ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽善者

 
  悲しみと信仰3
 
お詫び:体調が良ければ、毎日、過去作+加筆修正を中心に書いてゆきます。現在、体調は、あまり思わしくないので、不定期発信になるかもしれません。その場合、日付間違いが増えると思います。
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時には、時に任せて、耐えるだけでも意義があります。何よりも生きていることが大切です。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
それができないのは、人格障害の人で、人のせいにしてきます。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服というのは、悲しみは過ぎ去ることを知っています。人間は成長するからです。そうして意味のある未来が徐々に気づかれてゆきます。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのでしょう。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。人格障害、サイコパスの場合です。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか、他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうかにかかっています。また、正直は祈りに通じます。自分を見ない人になってはいけません。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。悲しみを知らないのが、人格障害者、特にサイコパスです。
 
 
救いは悲しみから生まれる

救いは悲しみから生まれる
 
 
(2019年)
(2021年)
(2023年01月04日、再録+加筆)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
元日のコメントの遣り取りです。
 
1.
とある場所に書き込みした後、大晦日からsossiotron.comとセブンイレブン
でてきました。
画面右下の吹きだしをクリックして右上の「通知の管理」を
クリックしたら「通知とアクション」のウインドウが表示されますので
下のほうの「送信元ごとの通知の受信設定」のsossiotron.comの
ボタンをオンからオフにしてみてください。
謹賀新年2023-01-01 12:53:27
 
 
謹賀新年さんへ。なぜ、HNを隠すのでしょう。
記事をアップしてから、何を押したのか覚えていませんが、消すことが出来ました。恐らく、コメントにあるようなことをしたのでしょう。
あなたは sossiotron.comさんですが。楽山ですか。それ以外の人ですが。楽山を知っていますか。
このようないたずらは違法です。あなたがなさったのなら、二度としないでください。
st5402jp2023-01-01 14:11:25返信する
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束(つか)の間(ま)に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰(つぶ)さないために
死を視(み)ること帰するが如(ごと)し
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
  祈りを知る
 
祈ったからといって直ちに
悲しみが喜びに変るとは限らない
苦しみが消えうせるとも限らない
でも奇跡的に変わるかもしれない
でももっと魂の奇跡として
悲しみや苦しみが
それだけではないものに変わる
祈る相手がいるという幸い・・・!
 
この世の人はそれを気休めと言い
心理的効果と言い捨てるかもしれない
聖なる働きと解釈するのも
否定し無視するのも
人の自由だ勝手だ
どちらも証明は出来ない
でも祈りは
生きた働きをもって返されるなら
証(あかし)としては
それだけで十分である
だから信じる
祈りが聞かれていることを
だから信仰する
すべては御心のままに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 他人が上手く行っているように見えるだけで、気に食わない人間っていっぱいいるのよね。
 」
おめでたい報告は、心から祝ってくれる人だけにしたほうが無難よ。 
 
心を傷つけることで快感を得る楽山が言っています。霊性の悪霊、現実的には、人に教え、人をバカにして生きている楽山です。罪悪感も責任感もなく、理路の周辺に雑言をばらまいて、インテリを気取っている身の程知らずです。悪意の共感、つまり、誘導です。関わらなければ無難ということ。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
楽山の反論は、相手を負かすことしか考えない嘘と詭弁です。分かったようなことを書きますが、楽山には真剣味がないのです。思いついた理屈遊びで反論しても、そこに、体験者としての実感はないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴であります。
 
 
 
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  楽山は闇の中に2
 
 『朝の光の中に』溝部脩著
 2021年11月21日 楽山日記(LD)
   を改めて再録+批判。
 
 
楽山が、いかに、美化しようとしても、楽山の体質からの発言は、言語を通して、楽山の卑怯と病質を表して見苦しいだけの雑言になってしまうようです。楽山には、深い文章、特に、宗教や信仰の文章について、全く理解力がないことを、自ら表しています。
 
(ネットより)
溝部 脩(みぞべ おさむ、1935年3月5日 – 2016年2月29日)は、カトリック教会の司教でサレジオ会士。カトリック高松司教区及びカトリック仙台司教区の教区長。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。
 
 
*概略
本書は溝部司教の説教集である。収録されている説教は、一、二頁と短く、読みやすいものが多いが、やや長く難しいものもある。
以下に、本書中で特に印象に残った箇所をメモしてみたい。
 
楽山は、いつも、メモするだけです。それで責任を逃れようとしています。表れてくるのは、楽山が、理路を正して自分の意見をまとめることが出来ないということなのです。「読みやすい」・・楽山は、何も読み取っていないと思います。心にもないことを平気でいう男です。
 
 
*聖書
著者は亡くなった司教様のことに思いを馳せつつ、次の言葉について触れている。
わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。
(黙示録2:19)
 」
これは心にじんと来る言葉だ。自分のことを理解してくれている存在があると思えば慰められる心持ちはするが、その一方で怖ろしくもある。
 
「心にじんと来る」・・楽山は、しばしばこういう単純な感動言葉を使いますが、こう書けば受けるじゃろ・・という、実感のない世辞の類です。「怖ろしくもある」・・これも嘘です。そう思わせたいのでしょう。もし本当であるなら、今までの偽善と嘘と詭弁は書けなかったはずなのです。
 
寒い世辞です。「心にじんと来」て「慰められる心持ち」で「恐ろし」いのでしょうか。感情がバラバラであることに気づいてください。こう書いとけばいいじゃろ・・という楽山にしばしば見られる受けねらいの細工なのです。言葉の深い意味が分かっていないからです。
 
 
*罪と救い
著者はイエスの系図に罪を犯した者がいることを指摘しつつ、次のように述べている。
罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれてきます。アウグスティヌスではありませんが、罪のないところには救いがありません。わたしたちの罪深さ、ほんとうに深い人間のもつ罪深さ、これらを通してこそ、神の救いがあるのです。
(『朝の光の中に 溝部司教の説教より』溝部脩著、ドン・ポスコ社、2003年、p.64)
 」
罪があるから救いがあるというのは、悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある。
 
「イエスの系図に罪を犯した者がいる」と書いて、キリストの神性を暗に否定したい楽山です。本では「罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれ」という救い主の由来を書いて、超常のスーパーマンの家系ではないゆえにこそ、罪深い人間に多く接して、共感できるということでしょう。
 
「罪のないところには救いがありません」・・条件法ではなく、罪なき人はいないということです。言い換えれば、罪の自覚のないところには救いはないということです。誰でも人間として完全ではなく罪を犯すから、悔い改めて正直に祈ることで救いがあるのです。自己中の楽山には理解できないのです。
 
楽山は、罪を自覚したことがないので「罪があるから救いがある」という「どうしても救いが必要な人間」という意味が理解できないのです。"罪" と "救い" を、単純に反対語として受け取っています。こういう人には、救いも信仰も分かりません。言葉を表面的にしか受け取れず、詭弁しか語れないのです。
 
悔い改めない自己愛性人格障害の自己中である楽山は、救いに該当しません。このように、話を進める前提に、既に、詭弁の躓きの石を置いてゆく楽山です。小さい言葉一つ、楽山を信用してはいけません。根っからのペテン師になり下がった男です。
 
「罪のないところには救いがありません」とか、罪人が救われる、とか言ったことは誤解を招きやすく、早速、楽山は、罪があるから救われるから自分も救われるという詭弁として悪用しています。罪人の自覚が、救いを求める動機になるということであり、楽山には一度もないものです。
 
「悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある」・・説明もなく、意味不明です。楽山のような作為の偽善という極悪があるから、その反対側に、悪の自覚から善を考えられる信仰という意味なのだろうと受け取っておきます。楽山は、自らの救いの可能性を自ら否定してゆくようです。
 
 
そういえば、三浦綾子の『氷点』のヒロインは、自身の出生の秘密を知って悩んでいたのだった。先祖に不義を犯した者が一人もいない者はいないだろうが、それについてさほど気にせず生きられる人と、それらの不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人とでは、その生き方は全く違ったものにならざるを得ないのだろう。
 
楽山は、罪の物語を、他人事としてしか受け取らず言っているのです。いつもそうです。楽山は、不義も罪も偽善も全く気にしないでいられる自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の生き方をしてきました。楽山には、このような題材で、何も書く資格はないのです。
 
「不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人」・・楽山は、いかなる悪も偽善も、感じないでいられるということが今までの記事に表れてきました。確かに、罪深さを自覚する人と、自覚しない楽山では、生き方が全く違います。楽山は罪の自覚がないために根腐れになっています。
 
 
*聖体拝領
著者はその昔、太平洋の島にやってきた司教や白人女性が、現地住民に食べられてしまった話をしつつ、聖体拝領の意義を説明している。
現地住民は、司教のような偉い人にあやかりたい、美人の白人女性のように美しくなりたいということから食べたのであるが、聖体拝領には次のような意味があるという。
ご聖体を戴く度ごとに、わたしたちはイエス様に同化し、大きく成長して、今度は自分を人々にあげられるようになるのです。
(同上、p.188)
 」
自分としては神の血と肉を食べるというのは感覚的にどうにも受け入れがたいものがあるのだが、この説明を聞くとその論理に関しては理解できなくもない。ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かるので。
 
現地住民に食べられることを「理解できなくもない」と言っています。とんでもない不祥事でしょう。「相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・気でも狂ったのでしょうか。それとも、キリスト教はそんな宗教だと、吹聴したいのでしょうか。楽山の狂気と悪意が全開です。
 
聖体拝領(聖餐式)のことを、楽山は、人食いやライオンの話におとしめています。やはり、偽善の作業のために、悪意も疲弊して、楽山の人間性を破壊しているようです。私は教会を離れてしまったが、聖餐式は、そのような儀式ではありません。キリストの血と肉は、あくまで比喩~希望であります。
 
信仰者が、希望を求めようとしているところで、それを腐らせるために、楽山のような反キリストが、悪意を向けてくるのです。聖餐式は、キリストの犠牲の血と肉の、象徴的儀式です。「力を得ることができるという発想は分かる」という楽山は、人食いの精神で、血を求めているかのようです。
 
楽山は、ふつうに読めば、慎重に構えるべきことくらいは分かることが、分からなくなっているようです。こういうことしか書けないのは、既に末期なのか。楽山のことをケダモノとは書いてきたけれど、本当に肉食本能だけの飢えた動物に堕ちているのでしょうか。楽山の文章が、臭くて、たまりません。
 
「ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・比喩とも言ってないようです。牛肉を食べれば牛のように強くなるでしょうか。「分かる」などと根拠もないことを言う楽山は、正気ではありません。
 
以上のようなことを平気で書いてくる楽山の非人間性です。楽山は、本当に、偏見と悪意しか持っていないと思います。精神病質でサディストで、良心の慎みの欠片もない男です。読む人の心に与える寒気と吐き気が楽山の生産物です。さらに増悪する恐れがあるので、決して関わらないようにしてください。
 
 
どんな間違いや嘘を言っても反省も訂正もしない楽山のような人間になってはいけません。そういう人間は成長しません。人間は成長するのが特徴ですから、訂正不能の人間は、人間ではありません。そういう人は、関わる人々に迷惑をかけながら、混乱し劣化し崩壊してゆくだけです。
 
 
人の心を食らう肉食獣

人の心を食らう肉食獣
 
 
(2021年)
(2022年12月15日、再録+加筆)
 
 
 
  (抜粋)
 
ある日ネズミを捕まえた親猫は
しばらく足でいたぶっていたが
にわかに頭から口に入れ
バリバリと骨を砕く音を立てながら
尻尾まで残らず食べてしまった
そのときの親猫の眼は
獲物を奪われないように警戒する
肉食獣のそれを思わせて
さすがに恐かった
 
 
  引き継がれ
 
ときに和み
ときに競い
ときに揺さぶり
ときに闘って
似ていても
相反していても
結局どこまでも孤立しており
いつまでも孤立していながら
引き継がれる力がある
 
微かな光を浴び
あるいは底知れぬ陰に沈み
あるいは叩かれて去り潰されて消え
あるいは独り獣道に迷い込んで倒れ
犬か鼠のように死んだとしても
 
信じようと信じまいと
それぞれは役割を担っており
そのそれぞれを刺激し賦活し
いつまでも秘密でありながら
引き継がれ押し出そうとする
大いなる力がある
 
だから心置きなく
時が来たら安らかに速やかに死ね
だから心置きなく
時が来るまで苦しみ抜いて生きよ
 
無数の苔むした躓(つまず)きの石の潜む
果てしない樹海へ
無数の肉食プランクトンの生息する
果てしない深海へ
押し出されて行け
 
 
  混線ラップ
 
ぎ・み・さ・わら
少しでいい
いがらっぽい毎日に
煙草のせいではなさそうだ
呪いの国 笑いの街角 箱の中
 
殺伐たる事件の数々
せめて明るいニュースで埋めて
メリットだらけのメッセージ入れて
 
無理な遊戯の化粧と愛想が
期待通りの笑みを浮かべて
飛びたい刃物の獣性を隠して
二十歳(はたち)過ぎても三十過ぎても
食えるのにまだ飢えている
 
 どんなに図体(ずうたい)でっかくても
 線が細いと長持ちしないぜ
 だって太い線はみんな完全
 感電・感染しているくせに
 罅(ひび)割れ漏電しかけているから
 下手に触ると怪我(けが)するよ
 
これはフィクションです
これはフリクションでガーガーガーガー
 
銃声とジェット機が
走る背中を追い越してゆく
 
呪詛の国
笑って殺すか殺されるか
期待の未来の原稿読むか
うりゅ・ぎ・み・さ・わら・ぷり ?
これはフィクションです
水を水を水を水を
聞こえますか どうぞ?
 
 
※ 初めの1行目と、数行前は、は、一応、
  ( will you ) give me some water please のつもり。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、サディスティックな性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
 
 
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  安い楽山の読書
 
 『存在の耐えられない軽さ』クンデラ著
 2022年12月12日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
カルトは、人間には分からないはずの超常のことを分かったと言って豪語します。楽山のような無神教カルトは、神がいるなら悲劇は起こらないはず・・という単純な短絡で、神はいないと言ってきます。信仰者は、悲劇に耐え忍ぶために、神聖について、心に響くことを受け取ります。
 
無神教カルトなのに教祖願望を持っている楽山は、際限もなく、実に気安く、大きなテーマについて、軽口を叩いて決めつけてきます。その軽口を本質のように語って、看破したつもりになりますが、結果として、宗教と信仰について、無知を、的外れを、さらに無恥を、自ら曝してゆくのです。
 
楽山は、体のよさそうな偏見の刷り込みで宣伝に使われるだけのネトウヨなのでしょう。つまり「存在の耐えられない軽さ」だけで、褒められることを求めて、当然、得られず、仕方なく、自画自賛してゆくしかない人間、つまり、軽薄な思いつきだけで決めつけてくる妄想分子なのだろうと思います。
 
 
『存在の耐えられない軽さ』を通読してみた。本作はプラハの春の時代を舞台とした作品であるが、頁を繰るうちに監視社会の窮屈さ、理不尽さにやるせない気分にさせられた。こんな社会では自分は到底生きては行けまい。
 
「監視社会の窮屈さ、理不尽さにやるせない気分」・・この短い、月並みな台詞、やるせなさが伝わってくるでしょうか。言葉だけ大仰な感想です。楽山は、このような感想文しか書けません。実感がないのです。それで、一人前の大人の感想~感性を気取って満悦するのです。
 
私は、読書障害の傾向があって、本は、あまり読みません。パールバックの「大地」を読んだときには、読書スピードが遅いので、恐ろしく時間・日数がかかりました。しかし、読んで、もし感想を書くなら、このような気安い感想文で満足することはないでしょう。読み終わったら想いが溢れるからです。
 
今まで、ずっと、楽山の読書感想文には、読んだという自己顕示しか表れていません。粗筋さえ書いていません。把握できていないのではないでしょうか。それで平気なのです。自分を見ないから、気取っていられるのでしょう。パンツいっちょで演壇に上がっているようなものです。
 
 
結局、人は生存欲旺盛なのが一番なのかもしれない。共産主義であれ、資本主義であれ、他のどんな社会であれ、生きることを厭い、何事もすぐに面倒に感じてしまう質の者はやすやすと排除され、生きることに執着し、
 
それは、楽山のことです。楽山は「何事もすぐに面倒に感じて」書くことが、思いつきだけになります。ゆえに「やすやすと排除され」「生きること」だけに「執着し」・・読んだ自慢のような感想文を書いて、成し遂げた満悦気分に浸るのでしょう。暇人が、自分の暇を、読者の迷惑に変えてゆきます。
 
 
そのためには他を押し退けることも躊躇せず、厚顔無恥な者がよい位置を占めるものなのではなかろうか。このことはわざわざ歴史を調べずとも、バーゲンセールを見物すればすぐ分かる。生存競争に生き残り、いい暮らしをするためには、ガツガツ戦略最強である。
 
楽山は、訂正不能の自己愛のために、批判に対して不感不応となり、批判を無視して、先入観と偏見の決めつけだけで、自己満足してゆきます。書くことだけは、止めることが出来ません。今まで騙しおおせてきたことに満悦して、不毛の砂場から、ガツガツ貪ろうとするのです。
 
 
ちなみに本作は、あのカラフルな世界文学全集で読もうと思っていたのだが、何気なく入った本屋で集英社文庫のものを見つけたのでこちらで読むことにした次第である。アマゾンのレビューにある両者の翻訳の比較を読むと、自分の選択は間違っていなかったようで一安心だ。
 
文学全集と、単行本と、出版の違いで大きな違いがあるのでしょうか。楽山は、本を読んでも、その深みを読み取っていないと思います。それが、感想文の短さと、それで「間違っていなかった」と読んだ気になっている記事の満悦ぶりに表れているのです。
 
読み方が浅いから多くを感じず多くを書けないということを、楽山は感じないのです。気安く読書を済ませて、短くて通念的な言葉だけの浅い感想文を書いて、また、満悦するのでしょう。そして、評論家気取りで、一人前を気取って「一安心」などと根拠のない安楽を表しています。
 
 
ただ文学全集は解説が充実しているようなので、小説の内容を忘れないうちに、一応そちらも見ておくつもりではある。
 
「一応そちらも見ておくつもり」・・完全欲のために言葉だけ補足したのでしょうか。「一応」です。「見ておくつもり」・・楽山は、本を真剣に読むことが出来ません。言葉の表面だけを、安っぽい概念で眺めて、傍観者として、とても単純な言葉で、感想を述べたつもりになるのです。
 
実のあることを書けないのに、書けるという慢心から、書いたという自己満足に至る溝の中を、繰り返し往復して、ときにグルグル回って、出来たと満悦します。先入観だけの楽山の深みのない偏見からは、生きる糧は生まれません。楽山は生きているのではなく経過しているだけです。
 
 
ひどい目に遭ったという数か月の経験があるので、楽山との議論~コメントの遣り取りは禁忌です。とてつもなく無意味で耐えがたい徒労と疲労を与えてくる人です。つまり、意味のない脇道へ誘導して詭弁で話をどんどん逸らして疲れさせる技だけを持っています。理解力のない偽言論者です。
 
楽山は、話し合うことが出来ず、言いたいだけの人です。そうして、相手を疲れると "疲れたんじゃないですか" などという労わりの偽りの言葉を書いて、実は優越感に浸り、楽山には敵わないという先入観を相手の心に刷り込んできます。解決も合意も生まれないので、即、門前払いの対象です。
 
徹底して拒否で臨むべき対象です。そういうことを繰り返し書いてきましたが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)のために、書くことをやめることが出来ないようです。つまり、楽山批判は、楽山を変えるためではなく、楽山に近づかないように、警戒を呼びかけるのが目的です。
 
 
経過するだけの無分別

経過するだけの無分別
 
 
(2022年12月14日)
 
 
 
  いい
 
いい
もういい
まあいい
いいんだこれで
いい加減の
いい?
思い切れぬまま
何かを受け容れ
何かを得て
何かを失い
何かを切り捨てる
それはいい
とは違う
分別され過ぎた
いい
 
 
  経過と欠損
 
作られたが最後
壊されるまでの永い間
動くことを許されず
立ち続けなければならない像も
存在しながら滅びの跡を
欠けた骨格や
剥(は)がれた表(おもて)や
変色に残してゆくのに
あらゆる名の生命体が
生きながら残してゆく総ての
連続的に起こることは
連続して知られることも
連続して見られることもない
 
欠けてしまった
失せてしまった
変わってしまった
あるいは出来てしまったと
あるとき突然
出会(でくわ)して驚く
不可逆の深遠である
故に経過は欠損の上に成り立っている
逆に欠損は経過の上に成り立っている
不可避に消滅するまでの短い間
どこからともなく深遠である
 
 
  個と種
 
違う遺伝子を持ち
違う学習を経た
個はあくまで個であるから
理解し合えることはないだろう
 
同じ遺伝子と学習経過を
一部に持っている種は
あくまで種であるから
他の種との協力よりは親密に
協力し合うことはあり得るだろう
 
誤解を許容した上での話で
他の種との共存を肯定した上での話で
はるかにヒトより永い淘汰の歴史を持ち
一途(いちず)に子孫を残すことだけのために
強化された遺伝子を持っている他の種に
無謀な戦いを挑もうとしなければの話だが
 
 
  (抜粋)
 
ありもしない故郷を
久しく遠く離れた気分で
見聞きしながら歩く
とある田舎道で
通りすがりに男は突然
答のような迫力を聞く
 
うちゃ、なぁ~も知りまっしぇんとよ
 
ここにも守るべき秘密があり
何歳になっても
守ろうとして一所懸命だ
迷走の果てに辿り着いた路上で
愕然(がくぜん)とした男は
細い目を開けたまま動かず
音もなく
頭の天辺(てっぺん)から崩れてゆく
 
無数の欠片へ粒子へ粉塵へ
どこへ吹く風にか飛ばされ
掻き消えて漸(ようや)く
いつ終わるとも知れぬ
時間の広がりと奥行きを
短い永さのうちに
風の中で過ごすことになるのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しない人は成長しない。つまり、楽山は、成長しない人です。ゆえに、無反省は、人間の性ではなく、人間をやめた人の性です。つまり、楽山のコメントは、自分の欠点を、詭弁で言い逃れしていることになります。どこに行っても、成り立ちません。即ち、言論する資格はありません。
 
楽山は、善きことを、自分のための学習と成長を、信じることを、何ひとつ実践していません。その有り様を、まるでそれが善きことであるかのように、言葉を浅はかにつないで、見せかけを捏造し、その評価を、自分の中だけで高めてゆくのでしょう。虚無へ向かう人格崩壊の、傍迷惑な袋小路の住人です。
 
 
 
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  妄想詭弁全開3
 
 私の記事「無知と無恥」コメント欄
 シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   を改めて批判。
 
 
約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームshalom のコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の欠如が表れています。改めて読んでみると、書き足りないことが多々あり、加筆しておきます。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか・・ってことを書いてきました。
 
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」
st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?
 
神の性質との比較です。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変・・、人は違う。聖書全体が、そのように書かれているわけですが、シャロームは、否定するのでしょうか。「聖書のどこに」?・・呆れます。聖書から人間の不完全を読み取っていない偽牧師だということを自分で表しています。
 
聖書を読んで、聖書の言葉から、現実を考え、自分の人生に広げてゆくのが聖書を読むことだと思っています。今までのことから、シャロームは、聖書の言葉だけで完結して、考えることをせず、意味や意義を実感に広げられず、言葉の合致だけで、超常神秘を語ったつもりになるカルト性です。
 
今さら、そんなことを聞くなんて、おかしいわけです。聖書から、何も考えないなら、聖書を読んだことにはなりません。シャロームは、いつ神相当の知性を得て、考えなくて済むようになったのでしょう。そう思っているなら、空想~妄想~誇大妄想だけが残るでしょう。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。だから、空っぽに満たされているシャロームです。しかも、それで、聖書を読んだつもりになって「どこに書いてありますか?」などと聞いてくるとは、呆れます。
 
神は全知全能として信じるということです。人との違いです。それを「どこに書いてありますか?」と聞いてくることが、シャロームが聖書を読んでいない証拠です。まず、聖書から、直観的に理解できないというのが、偽牧師で偽信仰者である証拠です。
 
聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、人による分析や評価の対象とならないことを意味しています。聖書から読み取るべきは、神の詳細ではなく、人間の現実と真実であります。
 
私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。シャロームも楽山も、信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れの異常性です。シャロームのカルト性は明らかです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。人間離れの神がかり妄想であることが、あなたシャロームによって証明されるわけです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりでいるなら、説明しても分からないでしょう。こちらが言ってきたことを、まるで受け取っていないシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたシャロームが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのです。
とても醜いです。
 
 
聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?
 
このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?を受け取ったのでしょうか。読解力がないようです。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 
 
st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!
 
自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てるつもりでしょうか。
 
そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの偽信仰です。
 
これだけ言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
どう‐ちゃく【×撞着】 の解説
[名](スル)
1 つきあたること。ぶつかること。
「忌諱すべき事に―することも」〈鴎外・渋江抽斎〉
2 つじつまが合わないこと。矛盾。「話の前後が―する」「自家―」
類語:矛盾(むじゅん)
 
楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、シャロームが、他者をモノ化して、蔑んでいる表れです。他者を人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となります。議論など全くできないし、一方的な主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。そういう人間離れが宗教と信仰だと思っている楽山やシャロームは、つまり、何も知らないことを自ら証明しているのです。
 
 
8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。
 
シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言って、自己中心だけの偽信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。シャロームが、キリスト信仰とは真逆のことを平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、信仰を、茶化しているわけです。批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料ですから、これからも再録してゆくことはあるでしょう。
 
フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判を理解することが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。
 
シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが自己満悦を書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。それで被害者意識しかないのは、自己中の訂正不能の特徴です。
 
シャロームが書き続けたので、批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的にアップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない・・という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるシャロームは異常です。楽山もです。
 
あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミ置き場のようなコメント欄を見るのは、極めて不快ですが、シャロームの言ってることが妄想で、偽善だ、というアピールをしなければならないのです。最初からあなたが原因だからです。
 
無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。
 
「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。シャロームは、おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴を表してきたのということです。
 
この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、シャロームのお家芸として続いています。私は、シャロームと楽山を批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。
 
あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないことを、カインの話が示しているのです。
 
 
あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。
 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書けないのもシャロームの特徴です。何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、シャロームが言っている修正不能の自己中の自分勝手ではありません。
 
 
9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、
私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。
 
シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えられないまま、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。シャロームは、通らない文句を何度も言う荒らしです。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。反論も弁明も出来なくて言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志も文章も異常です。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう不許可による隠蔽という強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。その典型が、シャロームと楽山です。同一成りすましかもしれない。
 
 
あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。
 
私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
離れていったのではなく、最初から、つながりはなかったのです。キリスト教のつもりで、妄想を書いていたのです。人間としての身の程を弁えず、信じて神のように完全になる、という、とんでもない冒涜が信条なのです。
 
私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。楽山、シャローム、などの、ブログは、独特のカルト臭があります。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除することをやっていたのは、あなたシャロームです。言い返せないのに、相手にせいにするのは、カルトの特徴です。
 
シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、被害者を気取っても、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい・・という暴言を吐き、内省不能の、自覚のない惨劇とでも言うしかありません。毎日、罪を食べて生きているのでしょう。
 
 
いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!
 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。恵みはいただいたつもりの妄想屋が、何も責任を果たさず、何も捧げず、弁えもない、という固まり方の厚顔無恥が、シャロームと楽山であります。議論というものが、何も分かっていないエゴの病なのです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて新しい批判を書く動機が生まれるだけです。
 
シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を扱って、理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。闇を見ることで、光を知ることもあります。
 
悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。卑怯が何を考えても、さらに卑怯になるという成り行きです。
 
 
偽牧師と反キリストの崩れ方

偽牧師+反キリストの崩れ方
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年12月02日、再録+加筆)
 
 
 
 (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁から澱までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
(灰汁(あく)、澱(おり)、益々(ますます)、
 貶める(おとしめる)、晒す(さらす)、
 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう):
  = 霊魂がしくしくと泣くさま。鬼気迫って恐ろしい気配の漂うさま。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が大事なことだと分かっていないから反省しないのでしょう。そういう機能が、楽山の自我には、無い、あるいは、あってはならないことなのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。都合の悪いことはインプットされないのだろうと思います。
 
 
 
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  信仰者と偽善者2
 
 私の記事「嘘と世辞と侮辱(4)」から
 抜粋して、まとめてみます。
  嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
 
 
殺伐とした批判記事が多い私のブログですが、気分転換のために、過去記事からの、まとめ的なことを少し書いておきます。人間なら分かることなのですが、楽山やシャロームには、まるで通じないことであります。共感、感動、説得力を大切にして、事実から当為(「べき」の付くこと)を導く思考について。
 
文系の論理というのは、数学などの理系の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、言い換えると共感~感動があるかということが正しさの問題になるのです。それは、言い換えれば、説得力、ということになります。
 
 何の説得力もない文章を、排泄のように、だらだら書き続けている偽善者もいます。
 
信仰者の活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実績や、何かの役に立つとかは、願いであると同時に欲望でもあります。信仰者は、そのベースとして、神の憐れみを受けるに相応しくなりたいという心で行動します。
 
すなわち、効率とか仕事量とか結果とか人気とかよりも、できることをする、という生き方になります。それが、世に仕えず、神に仕えることであり、神のほうを向く、ということであります。そして、私たちは、良いことをしようとして、したつもりで、効率の悪い見当ちがいなことをすることがあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:7-10、新約聖書)
 
正直な祈りのうちに、罪に気づけばそれを悔い、世俗から神へと向きを改め、生きる道を求めてゆく生き方になります。つまり、神を、具体的には体験と聖書を、命と人生の拠り所にするということです。
 
信仰は、結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と同義ではないということになるのです。語弊があるかもしれませんが、キリスト教は組織を含めて授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、迫害が迫りつつある状況で、今ある命を喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように讃美を繰り返すべきだなどという勘違いすることだけはしないでください。
 
偽善者が相手でも、信仰の学習は可能です。偽善を学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。偽善者の言の対極にあるものを、学習するのです。偽善者と親しくならないために、偽善者の情報を学習することも必要です。
 
心貧しさも、敬虔も、損なってしまった偽善者は、余裕があるような芝居をします。聖書の文字面を唱え、いつも白々しく讃美しており、それが信仰だと思い込み、吹聴します。そして、いつも、笑っています。批判されると、怒りと憎しみに走ります。しんみり悲しむという深い情緒がありません。
 
偽善者は、余裕ありげに、作り笑いを浮かべ、あざ笑い、ほくそ笑み、・・笑いは、いつも良いことだとは限りません・・、つまり、中身よりも、うわべを装うことで、上から、高みから、下へ教えを垂れるように、新しくもないことを、だらだら言ってきます。
 
信仰があるから、いつも讃美する、さらに、いつも笑う、というのは、嘘の場合があり、正直に "分かりません" と言う心を失って、自己正当化の手段として使われることがある、ということに気づくべきであります。偽善者は、信仰ではなく、悟りの高い位置を自慢したいだけのペテン師なのです。
 
悲しみがなくなるのが信仰だと思い込む者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、讃美を勧め、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるでしょう。
 
(マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。聖書においても、そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 
教えと体験

教えと体験
 
 
(2020年)
(2022年11月27日、再録+加筆)
 
 
 
  群衆の中に
 
たくさんの頭が見える
それぞれ上下に弾みながら
喧騒のはずなのに
音がしない
ときおり顔が半分
見えたり隠れたり
顔はそれぞれ違うのに
笑顔も泣き顔もない
その中に自分もいたような気がする
でも通勤ラッシュの経験はない
学生の頃か
何かの列
何かの群れ
思い出せない
これからの行く末の一齣(こま)を
垣間見たのかも知れない
 
 
  きぼう Ⅱ さびしさ
 
だれも しらない ところにある
なみの ない
つめたい いずみに
てを つけるような
さびしさ
 
なみだ が でないからといって
なみだが ないわけではない
 
あした の ない
ひとりの せかいから
あしたを
おもうほか
することのない
いま へ
わたされる
ひややかな
かぜ
 
あせ が でないからといって
あせが ないわけではない
 
きっと だれも
そして じぶんも しらない
ねがいが
かみしめた くちびるのうらがわで
そとへ でようと
あせっている
 
みのり が みえないからといって
みのりが ないわけでは ないのだと
 
 
  あなたはいつも傍に
 
あなたはいつも傍(そば)にいる
今にも刃物で胸を突き
切り裂こうとする人の、
仮面の裏で口を潰しながら
燃えて突き上げる殺意を育む人の、
不眠不休で残務に追われながら
燃える札束に轢(ひ)かれる人の、
死の床の痛みが撥(は)ねて繰り返す吃逆(きつぎゃく)の
不眠の過去を呪うしかない人の、
肩を組む千鳥足の、
肩を抱く独りぼっちの、
あなたはいつも傍にいる
傍には距離はないのだろうか
それとも永遠の距離だろうか、まるで
いつも一緒にいながら遂に
認め合うことのない者たちの一人
ででもあるかのように、しかし
どこにいても
あなたはいつも傍にいる
殺されながら無視されながら
なおもあなたのやさしさは
傍にいることでしかないかのように
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは当たってる気がする。
引用ツイート
>>
レイ(三浦綾子記念文学館公式キャラクター)北海道旭川市
11月23日
#三浦綾子 #今日は何の日
自分のほうが悪いと思っていて喧嘩になることはない。が、自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく。
(『聖書に見る人間の罪』)
<<
2022年11月23日
 
訂正不能に、繰り返し、言い張って、さらに、それらしく見せかける引用で、自己正当化するのが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山であり、典型的に「自分のほうが正しい」と思い込んでいる病的ナルシストです。自分の欠点を他者に当てつける常習者です。
 
このような引用による空しい印象操作だけしてくる卑怯者が、楽山です。卑怯で、見苦しい異常人格であり、今まで、一度も、正当な批判も弁明も反論も出来たことがありません。なのに、引用という手段で当てつけてきます。良心も罪悪感もないので、反省も後悔もしないからです。
 
「自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく」・・執念深くリツイートまでしてくるのは、自分で言い訳できないからです。以前、書いてきたことは、全く的外れの、幼稚な主張の繰り返しと論理遊びに過ぎず、相手を疲れさせ退かせるためでした。決して関わらないでください。
 
 
 
楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「詐欺だ!」と断言するのはまずいんじゃないかと思ってたら、弁護士会のページでも「詐欺です!」と断言してるんですね。
「詐欺か?」とぼかした方がいいと思ってたが、弁護士会が断言してるということはそれでいいのかな。わからん。
>>引用ツイート
弁護士がネット公開した情報で噓をつくと思いますか?弁護士が嘘をつくはずがないと思うならこの記事の内容を信じてください。
<<このスレッドを表示
午後10:03 · 2022年11月13日
·Twitter Web App
 
以前から、私は、楽山のことをペテン師と呼んでいます。ペテン師には、罪を認めて償わない限り、ペテンをあげつらう資格はありません。しかも「わからん」ということだから、こういうのに本気はなく、オチャラケを言っているだけです。目くそ、鼻くそを笑う・・楽山です。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の人の特徴
 
「自己愛性」と聞くと、なんとなく「自分大好き!」な人が浮かびませんか?周囲にいる自分大好きな人…自分の自慢話ばかり…人のことなんておかまいなし…ちょっと迷惑な存在ですよね。
 
けれど、自己愛性パーソナリティ障害は、「自分大好き」な人ではありません。反対に、「あるがままの自分を愛せない」人達です。自分を愛せないし、他人も上手く愛せません。自己愛性パーソナリティ障害は、愛情という感覚が働けなくなった状態とも言えるわけです。
 
自分の失敗や否を、絶対に認めようとはしない
他者の評価に対する過剰な反応
他者への愛情の欠落、思いやりの無さ
自分の問題への無自覚
 
自己愛性パーソナリティ障害の方との付き合い方
距離を保ち、相手の言葉に動揺しないようにしましょう。
困った時は、「相談」という形で病院に受診できることが多いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
聖書のパリサイ人、偽善者、サイコパス、精神病質、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPD、ペテン師、詭弁屋、読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、などを、楽山について書いてきました。笑いと怒りがあり、悲しみがない人です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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