうから、そこは謝るべきとしてたと思う。
この点、荒井氏はHSよりも心の教えに忠実ですね。
午前6:45 · 2021年4月5日·Twitter Web App
 
楽山は、至らぬところを指摘しても、返してくるのは、いちゃもんだけで、不感不応の無視であります。楽山は、自分の名を広めるためだけに書いてくるとしか思えません。書かないと自尊が保たれないので、衝動的か、反射的に、性分だから書くのかもしれません。
 
楽山は、アンチHSではありません。楽山という自己愛性人格障害者は、幸福の自分教の奴隷であり、言ったことの責任を負う気などありませんから気をつけてください。宗教の教えとか忠実ということから、最も遠い人です。楽山の言うことを真に受けないでください。
 
楽山の詭弁は、丁寧語に隠れて、直ぐには気づかない人が多いかもしれません。私も、数か月、楽山の嘘と詭弁に、だまされ、すかされ、ごまかされ、はぐらかされ、疲労しました。
 
よって、その場で短いことを書く感じのツイッターベースではなく、おもに、じっくり考えて書けるブログ記事ベースで批判を続けています。ツイッターにもコピーはしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4月4日
信者は減ってない、増えていると主張するとは、
大きく出ましたな。ははっ。絵文字(笑った顔)
 
楽山は、真実を分かち合うという姿勢がなく、ただ「ははっ」と笑うことで満足するようです。人が、いさかうのを、楽しんでいるようです。人が、自分に負けるのを、悦びとしているようです。誠意の欠片もないと思ったほうがよいです。
 
 
(2021年04月06日)
 
 
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 コメントへ返信 (一部修正してます)
 
 
コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
 
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
 
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
 
私も、確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかということを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
 
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
 
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
 
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
 
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。信仰について共感や感動に結びつくのは、聖書の言葉+人の言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
 
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
 
 
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。半世紀も経ってしまいました。
 
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、その後の福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
 
聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
 
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
 
2021-04-04-22:41
トダサトシ URL [ 返信 ]
 
 
信仰は心を大切にするところに生まれます

信仰は心を大切にするところに生まれます
 
 
(2021年04月05日)
 
 
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地上に生きる人の信仰が、完全になることはありません。
それを確かめる完全な能力が人にはないからです。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は罪人です。
 
 
 信仰の義
 
神という存在を、いかように見て信じるかという問題です。
 
机上の概念として扱えると見るのか。否であります。
人格者の典型のような御方と見るか。否であります。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変という属性は
人知によって把握することは出来ません。
 
人を見て
その肉体と言動の総てを見ている存在
その心の中も総てを見抜いている存在
と考えると
誰にとっても恐ろしい御方。
 
その御方は
ご自身に向かって人が祈るのを悦ばれるが
祈りの嘘をもすべて見抜かれる御方。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
この話は、単に、敬虔を勧めるとか、清貧を勧める、とかいう話ではありません。
キリストは、信仰の本質と救われる条件を語っておられます。
 
パリサイ人は、信仰の行為を他者と比べて、自分のほうが上だと誇って、神に感謝しました。
神に感謝したのに、神は、義とされませんでした。
 
取税人は、嘆き、へりくだり、正直であったことだけで、神は義とされた。
 
信仰に必要なものは、神の前に、へりくだり、正直であることだけだということです。
 
信仰者に求められる信仰とは、
神よりも、はるかに劣っていて罪深い自分を、正直に告白すること、
それだけで、神は信仰者に信仰の義を与えると、キリストは言っておられます。
罪を侵したら、間違いに気づいたら、その都度、また正直に祈ることで、信仰は守られます。
 
一方、神の前に、他者より優っていると確信する者、嘘を吐く者、自慢して誇る者を、神は退けます。
 
また、他者に嘘を吐き、他者を、だまし、誘導して、操ろうとする者、それは、即ち、神に対しても、嘘を吐くことであり、嘘によって自らを飾るのだから、神に受け入れられることはありません。
 
それは、人に対して、さらには、神に対して、不誠実であり、偽ることであり、いかなる美辞麗句や、もっともらしい言葉を用いても、そのような者は、神の全能によって見抜かれて、救いを自ら拒む者として、自らの行為の報いを、自ら受けることになるのです。
 
正直な祈りを強調するのは、それが、人が、神のために出来る唯一のことだからです。人は、神の前に、何も隠せません。
 
人は、神の前で生きているのです。それが、神の全知全能に対する人の弁えです。
 
人の、能力、財産、寄付の額、奉仕活動の高、それらによって、救いが左右されることはありません。人の献身は、感謝のしるしとして行われるものであり、人の献身が、いかに多くても、神の絶対の前では、決して大きいことではないからです。
 
神の前に、正直に祈ること、それだけを、神は人に求めておられると思います。
 
キリスト信仰は、祈りの信仰であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 
26:12
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
信仰の義とは、このようなことでしょう。人に認められるような立派なことではないのです。できることをすること、それを、主に捧げることが、信仰者の精いっぱいであります。
 
神の前に、善行を自慢したら、どんなに効率がよくても、気づかないことのために、全知の神によって、上の聖句のパリサイ人と同じになります。
 
女性は、目の前のキリストのために、よかれと思って、できることをしました。それができる機会は、またとないと思ったからでしょう。そして、弟子たちに怒られました。弟子たちは、行いの効率を考え、女性の心を思いやらなかったからでしょう。
 
女性の行為は、効率の悪い、的外れのことかもしれません。信仰の行為としては不細工だったでしょう。しかし、主イエス・キリストは、それを、信仰に適うこととして受け取ったのです。
 
主が、いかに、人の行為だけでなく、人の心を見ているか、ということが分かる聖句であります。
 
信仰の義とは、キリスト者だから、神に従う、また、良いことをする、という話ではありません。私たちは、不完全で、しばしば的外れなのです。しかし、それを承知の上で、主は見ておられるということです。
 
主は「葬りの用意」と言っておられます。十字架において犠牲となる救い主イエス・キリストに、人々と一緒にいられる時は限られていたということです。
 
ご自身の愛と悲しみとして、人の愛と悲しみに共感する、という主イエス・キリストの言行は、福音書全体に貫かれているのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2021年04月03日)
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
(90年代、再録)
 
 
※ 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·5時間
これは人間関係だけでなく、宗教に関しても言える。
おかしいと感じるなら、速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長引かせるばかりだ。それより、さっさと次のステージに進むべし。
午後8:16 · 2021年4月1日·Twitter Web App
 
誰よりも、自己愛性人格障害で霊能者気取り~妄想の個人カルトの、楽山とは、二度と関わらないように、距離を取ってください。楽山には、良心がありません。代わりに、丁寧語の詭弁と嘘があるだけです。ずっと、楽山の言葉が、楽山を斬っていることにも気づかないのです。
 
楽山との関わりを続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長びかせるばかりです。それより、さっさと自分の思考と感性を磨きましょう。思考と感性は、楽山が持っていないものです。それで、楽山は、いちゃもんしか言えなくなっているのです。
 
 
(2021年4月03日)
 
 
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