ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偏見

 
  楽山の現実離れ2
 
 大川隆法と高橋信次
 2021年12月19日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を再録・加筆・批判。
(隔日投稿になるかもしれません。)
 
 
現実の問題を認識せず、自覚も病識もなく、自らの罪と悪と偽善に全く無反省で無責任な楽山が、他者の現実離れを批判しています。自らの嘘と詭弁と悪と偽善と無理解について何の反省もないまま、また、批判者を気取って、自己顕示してきます。そのような資格は、楽山にはないのです。
 
 
*まえおき
大川隆法と高橋信次について他所で書いたので、それを再構成して以下にまとめました。
*まとめ①
思うに、大川隆法は高橋信次の教えをそのまま流用しているといっていいでしょう。
具体例を書くと、まず高橋信次は次のことを説いていました。
霊界は、四次元、五次元、六次元…と区分されるとしていた。
霊界には仙人天狗などの住む裏側があるとした。
九次元は、仏陀、救世主のいるところで、釈迦、キリスト、モーゼらがいるとしていた。カンターレ、リエントアールクラウドの存在も説いてた。
太古の昔に、宇宙人が地球に移住してきたとした。
波長同通と憑依の関係も説いてた。
本体1、分身5の魂の兄弟が生まれ変わりつつ魂修行してるとした。
大川隆法はこれらの教えをそのまま流用していることは、HS初期を知っている者であれば周知の事実です。
また枝葉を取り払った本質論でみれば、さらに両者の教えは同じことが明らかになります。高橋信次と大川隆法、どちらの教えも、人の本体は霊であり、輪廻転生をしながら霊性を進化向上させているという霊性進化論に根ざしてることは完全に一致してるので…。
 
宗教の話として、超常を語るのは、大方、絵空事です。宗教と信仰は、現実を生きるためにあります。超常をいくら詳しく語っても、それは現実を怒ることにはなりません。空想の、いい気分が信仰ではありません。むしろ現実逃避になって、さらに変人になって、実生活において通用しなくなるでしょう。
 
楽山は、正すために書いてはいません。正す人は、反省もするはずです。楽山は、無反省に、他者を責めることに快感を覚えて、その偽善の立場を通そうとして、正義の味方の客観的な批判に見せかけた嘘芝居と詭弁をインテリ気取りで書いているだけです。楽山は、インテリ気取りのインチキ雑言です。
 
「霊性進化論」は、恐らく、空論~せいぜい仮説でしょう。しかし、楽山は、真に受けて、真に受ける資質があることを空しくアピールしたいのです。理屈の葉っぱを見せて、理路の根っこを何も持たない楽山の、出まかせの空論に、誰も惑わされることのないように願っています。
 
 
*まとめ②
思い出したけれど、初期HSに、元GLAの人たちが多く集まった理由の一つは、大川隆法が高橋信次と同じことを説いていたからでした。
今のHSでは、高橋信次は低評価されているし、現HS信者が大川隆法は高橋信次と違うと言いたい気持ちは理解できます。でも自身の信仰や願望に埋もれて現実を見失ってはいけません。現実は現実として認めなければならないのです。現実が分からなければ、現実と信仰の差異が分からず、結局は信仰さえも分からなくなるからです。
余談ながら、HS信者が議論に弱いのは、現実は現実として認めることができていないからだと思います。
 
楽山は何も「理解」など出来ないと思います。楽山は、無反省、無責任、無学習のために「見失って」いるもので出来ていて、何も新たに受け取れない精神の病質で、現実検討能力がありません。今までの経緯から、自己愛性人格障害の楽山は、正当な評論も議論もしたことはないと思います。
 
 
*まとめ③
大川隆法は高橋信次の教えをほぼ流用したから、元GLAの人たちが集まってきたのでしたが、その後、大川隆法はその部分を改変、否定したため、それらの人たちは去ってゆくことになりました。
大川隆法が改変、否定した高橋信次の教えは、こういうものです。
心の調和が大事。それなくしてペンダント、法具、儀式など意味無し。
疑問追求。疑って疑って疑いきれぬものを信じる。
人につかず、組織につかず、法につけ。組織の歯車になるな。
教祖崇拝はだめ。嘘のつけない自分の心、内なる神を信じよ。
ただ大川隆法はこれらの教えを改変、否定しても、次元論という世界観は変えていません。次元論を否定したら、大川隆法はは高次元の存在だという自らの権威の拠り所を失うことになるので、それはできないのでしょう。
その結果、大川隆法は高橋信次を否定しながらも、高橋信次の世界観、霊界観からは一歩も出られないということになっています。大川隆法は昔はもちろん、今現在も高橋信次の掌の上にあるということです。
(画像省略)
 
ごちゃごちゃと書いて、偉そうに見せるのは、楽山の、嘘っぱちの生業(なりわい)であります。楽山が、何かを分かって言っているなどと思わないでください。読書も作文も、だますための実感の無い詭弁であり、説得力は皆無です。楽山は、語るだけの根拠を、学習していないのです。
 
楽山が文章の中で使っている用語は、それ自体が説明を要するテーマとなることで、その用語だけでは意味不明なことが多く、説明の出来ない楽山は、そういう用語を並べて、文章の体裁だけ専門家であるかのように見せかけているだけなのです。「内なる神」について楽山は何も分かっていません。
 
 
*おまけ
山内氏のツイートによれば、『黄金の法』(旧版)において、大川隆法本人が、「私は、人間・高橋信次の遺した心の教えを土台として、さらに、これから五十年近い年月の間、正法神理を説いてゆこうと思っております」と書いていたようです。大川隆法は高橋信次の教えを流用しているというのは、私が言うまでもなく、本人がそのように宣言していたということです。
(画像)
ちなみに、この辺りの流れを整理すればこうなるでしょう。
大川隆法は、高橋信次の教えを引き継いだ。
その後、大川隆法は高橋信次を批判、否定した。
けれども、自らの教えの土台となっている高橋信次の教え(霊界観、心の法則など)までは排除できなかった。
大川隆法は、今現在も、高橋信次の霊界観、世界観によって立っていて、その影響から脱しきれていない。
こう見ると、大川隆法は他宗教を凌ぐ独自の教えを説いたわけではなく、高橋信次の教えを流用したにすぎず、その実態は高橋信次の没後弟子であり、分派にすぎないことがよく理解できるのではないかと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLAの創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。
 
楽山は、ORを批判する根拠に、ORが、別の、神仏への信仰を真似ていることを指摘しています。ならば、この、別の超常信仰を肯定しているのでしょうか。どちらも超常を規定する信仰ですから、結局、楽山は、小児期からの、霊が分かるっぽい自覚からの高慢を表しているだけです。
 
だとすれば、楽山は、他者を利用して、結局は、自分が教祖にでもなりたいのだろうという推測が可能です。今までの経過から、実際の楽山は、反省も学習もしない嘘吐きの詭弁屋ですから、その薄汚れた精神から浅ましい欲望を貪っているに過ぎません。
 
楽山を受け入れないでください。楽山の理路めいた言説は、楽山と同じような自己愛性パーソナリティ障害NPDへ通じて誘導するだけの、嘘と詭弁以外何もない空虚な精神崩壊への誘導の入り口なのです。楽山に関わらないでください。楽山を相手にしないでください。お願いします。
 
 
ちんどんは神を知ってるつもりで人を知らない

ちんどんは、神を知ってるつもりで、人を知らない
 
 
(2021年)
(2023年01月03日、再録+加筆)
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘ばかり重ねる楽山に、だまされないように、楽山がネットに開いている嘘吐きそして高等感情鈍麻養成の出店を畳むしかなくなるように、誰も楽山を受け入れないように、祈り願っています。楽山の気取りは、異常であり、病気であり、不治なのかもしれません。被害は小さくないと思います。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あけましておめでとうございます✨
本年もよろしくお願い申し上げます🤗🎍
午後0:58 · 2023年1月1日
 
楽山のツイッターです。白々しい新年の挨拶です。誰も関わらないでください。12月31日のウイルスか荒らしの悪戯に関わっている疑いがあります。平気で嘘を吐く人です。無反省そして無責任の自己愛性パーソナリティ障害NPDです。新年を祝っていい人物ではありません。関わらないでください。
 
 
2023年元日コメントが付きました。解除方法が書いてありました。しかし、それ以前に、どこを押したかは忘れましたが、試行錯誤で、ウイルスか荒らしの広告は消すことが出来ました。コメント者は謹賀新年というリンクのないHNです。楽山かもしれません。楽山に関わらないでください。
 
 
サーバー
ブロックされています
@taka84156681さんのフォローやツイートの表示はできません。
 」
 
楽山と思われる taka のツイッターは、だいぶ前にブロックされているようです。楽山が、何か、ルール違反でも、やらかしたのでしょうか。原因は不明です。楽山のネットにおける前科なのでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
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  自由と解放3
 
 
信仰は
欲望や、世俗のしきたりや、先入観や偏見などの
戒律みたいなものに縛られる心から
基本的に
神の御心を思う世界へ
生き方の方向を変えることです。
神様のほうを向くという表現もあります。
つまり生き方の方向転換と言えるでしょう。
 
こだわる物事が別のものへ変わるのではなく
こだわりという不自由からの解放
つまり自由ということです。
そうでなければ信仰は無意味だからです。
 
信仰は取引ではありません。
何かを捨てて別の何かを得るという交換ではありません。
信仰は気づきの世界であり
物事の集合を本質としてはいないからです。
 
つまり信仰は
自分を縛っていた様々な不必要なことへの隷属から
人を解放することであり
世俗への強迫的こだわりからの自由でもあります。
 
それが新たな"信仰?"への縛りに強迫するのでは
もはや望ましい信仰ではないのです。
つまり
信仰は信条への束縛ではなく
世俗へのこだわりからの解放であり
どこまでも
自由意志によるところの信仰です。
そうでなければ意味がありません。
 
ゆえに信仰は
決して強制できない本質を持つと言えます。
 
ゆえに信仰は
人間の自由意志による可逆性を持つとも言えます。
 
ゆえに信仰は
縛られることではないということです。
 
信仰者になって
様々な信条や教理に
新たに縛られたのでは話になりません。
 
ゆえに
信仰において忘れてはいけないことは
神への正直な祈りだけです。
 
あとは折に触れて聖書に親しむこと
というようなシンプルさであることが必要です。
信仰の知識はその中で自然と学ぶこと以上ではありません。
 
 注意してください。
 信仰を
 神についての妄想的教理に誘うもの
 何でも神が味方という自己中に誘うもの
 優しくて穏やかな神だけを伝えるもの
 逆に教条の戒めにうるさいものとするなら
 これらはキリスト信仰ではありません。
 
信仰は
神に対する善でも正しさではありません。
そんな正しさ、地上の誰も持ち得ません。
 
信仰は
神に対する正直だけが本質です。
それだけが神に対して人の出来ることだからです。
 
ですから、また、
信仰は道徳の寄せ集めではありません。
 
世俗からの解放は
世俗の物事を全否定することではなく
世俗にこだわり縛られる心を解放することであります。
 
ですから信仰は
世俗のあらゆることを捨てて
世捨て人になることではありません。
 
また信仰は
教理や信条だけで言動するように
他の関心事を捨てることではありません。
 
というのは
そのようになってしまうことは
信仰に献身したというより
信仰から人間性を外して
信仰が単純なマシーンになるようなもので
むしろ神が与えた心や自由意志を捨ててしまうことであり
一種の強迫神経症に過ぎないからです。
 
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
そこから良心も人間としての正義も生まれます。
しかし人間に絶対はないので
意見があり、また、批判があるのです。
 
最悪なのは、神の名によって、それらを封じることであります。
 
二番目に悪いのは、神の名によって、
都合の良いほうを残し、不都合なほうを封じることであります。
 
次に悪いのは、封じることはしないが、無視することであります。
それは、信仰においても、人間性においても、まともではありません。
 
カルトや自己中やサイコパス的人物は、
そういう、隠蔽、無視、などをする者たちであります。
いかなる社会においても、まともに付き合えない者たちであります。
 
信教の自由と言論の自由は
信教の責任と言論の責任を負う
という前提において保証されるべき自由であります。
 
カルトや自己中やサイコパスは、
自由勝手に言動し、かつ、責任を負わない者たちです。
ゆえに、平気で、人を無視し、嘘を吐けるのです。
 
 
信仰において許される自由は
信仰によって与えられる解放に伴うものです。
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
信仰は決して人間の知情意を束縛するものであってはいけません。
それは、神をけがす行為であります。
 
信仰は人間の知情意の良心を促進するものであり
縛られていた心の束縛からの解放によってもたらされます。
 
いつのまにか人間の心をだまし束縛する者がいて
そういう者を、誤って信頼したり、鵜呑みにしていると
いつのまにか自由を失って人格が破壊されてゆきます。
 
間違っても信仰が神?による束縛や縛りになりませぬように。
 
信仰が魂と心の自由への解放となりますように。
 
 
信仰は禁欲に置き換えられるものではありません。
禁欲は、修養としてはありますが、
それで信仰が成るわけではありません。
 
欲に縛られるから、
縛られないように欲を捨てる
という幼稚な戒めで信仰は語れません。
欲は死ぬまでついてくるからです。
 
信仰は関係であり絆であり共感であります。
ゆえに生きる希望と愛になりうるのであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
情欲の聖句は
情欲についての戒めにとどまりません。
聖句のモジリを書いておきます。
 
人を欲の目で見る者は姦淫を犯したのである。
 
つまり人はしばしば欲の目で見ており
すでに、そして、これからも、姦淫を犯します。
姦淫は、情欲だけでなく、偶像崇拝であり、
この場合、欲への崇拝を意味しています。
 
情欲の目を慎みましょう
などと言う道徳では決して表せないものです。
 
「情欲をいだいて女を見る者」は総ての人であり
総ての人が罪人であることを表すための聖句です。
 
「女」(口語訳)→「人の妻」(新共同訳)に書き換えて
安い道徳におとしめるのは偽善者と言われても仕方ないのです。
キリスト信仰は
浮気をしなかったら救われるという単純な道徳ではありません。
 
したがって罪なき者は一人もいないのであって
信仰者は、心の向きを変えて、
神とキリストのほうを向いて祈るでありましょう。
 
欲から自由になることが信仰なのではない。
欲は誰にでもあり、信仰者だから清潔ということはない。
何を仕出かしても、
神の義のほうを向く心があるかどうかだけが信仰の有無であり
すなわち
正直に罪を告白し祈る心があるかどうかだけが信仰の有無であります。
 
祈りは、おもに、悔い改めのためにあります。
悔い=人に言えなくても、罪悪感を持ち、罪を自覚し、罪を後悔すること。
改め=折に触れて、祈ること、
即ち、そのとき、"神のほうを向く"ことになる。
 
それが、世俗から神へ、拠り所の向きを改めるということです。
そして、正直に罪を告白して、赦しを乞い、願いを述べる。
というのが信仰者の務めであります。
 
信仰は取り引きでも魔術でもありませんので
すぐ何もかも解決したり幸福が訪れたりするわけではありませんが、
祈ることで、何らかの心の安らぎを得る
というのは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
地上の現象としては、心理的効果と言われるでしょう。
それでもよいと思うのは
神のもたらす働きを
地上の人は、いちいち、これは神が、
きっと神がと、確認できるわけではありません。
 
神という絶対者に、キリスト・イエスの御名によって、
祈るということを旨とする暮らしが、何よりも大切であります。
 
祈ったことは、すべて、神によって、聞かれている
というのは、祈りの信仰の中心であります。
 
しかしながら、
その祈りは必ず神に受け入れられている、ということは言いにくいのです。
というのは、偽善者も、欲望実現のために、偽りの祈りはするからです。
 
神は、確かに、一言一句漏らさず、聴かれるでしょう。
しかし、届く意味は、信仰者と偽善者では、正反対になります。
 
ちなみに、私が聖書を読んで考える善悪の言葉は、
悪性度の高い順に、偽善>悪>善>偽悪、と考えています。
 
キリスト信仰は
偽善を最も忌み嫌うことが聖書に表されています。
 
 
人間一般に、かなり蔓延している病のような欠点があります。その欠点を認識するかしないかで、罪人の信仰を持ちうるか、偽善者の傲慢を持ってしまうかが決まります。
 
その病は、"分からないと言えない" ことです。
 
 
神の前に正直な祈りを

神の前に正直な祈りを
 
 
悔いても、過去も未来も、改められないことが人間にはあるでしょう。
 
悔い改めとは、完全になることではなく、生きる方向を改めることであり、
神に対してだけは、正直に告白することです。
 
 
思考実験として、自分のいちばん大事にしている利点や利益や物や、さらに人が奪われたら、信仰を捨てるかと自分に問いかけてみる。私の場合、信仰に条件をつけてはいけないから信仰を捨てない・・とまで言えるかどうか分からない。けれど、他に支えがないから・・とは言えそうです。
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月23日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  (抜粋)
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  (抜粋)
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
 
私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
 
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
 
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  (雑感)
 
人間は
たぶん
孤独でも
孤独でなくても
騒がしくても
騒がしくなくても
心に
温もりと
潤いを持てるあいだ
生きてゆけると思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、誰にも正直な告白や祈りをしたことはないと思います。楽山が書いてくる文章は、「反省。とほほ」など、白々しい芝居や世辞や嘘ばかりです。楽山ような人は、自分に対しても正直になれず、正当化して飾るための言葉を集めているから、結局、理路までも壊れてしまうのです。
 
心に、感情としては、笑いと怒りしか持てないのが、サイコパス人格です。何が欠けているかと言えば、しんみりとした悲しみの情です。悲しみは、人間としての不完全を自覚し、じっくり反省するために必要です。悲しみの時が訪れても、怒り、狼狽するだけなのだがサイコパス人格です。
 
 
 
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  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
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