ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:全知全能

 
  神様がしないこと2
    2013年02月25日の記事を再録+
 
 
相当に昔の記事の再録+必要なら修正・・ということです。
 
全知全能の神がしないことは何でしょう。最初は、「出来ないこと」という題でした。罪を認めず、悔い改めないで、かつ、傲慢な人は、救いを求めていないので、救われないでしょう。しかし、これは、必然か、裁きであっても、出来ないこととは言えないので、「しないこと」に改めました。
 
 
全知全能の神を創造すること。創造できたとしても、どちらも全知全能ですから、意思も判断も行動も同じになる。それは唯一神と同じことです。神は唯一であると同時に総てであるという言い方も出来るかもしれません。三位一体も、そういう受け取り方をしています。
 
 
全知全能の絶対者である創造主、神は、御自身が造った人間を含めた被造物を壊すのに、これこれこういう訳だからね、云々と、いちいち説明する義務はないのです。
 
これには例えば、
聖句「神は生ける者の神であって死者の神ではない」は、生ける者に対してだけ発せられた言葉であって、神は全知全能の絶対者であるから死者も統べられる。ただ、どう統べられるのかは、地上では、分からないということだろうと思います。
 
ゆえに神は、人知を超えて、死者を含めて、すべての者を救う・・ということが言えそうに思われます。つまり、死は、壊されることではないのかもしれない、とも思います。しかし、このことに、地上での完璧な理解と説明は存在しないと思います。
 
死者の救いについての推測や想像としては自由ですが、それを結論や確信とすることは、これこそ生きている間が全てとしか思えない人間性から乖離して、人に分かりもしない神の意志と行為を、人が人知を超えて結論付ける、という、神の領域への、成り立たない越権行為と言うべきでしょう。
 
神の救いは、完全には、地上の人には理解できないのです。人には、神がすべての人を救っているとは思えないのです。神の幸いならば、キリスト者は、既に、潤い、温もり、共感、愛として受け取っていると思います。それは、絶対孤独からの解放という救いとして、人に起こります。
 
神への想いから離れられない人を、キリスト者(クリスチャン)と呼びます。
 
 
聖書を読むことも、聖書を文献的考察や歴史的背景から、また文脈から考えることも、一言一句を文字通り受け取ることも、神や聖霊について「感じた」「聞いた」「癒された」も、人の直感や霊感も、人の側の信仰の受け取り方、即ち、解釈に過ぎません。
 
私たちは、私たちの心で、言葉も、御言葉も、解釈して受け取っています。そして、生き方を判断し、努力し、生きています。
 
神の業(わざ)を、人が確認する根拠は人の側にはありません。人の確信は、神については不可と考えます。即ち、信仰は、確信ではないということです。
 
原初の信仰から原罪を覚え始めながら、信仰の言葉がどう生きてくるかを考え悩みながら、人である信仰者(キリスト者、クリスチャン)は、決して神の確信ではなく、罪深い心からでも、神への深い想いによって生きるのです。何が救いか分からないところで導きは進行しています。
 
キリストを好きになった原初の信仰から、すでに罪深い思いでした。しかもそれは絆(ほだ)されるように、否応なしに、私の自由意思を左右したように思えることがあります。
 
キリストは、赦される罪と、赦されない偽善を、区別しました。聖書には、神によって全ての人が救われるのではなく、キリストの敵となりキリストを殺した偽善者が赦されないことを伝えています。しかし、罪が赦され救われるためには、正直に祈ることだけが、必要十分条件であります。
 
今の時代にも、反キリストが、あざ笑いと、偽善と、幼稚な詭弁と、虚言をもって、言葉だけ丁寧に丁寧に、神を否定し、信仰者を侮辱してきます。彼らは、不正直で神を侮ることをもって、救いからは外されるでしょう。
 
しかし、信仰者ではなくても、神が、良心のある人を選んで、信仰を通さずに、何からの使命を与えることは、否定できません。救いの可否は、信仰の有無だけではないような気もします。
 
私は、自分の信仰観をブログに書いています。私という人間の意見に過ぎないので、訂正不能ではありません。もっと良い考えがあれば、感動とともに、修正するでしょう。30年以上、何度考えても、他に考えようのないことがあり、そこが変わることは考えられないので、書き続けています。
 
つまり、信仰は、訂正不能ではないけれど、変わることのないところ、変えてはいけないことが、やはり、あるだろうとは思います。そこを、外してしまうと、もはや信仰ではないようなことがあるのです。信仰は "愛" と同じことですから、言葉で完璧に表すことは出来ないのかもしれません。
 
 
絆される、絆

絆(ほだ)される、絆(きずな)
 
 
(2013年)
(2021年12月14日、再録+)
 
 
 
 バカとモンスター
 
いかなる道を選んでも
 
集団や組織の中で
しきたりや規則に染まりながら
(マニュアルは指針であって心ではない)
いずれ競争を強いられ
慣れる人もいるだろうけど
 
たとい孤高を目指しても
孤高は孤独な孤立なのだが
 
いかなる道を選んでも
 
論理に身を投じる人は
論理つまり理屈だけだと
人間離れしたモンスターになるから
論理バカを自覚することが救いになる
 
情緒に身を投じる人は
情緒つまり感情だけだと
感情的なモンスターになるから
情緒バカを自覚することが救いになる
 
「バカ」が
とても人間的ならば
 
専門は
専門バカを自覚することによって
改めて我に返り
人間に戻れるだろう
 
「バカ」を忘れて
専門の権威を自負するようになれば
「権威」というモンスターになる
 
「バカ」を自覚する人
自覚せざるを得ない人は幸いであり
 
自覚しない人と
自覚してるつもりだけの人は
災いであります
 
論理でも情緒でもなく
人間であること(ヒューマニティ)から離れず
人道からの道理を求めて止まない経過と結果が
たとい路上でも小屋でも豪邸でも
呆けた口笛のの自由な散歩だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
 
 
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  老化・・聖書抜粋2
 
   旧約聖書は、神と人の違いと関係を表しています。
   分かりやすくて情感に溢れる聖句を引用しておきます。
 
   誰かのために祈るとき、母のために祈るときでさえ、
   まるで遺言のように祈っていることがあります。
   
   人は、神の性質であるところの全知全能・絶対完全・永遠不変が
   成り立たない被造物です。
   限りある存在として、人は、悲しみのうちに救いを求めます。
 
詩篇22:1
わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
 
詩篇31:5より
わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。
 
詩篇39:4-6より
主よ、わが終わりと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命のいかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。
 
詩篇49:7
まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
そのいのちの価(あたい)を神に払うことはできない。
同10-11
まことに賢い人も死に、
愚かな者も、獣(けもの)のような者も、ひとしく滅んで、
その富を他人に残すことは人の見るところである。
たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、
墓こそ彼らのとこしえのすまい、
世々彼らのすみかである。
 
箴言30:8-9より
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。
あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
イザヤ書46:4
わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。
 
詩篇56:8より
あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋(かわぶくろ)にたくわえてください。
 
詩篇119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
 
 
 
テレビとPCの画面はHD画質できれいなはずだけど、視力が衰えてきたので、だんだん違いが分からなくなっている。テレビだけでなく、時々視界の一部がちらついたり揺れたりするように感じることがある。まだ生きているという幸いは何なのだろう。
 
視野の歪みや欠損を脳が補って、一見まともに見えるように脳が作った映像を見ている。それが今の視界に他ならないのだから、他のもっと良質な世界を見ることはなく衰えて見えているであろう視界が総てになります。その世界で考えて、できることをして、生きて、・・わりと、のんき・・。
 
 
詩篇と老境

詩篇と老境
 
 
(2014年09月05日)
(2021年11月20日、再録+)
 
以上の旧約聖書の聖句は私のお気に入りなので、新約聖書の聖句もたくさんあるけれど、これからも再録するかもしれません。
 
 
 
 
  届かない老境
 
ひたひたと波
寄せては返す
老いの湖
浮かべるものはなく
自ら浮かぶ
注ぐものはなく
自ら湧き出づる
老いの泉
もはや何も持たぬゆえ
あげるものは
この姿だけ
写し取っておきなされと
老いの都
買うものも売るものもなく
あらゆる代価は水の泡にも値せず
家もなく道もなく
ここが家ここが道
よそよそしくも安らいで
眠りの中に起きている
その語らいは
よほど深い皺(しわ)を
河にでもしなければ
たどり着けない
老いの里
 
 
  無人の駅
 
迎えるためか
見送るためか
無人の駅のホームで
一人の老人が待っていた
 
ここは廃線が決まっていた
すでに汽車が通る予定はなかった
人にそう言われても
「だから行かなければ」と
老人は毎日
一人で立って待っていた
 
廃線が決まってからまもなくだった
砂利が敷き詰められた
もう線路はなかった
人にそう言われても
「だから見つけなければ」と
しゃがみ込んで老人は
まだ待っていた
 
かつて駅だった空き地
子供たちが遊んでいる
老人の姿はない
隣接した国道にバス停
バスが着いた
「セイリケンヲオトリクダサイ・・・」
 
駅とは呼ばれない崩れた廃屋
ホームとは呼ばれない潰されたコンクリート
埃にまみれた瓦礫や板の中に
伝言板らしきものが落ちていた
「コクウ ニテ 」
読める字はそれだけだった
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
楽山が記事を書き、その大方に、私が批判記事を書き、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
 
 
 
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  理解すること2
 
 
理解することは
辻褄を合わせることではない。
辻褄合わせは多く自分に納得を強いて
分かったという思い込みに至っている。
恐ろしいことに
それを自慢する者さえいる。
 
理解は辻褄を超えたところにあり
情緒的解放感を伴うゆえに
そこから活力と説得力が生まれる。
 
 
同じ言葉を言っても聞いても
心にあるものも受け取るものも
人と時と状況によって
特に学習と経験によって違ってくる。
 
ゆえに
理解するために説明するために
同じ言葉を繰り返せばいい
ということはあり得ない。
 
あるとき感動しても
次に同じものを受けたときは
感動したという記憶の知識になっていることが多い。
 
理解は心を揺さぶられる
という情緒的反応を伴う。
当たり前ではなく
気安く再現できることでもなく
辻褄合わせでもない。
 
知情意は分けられない。
分からない副惨な心を
便宜上、言葉で分けているだけだ。
 
多くの場合
辻褄が合うと分かったという。
数学ならそれでもいいように思われるが
初歩的な数学でも
整合性が分かっただけで嬉しいことがあるのは
そこから広がる世界があるからだ。
つまり数学においても
解放されて世界が広がることを理解と言う。
 
理解しなければその問題と答えを覚えるだけになる。
最悪なのはそれで理解を装うことである。
 
数学でなくても
理解は解放感という情緒的反応を伴う。
 
 
無自覚の無理解は
辻褄だけにこだわり
同じ言葉を繰り返し
感動、理解、驚き、分かった、よかった
などと言うだけで
反省、トホホ、などと卑下しても見せるが
文脈の中の言葉の無味乾燥に気づかないで
殆ど呪文を自慢している。
そして負けないために
だます手口だけを覚えてゆく。
 
 
数学は3次元以上が無理で学者になれず
国語は読書障害の傾向があって読書家になれず
絵画は遠近感覚が乏しく
音楽は楽譜の読み書きが全く出来ず
さらに寄る年波で健忘が激しくなり
対人関係が苦手で鬱も統合失調も怖くて
狭い部屋の中で独り言の多い私はどうしたらいいのか。
 
無理解を自覚するしかない。
出来ないことは出来ない。
知らないことは知らない。
分からないことは分からない。
 
死ぬまでは生きているのだから
理解しているつもりの
理解していなければならないはずの
ただ一つのことを求めて
細く細く感じて
狭く狭く考えている自覚のうちに生きる。
 
これも一つのワールドで
病と傷と欠点の多い心で出来ることをしている。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:41-42、新約聖書)
 
妹のマリヤはキリストにベッタリで、キリストを持て成す家事を手伝わないものだから、姉のマルタは、何とかしてくださいみたいに、キリストに言います。その時の言葉ですが、マリヤを褒めるためではなく、マルタのために言っているのです。
 
キリストが来ているのだから、マリヤのようにキリストにベッタリくっついていることが信仰だ、と言っているわけではありません。それぞれに、性格の違いがあり、求めるものの違いもあり、人によって違うところを、キリストは見抜いて認めているのです。
 
マリヤは一途にキリストのそばにいる、それでいい、マルタはキリストを持て成そうと努めている。キリストは、それを承知の上で、それでいいけど、ご自身のもてなしのために、そんなに思い煩わなくていいと言っているのでしょう。
 
家事を手伝わず、キリストのそばにくっついていることが、信仰に反するなら、キリストご自身が、マリヤに注意するはずです。マルタは、思いわずらい、心をいためているので、そこに気づかないでいるから、責めたのではなく、キリストは、諭したのです。
 
思いわずらうことなく、できることをするのが、信仰だと思います。私にとっては、できることの範囲が、とても狭くなっています。
 
 
文章の内容を理解するということは、人の言うことを信じ込むことではなく、自分の人生に解放感と活性を与えてくれる言葉に出会うことです。
 
 
(2020年08月10日)
(2021年10月02日、再録+)
 
 
 
人は、神の全知全能の詳細など分かってはいません。しかし、個々の場合において、それを想うことは出来るでしょう。それは、神の全知全能は、人が全知でも全能でもない不感残な存在であることを知るための、節操の理路となり、心の弁えとなるでしょう。
 
神は全知全能だから、既に、一人一人が、何を思い、何を悩み、どういう罪を犯したか、既に、ご存知のはずです。罪を犯さないように守ってくださるという信条は、人の心情であって、現実的によって否定されてゆくでしょう。信仰を得ても、私たちは、皆、罪人であります。
 
誰もが、失敗し、うなだれ、罪を抱えてしまうのです。そこに信仰の恵みとして、祈る機会として、救いがあると思います。ゆえに、全知全能の神は、人が、正直に祈ることを待っておられると思うのです。神を裏切らないということは、罪を犯さないことではなく、正直な祈りを捧げることです。
 
(2021年10月02日)
 
 
正直だけが理解に至る道

正直だけが理解に至る道
 
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのでしょうか。
 
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれません。
 
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなります。
 
しかし相手が神様となると事情は違うでしょう。
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持ちます。
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もありません。
 
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分です。
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるでしょう。
 
 
  霊
 
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まるのみだ
私の思いは私のもの
私の体は私のものと
私が幾度それらを捨てようとも
霊は魂のうちに語らない
ただ思いのうちに留まる
捨てれば捨てる思いのうちに
空しければ空しい思いのうちに
私が思う
時が短くても長くても
そのあいだ私のすべては
私のものではないかのように
 
 
 
 
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  神と信仰メモ
 
  PCの調子が悪いので、今回は、短い記事~メモです。
 
 
なぜ、神の存在を信じる人がいるのでしょう。
 
この地上には、どうあがいても、自分の思い通りにならない悲惨なことがあるからです。しかも、いつどこで、生まれても生きても同じだろう、と思うに至った者がいる、あるいは、いたからだろうと思います。
 
そうして、今は、どうしようもない地上の汚れのうちにいる人の目には、隠れて見えないが、悲劇の背後には、総てを統べる摂理の存在が、完全なる真・善・美を携えて、同伴して見ておられ、無視してはおられないが、その御方には、われわれとは別の、我々が今考えても分からないような、計画があるのだろうと思うに至ったのでしょう。
 
信じる人は、決して、いちゃもんのような、自分勝手な欲望に都合よく当てはめて決めつけたのではなく、生きるために悩み苦しんだ結果として、絶対者を必要とし、望んだのだろうと思います。その凄みが、神という存在を、今に伝えているのでしょう。
 
そこから、人を理解しながら、人を超えている存在として、全知全能・絶対完全・永遠不変の存在を、固有の「神」という名で呼ぶようになったのではないかと思われます。即ち、神は、その名で、人が呼んだとき既に、人に解明できたり、存在や不在を証明できるような、安い存在ではなかったということです。
 
その存在を知ることは、不思議が起こらなければ直ぐ離れてもいいような、物や肉体の奇跡ゆえではなく、人間の心の深みに残るだけの、人間にとって、いちばん大切な、共感の同伴というあり方をもって、人の心に消えようもなく残ったゆえに、人々は、信仰の救いと呼ぶようになったのでしょう。
 
これだけ知っておれば、神という存在を、人間が自らの限られた有限の存在世界から、自らの持ち合わせた人間の安易な理屈だけで、限られた人生で見聞きした知識の範囲だけで、それこそ超常のホラーとの闘いのようなフィクションの物語におとしめて、机上の辻褄合わせだけで、神?は良いとか悪いとか、いるとかいないとか、決めつけることが、いかに、的外れであるかが分かるでしょう。
 
信仰は、善悪を判断する道徳ではありません。美醜を判断する美学でもありません。正邪を判断する正義の軸でもありません。全能者が、全能者のあり方で、神の前に正直な人を救うために、人を愛するために、存在することを告げているのです。
 
真善美が一体となる完全なる神が、寛容と慈愛と共感をこめて求めるのは、人間には届かない真善美の完全ではなく、完全なる神の義でもなく、ただ、神の前で、精いっぱい正直な祈りの告白だけで、不完全な人が、良しとされて生きるための信仰の義であります。
 
 
恵み

めぐみ
 
 
※ 
 
宗教にも無宗教にも非宗教にも反宗教にも、実に、嘘の、詭弁の、誘導の、印象操作の、鼻の曲がりそうなインチキの安い屁理屈で、神に、いちゃもんをつけて、人間の良心から神の存在に気づく直感の道を妨害しようとしている者がいます。
 
彼らは、神という存在を、そして、信仰を、安っぽい理屈で、揶揄したり、おとしめたり、侮辱したりしますが、彼ら自身には、何を解決する力量も、誰を救う力量もないのです。文句だけが執拗な彼らこそ、この地上のホラーであります。
 
 
信仰者は、超常からのお告げかどうかを知らされることはなく、信仰者が安穏に暮らせるとは限らないこの地上で、人間として正直に反省し成長する意志をもって努めることで、いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 
(2021年01月18日、同日一部修正)
 
 
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