ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:信仰の心

 
  原初から3
 
 2012年02月24日の記事
 「原初から」を修正再録
 
 
原初の信仰が生まれるとき、それは復活の類似体験であると言えば、かなり語弊があるかもしれません。復活=死人が蘇る・・という先入観があるからです。キリストの復活と違って、ここで信仰における復活というのは、それまでとは違った生の体験として、人を解放するということです。
 
原初体験は、自由意思による神のみへの服従の決意へと導きます。つまり、神への服従が、人の世の様々な執着からの解放だということです。勘違いしてほしくないのは、人の世を無視するということではないということです。無視は何ももたらしません。
 
人の世の悩み苦しみを避けられなくても、それに耐えて生きるための信仰であります。つまり神への服従というのは、襲い来る不幸に、いつまでも泣いて過ごすか、信仰によって生きてゆこうとするかなのです。
 
しかし本当に自由意思かというと、そうとも言えない神秘の部分があります。不思議な御縁ということです。原初体験は出会いであり、縁付くことであり、絆されることであり、これらは、ある種の受身の直感~直観であり、芸術の享受にも似るが、恋愛や結婚にも似ています。
 
具体的に言うと、イエス・キリストを好きになることです。むしろ、キリストの共感と同伴という恵みを享受しながら、そこから何を目指すことになるか、という自由意思の問題ともなります。
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか、自分の確信で自分を縛り付けてゆくか、自己陶酔に陥るか、・・これらは目に美しく耳に心地よい偶像に、人間がバランスと調和を自分で塗り固めることであります。そういう人間の作為は、原初の面影すらないところへ誘導することになります。
 
信仰は、自由と服従のバランスではなく、思いわずらいからの自由と、人間らしさへの一途な希求であります。ゆえに信仰においては、自らを省みて祈り告白することなしに安らぎはなく、よって常に信仰はその原初から、自他による思いこみや固定観念を、拒否し続けることになるでしょう。
 
神からの束縛すなわち信仰は、個人によって境遇や弁える詳細が違ってくるために、全信仰者について、一つの言葉で確定できるものではないと思います。ゆえに、人それぞれということが、個人の生きる方向性については個別であります。信仰は、神の個人の関係ということになります。
 
ただ、キリスト信仰は、祈りの信仰と言ってもよいものですから、祈りだけは必須ということになるでしょう。そして、人から神への唯一の音信である祈りだけは、嘘と飾りは通用せず、ただ一途に正直でなければ成り立たないのです。
 
 
完全な信仰などあり得ません。
 
信仰とは
人間の不完全ゆえの罪深さを
正直に祈ることで
神によって赦されて信仰の義とされることです。
 
 
完全と不完全

完全と不完全
 
 
(2012年02月)
(2020年10月29日、修正再録)
(2021年11月01日、再録+)
 
 
 
  それというほどのもの
 
それは花というほどには咲かず
穀類というほどには収穫されない
それは動物のように子孫を残すこともなく
もちろん神の完全無欠を持つわけでもない
 
それは個でありながら全体であり
いつも涙も汗も見られるわけではない
 
それは以上すべてを慕いながら
近づくために炎を凍らせるほどの
激しい孤独を要求することがある
 
しかして砂利の礎(いしずえ)に
泥の柱を立て
引き潮の砂浜を床に敷いて
水溶性の屋根をかぶせ
照明のない夜を
遥か彼方で過ごしている
 
以上すべてを照らす光と引替えに
 
 
  夢の花
 
好きな花は
ヒヤシンス
というより
好きな花の名は
風信子(ヒヤシンス)
風(かぜ)信子(のぶこ)さんではない
好きな名は
むしろ「ふうしんし」「ふうしんす」
と呼びたいくらい
 
風媒花でもないのに
風信子
子供でもないのに
風信子
 
ヒヤシンスに当てられた漢字
それは叶(かな)わぬ夢
風の子になって
風の便りを伝えたい
風に乗って
信じられる通信の
飾らない素子になりたい
 
 
  解脱
 
解脱という言葉がある。
仏教用語である。詳しいことは知らない。
辞書を引くと煩悩を超越して安らかな境地に至ること。
単純にそういう意味として考えてみる。
ペテロやパウロを始め使徒・聖徒と呼ばれる人たちも
ひょっとしたら似たような境地にあったかもしれない。
彼らは伝道に生き、欲に生きなかった。
悟り、目覚め、なども似たような意味かもしれない。
 
しかし欲が無かったわけではないだろう。
まして死ぬのはやっぱり怖かっただろう。
それでも殉教の覚悟で主の道を彼らが歩んだのは
主イエス・キリストの愛と縁が彼らの恐れに勝ったからであって
それは極めて人間的な反応であったと思われる。
 
彼らは自らの力で自分を越えたのではない。
彼らは自分の裏切りと罪をしばしば思い出した。
そして自分の無力を誰よりも知っていたはずである。
 
全てを悟っているという者に何を告げる唇があろうか
全てを知っているという者に何を聞く耳があろうか
また全てを悟り知っていると言う者が何を教え得るというのか
全てを知っている者がどうして自分以上のものを作り出せ得ようか
 
自分以下のものを作るのなら全てを知っている必要はあるまい。
人の知恵にすぐれていればできることだろう。
不全なる人に完全を教えても無駄だろう。
不全なる人が完全を教えられても理解できないだろう。
 
教えて全てを知るようになるのなら
どうしてこの世に人が住めようか
もはや何も迷うこともない代わりに
もはや何も考えることもないではないか
 
何故に人は人であるのか
しばしば間違えたり
誘惑に負けて
赤子のように神様に試されてひっくり返り
こぶだらけ、傷だらけの者たちを
神に愛された人と呼ぶ
 
全てを悟り知っている者がいたとしたら
ただそのことだけで満足して
誰にも会わず誰にも語らずにいるであろう。
これは煩悩よりも苦悩と罪に満ちた無為であり無である。
 
何故にこのようなことを私は言うのか。
私の中にしばしば
いかがわしい解脱者・超越者への欲があることを知るからであります。
 
 
信仰の原初において、多くの信仰者は、体験と聖書から、人間の潤いと温もり、即ち、悲しみと癒し、孤独と解放、という体験を持っています。癒される体験を持っています。このような体験は、人間の心を持っていれば、誰に起こっても不思議はないのです。
 
 
 
 祈り
 
悟らず、気づかない私をお赦し下さい。私の罪をお赦し下さい。私が間違いと罪に気づけますようにお導き下さい。生きる糧をお与え下さい。今日、生きていることに感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
母をどうかお守りください。兄をどうかお守りください。父と叔母(伯母)さんたちが御国で安らかでありますように。私が愛すべき人々とと、私が勝手に思っている人々を、どうか守り導いてください。この祈り、主イエスキリストの御名を通して、御前にお捧げ致します。アーメン。
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる場所を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。ふつう、それを、"身の程を弁える"、と言います。
 
 
 
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  信仰の心3
 
 
キリストの奇跡の話を2つ上げておきます。物や肉体の奇跡が実際にあったかどうかは知りません。しかし、それよりも、ここで重要なことが、救われた人々の、それぞれの心にあります。信仰において大事なことは、神そして救い主イエス・キリストに対する、救われた人々の心にあります。
 
信仰を学ぶということは、つきつめると、この心、そして、そこからの、神への姿勢を学ぶことに他ならないと思います。反キリストの楽山のように、神の辻褄が合ったら信じてやる・・みたいな態度と姿勢では、信仰は、永遠に、理解されることはないのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:19
そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。 
9:20
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 
9:21
み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19-21、新約聖書)
 
「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう」という女性の言葉は、厚い信仰と受け取られることが多いと思います。しかし、実際に、女性をして言わしめたのは、
 
他に救いがない・・ということだったろうと思います。
 
どこへ行っても治らなかった病気があり、むしろ、信仰云々よりも、救い主と言われる御方が来たと聞いて、せめて、衣に触れるだけでも・・と思って、群衆にまぎれて、近寄り、触ったということでしょう。
 
女性に、どういう導きがあったのか、知りませんが、キリストとの縁があり、ここに来ることになったのです。運がよかった、というだけではなく、ここに至るまでに、女性の心が砕かれて、キリストに頼るしかない、他にない心になっていたことが大事なのです。この心が信仰です。
 
多くのキリスト者において、信仰に至るということは、また、信仰が深まるということも、他に選択肢がない、という体験を経ているだろうと思います。キリストは、「あなたの信仰があなたを救った」と、褒めています。言い換えれば、それこそが、信仰なのだ、ということではないでしょうか。
 
 
衣にさわるだけが目的となっていますから、女性は、あ、へへっ、治りましたよ、それでこそ、メシアですねー、と、笑って、追従を言ったり、うまくいったと踊ったり、また、治らなければ、損したと、舌打ちしながら帰るような人ではなかった、ということが分かります。
 
楽山のような反キリストの辻褄合わせなど、何の意味もないのです。楽山は、自己の訂正不能を真理として悦び、他者の戸惑いや過ちを見て笑う人です。そういうときの丁寧語は、実に、おぞましいものがあります。楽山の文章に慣れると浅い底が見えてくるでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:25
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 
15:26
イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 
15:27
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:25-28、新約聖書)
 
「子供たちのパン」というのは、イスラエルの救いのことでしょう。キリストは、旧約におけるメシア預言によって、イスラエルに救いをもたらすことが、元々の目的だったようです。女性は、カナン人で、異邦人と言われている人でした。
 
実際には、もちろん、救いは、イスラエルにとどまるものではなかったのです。ここで、女性は、キリストに、食い下がっています。その台詞が、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」という、自らを小犬に喩えるほど、自分を低くしているのです。
 
ここにも、他に頼るものがないほどに砕かれた魂が、生きている、という希望があります。人が求めるところの、好ましい善なる心は、たぶん、これに、まさるものはないと思います。
 
これが芝居ではないと、キリストは見抜いたゆえに、「あなたの信仰は見あげたもの」と、褒めています。この心が信仰です。物や肉体の奇跡よりも、心の奇跡が、命につながります。
 
 
治らなかったとしても、女性は、メシアなら治して当然だろがー、などと怒る人ではなかった、ということが分かります。
 
教義がどうの、神がいるなら悪人がのさばるのはおかしいだのと、反キリストが言うのは、小理屈の辻褄合わせの奴隷となった者の、好ましさとも、善とも、かけ離れた理屈倒れに過ぎません。
 
 
つまり、信仰は、物や肉体の奇跡が、起こるなら信じる、起こらないなら信じない、という取引のような選択ではありません。信仰の奇跡は、物や肉体に起こるという結果よりも前に、キリストを知り、キリストに会うことで、心に起こっているのです。
 
 
信じ仰ぐ心

信じ仰ぐ心
 
 
(2020年10月07日)
(2021年10月08日、再録+)
 
 
 
キーワード: 心
 
 
  君
 
忘れるのに
何の抵抗もない
思い残すだけの
値打ちもない
安心して忘れるがいい
その後の人生のことなど
 
心の
時は止まっても
肉体の時は止まらない
そっけない
反復運動のうちに
あっさりと
歳をとらせてゆく
山を見ても
海を見ても
花を見ても
ああきれいという
お世辞を残して
帰ってくる
 
この部屋に
一日、一日と引き抜かれていく
感性のように
沈んでゆくだけの
星がある
 
忘れられることを
信じられない気持ちと
納得せざるをえない
長い時間の空白を
埋めるには軽すぎる
味わいのない思い出たち
いつか懐かしく
思い出すことがあるだろうか
いつか懐かしく
君を思い出すことがあるだろうか
 
 
  記憶
 
ずいぶん昔の話なんだ
といって実は昨日のことなんだが
何かとっても大事なことを忘れている気がして
とんでもない失敗をしたと思って
一日中穏やかじゃなかったよ
 
つい最近のことなんだ
といって実は二十年ほど前の話なんだが
別れ際の微笑が
目の前に現れて
胸がしめつけられるほど苦しく
胸が熱くなるほど懐かしかった
 
記憶って変だね
急にスキップしたり
尾を引いたり
心の中をかき乱しては
飛び跳ねて遊んでいるんだ
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
頭の中にもやのように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
 
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
うつして小さなバラ色だ
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
 
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  友
  
 (詩篇、口語訳)111:10
 主を恐れることは知恵のはじめである。
 (詩篇111、旧約聖書)
  に因(ちな)んで
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
 
 
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