ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽善

 
  詭弁の空しい楽山2
 
 嫌な感じのする批判、しない批判(マグマリのブログ)
 2021年11月18日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
自分の悪を人のせいにする偽善の典型です。引用された自称マグダラマリアは、キリスト者ではなく、カルトだと思っています。異を唱えると興奮して「ぷぷぷ」「けろっ」など意味不明なことを言って、あざ笑い、怒号を吐く人で、ヤフーでは自称ヨシュアとともに偽キリスト教を宣伝していました。
 
一緒に宣伝していた自称ヨシュアが「教えを守って完全になれる」と言ったことから、化けの皮がはがれました。ひどい勘違いです。教えを守れない自らを知って、正直に告白し祈ることがキリスト信仰なのです。聖書の登場人物の名を悪用する二人の罪は深いと思います。
 
自称マグダラマリアは、自称マグダラと略します。楽山は、楽山ですが、ヤフー時代から、様々なHNを使ってきたと思っています。まさに、楽山は、様々に成りすまし、丁寧語と悪口を使い分ける荒らしなのです。決して巻き込まれないように、気をつけてください。
 
「嫌な感じのする批判」と言っています。大方、批判は苦言を呈するわけですが、それを冷静に受け取って考えることの出来ない楽山です。楽山は心地よい批判を求めているのでしょうか。それは世辞の褒め言葉であり、楽山に対して書くことは、まず、ないのです。
 
 
*批判されてる?
マリアさんのブログをみたら、「スルー、無視はよくない」という主旨の話を書いてた。自意識過剰かもしれないが、最近は無益な議論は避けるようになっているので、つい自分が批判されてるような気がしてしまった。
ただそれでも少しも嫌な感じはしないのは不思議だ。
 
楽山は、批判され、かつ、それを無視してきました。楽山が、自称マグダラに嫌な感じがしないのは、ほぼ同類だからでしょう。訂正不能の妄想的思想をもって、自称マグダラはカルトを広めようとし、楽山はキリスト教を否定しようとしてきます。
 
楽山に対しては明確に言説を否定しなければ意味がありません。丁寧語で書けば、丁寧語を返してくるでしょう。しかし、何も変わらないのが楽山です。楽山が不快かどうかに気を使う段階ではありません。邪悪を邪悪、嘘を嘘と、言い続ける必要があります。ただの失言ではないのが楽山の言です。
 
全ての人が、楽山の言を否定し、意に介さなくなることが目的です。いてはいけない人を、いてはいけないと言うしかないのです。全ての人が、嘘と詭弁の楽山を拒否することが最終目的です。楽山の丁寧語は世辞か誘導です。受け入れることは楽山の非道に染まることを意味します。
 
 
*批判それぞれ
考えてみれば、一口に批判といっても、その中には嫌な感じがするものと、しないものとがある。ネチネチした批判もあれば、公明正大でさっぱりした批判もある。
この違いは、一体どこにあるのだろう?
 
楽山は、凶悪であるにもかかわらず、長い間、ボンヤリ言語という丁寧語で、ごまかしてきました。ネチネチして最も嫌な感じなのは、自己正当化の詭弁が執拗な楽山のほうです。それもバレて、他者にすがるようになったのでしょうか。同じ穴のムジナなのでしょうか。
 
楽山は、もっともっと「嫌な感じ」に包まれるべきです。それが、無反省、無責任の、嘘と詭弁の異常者に与えられる報いです。仲間もいるようですが、ひょっとして、楽山の異常性を考えると、全部が成りすましでしょうか。「さっぱりした批判」?・・批判にさっぱりならないでしょう。気持悪い。
 
 
*妄想
まず一つは、妄想のあるなしが影響しているような気はする。
「あいつは内心では悪い事ばかり考えているくせに、口では綺麗事ばかりいってる」「あいつは私を貶めようとたくらんでいるにちがいない。きっと陰では悪口ばかりいってるはずだ」などなど。
こういう邪推、被害妄想ばかりの他者批判は病的で気味が悪いものだ。
 
また楽山の三文芝居です。妄想と決めつけて、台詞を用意しての印象操作です。こういうのを見るたびに批判の意志を新たにします。やり口が、吐き気がするほど、汚いからです。楽山は、真っ当な反論が出来ず、相手を妄想と決めつけることしかできないのです。精神的不具(鰒?)なのです。
 
口で「綺麗事」ばかり言っているのは、他でもない楽山です。そして、この記事のように、お仲間らしいカルトのHNを出して「悪口」を当てつけているのも、楽山に他なりません。他者の被害妄想ということにして、すり替えの詭弁を吐いているのも、楽山の常套手段です。信憑性ゼロです。
 
 
*偏見
もう一つは、偏見、決めつけ、差別も影響しているだろう。
「あいつは邪悪な奴だ。いつも悪い事をたくらんでいるに決まってる」「あいつが善行なんてするわけがない。もししたとしたら何か邪悪な目的があるからだ。みんな騙されてはいけない」などなど。
こういう差別心が剥き出しになっている発言には、多くの人が嫌悪を感じないではいられないだろう。
 
このように、他者の捏造のセリフを書いてくるのも、芝居好きな楽山の趣味ですが、痒くなるほどの白々しさに、楽山だけが気づかないのです。だから、私は言います。邪悪な楽山には、決して、だまされないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
「差別心」と書いていますが、差別ではなく、楽山を、自己愛病質を根拠として人類の敵だと言っているのです。こういう男を、常識人と平等に遇することは決して出来ません。冷酷で凶暴な性根を持っている楽山という悪と偽善に対しては、決して肯定的な一言もあり得ないのです。
 
 
*人格攻撃
もう一つは人格攻撃のあるなしも関係してそうだ。
「あいつはエゴイストだ! 自己中だ!」「あいつは傲慢で、思い上がっている! 謙虚ということをまったく知らない」「あいつには愛がない。愛がない奴は何を言っても、やってもダメだ」「ああいう卑劣な奴には、意見をいう資格はない!」などなど。
こんな風に議論のテーマそっちのけで、「お前は心懸けが悪いからけしからん!」という人格攻撃ばかりだと、ただの悪口にしかならないものだ。
 
人格が異常であるところの人格障害なのだから、その狡猾で汚い人格を否定することになります。一般には、関わらないことが大事です。話し合おうなどと思ってはいけません。楽山は、自分の発言に、全く責任を負う気がなく、嘘と詭弁と妄想を垂れ流して誘導してきます。尿失禁よりも厄介なのです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という人格の病気です。治す薬がありません。したがって、人格が悪いことを指摘してゆくしかありません。だから、はっきり言います。楽山は、嘘吐きのペテン師の、人格の腐った病質者です。底なしに汚い性根です。
 
 
*理由
想像するに、マリアさんの記事を読んで、自分が批判対象にされてるとは思っても、嫌な気分にならなかったのは、マリアさんの記事からは上の妄想、偏見、人格攻撃などの要素が感じられなかったからなのだろう。
自分も批判記事を書かねばならなくなったときには、この三要素に染まらないように気をつけたいものである。
 
自称マグダラは、世辞や丁寧語には、見かけの、やさしさを返してきます。偽善者は、多く、そのような特徴があります。妄想、偏見、人格異常は、楽山の持ち物、あるいは、楽山自身です。まさに、楽山が批判者の人格を、逆に、楽山に当てはまる邪悪な人格だという印象を刷り込んでいるのです。
 
楽山は、批判と、攻撃や悪口の、区別がつかないのでしょう。批判されると攻撃されたと言い、自分の、気色悪く臭い宗教否定の屁理屈のことは、棚に上げています。根拠のない婉曲的な丁寧語の悪口は、悪だと分かりやすい悪口より悪質です。丁寧だからと、そのまま信用しないでください。
 
自称マグダラは、表立っては、キリスト教?のブログを書いてきました。反キリストの楽山と同調するのは、実際にはキリスト教を全く理解していないし、信じる気もないことと、カルト妄想者という共通部分があるからでしょう。改めて言います。だまされないでください。
 
楽山が自称マグダラを引用すること、自称マグダラは承知しているのでしょう。いつも、引用は、無責任に、許可など得ない楽山ですから、一応、心配にはなります。相手の許可を得なくてもいいのは、対象に許可されない場合が多い批判の場合です。
 
強制力が使えない場合、批判しか出来ません。なぜ強制力が使えないのか、それは、ネットでは、行動を知りえないからです。唯一知り得る行動は、嘘、詭弁、誘導などの、発言の内容です。ゆえに、そこを批判し続ける以外在りません。とても根気のいる作業になります。
 
楽山が物を言って公表すれば批判がくっついてくる、ということをルーチンにするしかないということです。楽山は嫌な気分になるくらいでしょう。楽山が見るためではなく、読者が見て、とても一般的な注意事項として、楽山に関わってはいけないということを知ってほしいので、批判を書いています。
 
楽山の年齢は不明ですが、私のほうが先に死ぬでしょう。その時まで、批判を続けようと思います。老後に与えられた使命としては、あまりに弱いのです。しかし、心の弱さから、楽山に騙されることは、人格を鈍くされ破壊されてゆく方向ですから、私は、生きている間、出来ることをしています。
 
楽山は、精神の奇形児と言ってもよいくらい、人間性の良いところを腐らせてきました。楽山というモンスターは、嘘や世辞や詭弁で、刷り込んで、人をだましてきますが、強く人を動かすような、いかなる説得力も持っていません。いくら気取っても、気づけば、これほど下らない人はいないのです。
 
 
汚い詭弁

汚い詭弁
 
 
 
(2021年)
(2022年12月03日、再録+加筆)
 
 
 
  温度差
 
しばらく冷やしておこう
冷(さ)めるまで
しかし焦るように
一気に打ち下ろして散乱するエナジー
熱血のようでありながら
無の空間に生み出す一種の
冷血の暴力であるかもしれぬ
推(お)すにせよ敲(たた)くにせよ
温もりの形骸を壊したい
温もりの残骸を拾いたい
温度差
「心は熱しているが肉体が弱いのである」
遊びと学びの
温(あたた)めれば温めるほど
腐れてゆく私の温(ぬく)もりに
冷水を浴びせたら
凍(い)てつく君のディスプレイの
アフター・ダークネス
血走った眼が見えますか
血走った眼が見えますか
どこまでも私でしかあり得なかった
血走った眼など映りはしないのでしょうね
映りはしないのでしょうね
それは季節よりも残酷に
握れば手までドロドロと
溶けてしまいそうな烈火の園に
ひややかに咲く一輪の花を
握れば手までパリパリと
毀(こぼ)れてしまいそうな零下の園に
しなやかに咲く一輪の花を
叫んでは乱れ散るエナジー
改めれば改めるほど病んでゆく
私の温もりは疾(と)うに
私も熱も捨て去って
どこか他の人の国へ旅立ったのだろうか
「心は熱しているが肉体が弱いのである」
今も叫びになりたいか
温度差よ
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
 
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
 
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
※ (ネットより)
きこく-しゅうしゅう【鬼哭啾啾】
悲惨な死に方をした者の浮かばれない亡霊の泣き声が、恨めしげに響くさま。転じてものすごい気配が漂い迫りくるさま。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
記事を書き、その大方に、批判記事があり、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
丁寧語を返せば、楽山が、世辞をいうのは、やっていることがペテン師の技だからです。詭弁、捏造、当てつけ、いちゃもん、そして、無反省、無責任、妄想的訂正不能、自己中、思考と感情の未熟と障害、不祥事を人のせいにするなど、現時点で、救いが全く見られない楽山です。
 
この記事のように、お仲間か成りすましか第三者かを引用して、自分に都合のよい嘘を並べて、批判者を悪者に仕立て上げる楽山という男は、記事を見て、読めば読むほど、決して、赦してはならないという決意を新たにしてきました。読めば読むほど実感します。これほど卑怯な男を見たことがありません。
 
 
 
(ネットより)
サイコパスのの特徴
 
表面上は口達者
利己的・自己中心的
自慢話をする
自分の非を認めない
結果至上主義
平然と嘘をつく
共感ができない
他人を操ろうとする
良心の欠如
刺激を求める
 
あるいは
 
良心が異常に欠如している。
他者に冷淡で共感しない。
慢性的に平然と嘘をつく。
行動に対する責任が全く取れない。
罪悪感が皆無。
自尊心が過大で自己中心的。
口が達者で表面は魅力的。
 
 
私としては
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
惨劇や戦争を起こす集団には、必ずサイコパスがいると思います。
 
サイコパスには、
怒りと憎しみと笑いはありますが、しんみり悲しむ情がありません。
 
 
 
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  レイプ犯のような楽山2
 
 祈りと平安(『アウトサイダー』スティーヴン・キング著)
 2021年08月08日 楽山日記(LD)
 
 
遠慮もなく、自らを弁えることもなく、あらゆる良心の働きを捨てて、とぼけた顔と態度で、信仰をおとしめてくる楽山ですが、今に始まったことではありません。やさしい言葉で侮辱する習性の楽山を信じてはいけません。
 
 
*祈りと信仰
キングの小説を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
ホリーは床に膝をついて目を閉じ、両手を組みあわせた。朝と夜に祈りを捧げるというのは、かかりつけの分析医のアドバイスだった。ホリーは、自分はかならずしも神を信じてはいないと抵抗したが、自分の不安や計画を声に出して仮想上の“高次の力”に語りかけることが――たとえ神を信じていなくとも――ホリーの役に立つといった。意外にも、その言葉どおりになったようだった。
(『アウトサイダー 下』スティーヴン・キング著、白石朗訳、文藝春秋、2021年、p.9)
 」
祈りは、もし仮に神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い話である。
 
楽山の言う、神を信じる・・ということは、訂正不能に思い込み信じ込むことですから、信仰とは全く異質で真逆のものです。したがって、この時点で、楽山の語る信仰なるものは、信仰とは無縁の妄想ということになります。信仰は、共感であり、心の絆であります。楽山は、何も知りません。
 
そのことを私はずっと書いてきたのですが、楽山は無視して、勝手に書き続けています。無反省、無責任の、感性鈍麻で、心の無い、人間としての節操のなさを表すだけの、楽山の執拗さの本質は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山は、人の言うことなど、聞いていません。聞いたふうを装っているだけです。結局、自説の妄想に戻ってゆき、自分の言い分に引き込もうとしてきます。見せかけの柔和だけを身に着けて、非人間性の精神病理を隠し続けているのです。一定期間、楽山を見ている人には分かるはずのことです。
 
楽山が祈りについて語るなど、笑止なのです。それこそ、信仰をレイプしているようなものです。かけがえのない信仰の祈りにまで、楽山の、荒々しく、侮辱の粗い荒い手を伸ばして、愚弄する作為を、どうして許すことが出来るでしょう。楽山ごときの興味とは何の関係もないのです。
 
「祈りは」「神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い」・・祈りは魔法ではありません。しかし、楽山は、祈りに込められるものまで、気安く「よいこと」と言えば済むというほどの鈍麻した獣性によって触れてきます。気遣いも共感もない不感不応の罪の鮫肌です。
 
楽山が、信仰と思っているのは、超常の、現実離れした奇跡のことで、それを「高次の力」と呼んで済ませています。そして、信じ込んでいなくてもいい・・みたいな話にしています。つまり、楽山の虫のよさは、信仰がなくても、超常の力だけ、もらいたいという欲望なのです。そんな神はいません。
 
信仰が薄くても、非信仰者でも、祈ることが可能になること、神が祈りを受け取ることはあると思います。しかしながら、悔い改めの心も、共感する心も、皆無であり、かつ、今まで、信仰を侮辱して笑うだけだった楽山のような者には、祈り芝居などしても、下されるのは裁きだけなのです。
 
 
*例1
では、その祈りとは具体的にはどういうものかといえば、こうある。
「こんにちは、またホリー・ギブニーです。いまも自分なりにベストをつくそうと努めています。
[省略]
あしたはデイトンへ行きます。車のなかでわたしがずっと安全でいられるように、あらゆる交通規則を護るように、わたしを見まもってください。そしてわたしが手もとの事実をもとにして、最善の行動がとれるように見まもってください。その事実がまた興味深いものなのです」ホリーは考えをめぐらせた。「いまでもビルのことが恋しいです。今夜はこのへんで」
ホリーはベッドにもぐりこみ、五秒後には寝入っていた。
(同上、p.10)
 」
ホリーの祈りは長いので一部省略したが、全体的な流れとしては、まず神に挨拶し、友人たちの安全と幸福を願い、その後で自分の話をするというものである。
 
祈りは、人から神への、精いっぱい正直な音信です。祈りの時と場を得ることによって、不完全で罪深い自分から、絶対孤独を逃れて、生きる動機となるキリストの共感と愛は、生きる縁(よすが)となるのです。嘘と詭弁の履歴の上に、祈りを載せることは、ただちに偽物だと見抜かれるのです。
 
祈りを、単に、神に報告して願うことのような、楽山の軽い見なしなどは、信仰へのレイプ行為であり、悪魔の好むところであります。楽山が何を書いても、嘘と欺瞞と偽善など、滅びの兆候だけが表れると書いたことがありますが、楽山は、その通りに進んでいるようです。
 
 
祈りの効果については、神経質な性格のホリーが五秒で寝入ったことからするととても良いと言えそうだ。でも亡くなったビルにふれた一言からはホリーの悲しさが溢れていて読むだけで辛くなる…。
 
寝つきがいいから、祈りの効果なのでしょうか、信仰なのでしょうか。信仰を、まるで薬の効能のように安易に結びつけて、心理的な気休めと決めつけている楽山の、信仰へのレイプの有り様は、楽山が語ることの隅から隅まで、臭い臭い三文芝居にしかなりません。
 
「とても良い」「辛くなる」などと、振幅だけ大袈裟にしたような感情の言葉で、何か言い得たつもりになる楽山の、繊細な情感を持たない嘘のお世辞は、白々しさによって正体がバレてゆきます。人を傷つけて快感を得るサイコパスの身の毛のよだつセリフです。
 
 
*例2
ホリーの祈りをもう一つ。
《こんにちは、またしてもホリー・ギブニーです。いまのわたしには、あなたのお力が必要です。もうご存知でしょうが、わたしは知らない人と話すのがたとえ一対一でも苦手です。それなのに今夜これから六人もの人を相手にしなくてはなりません。いえ、故テリー・メイトランドの妻が来れば七人です。震えあがっているわけではありませんが、怖気づいてないといえば嘘になります。ビルならこなせたはずですが、わたしはビルじゃありません。でもビルとおなじようにやり遂げたいので、ぜひお力をお貸しください。人々から信じてもらえないのも当然だと理解し、信じてもらえないことを畏れないようになりたいわたしに、どうかお力をお貸しください》
そして最後の部分だけは――ほんのささやきだったが――声に出して祈りをしめくくった。「神様、頭がいかれちゃわないようにお力をお貸しください」いったん言葉を切ってから、ホリーはこういい添えた。「わたし、タバコは吸ってません」
(pp.91-92)
 」
これは惨殺事件の犯人像を捜査関係者たちに話さねばならない時の祈りだけども、これらの言葉からホリーは自分と自分の置かれた状況とを正確に把握していることがわかる。こうしてみると祈りというのは自分を知るためにも、物事を整理するためにも良いことのように思えてくる。
 
白々しいことです。「自分と自分の置かれた状況」を全く把握していない楽山です。祈りを「良いことのように思えてくる」楽山は、祈り芝居をすることがありますが、正直さがなく、自己中なので、祈りにはなりません。祈りには、神に対して、心の正直さが何よりも必要であり、真似では成り立ちません。
 
 
*祈りのすすめ
四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが、夜、寝る前に「今日一日無事に過ごせました。ありがとうございました」と感謝したり、悩みを神に打ち明けるというのは、心の平安と安眠のためにはよさそうだ。何か大事なことをする前に祈るのも心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう。
 
「四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが」・・四六時中祈ることはないということを知りながら、笑いながら、信仰をレイプしてくる楽山です。いつか、世々の悪と同じように、楽山が無事に過ごす時間が終わるときに、楽山が直面するために、悪は、長く、長く、放置されるのでしょう。
 
楽山の嘘が続きます。ときに褒めても、今までの、汚らしい否定を覆い隠すことは出来ないのです。楽山は、ただ、心理的効果の範囲に収まることだけを「心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう」と言っているだけなのです。信仰のレイプ魔、楽山に、くれぐれも、だまされないようにしてください。
 
 
自分は「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と考えてしまうクチではあるが、ホリーの祈りを読んでいたら、祈りは自分が思っていた以上に良いことのように思えてきた。
 
(ネットより)
こころ【心】 だに 誠(まこと)の道(みち)にかないなば祈(いの)らずとても神(かみ)や守(まも)らん
心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、おのずから神の加護があるであろう。菅原道真の作と伝えられる歌。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
コトバンク
 
「心だに誠の道にかないなば」=「心さえやましくないならば」・・つまり、楽山は、自分は誠の道にかなっており、やましくないから、神に祈らない、と考えているようです。このような、身の程を知らず、人を故意に怒らせるような白々しい嘘を、平気で書いてくるのが、楽山です。確信犯でしょう。
 
信仰をレイプするような侮辱を平気で言い、良心もなく自分信仰の姦淫の罪を悦ぶ楽山の在り方は、人生の経過ではなく、裁きを予定された荒廃の経過なのでしょう。次々に醜さだけを表してきます。それで、まともに思わせようとしてきます。その分、自業自得で、末路の悲惨さを暗示しています。
 
巻き添えを食わないように、決して楽山に関わらないでください。楽山は、多くを捨てた後、さらに、多くを失ってゆきます。既に、地獄なのです。嘘吐きには、嘘の報いしか与えられません。今がそうです。楽山の行き着く先は、もはや言うまでもなく、想像を絶するところでしょう。
 
楽山は、一度も、祈ったことはないと思います。心に闇を抱えたまま、祈ったつもりになっても、気味の悪い思い込みの儀式にしかなりません。祈りは、信仰者が、心を込めて正直に行うことであり、ペテン師の楽山に出来ることではありません。その都度に、物知り顔の無知と無恥が進行します。
 
滅びの貯蓄をしている楽山ですが、信仰に生きる人は、楽山に関わらないでおれば、楽山の偽善と嘘と詭弁の害は避けられるでしょう。私のような批判者は、時間の経過を歩むしかありません。楽山のような偽善者は、どこにも良い影響を与えることができず、さらに醜い悪臭の病巣となってゆきます。
 
 
※ 姦淫は、偶像崇拝や背教の比喩として使われることがあります。その延長として、この記事では、レイプという表現を使っています。
 
 
冷血の住むところ

冷血の住むところ
 
 
(2021年)
(2022年08月20日、再録+加筆)
 
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱は ふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
雲がわき
雲が飛び
雑多な雲が流れ
千々に流れて
虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
 2021年08月08日
 「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
 
楽山は、発作のように、"「ブログ村騒動」発言集" なる記事を、続けて書いています。計画性のない記事の編集ですから、現実を見たくない楽山が、過去を、我が功績とばかり懐かしんでいるのでしょう。総て、無駄であり、裏切りであり、自己正当化であり、自己顕示でしかありません。
 
あまり読む人もいないとは思いますが、間違っても、ちゃんと書ける人などと思わないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、自分の意見が、ことごとく、不正直なはかりごとだとバレてゆくので、何でもいいから、書いたことにしたいのでしょう。惑わされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の理解は、見栄っ張りの小学生レベルです。つまり、楽山には信仰は分かりません。楽山は、人をだますために、知ったかぶりで、時に、賛同しているかのような書き方をしますが、全部、嘘です。楽山の主張は、受けねらいであり、一貫せず、浅く発散して、何も残りはしないのです。
 
楽山を顧みるものは、いなくなるでしょう。というより、今までも、本当は一人もいなかったと思います。楽山が、自らの本当の姿を、誰にも、見せたことがないからです。褒めれば世辞、語れば嘘、説けば詭弁、書けば雑言、誰の役にも立たず、良きものを真剣に求めない欺きの結果が表れるだけなのです。
 
 
 
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  有名人を悪用する楽山3
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子著
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。不感不応。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
 
中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。興味本位で話のネタにしても、加害者は、ことごとく、楽山に当てはまるからです。
 
 
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。
 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという自己正当化のための作為的な当てつけの特徴が出ています。当てつけしか出来ない楽山です。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いているこの記事のことです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた偽善であり反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が今までも表れてきました。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義に見せかける自家中毒です。楽山の毒は、他者を疲労させ、かつ、加害者の楽山自身を、いっそう、腐らせ、破壊してゆきます。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という反キリストの信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという卑怯な経過が続いているのです。楽山の企みは、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えて無視します。そして、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、それが悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
 
ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。以前、"神通力" とかについても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
 
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、
 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、バタンバタンと薄板を叩いて当てはめるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算があるのか、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、理路と共感の貧困な楽山の中には、暫定的にも確かに主張できるものが、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけを持っていることになります。
 
 
脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、
 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。逆らう者には病名を当てて貶める楽山の処世なのです。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回も表れています。加害性として重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な体質・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や嘘や当てつけがあるということです。
 
 
脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。話を大きくして、正論に見せかけています。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような高尚に見える書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを味わわされる地獄が待っています。
 
 
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、
 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、そのような恥を知っている人なら出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、常套手段としての、嘘の芝居なのです。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
 
保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、
 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の三文芝居なのです。
 
 
本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。
 
ネガティブフィードバックは、調節機能だと思いますが、生存戦略ではなく、反省の向上の動機になることです。説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうが、嘘です。楽山の価値観は、ずっと、我欲に他なりません。
 
こういう分かったふうだけのきれいごとは、偽牧師シャロームshalom の大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。楽山やシャロームや易坊などの易坊類と呼んでいる者たちには、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
 
終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。
 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、うんざりするほど、表れてきたのです。楽山は、刷り込み屋であって、言論者ではありません。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、思想も言葉遣いも、未熟で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて満悦し、疑問を感じないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!、有効ですね!、という気になって、辻褄合わせだけの満悦気分に浸っていますが、矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化して学習可能としておくことでしょう。自己中という訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方です。
 
 
本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、偏見を強化して、妄想化して、決めつけて、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
 
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。
 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。非人間性の辻褄合わせが表れています。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、無理解で無意味の責任逃れにしかなりません。楽山自身の人格崩壊の切っ掛けになってゆくでしょう。
 
 
自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
2 儒学。特に、中国宋代の朱子学。宋学。
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
4 道家の学問。道教。
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていません。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、いわば見栄張りと遠吠えだけです。だから自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りの化粧くずれです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫かチンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益なチンドン屋だと、つくづく思います。
 
 
まとものつもり?ちんどん

まとものつもり? ちんどん
(ちんどんは、チンドン屋が安い宣伝でチンチンドンドン鳴らす擬音語でしょうか)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月05日、再録+加筆)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  知識と視野
 
知識が乏しくて視野が狭いと思っている人、一面的な知識しか持っていないために視野が狭いと思わざるをえない人は幸いです。何故ならこの世には自分の知らないことがたくさんあると思わざるをえないが故にこそ自分の視野の外に無限の未知の空間・キャパシティを残しているからです。
 
全知でも全能でもない人の知識・知恵・視野など、たかが知れています。人の視野の狭さを指摘する者の心の中には、相手より自分の視野が広いという思い上がりのようなものを感じます。
 
視野は
その狭さを痛感しているとき最も広く
少しでも広いと思ったり
狭さを自覚しないとき最も狭い
 
私に誇れるものがあるとすれば
私の知恵と知識の乏しさの自覚であり
私の視野の狭さであり
私の愚かさであり
私の不信仰であり
私の信仰である
 
 
  自信
 
かつて
思い上がりや
うぬぼれなら
体験したことがあるが
自信というものを味わったら
どんな気分になるのだろう
 
キリリと座しているコンピューター
今は何も映さぬディスプレイ
ディスクの中には山ほどの情報が
壁を作っておさまっている
 
朝になったら
いろんな人達がいて
おしゃべりや
物忘れをします
 
謙遜と自信
オペレーティングシステムの上で
ソフトな対話
電源を入れれば
カラフルな画面の上で
動きまわるソフトウェア
 
小さな扇風機がこちらを向いている
お前は回るだけだだったな
まわりはハイテクがいっぱい
 
お前は居眠りするだけだったな
まわりは複雑な自信がいっぱい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1408638768739799040
 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
「毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
https://twitter.com/mimollet2015/status/1404656537159700480
 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
楽山のような病質、即ち、心に深い傷を残す自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の加害は、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマを与え、全く気にすることなくキレイごとを言い、もてあそんで笑うことです。
 
楽山のような慮外者に、自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山こそ、善魔そして正義中毒だからです。
 
誰よりも、楽山こそが、偽善者、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない不全の者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山が、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、楽山自身が根拠のある反論も弁明も出来ません。こういう欠落の経過が、逆に、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山は、善ではなく魔であり、正義ではなく自己中毒です。
 
つまり、楽山の言は、他者に言ったつもりでも、ブーメランのように自分に返ってきます。そして、そのことが表すのは、無反省・無責任の、善の見かけの魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者、楽山です。このようなブーメランは、楽山が、でっち上げの正論を書くたびに起こってくるでしょう。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語や、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPDの楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の木っ端役人です。
 
 
楽山が、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路にはなりません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ学問を気取ります。実際には、楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、膨張して、破れてゆくのです。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。同様に、罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、正体を知ると吐き気がします。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような他害的な崩壊人格になってゆくでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、謙虚芝居を書いても、自分が正しいという自己愛妄想がベースになっていて、自分を正すことが出来ません。既にバレています。代わりに、他者の人格を破壊する方向に嘘と詭弁を弄する加害者となっています。楽山のイメージとして、狐のような、しかも、陰気臭いニヤケ顔を想像しています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。
 
「ゴリ押しは奪う愛」・・ごり押しの、どこが愛なのでしょう。ゴリ押しすれば、それは愛に反する圧力です。どうして「奪う愛」などと楽山は言うのでしょう。楽山自身に、愛のつもりで奪ってきた履歴があるのでしょうか。今も続いているのでしょうか。
 
楽山は区別できないようだが「ごり押し」は、自己中が、よかれと思って押し付けてしまう偽善です。愛に反することであり、愛の要素は少しもありません。楽山が、また、軽薄な判断をして、言語の未熟を表しています。楽山からは、早く逃げてください。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(3)3
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。若者も老人も楽山です。楽山の自我であり、我欲であり、利己であり、自己優越の快感モドキなのです。これくらい、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は救いがたいほど思い上がるということです。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。宗教という重大なテーマに、サイクリングでもするような気やすさで出かけたのだから、転倒することになります。 
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山には、神も人も、相互に交流などできないから、扱う対象になるのでしょう。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。教祖願望なのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。前もって知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか受け取っていないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
神を知るという言い方は語弊があります。聖書の記事から知り得ることはあるでしょう。しかし、それは、神の意志と行為や辻褄を理解するには、あまりにも拙劣で未熟な理解なのです。思い込み信仰やカルトの入り口になりやすいところです。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる理由です。楽山の記事は、読者を、楽山の恣意に誘導する性質を、企みとして、必ず持っていると言ってよいのです。それが楽山の目的だからです。
 
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
「一理ある」という薄い言葉理解で、神を判断している楽山です。最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、恥を知らないのでしょうか。詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もない独り芝居です。
 
反キリストの楽山が、神の信じ方を云々することで、この記事が、意地の悪い詭弁そして刷り込みだと分かるのです。どこまでも白々しいインチキで、楽山だけが、支持されているという妄想の世界に住んでいます。緩やかに発狂してゆく病気が、この楽山に典型的な体質的人格障害です。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
超常趣味であり、超常現象が好きで、霊が分かると思っている。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで、または、本の中の引用で、理解したと慢心する。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。そして、バレていることにも気づかないのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
色あせた色褪せた独り芝居の果て

色褪せた色褪せた独り芝居の果て
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月27日、再録+加筆)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が繰り返す
明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはつまり、棒氏は、自分の失敗パターンを認識し、同じパターンにはまらないようにするという反省の教えを実践できてないということです。
余計なお節介かもしれませんが、守護霊がどうした、アンチがどうしたというよりも、まずは、心の教をきちんと学び、実践することをおすすめします!
午前6:55 · 2022年6月26日·Twitter Web App
 
楽山は、まず、自分の失敗を認めない人です。楽山は「心の教をきちんと学び、実践すること」など、したことはないと思います。楽山は、まったく「余計なお節介」だけをしていますが、人のことを、とやかく言う資格などない人です。楽山は、宗教と信仰の、最悪の背教者そして偽善者なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己陶酔とナルシズムと不感不応の鈍感と薄情な独り芝居に生きている楽山は、恐らく感動も共感もしたことはないと思います。しかし、反省という言葉だけ使うのと同じように、感動という言葉も使ってきました。つまり、気安い見せかけと誘導の芝居には何も実感がないのです。
 
情けないほど、楽山には、宗教性が見られません。心に受け取る器がないようです。だから、楽山が聖書や本を読んだことにして書いても、何も糧にも参考にもなりません。嫌がらせをしたいだけのサイコパスだと思います。もっと悪くなるかもしれません。どうか楽山にだけは関わらないでください。
 
 
 
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  笑止い自慢の楽山2
 
 「ヨブの信仰」羽仁もと子著
 楽山日記(LD)2020年06月16日
 
 
(辞書より)
笑止い(しょうしい):気の毒、滑稽。(東北・信越地方で)恥ずかしい、おしょしい。
笑止(しょうし):大変なこと。困ったこと。気の毒なこと。笑うべきこと。おかしいこと。恥ずかしく思うこと。
( Ex-word 広辞苑 )
 
 
楽山は意地になっているのでしょうか。それとも、びくともしないことを示したいのでしょうか。出力は、受け取れば、必ず、その性質が表れます。
 
その積み重ねがあり、そこに問題があれば、自然の流れとして、問題点についての資料が多ければ多いほど、詳細な文章となって返されることになります。楽山は、鈍感~無視~厚顔を鍛えるために、それを望んでいるのでしょうか。驚くべき不感不応で、書き続けているのです。
 
 
 楽山の偽善性
  改めて、今までに表れてきたことから現状の、楽山についての資料まとめ。
  
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であろう。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という障害の自覚に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
トホホ言語と芝居で、同情を誘い、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
このような小細工をすることで、楽山の文章は、何ともじれったく辛気臭いものになっている。
 
アドラー心理学、実は、アドラー教という自己中推進カルトの宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を少しばかり字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
以上の多くは、シャロームと共通である。楽山は、シャロームや易坊の、キャラを変えた芝居の成りすましではないかという疑惑がある。でなければ、親族か、カルト仲間か、筆致を変えているが、内容が、実に、よく似ている。
 
この楽山の資料まとめは、必要があれば修正加筆して、これからも載せるつもりです。
 
 
楽山は、他者の言葉を借りて、自分を高めようとしてきました。いかなる他者の言葉を引用しようとも、楽山が選んで自己満足のために書いてきたものなので、楽山の意見として、責任を追及し、批判することになります。
 
 
『羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。
 
「あっと驚かされる」「ストンと収まる」「涙が出る」・・大嘘です。ヨブは、悲劇に遭って神が助けてくれないので裏切り、自己正当化をして、神と議論したいなどと、神に悪態をつきます。しかし、神が顕れて叱りつけると、すぐに、悔い改めました。
 
ですから、ヨブは、神を "信じきっている" というのは、間違いです。
 
苦痛の中でも、神を信じ切っていたのは、キリストだけです。
 
私たち信仰者は、神が目に見えない地上の世界に住んでいます。したがって、代わりに与えられた聖書から、感じ取り、考え、信仰を受け取ってゆく必要があります。
 
そう考えると、楽山の無理解の経過から、妙に納得、胸にストン、というのは、嘘であり、実際は、分かっているふう、ちゃんと読んでいるふうを装っている嘘であり芝居に過ぎない、ということが感じ取れるわけです。
 
ましてや、涙が出る、に至っては、今までの記事とコメントの流れ、文章の中の前後関係から言って、質量の無い文脈の典型で、嘘吐きペテン師である楽山の、ふざけた三文芝居であることも分かるのです。
 
文章を読むときに、その文章だけではなく、過去の文章とその主張の流れを把握しておくことが大切です。過去と一致せず、反省もしていないならば、言い逃れの嘘と判断できるでしょう。
 
楽山にとって、言葉は、真実を表す手段ではなく、自分をよく見せる安いツールでしかないと思います。ここまで、平気で、偽りを続ける楽山に、毛ほどの信頼も寄せてはいけません。
 
楽山の 隠された悪意の本性は、随所に、深みの無い、まともな文脈の無い、罪悪感の無い、皮のような垢のような思い付きの、泡を吹くような、きれいごとによって、化けの皮が剥がされてゆくでしょう。
 
ここに至って、なお、平気で、恐らく笑いながら、白々しい記事を書いてくるところに、楽山の、不治の病巣の深さが表れてきます。もはや、悪魔性、全開です。
 
 
宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。
 
本音の疑問なら、私も祈りにおいて言うし嘆くことこともあります。しかしながら、楽山のように、嘘を吐き、だまし目的で語るところの、おとしめと、けなし言葉と、嘘の納得を、受け入れる神ではないのです。
 
楽山は、神を知らないから平気で言っていますが、露骨な悪意を、平気な顔で、今に至るまで、神に対して、さらし続けているということです。恐ろしいことなのです。
 
 
でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、
 
神の愛を信じていないから、恨み言を、だまし文句を多用して、平然と言えるような根腐れ者もいる、ということが、楽山を通して分かるわけです。
 
肯定的な文言が、ことごとく世辞や嘘や芝居であるような偽善者が、神に受け入れられることは決してないことが、聖書を読めば、どういう人が救われ、どういう人が敵となったか、キリストの言葉を知れば、ふつう、分かるのです。到底、赦されないことを、楽山は、言い続けてきました。
 
楽山は、人間性のない乾燥麻薬のような害毒だから、反省も成長も後悔もしないでいられるのです。凝固した人格が、麻薬のような粉の言をまき散らしながら、人格を失ってゆくプロセスが、楽山を通して表れています。
 
このリスクは、神の裁きが下るまでは、人間が、自分の自由意志で、回避するしかないのです。それまでの間、楽山は、束の間の全能感に浸ることになるでしょう。
 
 
だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。
 
このことを信じている楽山なら、今までの、そして、今回の、嘘と偽善と自己中、ましてや、霊が分かるっぽい慢心に至ることはなかったわけです。ここに至っても、あるいは、ここに至るほどに、楽山の言を、楽山自身の言が否定している、ということに、全然、気づかない楽山です。
 
 
この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。
 
神は、キリストは、偽善者に対しては、対立し、批判しました。楽山の言は、信仰を求める心からの不敬発言ではなく、神と人を騙そうとする偽善の反信仰発言です。こういうことを平気で言ってくるのは、聖書のキリストの言葉を、楽山が、まるで受け取っていないことの証拠です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書)
 
 
こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。
 
今になって、何を自慢しているのでしょう。しかも、"現実以上に" リアルに感じる、と言っているのは、自分が霊能者だと、自慢しているのです。病巣が、むき出しになってきました。どこまでも、自己正当化を図るゆえに、ますます、病巣を露わにする偽善者、楽山です。楽山にリアルはありません。
 
 
即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。
 
楽山の幼少時代は知りませんが、他人に甘い自分というのは、自身のボンヤリ言語にかこつけて、またしても自慢であり、今度は、やさしさ自慢と自己満悦であります。楽山は、とても卑怯で陰険な人です。「大甘な神しか考えられないのだから仕方ない」で、正当化できる何ものもありません。
 
このように、発言が、いちいち自慢ベースで語られるのが、病原ナルシストの特徴です。シャロームも同様でした。意識しなくても自慢してしまうようになってしまうのでしょう。
 
「大甘な神しか考えられない」・・だから、楽山は、知恵もなく、情緒もなく、良心もなく、キリスト者ではなく、中立でもなく、偽善を生業(なりわい)とする偽善の反キリスト、宗教詐欺師なのです。これも証拠と言ってよいでしょう。
 
 
羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。
 
引用元のことは知りません。しかし、楽山が、興味を持つと、ろくなことはないでしょう。楽山の感じている神と近いと言われることは、最大の背教、最大の裏切り、最大のペテン、最大の侮辱だからです。
 
 
本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。
 
楽山の聖書や書物の誤読と曲解については、今までも書いてきました。それに、何の弁明もしないまま、「文語体の方も」「見てみたくなるなあ」などと、これもボンヤリ言語ですが、恥ずかしげもなく書いてくるところなど、次々に、自らの偽善性を、虚偽性を、自ら証明している楽山です。
 
優しさと親しみと冷静を装う楽山の、今回の記事も、「なるなあ」排泄も、前の「言えなくもない」も、ボンヤリ言語であり、嘘っぱちであります。そのたびに、反キリストぶりを表しているのです。
 
はっきりと物が言えないくせに、前の記事で、他者の言葉を引用して「キレる高齢者、暴走老人」などと当てつけてくる楽山の、どこが中庸でしょう、どこが中立でしょう、どこが柔和でしょう、どこが弱いでしょう。楽山にあるのは、高慢と、無反省と、自己中の、厚顔無恥だけなのです。
 
 
真っ赤な嘘だらけ

真っ赤な嘘だらけ
 
 
(2020年06月17日)
(2022年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  (抜粋)
 
はじめに言葉ありき、言葉は神なりき
真実の言葉を語りたかったのです
しかし言葉が人に渡ったとき嘘が生まれ
人の中で言葉がもまれればもまれるほど
それは踏みつけられ、互いにむさぼり
言葉は人の中で死んでいくのです
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の白々しい嘘は、神によって、全て見抜かれています。それだけでなく、今までの経過を知っておれば、人によって見抜かれてもいます。どれだけ長い間、嘘を吐いてきたのでしょう。嘘は、結局、嘘を吐いた者に返ってくるのです。とんでもない人格を破壊するために。
 
 
 
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