ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:偽者

 
  楽山という偽者
 
 『偽書が揺るがせた日本史』原田実著
 2022年10月06日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
楽山の自己顕示欲という寄生虫は、止むことがありません。恥ずかしさを感じないからでしょう。自分が、いかに、みっともないかを、まるで感じないのです。それも自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴です。今のところ、批判を続けるほかに、対処法がありません。
 
 
*まえおき
偽書について知りたくて本書を読んでみた。
本書で偽書として紹介されているものは、巻末の索引から書き出せば、次の通りである。
アイアンマウンテン報告、上記、鵜鷺系偽書、易断資料、園太暦偽文、太田道灌自記、偽古文尚書、金史別本、九鬼文書、慶安御触書、江源武鑑、三教指帰、シオンの議定書、神道五部書、須磨記、世界の盟主、先代旧事本記大成経、竹内文書、田中上奏文、中世日本記、東日流三郡誌、椿井文書、藤苦労盛長私記、東照宮御遺訓、中山文庫、南淵書、武功夜話、富士宮下文書、扶桑見聞私記、秀真伝、松島日記、三笠文、本佐録、誘惑女神、和漢惣歴帝譜図、和銅日本紀、和論語、ヲシテ文献。
以下に、本書中で特に印象的だった箇所についてメモしておきたい。
 
宗教と思想の、真っ赤な偽者の評論家気取りである楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状として、逆に偽者について書いて言います。このように、にせものだ、にせものだ、と騒ぐことによって、真っ赤な偽物である楽山自身を、本物に見せかけたいのでしょうか。
 
 
*一夜城、誘惑女神、江戸しぐさ
まず一つ目は、墨俣一夜城である。本書によると、一夜城について書かれてある「武功夜話」は、古くから伝わる古文書という設定だが、その中には明治時代に改められた地名、昭和の町村合併でできた村名などが記されているそうだ。もうこれだけで古文書ではなく、昭和以降に書かれた書物であることが丸わかりである。
 
本物を何一つ表すことの出来ない楽山は、歴史上の出来事の真偽なら書けると思うのでしょうか。心が偽物で、正直でない楽山には、真実追求は無理なだけでなく、人の言葉を借りて、他者を偽者扱いしても空しい限りです。偽者が偽物を指摘するという悍ましさこそが、楽山が、恐怖の偽者である証拠です。
 
 
二つ目は、「誘惑女神」事件である。八十年代に谷崎潤一郎の未発表作品「誘惑女神」なるものが公表され、有名作家が激賞したりもしたが、その数年後それは偽作と判明したのだそうだ。激賞した有名作家は赤っ恥である。
 
赤っ恥から出てきたような楽山が、他者を赤っ恥という資格はありません。あらゆる言論を裏切って、なお、人のことばかり言い続ける楽山の醜さは、今後も、いっそう、見るに耐えないものになるでしょう。あらゆる真実を裏切って、後悔せず、反省せず、学習しない下種であります。関わらないでください。
 
 
三つ目は、江戸しぐさである。これは江戸時代からの口伝という触れ込みであり、文科相の道徳教材にも採用されたが、その後、江戸時代の風習としては不審な点が多いことを指摘されるようになったのだそうだ。
 
あれも偽者、これも偽者、と言っている楽山こそ、自己中で、訂正不能で、学習不能のペテン師です。書けば盛り返せると思うのでしょうか。ただただ、性懲り無い体質によるものでしょうか。反省の無いところに成長はありません。成長の無いところに真実は表れません。
 
 
*影響力
本書を読むと、偽書の内容は杜撰なものばりで、ただのトンデモにすぎず、こんなものを本気にするのは、ごく一部の物好きだけだろうと思えるのだが、実際には、それが学校の教材に取り入れられたり、それを掲げて町興しをしようとする自治体もあるというのだから驚く。どうやら偽書の影響力はあなどってはいけないようだ。
 
楽山のボロクソ節「杜撰(ずさん)」「トンデモ」が飛び出しています。偽者を言うのじゃから、ええじゃろ・・と言う気安さこそが、楽山に、何の病識も、良識も、良心も、全くないということの証拠なのです。楽山を信用するのは「ごく一部の物好き」だけではなく、心の弱い人々であります。
 
尽きることのない嫌悪と否定を、この偽善者、楽山に向けるべきでしょう。偽書と言えば、楽山のネット記事、ツイッター、楽山日記などのブログ、という履歴が、3年以上にわたって続いているのです。呆れるほどに、学習能力の無い楽山であります。
 
 
本書でも指摘されているように、偽書は何らかの目的や願望をかなえるために作られることが多いのだから、同様の目的や願望を持つ人に対しては非常に大きな影響力を持ちうるということなのだろう。
 
楽山の人生が、そういう人です。人生の目的が、大方、自己顕示欲です。中身は嘘です。にやにや笑うことと、怨念を内燃させることが、楽山の体質的です。反省につながるような、しんみりと悲しむ情感を持ちません。その偽りを、罪悪感もなく続けて、影響力をもって教祖願望でも叶えたいのでしょうか。
 
 
謀略論やトンデモ本にはまってしまったことがある自分が言うのも何だが、偽書はいつの時代もなくならず、新しくつくられ続くだろうから、騙されないように注意は怠らないようにしたいものである。
 
偽物を指摘しておけば、自分は偽物とは思われないじゃろ・・という楽山の浅ましさです。楽山の嘘っぱち記事は「なくならず、新しくつくられ続く」でしょう。だから「騙されないように注意は怠らないように」して、注意警戒して、決して近づいてはいけないのです。これもブーメランです。
 
 
偽者が偽物を指摘?

偽者が偽物を指摘?
 
 
(2022年10月09日)
 
 
 
  耐える
 
もちろん聖書
キリスト教の聖典は
手を置いたり抱いたりして
お呪(まじな)いをするための
分厚い直方体ではない
生きている間に読むべき書物である
しかし
聖書の一行に縋(すが)って生きている人と
聖書の総てを諳(そら)んじている人の
信仰に優劣が付けられるだろうか
 
いかに聖句を用いたとしても
理を蓄え
学ならしめようとして
論を振りかざすことは
とても順調な耳鳴りのようなものだ
信仰は理でも学でも論でもない
 
あるニュース
人災か天災か忘れた
突然わが子を失った母親が
まるで感情をなくしたような顔で言う
「かなしいけれど神の計画だからしょうがない」
恐らくそう教え込まれてきたのだろうが
唖然!?…
それで本当に納得しているのか
 
ある映画
フランス映画だったと思うが題名は忘れた
妻子を殺された主人公が
礼拝堂のキリスト像を
壁に叩きつけて割ってしまう
そして復讐を果たし終えた主人公は呟く
「もう…何も…」
それは喪失感か
あるいは復讐の空しさか
 
耐える
という愛の行為は
耐えがたい状況における感情
を吐き出すことなしに始まるだろうか
(感情の発散は
 詩の持つ唯一の効用と言われるが
 もちろん詩だけではない)
書くこと・話すこと
何よりも神の前に総てを
背教の念も不信仰も
さらけ出して告白したいと思う
 
神の前で背教の念など以ての外?
背教の念を抱いたことなど全くない
と言えるならそれでよい
しかし少しでも覚えがあるのなら
告白しないことは自分を偽り
神を偽ろうとしていることになる
不義を喜び真理を喜ばないで
真実に蓋をすることになる
 
人前では隠したいこともある
繕(つくろ)わねばならないときもある
喋(しゃべ)りすぎて損をした気持ちにもなる
しかしクリスチャンにとって
人から神へ訴える唯一の手段
祈りの場においては正直でありたいと思う
 
 
  (抜粋)
 
人格的唯一神はその御子イエスキリストによって、呼べば人間の持っている感性のレベルで答えて下さる神様です。人がキリストに近づくのではなく、キリストが人のレベルに近づいて下さるのです。したがってキリストとの絆は強くそして暖かい絆です。決して人間離れした超越的な感覚を要求するものではありません。
 
信仰が恐怖によって人を駆り立てるとき
その信仰は偽物か偶像である
 
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
後悔も反省もせず、楽山は、他人事のように、評論家気取りで書く続けます。それがいかに醜いことかを感じないのです。誰も相手にしなくなること以外には、楽山を止めることはできないでしょう。今日も、寄生虫の精神を満足させるために、身の程知らずを表し続けている楽山です。近づいてはいけません。
 
 
 
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  手の付けられない楽山
 
 神秘体験は経験的方法によって判断すべきこと
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
 2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、批判と反対のことを書けばいいと思っているのでしょうか。楽山の体質は、勘違い→妄想と自己中→しばしば狼狽して相手を妄信者と言う生業です。楽山が言う妄信には根拠がなく、私が楽山のことを自己愛性人格障害NPDと言う精神病質については、根拠を示しています。
 
その根拠を、病識のない楽山は、読解できないために、こちらを妄信と呼んでいるのでしょう。妄信は、自分信仰の楽山のことです。そういうことしか書けない楽山だから、ネットの言論を乱すだけなのです。楽山は、混乱に乗じて、読者に自説を刷り込もうとしているのでしょうか。
 
反省と書いて反省しない、共感と書いて共感を表していない、分かったと書いて詭弁を続ける、とほほと書いておいて、今また、反省もせず、引用元の言葉を自己満悦のために引用~悪用する、否定と思えば肯定、どちらも断定していないからと、一切、責任を負わない、それが、楽山です。
 
神秘体験を主張するのは、一部の人たちでしょう。そこには、楽山のような霊が分かるっぽいなどと言う偽者もいるでしょう。一般化できないことなのに、「経験的方法によって判断」など出来るわけがないのです。書けば書くほど、おかしさが増してくる悪魔性の病者が楽山です。
 
*経験的方法による判断
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、神秘体験は「天使と蛇」が住まう潜在意識から生じるものであるから無批判に受け入れてよいものではなく、天使と蛇どちらによるものなのかを慎重に判断すべきとしている。
すなわち、「天使と蛇」とがそこには並んで住んでいる。この領域から出て来ているということは絶対に確実な信任状ではない。そこから出て来ているものも、外の感覚世界から来ているものとまったく同じように、ふるい分けられ、吟味され、経験全体との対決という試練を経なければならない。私たち自身が神秘家でないかぎり、神秘主義の価値は、経験的方法によって確かめられなければならないのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
神秘はこの世の原理では判断できないとするのではなく、経験的方法(科学的合理的な方法?)によって判断でき、確かめなければならないとしているところは興味深いところである。
 
楽山は、狂ったのでしょうか、・・まあ、前からですね。神秘体験は「天使と蛇」というのは、まだ、お伽噺でしょう。楽山には天使の要素がなく、蛇の要素または悪魔性だけがある人です。神秘を、「経験的方法(科学的合理的な方法?)」よって確かめるのだそうです。正気ではない。
 
科学的合理的なら、それこそ、とっくに、どこかで議論され、どこかで紹介され、多くの本やTVなどメディアで取り上げられているはずです。誰からも見向きもされない楽山が、我を張るために、確かめられるんじゃ!・・と、孤独な部屋の中で、布団に顔をうずめて叫んでいるイメージです。
 
*霊言の真偽についての判断方法
ここで思い出すのは、佐倉哲氏による「霊言の真偽についての判断方法」である。
霊能者は、だれも知ることのできない「死後の世界」とか「霊界」とか「未来の世界」などについてのみ語っていれば、どんなデタラメを語っても、それがウソであることはだれにも証明できません。しかし、霊能者も人間であって、ついつい、地上の世界について喋ってしまうことがあるようです。地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます。幸福の科学の教祖大川隆法さんは、その著『内村鑑三霊示集』のなかで、内村鑑三の霊として、霊界のことだけでなく、つい、地上の世界(イエスの生誕や聖書)についても語られています。そのために、キリスト教の歴史やユダヤ地方の気候や聖書の内容についての無知が暴露し、その霊示のウソがばれてしまっているのです。
・大川隆法の霊示『内村鑑三霊示集』のウソ - 佐倉哲エッセイ集
 」
こうしてみると神秘現象はこの世の原理では分からないとは言い切れず、現実に関連した部分については十分に経験的科学的に判断可能であるといえる。
 
「地上の世界についての話なら、わたしたちは、それがウソか真実か調べてみることができます」ならば、嘘吐きの楽山は、霊能者として全く成り立たない人ということになります。自分が、本に斬られていることに、やはり楽山は気づかないようです。だいたい、こういうことが楽山の常です。
  
現実に関連した部分に限られるわけです。神秘が結果として人間に表れる部分だけです。詭弁に惑わされないようにしてください。つまり、神秘体験の中心や理路などは、謎のままです。無条件に自分を霊能者だと認めてほしいがゆえの、でっちあげであり、本態は、楽山の詭弁の誘導です。
 
神秘が本物か偽者かは、神秘が及ぼした地上の人間の有り様からも、ある程度、判断できるということに過ぎないです。つまり現象からの推測に過ぎません。楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解の凝固した人物であり、ゆえに、楽山の語る神秘は、ペテンであり、偽物であります。
 
霊言を信じる側からは、この世のことを間違ったからと言って、その霊言は偽物だとか、下等なものだとは断定できないという反論もありそうだが、この地上の事実関係ですら間違うのであれば、この地上を遥かに超えた高次元のことを間違わずに語ることができる可能性は低いとみるのが穏当な結論ではあろう。
 
事実関係、理路、節操、共感性、いずれも、楽山は詭弁以外、何も持ちません。まさに、楽山が、偽物を語る偽者だということです。自分が掘った穴に落ちてゆく楽山が、当たり前に、表してくる発言から、嘘と詭弁を指摘して、批判してきたのです。
 
つまり、「この地上の事実関係」において、間違いというより、故意の悪意の悪魔性の、妄想的自己愛の結論を訂正不能に刷り込もうとしているのが楽山であり、ここでも、ブーメランのダメ出しを食らって整わない楽山自身が「高次元を」語るに値しないことを表しているのです。
 
*信仰の義務はない!?
『宗教的経験の諸相』の著者ジェイムズは、重ねてこう断言している。
私はもう一度くり返して言う。非神秘主義者が、神秘的状態を、優越した権威を本質的に授与されているものと認めるべき義務はないのである、と。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.255)
 」
熱心な宗教信者、神秘主義者のなかには、誰に対しても神秘の権威を主張し、ひたすら信じよ、信じよといって信仰を強要しようとする者もいるが、非神秘主義者にはそれに従わなければならぬ義務はないのである。
 
何を言っているのでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山ですから、楽山こそ神秘主義者です。この記事は、神秘、あるいは、非神秘、どちらを言っているのでしょう。何よりも、愚劣な楽山に対しては、いかなる神秘も霊能も認めることはないのです。決して従ってはいけないのが楽山です。
 
神秘の権威を、遠回しに、いつも、言っているのは、楽山です。私は、ひたすら信じよ、とは言っていませんし、言っている人が他にいたとしても、楽山は、答えるすべがないのです。楽山は、自らの霊能から自己正当化という神秘?というより矛盾を、この2年間余り、振り回してきたからです。
 
これは当たり前のことだが、一部の妄信者はこの当たり前のことを理解しないのだから残念である。著者もこういう事例を承知しているから、この種のことを繰り返し書いているのだろう。
 
このように、自分が言われそうなことを、「理解しないのだから残念」と、相手に当てはめる詭弁です。自分は大丈夫という根拠を、ずっと、欠片も証明していないのです。代わりに、嘘と詭弁の卑怯な粘性のゴミをブログという丼いっぱいにネチネチさせて食わそうとしてきたのが、楽山です。
 
 
 高級な神秘体験とそれ以外の神秘体験、およびその見分け方
 (『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著)
  2021年07月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、多量の放屁が、臭いです。
 
2年余りの批判を受け取らずに、考えずに、無視して、書いて来れることが、既に、良心のない証拠であり、人を人とも思わないで、意地の悪いことをして快感を覚えるというサディストであり、精神病質サイコパスであることの証しなのです。
 
神秘を人が理解することは出来ないのに、分かっているふうを装い、その分別めいたことまで語ろうとする楽山は、演技的な悪魔性のサディストです。理解力も共感もない者が、背伸びして、学者気取りで語ると、実に、みっともないという症例です。
 
*高級とはいえない神秘体験の特徴
『宗教的経験の諸相』を読んでいたら、神秘体験には高級とはいえないものもあるとしてその特徴について書かれていた。ここにメモしておきたい。
妄想的な精神病を教科書ではときどき偏執病と呼んでいるが、これは一種の転倒した宗教的神秘主義で、悪魔的な神秘主義と言えよう。ごく些細な出来事を言いようもないほど重要なことと感じたり、聖句や言葉が突然に新しい意味を帯びてきたり、声なき声を聞くとか、幻を見るとか、指導力や使命を感ずるとかしたり、外部のちからによって支配されたりするとかする点では、さきの神秘主義と少しも変わりがない。ただ今度の場合には、感情が悲観的なのである。すなわり、慰めの代わりに私たちはやるせなさを感ずるのである、啓示の意味するものが恐ろしいものであり、力は生命の敵なのである。
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、pp.254-255)
 」
この基準に従うならば、負の感情を抱かせるような啓示、神秘体験には注意した方がよさそうではある。
 
楽山の霊能と神秘の話は、まさに、「注意」が必要というより、決して受け取ってはいけない悪魔性のものと言えるでしょう。嘘吐き楽山は、断末魔的に、いっそう凶暴になってきたようです。もっともっと、孤立してゆくように、誰も相手にしないことが大事です。
 
高級な神秘体験があるなら、低級な神秘体験もあると言うのでしょうか。低級なものを、神秘体験に入れているのでしょうか。詭弁臭いです。中には、楽山の霊が分かるっぽい体験のように、まるっきり嘘吐きの見栄っ張りもあるのだから、偽りの神秘と呼ぶべきでしょう。
 
*高級な神秘体験
では高級な神秘体験についてはどうかといえば、著者は次のように簡潔に述べている。

高級な神秘的状態は至上の理想を、広大さを、合一を、安全を、そして至上の休息を教えている。
(同上、p.258)
 」
どうやら高級な神秘体験は人の心に安らぎを与え、幸福にするものであるらしい。
 
人の心に安らぎを与える神秘は、安らぎの源として感じられて信仰の可能性があります。決して、楽山のような、孤独な神秘オタクや、無責任に無反省に災いの妄想屋のように、神秘、神秘と吹聴する必要はないのです。
 
神秘は、神秘を理解できない人間には、秘密のうちに働きかけます。ゆえに、神秘、神秘○○、などと吹聴する楽山は、その時点で、真っ赤な偽者であり、書けば書いただけ、インチキ宣伝だということ自ら証明し続けてゆくでしょう。
 
楽山は、自らの人間としての尊厳ある命を、反キリストとカルトの病質的精神で、嘘と詭弁のペテンの技に置き換えてしまった人です。楽山の記事を読むたびに、元には戻れそうにないと感じます。楽山が書いて、それを読むたびに、進歩も成長もない訂正不能で不治の病質の災いを感じます。
 
もはや、バレているのに、苦し紛れに、2つも記事を書いても、いっしょです。楽山は、インチキ神秘気取りでしかないのです。楽山から、安らぎも幸福も生まれません。この2年余りで幸いの予兆さえ全く見られず、代わりに、人格破壊の病原となることが明らかになっています。
 
楽山は、偉そうな様々の気取りを表してきました。それらにおいて、いつも、偽者でした。つまり、偽評論家、偽読書家、偽学者、偽インテリ、偽アンチカルト、偽宗教家、偽言論者、偽政治思想家、偽スピリチュアル、偽霊能者、・・と言ってよいでしょう。
 
*応用
 
楽山は、神秘を応用できるのだそうです。神秘、神の秘密に対して、何の恐れも感じていない、心ではなく、毛の生えた心臓の絶対性不整脈となっています。言葉で交わろうとすること自体が無理かつ無意味というものであり、楽山の言葉は、人を安らぎから遠ざけるヌルヌルの汚物です。
 
これらは神秘体験の分類法としてはもっとも簡便であろうし、神秘体験のみならず宗教の見分け方にも使えそうではある。高級な宗教は他との一体感と安らぎを与え、そうでない宗教はやるせなさ、恐怖などの負の感情を強く抱かせるなど。
 
楽山の語る神秘も宗教も、破壊的な疲労を与えるだけです。楽山が病質者である証明はそれだけで十分でしょう。いつまでもネットにブログにツイッターにしがみついて離れない執念は、自己愛性パーソナリティ障害から来ていて、安らぎを与えることのない惨劇であります。
 
神秘・宗教の正邪について、自分の情感だけで断定してしまうのはいささか安易にすぎるきらいもあろうが、それでもこれは一つの目安としては有効ではないかと思う。
 
情感のない楽山が言っています。楽山は、知情意が一体となっていることも知らないのでしょう。当然、思考も整わず、思いつきを語る以外なくなっている楽山です。今回、多量の放屁です。真実の追求においては、「目安」どころか、邪魔でしかありません。
 
ゆえに、安易な思い付きしかない幼稚な楽山は、個人の愚痴か秘密として、秘密のノートに書いて、死ぬまで独り笑いで満悦してください。今回、多量の放屁です。真摯な信仰者にとっては、惑わしとなる悪性によって、非常に迷惑です。
 
 
 
キリストは、処女懐妊とか、数々の物や肉体の奇跡とか、復活とかの、超常物語の主人公ではありません。それだけなら、心に響くことも、共感できることもなかったろうし、人の心に神の愛を伝えることも出来なかったでしょう。つまり、新興宗教に過ぎなかったでしょう。
 
キリストは、知る限り、最高の、人を見抜く洞察力、人に対する共感を持ち、そして、神の愛について最高の理解を知っておられました。そのことを抜きにして、キリストを語ることは、決して出来ないのであります。
 
決して、楽山ごとき半端者に、云々されるような御方ではないのです。
 
 
偽者が狂い出す

偽者が狂い出す
 
 
(2021年07月19日)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
鏡を震わせ抜いて
しきりに白髪を流す
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみに向かって
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
 
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
(90年代か)
 
 
 
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