ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偶像

 
  神と偶像3
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであります。
ゆえに神は、常に、
正直な告白の祈りを待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての正直な告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
神に正直に祈る人は
神に対しても人に対しても
だますために悪意で嘘を吐くことはなくなるでしょう。
つまり、善行は結果の一部に過ぎないのです。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
とりわけ讃美の回数や強さではなく
 
神の前の正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
つまり嘘を吐くわけですから
神に対して
偽りを続けているのです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
自由意志の悪意によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエスは
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書は明確に伝えているからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
(2022年02月18日、再録+)
 
 
偶像の飼葉

偶像の飼葉(かいば)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。
 
「(引用ツイート)
(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 
8:3-5
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6-8
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 
8:10-11
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書)
 
キリストにまつわる「美しい話」というだけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。楽山が病質によって救いから除外されているとしか思えない根拠でもあります。
 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えている中身には、一切触れることが出来ず、理解も出来ないのに、「あとで挿入されたもの」ということだけを取り上げています。信仰は、聖書から心の癒しと救いを受け取ることです。
 
楽山は、何も受け取れないことで、逆恨みをして、おかしいだろと、いちゃもんをつけてきます。つまり、楽山は、中身を読み取れない代わりに、それを聖書のせいにして、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD、サイコパス(精神病質))の人でしょう。楽山は、宗教を否定するためにだけに聖書を取り上げています。哀れですが、こういう者が、キリストの敵、反キリストになるのです。
 
楽山の、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめたいだけの憎しみからの偏見~妄想のゆえだと思います。インテリを気取っても、チクリと刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、ということは、楽山のような人には、聖書を読むために必要な良心の感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いも癒しも何も受け取っていないということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはないでしょう。楽山が、その見本となっているということです。聖書を読めない愚か者が、あらかじめ定められているのでしょうか。それは分かりません。
 
楽山が、いかに聖句をバカにしているかが表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、その愚見を自分で言いふらすことで信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その他害性は明らかであり、反キリストが自分は反キリストだと自己顕示していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、結果として、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しています。聖書の大事なところを理解しようともせず、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、石を投げて、ペッペッと唾を吐いているようなものです。
 
 
あとからの加筆を、しれっと、楽山もしているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。
 
楽山は、中身の重要性の中身について書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのです。付け加えると、私は、新共同訳を信頼していないので、新共同訳に書いてあるなら、訳者のこじつけか言い訳に過ぎない可能性もあります。
 
信仰が、神を信じて完全な善人になって救われることではない、ということです。完全な善は、神のものであり、人の手に負えるものではありません。キリストは、姦淫した女性が、自分を飾れる立場ではなく、即ち、ご自身の前に正直であるしかなかったから、救いを与えのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
こちらの記事で批判してきたように、いちゃもんだけを書いてきた楽山ですが、ここ2~3日は目立った動きがないと思っていたら、ツイッターのほうに、当てつけがましいツイートやリツイートを載せてきます。自己顕示欲、教祖願望、インテリ気取りが、抜けることはないようです。
 
教祖願望から、悲劇のヒーローのつもりでしょうか。楽山は、いかなるヒーローにもなれない嘘吐きです。被害者のつもりでしょうか。楽山は加害者です。インテリ評論家でしょうか。インテリジェンスのないケダモノです。理論家ではなく詭弁屋です。詩人ではなく鈍麻した受けねらいです。
 
悪い奴だということが分かりにくいように丁寧語や曖昧な語尾で書いてきます。いい人そう、という安易さで関わると、疲労と徒労から鈍感な人格になり、最悪の場合、奴隷になるでしょう。私は、ヤフー時代に、数か月、楽山の害を体験した被害者であり、とんでもないと反発して、批判を続けています。
 
 
 
 楽山のコメント欄ですが
 
>(第三者らしい)
2022年02月08日 10:52
https://twitter.com/st5402jp
君のストーカー(笑)
それにしても、へのへの爺ぃはしつこいよな。
 
いつのまにか、私は「へのへの」と呼ばれているようです。
面白がり屋の楽山は、私のHNを出してきます。↓
 
5. 楽山2022年02月08日 21:20
そのアカウントは、stさんですね。キリスト教系の方です。
やっぱ、ぽん吉さんからみても、ストーカーに見えるんだね。
へのへのさんのことは、この間、ツイッターで話題になってました。みなが、へのへのさんのことをどう思ってるか分かって面白かったです。
 
楽山は、自分を批判する人を「ストーカー」と決めつけ、意味を拡大して「みなが、へのへのさんのことをどう思ってるか分かって面白かったです。」と、皆が、私をストーカーと思っているという印象操作をして「面白」がっています。自己中サディストの、根拠のない卑怯な筆致です。
 
楽山は、他者を批判に巻き込みたいようですが、私は、このような卑怯者である楽山を批判する動機を新たにするのです。真っ当な返しが出来ない荒らし根性だから、陰で、他者を利用して当てつけてくる卑しさが、楽山の常習そして性癖です。
 
私からの批判の内容に触れずに、侮辱して憂さ晴らしを謀るような、丁寧語の、吐き気のするような筆致が、楽山の特徴です。楽山は害だけで、何の魅力もない人です。決して関わらないように近づかないように注意・警戒してください。表面的に丁寧でも、楽山の心の中は、真っ黒な闇です。
 
私は、楽山をストークしているのではありません。サイコパスで精神が貧困で詭弁屋の楽山には、何も惹かれるものはないです。近づくと大けがする恐れのある楽山に誰も関わることのないように、楽山の欠陥と不正を、多くの人に知ってもらいたいから批判記事を書き続けています。
 
 
 
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  神と人知2
 
 
超常への憧れから信仰者になった人は現実問題に向き合うことが苦手になるかもしれません。
 
現実問題に疲れた人が、何らかの機会を得て、信仰者になる場合には、信仰は、超常ではなく、キリストの愛と共感によって、心で受け取っていると思います。
 
超常信仰は、信仰を驚くべき神のわざとしてしか受け取っていないために、元々の関心が向いていないところの人間性を磨くということを怠りやすく、あるいは、キリストと救われた人々との共感ということに思い至らず、信仰に、超常のしるしを当てはめがちになるでしょう。
 
そういう人は、キリスト教系カルトにつながりやすいので、その人の身近にいるキリスト者が、説明~説得してゆく必要があります。一時の誤解にとどまらず、継続的な曲解になり固定されてゆくのは、カルトの方向です。
 
最も悪質なカルトは、元々、人間性が欠落しているので、超常を決めつけるしかない者たちです。例えば、キリストの奇跡や復活から信仰に入ってくる人は、キリストの人間性や共感という言葉を聞いても、神の恵みを人知で扱おうとするのは不当だ、などと、考えやすくなります。
 
しかし、私たちには、人間性と人間の能力しかないのです。物や肉体の奇跡だけから信仰に入ることは、ありえないと知るべきです。つまり、人間は、人知しか持っていないわけですから、神の与えたものの中で、人知で理解可能なものだけしか、受け取れないはずなのです。
 
聖書には、これまで書いてきたように、人知で、人間性で、人間のふつうの知性と感性で、理解と共感が可能なことが、いっぱい、書いてあります。
 
また、神学や哲学など学問的知識から信仰者になった人は、共感と言った情緒や感性的な側面について、苦手だったり、表現に不自由したりするかもしれません。
 
聖書から受け取ることはいちばん大切なことですが、聖書の解釈について、知識についても、思い込んではいけないことがあります。何より、聖書の教えこそが、聖書についての、人間の思い込みを戒めているのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)9:41
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 (ヨハネ書9:41、新約聖書)
 
 
人によって解釈が違うところで正邪を語るなら、自己解釈正当化の言い張り合戦にしかなりません。解釈が違うということこそ、人の避けられない原罪であります。
 
大事なことは、神の前に、私たちは、神に比べれば、皆一人一人、厄介な罪人であり、何も、絶対に正しいなどとは言えないということです。
 
その根拠は、人は自らの言動の影響を、その影響がなくなる時と所まで、追うことなど出来ない。それは、風を追うような(捕らえるような)ものだからです。ゆえに、良かれと思って、傷つけるということが起きるのです。
 
ただ、その自覚をもって、神に、正直に祈ることだけが、神から、"信仰の義" を恵まれる条件であります。つまり、信仰と救いの条件は、正邪ではないのです。神の前の、精いっぱいの正直であります。そこまでしか、私たちは、神に捧げることは出来ないのです。
 
一方、偽キリスト者や、カルトは、必ず、神の前に、嘘と飾りを捧げます。
 
私たちは、神の前で生きているということです。そして、神に向かって祈るということです。そこで、神とは違う人としての身の程を弁えないならば、信仰は成り立ちません。
 
言葉だけ丁寧な尊敬語を使っても、頻りに讃美の言葉を弄しても、人に思い込んでいることがあれば、神は、それを、総て、見抜いておられます。
 
 
信仰について、神聖について、人の思い込みは、偶像と成りえます。
 
パリサイ人は、そういう決めつけの思い込みで満たされていたので、キリストの言葉を聞き入れませんでした。同じようなことは、今の、特にキリスト教内外のカルトでも起こっています。
 
しかし、カルトではない伝統的なキリスト教の教派なら心配ないかと言えば、決して、例外ではないと申し上げます。何故なら、それは、人の性質、特に、罪の性質が、そうさせるように出来ているからです。罪の性質を警戒しないで、安心の境地にいるつもりの人は、要注意なのです。
 
人は、安心したがります。そのために受け取った良いことを固定したがります。それを、揺るがない信仰などと言いたがります。実際は、思い込みを固定するようになります。思いこみは、心の中の偶像になります。
 
むしろ、そういう偶像については、人間は、持っているもんだという自覚を持つことが、罪の性質を自覚することにつながるでしょう。心の中の偶像は、目に見える偶像のようには、排除したことを確認することが難しいものだからです。目に見えないものは、いつも、確認しにくく出来ています。
 
何かを、信仰について、判断し、実行はしても、御心を思い込んではいけません。神の御心は測りがたいものです。そして、神聖に対する思いこみを防ぐためのヒントがないわけではありません。
 
思い込みはいけないと言われても、ときには、強く思うことが必要です。しかし、強く思うことと、思い込みは違います。強く思うことには、強く思う動機があります。しかし、思い込みには、心を踊らせず快活でない圧力はあっても、大方、心を動かす動機のない教条的なものが含まれています。
 
「神は、こう思っているに違いない」とか「神はこうなさるに違いない」とかを、人に言いたくなるような場合、同じことを、神の前に、キリスト・イエスの御名によって、神に向かって、そのまま言えるかどうかを、まず、考えてください。そうすれば、大方、恐れ多いことに気づくでしょう。
 
正常な祈りは、私はこう思っているのですが云々、とか、私はこうしようと思っています、という言い方にしかならないのです。それを、神を恐れるところの、敬虔といいます。
 
また、神聖に関わることで、自分が思うことの正しさについて、自分が感動という心の動きを自覚しているかどうか、というを考えてみてもよいでしょう。
 
思いこみは、誇大的であったり、陶酔気分であったりはしますが、大方、本当の心の感動を伴っていません。思いこみは、大方、退屈で、ときには、教条的な強迫観念となっていることもあります。
 
 
ちなみに、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、固定しているのではありません。
 
それに、前から言っているように、信仰は、神と人の双方向であります。そのために、祈りがあります。信仰のもたらす平安は、人の、活性のある心において起こる現象であって、不変の悟りの境地ではありません。
 
ゆえに、平安は、安らぎとともに、情熱を与えます。それが忍耐強さにつながります。それらは、多く、祈りに答えて与えられます。
 
神は、人知を超えたことをなさるかもしれません。しかし、神は、人間に対しては、人知、言い換えれば、人間の心に働きかけ、人間の心を導きます。
 
ここで、人知は、知識と思考だけではありません。人知といえば、思考とか知性とかいうと論理を思うかもしれませんが、知・情・意は、人間において一体であり、独立してはいません。
 
 
キリスト信仰者(クリスチャン、キリスト者)は、神のもとにあって、神よりも劣る不完全な存在つまり罪人であること、ゆえに、神からの、赦し、癒し、救い、導きを必要としていることを、神の前に、認めた人であります。したがって、神と人の決定的な違いを弁えているはずです。
 
そのキリスト者が、神聖について、思い込んでいたら、信仰が成り立たないのは当然のことです。思いこみは、あらゆる正しいと思われることに及びます。教理や信条という、一般に正しいと認められたことも、その言葉だけによって心を固定することは思い込みの一種であります。
 
心と言葉は、いつも一体であるとは限りません。聖書を読んだからといって、人の持つ言葉は、神の言葉と、いつも同一とは限りません。その原因は、ひとえに、人間が不完全だからです。
 
一つの言葉が、いつも、一つの心と同一とは限らないということです。変質したり、尾ひれがつくことがあるということです。一つの言葉が、心を動かしても、別の時には、動かさないか、違う作用になっていることもあります。
 
聖句は、同じ言葉だととしても、受け取り側の人の器は、安定しているわけではないのです。心は絶えず動いているものです。ゆえに、理解を新たにする、という成長もありうるわけです。心は固定できません。無理して固定しようとすると壊れてゆくかもしれません。
 
心が活発に動くことで、人間は、生きているのであり、成長もするのです。成長に必要なことは、反省すること、そして、修正可能であることです。新たな感動が待っている可能性があるわけですから訂正不能にしないこと、学習と成長を、積極的に望み、かつ、努めることです。
 
これらの信仰の弁えは、人間の、欲望、特に、完全欲とは対立することが多いので、自発的に積極的に意識することが必要です。キリスト信仰の学習や修養は、ここにあるのでしょう。ゆえに、信仰は、不変の境地ではなく、努力と再生の、生きている間ずっと続く道です。道ゆえに成長が可能なのです。
 
 
神と人知

神と人知
 
 
(2020年05月26日)
(2021年06月01日、再録+)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mm
@masakimuro
《KKことHSがカルト宗教だと言える理由》最初は、愛、知、反省、発展、それから正しき心の探求というのをキーワードとして入信させ、いざ学んでいったら『霊』のことばかり言ってくる。人生は霊によって支配されていると思い込ませる。人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体
午後2:24 · 2021年5月30日·Twitter for Android
 
リツイートの引用元を批判する気はありません。批判対象は、楽山です。
 
楽山が自己愛性人格障害(NPD)だと言えるのは、思いやり、深い思慮、反省力、責任感、学習と成長、こう言ったものが、全く見られない自己中からです。そして、楽山ブログの記事は、多く「『霊』のこと」を、宗教や信仰と混同して、刷り込んでくる無知、そして、無恥です。
 
楽山は、言葉の概念の表層だけを並べて、一見、論理的に見せかけて、人を、だましています。本当の理路を求めている人は、反省力があり、修正能力も高く、かつ、実質において、柔和で、決めつけることのない視野を持っているので、よく成長して知識が豊富なのです。楽山は、逆です。
 
「人の弱い所を見えない物によって恐怖心を煽る。これがカルトの正体」・・そして、嘘と詭弁しか身に着けていない楽山の正体であり、反宗教と、楽山の自己中ボンヤリ鈍麻思想を、刷り込んできます。楽山は、HSアンチではなく、自家製カルト思想で自己満悦を得るために、人を、だまします。
 
楽山は、リツイートや引用で、人の口を利用して、柔和な味方であることをアピールしてきますが、実際は、とんでもない自己中であり煽動屋であり詭弁屋であり、平気で嘘を吐く人です。楽山の言を真に受けないでください、丁寧語に、だまされないでください。約2年間、批判しています。
 
楽山には、深い情緒的な共感性がありません。だから、罪悪感を持ちえず平気で、嘘を吐けるのです。こちらも、楽山の気持ちを知ろうなどと思ってはいけません。批判する人には、楽山に対して、けっして感情移入せず、乾燥遺物を見るようなスタンスが必要です。楽山は紙屑の資料です。
 
楽山は、つぶやくだけならいいだろう、と軽く考えているかもしれないが、性根や魂胆というものは、自分の書いた文章のみならず、どういう本を読み、どういうツイートを読み、どういうことを引用するか、どういうツイートをリツイートするか、ということにも表れてくるものです。
 
都合がよいと思ったら、あとさき考えずに、引用・リツイートするというのは、楽山の場合、以前から、やってきたことですし、表面的に善を表す都合のよいこと、でなければ、相手に都合が悪いこととを、引用して、弁明できない腹いせにしたり、悪口の代用にするということです。
 
引用だから、リツイートだから、責任はない、ということでは決してないのです。無反省・無責任の楽山は、そういうことも、分かっていないことが明らかになっています。これからも、病識も罪悪感もない楽山は、自らの程度の低劣さと邪悪さを、平気で、見せてくるのでしょう。
 
 
 
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  矛盾の信仰2
 
 
神は人知を超えた御方だから
神は人知を超えた奇跡を起こされるのだと
なぜか神の奇跡とその意味を得々と語る人がいる
 
神は人知を超えているのに
なぜ神の奇跡を人知が説明できるというのか
そのような説明は不可であり
それが確信ならば
その確信は信仰ではない
 
人は考える動物だから分かるはずなのに
しばしば人は自らの確信を信仰として神の御心として語る
 
聖書は神の言葉でも
人の解釈を通さずに読まれることはなく
人は聖書の言葉を人の言葉として生かす思慮が必要なのに
しばしば聖書を解釈した自分の言葉を
神の言葉として語ることで満足してしまう
 
神を信じようとすればするほど
ますます神は理想化された偶像として人に作られてゆく
このように
自らの信仰は原初において既に矛盾しているのに
矛盾を省みず
神について聖書について
誤解や間違いや思い込みの可能性を考えず
確信として押し通せば
もはや信仰ではない
 
矛盾の原罪は避けることが出来ない
それが
「思い描く神はどこにもいない」
「思い込むのは信仰ではない」
また「聖書は人の言葉」の理由であり
人の罪性は執拗にかかわってくる
 
矛盾は信ずるに値しないなら
「信仰は捨てたほうがよい」の理由でもある
 
しかし同時に
キリストに繋がってしまった者において
「祈るしかない」の理由でもある
 
動物よりもマシに生まれて
寸足らずの思慮を持って
矛盾があることを認めても
祈ることをやめられないならば
それが理屈抜きの信仰であり
尾ひれの付かない信仰であり
原初からの信仰の経過である
 
神が人知を超えた御方というのは
人知を超えている神を確信することではなく
神を思えば思うほど
神について確信を持って語ることは出来なくなるということだ
 
神の立場はもちろん人にはなく
人の立場においても
達し得たと思うとき既に足元は崩れつつあるという常態
 
ゆえに信仰の言動において
柔和でバランスの取れた
口数の少ない「敬虔なクリスチャン」は
社会通念のイメージに過ぎない
 
神を正しく信じるのが正当なら
救われるクリスチャンは私を含めて一人もいない
 
正しくないことを認めたところから信仰は始まって
信仰によって赦されることはあっても
信仰によって正しさが担保されることはない。
 
神を恐れる人は
矛盾の信仰に身を置いている自らを知る人であり
それでも離れられない信仰について謙虚でしかありえない。
 
しかし
うわべだけ「神への畏れ」を語る者は多くても
「神への恐れ」を知る人は極めて少なく
 
神のみに希望を寄せる者は
大方は孤立しており
さらに倒れており這っており狂っており
ときに悲鳴のように呼ばわるが
その声を聞く者が殆どいないという現実に返され
うちのめされている
 
そういう状況でも
神の与える希望が絶えることはなく
キリストの目に見えない臨在も絶えることがなく
信仰者は
キリストの共感によって生きているのである
 
信仰者は祈り
乏しい信仰の心のうちに讃美するだろう
 
 ホサナ(救いたまえ) そして ハレルヤ
 
 
人からの白目

人からの白目の視野に生きて雪
 
 
(2012年03月)
(2020年03月26日、一部修正)
(2021年04月01日、再録+)
 
 
 楽山のツイッターです
 
心機一転★こも楽山
@komo266
優秀な人に対しては、たいていの人は「すごい」と称賛するか、「よし、自分も頑張ろう」と励みにするかであって、劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人はそんなに多くないのではなかろうか?🤔
午後8:50 · 2021年3月31日·Twitter Web App
 
不遇の体験から、信仰に目覚めるのではなく、勘違いの逆恨みで、神は何もしてくれない!と、激しく憎み、それが、持続する怨念となって、神を否定し続けて、人を恨み、宗教について、人を騙すことだけに専念している者もいます。
 
神が、勝手に、自分の都合に合う存在でないと気が済まず、その、矛盾と思い込んだことを克服できず、単純に、怒り、憎しみ、恨み、その陰性の感情を隠して、丁寧語で、神不在を宣伝するものとなっています。
 
その報いであるかのように、単純で浅い思慮と鈍い感性によって、ますます、聖書や本のみならず、人の言葉すらも理解できなくなり、むごたらしい有り様となっています。自分信仰に走って、反省も後悔もしなくなったからです。
 
自分なりに頑張ろうとは思わず、それこそ、神に対しても、人に対しても、「劣等感の虜になって自分を全否定したり、嫉妬の炎を燃やす人」即ち、ルサンチマンの人になって、痛めつけることばかり考えているのです。近づくと危険な人になって黒い道をふらついています。
 
 
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  神と偶像2
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであって
正直な告白を
神は待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
嘘を吐くことですから
神を偽ることです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
むしろ自由意志によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
この正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエスは
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書から学んでいるからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
 
 
信仰・希望

信仰・希望
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 
8:3
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 
8:10
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 
8:11
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書)
 
この聖句について、説明らしいことが書かれています。
 
(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
キリストにまつわる美しい話だけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·9時間
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。
 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えていることには、一切触れずに、「後で挿入されたもの」ということだけを取り上げています。つまり、楽山は、中身を読み取ることなく、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような人でしょう。否定するためにだけに読んでいる、ケチを付けるためにだけに他者のコメントを引用する、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめるためにだけ自分を出して、チクリ刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、という楽山は、つまり、楽山のような人には、聖書を読むために必要な感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いを受け取っていない、ということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはない、ということを、聖書が表し、楽山が、その見本となっているということなのです。
 
聖書を読めない愚か者が、定められていたかのように引っかかって、聖句を無駄にしている様子が表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、それを、言いふらして、信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その有害性は明らかであり、反キリストが、自分は反キリストだと宣言していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しているだけで、聖書の大事なところを理解しようともせず、ただただ、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、小石を投げて、ペッペと唾を吐いてきます。
 
 
※ 
 
あとからの加筆を、楽山もしているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。
 
なお、中身の重要性について、楽山は、書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのでしょう。
 
 
(2021年02月16日、同日一部加筆修正)
 
 
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  想うところに2
 
 
人について
想い描く人物像は
人格も含めて
想い描いた像であるから
その人ではない
常にその人の偶像を相手にしている
想うところに人はいない
 
ここで人は
神と違って
想い描かれた人の偶像の間違いを
完全ではないが
ある程度
態度や言動で知り
また示すことが出来る
 
人間関係は誤解で成り立っているが
お互いの偶像を修正しながら
不安定ながら
未知に立ち向かって
良かれ悪しかれ活性化してゆく
正面衝突が可能だからである
 
人の像と違って
想い描く神の像の間違いを
導きによって啓示するのが
神だという証拠を人は持ち得ない
 
聖典と祈りを通して学んで
深く知ったと思えば思うほど
神と人との関係は
人にとって
人の誤解の中にしか存在しない
 
想うところに神はいない
想うところに人はいない
さて想うところに
自分はいるであろうか
 
この問いを尋ねる相手だけを
見上げたつもりでいるが
この地上に
確定的な答えはないと知っている
 
 
想うところに

想うところに
 
祈り「神様は、いつまでも黙ってはいない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます」
 
 
(2011年04月29日)
(2021年01月30日、一部加筆)
 
 
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象がある。それは神である。
神を信じているから、神に祈る。神はいると信じている。
 
しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、
イメージであり、極端な言い方をすれば偶像である。
 
偶像は存在しない、人が想い描くイメージの神も存在しない。
神は偶像でもイメージでもない。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉がある。
「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、
 神は存在しない、と思いつつ祈る。」
どう受け取ったらよいのか。
 
つまり、このヴェイユのように祈るときにも、
祈る相手として想い描いた神のイメージがある。
 
つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、
それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」
・・・を繰り返すしかない、繰り返すしかない・・・!
現実に祈っている相手の神がいない。
存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。
 
しかし、キリスト者は祈る。
キリスト者にとって、そこにしか希望はないからである。
 
人は神を想い描けない。
神は人が想い描けるような御方ではない。
想い描くところに神はいない。
 
しかし、想い描いている神ではなくても、想いの始末を任せる神は希望である。
 
その神が存在しないとか、
人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できない。
 
祈りは確信に支えられてはいない。
 
祈りは、唯一の希望のみに支えられている。
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
 
 
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