ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:信仰

 
  失敗と悲しみ2
 
 
後半は、昔書いた詩のようなものですが、数々の失敗を抱えて、歩いてきた悲しみの道の、さらに先に、ようやく成長の意志と足跡があり、小動物に喩えたくなるくらいの不完全で罪深い人間がいて、召される日までを過ごしているのです。
 
「フットプリント(足跡)」という詩があって、キリストが自分を背負ってくれて、足跡が一人分になったという感謝と讃美の詩ですが、それが、自分の小ささや弱さ ≒ 罪深く不完全な自分という自覚がない者によって、自己正当化の根拠として悪用されるということを知るべきでしょう。
 
実際に、この「フットプリント」を載せて、悦に入っていた最悪の偽牧師の偽善者がいます。「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」と言って、馬脚をあらわしました。全く悔いることがなく反省しない自己中でした。
 
私は、フットプリントのような気持ちよくなる詩よりも、罪深さの自覚を促すような悲しみの詩のほうが好きです。感謝と讃美につながる詩よりも、人間の罪を何かに喩える詩のほうが好きです。人間が成長するのは、悲しみのうちに、思いを深め、考えるときだからです。
 
 
 
  二人の背教者(創作、一部加筆)
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々は戸惑った。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が狼狽しつまずいた。あるとき、裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
「あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。
 
それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。しかしあなたは誰もが知るところで公然と「神はいない」と言った。ゆえに、誰もが知るところで公然と批判されるのは当然のことなのだ。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。
 
あなたが、彼らに会い説得し、彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。」
 
 
 
  悲しみの大切さ
 
良心の表れとしての悲しみを感じないのがサイコパスです。その代わりに、悪意の感情として、怒ったり、笑ったりします。
 
悲しみなんて笑い飛ばそうなどということが言われることもありますが、悲しみは、ないほうがよいものではなく、人間が成長するために、いちばん大切な感情です。自分を見つめる最大の機会なのです。
 
悲しい時にこそ、人間は、悔いたり、反省したり、過去も現在も未来も、もっとも純粋な気持ちで、考えることができるのです。キリスト信仰者にとっては、必然的に、考え、祈る時なのです。
 
悲しいとき、涙も出ない呆然とした時が過ぎて、涙が止まらないほど泣く時を過ぎて、涙がじんわり浮かぶ時が訪れたら、しんみり、悲しみ、じっくり、考えてください。悲しい時は、成長の機会なのです。
 
 
かなしみは成長の機会 悲しみを学習する

かなしみは成長の機会 悲しみを学習する
 
 
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月29日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
 
  航海のあと
 
どだい長い航海など
できそうにないような
今にも沈みそうな船に乗り
ちっぽけな癒しの心を懐に
小さな港から船出する前に
わかっていたはずでした
 
よく聞こえない聴診器に文句をつける前に
よく聞き取れない耳を
聞いたまま口をあけっぱなしの頭を
打ち砕くべきだった
 
船が傾いているのを
人が引き止めるのも聞かずに
海が傾いている
と言ったときには遅かったのです
 
船の残骸といっしょに
小さい島にいます
小さいものにばかり縁があるらしい
小さい懐には濡れて乾いた
小さく縮んで恐らく
他の人にはわからない微かな匂い
まだ残っています
 
悪いことばかりじゃなかったよな
と次から次に
波が笑顔に見えることがあります
 
島には地平がなくて
毎日消えてしまう足跡の
浜を除けば島の輪郭は
どこから見ても海に落ちているのでした
 
最初船出したときから
いつ海の深い水底へ
引き込まれてもいいつもりでした
覚悟が観念に変わっただけです
 
でもどうしてでしょう
波の穏やかな日にときどき
急に真顔になって
水平線を睨みつけているのは
 
 
 
  黒く細い道
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
 
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
その余りの正直さを
脳ミソが沸騰するほど憎んだので
狡くなってやろうと無謀にも
抗うことに決めた
 
明るく広い道を選んだつもりだった
でも本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
 
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
でも黒い道から這い上がって
元の道に戻る人もいるし
光差す土色の丘へ
登ろうとする人々もいるし
 
あの沸騰もなくて最初から
細い道を辿れば
いずれ落ち着ける場所があって
今頃は何ものにも縛られることなく
誰も見ない絵を描いて
のんびり過ごしていただろうか
などといろいろ
首を引っ張ってみたり
髪を引っ張り上げてみたりするのだが
似たようなものだ
今は人々の場を離れて
明るくもないが黒くもない
道とも呼べそうにない
広さも長さも測れない所を
白髪が増えてゆくから多分
進行しているのだろう
 
いつかあの道とまた交わるだろうか
今度は正直に歩けるだろうか
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
 
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
 
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
 
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
 
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
 
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
 
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
 
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
 
  土竜の太陽
 
土竜(モグラ)は穴を掘る
何の必要か穴を掘る
土竜は平気で土をかぶる
日常たいてい土の中
だから目なんか目じゃない
目なんかなくても夢を見る
 
曇天の下の下から
太陽の夢を見る
土竜の太陽は眩しくない
眩しさは疾うに捨てたのだ
直向きに只管に
土竜は土竜の太陽を探す
土を盛り上げ掘り進む
潜り込んで掘り進む
 
人間は眩しさを求めて穴を掘る
土竜は眩しさを捨てて穴を掘る
 
わざわざ重労働なんてこともない
土竜は穴を掘る必要がない
死んだところが墓穴だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善と崩壊を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書いても、本当に反省することはないようです。しかし、心を持たず無反省と無理解のまま言葉だけ書いて済む世界など存在しないのです。
 
 
 
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  良心4
  
 過去記事「良心」+加筆
  に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。人間としての知性と感性を捨てて信仰は成り立ちません。人知を捨てて有頂天に従うのはカルトのやり方です。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。
 
信仰によって良心が成長するのは、人が、自らを神より低いと自覚している場合です。また、人間の良心に、神の導きはあるけれど、人は、それを確定できません。ゆえに、聖書の言葉を唱えればよいということではなく、御言葉を自らの人生において考えることが大事なのです。
 
神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。人に理解できない魔法のような奇跡を期待することは、信仰ではありません。
 
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は、神への冒涜というより、祈るとき既に、神によって見抜かれています。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰だから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖に捧げるものが、神聖に対する決めつけであれば、神への冒涜です。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定はできません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総ての結果をご存知の、神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
良心のない一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。人間の良心は、信仰者であっても、完全ではないということを、私は書いてきました。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、実際は、自分の自由意志の選択と判断で行動しています。自分の言動を神の御心で正当化するのは、背教ということです。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰ではありません。私たちの言動は、祈りによって、神に前に捧げるものであります。でないと、自分が、神の意志を代行するかのように思い上がります。できる努力をして、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこととして聖書に親しみ聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、完全とはなりえない自覚をもって、精いっぱいの自分の良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえない私たちに、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、信仰は、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。祈る時の飾りのない心の比喩だと思います。
 
聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、人間として良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだという自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを弁えています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。良心のないところに信仰はありません。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっておらず、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされることが分からないのです。反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。彼らに論などありません。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
神は完全なる御方として信じています。人は完全を知らないので、完全なる神を恐れます。神を信じる理由は、神に比べて人間は不完全だという自覚を持つためです。そこに、過剰な熱は取り去られ、祈りが生まれ、命が生まれ、成長が生まれます。
 
万能や超常を語る宗教と信仰は、神を知りません。シャロームや楽山などの、偽牧師や反キリストの無神教カルトは、自分を神?として、その醜さだけを表す因業の路程をうろつきます。彼らが語り否定する神?は、キリスト信仰の世界の、どこにもいない神?=言葉=概念=紙なのです。
 
牧師気取りのシャロームも、学者気取りの楽山も、玩具の遊び方のような幼稚な概念しか持っていません。似たような無神教カルトが他にもいるようです。騙されないでください。人間に完全な境地などありません。その自覚が、地獄のような巷(ちまた)から、人間を救うのです。
 
 
 
人間としての正しさを

人間としての正しさを
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月25日、再録+加筆)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
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  信仰の節操
 
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 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2023年01月06日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  偶像と玉葱の皮3
  
 
 「偶像と玉葱の皮」 : ウソの国-詩と宗教:st5402jp (livedoor.blog)
   を加筆修正。再録+加筆。
 
 
人が神を
特にキリストを信仰するとき
祈るときも感謝するときも
キリストの理想像を
人は心に思い描いています
その根拠は聖書ですが
それも人による聖書の解釈です
 
したがって信仰は
自分にとって望ましく好ましい
また都合のよい偶像になってゆきます
つまり信仰は偶像信仰になってゆきます
 
信仰の偶像は忌むべきです
排除できるなら排除したいのですが
はたして排除できるでしょうか
 
キリストを思うとき
必ずキリストを思い描いています
姿・顔・表情など
詳細な写実のような像でなくても
思い描かないなら概念に過ぎなくなります
信仰が概念だけになるのはイデオロギー化であります
信仰はイデオロギーではありません
 
思い描いてしまうのです
大好きなイエスさまを
 
偶像の完全排除は形無き理屈になりますから
偶像排除も真の信仰も
結局は不可能になります
 
しかし偶像を排除しようという意思を持つことが
折に触れて大切になります
経験を重ねるにつれて余計な尾ひれが付いてくるのが
人が信じるということの必然ですから
 
信仰の偶像を自覚しない信仰にならないために
 
偶像の排除は
玉葱の皮を剥くようなものかもしれません
剥いても剥いても切りがなく
刻めば出てくるのは涙だけ
しかも玉葱の芯があってもなくても
真の信仰だという保証はないのです
 
だからといって
偶像排除など
しなくてよいということにはなりません
 
いかなる信仰であれ
自分に都合のよい偶像信仰に陥る危険はあり
偶像信仰だけならば
玉葱の皮をむいた後に残るものは何もありません
偶像信仰だけでないならば
皮をむき続けるのが信仰者の一生です
この場合
皮をむく作業は終わらないのです
ゆえに信仰は境地ではなく一生続く道なのです
 
したがって人は
皮をむく作業が終わりを予測できないまま
作業を続けることになります
それは空しいだけだと止めてしまうと
玉葱の皮に気づこうとしないまま偶像信仰が続く
という最悪の偶像信仰に陥るでしょう
 
信仰の偶像を自覚する信仰であるために
 
「剥いて刻んでも出てくるのは涙だけ」
と言う偽善者もいますが
 
だからこそ
玉葱の正体を知りたいなら
一生のあいだに
ありったけの涙を流すべきなのです
 
 
上では偶像と書きましたが
ここでは
祈るとき
信仰について考えるとき
必ず不可避的に
思い描いているイメージの意味でもあります。
 
偶像=心に描いているキリスト像
=自分の理想のキリスト像
=自分が出会ったと思っているキリスト像
こういう偶像は
信仰者なら
はっきりとはしなくても
誰もが持っていると思います。
 
そこを自覚しない場合
あるいはカルトなどは最初から、
最悪となる偶像があります。
すなわち偶像崇拝といってよい邪悪な偶像です。
それは不可避的にではなく
思い込みによる偶像です。
多くは
自分に都合がよく
自分をいつも正当化してくれるような
慰め主でありながら
信仰とは別の
自分の都合だけで作られているので
刷り込まれたものであっても
先入観や固定観念や欲望のイメージとして
自分信仰の欲望の偶像であり
この偶像の神そしてキリストは
まさに
自分自身でしかないのです。
 
誰もが持っているのではなく、持ってはならず、
学習と成長を阻害し、自他を傷つけ破壊する危険があり、
自戒して自壊させなければならない偶像は、この後者であります。
 
 
※(補足)
 
偽善者は、神がいるなら悲劇や悲惨な死があるのはおかしいと言って、あっさり、だめだこりゃ・・とでも思ったのか、すっかり反キリストになります。呆れたことに、それで、物を知っているかのような気分になって満悦するのです。
 
信仰者になる人は、悲劇があるからこそ、神の救いを必要とします。何故なら、神がいてもいなくても悲劇から逃れることなど出来ず、悲劇の時の癒しと救いがなくて、この世が、絶望に満たされるのは耐えられないからです。
 
 
偶像は焼かれる

偶像は焼かれる
 
 
(2020年)
(2023年01月01日、再録+加筆)
 
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
  条文か共感か
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
私はプロテスタントだから
むかし通った教会には
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
罪から罪へ走らせる罪
 
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
 
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
共感はあっても
信条はない
 
 
  断片
 
信仰は共感に近いと思います。
  
信仰は言葉では表せません。
信条はヒントもしくは題材に過ぎません。
 
神の意志と行為を決めつけて
聖書に書いてある書いてあると豪語するような
自分信仰や心の中の偶像信仰になってはいけません。
 
聖書は神の言葉と言われますが
聖書は人の言葉で書かれています。
人の言葉は絶対ではありません。
 
特に超常現象としての奇跡については
人の信仰は正直に告白するべきです。
「わかりません」と。
 
心を揺さぶる大事なことは
福音書に
キリストが、どういう人を友とし、
どういう人を敵としたかに表れています。
 
 
  私の信仰告白
 
聖書の神様をキリストを信じます。
できることをして生きていきます。
信仰も不信仰も正直に告白し祈ります。
正直でなかったら
そう気づいたときに改めて祈ります。お導きを。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
(信仰者も求道者も
 もはや儀式で何かが担保される
 というような信条の時代を卒業するべきです。
 私たちは完全にはなれません。しかし
 いくつになっても成長することは出来るのです。)
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の思考が齟齬を来たし、元々欠落している感受性のために、いい加減で、拙劣な文章しか書けないようです。それだけ自己崩壊してゆきながら、なおも、自慢だけは忘れないという病質は、哀れではありますが、仕出かしてきた悪事を思えば、手加減は出来ません。なぜ、書くのを止めないのでしょう。
 
最近、楽山は、記事とツイッターを書くことに抑制がかかっているようです。何らかの都合の悪さか不快を感じているのでしょう。しかし、罪悪感がなく反省することの出来ない楽山は、また再び、イージーな気分で罪業を無視して、思いつきだけで書いてくるかもしれません。
 
楽山には、罪悪感や悔いたり思い遣ったり共感したりする高等感情がありません。恐らくそういう精神の障害を持っています。また、自己中のために、まともな理路も持っていません。何より、共感する心を持っていません。楽山の、薄皮だけを貼り付けてくるような言論に惑わされてはいけません。
 
楽山は歪曲した偏見で語ってきます。批判されると迷路に引き込む技だけ持っています。何も理解していません。自分が言いたいだけです。偏見と先入観だけだから学習せず成長が見られません。ゆえに、世辞で始まることの多い、楽山との直接の遣り取りは、聞く側の疲労と人格の鈍麻につながります。
 
 
 
あけましておめでとうございます。明日はブログ、休む予定です。
 
 
 
昨日スクショした荒らしのウイルスによる広告は、今も並んでいます。×印を押すと順繰りに別のが並んできます。画面表示および作業を邪魔しています。こういうことをする者は、良心も思いやりもないサイコパスでしょう。楽山の特徴に合致します。楽山が、仲間に頼んでやっている可能性があります。
 
マカフィーとセブンイレブンの広告が、同じポップアップで出るでしょうか。sossiotron.com と書いてあります。誰なんでしょう。広告をどうしても削除できません。消すと、また大きな広告が出てきます。いずれにしても、楽山が関わっている可能性が大です。偽計業務妨害に当たるでしょうか。
 
人の迷惑など全く気にしないで衝動的に凶行に及ぶわけですから、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の病的ナルシストは、サイコパスへ、そして、いよいよ犯罪者に成り下がってきたのでしょう。犯罪者楽山の可能性が大です。人間の成長と尊厳とは逆の経過です。
 
 
 
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  信仰と教義と学問そして思考3
    2013年03月13日を再録+必要なら修正
 
 
コメントの日付は省略します。ずいぶん昔の、ヤフーブログ時代の、今では見つからないブログ「日常×非日常」の記事「「信仰」を捨てて神に従う」のコメントから編集を加えて記事にしています。
 
 「信仰をなくす(必要性)」について
 
信仰、さらには宗教というと、人間としての共感以外にも、余計なものが着いてきてしまうことがあります。「信仰をなくす」は、信仰がなければそもそも言う必然のないことです。信仰と思っているものの中の、余計なものを削ぎ落とすか、少なくとも、区別することが必要です。
 
 
>「信仰をなくす」ことが必要だという考え方が
>別の「信仰」に基づいているなら、それはすでに偽善的
 
これが端的に表していると思うのですが、「信仰をなくす」必要性を考えることが、既に何らかの教義的信条?に束縛されていることを意味しているからだと思います。つまり、言葉だけを固めるだけでは、なくさなくていい信仰を明らかにすることには、近づくことさえ困難になります。
 
隣人愛さえ全うできない罪深さから神への恐れを抱いているなら「隣人愛」の行為が優先するのは当然のことで、それは、キリストが、実践したことです。なのに、慣習のような「古い教義的考え」をなくすべきであるのに「信仰をなくす」と言ってしまうと、まだ的を射ていない感じです。
 
一人一人違う信仰を、言葉で一致させることは不可能です。厳密には言葉も一人一人違うからです。大事なことは、キリストに救われた人間の心を、感じ取り、考えることでしょう。救われたのは、教条に専念した人ではなく、そういう人に軽蔑される悲しい人々だったということです。
 
また「私の神様」が何を今お望みであるかを考えるときに、長く染み付いた教義と教理的思考が束縛なのです。この場合「なぜ神は・・」は「神様、分かりません!」という悲鳴に近く、嘆きと叫びであって、「なぜ神は・・」を神義「論」として答えを得られるという考え方がおかしいのです。
 
教義、教理、信条は、信仰のヒントとなる言葉であります。大事なのは、信仰が生まれる土の器、という比喩で表された信仰の心なのです。信仰は、心以外にはないからです。
 
かつて、偽牧師シャロームshalom は、心のどこを探しても信仰はないと言っていました。土の器という言葉から、何か魔法の器があり、魔法のような信仰?を受け取るつもりなのでしょう。人間離れの偽善者は、そういうところまで、無理解を魔法に置き換える害毒となります。
 
 
 「クレド」について
 
クレドは、辞書によると信条、また「われ信ず」とありました。神という御方として・・選択肢が他にない人においては「われ信ず」は肯定せざるを得ないものとして、私にもあります。祈り嘆き叫ぶ相手として・・であります。
 
いつでもどこでも正しく通用するかのよう語られる「信条」は、そのものが言葉である以上、実感できるように心と、隠された導きを要することです。最悪なのは、"分かっている" と言うために、導きを決めつけて思い込むことです。人は、神の関わる信仰を、完全には知りえません。
 
信条を、信仰そのもののように語ることは、批判対象になるだけでしょう。信仰は、形無きものです。神と、神の賜物は、推測や想像は可能でも、人が確定することは出来ず、ある時、判断するだけであり、不可知と弁えるべきことです。聖書と体験から、成長してゆくのが、人の信仰です。
 
 
「教義的信条という類のものは信仰に含まれない」
 というコメントについて
 
本当に含まれていないでしょうか。神学を知らない私でさえ含まれていないとは言えないから自己も含めて批判したいのです。教義的であっても信条は、信仰そのものではなく、忘れないほうがよいヒントとしての道しるべとしての役割を持っていると思います。言葉は、そういうものです。
 
ヒントは、ヒントとして、大事にすればよいのですが、若き日より教会などで教えられたものに無条件に「信仰」の名を付けて、当為的なものやROM回路的思考のような言葉が、無意識にこびりついていて、先入観のように、いろんな場面で顔を出してくるのを自覚しています。
 
 
 「神学批判」という批判コメントについて
 
少なくとも私はよく知らない神学を否定することは出来ません。私は、人間の信仰のあり方として望ましくないことを批判しています。神学は、信仰の参考として、提言や仮説は可能ですが、信仰は、何学とも何論とも同等ではなく同一視できないと思っています。
 
学問はその前提に従って整合性を追究するのでしょうけれど、神の関わることだから信仰の整合性は、人の側には完全には解明されません。人が信仰の整合性を学問に求めることは出来ないと思います。無理に整合性を図ろうとすれば、それは自己満足そして自分信仰への固着になります。
 
信条について・・神の全知全能を信じるかと問われれば、私は信じると答えるでしょう。しかし神についても、全知全能についても、全知でも全能でもない私という人は理解できません。神の全知全能はしばしば人には耐え難いものだと思います。
 
つまり「分かりやすいとか分かったかのような神の全知全能」はあり得ず、信仰は、神の全知全能を信じるという言葉だけでは成り立ちません。それは、言葉としての出発点に過ぎないのです。
 
学問は、失礼ながら興味に始まっているような気がします。
 
信仰は、私には、まさに魂の死活問題ですから死ぬまで考えます。
 
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)と信仰的思考(整合性にとらわれない思考)とを区別して考えてゆかないと、結局、誰にも共有されないままに終わってしまうのではないでしょうか。モノローグで終わりたければ、それでよくても、ダイアローグにしたい私には耐えられない」
 
 
※ ここからはコメントではなく私の感想です。
 
なんとなく分かるような気がするのは、私は学者ではないので「学問的思考(整合性をつけるべきもの)」を持ち合わせていません。ですから専門用語をいっぱい使った学者同士の遣り取りには入って行けません。
 
楽山の言うことを受け入れても、何の役にも立ちません。詭弁によって理路が混乱し、曖昧さによって感性が鈍麻するだけです。そして、神経~精神が疲労し、人格そのものが鈍化してゆき、最終的には、人格が破壊されて、楽山と同じようなボンヤリ人間になってしまうでしょう。
 
「日常×非日常」ブログは、哲学、神学、人間学のブログですが、テーマは広く、震災などの現実的な問題を始め、文学、音楽、等々、また部分においては日常語で表された記事や解説も多いので、信仰的思考(整合性にとらわれない思考)について私も時々コメントを入れてきました。
 
さて信仰的思考、ここでは信仰について語るときはどうかというと、やはり、日常語レベルで、ある程度の整合性が必要になります。論理的整合性というと難しくなりますが、支離滅裂であってはいけないし、思い込みの繰り返しやごり押しであってもいけない、ということです。
 
信仰者としての聞く態度と思考には、賛成意見も反対意見もあるわけですから整合性というか説得力というか、根拠や筋道は必要になります。詭弁や思い込み~妄想を除外する必要もあるでしょう。キリスト者の共感として、キリストの共感が聖書にしるされてあり、信仰者のキリストへの共感があります。
 
信仰は理屈ではないし、神の側の整合性を語る能力は人の側にはありません。しかし人の側の信仰の受け取り方は、人間性の問題です。人間性の問題である以上、信仰における人の姿勢や態度そして思考について、信仰者という人間の共感に基づくところの弁えは必ず問われるのです。
 
それらすべてに、決定的に、致命的に、不合格なのが、楽山と、シャローム、という、良心のないゆえに、罪悪感も、共感もなく、妄想的な決めつけと信条だけの異常者なのです。信仰を持たないだけではなく、神に逆らって、反キリスト思想を刷り込もうとする彼らに、関わってはいけません。
 
 ※
 
現実を生きる信仰は、決して超常を理解することでも信じ込むことでもありません。宗教と言えば超常という先入観を作ったのは、キリスト教と他の宗教そしてカルトの責任であります。宗教と信仰の、現実の人間との関係をずっと考えています。超常の理解力は人間にはない、ゆえに超常と呼ぶのです。
 
人間が生きるために必要なことが超常であるなら、人間は決して救われません。キリスト教はキリスト信仰によって、キリストと心貧しい人々の間に生まれた温もりと潤いによって始まっています。キリストの、人々への悲しみへの共感こそが、人間が生きることの源泉となっています。
 
超常奇跡ばかりを語る説教を信じてはいけません。人間が生きるのには、人間らしい悲しみの共感が必要です。言葉ではなく、生きる理由が絆として心にあり、共感と癒しが人生に同伴することが、キリスト信仰の賜物であります。キリストとともに・・というのは、具体的には聖書とともに・・ということです。
 
超常は神のものです。まるで我がもののように超常を語る口に惑わされないでください。そのために、人には手に負えない、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、・・という言葉が、神を表す言葉として用意されました。超常に近づくのが信仰ではありません。祈りとともに生きるのが信仰です。
 
 
整合性

整合性
 
 
(2013年)
(2021年)
(2022年12月30日、再録+加筆)
 
 
 
  薄い
 
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
 
 
  甘栗
 
甘栗を噛む
ぱりっと音がする
指で殻を割る
ころりと栗の実が顔を出す
今度はうまくいったと口に放り込む
手に残った小さな殻
ふと内側を覗(のぞ)く
しばらく見入ってしまう
一粒の小さな実を結ぶということ
 
 
  祈り・潜熱の循環
 
冷たい熱に
まだ温もりがあるならば祝福を
 
真空にエネルギーがあるように
虚空には潜熱がある
保存則を守りながら
やがて諦観となって灯火を揺らす
諦めとしての灯火と
諦めと裏腹な灯火と
どちらが燃え上がるでもなく
対をなして虚空を漂う
いつか再び温もりとしてこの胸に
還ることがあるでしょうか
 
クリスマスに何のお手伝いもできず
凍りついた無為のまま
震えて過ごした冷たい熱に
まだ生きて祝福を賜るならば温もりを
 
内に秘めた温もりを
人々の間に灯す術を知らず
潜熱として閉じ込めて
冷たい空へ解き放つ
冷たい空は冷たいままだ
身は熱を奪われてますます冷たい
何も伝わらなかった
何も伝えることができなかった
と次の潜熱が疼き始める
 
 
  アノニマス
 
気がつくと群れの中にいた
仕事をしているらしくもあり整然として
そのくせ働いたときの充足感も
疲労さえもなかった
そこではお互い顔を見ることも
肉声を聞くこともなかった
ある者は快く語り
ある者は苦悩をのぞかせ
ある者は淡々と語った
首のない会議
しかしその集まりは匿名ではなかった
それぞれが仮の名であれ名乗り
責めがあれば負う覚悟さえ示していたのだ
肉声を聞こうとし語ろうとし
高めようとする姿勢
それがすべての始まりであった
もどかしく伝えようとして伝わらないもの
もどかしさゆえに語ろうとしていた
それが終わりのすべてであったかもしれない
ある者はうなだれて去り
ある者は再開を期して帰っていった
 
気がつくと独り疲労があった
誰のために、と
ふと思った何のために
切られることもなく選ぶこともせず
自分を切り刻んで見せるだけで
高められる何があろうか
失ってみれば確かにその通りであった
旅立たせる翼はなくても
そばだたせる耳ぐらいは欲しかった
それだけはどうしても
 
ここで完ぺきなほどに匿名の
独りの声は宙にかき消え
磨いてきたつもりの刃に
ぽつぽつと浮いている錆を見つめていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のしてきたことは、「人間の性」で「自分もそんな風」という人間共通のことでは決してないわけです。楽山の固有の罪と偽善です。楽山は、空しい詭弁の言い逃れをしています。多くの人を、無駄に疲れさせ、だましてきたのは、罪悪感のない病質です。
 
良心のある人ならば、こうはなりたくないと思うような人間に、楽山は、なっているのです。言葉だけ見ても、バレていますし、これからもバレてゆきます。もはや、いくら、良さそうな言葉を見繕って並べても、病質は、必ず表れてるでしょう。楽山の、一切が、詭弁という無駄なのです。
 
反キリストの楽山と、偽牧師シャロームは、同一の成りすましかもしれませんが、いずれにしても、ネットの匿名性を悪用して、宗教、思想、映画、霊能、などを、興味本位で書いて面白がっているだけの、荒らし体質の者たちだと思います。決して関わらないでください。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害:診断基準
 ハートクリニック こころのはなし
ハートクリニック こころのはなし
 
誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
 
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係すべきだ、と信じている。
過剰な賛美を求める。
特権階級(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)。
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
尊大で傲慢な行動、または態度。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここにブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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