ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽善者

 
  神と人と言葉3
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように都合のよい神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。カルトらしい受け取り方でした。
 
しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。金の器のように輝くわけでもなく、地味で、かつ、壊れやすい、土の器 ・・人間の心を表しているように感じました。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心が働くところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、その神?は、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性、即ち、罪深さによるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。超常を引き寄せたいという欲望は、空想と欲望の産物であるカルトの特徴です。
 
そういう、欲望が空けた隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりとモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、相対的で不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの共感の愛であり、キリストへ共感のの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない、ある日の愚痴です・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神と人の言葉

神と人の言葉
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月29日、再録+加筆)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
  置き忘れ

君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実たち
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった無数の貝殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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   知るべきこと3
 
 
旧約から、神と人の関係、という信仰の節操を学び
新約から、キリストの共感、という信仰の愛を学ぶ
 
旧約聖書から
全知全能・絶対完全・永遠不変
という神のあり方を表す言葉を受け取ることは
それを理解することではなく
(人間に理解できることではない)
神と人の決定的な違いを
創造主と被造物の決定的な違いを
あくまで人の側において学ぶことである。
 
神に対しては
人のいかなる自信も自慢も通用しない。
人のいかなる知性も感性も
そして、いかなる偉業と呼ばれるものも通用しない。
神に対して人が捧げて届くのは
正直のみである。
 
それ以外は通用しないことを学ぶ。
これを信仰の節操と呼ぶ。
 
新約聖書から
救い主イエス・キリストの神性を学ぶことは
それを理解することではなく
(人間に物や肉体の奇跡は理解できない)
またそれが自分に起こると信じることでもなく
(自分に神の行為を結び付けるのは人の傲慢である)
神性が人間性の低みに身をおろした
ということを
あくまで人の側において
人間性に相応しい理解をすることである。
 
すなわち
キリストの洞察力と共感力を知り
またキリストの同伴の恵みを知ることは
信仰の愛を知ることである。
 
信仰の愛を支えとして
信仰の節操を弁えながら
耐え忍んで生きるのがキリスト者の道である。
 
 
 
神は、聖書より、全知全能、絶対完全、永遠不変、と心得るべき御方です。
人は、直観的に、また、聖書より、全知でもなく全能でもなく、絶対でもなく完全でもなく、永遠でもなく不変でもない存在、と心得るべき存在です。
 
神の意志と行為を決めつけて
奇跡による救いを信じるのは
神への冒涜であり偶像崇拝である。
 
信仰は、唯一、
神と人の違いを弁える節操において
厳しいと知るべきである。
 
神は友達ではない。
神は優しいおじさんでもお爺さんでもない。
偉い御方にとどまる存在ではない。
 
絶対の正義に人間は耐えられない。
ということは
神はご自身のような正しさを人に求めてはいない。
 
神を信じるという信仰は
同時に
神の前に偽りが通用しない
ということを学ぶことである。
 
つまりそれが
神を恐れるということ。
 
神は
その初めから終わりまで
在って在る者であり
人知を超えた理由とあり方で
創造主であり万物を統べる御方である。
 
 (出エジプト記、口語訳)
3:13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
 (出エジプト3:13-14、旧約聖書)
 
キリストは権威ある仲保者である。
神と人の間をとりなす御方である。
ゆえに人間に共感し
その苦しみを負われた御方であり
命を惜しまぬ愛を
罪深い人間のために捧げた御方である。
 
贖罪の教理を知っても
キリストの愛を知らなければ信仰ではない。
 
キリストの共感に答えて
キリストに共感するのが信仰である。
つまり
キリストの愛に答えて
キリストを愛するのが信仰である。
 
贖罪の教理によって
いつも赦されるから無罪であるかのように振る舞うのは
神への直接の背きである。
 
信仰は
いつも喜びだけを与えるわけではない。
信仰は
むしろ悲しみを通して成長するために与えられている。
 
いつも喜んでいるように振る舞うのは
迫害が迫る時代と違って
現代においては、大方、嘘であり
神の前に嘘は通用しない。
 
そのようなあり方は
祈りの体裁だけを整えることであり
それによって信仰は少しも整うことはない。
 
信仰は
神の言葉だからと
聖書の文言だけにこだわることではない。
それは教条主義に陥る。
 
信仰は
聖書を興味本位に読むことではない。
黙示されていることを知ろうとするのは
信仰ではなく興味に過ぎない。
 
聖書は暗号の謎解きのために書かれてはいない。
信仰が難しい謎解きを必要とするなら
いったい誰が救われると言うのか。
 
聖書は人間のために
信仰を伝えるためにのみ書かれている。
 
信仰者を信仰にとどめるのは
キリストの愛に答える信仰者の愛であり
それゆえ人が道を外れても
神の全能もキリストの愛も滅びることはないのだから
正直に告白して赦される道は
神の側から断ち切られることはない。
 
偽善者と背教者は
悔いることがないゆえに救われないのであって
 
神が人を見捨てることはないのである。
 
神の愛は節操のみにおいて
この上なく厳しく
キリストのもとに帰る恵みにおいては
この上なく寛容である。
 
 
寛容な神の前に、私たちは、讃美よりも、正直な祈りをするべきです。
 
讃美している気分に依存したり陶酔したり、あるいは、讃美しなければという強迫性で、讃美するべきではありません。
 
讃美すればするほど信仰が深くなるということはありません。讃美に実感がこもっていなければ、その罪をも、神は全て見抜かれるのです。
 
神への恐れをもって、主イエスキリストの御名を通して、祈るのですから、正直であることだけを必要かつ十分な条件とするべきです。
 
 
 
シャローム:
批判している途上で、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という、キリスト信仰とは正反対の信条をあらわにした。これ以後、反キリストと見なしている。
世辞と侮辱を、同じコメントに書いて、不自然さを覚えない不感不応の、偽善者であり、サイコパスと見なしている。
 
易坊:
シャロームとともに、私の、当時のヤフーブログを荒らして、50~100コメ超の遣り取りを強いてきたカルト的荒らし。サイコパスとしか思えない。
 
楽山:
楽山は、無宗教を気取りながら、ときに、反キリストの記事を書き、キリスト教をおとしめてくる。また、一方では、キリスト教的な文言を書いてきたりもするので、主張が一定しないが、唯物論や進化論を用いて、神信仰を否定するのは、やはり、反キリストとしか思えない。
 
楽山の、訂正不能、自己愛性の人格障害、学習不能、無反省、などによって、サイコパスと見なしている。楽山は、自己中カルトのアドラー教(アドラー心理学)の宣伝をしていた。それは、楽山の自己中カルトとして、今も、様々な詭弁を弄して、続いている。
 
シャローム、楽山、易坊については、一人による成りすましの疑いもある。
 
 
自称マグダラと自称ヨシュア:
 
この二人は、最近、ご無沙汰である。ヨシュアは、戒めを守って完全になれるのです、などと豪語して、私が批判していると、しばしば、私の個人情報を出してきて、発狂するかのように、私のことを、ダメ人間、精神病などと罵り、罵詈雑言を並べた。
 
自称マグダラも、同様に、批判すると、別人のように、攻撃的になるが、プププ、ケロッ、などと、奇妙な台詞を吐きながら罵る。俗的な意味で、ヒステリックである。
この二人についても、一人の成りすましを疑っている。
 
 
アドラー心理学:
 
私は、カルトだと思うので、アドラー教と呼んでいる。気に入らないことは無視しましょう、あるいは、私の課題ではありませんと無視することを、誘い文句として勧めているので、"日本人アホ化計画" を企てているカルトだろうかと思ってとして批判しています。楽山は、その宣伝をしていました。
 
"無視" がもたらすものは、学習がないために、成長しなくなることで、恐らく、人の気持ちの分からない、知性と感性が鈍麻した、ぼうっとした鈍い人格に帰結するのだろうと思います。
 
以上の者たちは、私が死んだ後も、生き続ける者たちです、巻き込まれることのないように気を付けてください。
 
 
個人の人生の最終的な闘いと、人類の歴史の最終的な闘いは、人の世界の現象としては、恐らく、普通の良心と、サイコパスとの闘いになるでしょう。人類の敵は、国家でも民族でもなく、サイコパスです。
 
 
信仰の節操とは 神と人の違いを弁えること

信仰の節操とは
神と人の違いを弁えること
 
 
(2020年)
(2022年07月17日、再録+加筆)
 
 
 
  行く今
 
在るといえば在り
過ぎるといえば過ぎる
今が行く
私の狭い視野の前を
あらゆる笑顔と泣き顔の前を
乾いた挨拶のような会話の前を
唾を飛ばして弁明する形相の前を
唾液を垂らして反芻する牧場の牛の前を
忘れられた崖の途中で風に揺れる草の前を
風の砂浜の砂の一粒の前を
潮風の中の見えない水滴の前を
深海の底を這う魚の退化した眼の前を
光届かない宇宙の一点を
そして全ての
前を後ろを中を外を
今が行く
何もかも古くし
新しくすることなど構いもせずに
何もかも滅ぼし
産み出すことなど考えもせずに
今が行く
 
 
  雑事快感

バイクの鼓動を感じながらの
楽しい数時間のライディングは
山の変わりやすい空模様を見ながら
雨雲から逃げまわっている
 
パンとチーズと水だけの日が続けば
幕の内弁当と缶ジュースだけでも
この上ないような御馳走だ
冷蔵庫の中を食料で満たせば
知性をどこかに置いて
烏滸(おこ)がましくも雑食は
幸福に似た満腹を
食べる前から感じている
 
いずれ失せてゆくものに
豊かさや心地よさを求める習癖を
身につけてしまうのは
意味を求めてしまうことを
ときにタブーとしながらも
いずれ失せてゆく意味の身を
なぞろうとする裏切りの
日常的雑事模様眺めの逃避行だ
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  気分
 
いつから厭(いや)になった
世捨て人の気分でも
この世のお世話になって生きている
世俗を離れた気分でも
俗は欲と一緒についてまわる
いつから嫌(いや)になった
勝つことができなくなって
自分自身にさえ負けてばかりだから
惜しみなく勝ちは譲る気分でも
勝ち負けそのものが分からなくなった
いつから柔(やわ)になった
善し悪しも弁(わきま)えず
まさに今そういう気分
いつから今になった
ずっと気分だよ
今以外に何かあったか
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでも
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  不毛な楽山2
 
 不毛な議論からの卒業
 (マグマリのブログを見て思ったこと)
 2021年07月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
何処に助けを求めているのでしょう。嘘は嘘を呼んでいるようです。楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの嘘吐きと詭弁が増長してゆきます。
 
 
*愛と平和
 マリア氏のブログを見たら、こんな記事があった。
・人間だけが|マグマリのブログ
人間だけが、信じてる宗教宗派の違いで
排他して血を流す。
神様は、そんなこと願っていないのに。
 」
 
誰か血を流したのでしょうか。歴史のことを言っているのでしょうか。楽山という、神も信仰も知らない人が、嘘を吐いて、今日も、人をだまそうとしています。宗教と信仰を学びたい人は、先ず、楽山から、完全に離れてください。
 
 
・人が、幸せになるには、、|マグマリのブログ
人が、幸せになるには、、、
家族や、周りとの愛と調和が必要です、、。 」
 」
 
反キリスト・反宗教の詭弁屋と、調和は存在しません。楽山は、どこまでも、追及され、神とも、宗教とも、信仰とも、人間とも、縁のない孤独な偽善者です。病質の、異常人格です。百害あって一利なしと言っていい人です。
 
愛と調和、当たり前だがそうはいかないという類です。こういうきれいごとを言う人には、気をつけたほうがよいという教訓になるでしょう。つまり、きれいごとの詭弁でごまかすのが、楽山の体質であり、習性であり、それだけしか出来ないで、満悦するような低劣な人格なのです。
 
 
これは、人を裁くより、愛と平和をとるということかな。
自分の場合は、議論に熱心でなくなったのは、一言で言えば面倒くさいということなのだが、それと比べたらマリア氏はずっと宗教的な考え方をしてるようだ。
 
マグマリとは、自称マグダラマリアのことだろうか。だとすれば、キリスト信仰者ではなく、逆らうと豹変して「プププ」とか「けろっ」とか、変な擬音語か擬態語のようなことを書いてくる怒りんぼカルトだと判断しています。楽山の味方をして、ますます愚かになりたいのだろうか。
 
宗教について話すのを面倒臭いと言っている時点で、楽山はアウトなのです。興味がなくなったからやめるのは、宗教も信仰も持っていないことを表しています。ならば、書かなければいいのに、いちゃもんばかり言っているのだから、信仰を舐め続けてきた責任は、どこまでも追及されるでしょう。
 
 
*不毛な議論からの卒業
「議論は面倒くさい」では格好がつかないので、一応、自分が議論に冷めてしまった理由を書いておくと、それは次の通りだ。
有意義な議論は、数度のやり取りで終わることがほとんどだ。
 
数度の遣り取りで終わるなどということはありません。真実の追求に終わりはないのです。また、都合のよい、見た目、良さそうなことを書いて、己の罪業を、正当化しようとしている楽山です。興が冷めたら止めて掘り下げない軽薄さなら、議論など、最初からするなということです。
 
 
もし議論が長引くなら(批判・反論が止められないなら)…それは相手に腹を立て、感情的になっている証拠である。これではまともな対話が成立するわけもない。早々に切り上げるのが吉。
 
楽山が、こちらを怒らせていることを、あっさり除外している楽山。これが、楽山の詭弁です。自分に向けられそうなことを相手に向けてきます。まともな対話など、楽山相手に成り立つことはないのです。楽山は、社会の敵、自己愛性人格障害、サイコパスだから。
 
 
思想宗教の正しさは客観的に事実確認することはできない。だから議論をいくら続けても決着がつくこともない。
 
著しく、人道を外れている者には、死ぬまで、批判が続いても、おかしくはないのです。宗教の正しさを事実をもって客観的に確認することは出来ないと言う前に、楽山は、まともな議論をしたことなどないのです。詭弁で、信仰をおとしめてくるだけです。ゆえに、楽山は、どこまでも外道。
 
 
人にはそれぞれ個性があり環境も違う。必要とする思想宗教もそれぞれ異なる。自分からみて間違った思想宗教にみえても、それによって救われる人もいる。
 
個性の違いと、宗教の違いを、混同する詭弁です。神に対する最低限の節操というものがあります。楽山には、それが無いのに、キリスト教と信仰を否定して、改めないのだから、宗教者・信仰者からも、全否定されるべきであり、救われる云々ではないです。そもそも救いが何か分かっていない。
 
 
自分は完全ではない。間違うこともある。だから自分の意見を他に強要することはできない。自分は自分の意見を述べるだけだ。それに賛同するかしないかは各人の自由である。
 
不完全を、誰よりも、知らないのが、楽山です。そして、訂正不能に、宗教と信仰への侮辱をしてきたのです。意見を述べるなら責任を持つべきです。楽山は、好きなように言って、責任を負わず、反省もしない非常識の、人でなしです。つまり、人格も能力も劣悪、あるいは、非人間です。
 
「賛同するかしないかは各人の自由」・・当たり前のことです。おかしいことばかり言う人、楽山を、批判しているわけです。こっちの当たり前を、楽山は、分かっていないで自由云々と言っていること自体が、楽山が欠陥人間である証拠なのです。言うだけ言って、後は聞かない・・子供か。
 
 
人が人を導こうなんておこがましい。それは神様の御心によるものだ。
人生は短い。不毛な議論をしている暇はない。
 
楽山は、人を導くのではなく、嘘と詭弁を、人に刷り込み、破壊しようとする者です。今さらの嘘っぱちの言い逃れにだまされてはいけません。楽山を、決して、許してはなりません。今さら、神の御心などと、体のいいことを言っても無駄です。他者の人生を不毛に導いているのが楽山です。
 
実に、長い間、成り立たない悪口を、繰り言のように、繰り返した楽山ですから、完全に黙るまで、批判は続くでしょう。なお、楽山は、すごい暇人だと思います。楽山のような人に成り立つ仕事は、殆どないでしょう。だから、人を欺いて、退屈な時間を過ごしているのです。
 
 
もし重要な異論反論をもっており、そのこたえを欲しているなら、相手に直接言わないではいられないものだ。もしそうしないならそれはさほど重要な話ではないか、相手に面と向かってはいえない悪口にすぎないのだろう。それならいちいちとりあう必要もあるまい。
 
楽山が言論の責任を負わないのは、重要だという認識がないからであるなら、まず、楽山が、何も言うべきではないのです。気色悪い悪口を言っておきながら、批判されると、このような逃げ口上で言い返したつもりになる・・人間として成り立っていません。
 
何が重要かどうか、信仰者でもなく言論者でもない、心なきペテン師の楽山に、分かりはしません。また、楽山の自己愛からの思い上がりの発言が出ています。こちらは、楽山と話し合いたいわけではありません。徒労と侮辱だけを与えてくる無責任男の楽山に、言論する資格はないと言っています。
 
決して、楽山と、直接の遣り取りをしてはいけません。人格と精神を破壊されるからです。楽山の悪魔性を、人間扱いしてはいけないのです。楽山からは、永遠に、縁を切ってください。楽山は、根腐れの、すでに破壊された異常人格です。
 
 
その他いろいろ。
こういう考え方は、「人を裁くより、愛を選べ」という思想からすると、あまりにも現世的にすぎるようではあるが、自分はこれによって思想宗教に関する議論に熱中することはなくなった次第である。
 
真っ赤な嘘です。楽山には、高等感情、即ち、愛、共感、罪悪感、羞恥心、謙虚さ、などが微塵もないことが、今まで表れてきました。楽山は、いつも、ニヤニヤ笑って、口先三寸で、どうとでもなると、高を括っているような、とても傲慢なペテン師です。決して楽山に近づいてはいけません。
 
既に3年以上批判しています。楽山は、批判に何も答えられないのに、言うことだけは止めない。こういう症状は、現実検討能力が欠如していると言います。だから、楽山は、何事も、はっきり言えなくて、それを、柔和みたいに飾ってくるだけの偽善者です。主張にも人格にも軸がないのです。
 
楽山の、あたかも、議論できるかのような、インテリ芝居、今日も全開です。「思想宗教に関する議論に熱中することはなく」なって、「愛を選」ぶなら、とうに反省しているはずです。高等感情の中に、愛があります、共感があります。楽山には、まるで無いものです。
 
人に「愛を選べ」と言いながら、愛を知らず、愛を行わず、鬱陶しい雑言だけを、自己顕示欲でばらまいてくる楽山には、言論の自由はありません。言論の責任を負わないのなら、誰にも見せず、自分の排泄物と付き合って、独りでニヤニヤしておればよいのです。
 
前に、楽山は、殴られるだろうと書いたことがあります。楽山は、どこにも通用しない人です。エスカレートすると、結局、楽山は、殺すか殺されるか、犯罪者か、同情されない被害者になるでしょう。世の中には、乱暴でキレやすい人が、いっぱい、いますから。
 
ゆえに、誰も、楽山に近づいてはいけません。精神衛生を考えて、身を守りましょう。楽山の味方などと思われてはいけません。人間らしい節操と情感を、まるで持っていない楽山、下手に議論仲間などと思ってはいけません。とばっちりは避けてください。今回は、以上、アンチ楽山でした。
 
 
不毛を植えつける者

不毛を植えつける者
 
 
(2021年)
(2022年07月14日、再録+加筆)
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  一所懸命
 
森が町になって
町が焼かれて
火事が荒野をつくって
荒野が砂漠と呼ばれて
砂漠が山になって
固まっている
その上に黄色い人がいる
のが見えるくらいの小さい山だ
 
耕して種を蒔(ま)いている
穀物や野菜
果物まで植えている
のが見えるくらいの山だ
 
平地は誰かが持っていった
山をどうしようと持ち主の勝手だ
一所懸命とはこのことだ
山に家を立てる
道をつくる
車が走る衝突する
電気を通す感電する
水道を通す
プールができる
水があふれる溺れる
その上にビルが建って
コンピューターが置かれる
ゲームができる
町ができる
店が並ぶ
次々にビルが並ぶ
 
結局その中で温室栽培している
穀物や野菜や果物を
植えたり埋めたり掘ったり捨てたりしている
 
試験管を扱った手で
酒を掛けて祈っている
アルコールがガソリンに変わる
石油をまき散らす
余ったからだという
ここはどこだ
元々どこだ
黄色い人
 
ここは誰もいない
のが見えないくらいの山だ
 
 
  聖書
 
一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。
 
聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。少なくとも、新共同訳は、キリストの教えを安い道徳におとしめる邪悪な訳です。
 
永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 
こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
 
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「難しいんだよなあ」で、何もかも自己中心の欲望で生きてゆけるなら、楽な分、生きている意味も意義もない時間を過ごしているだけだと分からない楽山です。心が砂漠のように不毛となっても、まだ、一人前のつもりで、言いたいことだけ言いに来る、そして、何も聞かない、とても迷惑な非人間。
 
 
 
楽山の害毒:今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となったパリサイ人や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
 自己愛が強く自己中である。
 自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
 平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
 深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
 後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
 罪悪感、羞恥心が見られない。
 アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
 中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
議論:
 議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
 相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
 理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
 自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
 読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
 様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
 分かっているという我執から離れられない。
 非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
 人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
 真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
 ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
 トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
 しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
 「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
宗教:
 反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
 HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山のツイッターですが、
 
楽山は、インテリらしい人に意見しています。自分も同じレベルだと言いたいのでしょうか。それ以上の不遜な態度でもあります。楽山は、真の宗教と信仰について、まるで無知で無理解なので、信用しないでください。真剣に学ぶ姿勢も持っていません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ご存じなかったのですか?
幸福の科学では、大川隆法総裁は、主エル・カンターレという神だとされてます。
それと同時に、仏陀であり、救世主であり、創造主であり、イエスが「我が父」と呼んだ存在でもあるとされてます。とにかく一番偉い神様です。
信者は、これを冗談でなく、本気で信じてます。
午後9:26 · 2022年7月12日·Twitter Web App
 
「ご存じなかったのですか?」・・慇懃無礼に相手を低く見ることと、相手と同じ学識経験者であるかのように教えてあげる姿勢と態度です。こういうところに、高慢は表れます。神と仏を説明していますが、楽山は、神も仏も知らず、冗談半分で揶揄することしか出来ない人です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
幸福の科学では、
・神→高級霊
・預言者→高級霊
という設定になってます。どちらも高度な霊的存在ということ。
ちなみに、人は、主エル・カンターレに創造されたと同時に、仏神の子となってます。つまり被造物と神の子を区別しないです。
2022年7月13日
 
HSについて、知らないようだから教えてあげましょう、という楽山の態度です。いつも、人より上から教えたがる態度です。実際は気取りだけなのです。おだてりゃ木に登る・・いや、どこにも登れません。大方、山の頂上を眺めていただけでしょう。自己満悦を生き甲斐とし、人の迷惑を考えません。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
彼らにとって
基本方針は、祭政一致だから、幸福実現党も幸福の科学も一体でしょう。
また組織の論理は、エル・カンターレ信仰であり、総裁に帰依することが根本です。
有権者は、声を聞く存在というより、教え導く救済対象です。
そして彼らにとっての事実というのは、彼らの信じる霊的真実ですよ。
2022年7月13日
 
楽山は、インテリ気取りでアドバイスをするという独り芝居でしょうか。楽山は、超常現象に興味があり、霊能者気取りで、教祖願望があるようです。アンチなのに、宗教の考え方は、カルト的なことばかり言ってきて、宗教と信仰の真実をまるで知らない似非宗教家です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、間違っても素直に詫びることはなく、自分を正そうともしない。反省しないのは、人間としての良心と知性を持っていないのだろう。自己顕示欲だけが旺盛で、発言は殆どそのためである。罪悪感がなく、批判を無視して、発信せずにはおれない性根は、自己愛性人格障害から来ていると思われる。
 
 
 
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  人の復活3
 
 
死人が蘇る話よりも、先に考えるべきことがあります。信仰はその原初から、神との関係への人生の依拠であり、生きる理由の依存でもあります。自立した信仰などありえず、信仰は紛れもなく、神に人が依存し、かなり甘えることに他なりません。
 
語弊があるなら、神のみに依り頼むことと言ってもいいでしょう。神に依存し甘えるとは、祈りにおいて神に対して、人は既に、かなりの無礼を働いているということです。私たちの信仰は、100%を目指すことは出来ません。
 
100%を目指せば目指すほど、思い込みを強くして、偶像信仰になってゆくでしょう。何故なら私たち人間は、一人の人間である他者さえ完全には理解できないでいるのです。ならば、神の全知全能・完全絶対・永遠不変など、理解できるようもありません。
 
私たちの信仰は本質的に、決して100%を目指すものではありません。神はそれをご存知のうえで、福音を賜ったと思うべきであります。すなわち不可知の神への依存は、人間としての地上の人の世での自立を促すものです。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはありません。しかし、そこを間違えれば、おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはあるのです。
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは、今信じていることを固定することではありません。信仰を固定しようとすることは、動かなければ成長しない人間の、成長すらも拒む姿であり、それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目の信仰?であり、偽善者やカルトの信じ方なのです。
 
信仰は、不明を呑みこんで信じ込むことではないのです。信仰において信じるということは神を理解することではなく、100%を目指すことでもありません。救いの成就が目に見えなくても、信仰は、一生の付き合いとなるほどの賜物を心に受けて起こることです。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば、不感不応の慢心からの信仰自慢に他なりません。それは信仰ではありません。今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかないからです。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は、賜物が必要なほど不完全な自分を知っているということです。境地自慢のように信仰をひけらかすことはしてはいけません。
 
それでも人間の信仰は不完全であります。それは人間が不完全だからに他なりません。だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ません。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは、それ以上に尊いものを他に知らないという讃美であります。
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に、「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくありません。
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはありません。
 何故なら神の前で
 人は決して大袈裟にはなれないからです。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が、様々なカルトに悪用されている事実を見ても、聖書に心を揺さぶられたことがなく、心に受けたものがないまま、讃美と信じ込みが信仰だというのは間違っています。
 
祈り以上に、人が真の神を相手にすることは出来ないと思うべきです。そんな能力は人にはなく、真の神が人に及ぶのであって、真の神に人知はどこまでも及ぶことがないのです。
 
ならば信仰は否定されるでしょうか。人は神を信じてはいけないのでしょうか。否です。思い込み信じ込む信仰はないということです。信仰は、いつも疑いといっしょなのが、人間です。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から涎のように
だらだらと引きずる醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じられないときに信じることを捨てられない
という不可避の必要があるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という
人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこでは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への思いの境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとっての復活である。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないが
最後まで希望の縁(よすが)はあるということ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
復活と不滅

復活と不滅
 
 
(2011年)(2019年)
(2019年)(2020年)
(2022年06月01日、再録+加筆)
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  次元
 
乏しくて乏しくて
しまいに欠けてしまって
目で見ているもののまわりに何もない
目で見ているものさえなくなって
古い何かがよぎる
色彩のような
香りのような
 
紙にX軸・Y軸・Z軸を描いてごらん
そう、それが三次元の座標軸だ
その紙に鉛筆を立てて
そう、これが四次元さ
(それを写真に撮ってまた棒を立てる
五次元、・・・、N次元?)
 
0と1が明滅していた
ことの始まり
色彩が妙にきれいだ
平面から立体へ(芸術へ)
それに時間という次元を考え出して加えている
それでも乏しくて乏しくて
しまいに欠けて
古い何かがよぎる
未来が今を思い出している?
色彩が
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
信仰がもたらす共感も、愛も、癒しも、救いも、絆(きずな)も、何も知らず、史実と幼稚な辻褄で、鈍い情緒的感性だけをもって、キリスト信仰を否定する者がいます。書いていることは、読むに堪えないことばかりで、それこそ、思うようにならない生を、悔い改める代わりに、神のせいにしているのです。
 
 
 
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  キリストの心2
 
 
キリストは、救われる人々に対して、物や肉体の奇跡をおこなっただけでしょうか。否であります。こんなことが出来るから従え、という救い主でしょうか。否であります。
 
確かにキリストは、神の権威をもって語ったかもしれない。物や肉体の奇跡も、私は、否定はしません。
しかし、それが、私が信仰者になった理由ではありません。
 
神の前の、正直と本気、それだけが信仰には必要です。キリストは、大きな働きをする正しい善人を選んで義とし、救ったでしょうか。否であります。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:2-5
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 
8:7-8
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9-11
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (マタイ所8:5-11、新約聖書)
  
善人だから救った、ということではないことは明らかです。女性は、キリストの前にも、もはや、打ち殺されるだけの力なき小ささを、そのまま任せるしかない状況だったから、キリストは救ったのでしょう。キリストは、女性の心を洞察し思いやっています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。 
9:22
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 
 (マタイ9:19、新約聖書)
 
キリストに対して、衣の一部でもいいから触ろうとすることは、縋りつくような強引さではなく、端っこでもいいから、という深い信仰の敬虔です。
 
信仰が、辻褄合わせではなく、保険のように保証があるからでもなく、一途であり、その結果を問わないほど、他にないという本気から始まっていることを表しています。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:22
すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 
15:23-24
しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
15:25-27
しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 
15:28
そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
 (マタイ15:21-28、新約聖書)
 
女性は、他の誰も癒せなかった娘の病を癒されたい一心から、どこまでも低く遜る敬虔を弁えていたのでしょう。他に希望がなかったからです。このような一途な正直さだけが、キリストの心を動かしています。
 
キリストは、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」とまで言って、女性の食い下がるような救いへの渇望と、自分を小犬に喩えた女性の、低く低く遜(へりくだ)った心を見逃しませんでした。
 
この女性は、遜(へりくだ)るのが、とても上手です。何だか、断られないための言質を知っていたかのようですが、恐らく、言葉だけでなく、態度や表情にも、娘への愛情の一途さと必死さとともに、自分はどこまで低くてもいい、という敬虔が表れていたのだと思います。
 
本気の告白を、キリストが、そして、神が、無視しないことが顕れています。
 
一方、私の経験から、これみよがしの偽善者の、言葉だけの敬虔芝居は、実に臭くて醜いものです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:6-7
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8-9
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:6-10、新約聖書)
 
女性は、効率の悪いことをして、優れた働きとは、とても言えないのですが、キリストは、ご自身を愛するがゆえに精いっぱいだった女性の心を見逃しませんでした。
 
 
3つのエピソードに共通しているのは、救われたいという一途さと、そのために、"神の前に、どこまでも自分を低くできる敬虔"にあります。何よりも、救いが他にない、という深い悲しみからの自覚です。
 
敬虔は、静かではなく、穏やかでもなく、行いや主張が控えめなのでもなく、神の前に、いくらでも自分は低くてかまわないと、ありのままの自らを主の前に投げ出す情熱であります。そして、無力な自分を自覚し、神の前に正直に捧げることが、信仰において、いかに大切かを聖書は教えています。
 
すなわち、何よりも大事なことは、神の前に、正直だけを捧げることです。正直であれば、本気であれば、食い下がるような祈りでも、神は、無視しないということでしょう。
 
神様の前だから滅多なことは言えない、などと、立派そうな言葉で仕上げて飾るのは、信仰の義をけがすことであります。それは、カルトや偽善者が、いつもやっていることだからです。
 
信仰においては、言っていることが、行いが、立派だから救われる・・ではないことを学ぶべきです。
 
私たちは、キリストのために正しいことをして信仰の義を得るのではありません。信仰の義は、神のような正しさではなく、神に対する人間の身の程を弁えた態度や姿勢の正しさであります。そこにおいて、人の信仰の義は、絶対の神の義とは、明確に区別されているのです。
 
むしろ、折に触れて、罪を犯した可能性、つまり、間違えたかもしれない、嘘を吐いたかもしれない、自分を飾ったかもしれないことなども、気づいたときに、正直に告白して、赦されることで救われ、癒され、生きることが出来るのです。
 
 
救われるためには不完全の自覚が不可欠であり、信仰について、偉そうに、完全でないと信じないとか、信じたから完全だとか言う無神教カルトの得意顔が、毛ほどの価値もないことは明らかです。
 
 
正直に反省と学習

正直に反省と学習
 
 
(2020年05月12日)
(2022年05月22日、再録+加筆)
 
 
 
  見つめていたい
 
私の心に慈愛の目があったなら
あなたが私から何を奪っていくのか
静かに見つめていたい
私があなたから奪ったものを
あなたが取り返すのを見ていたい
 
あなたが私を嫌うなら
嫌われた裸のままの心で
どこが傷つくか見つめてみたい
 
あなたは傷つき
私も傷ついた
傷つけることで傷つき
傷つくことでわかるものがあるなら
あなたの心に同期して
傷が示すものを知りたいと思う
 
私がまだ泣けるなら
奪われなかったもののために
泣きたいと思う
 
すべて私が
まだ人間であるなら
あなたの心を癒すよりも
あなたの心を聞きたいと思う
 
耳を澄まして
あなたの傷ついた
あり方を知りたい
私の傷ついた
あり方を知るために
 
そしてゆっくりと
考えてみたい
人間はどのようにして
傷ついていくのかを
 
病める心の
癒えぬ部分の
こだわりに
言葉で上手にあてる
包帯を持たない
私の貧しさを
あなたが許せない分
私が傷つき
年老いていく姿を
今しずかに
見つめていたい
裁かれるときを待ちながら
 
 
  傷ついた犬
 
何か言いたそうな
傷がある
その傷を癒すために
なめつづける舌も傷ついている
それを見る眼も傷ついて
しばしば視線がそれている
うるんだ眼が揺れるたびに
流れる涙こそ傷を示すのに
歪んだ目から涙は見えない
ただどこを見ていいのか 探して
戸惑うように動く眼球
 
親から子へ
傷だけを相続した
兄と弟が
傷だけを共有した
互いに癒すこともできずに
 
傷でできている人間
同じ傷は一つとしてないから
痛みを通り越して
ありとあらゆる
あきらめを
諦めて
砂を受け入れている
あてるガーゼもない
巻く包帯もない
もう出血もしない
 
無数の傷を積み重ねて
人の形ができていて
遊んでいる
さらに傷つきながら
それが命と言いたげに
 
疲れて眠ろうとして
眠れない
粘液が乾いたので
見るに耐えない
傷口の中は暗く冷たそうだ
傷の縁が黒い血痕を残して
乱れている紅色
傷は笑っている
ぽっかり口を開けて
何か言いたげに
 
 
  遠い約束
 
あれは遠い約束
君は待っていたのかもしれない
きれいな人
ひょっとしたら辛かっただろうか
少しは痩せたりもしただろうか
まだ先生と呼ばれていた頃
花嫁募集と冷やかされていた頃だった
癒すために歩く道を
病人を乗せた自転車が
いつか追い越していくこと
恐れていたのかもしれない
折れたハンドル
潰れたタイヤの転倒に
どうしても君を
巻き添えにする気には
なれなかった
許せないなら許さなくていい
春の移り気な光を浴びて
忘れてくれたらと願っている
君が乗り越えるための低い壁
あるいは踏台
君は明日に向かって跳んだと信じている
きれいな人
あの日を償えるものなど何もないけれど
眠れない夜
素直に喜べない四季の移りに
うずくまっている座布団の顔
病み綴る日々の今
それがあの日に返す答だ
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
神を、悲劇が起こっているから、史実ではないから、などと、貧相な辻褄で、いないと語る愚かさは、受け取る器の貧困を、敬虔のない人格の荒廃を、神を恐れない傲慢を、自己中の思い込みから発して、詭弁と嘘を添えて、非人間の迷路へと、けがれた製氷の皿から砕けて落ちてゆく、暗黒の下水道です。
 
 
 
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