ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽善

 
  神の与える益2
 
 神の与える益 2019-11-27 00:03:11
 加筆して再録。
 
 
〇 加筆した部分もありますが、徹底してはいないかもしれませんが、加筆・修正・挿入したところには「〇」印を付けています。
 
〇 約十年の間、批判してきたシャロームを批判する去年の私の記事を、再録+しておきます。偽善者の典型でもありますし、宗教詐欺の見本ともなるでしょう。
 
シャロームという偽善者の最悪の実例を見てきたことから、信仰というものを、よくよく考えてみる必要があります。
 
〇 去年の記事の引用は、かなり省略しています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ3:28、新約聖書)
 
このことについて、シャロームは、次のように書いています。
「かつてはその弱さにつけ込まれ誘惑されて罪を犯していたのですが、しかし、信仰によってその弱さが神の愛と力があらわされる恵みの水路となるのです。神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方であると聖書に書かれているとおりです。」
 
シャロームは何をしてきたかと言うと、
1.罪と認めず、悔い改めをしない、という、キリスト信仰とは真逆な信条、
2.1を批判し、おかしいと指摘すると、悔い改めは神が与える(だから今はしない)などと言う言い訳。
3.さらには、人間の自由意志を、聖霊による自由意志とは違うという詭弁。聖霊を知っているかのように、自分を神格化しているだけです。
4.おびただしい嘘の解釈と、詭弁だけでなく、平気で嘘を吐く、でっち上げの作り話で、批判者をおとしめる、など、悪意だけが明らかになってきたのです。
いったいどこが、神によって益とされたと言うのでしょう。人にとって害となることだけなのです。
 
つまり、シャロームは、聖句の益ということを、自分に好都合の益だと思い込んでいるのです。だから、何を仕出かしても、神が与えた益だからありがたやと、反省しないのでしょう。
 
神が「万事を益となるようにしてくださる」とは、「ご計画に従って召された者たちと共に働いて」と書いてあるように、人と神の共同作業であり、信仰の恵みを受けて答える双方向であり、導きの願いと、行いと悔い改めの祈りの、信仰生活そのものなのです。
 
〇 それを、曲解して、シャロームは、神が益としてくださったのだからと、何でも正しいと思い込んで、反省もしなくいいかのように、好きなように、自分の身勝手を通す理由にしているのです。
 
信仰には、勘違いしやすいことがありますが、さらに妄想化したのがシャロームです。
 
カルト的な偽の説教というのは、救いは具体的な奇跡が起こること、恵みと益は自分の身勝手の実現、罪に死んだから無罪になった、神の平安と言って自らの無為と怠慢の安穏の正当化、二千年前の肉体の復活を根拠にして信仰の心に根拠を求めなくなる、聖霊、異言、預言などの異常体験、神は絶対だから信仰も絶対とばかり豪語して自らを絶対化する、自己正当化の絶対化、等々。
これは、おぞましき背教であり、シャロームは、このほとんどが当てはまるのです。
 
これらの悪い見本を、否定してゆくことで、望ましい信仰を、浮き彫りにすることが、ある程度、可能です。
 
 
〇 悪があるのは、対極にある善を知らせるため、善を際立たせるため、という、僅かなように見えて、皮肉のように思われて、実は貴重な意義があります。
 
〇 神がいるなら、なぜ、悪があるのか、なぜ、神は悪を退治してくれないのか、という疑問を、神否定の根拠にしている楽山という醜い反キリストもいます。
 
〇 楽山は、何もしなくても、苦しまなくても、ハッピーにしてくれる神でないと信じないわけです。楽山は、そのような成長の実感のない快楽だけを求めているのでしょう。いつも哺乳瓶を加えているような人生が理想なのでしょう。
 
〇 推測ですが、理由としては、人間が、自由意志を持つ存在として造られたから、ということは言えるでしょう。つまり、自由には責任が伴います。
 
〇 自由であるから、いつも、よい結果とは限りません。人間が責任を負うべき生涯でもあるということです。いつも楽なだけでは、自由を、神が、人に、教えることにはならないわけです。
 
〇 つまり、何でも、よいことしか起こらない世界を、楽山は、神が作るべきだと言っているわけですが、そのような世界は、神のロボットが経過する世界であり、つまり、世界に組み込まれた辻褄の合う世界になります。それは、自由意志で選択をする人間がいない世界です。
 
〇 苦難に遭った人が、そのまま、死んでしまうなら、教育も何もあったものではない、という言い分もあるでしょう。そこは、分かりません。死は、総ての人に、一回、起こること、といっても、それが、最悪な死に方なら、納得は行かないでしょう。
 
 
〇 また、分からないけれど、分からないことを共有することは、信仰者と非信仰者の間でも可能であります。神のなさることには、分からないことがある、というのは、真実でしょう。神は全能、人は不完全、ということは、私は経験から実感があります。多くの人は同様であろうと思います。
 
〇 キリスト信仰の世界は、いつも平安のうちに過ごすことが出来て、総てが安心事に変わる世界ではありません。人間の世界が、天国のようになることは、終末までありません。そのほうが面白いと言うことでは済まされないことも多いです。
 
〇 人生が楽しむためだけではなく、悲しみや苦しみがあること、それを乗り越えるために、人間の自由意志によって生きることと併せて、信仰ゆえに、生きてみようと思い直したり、積極的に受け取って人生を生き直す人もいるわけです。私は、せいぜい前者なので申し訳ないです。
 
〇 むしろ、上記のような苦難があるから、それでも生きてゆくために、信仰はあるのです。楽山の主張は、欲望から出ているので、真逆になっているのです。欲望から出ているので、神と信仰の与える恵みにも救いにも感受性がなくなっているのです。
 
〇 つまり、欲望から、思うとおりに成っていないと、言いふらしたり、それがキリスト教だと、神もキリストもキリスト教も、欲望から、けなし続けるような輩のためには、信仰は用意されていない、と言えるでしょう。楽山は、それが気持ちよいのでしょうか、反キリストであり続けています。
 
 
〇 むしろ、シャロームが唱える偽善を取り除くと、また、その対極を考えることで、真実の糸口になってゆくのです。以下、まとめ。
 
1.神の与える恵みや益は、人にとって、いつも分かりやすいわけではなく、人の都合の良いものとも限らないこと。
 
2.物や肉体の奇跡は、少なくとも現代では、めったに起こっていないこと。
 
3.神の与える平安は、癒しであり、信仰という道の途上で、悲しみに対して与えられるものであり、信仰者が何時も味わえるようなお気楽な安穏の境地ではないこと。
 
4.信仰の根拠は、心の癒された体験と、キリストを忘れられない気持ちがあり、キリストの同伴を祈る気持ちであります。人間の良心と心から離れたところに信仰はありません。
 
5.聖霊体験や、異言や預言は、それが神からのものか、人の自己顕示欲など欲望によるものか、見分ける必要がありますが、見分けるのは必ずしも容易くはなく、これはどっち、などと、いつも分かることではありません。即ち、このことから、神の意志と行為を決めつけてはいけないということが言えるのです。
 
6.神は絶対ですが、人は絶対ではない、ゆえに、人の信仰も絶対とは成りえません。人には、絶対という神の属性は分からないこと、即ち、神秘であります。
 
私たちの信仰は、赦し、癒し、慰め、導きを与えられるために、神に憐れまれることを求めることであり、それは、魂の奇跡として、人の心に与えられるものです。
 
祈りも悔い改めも、信仰生活も、そのためにあり、物や肉体の奇跡は、人の手に負えるものではなく、神に任されることであります。即ち、人が、あれは奇跡だったと、声高に言うのは、信仰自慢や、信仰の安っぽい宣伝になりやすいので、控えめにして、口を慎み、神を恐れるべきであります。
 
絶対ではない人間は、絶対である神に対して、祈ることをもって双方向となり、信仰者となった後も、正直な祈りをもって神に仕え、神の民としての人生を送ることを唯一の信仰の目的としています。
 
 
 悪意による破壊:コメント欄
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームが、性懲りもなく、またコメントを書いてきました。
いつものように、あざといことです。
 
1. st5402さん お久しぶりです。
 2019年11月21日 09:20
「山本太郎は・・、船後さんと木村さんを国会に送り込んだのです。」
 「イエス・キリストによって遣わされた人の姿を見るようです」
(恐らく私)送り込んだ、遣わされた、対応させたとみるのが自然だと思いますよ。書き方の不備だと思います。上の「わからい」も、よくあることですが、じっくり読み直してみてください。
 」
おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です。
10数年前と相も変わらず、ご親切に、
文字や文章を修正、校正することがお上手ですね。
ありがとうございます!
 
わからないですか。本心で「お上手ですね。ありがとうございます!」と言う人は、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉は言わないんです。あなたシャロームの、軽蔑の笑いが表れています。
 
つまり、「おやおや、いつも、いつまでもお疲れ様です」という皮肉の後に、褒めて、世辞と礼を言う、ということから、あなたの悪意の笑いがイメージされてしまうわけです。
 
いつまでも、執拗に、意地悪コメント書いてきているのは、あなたシャロームのほうです。
 
「おやおや」「いつまでもお疲れ様です」「お親切に」・・ずっとこんな調子で通ると思っているのが、不感不応・学習不能の経過と結果なのでしょう。私が、あなたシャロームの褒め言葉を真に受けることはないと分かり切っているのに、また書いてくる。
 
〇 あなたシャロームのコメントには中身がないから、考える材料にもならず、こちらは、またか、という気持ちだけで、返しを書くことになります。
 
書くたびに、恥ずかしいことになっていると、あなたシャロームだけが、気づかない。
 
 
あなたシャロームの信仰は、あなたシャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という発言と訂正不能によって、全否定されています。誰にとっても、益にならず、害にしかならない、自己中の妄想です。
 
私の批判コメントに対して、あなたシャロームは、削除、コメント欄閉鎖、未承認としました。つまり、隠蔽し、無視しました。私はあなたシャロームの嫌がらせコメントに対して、いちいちレスして批判しています。この違いは明らかです。
 
私は、あなたシャロームが、実に白々しく嫌な丁寧語の書き方で、前と同じような嘘っぱちを、独り得々として、だらだら書いてきても、無視するのではなく、コメントの質が悪くても、あなたシャロームが下劣な悪意の表れでしかなくても、どんなに、つまらない、何の糧にもならないコメントでも、受け取ったのち、批判を書いて晒し、かつ、記事にしています。
 
そうする私の意図は、汚い言い方ですが、
シャロームの言を指して、これがクソです、ということを示すことで、クソでないものを大切にしたいからです。
 
私は、最初から捨てることで解決することなどないことくらいは知っており、ゆえに、読んで、考えて、返して、保存して、記事にするのです。
 
〇 そして、正味ではないが、十年分の、大きな、偽善者の資料となっています。
 
あなたシャロームは、捨て去ることによって経過するので、捨て去ったものに気づかず、いつか、捨て去ったものに、忘れたものに、捨て去られてゆきます。
 
〇 こうやって、過去記事とコメントを見てゆくと、シャロームのしてきたことと、楽山のしてきたことが、多く共通しており、この二人をもって、現代のパリサイ人的な、偽善者の典型という暫定的結論になってゆきます。
 
 
偽善の与える害

偽善の与える害
 
 
(2019年11月27日、同日一部修正)
(2020年12月12日、加筆して再録)
 
 
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  楽山の妬み
 
 幸福の科学の元幹部たち
 2020年12月06日 楽山日記(LD)
 リンクなど、省略。
 
 
楽山は、人間が、無反省・無責任の体質のまま、かたよらない言論者を目指せば、モンスターにしかならないという例になるでしょう。それは、自分の負うべき責任を放棄したがゆえに、自分という存在が消えてゆくプロセスでもあります。
 
本を読んでも、他者の意見を聞いても、反省もなく、責任も負わず、自分を高めるための自己正当化だけが目的ならば、ゆえに、都合の良いことだけ拾って、都合の良いことだけ受け取って、都合の良いことしか書かないならば、そこに、学習も成長も解決もないからです。
 
敵か味方か、分からないようなことを書いて、しかも、日によって変わってきて、不安定で、しかも、向上心がないままの高慢な人格ならば、関わる者を、傍迷惑の渦に巻き込むか、破壊するだけでしょう。あらゆる信頼を失って、過ぎてみれば、何も言わなかったのと同じ世界が、楽山とは無関係に進んでいるだけなのです。
 
楽山は、また、人の意見を引用して、自分の記事を書いてきました。断りもなく人を利用して、そのまま無反省の無学習のままの楽山の人生は、責任を負わないことで、真面目にかかわる人をオモチャのように捨ててゆきます。楽山にだけは、利用されないようにしたいものです。
 
楽山は、孤独のうちに、誰にも借りはない、責任は負わない、という世迷言を繰り返し、自らの存在をも、だんだん消していって、最後に口を利かなくなるまでを、誰の信用や信頼を得ることもなく、過ごしてゆくのでしょう。その結果として、さんざん迷惑をかけて、誰とも関わりがなくなってゆく人生なのでしょう。
 
楽山は、教祖になりたいが、なるための人望も力量もないので、もはや、存在したくないのかもしれません。だから、楽山は、欲と意地だけで、煙のような実質のない存在となり、実体がありません。何か言っても、ごまかしだけで、答えもせず、逆に、言いたい放題に言うことだけはやめないのです。邪悪な宣伝・洗脳・煽動者として批判される悪と偽善以外に、人としての存在様態がありません。
 
*元幹部
ツイッターをみてたら、このページが貼られていた。幸福の科学の幹部だった小澤利夫氏が、キリスト者になったという話である。
・創価学会幹部、幸福の科学幹部からキリストへ
 」
*馬鹿げたこと
これは誰のことを言っているのかは明白だ。
考えてみると知識豊かな日本であるのに、宗教関係に至ると、本当に馬鹿げたことを平気でやっている。昔も今も、世の指導者たちの権力と、名誉と、傲り以外の何ものでもないのです。
肉体を有する人間は、生きていても、死んでも人間に変わりありません。ところが日本の宗教界には、「我は神なり」「私は仏なり」等と言っている者たちがいます。
神仏であるなら、人智で計り知れない現代日本の深刻な経済を、好景気に変えてみよ。神仏であるなら、三百万人の失業者に対し、納得のいく仕事や職場を与えてみよ。
 」
教祖が神を自称したり、生き神様を崇拝したりというのは、馬鹿げたことといわれても仕方がないことではある。 
 
仏様の心が分かるっぽいこと、霊が分かるっぽいことを、自らの超常体験として書いていて、ホラーが大好きで、自ら不思議な能力者気取りで、そして、難しい問題を解決するリーダーか評論家気取りで、記事を書いている楽山も、その実質が何も伴わず、責任さえも負わないのですから、相当に、いや、いっそう、気味の悪い、馬鹿げた存在と言われても仕方がないのです。
 
このように、楽山も、人の意見など聞かずに、自分の気持ちの良さと都合の良さだけで、言いたいことを言い続けています。オレこそ生き神じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。楽山は、誰とも、真に仲良くはなれない人です。
 
*人生は一冊の問題集
「人生は一冊の問題集」という考え方は、HSから離れても頭に残っているようだ。HSをやめた今でも、教えにはよいものがあると考えているのだろうか。
人生とは、まさに一冊の問題集です。
 」
 
問題意識など、持ったことのない楽山が言っています。総て、自分のうちに、自我によって、解決してゆくのですが、それは、まるで、人間世界に通用しない、無反省と無責任の言動となって、妄想的自己確信になってゆくのです。あらゆる問題は、楽山に言っても、一定しない楽山の、保身と妄想によって、徒労と疲労を残すだけです。
 
*生き神様崇拝
ここでは、『太陽の法』を高評価してる。
でも、神を自称する教祖には、どうにも我慢がならないらしい。
宗教に無知な人々にとり、特に『太陽の法』という「幸福の科学」の本は、宗教の何たるかを、やさしく解き明かしたものです。だからこそ、わずか十年の歳月で、数十万人の会員が世界中からその神の教えを求めて集ってきたのだと、思っています。
でも残念なことには、「我は神なり」という誤解される教祖の言動に、その頃から、その会にもいられなくなりました。私以外にも、去る人々が少なくありませんでした。
今、世で「私は神仏なり」という者を真に受けるのは、危険なのです。宗教界の中で、己が神であり仏であるとは、その教祖が口にすべきことではありません。
 」
ふと思い出したが、フライデー騒動のころだったろうか。それより前だったろうか。小澤氏がテレビのインタビューにこたえて、大川隆法は間違ってると思ったら退会するというようなことをいっていて驚いたことがあった。
支部では、これについて、小澤氏は大川隆法が間違うはずがないということを前提としたうえで、たとえ話をいっただけだと説明されたが、小澤氏のその後をみると、これは本気だったようだ。
 
楽山のような理屈倒れの精神の貧困な者でない限り、神聖なる存在は、今まで知らなかったような、魂の解放を伴う、何からの光を感じることがあるのだろうと思います。聖書の、キリストと、救いわれた人々との交流に、それは表れており、そこから、あまり正しくもなく、あまり従順でもないが、私も、キリスト者となっています。
 
楽山の言うことは、誰かが言いそうな月並みなことばかりです。一応、筋が通っているなどと思って、頷いてはいけません。誰かが言いそうなことは、誰でも言えること、人真似に過ぎないこと、そういうことばかりを、拾って来ては、中庸を気取って、偉そうに見せている楽山を、決して信頼してはいけません。
 
*十人の九次元霊
そういえば、九次元には十人の神霊が存在して、エルランティ、エルカンターレ、イエスなどが上位にあるという話があったのだった。でもその中では、イエスでなく、エルランティがもっとも偉いというニュアンスだったと思う。エルランティが、他の惑星から人類を連れて来たとか、神の光をプリズムにかけて分光させてるとか。でもまあこの辺りについては記憶が薄れてきているので、自分が間違っているかもしれん。
幸福の科学においては、東京大学出身の大川隆法ご夫妻から、イエス・キリスト様こそ、天上界の十大天使の中で最高の霊力を持たれる「神の中の神」だと、教えられてきました。
イエス・キリスト様のことは、今では聖書的な教えから理解しておりますが、イエス・キリスト様こそ最高の方であることは、じつは幸福の科学時代から教えられていたことなのです。
 」
 
楽山の「自分が間違っているかもしれん」を真に受けてはいけません。「記憶が薄れてきているので」ということと、同じ意味の、一種の安全弁なのでしょう。間違いを認める楽山、などというのは、無反省・無責任の楽山において、見られたことがありません。謙虚芝居の "トホホ言語" なのです。
 
もし、楽山が、間違える自分を認めていたら、キリスト教を否定した後で、平気で、祈りの三文芝居など、するはずはないし、その逆も、ないのです。
 
楽山は、楽山自身が積み重ねてきた実績によって、否定されてきたのです。今、ブログで書き続けているところの、他者を利用した雑言も、その類から外れるものではありません。
 
人を利用する、有名人も利用する、都合の良いところだけを拾ってくる、真剣味もなく繰り返し書いてくる、それらすべては、真実の追究ではなく、ただただ、楽山の忌まわしき因業であります。
 
*ファルコン告発
創価学会や、幸福の科学で経験したことの中には、なかなか文字にしにくいような事柄も、たくさんあります。イエス様は、
「さばくな、さばかれないためである」
と言われましたので、そうしたことなどはすべて、神様におゆだねしたいと思います。 
 」
ファルコン告発では、小澤氏がHS時代のことをあれこれ言わない理由について語られていたのを思い出す。
 
ファルコンというのはHNで、HSを批判した人のようです。小澤氏というのは、元HSの幹部らしいですが、よく知りませんが、創価学会 → 幸福の科学HS → キリスト教と、目まぐるしい人生を送った人のようです。このように、公表するにあたっての説明が何もない、というのが、楽山の記事の特徴です。
 
「さばくな」という聖書のキリストの教えは、カルトが、他者に、批判するな、という言い分のために、悪用されやすい聖句です。ここで、また、楽山が言っているのも、似たようなものでしょう。
 
言論において、批判がなければ、言論は社交に堕して、真実追求など全然できなくなります。
 
*原氏
ところで、原氏について検索したところでは、今もスピリチュアルな方面での活動をしているようではあるが、プロフィールには、幸福の科学も、大川隆法の名前も見当たらないようだ。高橋信次については恩師として多く語っていることと比べると、その違いに驚かされる。
教団との取り決めがあるために沈黙しているのか、個人的に思うところがあって伏せているのか、それともほかに理由があるのか、判然としないが、何か深い事情がありそうではある。
 
楽山が、次から次に、知らない名前をあげるのは、煙に巻くつもりでしょうか。誰がどうした、という話しか出来なくなった楽山です。「驚かされる」「何か深い事情がありそう」などと、ごまかしも、いい加減にしてほしいのですが、楽山は、平気なのです。それが、病質というものでしょう。楽山は、責任ある主張を、欠片も持ってはいないのです。
 
*期待
いろいろ難しいこともあるだろうけれども、元幹部には、できれば当時のことを率直に語ってほしいものだ。日々の平穏な生活を大事に思えば、口が重くなるのも致し方ないのではあるが、当時の本当の事情を知ることで救われる元会員、および現役会員とその家族は大勢いるだろうと思うので。
 
楽山に、元幹部に何かを勧め促すような器量はないと思います。反省せず、責任を負わず、思い付きで、いい加減なことを言い、それで、まともぶっている楽山は、ただ、ひたすら病理の路程を歩んでいるだけです。
 
誰からも信頼されていないことを、ブログで、ごまかして、人の意見ばかり書いて、ヒーロー気取りでいたいのでしょう。人間、堕ちると、こうも卑しくなるものなのでしょうか。取るに足らない楽山の、中身のない背伸びが続いています。
 
楽山は、関わる人も集団も、結局、裏切るでしょう。宿命かもしれません。何も、負うことのできない欠陥人間が、不都合を無視することで、万能を得たかのように、批判されても批判されても、自己正当化に明け暮れて、とうとう、自分の意見など、何も言えなくなって、何も成り立たなくなって、人の意見ばかり、貪っているさまは、実に醜いと思います。
 
 
怨念と嫉妬

怨念と嫉妬
 
 
(2020年12月08日)
 
貪る(むさぼる)
 
 
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  信仰者と偽善者
 
 私の記事「嘘と世辞と侮辱(4)」から
 抜粋して、まとめてみます。
  嘘と世辞と侮辱(2)のコメント欄
 
 
殺伐とした批判記事が多い私のブログですが、気分転換のために、過去記事からの、まとめ的なことを少し書いておきます。人間なら分かることなのですが、楽山やシャロームには、まるで通じないことであります。
 
文系の論理というのは、数学などの理系の論理とは違います。よりファジー(fuzzy,曖昧)ということですが、加えて、心を動かすかどうか、ということが正しさの問題になるのです。それは、言い換えれば、説得力、ということになります。
 
 何の説得力もない文章を、排泄のように、だらだら書き続けている偽善者もいます。
 
信仰者の活動は、世をないがしろにすることではありません。しかし、実績や、何かの役に立つとかは、願いであると同時に欲望でもあります。信仰者は、そのベースとして、神の憐れみを受けるに相応しくなりたい心で行動します。
 
すなわち、効率とか仕事量とか人気とかよりも、できることをする、という生き方になります。それが、世に仕えず、神に仕えることであり、神のほうを向く、ということであります。
 
正直な祈りのうちに、罪に気づけばそれを悔い、世俗から神へと向きを改め、生きる道を判断することになります。つまり、神を、命と人生の拠り所にするということです。
 
信仰は、結局は、キリスト信仰者である個人が決心することゆえに、キリスト信仰は、キリスト教と全くの同義ではないということになるのです。語弊があるかもしれませんが、キリスト教は組織を含めて授ける側の教えを中心とし、キリスト信仰は受ける側の心を中心とします。
 
 
聖書に書かれている、いつも讃美する、また、ほめたたえよ、というのは、いつも命を与えられたことを喜ぶ、ということが前提となっています。そうあれ、というのは、まさに、激励であります。そこを、まじないのように讃美を繰り返すべきだなどという勘違いすることだけはしないでください。
 
偽善者が相手でも、信仰の学習は可能です。偽善を学んでいるのではありません。悪があれば、その対極に善を推測する、あるいは、そのヒントを見出す、ということが可能です。偽善者の言の対極にあるものを、学習するのです。
 
心貧しさも、敬虔も、損なってしまった偽善者は、聖書の文字通り、いつも讃美しており、それが信仰だと思い込みます。そして、いつも、笑っています。
 
作り笑い、あざ笑い、ほくそ笑み、・・笑いは、いつも良いことだとは限りません。
 
信仰があるから、いつも笑う、いつも讃美する、というのは、実は、暴力的な嘘の場合があり、正直に "分かりません" と言う心を失って、自己正当化の手段として使われている、ということに気づくべきであります。
 
悲しみがなくなるのが信仰だと思い込む者たちは、不都合を無視し、好都合だけを大仰に吹聴します。そして、節操もなく讃美しまくり、自己顕示欲で教えたがります。そして、本音においては、人を憎み、神を憎み、最後には、自分を憎むしかなくなるでしょう。
 
 
悲しみを知る人は、好都合であれ、不都合であれ、神の前に正直であります。聖書においても、そのような人たちが、キリストによって、見出され、救われているのです。
 
 
おしえ

おしえ
 
 
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