ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽善者

 
  人の復活3
 
 
死人が蘇る話よりも、先に考えるべきことがあります。信仰はその原初から、神との関係への人生の依拠であり、生きる理由の依存でもあります。自立した信仰などありえず、信仰は紛れもなく、神に人が依存し、かなり甘えることに他なりません。
 
語弊があるなら、神のみに依り頼むことと言ってもいいでしょう。神に依存し甘えるとは、祈りにおいて神に対して、人は既に、かなりの無礼を働いているということです。私たちの信仰は、100%を目指すことは出来ません。
 
100%を目指せば目指すほど、思い込みを強くして、偶像信仰になってゆくでしょう。何故なら私たち人間は、一人の人間である他者さえ完全には理解できないでいるのです。ならば、神の全知全能・完全絶対・永遠不変など、理解できるようもありません。
 
私たちの信仰は本質的に、決して100%を目指すものではありません。神はそれをご存知のうえで、福音を賜ったと思うべきであります。すなわち不可知の神への依存は、人間としての地上の人の世での自立を促すものです。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはありません。しかし、そこを間違えれば、おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはあるのです。
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは、今信じていることを固定することではありません。信仰を固定しようとすることは、動かなければ成長しない人間の、成長すらも拒む姿であり、それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目の信仰?であり、偽善者やカルトの信じ方なのです。
 
信仰は、不明を呑みこんで信じ込むことではないのです。信仰において信じるということは神を理解することではなく、100%を目指すことでもありません。救いの成就が目に見えなくても、信仰は、一生の付き合いとなるほどの賜物を心に受けて起こることです。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば、不感不応の慢心からの信仰自慢に他なりません。それは信仰ではありません。今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかないからです。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は、賜物が必要なほど不完全な自分を知っているということです。境地自慢のように信仰をひけらかすことはしてはいけません。
 
それでも人間の信仰は不完全であります。それは人間が不完全だからに他なりません。だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ません。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは、それ以上に尊いものを他に知らないという讃美であります。
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に、「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくありません。
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはありません。
 何故なら神の前で
 人は決して大袈裟にはなれないからです。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が、様々なカルトに悪用されている事実を見ても、聖書に心を揺さぶられたことがなく、心に受けたものがないまま、讃美と信じ込みが信仰だというのは間違っています。
 
祈り以上に、人が真の神を相手にすることは出来ないと思うべきです。そんな能力は人にはなく、真の神が人に及ぶのであって、真の神に人知はどこまでも及ぶことがないのです。
 
ならば信仰は否定されるでしょうか。人は神を信じてはいけないのでしょうか。否です。思い込み信じ込む信仰はないということです。信仰は、いつも疑いといっしょなのが、人間です。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から涎のように
だらだらと引きずる醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じられないときに信じることを捨てられない
という不可避の必要があるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という
人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこでは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への思いの境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとっての復活である。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないが
最後まで希望の縁(よすが)はあるということ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
復活と不滅

復活と不滅
 
 
(2011年)(2019年)
(2019年)(2020年)
(2022年06月01日、再録+加筆)
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  次元
 
乏しくて乏しくて
しまいに欠けてしまって
目で見ているもののまわりに何もない
目で見ているものさえなくなって
古い何かがよぎる
色彩のような
香りのような
 
紙にX軸・Y軸・Z軸を描いてごらん
そう、それが三次元の座標軸だ
その紙に鉛筆を立てて
そう、これが四次元さ
(それを写真に撮ってまた棒を立てる
五次元、・・・、N次元?)
 
0と1が明滅していた
ことの始まり
色彩が妙にきれいだ
平面から立体へ(芸術へ)
それに時間という次元を考え出して加えている
それでも乏しくて乏しくて
しまいに欠けて
古い何かがよぎる
未来が今を思い出している?
色彩が
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰がもたらす共感も、愛も、癒しも、救いも、絆(きずな)も、何も知らず、史実と幼稚な辻褄で、鈍い情緒的感性だけをもって、キリスト信仰を否定する者がいます。書いていることは、読むに堪えないことばかりで、それこそ、思うようにならない生を、悔い改める代わりに、神のせいにしているのです。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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  猛者への堕落4
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には、ある種の猛々しさが残る。せっせとお味方になる意見を集めている。それは猛々しい文章である。その威勢のよさの分だけ、また人間としての共感を失ってゆくのは、字面だけを追って、お味方になる意見というだけで悦び、褒めまくるからである。
 
一般的にヒューマニズム云々を、社会通念に過ぎないものとして批判して、そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが、そういう福音の変質を語る前に、他者を語る前に、人が考えるべきもっと重大な自らの問題を考えていない。
 
人間性を欠いた信仰?は、神性と神聖と真正の確信?に満ちて、正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる。自らに目を向けず、反対意見に耳を貸さず、お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく。
 
そして実際に賛同者以外とは、つまり反対者とは話さなくなる。そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである。しかし、いったい、神への恐れを知る信仰ではなく、むしろ神を恐れず誇大化した自我からの尊大な妄想的確信に、担保されうる何があろうか。
 
しかし、それでも保険のように、神の側に担保されるという神の意志を自らのものにして、さらに確信を強めてゆくので、恥ずかしげもなく、信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく。
 
信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが、信仰によって恥知らずになっていいはずはない。人が持つべき羞恥心は、実際には、信仰?によるつもりであろうがなかろうが、自己の不完全性の無知と無恥からの異なる意見の軽視~無視に対してである。
 
さらに最悪な恥知らずとして、信仰?によるという間違った確信において、異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である。そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは、確信に満ちた非人間性の思想は、自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり、詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら、何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で、罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースから崩れてゆく定めです。
 
このように、キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きています。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間離れした超常を説く必要はなく、人間の心において理解と共感が可能な中心を持っていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力があります。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るでしょう。
 
 
 
 楽山について考察
 
楽山の文章というのは、月並みで、社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観や経験からの切実さがありません。ごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深い中身のない世辞の賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。内実に一歩も踏み込めないのが楽山です。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと語る婉曲性と相まって気色の悪い刺激臭となります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。楽山の引用は、徹底して責任を負いたくないという意図なのです。自分の意見ではないから責任は負わないでいいと思っているなら、大間違いです。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにもヒントにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを思いつきで捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がないのです。結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習と条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が出来ない人です。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能という人格の偏奇としか判断できないという経過です。
 
そして、指摘しても、批判にもかかわらず、それが長く続けば、人格の異常、人格障害としか考えられないのです。それで、もう3年余り続いているから、今後も変わらないだろうという結論が出来上がってしまいます。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的になって意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つところの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのです。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。しかも、ツイートを非公開にしたり公開に戻したりと不安定で、もはや、裏で何をやっているのかが、恐ろしい楽山なのです。
 
楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。それで、無神教カルトと呼ぶこともあります。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
神は、人に理解できるような、天国のバーゲンセールはしないでしょう。どうしようもない悲劇が起こるから神はいない、などという言い分は、神の恵みに触れたことのない楽山のような利己的な人格が言っていることです。そのような安っぽいところに信仰の根拠はありません。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。ゆえに、私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうかと思います。神は、人間が、逐一納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、救いと裁きは成就するからです。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけではない。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。楽山などが、いちゃもんなど言って、しゃしゃり出てくるスペースは、どこにもありません。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あってはならないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはありません。その恨みで、楽山は、神を呪っているのかもしれません。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのです。神は、人に、いちいち説明はしない。正直な祈りだけで、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在は所在不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
猛者、凍結

猛者(もさ)凍結
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月17日、再録+加筆)
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
 
許せるだろうか
許されるだろうか
 
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
うまくいっていると思う間、悦び、慢心しても、欺きであることに変わりはないのです。悔いないことが病気であり、改めないことは罪悪であります。自らの罪悪を、「人間の性」と一般化して、みんなそうでしょ・・みたいに煙幕を張っても、詭弁の汚らしさを表すだけなのです。
 
 
 
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  憐れみ病2
 
2014年04月30日の作です。
フィクションであり、実際にあった会話ではありません。じわじわと意見や見解ではなく、感情的な決めつけの当てつけだということが表れてきます。
 
 
某:
 A先生が心配しておられます。
 
私:
 私の書いたものを見せたのですか。
 
某:
 見せられませんよ、あんなもの・・
 でも神様はあなたを守ってくださいますから。
 
私:
 私の意見を知らずに
 A先生は私のことを心配しているということですか。
 それで「神様はあなたを守ってくださいます」だとすれば
 キリスト者が陥りやすい「憐れみ病」です。
 
某:
 憐れみ病?・・なんですか、それは・・
 あなたのことを心配して言っているのに。
 
私:
 なぜ心配するのでしょう。
 私の意見の内容を知ることもなく
 なぜ心配することが可能になるのでしょう。
 原因のない結果をもたらしているのは
 いったい何なのでしょう。
 
某:
 ですから、あなたがあんなことを書くから・・
 
私:
 「あんなこと」と言ったとき
 私は「憐れまれ心配される人」という
 見なしの行為が前提となっているということです。
 
某:
 いえ決してそういうことではありません。
 私としては
 とにかく隣人愛として考えているということです。
 
私:
 相手の結論だけ強く否定しても
 根拠がなければ、それで済んだことにはなりません。
 否定表現だけでは何の否定にもならないのです。
 
 「とにかく」は、めんどくさいときに
 それまでの話をぶった切る感情表現ですから
 自分の結論以外、何も語ってはいません。
 
 「憐れみ病」は
 やたら憐れむことが善だと思い込む病であり、
 人の憐れみが病んでいるとも言えるでしょう。
 
 憐れむ理由もなく他者を
 「神の恵みに気づかない人」として低め
 ゆえに自らを高くすることです。
 「悟らない人」「かわいそうな人」として
 ありがたい施しを感謝して受け取りなさい
 という態度を身に着けてしまう病です。
 
 隣人愛と言われるが
 この「憐れみ病」は愛とは全く関係ありません。
 これは伝染病なのです。
 私を含めキリスト者なら誰でも
 犯しかねない慢性の過ちによって発症します。
 
 そういう性質ですから
 一度に一つの方法でスパッと切り離すような
 スマートな治療法も予防法もない感染症です。
 だから、人間には「常に(健全に)」は不可能で
 せいぜい慢性化しないように
 折に触れて考え直すしかないのです。
 
某:
 せっかく心配して言ってあげたのに・・
 
私:
 「してあげた病」という名前でもよいのですが・・
 伝道が伝染や宣伝になりませぬように・・
 
某:
 あなただって私をさげすんでいるでしょう。
 
私:
 「あなた「だって」」で
 ご自身の「さげすみ」の「憐れみ病」
 を認めたことになりますが、
 それは言葉の綾か勢いだとしても・・
 
 私は反対意見を言っているだけです。
 黙っていたら恐らく
 いかなる叫びも嘆きも届かなくなるでしょう。
 
 さげすんでも憐れんでもいませんよ。
 ・・少し怒ってるけど・・
 
 
馬
 
当時、2014年、うま(馬、午)年、私、うま年生まれの還暦、失礼・・
今、68歳です。
「馬」という漢字をぐにゃぐにゃっとして見ました。
・・落ち着かない「馬」?最終行の「怒ってる」からの連想で持ち出しました。
 
 
(2014年)
(2022年04月22日、再録+加筆)
 
 
 
  余言?
 
過去百年と、その前の百年を比べてごらんなさい
過去五十年と、その前の五十年を比べてごらんなさい
人類は急速に肥大している
人間の精神性は同じスピードで追いついているのでしょうか
今や人類は片手に自殺の道具、核兵器を握り
もう一方の手で完全に解明されないまま
遺伝子に手をつけようとしている、そういう時代なのです
 
人類は自らを殺す能力を持ちました
神様の御心はわかりません
しかし少なくとも自然は
急速に肥大した人類に
人類がしでかしたことの
責任をとることを迫ってきているのです
 
人類は滅びるのだろうか
いつかはね
人類の滅亡は近いのだろうか
自然が人を育んできた時代や
剣と鉄砲だけで争ってきた時代に比べれば
すでに自滅の手段を持ってしまったのだから
ありえないとは言えないが
それほど馬鹿ではないだろうと思いたい
 
彼ら、次の時代を担うべき人々は
今の時代を動かしている人々が
心配するほど愚かではなさそうだが
安心するほど賢くもなさそうだ
 
未来は
彼らが彼らの責任において
変えていくほかはないように用意されている
彼らを教育し
道を用意して
その上を歩ませようとすれば道を誤り
彼らを指導し
指さして
引き連れようとすれば離れるだろう
 
変えていかなければならないものは多いけれど
変え方を知っている者がいるだろうか
できることは努めて道を整えること
でもどう整えたらよいものか
 
あってはならないことだけれど
仮に人類滅亡の時が来るとして
隣人がみんな死んでいくのに
自分だけ助かろうと思うべきだろうか
むしろ自らの命を失っても
愛する人々が助かるように祈るべきではないだろうか
「命を得ようと思えばそれを失い、」…聖書の言葉だね
あるいは「天に宝を積む」ということか
 
救いであれ怒りであれ
神の力が人に及ぶことはあるかもしれません
人が人の都合で神を選ぶのではありません
神が神の都合で人を選ぶのです
人が神に近づくのではありません
神が人に近づくのです
 
だから神の知恵は人にはわかりません
人の知恵はどこまでバランスをとり
どこまで片寄ってしまったのでしょうか
 
不安と希望に伴われて努める人々
心も体も人間である
百%でもなく0%でもなく
その間にさまざまにいて
その間を揺れ動く人間である
 
いつの世にも
世の終わりまで
彼らとは呼べないほどに
彼らも我らも愛すべき
ただ 人 である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省は「実践するのは難しいんだよなあ」・・でしょうか。そう言って、一生、反省も謝罪もせずに生きてゆくつもりなら、人間ではないと思います。人間として生きておれば、反省するべきことは、いっぱいあります。ごまかしてばかりいると、自分をも、ごまかすことになります。
 
 
 
  落ちる
 
 
ストンでも
ドスンでもいい
落ちるとき
 
擬音語が
付くのは
落ちた先がある
 
こわいのは
音もしないで
落ちるとき
 
知らぬ間に
自分のまわりが変と
気づくだけ
 
落ちても
まわりのせいに
してきたから
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
なにやら、春氏と田中氏は、HSは洗脳もマイコンもしてないと言いたいらしいが、
大概の信者は、いつもいつもHSの方針に右に倣えするのだから仕方がない。今回でいえば、「プーチン擁護、ウクライナ非難」の方針に異を唱える信者なんてほぼいない。
これではHSではマイコンはないと言っても仕方ない。
午後10:22 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
アンチ芝居の楽山です。楽山は、偏見を、嘘と詭弁で刷り込んできます。悪意、敵意、裏切り、成りすまし、妄想、自己愛、・・悪いものしか表れてこない楽山です。にもかかわらず、他者のことを、上から見下ろして批判して快感を得る、真っ赤な偽物の正義の味方芝居です。
 
アンチ芝居なのに「HSではマイコンはないと言っても仕方ない」というのは、逆の意味にも取れそうな稚拙な表現です。元々が、宗教も信仰も、そして、日本語も、学習という学習を怠けてきた楽山です。いい気になって、今日も、粗雑な文章で、言い得たと思う生業(なりわい)です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、アンチとも普通に話せる信者が多ければ、マイコンはなさそうに思えるけど、
春氏みたいに、退会者は落伍者とし、アンチとみれば全否定してくる信者ばかり目立っている現状では、
「HSはマイコンされてる信者が多く、異論は許さない閉鎖的な集団だ」というイメージを持たないことは無理だね。
午後10:26 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
「アンチと普通に話」・・対立軸が普通に話すのでしょうか。詭弁屋の楽山とは、決して普通に話ができるなどと思ってはいけません。言論の伝染性病原である楽山に対しては、出禁にすること、遣り取りしないこと、1ミリも信用しないこと、それが、必須になります。でないと汚染されるでしょう。
 
 
 
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 信仰の義2
 
 
義とは、正しさのことです。信仰は義から離れるべきではありませんが、人の信仰に、神のような完全なる義はありません。ゆえに人は罪を犯します。地上に生きる人の信仰が完全になることはありません。それを確かめる完全な能力が人にはないからです。
 
人は、正直に祈り、赦しを乞うしかない立場です。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は不完全、即ち、罪人です。神に祈る時の正直さだけが、絶対ではない人の、信仰の義となります。
 
 
神という存在を、いかように見て信じるかという問題です。
 
机上の概念として扱えると見るのか。否であります。
人格者の典型のような御方と見るか。否であります。
 
全知全能・絶対完全・永遠不変という属性は、地上にいる限り、人知によって、確認することも、把握することも、出来ません。
 
人を見て、その肉体と言動の総てを見ている存在、その心の中も総てを見抜いている存在・・と考えると
誰にとっても恐ろしい御方。それが神であります。やさしい父親のイメージは、聖書によって、砕かれていなければなりません。
 
その御方は、ご自身に向かって人が祈るのを悦ばれるが、祈りの、軽々しい嘘をも、すべて見抜かれる御方であります。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:9-14、新約聖書)
 
 
この話は、単に、敬虔を勧めるとか、清貧を勧める、とかいう話ではありません。キリストは、信仰の本質と救われる条件を語っておられます。パリサイ人は、信仰の行為を他者と比べて、自分のほうが上だと誇って、神に感謝しました。神に感謝したのに、神は、義とされませんでした。
 
取税人は、嘆き、へりくだり、正直であったことだけで、神は義とされた。信仰に必要なものは、神の前に、へりくだり、正直であることだけだということです。
 
信仰者に求められる信仰とは、神よりも、はるかに劣っていて罪深い自分を、正直に告白すること、それだけで、神は信仰者に信仰の義を与えると、キリストは言っておられます。罪を侵したら、間違いに気づいたら、その都度、また正直に祈ることで、信仰は守られます。
 
一方、神の前に、他者より優っていると確信する者、嘘を吐く者、自慢して誇る者を、神は退けます。また、他者に嘘を吐き、他者を、だまし、誘導して、操ろうとする者、それは、即ち、神に対しても、嘘を吐くことであり、嘘によって自らを飾るのだから、神に受け入れられることはありません。
 
それは、人に対して、さらには、神に対して、不誠実であり、偽ることであり、いかなる美辞麗句や、もっともらしい言葉を用いても、そのような者は、神の全能によって見抜かれて、救いを自ら拒む者として、自らの行為の報いを、自ら受けることになるのです。
 
正直な祈りを強調するのは、それが、人が、神のために出来る唯一のことだからです。人は、神の前に、何も隠せません。人は、神の前で生きているのです。それが、神の全知全能に対する人の弁えです。神の怒りを鎮めるのは、ただ、神の前で、祈りにおいて、正直であることだけです。
 
人の、能力、財産、寄付の額、奉仕活動の出来高、それらによって、救いが左右されることはありません。人の献身は、感謝のしるしとして行われるものであり、人の献身が、いかに多くても、神の絶対の前では、高が知れており、決して自慢できることではないからです。
 
神の前に、正直に祈ること、それだけを、神は人に求めておられると思います。
 
キリスト信仰は、祈りの信仰であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
信仰の義とは、このようなことでしょう。人に認められるような立派なことではないのです。できることをすること、それを、主に捧げることが、信仰者の精いっぱいであります。
 
神の前に、善行を自慢したら、どんなに効率がよくても、気づかないことのために、全知の神によって、上の聖句のパリサイ人と同じになります。
 
女性は、目の前のキリストのために、よかれと思って、できることをしました。それができる機会は、またとないと思ったからでしょう。そして、弟子たちに怒られました。弟子たちは、行いの効率を考え、女性の心を思いやらなかったからでしょう。
 
女性の行為は、効率の悪い、的外れのことかもしれません。信仰の行為としては不細工だったでしょう。しかし、主イエス・キリストは、それを、信仰に適うこととして受け取ったのです。主が、いかに、人の行為だけでなく、人の心を見ているか、ということが分かる聖句であります。
 
信仰の義とは、キリスト者だから、神に従う、また、良いことをする、という話ではありません。私たちは、不完全で、しばしば的外れなのです。しかし、それを承知の上で、主は見ておられるということです。
 
上の聖句の続きに、主は「葬りの用意」と言っておられます。十字架において犠牲となる救い主イエス・キリストに、人々と一緒にいられる時は限られていたということです。ご自身の愛と悲しみとして、人の愛と悲しみに共感する、という主イエス・キリストの言行は、福音書全体に貫かれているのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:11
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 
26:12
この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。 
26:13
よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
 (マタイ26:11-13、新約聖書)
 
 
信仰の輝き

信仰の輝き
 
 
(2021年04月03日)
(2022年04月04日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·5時間
これは人間関係だけでなく、宗教に関しても言える。
おかしいと感じるなら、速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長引かせるばかりだ。それより、さっさと次のステージに進むべし。
午後8:16 · 2021年4月1日·Twitter Web App
 
誰よりも、自己愛性人格障害で霊能者気取り~妄想の個人カルトの、楽山とは、二度と関わらないように、距離を取ってください。楽山には、良心がありません。代わりに、丁寧語の詭弁と嘘があるだけです。ずっと、楽山の言葉が、楽山を斬っていることにも気づかないのです。
 
楽山との関わりを続けようとして疑問を抑圧しても、苦しみを長びかせるばかりです。それより、さっさと自分の思考と感性を磨きましょう。思考と感性は、楽山が持っていないものです。それで、楽山は、いちゃもんしか言えなくなっているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」だから、誰でもあることだから、反省しない、謝罪しない、と言っている楽山です。汚い詭弁に惑わされないでください。反省しない人は、人間ではありません。楽山は、このような一般化で、うっかり頷いてしまいそうな詭弁を、数えきれないほど書いて、欺いてきたのです。
 
 
 
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