ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽善

 
  有名人を悪用する楽山3
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子著
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。不感不応。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
 
中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。興味本位で話のネタにしても、加害者は、ことごとく、楽山に当てはまるからです。
 
 
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。
 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという自己正当化のための作為的な当てつけの特徴が出ています。当てつけしか出来ない楽山です。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いているこの記事のことです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた偽善であり反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が今までも表れてきました。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義に見せかける自家中毒です。楽山の毒は、他者を疲労させ、かつ、加害者の楽山自身を、いっそう、腐らせ、破壊してゆきます。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という反キリストの信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという卑怯な経過が続いているのです。楽山の企みは、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えて無視します。そして、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、それが悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
 
ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。以前、"神通力" とかについても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
 
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、
 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、バタンバタンと薄板を叩いて当てはめるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算があるのか、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、理路と共感の貧困な楽山の中には、暫定的にも確かに主張できるものが、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけを持っていることになります。
 
 
脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、
 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。逆らう者には病名を当てて貶める楽山の処世なのです。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回も表れています。加害性として重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な体質・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や嘘や当てつけがあるということです。
 
 
脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。話を大きくして、正論に見せかけています。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような高尚に見える書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを味わわされる地獄が待っています。
 
 
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、
 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、そのような恥を知っている人なら出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、常套手段としての、嘘の芝居なのです。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
 
保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、
 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の三文芝居なのです。
 
 
本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。
 
ネガティブフィードバックは、調節機能だと思いますが、生存戦略ではなく、反省の向上の動機になることです。説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうが、嘘です。楽山の価値観は、ずっと、我欲に他なりません。
 
こういう分かったふうだけのきれいごとは、偽牧師シャロームshalom の大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。楽山やシャロームや易坊などの易坊類と呼んでいる者たちには、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
 
終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。
 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、うんざりするほど、表れてきたのです。楽山は、刷り込み屋であって、言論者ではありません。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、思想も言葉遣いも、未熟で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて満悦し、疑問を感じないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!、有効ですね!、という気になって、辻褄合わせだけの満悦気分に浸っていますが、矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化して学習可能としておくことでしょう。自己中という訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方です。
 
 
本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、偏見を強化して、妄想化して、決めつけて、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
 
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。
 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。非人間性の辻褄合わせが表れています。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、無理解で無意味の責任逃れにしかなりません。楽山自身の人格崩壊の切っ掛けになってゆくでしょう。
 
 
自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
2 儒学。特に、中国宋代の朱子学。宋学。
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
4 道家の学問。道教。
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていません。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、いわば見栄張りと遠吠えだけです。だから自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りの化粧くずれです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫かチンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益なチンドン屋だと、つくづく思います。
 
 
まとものつもり?ちんどん

まとものつもり? ちんどん
(ちんどんは、チンドン屋が安い宣伝でチンチンドンドン鳴らす擬音語でしょうか)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月05日、再録+加筆)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  知識と視野
 
知識が乏しくて視野が狭いと思っている人、一面的な知識しか持っていないために視野が狭いと思わざるをえない人は幸いです。何故ならこの世には自分の知らないことがたくさんあると思わざるをえないが故にこそ自分の視野の外に無限の未知の空間・キャパシティを残しているからです。
 
全知でも全能でもない人の知識・知恵・視野など、たかが知れています。人の視野の狭さを指摘する者の心の中には、相手より自分の視野が広いという思い上がりのようなものを感じます。
 
視野は
その狭さを痛感しているとき最も広く
少しでも広いと思ったり
狭さを自覚しないとき最も狭い
 
私に誇れるものがあるとすれば
私の知恵と知識の乏しさの自覚であり
私の視野の狭さであり
私の愚かさであり
私の不信仰であり
私の信仰である
 
 
  自信
 
かつて
思い上がりや
うぬぼれなら
体験したことがあるが
自信というものを味わったら
どんな気分になるのだろう
 
キリリと座しているコンピューター
今は何も映さぬディスプレイ
ディスクの中には山ほどの情報が
壁を作っておさまっている
 
朝になったら
いろんな人達がいて
おしゃべりや
物忘れをします
 
謙遜と自信
オペレーティングシステムの上で
ソフトな対話
電源を入れれば
カラフルな画面の上で
動きまわるソフトウェア
 
小さな扇風機がこちらを向いている
お前は回るだけだだったな
まわりはハイテクがいっぱい
 
お前は居眠りするだけだったな
まわりは複雑な自信がいっぱい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1408638768739799040
 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
「毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
https://twitter.com/mimollet2015/status/1404656537159700480
 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
楽山のような病質、即ち、心に深い傷を残す自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の加害は、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマを与え、全く気にすることなくキレイごとを言い、もてあそんで笑うことです。
 
楽山のような慮外者に、自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山こそ、善魔そして正義中毒だからです。
 
誰よりも、楽山こそが、偽善者、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない不全の者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山が、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、楽山自身が根拠のある反論も弁明も出来ません。こういう欠落の経過が、逆に、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山は、善ではなく魔であり、正義ではなく自己中毒です。
 
つまり、楽山の言は、他者に言ったつもりでも、ブーメランのように自分に返ってきます。そして、そのことが表すのは、無反省・無責任の、善の見かけの魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者、楽山です。このようなブーメランは、楽山が、でっち上げの正論を書くたびに起こってくるでしょう。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語や、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPDの楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の木っ端役人です。
 
 
楽山が、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路にはなりません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ学問を気取ります。実際には、楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、膨張して、破れてゆくのです。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。同様に、罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、正体を知ると吐き気がします。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような他害的な崩壊人格になってゆくでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、謙虚芝居を書いても、自分が正しいという自己愛妄想がベースになっていて、自分を正すことが出来ません。既にバレています。代わりに、他者の人格を破壊する方向に嘘と詭弁を弄する加害者となっています。楽山のイメージとして、狐のような、しかも、陰気臭いニヤケ顔を想像しています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。
 
「ゴリ押しは奪う愛」・・ごり押しの、どこが愛なのでしょう。ゴリ押しすれば、それは愛に反する圧力です。どうして「奪う愛」などと楽山は言うのでしょう。楽山自身に、愛のつもりで奪ってきた履歴があるのでしょうか。今も続いているのでしょうか。
 
楽山は区別できないようだが「ごり押し」は、自己中が、よかれと思って押し付けてしまう偽善です。愛に反することであり、愛の要素は少しもありません。楽山が、また、軽薄な判断をして、言語の未熟を表しています。楽山からは、早く逃げてください。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(3)3
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。若者も老人も楽山です。楽山の自我であり、我欲であり、利己であり、自己優越の快感モドキなのです。これくらい、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は救いがたいほど思い上がるということです。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。宗教という重大なテーマに、サイクリングでもするような気やすさで出かけたのだから、転倒することになります。 
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山には、神も人も、相互に交流などできないから、扱う対象になるのでしょう。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。教祖願望なのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。前もって知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか受け取っていないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
神を知るという言い方は語弊があります。聖書の記事から知り得ることはあるでしょう。しかし、それは、神の意志と行為や辻褄を理解するには、あまりにも拙劣で未熟な理解なのです。思い込み信仰やカルトの入り口になりやすいところです。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる理由です。楽山の記事は、読者を、楽山の恣意に誘導する性質を、企みとして、必ず持っていると言ってよいのです。それが楽山の目的だからです。
 
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
「一理ある」という薄い言葉理解で、神を判断している楽山です。最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、恥を知らないのでしょうか。詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もない独り芝居です。
 
反キリストの楽山が、神の信じ方を云々することで、この記事が、意地の悪い詭弁そして刷り込みだと分かるのです。どこまでも白々しいインチキで、楽山だけが、支持されているという妄想の世界に住んでいます。緩やかに発狂してゆく病気が、この楽山に典型的な体質的人格障害です。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
超常趣味であり、超常現象が好きで、霊が分かると思っている。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで、または、本の中の引用で、理解したと慢心する。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。そして、バレていることにも気づかないのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
色あせた色褪せた独り芝居の果て

色褪せた色褪せた独り芝居の果て
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月27日、再録+加筆)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が繰り返す
明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはつまり、棒氏は、自分の失敗パターンを認識し、同じパターンにはまらないようにするという反省の教えを実践できてないということです。
余計なお節介かもしれませんが、守護霊がどうした、アンチがどうしたというよりも、まずは、心の教をきちんと学び、実践することをおすすめします!
午前6:55 · 2022年6月26日·Twitter Web App
 
楽山は、まず、自分の失敗を認めない人です。楽山は「心の教をきちんと学び、実践すること」など、したことはないと思います。楽山は、まったく「余計なお節介」だけをしていますが、人のことを、とやかく言う資格などない人です。楽山は、宗教と信仰の、最悪の背教者そして偽善者なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己陶酔とナルシズムと不感不応の鈍感と薄情な独り芝居に生きている楽山は、恐らく感動も共感もしたことはないと思います。しかし、反省という言葉だけ使うのと同じように、感動という言葉も使ってきました。つまり、気安い見せかけと誘導の芝居には何も実感がないのです。
 
情けないほど、楽山には、宗教性が見られません。心に受け取る器がないようです。だから、楽山が聖書や本を読んだことにして書いても、何も糧にも参考にもなりません。嫌がらせをしたいだけのサイコパスだと思います。もっと悪くなるかもしれません。どうか楽山にだけは関わらないでください。
 
 
 
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  笑止い自慢の楽山2
 
 「ヨブの信仰」羽仁もと子著
 楽山日記(LD)2020年06月16日
 
 
(辞書より)
笑止い(しょうしい):気の毒、滑稽。(東北・信越地方で)恥ずかしい、おしょしい。
笑止(しょうし):大変なこと。困ったこと。気の毒なこと。笑うべきこと。おかしいこと。恥ずかしく思うこと。
( Ex-word 広辞苑 )
 
 
楽山は意地になっているのでしょうか。それとも、びくともしないことを示したいのでしょうか。出力は、受け取れば、必ず、その性質が表れます。
 
その積み重ねがあり、そこに問題があれば、自然の流れとして、問題点についての資料が多ければ多いほど、詳細な文章となって返されることになります。楽山は、鈍感~無視~厚顔を鍛えるために、それを望んでいるのでしょうか。驚くべき不感不応で、書き続けているのです。
 
 
 楽山の偽善性
  改めて、今までに表れてきたことから現状の、楽山についての資料まとめ。
  
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であろう。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という障害の自覚に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
トホホ言語と芝居で、同情を誘い、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
このような小細工をすることで、楽山の文章は、何ともじれったく辛気臭いものになっている。
 
アドラー心理学、実は、アドラー教という自己中推進カルトの宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を少しばかり字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
以上の多くは、シャロームと共通である。楽山は、シャロームや易坊の、キャラを変えた芝居の成りすましではないかという疑惑がある。でなければ、親族か、カルト仲間か、筆致を変えているが、内容が、実に、よく似ている。
 
この楽山の資料まとめは、必要があれば修正加筆して、これからも載せるつもりです。
 
 
楽山は、他者の言葉を借りて、自分を高めようとしてきました。いかなる他者の言葉を引用しようとも、楽山が選んで自己満足のために書いてきたものなので、楽山の意見として、責任を追及し、批判することになります。
 
 
『羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。
 
「あっと驚かされる」「ストンと収まる」「涙が出る」・・大嘘です。ヨブは、悲劇に遭って神が助けてくれないので裏切り、自己正当化をして、神と議論したいなどと、神に悪態をつきます。しかし、神が顕れて叱りつけると、すぐに、悔い改めました。
 
ですから、ヨブは、神を "信じきっている" というのは、間違いです。
 
苦痛の中でも、神を信じ切っていたのは、キリストだけです。
 
私たち信仰者は、神が目に見えない地上の世界に住んでいます。したがって、代わりに与えられた聖書から、感じ取り、考え、信仰を受け取ってゆく必要があります。
 
そう考えると、楽山の無理解の経過から、妙に納得、胸にストン、というのは、嘘であり、実際は、分かっているふう、ちゃんと読んでいるふうを装っている嘘であり芝居に過ぎない、ということが感じ取れるわけです。
 
ましてや、涙が出る、に至っては、今までの記事とコメントの流れ、文章の中の前後関係から言って、質量の無い文脈の典型で、嘘吐きペテン師である楽山の、ふざけた三文芝居であることも分かるのです。
 
文章を読むときに、その文章だけではなく、過去の文章とその主張の流れを把握しておくことが大切です。過去と一致せず、反省もしていないならば、言い逃れの嘘と判断できるでしょう。
 
楽山にとって、言葉は、真実を表す手段ではなく、自分をよく見せる安いツールでしかないと思います。ここまで、平気で、偽りを続ける楽山に、毛ほどの信頼も寄せてはいけません。
 
楽山の 隠された悪意の本性は、随所に、深みの無い、まともな文脈の無い、罪悪感の無い、皮のような垢のような思い付きの、泡を吹くような、きれいごとによって、化けの皮が剥がされてゆくでしょう。
 
ここに至って、なお、平気で、恐らく笑いながら、白々しい記事を書いてくるところに、楽山の、不治の病巣の深さが表れてきます。もはや、悪魔性、全開です。
 
 
宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。
 
本音の疑問なら、私も祈りにおいて言うし嘆くことこともあります。しかしながら、楽山のように、嘘を吐き、だまし目的で語るところの、おとしめと、けなし言葉と、嘘の納得を、受け入れる神ではないのです。
 
楽山は、神を知らないから平気で言っていますが、露骨な悪意を、平気な顔で、今に至るまで、神に対して、さらし続けているということです。恐ろしいことなのです。
 
 
でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、
 
神の愛を信じていないから、恨み言を、だまし文句を多用して、平然と言えるような根腐れ者もいる、ということが、楽山を通して分かるわけです。
 
肯定的な文言が、ことごとく世辞や嘘や芝居であるような偽善者が、神に受け入れられることは決してないことが、聖書を読めば、どういう人が救われ、どういう人が敵となったか、キリストの言葉を知れば、ふつう、分かるのです。到底、赦されないことを、楽山は、言い続けてきました。
 
楽山は、人間性のない乾燥麻薬のような害毒だから、反省も成長も後悔もしないでいられるのです。凝固した人格が、麻薬のような粉の言をまき散らしながら、人格を失ってゆくプロセスが、楽山を通して表れています。
 
このリスクは、神の裁きが下るまでは、人間が、自分の自由意志で、回避するしかないのです。それまでの間、楽山は、束の間の全能感に浸ることになるでしょう。
 
 
だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。
 
このことを信じている楽山なら、今までの、そして、今回の、嘘と偽善と自己中、ましてや、霊が分かるっぽい慢心に至ることはなかったわけです。ここに至っても、あるいは、ここに至るほどに、楽山の言を、楽山自身の言が否定している、ということに、全然、気づかない楽山です。
 
 
この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。
 
神は、キリストは、偽善者に対しては、対立し、批判しました。楽山の言は、信仰を求める心からの不敬発言ではなく、神と人を騙そうとする偽善の反信仰発言です。こういうことを平気で言ってくるのは、聖書のキリストの言葉を、楽山が、まるで受け取っていないことの証拠です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書)
 
 
こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。
 
今になって、何を自慢しているのでしょう。しかも、"現実以上に" リアルに感じる、と言っているのは、自分が霊能者だと、自慢しているのです。病巣が、むき出しになってきました。どこまでも、自己正当化を図るゆえに、ますます、病巣を露わにする偽善者、楽山です。楽山にリアルはありません。
 
 
即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。
 
楽山の幼少時代は知りませんが、他人に甘い自分というのは、自身のボンヤリ言語にかこつけて、またしても自慢であり、今度は、やさしさ自慢と自己満悦であります。楽山は、とても卑怯で陰険な人です。「大甘な神しか考えられないのだから仕方ない」で、正当化できる何ものもありません。
 
このように、発言が、いちいち自慢ベースで語られるのが、病原ナルシストの特徴です。シャロームも同様でした。意識しなくても自慢してしまうようになってしまうのでしょう。
 
「大甘な神しか考えられない」・・だから、楽山は、知恵もなく、情緒もなく、良心もなく、キリスト者ではなく、中立でもなく、偽善を生業(なりわい)とする偽善の反キリスト、宗教詐欺師なのです。これも証拠と言ってよいでしょう。
 
 
羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。
 
引用元のことは知りません。しかし、楽山が、興味を持つと、ろくなことはないでしょう。楽山の感じている神と近いと言われることは、最大の背教、最大の裏切り、最大のペテン、最大の侮辱だからです。
 
 
本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。
 
楽山の聖書や書物の誤読と曲解については、今までも書いてきました。それに、何の弁明もしないまま、「文語体の方も」「見てみたくなるなあ」などと、これもボンヤリ言語ですが、恥ずかしげもなく書いてくるところなど、次々に、自らの偽善性を、虚偽性を、自ら証明している楽山です。
 
優しさと親しみと冷静を装う楽山の、今回の記事も、「なるなあ」排泄も、前の「言えなくもない」も、ボンヤリ言語であり、嘘っぱちであります。そのたびに、反キリストぶりを表しているのです。
 
はっきりと物が言えないくせに、前の記事で、他者の言葉を引用して「キレる高齢者、暴走老人」などと当てつけてくる楽山の、どこが中庸でしょう、どこが中立でしょう、どこが柔和でしょう、どこが弱いでしょう。楽山にあるのは、高慢と、無反省と、自己中の、厚顔無恥だけなのです。
 
 
真っ赤な嘘だらけ

真っ赤な嘘だらけ
 
 
(2020年06月17日)
(2022年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  (抜粋)
 
はじめに言葉ありき、言葉は神なりき
真実の言葉を語りたかったのです
しかし言葉が人に渡ったとき嘘が生まれ
人の中で言葉がもまれればもまれるほど
それは踏みつけられ、互いにむさぼり
言葉は人の中で死んでいくのです
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の白々しい嘘は、神によって、全て見抜かれています。それだけでなく、今までの経過を知っておれば、人によって見抜かれてもいます。どれだけ長い間、嘘を吐いてきたのでしょう。嘘は、結局、嘘を吐いた者に返ってくるのです。とんでもない人格を破壊するために。
 
 
 
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  信仰者の感謝2
 
 
感謝だけでは
信仰は語れない
 
感謝する人の
善い話と
感謝しない人の
善くない話だけでは
信仰は語れない
 
感謝できないこともある人の心
 
人の心に触れ
人の心を通して
人の心を考えなければ
神の下にある人の信仰は語れない
 
悲しみから仰ぎ祈り求めるところから
信仰は始まるのではないのか
 
救われたという体験によって
すべてが感謝に変わって
そのままの感謝が一生続くだろうか
 
幾つも幾つも躓(つまず)きの石があり
何度も何度も躓いては
跪(ひざまず)く
その危うさを知っても
なお信じることに帰るしかないのだ
 
信仰者の感謝は
安定ではない
安定を装うことでもない
 
傷だらけの人として
帰るところに
待たれているという信仰ではないのか
 
 
祈るとき
既に総ては見抜かれている
それが全能の神のほうを向くということです。
 
悲しい心を見抜いておられる神に
人が無理して感謝の祈りを捧げるならば
神は、どう思われるだろう。
 
正直であるかどうか
それだけを見ておられる神に
正直な祈りを待っておられる神に
嘘の感謝をして
神は、悲しい人を救うだろうか。
 
信仰とは
救いのATMではないのだから
神の仕組みではなく交流なのだから
人が生きているなら
生きた祈りをするべきでしょう。
 
悲しいなら悲しいと
苦しいなら苦しいと
神などいないと思ったなら
そう思ったと。
 
本当にいないと思っているなら祈ったりしないはずです。
 
神などいないと思うのは、
祈る心が正直であるなら
神などいない
という"叫び"であることが伝わるだろう。
苦悩の叫びは、最も正直である。
 
神は正直な叫びであることをご存知である。
 
立派な祈りなど存在しない。
 
人が立派でないことを
神は既にご存知である。
 
神の前に
正直以外は通用しない
と言ったのはこのことであります。
 
 
感謝と讃美だらけの
嘘っぱちの祈りをする者を知っています。
神を信じてなどおらず
神を侮(あなど)り、恐れない者です。
人格そのものが嘘っぱちになっていました。
 
 
明暗

明暗
 
 
(2011年)(2019年)(2020年)
(2022年05月31日、再録+加筆)
 
 
 
  陰から光へ 2
 
 
愛を知りたければ
愛のない世界の有り様を知ることだ。
 
憎しみ、恨み、嘲り、罵り、
そして言葉と肉体の罠と暴力の世界
 
すべて経験していなくても
弁えるべき知識として考えることだ。
 
真善美を知りたいときも
同様である。
 
陰性を知ることで
その対極を想起することが必要だ。
 
陽性ばかりを見て
良かったと言っても
人間にとって
陽性の見聞きが与えるものは
飾り言葉になりやすく
弱く浅く薄くなりやすい。
 
それは恐らく
気持ちの良さを優先するからだろう。
 
キリストの愛を受け取った人々は
マイナスの世界を知っていた人々。
 
陰を知るゆえに光に反応できるのです。
 
 
キリストの
物や肉体の奇跡に彩(いろど)られた愛を知っても
真似ができるわけではない。
 
いい話の
夢が叶う物語が
実話でもフィクションでも
真似をして叶うとは限らない。
 
 
真善美と愛を裏切る偽善者の話を見苦しいと分かるためには
真善美と愛を少し知っているだけでなく
偽悪醜を知る必要がある。
 
反キリストのカルトと偽善者の存在を知ることは
彼らがなぜそう呼ばれるのかを知ることで
そうならないための道を暗示するだろう。
 
カルトの偽善者は愛を知らない。
彼らは都合の良さを漁(あさ)っているだけだ。
 
彼らに頷かない姿勢を学ぶなら
それだけで良き訪れといえよう。
 
真善美を描くときには
必ず悪役が登場する。
 
現実もそうである。
それも逆説的に福音の一部とも言えよう。
 
多く勘違いされて
美談ばかりを語ろうとするなら
 
美談を罠として利用する者を見逃してしまう。
 
愛を知りたければ
カルトに感染しないための予防注射として
愛のない世界の存在を知ることだ。
 
そうすれば
美辞麗句で飾った話など出来なくなるだろう。
 
 
罪人である人間は
真善美の信仰を知ったつもりで
真善美という言葉によって
真善美らしい外套を身につけるが
それで真善美が伝わることはない。
 
真善美の字面だけなら
真善美は私たちを裏切るからだ。
 
聖書もまた
信仰を心から讃(たた)える者だけでなく
信仰を讃えながら曲げる者が出てくることで
理解を深めることが出来る。
 
愛のないさまを見るとき
愛のある様を対極に思い描いている。
 
人は愛のないところを知って
初めて愛を求める。
 
キリストが見抜いた最も大きな罪であるところの、善の仮面をつけた偽善は、いつも"光"の芝居をするので、その陰の部分を知らない限り、あたかも光のように見えて、社交の世辞が斜光となって、人を欺き続けるだろう。
 
陰に潜む凶悪な偽善を見抜くために、陰を知ることが必要である。和(なご)みを装う笑顔の裏に、あざ笑いを見抜くだけの感性が必要である。その答えは聖書に、偽善と闘ったキリストの生き様にあります。
 
光だけを見ようとしても
陰のない光は何も見えないのと同じだろう。
 
光は
陰のあることを知らせて
光と自覚される。
 
私たちは陰影の中に生きている。
 
 
(2022年05月31日、再録)
 
頷く(うなずく)
彩る(いろどる)
 
 
 
  赤の明暗
 
雪に目を見張る少女
頬の赤み
 
白い中へ飛び込んでゆく
横面ひっぱたかれて腫れ上がった顔
頬の赤み
黒ずんで逃げ出してゆく
 
どちらも痛みを忘れる驚き
危うく帰らぬ人
 
 
  影絵
 
思い出そうとする
あったようで
あったとは思えない日々について
出会った人々の顔について
名前を抜きにして
明暗を分けることの出来ない影について
あまりよかったとは思えない
数々の自分の顔について
 
影絵を見るように
そこにあったと思い込む
生き生きと影が集う物語に
思わず友を呼ぶ
 
急にうすくぼやけて広がる低みに
一つの影が退場する
そして影絵の裏側で
舞台裏のしゃがんだ汗ばんだ顔の後ろで
折れ曲がった
顔のない
ぶら下がりのゆらゆらが
もう笑いもせず泣きもせず
役割を終えて手を離れ
いま平坦に横たわる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰にも感謝できず、不遇への復讐のような憂さ晴らしばかりをしてきた楽山は、感謝の心を忘れ、明るいところを嫌い、深い隠蔽の澱(おり)のような溜まり場に棲んで、そこに悪意を溜めて、嘘と詭弁に明け暮れながら、人間の条件である良心を、次から次に捨ててきたのでしょう。
 
 
 
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  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
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