ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:信仰の義

 
  神と信仰メモ3
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。神の存在の証拠があるからでもなく、超常奇跡の成就を信じるのでもありません。個人にとって、生きるために必要だからなのです。この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲しいことがあるからです。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理を含む存在がいるのだろう。その御方は、人間に共感する御方であることが、聖書に書かれています。
 
そして、その御方、即ち、神は、今は隠れているけれども、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられるのだろう。私たち人間を無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至るのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者として、その御方を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのであります。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではないということです。
 
その存在を知ることは、超常奇跡の不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残る、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ばれるようになったのでしょう。
 
 
神を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈と知識だけで、超常のホラーのような物語におとしめて、机上の辻褄合わせで、神を良いとか悪いとか、存在とか不在とか、決めつける無神教カルトが、いかに、的外れであるかを分かってほしいと思います。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が全能者のあり方で神の前に正直な人を救うために、つまり、人を愛するために、摂理の存在を信じ、キリストに共感することが救いなのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて人に与えるのは、人間には届かない完全な真善美ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、そのまま善しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
無明(むみょう)に注ぐ光

無明(むみょう)に注ぐ光
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
信仰者は、神からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らない地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって告白し祈ることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年)
(2022年)
(2023年01月23日、再録+加筆)
 
 
 
 『易(えき)入門』黄小娥著
 2022年01月19日 楽山日記(LD)
 
 
やはり、楽山は、努力より、占いが当たることを望むのでしょう。短い記事ですが、さらに、褒めるだけの文章ですから、空疎としか言えない干からびた感想で、何のアドバイスにもなっていません。こういう文章を書いてくる厚顔が楽山の持ち味としか言いようがなく、ネットの屑となっています。
 
 
何年か前に易経に興味を持ち、いくつかの関連書籍を集めてはみたものの、どれも難しくてずっと積読状態になっていたのであるが、先日思い立って、それらの中でもっとも初心者向きらしい本書を開いてみた。
 
初心者に向けて、こういう本を読むとよい・・みたいな書き方をするのは、読解力のあるする専門家のすることです。楽山に、読書の勧めを書く資格はありません。あらゆる本を曲解して、キリスト教と信仰について、度外れた偏見を持つに至った楽山です。
 
 
一読して、本書が易の入門書として高く評価されている理由がわかった気がする。まず文章は平易で分かりやすいし、六十四卦の説明では冒頭に卦の意味を一言で提示してあって有り難い。実占のエピソードは、初版は昭和36年なのでいささか時代を感じさせるところはあるが、どれも印象的で記憶に残るものばかりである。おかげ様で未済まで興味を失うことなく読み進めることができた。
 
「易の入門書として高く評価されている理由がわかった」といって、専門用語の説明もせず、難しい書に見せかけても、「平易」「説明」「有り難い」と、「印象的」「記憶に残る」「興味を失うことなく」など、具体性のない陳腐な褒め言葉だらけです。いい加減な読書感想文の典型でしょう。
 
 
恥ずかしながら自分は、易経を読もうとして乾の途中で挫折したくちである。こんな自分でも最後まで通読できる入門書を執筆してくださった著者にはただただ感謝である。
『易(えき)入門』黄小娥著、裏
ちなみに、こちらは裏カバーである↑
著者紹介を読むと、著者は本当にすごい人のようだ。
 
らくざんは「すごい」ことを讃えます。楽山は、全く平均未満の知性と感性ですが、自分では学者に相当する助言者のつもりだからでしょう。そうして気取り、大仰に本を褒めて、評論家を気取り、その実質の欠乏を、ブログで日常的に漏らすことで露呈している結果と経過です。
 
楽山の記事に付き合うのは、時間の浪費です。それこそ、人生の貴重な時間を、どぶに捨てるようなものだと思います。批判以上では、楽山に関わらないでください。「ただただ感謝」「すごい人」・・読書感想文になっていません。感想を問われて「よかった」と言って、先生に怒られる小学生みたいです。
 
楽山は、故意なのです。一生懸命書いても、足らざれば、見せるのを控えるか、発表しないで置くか、むしろ、足らざる自分について考えるべきですが、楽山は、自己顕示欲から、人のためになるかのような、教えるような筆致で書いて、拙く短い文章では書けないテーマということに、気づかないのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省と学習は、人間に必須です。それが出来ないならば、人間ではないと言ってもいいことなのです。なのに、楽山は、「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などという、まるで実感のない、ふざけたことを言って、読者を巻き込もうとします。何も出来ないのに、教えたがります。
 
 
 
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  いちばん大切なもの2
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、史実か事実かどうかで追いつめるてゆく、というやり方です。それは、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑なのです。
 
反キリストや無神教カルトは、キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の、共感できる心から離してしまう誘惑をしてきます。
 
キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、神はいない、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑です。
 
超常に信仰は要らない。そして、信仰に超常は要らない。
 
神は、人と、取引はしない。信仰は真実であり、史実に依拠しない。
 
疑問は、自分信仰を否定しても、疑問であり、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。疑問は、祈りにおいて、そう感じている自分を正直に告白するしかありません。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持てるはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として、解決するのではなく、無視するのでもなく、"分からない箱" に入れて保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、超越性ではなく、成長し得る知性と感性を持ち、良心を持つ人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
否定するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚たり信じ込んだりすることからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないが、
魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、絶対孤独からの解放に表れ、共感に表れ、感動に表れ、愛に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に表されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、マリヤの信仰の優越を表しているのではなく、マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていました。
 
キリストの言葉は、マルタのために語られている。そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタがマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよいと、信仰の義を与えます。
 
そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っているのです。信仰の優劣ではないのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2020年
(2022年04月29日、再録+加筆)
 
 
 
旧約と新約聖書に書かれている数々の超常奇跡を読んだときに、話にならんとあきらめる人と、そのまま奇跡が起こると信じこんでしまう人、・・この2つの場合は、キリスト信仰には至らない例となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡という超常のことは、神に任されるべきことです。人がどうかできることではありません。つまり神の行為であり、人の信仰の信条とは成りえないのです。奇跡が起こるという希望を抱くことはあっても、奇跡が起こると信じ込むことは、神の行為を決めつける冒涜です。
 
私たちが受け取れる、そして、受け取るべきことは、キリスト・イエスの、人々に対する共感性にあります。人々の置かれている状況と事情を洞察し共感するキリストからの教えは、人間がいかに不完全であるか、そして、キリストがいかに共感しているかが分かります。
 
ゆえに、人生におけるキリストの同伴を受け入れることが信仰です。言い換えれば、イエス・キリストの御名によって、神に祈ることが、信仰であります。正義や善は、信仰に伴うことがありますが、信仰そのものではありません。ゆえに、罪人にも信仰が生まれ得るのです。
 
そういう目で聖書、特に、新約聖書を読むと、いかに、不完全の自覚を持っている人ばかりが救われているか、ということに気づくのです。不幸の分、自分を空しくしているような人々なのです。取税人、娼婦、姦淫を犯した人、病人、犯罪人・・などです。絶対孤独から絶望していた人々です。
 
一方、キリストの敵となったのは、自分は高いと思っている人々でした。高慢はくじかれ、傲慢は裁かれるというのが、キリストの教えです。聖書では、例外はあるようですが、パリサイ人や祭司、そして、言葉だけに詳しいと思われていた律法学者たちでした。
 
こういうキリストに憎まれた偽善者になってしまう恐れは、今の時代でも反キリストとして、キリスト教の内外に、たくさんいるわけです。絶対孤独から解放された人が、裸の王様になってはいけないということです。また、安っぽい教条主義だけで、自己満足してはいけないということでもあります。
 
キリストの共感を受けて、キリストに共感する人は、キリストの民となり、キリストの同伴をもって、絆(ほだ)され、そして、生き直し、比喩的には、生まれ変わるゆえに、正直な祈りを、人から神への唯一の音信として、信仰生活を送ることになります。正義と善は、ここでも、結果に過ぎません。
 
キリスト信仰の福音は、正義や善を勧める教えではありません。もちろん悪を勧める教えでもありません。一途に救いを伝える教えです。一途に、孤独ではないことを知らせる教えです。正直な祈りだけで、信仰の義を与えられて生き直す日々を伝えています。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  相対性情緒
 
討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のボンヤリ言語というのが「大事なことだと分かって」「実践するのは難しい」に表れています。反省できなければ人間ではないということを、難しいことのように言うのは、反省する気がないということで、「んだよなあ」という語尾で「人間の性」と一般化するという気色の悪さです。
 
楽山の文章を見るとき、体質として性癖として身についてきたボンヤリ言語と、三文芝居のトホホ言語に、安っぽく同情するか、気持ち悪い作為だと気づくかで、楽山の罠にはまるかどうかが決めってくるようです。嘘と詭弁だけの楽山は、善きものをことごとく捨ててきたのです。
 
 
 
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  矛盾の信仰3
 
 
神は人知を超えた御方だから、神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと、なぜか、神の奇跡とその意味を得々と語る人がいます。神は人知を超えているのに、なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのでしょう。そのような説明は不可であり、それが確信ならば、その確信は信仰ではありません。
 
人は考える動物だから、人と、神という超常の主との違いも弁えているはずなのに、もし、人が、自らの確信を、超常からのお告げのように、信仰として神の御心として語るなら、神を恐れない身の程知らずであります。神の意志と行為を、希望することはあっても、決めつけてはいけません。
 
その最悪の例は、楽山のように自らの狭い概念の中に納まるような軽薄な神概念を真の神の共通概念と勘違いして、否定して、信仰を否定することです。分からない、知らない、ということを弁えることのない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞま)しい有り様なのです。
 
聖書は神の言葉でも、人の解釈を通さずに読まれることはなく、人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに、しばしば聖書を解釈した自分の言葉を神の言葉として語ることで満足してしまうのは、明らかに、神に対する越権行為であり、背教であります。
 
一方、信仰者には、神を信じようとする確信の意気の強さだけで理想化された偶像として人に作られてゆく神概念ということが起こる危険があります。このように、自らの信仰は原初において自分の理想化という過ちによれば、既に矛盾しているのです。
 
その矛盾を省みず、神について聖書について、誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず、確信として押し通せば、楽山と同様の救いがたい妄想となって、もはや信仰ではないのです。
 
そういう矛盾を超克する手段は、呆れるほどシンプルです。そのシンプルさゆえに、全ての人に信仰を語る伝道が成立しています。
 
それは、神に対しては、嘘を吐かず、飾ることなく、正直に祈ることです。
 
それだけが、人間が、神に対して出来る最大の真実だからです。
 
人間において、矛盾の原罪は避けることが出来ません。それが、思い描く神はどこにもいない、思い込むのは信仰ではない、また、聖書を人の言葉の能力で読んでいる、ということの理由であり、人の罪性に直接に執拗に関わってくるのです。ここに気づいている人は、驚くほど少ないでしょう。
 
矛盾は信ずるに値しないと思うのは誤っています。矛盾や疑問が何もないならば、信じる必要はないからです。その場合、完全に理解できないなら信仰は捨てたほうがよいのではなく、矛盾や疑問があっても、キリストに繋がってしまった者においては、祈るしかない、ということの理由となるのです。
 
動物よりもマシに生まれて、寸足らずの思慮を持って、矛盾があることを認めても、正直に祈ることをやめられないならば、それが理屈抜きの信仰であり、尾ひれの付かない信仰であり、原初からの信仰の流れが続いている信仰の経過であります。
 
神が人知を超えた御方というのは、人知を超えている神を確信することではなく、神を思えば思うほど、神について自分の確信をもって語ることは出来なくなるという、神への恐れ、敬虔なのです。
 
神の立場はもちろん人にはなく、人の立場においても、場合によっては、達し得たと思うとき既に足元は崩れつつあるという常態があります。ゆえに信仰の言動において、柔和でバランスの取れた口数の少ない「敬虔なクリスチャン」は社会通念のイメージに過ぎません。
 
神を "正しく" 信じるのが正当なら、救われるクリスチャンは、私を含めて一人もいません。自分が正しくないことを認めたところから信仰は始まって、その罪が信仰によって赦されることはあっても、信仰によって正しさが担保されることはないのです。
 
神を恐れる人は、矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり、それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえない人です。しかし、うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても、本当に「神への恐れ」を知る人は極めて少ないでしょう。
 
神のみに希望を寄せる者は、この地上では、孤立しており、倒れており、這っており、狂っており、狂っていると見なされて、ときに悲鳴のように呼ばわるが、その声を聞く人が殆どいないという現実に返され、うちのめされているでしょう。
 
そういう状況でも、神の与える希望が絶えることはなく、キリストの目に見えない臨在も絶えることがなく、信仰者は、キリストの共感によって生きているのであります。信仰者は祈り、乏しい信仰の心のうちに讃美するでしょう。 ホサナ(救いたまえ) そして ハレルヤ
 
 人からの白目の視野に生きて雪
 
 
矛盾を超える絆(きずな)とは

矛盾を超える絆(きずな)とは
 
 
(2012年)(2020年)(2021年)
(2022年04月08日、再録+加筆)
 
 
 
  祈り(抜粋)
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
 
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
 
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
 
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
 
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(ただ私は、人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、限りある命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを体験したのだから、それを福音として受けとめるほかはなく、永遠の同伴者・永遠の友・主イエスキリストによって表わされた父なる神の愛にこの魂を委ねるほかはないのである。)
 
私という矛盾があなたの手の中にありますように
私というウソがあなたの手の中にありますように
あなたの真実が私の中に与えられますように
私の病気があなたの手の中にありますように
私の健康があなたの手の中にありますように
私の命があなたの手の中にありますように
私の寿命があなたの手の中にありますように
私の生も死もあなたの手の中にありますように
私におとずれる幸いも災いもすべて
あなたから与えられますように
私の不幸と幸福があなたの手の中にありますように
私の喜びも悲しみもすべてあなたの手の中にありますように
あなたのお叱りと救いが私とともにありますように
私の信仰と希望と愛があなたによって導かれますように
私の受けるべき盃が
たとえ苦くても甘くても
あなたから与えられますように
いつの日かあなたの御手にいだかれて
眠ることができますように
わが魂を御手にゆだねます
主の御名によって、アーメン。
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
 
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
 
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上
いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったり
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
 
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
 
 楽山のツイッターです
 
心機一転★こも楽山
@komo266
優秀な人に対しては、たいていの人は「すごい」と称賛するか、「よし、自分も頑張ろう」と励みにするかであって、劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人はそんなに多くないのではなかろうか?🤔
午後8:50 · 2021年3月31日·Twitter Web App
 
不遇の体験から、信仰に目覚めるのではなく、勘違いの逆恨みで、神は何もしてくれない!と、激しく憎み、それが、持続する怨念となって、神を否定し続けて、人を恨み、宗教について、人を騙すことだけに専念している者もいます。
 
神が、勝手に、自分の都合に合う存在でないと気が済まず、その、矛盾と思い込んだことを克服できず、単純に、怒り、憎しみ、恨み、その陰性の感情を隠して、丁寧語で、神不在を宣伝するものとなっています。
 
その報いであるかのように、単純で浅い思慮と鈍い感性によって、ますます、聖書や本のみならず、人の言葉すらも理解できなくなり、むごたらしい有り様となっています。自分信仰に走って、反省も後悔もしなくなったからです。
 
自分なりに頑張ろうとは思わず、それこそ、神に対しても、人に対しても、「劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人」即ち、ルサンチマンの人になって、痛めつけることばかり考えているのです。近づくと危険な人になって黒い道をふらついています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
1のコメントが、楽山ブログを今まで見てきたかぎりでは、一番まともなコメントだと思います。楽山の書く文章は、いつも、自己中と、語尾の曖昧さと、評論家気取りが、臭くて臭くて、とても読めたものではないです。ゆえに、毎回、このコメント1と、楽山のふざけたレスを載せています。
 
 
 
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  良心3
  
 過去記事「良心」+加筆
   に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。また、人間としての知性と感性を捨てるのでもありません。人知を捨てて神に従うのでもありません。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。どちらにも神の導きはあるけれど、人は、それを確定できる能力を持ちません。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。人に理解できない魔法のような奇跡は、信仰ではありません。
 
 ここでは、本来のあり方として考えて、書いてゆきます。
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は神への冒涜です。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰にいるから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖についての決めつけは、神への冒涜であり、人に対して弊害を招くものです。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定できません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総てをご存知の神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、そのように言っても、実際は、自分の自由意志です。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰でしょうか。正しいでしょうか。下手をすると、自分が、神の意志を代行するかのように、振る舞ってはいないでしょうか。この疑問に、一般的な解答はありません。疑問をいだいて、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこと、聖書に親しみ、聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、精いっぱいの良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえなくても、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、そうするしかない、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだ、という自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを知っています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっていない、そして、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされる、ということが分からないのです。良識・反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 

人間としての正しさ

人間としての正しさ
 
 
(2020年01月12日、同日一部修正)
(2021年01月16日、再録+、さらに同日一部修正)
(2022年01月19日、再録+加筆修正)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
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  反面の偽善者2
 
   善ではない
 
洗礼だけなら信仰ではない。
儀式の過去は信仰を保証しない。
 
善の意識だけなら信仰ではない。
できるだけ、では、安い道徳に過ぎない。
 
全能の神聖に向かって
守っていますなんて通用しない。
 
人に対して
ほどほど善い人になるのが信仰ではない。
 
それは信仰の目的でもない。
それは信仰の達成でもない。
 
信仰は道徳ではない。
信仰は戒律でもない。
信仰は保険でもない。
 
そこを外せば信仰ではなく
そこを弁えれば信仰となるのは
 
神聖に対する正直さだけだ。
神聖に対しては正直しか通用しない。
 
信仰の義は
知っていることではない。
分かっていることではない。
守っていることではない。
それらは神の前で
人間には成り立たない。 
 
 
神聖の前で嘘を吐いてはいけません。すべて見抜かれているのだから。
神聖を恐れるなら、キリストを愛するなら、人に弁えられるのは、御前での正直さだけです。
 
神聖なるわざを整えるのは神の仕事。評価するのは神の仕事。裁くのは神の仕事。
 
 
人の善などはことごとく神の前では成立しない。なぜ体よく整えようとするのだろう。それは神の仕事です。だから人が、神に対して捧げられるのは、善ではない。
 
※ できるだけ頑張っているのだけど・・通用するのかなあ・・などとあいまいな考えで、神を侮るものになってはいけません。こういうのは、反キリストの偽善者のすること。
 
私たち人間は、神の前に捧げられるような、いかなる善も持ち合わせてはいない。人に出来て、神の御前に出せるもの、正直以外に何があろう。罪を犯しても、神の前に正直であるなら赦される。
 
人に善人と言われ、熱心な信仰者と言われても、神の前に飾る祈りは聞かれない。神に対して偽る祈りは退けられる。神を偽りの讃美で包む者は、偽りの赦しで包まれている。
 
人は騙せても、神は騙せない。既に総て見抜かれているからだ。ゆえに、信じるに値する。
 
正直な祈りだけが赦され救われるための唯一の条件である。
 
背いた者が、主のもとに戻る道もそこにあり、そこにしかしかない。神に対して、人の道徳など通用しない。いかなる功績も、自慢も、誇りも、通用しない。神の前に、人の道徳など成立しない。
 
神が、総てを見抜かれる有り様を、人は地上で知り得ない。だから正直以外の捧げものはないのである。
 
 
   反面の者
 
 神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
 議論の対象になりませんね・・などと言う者がいる。
 
 ああでもない、こうでもない、ていうか
 それが信仰というものなのかなあ・・などと言う者がいる。
 
 説明も解説も弁明も反論も反省もできない者たちだ。
 代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるだろう。
 
 ずっと神聖に向かって
 立小便をしている者たちだ。
 真実を排泄物に変えてゆくく者たちだ。
 
 こうなってはいけない
 というモデルとなるために生まれたのだろうか。
 
 罪の門口に行って
 やがて来たるものを待つためだろうか。
 
 反面教師、即ち、悪い見本がいて、教えたがる。
 
 
御心は測りがたいが、偽善者の謀ることは御心ではない。神の前では総てが明らかにされ、反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者にも、御心は測りがたいが、折に触れて反省はいくらでもできるのが、神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白と悔い改め。
 
偽善者は虚偽と詭弁と不感不応。
 
 
神の啓示と聖霊の導きについては、人は、これがそうだとは言えない存在。
 
 
 神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
 感じることと考えることを怠っているのであり、
 既に信仰者ではない。
 
 幼稚で滑稽な詭弁を
 さも重要であるかのように
 言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
 滅びを自覚できない。
 
 彼らは
 自覚しないまま
 人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
 平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
 彼らの褒め合い笑い合うに任せるしかない。
 
 信仰者は
 信仰にとって破壊者にしかならない者たちに
 近づいてはいけない。
 彼らは見え透いた冗談のように虚しい。
 
 偽善者を知ることは重要である。
 その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は神聖を根拠にはできないことを知っている者です。神の啓示と聖霊の導きについて、不完全な罪深い人間は、これがそうだとは言えない存在だということを知るのが信仰であります。
 
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆくのです。できることを精いっぱいする、知らないことは知らないと言う、それが、キリスト信仰者です。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり、
人は、神を恐れるならば、神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
 
反面教師・気前者

反面教師・偽善者
 
 
(2019年08月14日)
(2021年10月25日、再録+)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  スイッチ
 
今死に果てれば未来が見えぬ
生き果(おお)せる間は過去が消えぬ
身を捨てて苦楽の時を消すか
身に沁みて苦悩の時を見るか
独りの 時は本当に消せるのだろうか
独りの 時は見られることがあっただろうか
いずれいかなる時も消え失せるとしても
自分で触らない限り
スイッチは「生」のまま
今はまだ召される時を待っている時
時に踊り
時に沈む
時の果(はか)に任せて
 
----------------------------
※ 「果(はか)」は、
「はかどり」「進み具合」といった意味で使ってみたつもりです。
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
 
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
 
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
 
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
楽山日記、誰なのか分からないコメント。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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