ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:共感

 
  共感の主
 
 
キリストは、共感の主であります。心貧しい、即ち、心に余計な先入観を持たない人々に信仰を宣べ伝えました。キリストの共感の最終的な結果が、十字架であり、人間の罪を背負って、死という人間の定めを身に負うたことです。信仰は、キリストの共感に反応して、キリストに共感することです。
 
宗教的には、キリストの時代の人間模様は、今と似たようなありさまでした。権威主義や、教条主義や、大仰な感謝と讃美が横行するのは、いつの時代も変わりないようです。そういう時代に、見逃されやすいのが、人間の良心による共感性、つまり、愛ということになります。
 
人間は、超常現象の奇跡には共感できません。直面し続ける日常とは違うので、理解も共感も出来ません。日常で、理不尽な目に遭っている人々が、キリストに惹かれるのは、そこに、この上ない共感が表されているからでしょう。それは、今も変わりないと思います。
 
一部に、福音書の、物や肉体の超常的な奇跡に驚き、ひざまずくのが信仰だと思っている人がいるようです。共感できないことを仰ぐのは、力ある御方の業だからでしょう。そこに共感できるものがないために、そういう信仰は、感謝と讃美だけになってゆきます。
 
さらに、超常を仰ぐだけならば、人生において、現代、殆ど起こらない奇跡を、起こるんだと思い込む信仰?になります。そういう信仰においては、大仰な讃美が鳴り響くことになります。一方で、日常の苦難からの悲しみに共感するセンスから遠ざかってゆくのです。その典型はカルトに見られます。
 
 
神は人知に働きかけます。しかし、人知は、心を砕いて、神に祈るだけです。つまり、人が思うところに、神はいません。人知で、神を追いかけることは出来ません。神は、人が祈るところにおられます。
 
祈ることもしないで、神を云々する、つまり、人知で神はいるとか、いないとか、論じたつもりで語っても、それは、神に届きません。人の思い上がりに、神は近づくことはないからです。無神教の信者は、いつも偉そうに語りますが、神について、何も語ってはいないのです。
 
神を知らないし仰ぎもしない者が、神について、多くは、その不在を語るとき、その神は、無神教信者の頭の中で料理されるのを待っている無神教の飼っている概念とイメージの神?の偶像に過ぎません。それは、とても、無駄であります。信じないところに、否定するところに、神がいるわけがないのです。
 
つまり、無神教徒は、神の不在について、証拠がない、根拠が無い、などと言って、笑いながら、神を、酒の肴にでもするのでしょう。しかし、証拠と根拠が人に分かる神?など、どこにも、いつまでも、いないのです。むしろ逆に、無神教徒こそは、空しく、神の偶像を追いかけているのです。
 
 
人間の、最も深い情緒は、共感であります。共感こそが愛であり、人を生かす宝物です。共感がないところでは、辻褄が合っても、人は感動しません。かつ、そこに神の恵みが存在しようがないのです。感動を伴わない神の恵み、賜物、魂の奇跡などは、神の永遠をもって、ありえないからです。
 
 
共感のない者は、理屈だけを並べてきますが、そこには言葉の表面的な意味の争いしかありません。楽山のような悪意のペテン師は、流れを無視して、細かい文脈に他者を誘導し、そこで混乱させ疲労させることで、相手が退却するように仕向けます。そして笑って言うのです「疲れたんじゃないのですか」・・。
 
 
信仰 共感

信仰 共感
 
 
(2022年02月01日)
 
 
 
  計りかねて
 
好意のつもりなら
少々的(まと)が外れております
的をずらしたのは私(わたくし)ですが
 
心配のつもりなら
少々押し売りに似ております
心配させたのは私ですが
 
同情のつもりなら もう
どこかで虫唾(むしず)が走ります
虫唾も固唾(かたず)も
呑(の)んだのは私ですが
 
あなたが悪いわけではありません
できることをしたのだ
という聖句もあります
 
残ってしまった拙(つたな)さ脆(もろ)さが
贈られた文字列のように
何もお返しできないだけなのです
 
 
  冬の仕掛け
 
朝のタイマーが
銀の針の仕掛けを夜明けに渡すころ
私はまだ蛍光灯の下に座っていた
そして私のそば近く
いつも顔を合わせるだけの無神経な
部屋の時計や写真や絵や
物言わぬ同居人たちと
あとどれくらい
坐っていられるかを相談するのだが
私は遂に横になる
 
しばらくは窓辺に身を寄せて
漏れ入る冷気に触れようとしたり
あきらめて仰向けになり
 
この世で最も愛した人が
磨かれたナイフで
冷たい返り血を受けながら
この胸を突くのを
今ならいい今なら
これで最初で最期なら
と足跡のない雪原に横たわり
 
いまさらのように悔いのひとつひとつを
数え始めたりしながら
凍みる冬の一日にも
焼けるようなひとときが
瞼の奥へ冷めてゆくのを待っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できないし、詫びても、反省と書いても、冗談のように軽く、その後、まるで変わらない楽山です。訂正不能の自己愛と自己中によって、人を、偉人でさえも、深みのない話のネタにして、趣味的にいじくってきました。楽山は、遊びだけの視野で、信仰も真実も、平気で踏みにじる男です。
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので変わることはないでしょう。批判記事を書くのは、楽山を変えるためではなく、誰も楽山に関わらないように、異常性を広く知らせるためであります。楽山がHNを変えれば、また分からなくなりますが、私は、今できることをしています。
 
楽山が誰かに賛同しても、共感性はありません。楽山には、約3年間見てきても、罪悪感、共感、悔いる心などの高等感情がないと思います。楽山の、賛同も、批判も、冷静な理路と深い情緒から生まれてはおらず、自分に都合のよいように書くのです。つまり、自己顕示欲からの芝居に過ぎません。
 
私は、インパクトのある言葉を求めています。キリストの言葉は、長い文章ではなく、インパクトのある言葉です。本になるような長い文章で、専門用語を並べられても、長いゆえに、心に響くということはないからです。インテリぶって書いてくる楽山の文章は、だるいだけで、何のインパクトもありません。
 
 
 
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  信仰の反例
 
  より
 
キリスト信仰の、曲解のパターンをあげてみます。
 
1.悟りを得たかのような平安の薄笑み
 
イメージと雰囲気に陶酔する信仰です。信仰の初期に見られやすいものですが、そこで固定してしまうと、うわべだけ安らかな気分で、中身の罪深さを隠すようになり、偽善の方向へ向かいます。
 
2.いかにも敬虔?という控えめな態度、世辞、褒め言葉、批判禁忌
 
信仰は、控えめになることだという短絡です。丁寧語や世辞を言うようになり、偽善に偽善を返すことになるなら、自らが偽善者になってしまう可能性があります。信仰は、社交ではありません。信仰に基づく人間としての優しさや柔和は、社交ではありません。
 
3.この世を敵とするような剣幕の豪語
 
自分は信仰者だから救われ、あいつらは信仰がないから滅ぼされる、という、復讐心の信じ込みです。ルサンチマン(負け犬根性)とも言います。ざまあみろ信仰、いまにみていろ信仰です。
 
4.信仰の弱者に怒り、弱者を笑う偽善
 
弱気な人を信仰が薄いと思い、上から責めたり、軽蔑したりする心性です。それぞれ個人は、できることをして正直に祈り、結果を神に任せるのです。できることの質も量も異なると自覚するべきです。批判することはあっても、最終的に裁くのは神だけです。
 
5.何でもうまくいく、御心が導くから、という決めつけ
 
御心の深淵を、人は知り得ません。自分のしていることが正しいかどうかの結果は、神に委ねるのです。人が勝手に、神の意志と行為を決めつけてはいけません。
 
6.どんな不幸も、喜んで受けろというのか、という疑問
 
神の計画を、人は、詳細には知り得ません。不幸も試練ですが、外見的に、ハッピーエンドとなるかどうかは分かりません。殉教を思えば、最終的な裁きは、神に任せられています。全部が、この地上で、自分に分かるわけではなく、神に任せるという自覚が、神の民としての信仰であります。
 
7.信仰の戒めを守って完全になれる
 
このような信条は、神の完全を自分のものにしたいという傲慢であり、殆どパリサイ人です。信仰は、神のごとく完全になるためではありません。信仰を支えるのは、欲望や野望の成就ではなく、キリストの共感によって結ばれた絆(きずな)であります。地上で完全になる人はいません。
 
 
共感に導かれ運ばれる

共感に導かれ運ばれる
 
 
(2022年01月25日)
 
 
 
  漕いでみます
 
広さを狭さを
高さを低さを
長さを幅を奥行きを
空気を漕いでいます
少しも進みません
わかっているのです
当たり前のことだと
 
時間を漕いでいます
加速も減速もしません
進んでいる感触もありません
 
いや実は感じることがあるのです
ときに呆然とするほどに
でも大方それらは意に反していて
わかっているのです当たり前のことだと
何を為すところもなく
何を為すときもないまま
無為に過ごせば
経過においては
永遠のように長く苦しく
結果においては
まるで無かったかのように空しい
 
だから横になったり
坐ったり立ったりしながら
空しく且つ無いものを
もうしばらく漕いでみます
 
自分を漕ぐことが
当たり前のように進ませることが
できないから
 
 
  浴びる光
 
弱々しい光を浴びながら
待宵(まつよい)の影が
命の帰趨(きすう)へ落とす
一滴(ひとしずく)の収斂(しゅうれん)でもよく
 
弱々しい光を浴びながら
夜明けの朝靄(あさもや)が
次第の熱に命を捨てるように
霧散し発散するのでもよい
 
いつの日か時空と呼べる光の場が
いかに虚妄であっても構いはしない
 
真っ直ぐに進もうとしても
強い力には引かれて曲がり
手に取られ守られることはなく
逆に手を囲み
その脆(もろ)さを教え
水に取られても
吸収する何ものもなく
逆に吸収され減衰しながら
 
幾たびも屈折し
幾たびも反射して
しばしば陰り隠されそうになりながら
衰える光は
衰える光を浴びている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小理屈を振り回して、相手が弱ってゆくのが快感だったのでしょう。それで自分を確認して、一生うまくいくとでも思ったのでしょうか。実際は、嘘と詭弁で、だましてきたのですから、告発され、どこに出ても恥ずかしいペテン師になってきたわけです。反省せずに正しい人は、いません。
 
 
 
 「幸福の科学」の勝訴(宏洋敗訴)
 幸福の科学とは何だろう?2022年01月22日
 
争点となった発言について、HS側の動画では説明されているが、こちらの動画では、3年前の動画のことだから忘れた、どーでもいいとして具体的に話す気はないようだ。ここはすごく対照的である。
 
「忘れた、どーでもいい」精神も、他者の意見を、ことごとく無視できる心性というより病質も、具体的に、あるいは、真剣に、話す気がないことも、楽山に、特徴的に見られることです。他者のことを悪く言えば、その悪さが、楽山自身に、最もよく当てはまる、つまり、ブーメランです。
 
しかも
宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
では、
「ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。」と言っていた楽山が、上では、あら捜しをしているのです。いかに、楽山が、人を見る目も、さらに自分を見る目も、いい加減であるかということが分かる文章です。書けば、みすぼらしい自分を表してしまうブーメランです。
 
 
 
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  信仰とは3
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない務めとなっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、なぜ信じるのか、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであります。
 
信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。
 
このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。繰り返し唱えておれば信仰・・ではないです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の言葉を繰り返しても、聖書解釈としても、それだけを唱えることは、現実の人生に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて、仮面で讃美することになります。
 
何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れるべきものを受け取っていないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じれば救われます・・ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることで大事なことは、教理を繰り返すことではなく、上から教えることではなく、人間としての共感だけなのです。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎません。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、聖書に書かれている御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望を見い出し、祈りと告白を捧げることを信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴いますが、人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要(かなめ)であります。
 
このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。その解放は、理解というより、共感と希望であります。希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。
 
それが、絶えることのない希望に支えられた信仰となるでしょう。ゆえに、神の側が否定することはないのだから、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。人が、固く信じようとすることは、しばしば、心に神のイメージや思いを自分で作ってしまいます。
 
むしろ、信じ込みは罪であり、罪として赦しを乞う性質を持ちます。ゆえに、祈りにおいて、正直であることが必須となるのです。項垂れても、仰ぐ姿勢でも、祈りの、最も大切で、不可欠なことは、正しいことでも美しいことでもなく、本音の、正直な祈りであります。
 
つまり、現象としては、神は、人が永遠の神の存在を熱望して、祈ることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰ではなくなるでしょう。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと、決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと平気で言っている偽善者が現にいます。「悔い改めは神が与える」という言い逃れをしますが、悔い改めていないならば、神が与えていないってことだろう・・という自己矛盾に、自ら堕ちているのです。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰められ、癒され、救われています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという傲慢によって、キリストに退けられ、ゆえに、キリストを殺したのです。今のキリスト者がそうであってはならないという悪の見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじて、感謝と讃美だけを唱えるのも、信仰ではありません。
 
悔い改めは、罪人であることを自覚し、神に、告白し、祈ることです。神の前に正直でなければ成立しません。信仰は、それを繰り返すことです。つまり、生きることであります。信仰は、神の前に、成長することであり、決して、一時に完成することではありません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、神と人の決定的な違いを基本的な自覚として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのが、今は目に見えないキリストの共感に満ちた同伴である、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいます。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト信仰を、お伽噺にしてしまう輩もいます。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいるのです。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、その言説を眺めれば、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が、無視できない傾向として、一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性を示唆しているのです。
 
しかも、カルトは、何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるでしょう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化であります。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やしません。むしろ、悩ませ、病ませるものになります。そういう者に限って、うれしそうに、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" などという讃美言葉を繰り返すでしょう。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいでしょう。大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰に誘導される危険にさらされていると思います。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエスキリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合があります。
 
 
救い、信仰

救い 信仰
 
 
信仰者も、現世において起こってくる様々な悪の有り様と、突然の不幸の有り様を知ることになります、ただ、信仰者は、災いの背後に、今は隠れて見えないけれど、人間に対して至高の存在が、大きな歴史を動かしておられる存在を希望として想うしかなく、キリストを信じ、神を仰ぎ、祈るのであります。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その時代の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、その時代の重荷を負うゆえに、神を、想わなくてはいられませんでした。しかし、その資産によって、現代に至るまで、考え始める切っ掛けとなる聖書が、二千年の間、引き継がれていることを忘れないでほしいのです。
 
聖書は、必ずしも、読みやすいとは言えません。長々と系図で始まったりもしますし、そんなこと分かってると言いたくなることもあるでしょう。大事なのは、人間は不完全ゆえに罪深い、ということです。
 
そして、罪人への伝道が、人の与える名誉や金銭的利益に何のメリットもないのに、憐れみ、共感、愛のみによって、命を捧げた御方が、イエスキリストだということであります。その御方を、救い主として、好き訪れとして、即ち、福音として伝えてゆくのが、キリスト信仰者の務めとなっています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能・絶対完全・永遠不変の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから考えれば、旧約聖書に徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることこそが、人類の英知なのです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判され否定された人々が分かれます。
 
聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝します・・などと神に自慢してしまうような、罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。
 
ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうだ、という例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
キリストに救われた人は、キリストの前で、正直に告白し、あるいは、そういう身の上を表しました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
 
キリストに向かって、へりくだりながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めの体験でもありました。キリストが人間ひとりひとりの人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるということです。
 
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
実際、彼ら邪悪な者は、人を、たぶらかし、だまして、存(ながら)えているようです。彼らは、全く、キリスト教を、信仰を、敬虔を、理解していません。なのに、柔和を装い、敬虔芝居をしてきます。自己中で訂正不能のために、学習せず、成長せず、にもかかわらず、自慢し悦に入るのです。
 
 
信仰についての証しとなることは物や肉体の奇跡によるのではありません。人間の心に起こっていることを忘れないでください。超常の言葉と理屈と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
二千年前に、パリサイ人などの偽善をすっぱ抜いて、厳しく批判したのが、イエスキリストです。私はキリスト者なので、キリストを救い主として信じていますが、いつくしみ深きキリストは、鋭い批判者でもあったのです。及ばずながら、キリスト者は、邪教や偽善者に対して、批判者でもあるべきでしょう。
 
少なくとも、悪い言葉の中に批判を含めて、いつも、聞こえのいい言葉だけを使うように教えている教師は、それこそ、ハイソみたいに上品になりたいだけの、神の言葉も、人の言葉も、言葉の本質を何も弁えない偽善の堂々巡りをして、キリストが最も憎んだ偽善を促しています。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
悪い言葉は、何かを善くしようとする意志のない言葉であり、悪意の言葉であります。ゆえに、悪い言葉に批判を含めることは、パリサイ人を批判したキリストを、おとしめる冒涜であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
人は、キリストようには無理でも、意見を言い、間違っていたら、できる人が、できるだけ、批判をしなくてはなりません。「悪い言葉」だからと、批判を禁じる者は、キリストの福音を禁じる者、キリストを十字架にかける者であります。そのような動きは、現にあるように思われます。
 
聖書の御言葉は、心で読むものです。言葉面だけで読んだつもりになるのは、心の解放感を伴わないことによって見分けられるでしょう。そして、聖書を読んだ人は、恐れと、救いの共感によって、理解を保留することが出来ます。シャロームは悪意で思い込み、楽山は読まずに呪いながら決めつけてきます。
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
(2022年01月12日、再録+修正)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びの方を
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間、そんなものでしょ、・・とでも言いたげな「人間の性」という言葉です。この "2."レスコメント自体が、楽山固有の偽善とペテンの罪を表しています。言えばブーメランで自分に返ってくるという成り行きで、なおも、他人のことを、恥も知らずに言い続ける柔和芝居が、一日も早く、終わりますように。、
 
 
 
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  泣けない2 
 
 
悲しい時に泣けるならば、泣けるだけ泣いたほうがいいです。泣くのは、一種の、感情の発散です。鬱(うつ)になると、泣けなくなるときがあります。むしろ、表情は、冷たく、うつろになります。感情のエネルギーが落ちているからです。そのときは、生存していることだけが必要です。
 
キリストは、人の悲しみに共感しました。その結果、楽山やシャロームのような傲慢な偽善者によって十字架につけられたのです。主イエスキリストを思うと、泣けないときにも、極めて、原始的に、時間の経過に身を任せて、生きるほうを選択しているという経験があります。
 
泣けない悲しみのときには、理屈を考えないで、ぼうっとしていてもいいから、時の過ぎゆくに任せて、眠るか、この世を、遠く近く、眺めていましょう。人間の過ごす時間は、悪い時も、良い時も、過ぎてゆく定めを持っています。その先に、生きておれば見えてくるものがあるでしょう。
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
 
疑いながら助かっている
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を赦せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
許せるだろうか
 
許されるだろうか
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
無価値に存えることをお赦ください。
 
 
  泣けない
 
を見たときから
夕日の逆光の下へ落ちていく
牛の群れのように
低く
うろたえる
うごめき と どよめき
 
を見せたときから
単純に解明されて
売り物にならなくなった
ひきつった笑い
すなわち泣きを
遠巻きにする無関係
 
を知ったときから
言い返す言葉もなく
息さえ圧力をもって
それた視線を押してくる
鈍い黒光りの
ふつうであった
 
ををを
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
 
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
 
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
 
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
 
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
悪いものはたいていそうだ
 
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
無価値に存えることをお赦ください。
 
 
悲しみを知って、人は成る

悲しみを知って、人は成る
 
 
(2021年12月24日、再録+)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
注意しても、批判しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もせず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、誰にでもあることのように、醜い言い訳をしていますが、コメント1.の主旨を詭弁で言い換えています。楽山固有の罪と偽善です。
 
 
 
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  超常と信仰
 
 
神・キリスト、聖霊の聖三位は、いずれも、超常の御方であります。人間は、超常に住んではいないし、超常を解釈する立場でもありません。人間が神聖に関わるのは、あくまで、人間として、仰ぎ、希望として生きる縁(よすが)とするためであります。
 
超常の神聖なる世界を、人間が、推測したり想像したり、説を述べたりすることは、人間の知的な営みとして是とされますが、それを決めつけて信じ込むことは、背教に他なりません。超常を考えるより大切なことは、地上の日常、即ち、人間の生き方を考えることです。
 
神聖を語るに、神聖の用語を語っても、人には理解できません。理解したかのように振り回すのは、とても醜いことです。自分という人間に、神聖は、どのように影響しているかを語るべきであります。そのヒントは、他でもない、聖書にあります。
 
旧約聖書には、神と人の違いが、多く語られています。人は有限であり、神は、全知・全能、絶対・完全、永遠・不変の存在として語られています。この6つの性質は、いずれも、人にはないものであり、神聖なる御方だけの性質であります。
 
新約聖書には、キリストの、この上ない洞察力と共感性が語られています。数々の物や肉体への奇跡、超常奇跡については、現代において、殆ど起こっていないので、人間には理解を超えた神聖の力であり、そこに、不完全な人間の信仰は成り立ちません。生きる縁にならないからです。
 
キリストは、傷ついた人、病の人、取税人、姦淫を犯した女性、犯罪人、などを、選んで、救いました。その人々は、正直に告白する以外、何も持っていなかった人々です。一方、分かっている、守っている、知っている、見える、という人々には、信仰の義を与えず、多く、敵としました。
 
聖書を読んで、不完全な性質、即ち、罪深さを常態として持っている人間が、何を受け取るべきか、そして、何を考えるべきかが、そこに、表れています。超常の神聖の理解は、終末まで、保留するべきであります。ゆえに、神秘と言われます。
 
私たちは、祈りにおいて、何が語れるでしょう。正しい絶対の完全な真理、救いの具体的な仕組み、終末まで、私たちは知りません。人間を見て洞察するキリストの共感に、私たちも、共感を覚えたゆえに、キリストを好きになり、祈るようになっただけなのです。
 
ですから、祈りにおいて、語れるのは、正直な、罪の告白と、癒しと救いの希望だけなのです。それを学ぶために、聖書があり、ヒントとしての教義があり信条があるのです。分かっているから信じるのではありません。信じていないと生きられないから、祈るのが、信仰です。
 
 
信じ仰ぐ

信じ仰ぐ
 
 
(2021年12月15日)
 
 
 
超常の神の辻褄を、日常の人の辻褄で、推し量ることは出来ません。肯定することも、否定することも、できないこと知るべきであります。それよりも、もっと、自分が、何ゆえ、キリスト者になったのか、自分が、何ゆえ、聖書を読み求道しているのかを、人間として考えるべきだと思います。
 
キリストの深い共感に呼応して、私たちは、キリストに共感できるから、キリスト者になり、あるいは、求道を続けています。人間の共感性を失うようになって、教理の言葉を並べるだけになったら、もはや、人間を生かす信仰ではありません。
 
昔、「愛の唄にはなぜか、愛のことだけが書かれていない」という詩を読んだことがあり、愛よりも、共感という双方向の言葉が好きです。共感は、愛につながると言ってもよいでしょう。愛の行いは、人を生かしますが、一方、よかれと思って傷つけることもあります。人間は不完全です。
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
※ 
 
正直な告白と願い以外は、神には通用しないと思います。
 
絶対の神に対して、真善美の大仰な讃美だけは、しないほうがよいと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、小学生の興味本位の謎解きのようなことを書いていました。神がいるなら酷い悲劇は起こらないはずだから、悲劇が起こっているということは、神はいない・・という主張ですが、神の辻褄を、自分の辻褄で語れると思うこと自体が、既に、神を少しも知らないということです。
 
酷い悲劇が起こる地上だから、生きるための縁(よすが)が必要なのです。楽山は、自己愛・自己中を生きる縁として、自分のほうが上だという優越感だけを求めて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の醜さを表すようになっている反キリストです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
訂正!
× Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
○ Pさんにとっての神は、逆らおうと思える存在なんですな。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: @vincent20200110さん
神に対するアンチなんて
やろうと思えば誰でもやれる
 」
Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
私は、神には誰も逆らえないと思うけどね。
たとえば臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話はあっても、逆らった話なんて聞いたことないもんね。
午後9:47 · 2021年12月14日
 
「神には誰も逆らえないと思うけどね」・・神を知らないし、信じてもいない楽山が言っています。口から出まかせとは、このことでしょう。このように、知りもしない存在を、分かっているかのように、いけしゃあしゃあと書いてくるのが、自己愛性人格障害の特徴でしょう。
 
「臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話」・・楽山の夢想~妄想する神?は、「臨死体験」とかでないと、ぴんと来ないのでしょう。それを、「光の存在」「深い愛」「癒され」「改心」などと精いっぱい飾ってきました。
 
楽山レベルの、アンチというのは、大嘘なので、無知で無恥な分、誰でもやれるだろうと思います。楽山のインテリ宗教家気取りは、止みません。楽山は、神を、そして、深い愛を、文章に表せたことがなく、全く知らないのです。言葉だけをいじくる楽山の企みは、空しいばかりです。
 
楽山の、マンガ的な落書きの世界で、"神"という言葉は、言葉だけで、何の意味も持ちません。そして、楽山は、自分の物差しで測れる神?を、せっせと貶めてきたのです。真摯な態度というのが、全くないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの、転落中の、楽山の特徴です。
 
楽山は、全てが分かっていないと気の済まない男なので、平気で、"神" と言い、それを自身の安っぽい概念の箱に納めてしまうのです。そこは偏見の溜まり場であって、信仰の欠片も芽生えも、ありません。埒(らち)もない暗く陰湿な魔道を、楽山は、ずっと、徘徊しているのです。
 
 
 
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