ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽アンチ

 
  楽山の霊能遊び2
 
 霊言と、本人の言葉との関係(傲慢、蔑視)
 2014年11月29日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、数日、記事を書いていないと思っても、また書いてきて、また批判するということが、最近もありました。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)から書かずにはおれない自己顕示欲の体質のようです。
 
頭ごなしに言うのでなくても、新しい人からの、好意的に見える誘いには注意しておくべきです。例えば、読んでいて、どうも、心に響くところがない、こっちの話を聞いていない、・・などと思った相手は、要注意です。
 
かなり前の楽山の記事ですが、有名人も、楽山が扱うと、オモチャ以下に悪用され、もてあそばれるようで、そういうところが、楽山は、何も変わっていないのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山には成長がないのでしょう。
 
 
*高慢、蔑視
民主主義っちゅうのは、建前や理想は美しいが、本音は、「こんなやつらに頭下げないかんのか」というのが、まあ、本心やろ。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年3月17日初版第8刷、p.34)
 」
この霊言を読んで思い出すのは、大川隆法氏が街頭演説で語ったとされる言葉である。
 
楽山は、世辞と芝居以外では、人に礼を取ることはありませんでした。世辞と芝居で、やさしい人柄という好感を得て、丁寧語で、誘導してゆくというやり方です。その証拠となる詭弁と嘘が、私の記事に、たくさん残っています。高慢・蔑視が、楽山の本性です。
 
「大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』」というのは、いわゆる霊言の類でしょう。楽山は、HS批判者であるはずが、ORの発言を信じているらしいことが表れています。松下幸之助を実在のように扱っているからです。霊言を信じ、霊が分かるっぽい霊能者気取りの楽山です。
 
 
人間様に投票で選ばれるなんて、もう神様、仏様、頭から、もう火を噴きそうなくらい、腹の立つことではございますけれども、これが、時代が時代であるので、こういう時代もあるかな、と、今思っておるんです。
 <21日街宣Part-2の総裁先生街頭演説 高松市内>
 」
どちらも、その根底には同じような発想が潜んでいるように思える。どうしてそんなに傲慢になることができるのか、人を見下すことができるのか、不思議だ。
 
これこそ、楽山に対して感じていることです。実に白々しい。自分が言われそうなことを、他者に向けている狡猾さと矛盾が、楽山には平気なのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPDならではの特徴なのでしょう。人の振り見て我が振りを直さず、嘲笑って上機嫌な楽山です。
 
 
*追記
次の言葉を見つけたので、追記しておく。
民主主義ってのは、基本的には、〝阿呆の祭り〟なんだよ、君。  
(大川隆法『龍馬降臨』幸福の科学出版、2010年、p.194)
 」
民主主義の根底には、多数決には神の意志が現れるという考え方があると聞いたことがあるが、大川隆法氏にも、大川隆法氏に降りてくる霊にも、そんな考えはまったくなさそうではある。
 
多数決に神の意志が表れるとは限らない、というのは、常識であります。多数は、流される場合があるということです。ゆえに、警鐘や批判が、言論の自由として、大切なのです。自由が身勝手となり責任を負わない楽山は、ここでも、自らの知識の欠陥を露呈しています。
 
楽山が、勉強したつもりでも都合のよい言葉しか受け取らず、学習になっていないことが表れています。楽山には、辻褄合わせだけのために、部分で全体を語る、全体の曖昧さで部分を決めつける、というような詭弁が随所に見られてきました。
 
 
*追記
下の言葉を見つけたので、メモしておきたい。
実際に大臣をしている人たちも、テレビに映ったら偉く見えるだけで、大したアイデアなど持っていないのです。
(大川隆法『政治の理想について ―幸福実現党宣言②―』幸福の科学出版、2009年、p.283)
 」
氏は、一般大衆に対してばかりでなく、地位、名誉のある人物に対しては、この手の発言は度々あるようだ。現代では政治家だからといって無条件に尊敬されることもないだろうけれども、それだからといって、これだけ無造作に人をバカにした発言をし、それを活字にするというのは珍しいのではないか。
 
楽山は、鋭さがなく、無造作に、人をバカにして、下に見て、教える態度、評論家気取り、インテリ気取りを見せてきます。嘘と詭弁の荒らし的な本性を、ずっと隠しながら、誘導してきたのです。結果として、他者に、恐ろしく無駄な疲労の時間を負わせてしまう病質なのです。
 
 
 霊言と、本人との関係(個人崇拝)
 2014年11月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、霊能者気取りと、雑な筆致から、今までのことも併せて、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしい自己満足の文章になっています。
 
 
*崇拝を求める高級霊?
わしは、ほんまは神社ぐらい建ててもらわないかんと思うとる。軍人さんとかは、東郷神社とか乃木神社とか建っとるけども、松下幸之助神社ぐらいは、ほんまは、あってもええんや。
(大川隆法『松下幸之助 日本を叱る』幸福の科学出版、2010年、p.118)
 」
とある方が指摘されていたのだが、実はすでに、松下幸之助の社はあるらしい。検索してみると容易に出てくるが、どうやらこのことは、松下幸之助(霊)は知らなかったらしい。
それはともかく、自分を祀れという発想は、下記の発想に似ているようだ。
 
こういうことは、宗教を語る上で重要なことなのでしょうか。楽山は、茶化しているだけではないのでしょうか。松下幸之助は、自分を神としていたのでしょうか。神社が建つくらいは、貢献に報いるための記念碑的なものではないのでしょうか。無分別に話を偏見に導いています。
 
このように、本筋ではないところの、ゴシップのような枝葉末節のエピソードを、宗教の重要度の分け方も考えずに、並列してくるのは、いちゃもんの言い方なのです。ゴシップで笑いたい楽山らしい書き方ではありますが、そこで短絡して「発想に似ている」などと言うのは、論旨を乱すだけです。
 
 
池田大作守護霊 ああ、抑えてるんだ。「信濃町の駅を降りたところに、三十メートルぐらいの池田大作像を建てて、みんなに参拝させたい」という気持ちは、もう十二分にあるよ、だけど、理性で抑えてるんだ。
(大川隆法『宗教イノベーションの時代 目からウロコの宗教選び②』幸福の科学出版、2010年、p.258)
 」
松下幸之助(霊)と、池田大作守護霊が、似たような発想をしているところはもちろん、池田大作守護霊の方が、松下幸之助(霊)よりも、自制的であるというところがおもしろい。
 
「おもしろ」がっているようだが、松下幸之助が自分を拝めと言ったのでしょうか。楽山のフィルターを通すと、話の軽重が、ごちゃごちゃにな霊の話になり、有名人を、不必要に侮辱することになるでしょう。楽山自身の、楽山大社にでも祭られたいという妬みでもあるのでしょうか。
 
こういう人の悪口の類を、面白おかしく揶揄することで、楽山は、不遇の身を慰めているのでしょうか。自慰行為を人に見せて楽しいのでしょうか。ふつうは、もっと、自身のことを省みて考えるものです。楽山は、特徴的に、他者のことを云々することだけに執着し続けているのです。
 
 
ちなみに、大川隆法氏は、自分の写真や、自分そっくりの像をつくって信者に拝ませていた(る)という。大川隆法氏も、松下幸之助(霊)も、池田大作守護霊も、それぞれ別人格のはずだが、三者ともに、人々に自分を拝ませたいと考えているらしいことは、とても興味深いことである。
 
宗教の二人はともかく、松下幸之助は、実業家ですから「自分を拝ませたいと考えて」いては務まらないと思います。そういうことも考えずに、極めて、粗暴に、有名人を、ひとまとめにしてゆく楽山の心性のためには、神社どころか、墓も立ててもらえないのではないかと思います。
 
松下幸之助の「(霊)」とは、どういうことでしょう。証拠が示せないから責任逃れのつもりではないでしょうか。どんなに、人を侮辱しても、傷つけても、人に疲労と徒労を与えても、罪悪感を感じず、恥を知らず、平気でいられる自己愛性パーソナリティ障害を、楽山は表しているだけなのです。
 
 
*追記
大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想をしているらしい原因については、いろいろと考えられる。
・大川隆法氏が行っている霊言とは、大川隆法氏本人の考えを発表する際の表現形式にすぎないため。
・大川隆法氏と霊人たちとの意見が、たまたま偶然に同じようなものだったというだけのこと。
・霊人たちが霊言する際は、大川隆法氏の言語中枢を使用するのだが、そのとき、たまたま霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまうことがある。そのため霊人たちと大川隆法氏との考えが似たものになることがあるのかもしれない。
 
「大川隆法氏も、松下幸之助霊も、池田大作守護霊も、同じような発想」・・と、本人と、霊言で語られた霊を、同じに扱っている楽山です。ORの「表現形式」と言いながら、「霊人の意識と大川隆法氏の意識等と混じってしまう」・・と、楽山の超常心霊信仰?を、あらわにしています。
 
気は確かか。何でも、心で感じるところがないものだから、霊で辻褄を合わせる思考であり、根拠が無く、理路がなく、自分の中で自滅的に燃え上がる衝動的発想によって、無益な屁理屈を並べています。殆ど、カルト教祖の霊を気取る妄想だと思います。
 
 
その他、いろいろな可能性が考えられるが、こういう場合はもっともシンプルなものが正解であるような気はする。
 
楽山が「いろいろな可能性が考えられる」のに、「シンプルなものが正解であるような気」がするのは、シンプルなものしか受け取れないからでしょう。根拠もなく、自分の欲するものが正解だと言って、願望と真理を混同している楽山です。そして、人間の真実に、全く目を向けません。
 
楽山の文章は、平易な顔を持ち、曖昧に婉曲にボンヤリした筆致で書いて、時々、専門用語を入れて、格上げを謀り、読む人が、反発しないように、謙虚芝居や、トホホなどと、恥ずかし遊びを入れてきます。正直さが皆無です。
 
楽山の文章は、全体に締まりがなく、姑息的に、その時、その場の、良い気分を求めて書いてきます。総じて、中身のない無駄話であり、真に受けると、異常な疲労が待っているだけの毒性の高い文章です。さらに、一切、責任を負わず、反省もしません。自己愛性人格障害だからでしょう。
 
 
妄想の無理路

妄想の無理路
 
 
(2021年)
(2022年11月24日、最高+加筆)
 
 
 
  自由の祈り
 
涸れたか
尽きたか
一生の間に
どうしても言っておきたいこと
死ぬも生きるも自由
死んで屍になるも自由
生きて屍になるも自由
活路を見出せるなら
それも自由
「自由」に首を絞められそうです
 
そう祈れば
過去でも未来でもない
遠くでも近くでもない
いつも木霊のように返ってくる
 
人はそのように造られている
その自由さえ奪われた者たちを
汝は知っているか
 
 
  祈り願え
 
一つの死のために祈る
一つの命のために願う
 
祈りは気休めだ
願いは掃き溜めだ
霊的は心理的だ
真心は悪魔的だ
それらがいかに空しかったか
祈りは自慰のようなものだ
願いは強姦のようなものだ
辻褄が合うはずもない
 
祈り願うことは大方
やがて無能を証明する
しかし祈り
願い続ける
祈り願え
奇跡を期待してではなく
免罪符でもなく
今の今の己のために
肉体のある限り
肉欲のように祈り願え
 
 
 
悪意が止まず、精神の崩壊の続いている楽山の
コメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
また、軽口の出まかせを書いてくるかもしれません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
人格や能力を考えて、自分の生きられる方向を選ぶことは、誰もがやっていることなのです。それが、ふつうに、"身の程を弁えて"、即ち、能力と適性に応じて、進路を判断するということです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の本性(3)2
 
 信者ブログを見たけれど 3(st関連)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)

  を改めて批判。

 
 
露骨に攻撃に転じている楽山です。楽山が付けたリンク先の記事は、かなり前のものです。恐ろしく長いのがあり、今は、今が問題です。批判したかどうかも忘れていますので、リンクURLは省略します。
 
楽山は、昔はあんなに愛されたのに、とでも言いたいのでしょうか。
 
 
*どっちが本当?
元記事は読んでないのだけれども、これはst氏が言っているということだろうか。
幸福の科学とは無関係のキリスト信者からも、お前はキリスト教を信じてないではないかと批判されています
 」
それなら、過去のst発言を貼っておく。
1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
 」
 
楽山を批判するようになって、はっきり調べてはいないけど、約1年半(今は3年余り)くらい経つと思いますが、それより前は、楽山を信頼しようと思って好意的なコメントも書いていたのです。それが、上のコメントになります。
 
そういう気持ちが最初あったから「キリスト者のつもりの私」は、謙譲のつもりに他なりません。つまり、私は、完全に間違えたのです。私は、間違いを認めます。私は、楽山の丁寧語に、すっかりだまされていました。この過ちについては、読者の皆さんに申し訳ないと思っています。
 
ちなみに、もう一人の批判対象である偽キリスト者&偽牧師のシャロームについては、10年ほど批判してきましたが、その前、数年間は、聖書の先生だと思っていて、だまされていたことを告白いたします。
 
私は、容易に、だまされますが、いつまでも、だまされていてはいけないので、批判しています。この私の動機は、言うまでもなく私の信仰によるのです。
 
シャロームは、ヤフー終了後、所在不明であり、時々、名無しの猫などというHNで、ライブドアの私のブログを荒らしに来ました。そのシャロームの荒らしコメントについては、その都度、批判記事を書いてきたつもりです。
 
 
加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
 」
 
ここについては、ヤフーブログ時代の、別のキリスト教系カルトである自称ヨシュアと自称マグダラマリアのブログについてのことです。この二人は、聖書の戒めを守って完全になれる、という行為義認という過ちを信条としていたので、批判対象となりました。
 
行為の善悪ではなく、また完全になるからでもなく、罪深い人間として、信仰のみによって救われるというのがキリスト教です。信仰義認と言われます。
 
つまり、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたのは、神の命令だから正しいと、無条件にアブラハムを完全な義人として書いていたことを批判したことがあります。信仰は、人間性を失うことを正義とするようなことはありません。
 
聖書では、息子イサクを殺そうとしたアブラハムを、神が止めるという話ですから、アブラハムが完全ではないことは明らかです。神の義と、人の義は、違うということです。
 
楽山は、まだ、2年前に自称ヨシュアの言ったことを信じているようです。学習しないというのは、こういうことに表れてくるのでしょう。固執したままになるのです。
 
 
*自分教
これはおかしなことになっている。
キリスト教を中心にやっている人からも、ニセモノと言われるような態度では、やはり、幸福の科学から逃げても、自己都合のエセ信仰に頼っている、自分教信者でしかないのだな、ということでしょう。
 」
どうやら、LEO氏は、st氏は教会には通わず、聖書も通読していないということを知らないようだ。だから自分教信者を信頼しながら、自分教を批判するという、おかしなことをしている。
何はともあれ、これによって、LEO氏は、自分教を批判するけれども、自分教者かどうかの見分けがつかないことがわかった。
 
教会に通わず、聖書も通読していないと、キリスト者ではない、という楽山の偏見と先入観が表れています。それで、自分教信者だと決めつけています。もはや、楽山は、最低限の判断力の冷静さも捨て去って、いちゃもん攻撃に専念しているようです。相当な悪意が表れています。
 
結局、この短慮からの攻撃性、これが、楽山の正体です。楽山は、とても情けない人なのです。
 
 
*ダブスタ
ここもおかしい。
こちらのブログ主はキリスト信者だそうですが、この方も、ここでわたしが指摘している退転アンチに大迷惑をこうむった方のようで、延々と該当アンチのことを批判し続けているようです。
おかげで、ああ他にも批判している人が、幸福の科学信者以外でもいるんだな、と知ったわけですが、
 」
st氏は、ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった人だ。たしか6年だったか、8年だったか、shalom氏をストーカーしていたという。現在、自分は、氏のブログは全然見なくなったが、それでもその状態はおよそ見当はつく。
 
楽山が、私を、ネットストーカーだと言っているのは、私が偽牧師シャロームを10年批判し続けているからという理由以外にはありません。「ネットストーカーで有名」は、楽山の、でっち上げです。私は、残念ながら今もアクセスの少ない無名のブロガーです。
 
シャロームを長く批判した理由は、シャロームが、批判を受け取らず、嫌がらせだけを返してくるような、楽山に似た人種、すなわち、自己中で無反省の反キリストだからです。シャロームの「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という発言には、身の毛がよだちました。
 
批判者をストーカー呼ばわりする楽山です。批判とストーキングを一緒にするとは、楽山は、実に、次元の低いところで、文句を言っているわけです。つまり、楽山は、根性において、野蛮で下品な荒らし以上ではないということです。丁寧語に騙されないでください。
 
楽山のこの記事も、批判をまともに受け取ることが出来ないために、批判に対して正当に弁明を返せないから、手段を択ばず、悪そうに見える材料を探してきては、文句を言っているだけなのです。楽山とシャロームと荒らしの易坊の、同一人物の成りすましも疑っています。
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という反キリストとしか思えない信条に賛同したということも、楽山批判の、そして、楽山の知性と感性を疑う動機の一つでした。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が人格を捻じ曲げているのです。
 
 
LEO氏は普段は粘着ストーカーは悪としながらも、論敵が延々ストーカーされるのはよしとしているのだからおかしい。
こういうところをみると、LEO氏は真理に忠実であろうとするよりも、論敵を叩けるなら何でも有りの人だとわかる。
 
批判者を、粘着ストーカーと決めつけることしか出来ない楽山です。自己中心のために、低劣で、議論ができないのです。このような幼稚な決めつけをするのが楽山の特徴ですが、それは、楽山が、完全に宗教を舐めているからです。中身がなく、粘着した筆致は、むしろ楽山の特徴です。
 
 
*仲間
ここで、LEO氏は、st氏に賛同している。
この方の該当アンチ批判、いくらかを読んでみましたが、当たっている批判が多いと思えました。
退転した悪質アンチよりも、(別に幸福の科学信者ではないけれども)キリスト教信者であるこのブログ主の方が、遥かに正直で素直、純粋に信仰を述べて、該当アンチを切り捨てています。よほど不愉快なことを過去にされたようです。さもありなん、あのアンチならやりそうなことです。
 」
意見が合うなら、二人は仲良くなれるにちがいない。LEO氏はブログでたくさんキリスト教の記事を書いているし、案外、st氏はこれを読んで感化されて、HSを信じるようになるかもしれない。
 
これは露骨な侮辱です。まともに返せなくなると侮辱してくるのは、楽山もシャロームも同じです。楽山は、そういう野蛮な性質を隠してきましたが、もう隠せなくなったようです。これによって、今までの楽山の、丁寧語も、やさしさ芝居も、嘘だとバレることになります。
 
既にキリスト者である私について、楽山批判という共通点だけをもって、「二人は仲良くなれるにちがいない」「HSを信じるようになるかもしれない」などと言って、楽山は、自分が有利になるとでも思っているのでしょうか。退行し破綻して嫌がらせしか言えなくなった楽山です。
 
 
*経緯
一応、st氏との経緯を書いておこう。
自分はヤフーブログ時代に、st氏のshalom批判を読んで、shalomという人からよほど酷いことをされたのだろうなあと気の毒に思ったのだった。またその宗教観にも一理あると思った。それで交流するようになったのであるが、その後の顛末は、こちらにまとめてある。
 
私は、楽山の「一理ある」等々の肯定を、今は全く信用していません。シャロームは、楽山と同じように、批判に反論も弁明も出来ないので、嫌がらせだけをしてきました。こういう人に、信仰者も求道者も近づいてはいけないというのが批判の動機です。シャロームは偽牧師です。
 
そして、この3年余、楽山についても、ほぼ同様の動機と理由によって批判しています。この楽山とシャロームのような無反省の者に対しては、彼らを変えようなどと思わないほうがいいです。病的な精神疲労が残るだけです。彼らの書いたものを否定してゆくしか方法はないのです。
 
ですから、批判対象自身を変えようとするのではなく、批判対象に誰も近づかないように、一般読者に伝えたいという強い動機を持つことが大事です。そして、出来ることをする、出来ないところは無理をしない、という心構えが大切です。
 
以下は、いちいち批判している暇も気力もないので、リンクは省略します。
 
・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ) - 楽山日記
楽山の言うことは信用できないというなら、マグダラのマリア氏の記事を読めばいい。
・追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
ひさしぶりに、マリア氏のブログを見たら、こんなことを書いておられた。
 
(自称マグダラマリアの記事より)
【禁止】いやがらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする目的で利用すること
Yahoo!ブログでは、特定の他人への攻撃や、参加者同士の誹謗中傷を禁止しています。
 」
 
私も、ときに辛辣な比喩を書きますが、批判は、「嫌がらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする」ことを目的としてはいません。また、誹謗中傷が目的でもありません。
 
批判は、不正だという指摘が主体であり、それにもかかわらず不正が続く場合には、きびしくなり、長く継続するということです。それを、自己愛性パーソナリティ障害の楽山は、ストーカーだと決めつけて、とても、幼稚な、原始的な決めつけをしてくる人です。楽山は、批判を理解できないのです。
 
楽山は、批判と中傷の区別が、以前から、付いていません。これも、楽山の無反省からくる訂正不能の未熟さなのでしょう。だから、楽山本人を説得するのではなく、楽山ブログに近づかないように、むしろ読者に、楽山の不正を継続して訴える記事になっています。
 
上のような中傷だという決めつけは、楽山とシャロームに共通してみられる特徴です。つまり、文章の読解力がないか、反論や弁明を返せないかのどちらかです。同一人物による成りすましを疑う根拠でもあります。楽山ブログから、楽山という大根役者は三文芝居ごっこが大好きです。
 
 
・人の意識が変われば
これはなかなか意味深だな。
 
自称マグダラマリアが、やさしい言葉で書いているようです。しかし、批判者に対しては、驚くほど豹変して、荒っぽく「プププ」「ケロッ」などという異様でグロテスクな書き方で、あざ笑い、決めつけてくる人でした。やさしさは、見せかけでした。
 
それにしても、楽山は、よほど、まとめて悪口が言いたいのか、今回の問題とは直接関係ない人を、平気で巻き込んできますね。よほど援軍が欲しいのでしょうか。荒らしの本性丸出しです。
 
 
*おしまい
ふう、やっと、ここまでたどり着いた。
ほんといえば、まだ書き残したこともあるのだが、それはまたいつか機会があればということで…。
とりあえず、今回はここまで。
 
楽山は、悪口漁(あさ)りの果てに、いったい、どこに、辿り着いたつもりでいるのでしょう。荒らしとしての本領を発揮するつもりでしょうか。機会は、この先、いくらでもあるでしょう。しかし、楽山の言い分が成り立つことはないのです。
 
なお、楽山とシャロームの関係は、シャロームと一緒に私を攻撃してきた荒らしの易坊を加えて、一人の成りすましか、親族か、荒らしのグループか、などを疑っています。ネットの性質上、証明できませんが、否定の証明も出来ないのです。少なくとも仲間として振る舞っていることは確かです。
 
ネットが嫌いにならないために、どうか、楽山には、決して関わらないでください。そのためにも、決して近づかないでください。楽山とシャロームと易坊は、ネットという便利な世界の、匿名性という弱みを悪用する無法者です。
 
 
 楽山が追記しています。細長い画像2つ、おかしいです。
 
*st自由同一人物説
今回のことで、ヨシュア氏のst自由同一人物説を思い出した。自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ、その他にも二人の意見には共通項がある、自由の正体はst氏だ!というような主張だ。
 
自由、というのは、楽山の以前のHNです。自称ヨシュアは、キリストを信じているつもりの人です。実際は、ガチガチの教条主義で、聖書の教えを守って完全になれる、という、要するに、完全になりたがる信条だから、キリスト信仰ではありません。
 
読む人のことなど考えない楽山が貼り付けた見苦しく黒く長い画像は、以前の、ヤフーブログのときでしょうか、自称ヨシュアが、あと何日だ、とか、私を呪っていた頃の話でしょうか。2018年の夏から秋にかけてだったか。
 
「自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ」・・とんでもない。イエスキリストを信じる信仰者は、楽山のように下劣な嘘や攻撃や詭弁を書いたりはしません。楽山は、平気で嘘を吐く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
私と楽山が同一のようなことが書いてあります。私は、もちろん、気色の悪い自由(楽山)ではありません。楽山は、偽善者、背教者、反キリスト、無神教カルトです。私は、楽山には真っ向から対立する批判者です。すなわち、身に覚えのないことだから謝罪はしません。
 
あと、なんだか説教してきているようだが、覚えがないか、忘れているのか、自称ヨシュアに、とやかく言われる筋合いはないのですが、今さらのように、それがどうだと楽山は言っているのでしょう。攪乱したいだけでしょう。
 
 
これは、いま読み返しても、おかしな主張だと思うが、ヨシュア氏側が繰り返していたst氏の粘着批判は迷惑だというのは正当な言い分ではある。でもアブラハム関連の議論については、自分はやつぱりst氏の方に理があるとは思うし、ヨシュア氏が議論と関係ない、st氏のプライベートなことを持ち出して、ああだこうだいってたのはよろしくないと考える。あれはst氏が気の毒だった。
 
私は、粘着ではない。楽山を、はっきり否定している。くどくどと長いだけの記事を書いている粘着気質は、他でもない、楽山であって、それを、ネチネチ書いてくる・・と、私は今までの批判記事に書いてきました。楽山は、とても低劣で、議論に耐えるものではないのです。
 
 
もっとも、ヨシュア氏側の身になって考えてみれば、st氏の粘着ストーカーに切り返すには、そのくらいの強硬手段に訴えるしかなかったのだろうし、実際それはst氏を退散させるのに効果はあったようだし、止むを得ないことだったのかもしれないな。また当時のヨシュア氏は、自分のためというよりも、マリア氏を守ろうとして奮戦していたのだろうし、あの口調の荒々しさも止むを得なかったのかもしれない。こう考えてみると、あの頃の自分は、ヨシュア氏に対してあまりに厳しい見方をし過ぎていたようだ。反省。
 
今度は、こちらを攻撃するために、偽キリスト教カルトのヨシュアの味方をしています。このように、全く軸を持たないのも、楽山という荒らしの特徴でしょう。自らを高め、他者を苦しめることを生き甲斐としているのです。
 
すりおろしたヤマノイモを、首に塗りつけるように、気持ち悪く粘着してくるのは、楽山その人であります。思いついたら、整理もせずに、一つの記事に、なりふり構わず、追加で、だらだら書き込むのも、しつこいし、しまりがない、節操がない、と言うべきでしょう。
 
楽山は、深い情緒が欠けていて、しんみり悲しんで反省する、ということが出来ないために、他者の身になって考えてみることも出来ず、憑りつかれたように、自己の利益を図るための字面の小細工を弄しているだけです。楽山の中身の無さが、どんどん明らかになってゆきます。
 
楽山は、またしても、他者を巻き込んで、混乱させてきます。私について、見た目の悪そうな材料を探して、載せては的を外して、結果、どこまでも卑怯者ぶりを見せ続けているのです。楽山の文章を読むときには、その非人間的な、無味乾燥の、悪意の筆致を見抜くことが必要です。
 
楽山の反省は嘘です。文脈を見抜いてほしいのですが、楽山は、恐らく今は関わりの薄い自称ヨシュアの、恐らく、ずっと前の記事を利用して、同情を装い、私を、おとしめているだけです。
 
楽山は、元々反省する気のない人です。私が、何度も楽山のことを無反省と書いてきたものだから、当てつけて、反省という言葉の字面だけ書いてくる。それにしても・・なんて姑息な・・。
 
嘘と詭弁と嫌がらせの決めつけだけを並べてくる楽山の筆致に、どうか惑わされないようにしてください。
 
楽山は、自身の狭い狭い思考の部屋の中で、広がらない視野と理路を字面だけで無理に広げようとしています。思いつきだけが散乱してゆく定めのようです。誰も巻き込まれることのないように、祈っています。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 
本性

本性
 
 
(2020年)
(2022年09月04日、再録+加筆)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  旧約聖書:伝道の書7:14-17
 
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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  楽山の危険2
 
 信者ブログを見た(アンチ批判)
 2020年08月30日 楽山日記(LD)
 抜粋です。改めて批判します。
 
 
楽山ブログには、HS批判が多いようですが、カルト対策とも言っています。HSをかばう気はないし、長いので、抜粋して批判しています。記事内の画像やリンクも省略しているところがあります。2回に分けようとも思いましたが、後半が緊急で重要なので、1回にまとめます。
 
カルト対策は、まず、詭弁家の楽山対策が大事だと思っています。今回、後半で、恐ろしい楽山の本性と危険が語られています。ちょっと常識では考えられません。
 
楽山は、キリスト教をけなし、一方で、クリスチャン芝居をするような、とても、いい加減で、気まぐれな人です。宗教をバカにしている、あるいは、自分にはみんな分かっている、という思い上がった精神で書いているからでしょう。
 
楽山は、私からの批判に、まともに返してきたことがありません。そして、既に否定されて成り立たないことなのに、同じことを書いてきたりしましたが、その後は、こちらを無視しているようです。楽山は、自己愛性パーソナリティ障害です。
 
*まえおき
前記事でとりあえげた信者ブログで、アンチ批判がたくさんあったので、ざっと見てみた。以下に感想を書いてみる。
*ノンクリ
まず楽山はHSからキリスト教に改宗したかのように書いてあったのには驚いた。デマを広めるのは止めてほしい。
信者には、天国か地獄か、信者かアンチか、敵か味方かという具合に、ものごとを単純に黒白に分ける人が多いようだから、楽山はキリスト教の本を読んで感想を書いてるからキリスト信者だ、と思い込んでしまったのだろうか。
 
約一年半の楽山批判によって分かったことですが、楽山は、キリスト者ではなく、反キリストだと判断しています。キリスト信仰に必要な弱さの自覚がなく、一方で、キリスト信仰にはないはずの自己愛絶対の立場と、それを隠して詭弁と嘘で騙す性質を持っています。
 
楽山は、字面の辻褄合わせで、キリスト教や他の宗教についても語りますが、信仰の心が無いので、子供の小理屈~屁理屈レベルのことしか書けない人です。反省しないので、学習がなく、成長がなく、幼稚なまま、迷惑だけをかけて、詭弁と嘘でごまかす人です。正常人ではありません。
 
*ひと目で分かる1
大川隆法が仏陀でないことは、大方の人は、この写真を一枚みただけで、すぐ分かる。
(写真省略)
でも教団内では、大川隆法(エル・カンターレ)の天上界での御姿を再現なさったのです云々と理屈をつけて、これを尊いものとする。
*ひと目で分かる2
霊言についても同様だ。信者以外であれば、大方はひと目で、ただのイタコ芸だとわかる。
・大川隆法がトランプ米大統領の守護霊を呼び出した時のやつちょっとだけ
 」
でも教団内では、霊言の仕組みはああだこうだと理屈を重ね、本物だと結論付ける。
 
キリスト信仰は、聖書に表されたところの、人間に対するキリストの洞察力と共感が、聖書を読む人を惹きつけています。超常の奇跡によって、一気に、悟ったり、完全になったりするような宗教と信仰は、我欲と我執であり、自己顕示欲であり、人間離れを起こす害毒だと思います。
 
そういう、超常が分かるっぽい、霊が分かるっぽい、という妄想を、体質として持っているのが、楽山です。しかも、そのことを、楽山は、詭弁と嘘と芝居によって隠しています。
 
*二種のアンチ
これによって、HS批判の手法は、大きく二つに分かれる。
一つは、ひと目で分かることを、そのまんま口に出すものだ。「大川隆法は神で、霊言は本物だってえ? そんなわけないじゃん(笑)」と。
もう一つは、ひとまず教団の設定した理屈にのっかって、その矛盾点などを指摘するというものだ。「教団はこれこれこうだというが、それはかくかくであってつじつまが合わない」などと。
信者のなかには、後者を屁理屈アンチと揶揄する者もあるが、実際のところは教団の屁理屈にのっかって、ああだこうだ言ってるだけの話なのだ。
 
楽山は、小理屈を捏(こ)ねますが、字面の辻褄合わせに過ぎないので、そこに、洞察も共感も生まれないという特徴があります。楽山と、直接の遣り取りをすると、病的に疲労します。楽山には、理路も情感もありません。あるかのように見せかけているだけです。楽山は、異常者です。
 
気持ちを汲み取ることも、理解を共有することも、楽山は、出来ないのです。代わりに、世辞や、丁寧語のボンヤリ言語や、謙虚芝居のトホホ言語を使うので、相手を疲労させる毒を持っていると言ってよいでしょう。相手にしないことが一番です。
 
*平行線になる理由
 これについて、藤倉善郎氏は、教団側の理屈を論破して、霊言はインチキだと証明することは難しいとしている。
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由
 」
宗教の理屈は、信じるものであって、実証されなくてもよいのだから、言ったもん勝ちのようなものだ。「こういう可能性もある」「こっちの可能性もある」「あっちの可能性もある」といった具合に、どんどん新説をつくれるのだから、らくちんだ。
 
宗教は信じるものという楽山の言葉を真に受けてはいけません。楽山が、"信じる" という言葉で表しているのは、思い込むことが信仰だ・・という訂正不能の偏見だからです。また、宗教の理屈は実証されなくてよいのではなく、実証されたら信じる必要はないわけで、実証できないのです。
 
しかしながら、人間として実感されなければ、信仰には至りません。楽山には、そういう共感による実感がないのです。楽山は、宗教と信仰を云々できる人ではありません。楽山には、実感というものが育っていないのでしょう。代わりに、紙くずのような屁理屈を言い捨ててゆきます。
 
キリスト信仰について言えば、信仰は、人間として共感するものであり、忘れられなくなるものであります。ゆえに、理屈ではなく、愛と祈りの宗教と呼ばれるわけです。教理は、信仰そのものではありません。楽山には、愛と共感の感受性がないと思います。ゆえに、罪悪感もないのでしょう。
 
だから、教義論争は、教団側に信仰を正当化する理屈を思いつける人がいれば、決して負けることはない。延々、平行線がつづく。でももし教団の設定した土俵上で議論しない人…たとえば、「これはウソだ」とひと目で分かることを、率直に言う人が出てくれば、どんなに苦心して積み上げた理屈も、あっさり崩されることになる。
 
教義論争というものがあるとしたら、信仰においては、心の共感と実感に基づくものでなければ、議論の説得力も成り立ちません。楽山のような、表面的な小理屈を振り回し、嘘と詭弁を弄する者の言には、説得力は生まれません。また、楽山は、率直とは真逆であり、平気で嘘を吐きます。
 
*信者と退会者の教義理解
信者と退会者の教義理解の差異は、上と関連している。
教祖を信じている者は、その発言がどんなにトンデモであっても、コロコロ変わっても、矛盾していても、整合性ある解釈を見つけ出そうと努力する。
でも教祖の真の姿に気づき、見限るようになると、そのような努力は放擲し、余計な解釈はまじえず、ありのままにその教えを見るようになり、おかしいものはおかしい、矛盾しているものは矛盾していると結論づけるようになる。
 
人間的共感が成り立つかどうかが、宗教の真偽の決め手になるでしょう。決めつけてよいわけではありませんが、人間に実感できることとしての共感の成り立たない教義や言葉は、結局、超常趣味や、超人趣味に陥ります。そこには、人間の良心を育てる要素がないのです。
 
つまり、共感性のない楽山には、信仰が育ちようがないのでしょう。楽山は、見せかけだけであり、あらゆることを自分の色眼鏡で見るために、ありのままに見ることが出来ません。ゆえに、いちばん、おかしい自分に気づきません。ただの矛盾ではなく、悪意ある言論の破壊者であります。
 
教祖を信じている者にとっては、こういう教義理解は即物的で浅はかであるようにしか見えないだろうう。ことばの表面ばかりにとらわれ、その真意を理解していないと言いたくなるだろう。
 
このことを、楽山が言う資格はないと思います。楽山の言は、表層的な理屈の辻褄合わせであり、共感性の深みが見られません。自己愛性人格障害のために視野が極端に狭く、かつ、成長しません。いつも、自分を高めるために言葉の字面だけを整える、これが楽山の生業(なりわい)なのです。
 
でも現実には、トンデモはトンデモだし、コロコロはコロコロだし、矛盾は矛盾でしかない。信者の理屈、意味づけは、信者以外には通用しないものだ。
 
このように、楽山は、他者の理屈の矛盾を指摘するように見せかけて、表層だけの幼稚な意味づけで辻褄合わせをして、信仰に大事な共感も実感も持ち得ないことが、今までの楽山批判において明らかとなってきたのです。楽山からの批判は、楽山の中で成り立っているだけです。
 
中身のない乾いた概念把握は、乾燥した石積みであり、瑞々しい真実には至りません。それで、信仰を分かったふうに語る楽山こそが、トンデモなのです。
 
*自己中
自己中かどうかは、人を責めるかどうかを見れば、おおよその見当はつく。
 
人を責めるかどうかを見れば見当がつくと、楽山は言っていますが、ならば、人を批判し、責め、いちゃもんをつけ、おとしめる楽山は、自己中だと自分で言っていることになります。総ての災いは、楽山がいなければ起こらなかったことです。人を混乱させ、疲れさせ、壊す楽山です。
 
つまり、言い換えれば、批判を含める場合、人を責めるかどうかは、自己中の決め手にも見当にもならないということです。決め手は、人間に納得できる根拠と、人間としての共感と説得力があるかどうかです。楽山には、欠片もないのです。自己愛は共感を求めないからです。
 
自己中でない人は、他人が迷惑行為をしたときでさえも、その気持ちをおもんばかって「これこれの理由でこうなのだろうな。それだったら仕方がない。もし自分がその立場なら、きっと同じことをする」などと考え、相手のことを自己中だと責めることができない。
 
楽山は、自分は分かっているということを、時々、問答形式で語りますが、この分かったふうの言い回しは、大方、自分が厳しく言われないためか、自分は説得上手の優しい人というアピールに過ぎません。いわゆる先生気取りの、子供相手のような、小芝居です。
 
大人がが子供に説教するような慢心した小芝居の言い方を、楽山は好むようですが、例示に過ぎませんから、決め手にならない甘さがあり、それだけでは、一般的な説明にならないのです。幼稚な楽山は、こういう幼稚なことしか言えません。楽山は、理路も共感もない人です。
 
でも自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、「自己中やめろ(俺が望まない言動は止めろ)」と平気で言える。
ようは、やたらと他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高いということ。
 
楽山のような自己中な人は、他人の気持ちをおもんばからないから、都合が悪くなると、平気で無視します。それによって、身勝手な自己中だけの人であることが分かるのです。こういう人は、しばしば、自分が言われそうなことを、相手に向けてきます。
 
ですから「他人のことを自己中呼ばわりする人がいるとしたら、その人自身が自己中である可能性が高い」と言う人は、自己中である可能性が高いということです。いつもながら、楽山は、何の役にも立たない詭弁で、慢心しているようです。
 
つまり、自己中は、自己中と言われたくないので、中身のない無理な返しとして、この循環論法のような詭弁の屁理屈をこねてきます。揚げ足を取ったつもりで、取られてしまうのです。こういうことを繰り返しても、恥ずかしさを感じないのが、自己愛性パーソナリティ障害なのです。
 
*不可知論
自分は、不可知論的な考え方をしていることを何度も書いてきた。神、真理などは、人には分からんだろうと。
 
不可知論ではなく、いちゃもんを、キリスト教に向けてきたのが、楽山です。さらに、無神論を出して見当外れのことを言って、神を対象物のように扱ったのも、楽山です。楽山にとっては、神も、人も、真理も、オモチャに過ぎません。
 
そのことによって、"論" の好きな楽山が、無神論も、不可知論も、小中学生レベルの理解でしかないことが明らかになってきました。それでも、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても、異常だと思います。
 
そのせいか、ぽん吉氏にはこんな風に怒られたりする。「楽山くん、きみには結論がないのか! はっきりせよ!」などと。
ぽん吉氏は案外に楽山の立ち位置を理解しているらしい。
でも信者氏による楽山批判を読むと、楽山は神のこと、真理のことなどを分かったと主張しているかのようになっている箇所が散見される。
ぽん吉氏に分かることがどうして分からないのだろう。
 
楽山には、慢心と自己愛と気取りしかなく、結論がないと思います。さらに言えば、結論がないのではなく、判断さえしないのです。それで、生きて活動しているつもりでいるのは、人間として、障害としか言いようがないのです。何も進まない、何も進めようとしない、それが楽山です。
 
つまり、いちゃもんをつけるだけの人になっています。それで、一人前の言論者を気取り、何も出せるものがないのに、正しさを出したつもりでいて、楽山の慢心と悦楽は続いているのですから、とても異常だと思います。
 
*プラトン
プラトンの対話篇を読んでいるときに、「これが結論だ」と思って赤線をひくと、すぐあとでそれは論破され、新しい説が提示されたりする。それで「こっちが本当の結論だったか」と思って赤線をひくと、またそれも論破されて…という具合になり、結局、最後まで結論は出なかったりする。
自分は若い頃はこれを物足りなく思ったものだったが、今はこれが必然と思うし、さして抵抗も感じない。
 
人間に可能なのは、その時点での判断であり、最終結論ではありません。人間の行いは、判断に基づいており、最終的な正しさに基づいてなどいません。すなわち、人間の正しさは、反省と修正によって保たれています。楽山には、それがありません。
 
楽山は、ここを勘違いしているので、判断しない曖昧さのボンヤリ言語を、平気で出してきて、それが正しい必然と思って慢心しているようですから、相手をいたずらに疲労させてゆくしかなく、いつか殴られるんじゃないかと思います。
 
*神の定義
自分は、神のことは分からないと考えているので、「神はこうだ」という風なことは言わない。言葉のあやとして、それっぽい表現はあるかもしれないが、それはあくまで言葉のあやにすぎない。
ただ「××本の定義によれば、神はこれこれこうだという」とはいう。これは自分が、神はこうだといっているのではなく、××本で神はこうだと書いてあるということだ。
楽山批判を読むと、「楽山は神のことを勝手にこうだと決めつけている」という風なものがあるが、大方、この辺りのことをきちんと読み取れていないのだろう。
 
楽山は、また、しょうもない小芝い文言を並べていますが、楽山は、神はおかしいと、いちゃもんを言ってきたのです。それを、言葉のあや、というドラマなどに、よくある言い訳で済ませています。楽山は、何事も本気では考えず、言わず、言葉の糸くずだけを絡ませてきます。
 
そうして、他者の言葉で、こうだと書いてある、などと語りますから、これは賛同している、自分の意見と同じだと言っていることになるのに、責任を他者に押し付けて、楽山自らは責任をいっさい負う気がないのです。
 
そういう者は、侮辱に匹敵するような軽いあしらいをいつも他者に向けていることになりますから、イライラの神経疲労だけを他者に与えます。他者の人格を鈍麻させ、破壊する一方、いつか殴られるだろうと思います。殴られるだけで済めば、まだ、いい方でしょう。
 
*共感するかしないか
自分は神のことは分からないと考えているので、〇〇教の神や、△△教の神について、最終的な真偽判定は出来ないと考える。でもそうはいっても感情は動くのであるから、「この神には感動するが、こちらの神には感動しない」ということはあるし、自分の気持ちを偽っても仕方がないのだから、それを率直に語ることにしている。
 
楽山は、どの神にも感動することはないでしょう。楽山の言う神?は、楽山のオモチャだからです。最終的な真偽は、神のみが明らかにすることです。楽山は、またしても、ボンヤリ言語で、感動するしないはあるから、などと、見物でもしている立場で正当に物を言った気分なのです。
 
つまり、言いたいことは、好き勝手に言うが、結論は言わない、責任は負わないわけです。このような無責任が通ると、さらに正しいと思っているのです。何という身勝手なのでしょう。世の中は、そういうふうには出来ていないというしかありません。
 
ただこの場合でも、「この神の教えには共感する」とはしても、「この神の教えには共感する。だからこの神は本物だ」というところまでは踏み込まない。共感するかしないかは自分の感情のことだから分かるが、神は本物かどうかは客観的判定であろうし、人である自分には分からないことであるから当然だ。
 
客観的判定は人には分からないから、言わなくていいと思っているようです。だったら、最初から、身勝手な言論などするべきではありません。実際には、恐ろしいほど、主観にも客観にも土足で踏み込んで、人の心を玩(もてあそ)び、傷つけている楽山です。
 
人間は、分かっていなくても、その時その時の判断で行動しているのです。その責任さえ負わないのであれば、何もしないで自室か病室かで黙っていることです。もろに人格の発達障害が表れています。理解というか、弁えというか、・・わがままな子供レベルです。
 
でもどういうわけか、楽山批判では「楽山は自分の好悪で、神を信じるかどうかを決めている。自分の好き勝手で、神かどうかを決めている」というようなものがある。
たぶん、「この神に共感する」というのを、「この神に共感する。だからこの神は本物だ」という風に、脳内変換してしまっているのだろうけど、もしこういう読解ミスをしてるなら、もうちょっと気をつけてほしいと思う。
 
読解ミスさせるほどに、楽山は自己愛の強さによって傲慢に振る舞っているということです。つまり、楽山は、病識がないということです。ことは、続ければ続けるほど重大になってゆきますから、楽山の自己満足と自己顕示欲で、語尾をいじくっても、どうにもならないのです。
 
楽山は、このように質量のないオモチャ言葉で、説明した気になります。いわば、言葉面だけを整えて、ネットの精神詐欺師をやっているということになります。「もうちょっと気をつけてほしい」などと言って済む話ではないのです。
 
*発言責任
信者側からしたら、大川隆法のことを悪く言うのは、阿鼻叫喚地獄に堕ちるほどの大罪となるのだろう。だから大川批判の是非が議論になるときは、その発言責任の話が出る。
でも非信者からしたら、大川批判はタブーではないし、それを罪とする発想もない。だからその是非について議論する際に、責任についてうんぬんする必要性も感じられない。
信者とアンチの間で、言論の自由がテーマになるとき、アンチ側から責任うんぬんの話が出ないのはこのためだろう。
 
言いたい放題でありながら、責任を云々する必要も感じないと自白しています。楽山は、自己中と無反省と、身勝手と無責任が、正しいから通ると思っているようです。真実の追求に関わる、いかなる発言にも、責任は付いてきます。
 
楽山は、真理を断定するときだけ責任があり、批判には責任が伴わないとでも思っているのでしょうか。あらゆる発言は、自分で改めて否定し修正しない限り、発言者に責任があり、それを弁えるのが、正常な大人であり、整合性のない好き勝手は病的であり、言論に関わってはならないのです。
 
どこまでも詭弁の責任逃れが通用すると思い込む不埒者には、是非云々の話の代わりに、言った分の責任として、別のパワーが楽山に向かうかもしれません。病識がなく、置かれている立場を自覚しないというのは、本当に怖いことなのです。
 
*おわりに
他にも論点はあったかもしれないが、今は思い出せないので、とりあえずここで筆をおくことにする。
 
楽山は、永久に筆をおいた方がいい、というか、筆と呼んでいる鼻糞をおいたほうがいいです。
 
それにしても、信者とのやりとりでは、同じこと、分かりきったことを、何度も繰り返し説明しないとならないのはつらい。
 
説明した気でいるようです。何も説明になっていません。楽山は、ずっとそうです。同じことを繰り返すのは、言ってることに広がりがないということです。しかも、楽山の場合、言ってることが、大方、詭弁か嘘なのです。
 
他の人とのやりとりであれば、ネット上でも、リアルでも、そんなことはないのだから、自分の話し方が悪いせいだとばかりは言えぬだろうし、どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬのだが。
まあ信者側でも、アンチは分からず屋だというようなことはよく言っているわけだし、ある意味、お互い様というやつか…。
 
お互い様ではありません。「どうしたって信者側にも問題があるとしか思えぬ」・・これ、かなり激しい結論であり、判断です。こういうことを平気で言っているわけですし言ってきたわけです。これで、反省しない、責任負わない、・・が通ると思っているのでしょうか。
 
楽山を疲労物質と言ってきたわけが、ボンヤリ言語の正体が、ようやく分かったような気がします。
 
楽山は、自己愛性人格障害で、人の気持ちを思いやることが出来ないのです。どうか、楽山が何を言っても相手にしないでください。楽山は、人間について、何も分かっていない人です。
 
お互い様ではありません。常識人なら絶対しないようなことを、トンデモの楽山だから、自己愛の慢心の上に安穏として、やっているということです。
 
責任を負う気がないのなら、何も言うべきではありません。
 
他者に向かって言ったり書いたりする一言ごとに、責任は生じます。人間は、他者の人生に関わって生きているということです。だから、特に、信条など、生き方に関わることについては、相当に深く考えようとするのです。間違えたら反省すればよいのです。それが正常人です。楽山は違う。
 
思いこみの強いカルトの人たちを相手に、へらへら軽口をたたいて、けなしたり認めたりで、救われるか否か、捨てるか否か、という境界に立たせておきながら、それで無責任なら、それで平気なら、どうなるでしょう。・・ホラーを見ている感じです。
 
 
長い鼻クソの言い訳

長い鼻クソの言い訳
 
 
(2020年09月01日、当日一部修正)
(2021年09月03日、再録+加筆)
 
 
 
  浅ましく呼ぶ
 
ここにいて
あまりに浅ましいから
豚と言ってみた
豚は餌を与えた分だけ
肉を食われて人の役に立つ
石ころと言ってみた
糞(クソ)とさえ言ってみた
石ころは邪魔なら蹴ればいい
糞はいずれ浄化され土に返る
何より消費しない何も
 
限りある施しを受けて
豚のように消費し
石ころのように無価値で
糞のように汚(きたな)いから
とりあえず寄生虫ということになった
もう長く蔓延(はびこ)っていて
そう呼んでみるたび
クソッと思い出したように
低く呟(つぶや)いて
ここにいる
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
(昔、)
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる "taka"サイトですが
 
taka
@taka84156681
鈴木達央氏に対して不倫して自殺する事を非難する人へ
日本に住んでいる人のうち約230人に1人が自殺しようとした事があるという
午後11:15 · 2021年8月18日
 
自殺のことを書いていますが、楽山は、むしろ、徒労と疲労を与え、対象を傷つけ、人格と尊厳を破壊して自殺に追い込む可能性があります。楽山と関わることで、良いものは何も得られず、精神が消耗してゆくだけだからです。インテリ気取りの楽山に惑わされないようにしてください。
 
楽山は、今も、正常人を装って、ときに他者の口を借りて、教えたがりますが、煙に巻かれるような迷路の徒労と、意欲が奪われるような不快がもたらされるだけです。教訓になるような実質を、まるで持っていないのが楽山です。人生の大切な時間を、楽山のために失ってはいけません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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