ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:共感

 
  信仰は3
 
 
信仰は史実に依拠しません。史実であってもなくても、聖書によって信仰は生まれるからです。
また信仰は出来事に依拠しません。
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しません。
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠します。
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要です。
与えられるのは人間らしい温もりと潤いに相応しい道です。
 
決して安穏の保険ではありません。
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ、人が云々できることではありません。
 
人は、未来という未知へ導かれ、守られる身であるのに、史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど、依拠するところの概念だけをご本尊のように守ろうとするでしょう。そこには、温もりと潤いが欠けてゆきます。
 
奇跡に反するものから目を背けるような、
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
戒律とタブーと侮辱を人に当ててしまうでしょう。
 
これが信者から猛者へと変質して、信仰という名をかぶった思い込みの確信であり、信仰者という名をかぶった無資格超人気取りであります。
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず、計りがたい神の意思に委ねるほかはない一人の人間の在り方であります。
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思が分かるという思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び、またそのために選ばれた者であります。
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠します。
 
 
 
信仰者である人は、へりくだる姿勢を持ちながら、ときに神に訴え叫ぶことがあります。ときに疑問を言ったりもします。叫びは、嘘の世辞の讃美言葉と違って、祈りとして真実性があると思います。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となるからです。
 
神に対してだけは、正直な心をもって、甘えるように、叫ばないと生きていけないことがあります。だからこそ、甘えであることを自覚していなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、神に対する正直な自覚を失った人の姿です。それは、神が自分にとって都合よく働いてくれる、という、神を恐れず、神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して、甘えの中に、むしろ溺れている人の姿なのです。
 
神に甘えるとは、都合の悪い本音を隠さないことであります。本音ではない遊びの甘えは冒涜です。本気でなく、自分の都合に合わせて神を恐れない者ほど、神を讃えます。これは、一部ではなく、私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。悔い改めは、改めて正直に祈ることであり、信仰者の不可欠な務めであります。
 
キリスト信仰者を、間違っても超常に生きている人などとは思わないでください。超常ばかり語ることは信仰から外れてゆく方向です。超常は分からないという分別こそが信仰の姿勢であり、神に任せるべきものを弁えている態度であり、神を恐れる信仰に、必須の、そして、相応しい弁えであります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、「神を恐れよ」を自覚し直すことになるでしょう。そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
キリスト信仰は
神の全能への恐れを知り
キリストの
人への共感と愛に依拠する信仰です
 
 
恐れと共感の道

恐れと共感の道
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月07日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
会員だった頃、伝道の取っ掛かりにしようと思って、荷物を幸福の科学の袋に入れて、友人宅を訪ねたことを思い出した。
袋に印刷された「幸福の科学」の文字を見て、
友人の妻「幸福の科学ってなあに?」
友人「バカ、そこに触れるな!」
伝道は始める前に中止となりました(笑)
午前11:21 · 2021年5月3日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389042455228542976
 
HSを揶揄しています。そして、キリスト信仰をも、ろくに知りもしないで、同じように無根拠に批判して、悪名と不幸を広めています。楽山の批判は、多く「(笑)」付きです。宗教もカルトも、恐らく、有名人も学者も、楽山にとっては、「(笑)」に過ぎないからでしょう。
 
キリスト信仰について、何も分かっておらず、アニメと同じように、無反省に無責任に話のネタにしてくる楽山には、人が傷つく、人を傷つける、ということも、何も分かっていないと思います。
 
楽山は、不幸の我執の伝道者というより宣伝者です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のネトウヨが「バカ」を連呼しながら、今日も、ネットという街宣車に乗って来るようです。しかも笑いながら。
 
楽山の、こういうツイートこそ、そして、楽山ブログも、始める前に中止してほしいのです。楽山には、あらゆる正義について、あるいは、あらゆる悪に対する批判について、語る資格はありません。
 
 
 
 2021年05月03日
 大川隆法とバッハ
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
  を批判
 
楽山は、 YouTube から、ORと、バッハを、並べています。その意図が明らかなのに、書いていません。責任を負う気のない卑怯者のやり方です。楽山が記事を書くという行為は、このように、いつも卑怯で、作為的です。厚顔の武装面でしょうか。
 
自分の言動がボロクソになっている状況で、人のことばかり書いてくるというのは、どういう神経でしょう。それこそ、カルト教祖の妄想状態でもなければ出来ないことだと思います。鉱物的体質の鉄仮面なんでしょうか。それとも、皮がむけてヒリヒリするような赤裸の時空を持っているのでしょうか。
 
 
*大川隆法の音楽
 大川隆法の作詞作曲した歌を聴いてみた。独特の個性があるので、人によって好悪は分かれそうだ。
・「ウィズ・セイビア 」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:大川咲也加〉
・【デジタル先行配信中!】「水の革命」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:恍多-kouta-〉
 
「人によって好悪は分かれそうだ」・・責任を負いたくないために、楽山は、曖昧に言います。責任逃れでないならば、なぜ、曲をブログに載せ、かつ、バッハと比較するような構成になっているのでしょう。
 
 
*バッハ
宗教音楽というつながりで、なんとなく、バッハを思い出したので聴いてみる。やはり、いつ聴いても切なくなる。
・バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス
・J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない?]
 
私は、音楽は苦手ですが、楽山は「いつ聴いても切なくなる」と書いています。つまり、比較の意図は明らかなのですが、上2曲と比較させながら、比較については避けているのです。主張の責任を負う気などないからでしょう。
 
こういうやり方は、今までの楽山の言論を象徴するかのようです。断定していなければ責任はないというのが楽山の思い込みですが、ブログでも引用でも発言し公開した時点で、言論の責任は発生します。
 
責任を意識することで、反省と学習が可能になります。それをしたくない、また、できないのが楽山です。自己中と自己愛によって、いつも、偏向した主張をしてきますが、責任を負わないというのは、楽山が、いい加減な、趣味程度にしか、マンガ程度にしか、宗教を考えていないということです。
 
楽山が、そういう無責任であるならば一人前の人間ではないということであり、一人前の人間がすることである他者への評価について書くという資格はないのです。
 
つまり、楽山は、自分は言いたいように言うけど、質問するな、批判するな、ただ褒めろ、と言っているようなものです。こういうことが通ると思うのは、楽山が、自己愛性人格障害という病気だからです。いつでもどこでも通用しないことなのに、楽山には、それが分からないのです。
 
ゆえに、楽山においては、不祥事や失敗の時に、楽山に向かって、"あんた、あの時ああ言ったじゃない"、と言っても無駄だということです。つまり、批判者失格です。
 
こういう人を相手にしますか、こういう人が何かを良い方向に変えるでしょうか、ないと思います。何故なら、大事なときに、まるで当然のように、平気で、真っ先に逃げる人だからです。実のない人生を送ってきた楽山の、下種ぶりが続きます。今日は、節操もなく失禁するのは大人ではないのです。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じないですね。
なにをされても、正しく導いて頂いている、救いを頂いているとし、もしそう思えず、感謝できなければ自責の念を抱いてしまう。
カルト信者にありがちなこと。
引用ツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 2時間
相手が少しでも「責任」を感じるなら、攻撃者としては攻撃しやすくなる。(例えば、攻撃者がケガ人や病人である場合、そしてあなたが「責任」を感じている場合、あなたはその人の「要求」を、攻撃とは感じにくいかもしれない)
 」
午前8:03 · 2021年5月5日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1389717452410408961
 
「教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じない」・・楽山も、教祖になって、そうありたいのでしょうか。批判されなくて済むから。
 
しかし、言うまでもなく、無反省、無責任では、教祖どころか、まともな知性と感性を持った人間ですらないのです。楽山は、結局、良心を裏切った報いを受けるだけです。
 
楽山が「少しでも「責任」を感じるなら」批判は別のものになったかもしれないが、現実には、真逆ですから、楽山の望むことが少しでも叶うようであってはいけないのです。
 
別のことを言っているつもりでも、楽山の潜在的な欲望は、書き癖や言い回しに表れてきます。本気で考えて必要だと判断して言うことと、趣味的に考えるだけで言うこととは、違ってくるのです。
 
楽山は、自己中と自己愛が育てたところの、うっとうしいカビサビの世界に棲んで、そこから発信しているので、これからも、自分の言葉に、そして、引用した言葉に、斬られる結果になります。(カビ=黴、サビ=錆)
 
楽山をアンチと思わないでください。楽山の考える宗教は、超常とか霊とかの話ですから、これは、基本的にカルトの発想と同じであります。ゆえに、楽山は、実際にはカルトと区別できない本質を持っていて、今は、アンチのように見せかけているだけです。
 
楽山が、現実問題でカルトを批判しても、宗教はこうあるべきという考え方では、カルトと同じ種類の、空想的な立場しか持っていません。この3年間、楽山の、反省せず、批判を無視する単方向性に、如実に表れてきたことです。
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された

誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘を吐き、それをごまかすために、また、嘘を吐く。理路の代わりに、詭弁の迷路を用意して、異常な疲労をもたらしてくる。そして、すっとぼけた顔で、謙虚芝居をする。そして、ツイッターを非公開にして、秘密結社でも作るつもりでしょうか。恐ろしい楽山の、”へのへのもへじ”が始まるようです。
 
(ネットより)
へのへのもへじとは、日本の古くからある顔文字であり、かなり古いアスキーアートである。簡単に覚えられ、文字を変えるだけで様々な表情を生み出し、フリーハンドでも楽に描けるため、子供たちからの人気は計り知れない。
主に学校の落書に用いられる他、漫画やアニメでは、表現してはいけない顔(別作品のキャラ等)や、どうでもいい端役キャラにこの顔が用いられることがある。ライバルに、つるさんはまるまるむし、小さなコックさんなどがいる。
へのへのもへじ
 
私は、ネットを、96年ごろから利用していますが、楽山ほど、程度の低さにもかかわらずインテリを気取り、かつ、そこに、生き甲斐でも見い出したのか、しがみついてくる愚か者を、他に見たことはありません。言ってること全てがペテンです。本性は、ネズミかゴキブリのような害毒なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 
 

 
  神について語るには4
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが、神という御方を考えるとき、全知全能の神については、私たちの概念の箱には到底納まらないということを先ず言いたいのです。神と聖書について人間が持つべき箱は、修正可能な分かった "つもり" と、分からない保留の箱だけです。
 
したがって、「神」を概念や観念として言葉で考えることは、無理すれば、人が全能者を扱うことになり、教条主義という罠に堕ちるでありましょう。最悪の例を、一人は10年、もう一人は3年、批判しています。全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ、全能ではない人が、神の概念を語ることは困難であり、語るにあたって、少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのかということになりますが、恐れを持つということは、語るなということではなく、語る内容を言葉で決めつけてはいけないということです。どういう姿勢で神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく、導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど、神が人に及ぼした作用の、人における経過と結果から、推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、導きを受けた人のことを語ってもよいし、そういう人の様子や経緯から推測できることを語ってもいいでしょう。神そのものは、人によって捉えられるものではありませんが、神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については、人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから、人が聖三位について語るとき、最も多く語れる対象はキリストであります。人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については、なお人間の理解の届かないところにあります。キリストについて、物や肉体の奇跡を追いかけて、魔法使いの言行録みたいに語ってはいけないと思います。そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと、キリストが救った人々との交流から、救いとは何か、キリストが批判した人々との遣り取りから、救われないとは何か、こららのことを学ぶことは、決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで、自分に、そして人間関係に、さらに思考や感情に、そして人生に、どのような変化があったのかを語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの、信仰がどうあるべきか、信仰者がどう生きるべきか、などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として心が揺さぶられることは、キリストからの愛に、そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて、総じて、導きは祈りに帰してゆきます。祈りは、その日までの経過であり、その日からの出発点なのです。
 
 
神様のことは、徳の高いお爺さんか先生がいるから話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから、会えば分かるわけでもないのだから、会って直接話を聞ける相手でもないのだから、信仰者は、善の代名詞みたいに気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように、自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして、形容だけ大袈裟にして、大真面目を装って嘘を吐いて、神の意志と行為を決めつけてよいわけもありません。
 
神聖について、人が持つべきなのは、確信ではなく、恐れであります。
 
人に起こることというのは、聖書からだとしても、よく語られる超常話が人を救うのではなく、つまり物や肉体の奇跡ではなく、人間であれば理解できるような、人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか、人間に共感できることだけが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが、聖書にはたくさんあります。そこに価値を見出した人は、理解できないことや疑問や矛盾は、人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は、自らの経験と思考の届きうるもの、すなわち、人間であれば理解できること、共感できること、それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは、こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ・・すごぉい!・・というような、奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく、主イエス・キリストが思いを共にして下さるという孤独からの解放を、人間らしい温もりと潤いの心で、聖書から学び、考えて、伝えてゆくことなのです。
 
ここでいう学習とは、聖書を読み、心に響いたことを、体験において考えてゆく作業であります。それは、その人の生き方の問題であり、人間関係の問題であり、人間とは何かという問題になります。キリスト信仰は、それらを、道徳としてではなく、良心の生き方と在り方して学ぶことなのです。
 
 
共感と学習の道

共感と学習の道
 
 
(2019年、2020年、2021年)
(2022年04月28日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの
神への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事なことだと分かっているなら、いつでも、反省は出来ることなのです。それをせずに「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」などと言っているのは、反省する気のない者か、反省ということを知らない者でしょう。育たなかったのでしょうか、反省と学習の精神が。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 
 

 
  受け取るべきこと2
 
 
Q.
 
キリストは
いわれなき罪のために十字架につかれました。
パリサイ人たちは悪い奴です。
彼らが憎いです。
 
A.
 
何を言っている。
キリストを殺したのは私たちだ。
そうあってはならないから
キリスト者は祈っている。
 
そのことを、神は既にご存知であるのに、どうして、信じることを、分かっていることにしてしまうのか。信仰者は罪深くて不完全であるのだから、神の前で、知っている、分かっている、見えている、守っている、・・これらは、信仰自慢である。分からないという正直さを、神の前で持つべきである。
 
 
キリストの言行録で、私たち人間が感動できるのは、キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。何度も言ってきたことですが、物や肉体の奇跡の話は、驚きこそすれ、今の時代、物や肉体の奇跡は滅多に起こらないという現実があるのだから、信仰の中心にはなりません。
 
数々の奇跡のみに注目して、いつか起こる、いつか起こると、物や肉体の奇跡ばかりを祈り願い待ち望んで、それで人生が終わるのがキリスト者ではありません。魔法を願って思考停止することを、神は人に求めるでしょうか。神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において、考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。奇跡の話ばかりして讃美しまくり、信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視している者を見ると、人格を自ら破壊して、まるでケダモノのような卑しさを感じます。
 
物や肉体の奇跡は、人間にとって、わけのわからないことです。即ち、真似のできないことであり、心掛けようのないことであり、誰でも与えられる恵みとして期待するほうが無理ということです。努めようもないことなのです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など、守れもせぬ教えを、できるだけで守っている気分になっていると、旧約が伝える神と人の絶対的な違いや、新約が伝える神格が人格に与えるものを、疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂あるいは心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの洞察と共感(=愛)である。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよい。
 
キリストの愛と洞察と共感を受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるだろう。
 
このことは人間という存在を考えるとき
必ず、思い考え、さらに憧れてよいことである。
どうしてそのことに心を砕かないのだろう。
 
物や肉体の奇跡のことは
御心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはない。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
教えや聖句について
今の自分の受け取ったと思うものを
固定するべきではない。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきだ。
いつか本当に分かって感動するまでは
というより地上に生きている間は
理解が腐敗することのないように
訂正不能にせず、保留にしておくべきだ。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀ではない。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ない。
心は、揺らぎ、移り変わり、場合によっては腐敗する。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
風を追うようなものとは、私たちすべての人のことである。
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかである。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがない。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に方向付けされるだろう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
もし心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
主の御名によって祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈り)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
今は亡き父とおばちゃんたちが安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
(※ 御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。)
 
 
祈り 音信

祈り 音信
 
 
(2020年03月10日)
(2022年03月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
からっぽになりたいです
 
 
  涙
 
暗幕の下に賑わう目と目
代価を払って買った涙
計算機は壊れない
ガラスは割れない
安心して夢見る少女
愛情を運ぶトラック
何の保証もなく
世の中は便利になった
 
唇に青い瞳を
真昼の星に輝きを
汗をまき散らして変転する太陽
耐えた腕が鳴らす独裁
 
別れたのは父と母であったか
妻と夫であったか
親と子であったか
結ばれたのは残された国境
未来への合唱と
泣きながら遠ざかる沈黙
 
ビルの窓に反射する
まぶしい笑いと
人波の上に
今日も
代価を払っても買えない涙が
 
 
  これで息
 
ごはん炊いて
ラップに包んで
冷凍する
これで数日は息抜きできる気分
 
悪いこころ集めて
これこれと反省して
お祈りする
これでしばらくは息吹き返す気分
 
悲しいこころ集めて
じっと乾く涙を待って
目を閉じる
これでほんの少し
ため息つける気分
 
良いこころ集めて
あれこれと考えて
わからないと気づく
これでこれからも虫の息
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
嘘と詭弁で妄想を刷り込んできて、人を偽りでだましてきた罪を、「反省。とほほ」と言い、ここでは「一種の、人間の性」で済まそうとする楽山を、許してはならず、赦してはならず、放置してはならず、同じことを続けさせてはならないと思います。
 
楽山は、悔い改める日は来ないかもしれません。しかし、私たちが、悔い改めない楽山に、操られる日が来てはなりません。楽山が、何らかのカルトを始めたり、嘘で人をだましたり、嘘を吐いて何らかの偉そうな地位についたりしてはなりません。その時の被害は、今より遥かに大きいからです。
 
 
 
(ツイッターに書いたこと:)
 
私は、数か月、楽山と直接の遣り取りをしました。人格が壊れそうなほど、異常な疲労と徒労を味わいました。人生で初めてです。よって、以後今まで3年余りは、直接の遣り取りを禁忌として、こんな異常者がいると知らせるためにブログとツイッターを利用しています。その間、判断が覆ったことはありません。
 
st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできない
 
楽山は、遣り取りするだけで害を及ぼすからです。犯罪者や害虫や猛獣や危険物と同じ扱いになります。家には決して入れずに、警戒情報を発しています。
 
 
どうか、楽山に、関わること、近づくこと、応答すること、一切、しないでください。ご自身の精神衛生のためです。楽山は、嘘と詭弁で、人を振り回し、疲労させ、壊してゆくサイコパスです。3年間、変わることのなかった判断ですから、人間レベルでは、結論といっていいと思います。
 
私は、努めて、できることをして、それ以上は神にお任せします。人間は、できることを精いっぱいすることが使命、そして、そこまでが能力なのです。楽山は、病質者であり、公共の害毒~病原です。
 
 
 
 幸福の科学は、宏洋氏に勝訴したそうだ。
 2022年03月20日 幸福の科学とは何だろう?
 
物事は一方の言い分だけで判断してはいけないというのは本当だと改めて思う。
 
HSについての記事のようですが、楽山は、自分の言い分だけを、ちょいと書いて、他者の意見を無視し続けています。そういう人が、上のように書くことは、実に、白々しい。楽山の言うことは、いたるところに自己正当化の詭弁が含まれてくるということです。印象操作による刷り込みと言います。
 
当たり前の道徳を書いて作為を隠すのが、楽山の気持ち悪い筆致です。今までも「人それぞれ」「人は人、自分は自分」「意見を言ってはいけないのでしょうか」などと書いて、自分の身勝手を正当化するなど、はっきりした主張をせず、ほのめかしてきました。一般的なことを、個別に印象付ける詭弁です。
 
正面から物が言えない半端者は、このようにして、憂さを晴らすのでしょうか。それとも、暗示によって、人を操る教祖願望の表れでしょうか。いずれにしても、個人でも、組織の一員であっても、まともに付き合ってはいけない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山です。
 
今まで見てきたことから、楽山は、理論家を気取りますが、まともな思考の理路が拙劣です。かつ、深い共感を持ちません。思索できず、感受できず、分かっていると思わせて、インテリを気取り、詭弁と嘘で信頼を得ようとします。遣り取りを続けると、結局は、一種異様な疲労を味わうことになります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 
 

 
  無常の価値2
 
 
人間が死にたくなるのは、絶対孤独になって、周りに人間がいなくなるか、周りにいる人が人間と思えなくなって絶望するからです。人間が生きるのは、周りに人間らしい人や関係があって、人間味の共感を味わっていられるからです。
 
人間味の中に尊い愛があり、即ち、心があり、共感があり、思いやりがあり、それゆえにこそ泣いたり笑ったりが生まれるのです。人間にとって、最も大事なことは、超常ではなく、日常の中にあるのです。そこを疎かにする宗教はカルトといってよいでしょう。
 
なのに、処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、超常の不明を、批判不可として信じ込めば、いろいろな不明を次から次に信じ込んで、心は超常に迷い込んで、神明も不明も分からなくなり、人間性の最も大事なる現実の関わりに鈍感になり、超常の言葉を唱え続けることになるのです。
 
人間にとって大事なことは、無常なる現実世界に、たくさんの糧(かて)があると知ることです。無常こそ大事であり、無常であるからこそ大切にするのであり、いずれ過ぎ去ってゆく身としては、常世に至る前に、この地上で大切にするべきことがあるでしょう。無常が現実だからです。
 
神は恒常であり永遠不変です。そのような御方として信じるわけです。神だから常世に住めるのでしょう。神は、人間に共感するが、超常も地上も支配する御方であります。人は、神に対して、祈ることしかできません。つまり、完全なる神を信じるのは、人が完全ではないことを肝に銘じて、祈るためです。
 
神は、人が恒常不変になるから憐れむのではない。憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。何よりも人は地上で恒常不変にはなれません。信仰は地上を生きるためにあります。超常の奇跡話に陶酔するのは、現実逃避につながります。そういう時は、しんみり祈るべき時であります。
 
神は、人の不完全を既にご存知であります。人がご自身とは異なり、無常で儚く弱いからこそ憐れんで成長を願っておられると思います。何ゆえに神を真似て、永遠不変の超常を、地上で真似ようとするのでしょう。感謝や讃美が、超常を理解したかのような信仰自慢にならないように願っています。
 
何ゆえ無常の現実を疎かにして、恒常が手に負えると思う人がいるのでしょう。何ゆえ成長を疎かにして
不変を欲しがる人がいるのでしょう。何ゆえ人の愛を疎かにして、神の愛を説こうとする人がいるのでしょう。
 
何ゆえに人の理屈で、神を証明しようとするのでしょう。また逆に、何ゆえに人の理屈で神を否定できると思うのでしょう。何ゆえに霊が分かるっぽいという思い込みで人間離れの超常の世界へ人を誘導するのでしょう。おぞましいことです。
 
 
 
人間にとって一番大事なことは、自分の不完全を知り、共感を養うことです。信仰は、そのためにあるのです。信仰は共感性を捨てて超常に向かうことではありません。そういう過ちは、キリストの意図を理解する前の弟子たちにもありました。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
9:46
弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。 
(ルカ9:46、新約聖書)
22:24
それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
(ルカ22:24、新約聖書)
 
 
 
無常 曲折

無常 曲折
 
 
(2018年01月)
(2021年01月22日、加筆して再録)
(2022年02月11日、再録+)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
疎か(おろそか)
 
 
 
  なれの果て
 
またも果てである
いつか果てである
目処(めど)が立っても立たなくても
耐えても進んでも
黙っていても
必ず果てである
 
止まれば土か
流れれば海か
飛べば空か
だから一つの
忘れやすい夢である
 
夢の属性に救われて
来るという保証のない
明日の目覚めを
願うことなく信じていた間
同じように忘れていた
見えない闇の果て
 
いつか手に
ショッピングバッグをぶら下げて
街頭に立ち
錆びた街灯に触れて
すりきれた外套の
衰えた視力の
細い明かりと
冷たい引っかかりと
見えない剥離と
輪郭の縁(へり)と
影をゆっくりなぞっている
見えない光の果てである
 
 
  初恋
 
風邪でも引いていたときだったか
同じ高校
同じ下宿の狭い廊下
若い娘の小さな手のひらが
若い私の額に触れた
それは何気ない行為だったが
急なときめきに
熱くなった胸と裏腹に
私は不意を打たれたように動けなくなって
しばらくぼうっと立っていた
 
あの狭い廊下
あれから幾つの廊下や
板張りもない場所を彷徨ったのだろう
私の眼も胸も泥濘に落ちて
こんなに濁ってしまったよ
下水のようなトンネルを抜けて
ときおり触れてくる
あのときの温もりは
まだこの額に残っているけれど
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
3年前でも、何年前でも、発言の責任は、本人が間違いを認めて反省しない限り、現在の罪として責任は発言者に残ります。無反省や無責任は「人間の性」ではありません。楽山という異常者に特有の病質として、何度でも責任を問われることになります。継続する自己中は、常に、害悪だからです。
 
楽山などの無神教カルトは、史実と論理で分からない神は存在しないという考え方です。こちらは、信仰は史実や論理を根拠としてはいないと言っています。つまり、無神教カルトは、聖書と体験から共感するという心の感性を持っていないから、分からない神を存在しないと決めつけているのです。
 
共感性というのは、端的に言えば、愛のことです。しかし、愛という言葉は言い古されていて、さらに、楽山が、恋愛についての実に幼稚な芝居の例示で、愛させてくれなければとか、理想化して好むとかの、臭い話を持ち込んでくるので、私は、共感性という言葉を使っているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  共感の主
 
 
キリストは、共感の主であります。心貧しい、即ち、心に余計な先入観を持たない人々に信仰を宣べ伝えました。キリストの共感の最終的な結果が、十字架であり、人間の罪を背負って、死という人間の定めを身に負うたことです。信仰は、キリストの共感に反応して、キリストに共感することです。
 
宗教的には、キリストの時代の人間模様は、今と似たようなありさまでした。権威主義や、教条主義や、大仰な感謝と讃美が横行するのは、いつの時代も変わりないようです。そういう時代に、見逃されやすいのが、人間の良心による共感性、つまり、愛ということになります。
 
人間は、超常現象の奇跡には共感できません。直面し続ける日常とは違うので、理解も共感も出来ません。日常で、理不尽な目に遭っている人々が、キリストに惹かれるのは、そこに、この上ない共感が表されているからでしょう。それは、今も変わりないと思います。
 
一部に、福音書の、物や肉体の超常的な奇跡に驚き、ひざまずくのが信仰だと思っている人がいるようです。共感できないことを仰ぐのは、力ある御方の業だからでしょう。そこに共感できるものがないために、そういう信仰は、感謝と讃美だけになってゆきます。
 
さらに、超常を仰ぐだけならば、人生において、現代、殆ど起こらない奇跡を、起こるんだと思い込む信仰?になります。そういう信仰においては、大仰な讃美が鳴り響くことになります。一方で、日常の苦難からの悲しみに共感するセンスから遠ざかってゆくのです。その典型はカルトに見られます。
 
 
神は人知に働きかけます。しかし、人知は、心を砕いて、神に祈るだけです。つまり、人が思うところに、神はいません。人知で、神を追いかけることは出来ません。神は、人が祈るところにおられます。
 
祈ることもしないで、神を云々する、つまり、人知で神はいるとか、いないとか、論じたつもりで語っても、それは、神に届きません。人の思い上がりに、神は近づくことはないからです。無神教の信者は、いつも偉そうに語りますが、神について、何も語ってはいないのです。
 
神を知らないし仰ぎもしない者が、神について、多くは、その不在を語るとき、その神は、無神教信者の頭の中で料理されるのを待っている無神教の飼っている概念とイメージの神?の偶像に過ぎません。それは、とても、無駄であります。信じないところに、否定するところに、神がいるわけがないのです。
 
つまり、無神教徒は、神の不在について、証拠がない、根拠が無い、などと言って、笑いながら、神を、酒の肴にでもするのでしょう。しかし、証拠と根拠が人に分かる神?など、どこにも、いつまでも、いないのです。むしろ逆に、無神教徒こそは、空しく、神の偶像を追いかけているのです。
 
 
人間の、最も深い情緒は、共感であります。共感こそが愛であり、人を生かす宝物です。共感がないところでは、辻褄が合っても、人は感動しません。かつ、そこに神の恵みが存在しようがないのです。感動を伴わない神の恵み、賜物、魂の奇跡などは、神の永遠をもって、ありえないからです。
 
 
共感のない者は、理屈だけを並べてきますが、そこには言葉の表面的な意味の争いしかありません。楽山のような悪意のペテン師は、流れを無視して、細かい文脈に他者を誘導し、そこで混乱させ疲労させることで、相手が退却するように仕向けます。そして笑って言うのです「疲れたんじゃないのですか」・・。
 
 
信仰 共感

信仰 共感
 
 
(2022年02月01日)
 
 
 
  計りかねて
 
好意のつもりなら
少々的(まと)が外れております
的をずらしたのは私(わたくし)ですが
 
心配のつもりなら
少々押し売りに似ております
心配させたのは私ですが
 
同情のつもりなら もう
どこかで虫唾(むしず)が走ります
虫唾も固唾(かたず)も
呑(の)んだのは私ですが
 
あなたが悪いわけではありません
できることをしたのだ
という聖句もあります
 
残ってしまった拙(つたな)さ脆(もろ)さが
贈られた文字列のように
何もお返しできないだけなのです
 
 
  冬の仕掛け
 
朝のタイマーが
銀の針の仕掛けを夜明けに渡すころ
私はまだ蛍光灯の下に座っていた
そして私のそば近く
いつも顔を合わせるだけの無神経な
部屋の時計や写真や絵や
物言わぬ同居人たちと
あとどれくらい
坐っていられるかを相談するのだが
私は遂に横になる
 
しばらくは窓辺に身を寄せて
漏れ入る冷気に触れようとしたり
あきらめて仰向けになり
 
この世で最も愛した人が
磨かれたナイフで
冷たい返り血を受けながら
この胸を突くのを
今ならいい今なら
これで最初で最期なら
と足跡のない雪原に横たわり
 
いまさらのように悔いのひとつひとつを
数え始めたりしながら
凍みる冬の一日にも
焼けるようなひとときが
瞼の奥へ冷めてゆくのを待っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できないし、詫びても、反省と書いても、冗談のように軽く、その後、まるで変わらない楽山です。訂正不能の自己愛と自己中によって、人を、偉人でさえも、深みのない話のネタにして、趣味的にいじくってきました。楽山は、遊びだけの視野で、信仰も真実も、平気で踏みにじる男です。
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので変わることはないでしょう。批判記事を書くのは、楽山を変えるためではなく、誰も楽山に関わらないように、異常性を広く知らせるためであります。楽山がHNを変えれば、また分からなくなりますが、私は、今できることをしています。
 
楽山が誰かに賛同しても、共感性はありません。楽山には、約3年間見てきても、罪悪感、共感、悔いる心などの高等感情がないと思います。楽山の、賛同も、批判も、冷静な理路と深い情緒から生まれてはおらず、自分に都合のよいように書くのです。つまり、自己顕示欲からの芝居に過ぎません。
 
私は、インパクトのある言葉を求めています。キリストの言葉は、長い文章ではなく、インパクトのある言葉です。本になるような長い文章で、専門用語を並べられても、長いゆえに、心に響くということはないからです。インテリぶって書いてくる楽山の文章は、だるいだけで、何のインパクトもありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 
 
 

このページのトップヘ