ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:内村鑑三

 
  楽山の病質2
 
 「内村鑑三先生の憶ひ出」志賀直哉著
 2020年12月18日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山が、書きたかったのは憶ひ出(思い出)ではなく、悪口だと思います。引用しておきながら、悪口を言う、このような分裂した筆致が、楽山の腐った持ち味です。
 
これは内村鑑三と師弟関係にあった志賀直哉の随筆であるが、内村鑑三にまつわる逸話が多く紹介されていて、頁数は少ないものの、なかなかに読み応えがあるものになっている。
ちなみにここで披露されている逸話のうち、いくつかを抜き書きしてみると、まず内村鑑三は何かの折に「僕は男よりも女の人にはよく好かれる」と笑っていたことがあったそうだ。こんな冗談を言う人だったとは少々意外である。
 
楽山が、どういう「読み応え」を感じていると言うのでしょう。志賀直哉の口を借りて、内村鑑三をネタに、冗談でおとしめる楽山です。こういうことを材料に、キリスト教を、おとしめ、冗談まじりに、侮辱してきた反キリストが、楽山その人です。
 
また、外国人が郷土の言い伝えを披露したときに、「余程馬鹿な先祖だな」といって相手に嫌な顔をさせたとか、日蓮とキリストを同列にして語る人について、「そんな事をいふ奴は博士ぢゃなくてバカセだ」と決めつけたとか、閔妃暗殺に関わった社会主義者が聖書研究会に現れたときは「〇〇さん、貴女はこれから来ないように……」と断っていたともいう。さらには、著者がクリスマス会で罪の意識について疑問を持つような話をした時には、「そんな話より、バラのさし木を作る話でもすればよかつた。その方が聴きたかつた」といったそうだ。これらの逸話は人によっては酷いと感じるかもしれないが、自分には内村鑑三の正直さ、率直さをよく表しているように思えて愉快である。
 
「馬鹿」「バカセ」「来ないように」・・このような悪口は、学者気取りの楽山に向けられるのが相応しいです。自分の立場を弁えないで、自分が言われることを考えもしないで、人の悪口を、別の人の口を借りて、わざわざ記事に書いてくる性根に、何か意義があるでしょうか、否です。
 
そして、内村鑑三の著作から引用してきた手前、後付けで、「正直さ、率直さ」などと、褒め言葉を書いて、それで、帳尻を合わせたつもりでいる愚か者が、この楽山なのです。逆の言葉を書けば、化学実験のように中和されるとでも思っているのか、本当に腐ってる。
 
否定と肯定を、同時に、反省と訂正なしで書けば、それは、矛盾というのです。それが分からないならば、小学生以下です。楽山は、どこで、どうやって、成長し損なったのでしょうか。楽山は、「正直さ、率直さ」を持たないので、これから「来ないように」と言われるべき人です。
 
楽山は、今日、褒めても、明日には、ボロクソにけなす、というような、気分易変に伴って、評価を180°変える人ですから、しかも、「愉快」と言っていますから、元々が、人をけなし、おとしめることに快感を覚えているだけの人なのです。そして、一切、責任を負わない人です。
 
聖書に関連した話としては、内村鑑三は、キリストはピラトから「お前はユダヤの王か」と問われて、「然り」と答えただけで、それ以上何もいわなかったところが大事だといっていたという。キリストは「然り、しかしその王の意味は」と細かく説明すれば命はたすかったかもしれないが、あえてそうはしなかったのだと…。著者の想像によれば、不敬事件の際の先生の態度は、この考えによるものだったのではないかとのことである。
 
けなした後で、「先生」と呼んでいることは、滑稽でさえあります。そして、楽山は、今までも、褒めた後で、けなすことは、しばしばあり、そのような気まぐれから出た言葉が、理路を拡散し霧散させてゆく特徴があります。
 
キリストを、楽山らしく、世間話で語る反キリストらしい筆致です。悪口を集めておいて、敬意の言葉だけ付け加えればバランスが取れて、中立だとでも思っているのでしょうか。それを書いて、評論や感想文になると思っているのでしょうか。
 
人の気持ち、読者の気持ち、常識的なこと、配慮する気配り、など、全く感じることが出来ず、鼻息以外、何も持っていない病質者の特徴です。楽山は、まともな文章が書けない人なのです。書いてくる大方が、真剣味のない、茶化しなのです。
 
自覚がなく、自尊だけ高い病的ナルシスト楽山が、どんな生き方をしているかが分かると思います。嫌がらせのように、書くことだけは止めない楽山に、まともな評価を、受ける資格も、与える資格も、ありません。
 
(ネットより)
内村鑑三不敬事件:
1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式[1]において、内村が天皇晨筆の御名(おそらくは明治天皇の直筆ではなくその複写)に対して最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、それが不敬事件とされた。この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。
 
この3年で、楽山は、神にも、人にも、不遜・不敬であることが明らかになっています。人のことを言えない立場でありながら、人のことばかり言う楽山は、真実の追求を目指す思慮深い人に、不敬・不快・迷惑・侮辱だけを与える病的人格の持ち主です。
 
よほどの誤った自信か、自尊過大の自己顕示を止めないのです、何度言っても、止めないのです。無反省・無責任・訂正不能の厚顔無恥であり、他者のことを何も考えず、いつ犯罪に走っても、おかしくないような病質者です。決して関わらないでください、近寄らないでください。
 
以上、この随筆で紹介されている逸話の一部を抜き書きし、簡単な感想を添えてみた次第であるが、本編ではこの他にも興味深い話がたくさん披露されているので、関心のある方にはぜひ一読を勧めたいと思う。
 
逸話だけで有名人を語ったつもりになり、安易すぎる感想でキリストをけがす楽山です。つまり、楽山にとって、キリスト教は「簡単な感想を添えてみた次第」で済むことなのです。興味本位というより最初から侮辱するために書いているのでしょう。罪悪感がないと、こうなるという例です。
 
このように、キリスト教をおとしめようとする者は、あれだけ引用してきた内村鑑三を、別の日には、ボロクソに言える性根を持っているということです。恐らく一生涯、冷静を装うだけの、ならず者、醜いピエロという正体が表れてゆくでしょう。
 
言うまでもないことですが、楽山は読書したとしても安定した感想を持てない人なので、楽山の感想文は全く当てになりません。気まぐれで、口から出まかせを書くだけの人なので、くれぐれも、決して参考にしないでください。
 
 
けなすときだけ上機嫌

けなすときだけ上機嫌
 
 
(2020年12月19日、同日一部修正)
(2021年12月22日、再録+)
 
 
※ 付録(2020年12月、2021年12月、再録+))
 
何とかなることを祈っているが、新型コロナは、2年経っても、治まるどころか、ひどくなっている。来年で終わるかどうかも分からないなら、医療が崩壊する可能性がある。そのことも併せて作用して、経済が崩壊する可能性がある。そうなると、貨幣価値も当てにならなくなる。
 
最悪の場合には、自殺、暴動、略奪、他殺、パニックなど、個人または集団による犯罪が多発するだろう。医療・医学がどうの、とか、経済政策がどうの、という議論では済まなくなる可能性がある。国民の生存権を直接守る政策が必要な気がする。
 
国家にとって、いちばん大切なことは、全ての国民が生き続けることだろう。どの都市でも区でも市でも町でも村でも、そこに行けば、食糧と飲料があり、眠る場所もある、という場所を設定し、そこへの連絡と物の輸送のライフラインを保持する具体策が必要な気がする。
 
「生存権」
生存権を具体的に守るために法制度が必要ですが、末端におけるコミュニティの人間関係の役割が重要だと思います。支配や秩序だけではなく、人間力による節度ある助け合いが必要だからです。
 
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  自尊心
 
自尊心(プライド)の高い人は
自分を隠すのが上手です
とはいえ時には溜まったものを
吐き出すことも必要です
 
徹底して聞き手にまわり
貴女の言うことを記録にとどめます
それは合図(サイン)
 
自尊心の高い人は喋(しゃべ)りすぎると
恥をさらしたような
損をしたような気持ちになる
 
だからまもなく貴女が
面談を終わらせたい旨を私に告げたとき
私は目一杯の誠意
を込めて答えたつもりなのです
「はい。貴女がよろしければ」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
恥を知らない人は、恥ずかしいという気持ちが元々備わっていないのでしょうか。自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言えるのは、ペロッと舌を出すような軽さ、悪ふざけの類でしょう。
 
 
 
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  楽山の万象不明
 
 「第十九講 ヨブの見神(三)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月04日 楽山日記(LD)
 を批判。
 
矢継ぎ早に更新記事を書いてくる楽山です。これで、前進しているつもりでしょうか。実際は、どんどん自閉に後退して凝固して、新しい知識を受け入れない訂正不能の自己愛からの意地だけで、固陋を極めている状態だと思います。
 
内村鑑三は、大仰な書き方をするようですし、文語調の厳めしさを持つ口語体ですから、楽山の誤解~曲解も、文章の勢いの分、甚だしくなってゆくでしょう。楽山は、それが気持ちよいのかもしれませんが、基本的な中心的な理解が、楽山には皆無なので、中身は空疎です。
 
(ネットより)
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の固陋な人々」「頑迷固陋」
 
「第十九講 ヨブの見神(三)」を読了。感想をメモしてみる。
ヨブ記三十八章十六~三十八節について。
「自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調した」。
三十一、二節の北斗、参宿、昴宿など、「ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ」。
参宿はオリオン星座、昴宿はプレイアデス、スバル星、六連星ともいう。
「ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た」。「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである」。
 
楽山にとって、いつものように、都合のよいところなのでしょうか。写しているだけでは何にもならないでしょう。読者に何を伝えているつもりなのでしょう。独り言をつぶやいて、それを見せない地蔵様でしょうか。山奥の細い道で石を転がして遊んでいるのでしょうか。信仰は、誰に対しても、説得力が必要なのですが。
 
自然を見て、神を知るだけなら、飾りの荘厳気分に過ぎません。信仰は、人間関係の中に生かされなければ意味がありません。念のために、楽山は都合のよい文言だけを載せてくるので、内村鑑三を読んだことにはなりません。楽山の読書の信頼度は、既にゼロになっています。
 
「神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある」。「神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない」。「万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である」。
本講演では気になるところが二つあった。まず一つは「星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである」というところである。
 
上に書いたように、万象の中に神を見いだせないなら、低劣というのは言い過ぎです。自然に感動するのは、信仰の副産物でしょう。
 
しかし、「低劣を自白する」というところが意味は深いと思います。自然を作った神の偉大さに比べて、人間の低劣さ、即ち、低さや小ささを実感し、告白することは、実際、あるわけですし、必要なことです。感じないことが自らの低劣さを表すというのは、楽山に当てはまるでしょう。
 
以前、とある宗教を信じていたとき、自分もこれと同じ考え方をしていたのだった。「この宗教は本物だ。これを知ってもなお、感動できず、本物だと気づけない人がいたとしたら、霊性が低いか、仏性が曇らされて真理が分からなくなっているのだろう」と…。自分とは異なる感性、価値観を持つ相手を低く見るというのは、よくある悪癖だろうが、これは特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向はあるように思う。
 
楽山は、内村鑑三の信仰観を、個人の霊的能力の問題におとしめています。ひどい曲解です。このように、楽山は、直感的な感性と感動のない不感不応の人だから、手っ取り早く、霊能が欲しくて欲しくて、たまらないのでしょう。
 
そして、楽山のいちゃもんが、また始まりました。「特定の思想宗教を強く信じれば信じるほど強まる傾向」というのは、恐ろしい捻じ曲げ方です。
 
強く信じることというのは、これだけでは語弊のあることですが、楽山は、その語弊に乗って、思い込みの強いことが強く信じることだという前提で、またしても、ねじ曲げて、宗教をおとしめているのです。
 
宗教は、確かに、現在進行形で楽山が今やっているように、ねじ曲げると理解不能になるということです。自覚のない楽山は悪意に満ちたホラーであります。またしても、おとしめが、そう言った捻じ曲げ犯の楽山に返ってくるというブーメランとなっています。楽山は気づかない人です。
 
もう一つ気になったのは「万象の中に神を見る」という考え方である。これは自分にも理解できなくもないが、人は進化の過程で物事に意味を見出す習性を身につけたのであり、無意味さに耐えられない生物であるという話もある。
 
内村鑑三は、万象に神を感じることを言っています。にもかかわらず、妄想的読み違いによって、楽山は、意味を見出すのだそうです。自然の雄大さに、自分の信仰の意味を見出すでしょうか。見い出せるのは、神への畏怖であり、その影響からの信仰の尊さであり、自己愛によって捻じ曲げた意味付けをする楽山の語る "意味" ではありません。
 
それならば、たとえ万物の中に神を見、感じたととしても、それは事実に基づくものなのか、それとも人の習性に流されて万象に自己流の意味付けをしているにすぎないのかを慎重に吟味すべきであるし、
 
したがって、この楽山の言は、突拍子もない勘違いであります。何を、万象の中に、慎重に吟味できるでしょう。直感するしかない大自然~森羅万象であります。
 
思いつきの、格好だけの、嘘八百もいい加減にしなさい。今、楽山が、「万象に自己流の意味付けをしている」ということです。こうやって、全くの無理解から、いかにも、勉強しているかのような見せかけの文言を吐いてくる楽山です。時々書くのですが、また書きます。・・バカか・・
 
この思惟を経てからでなければ、真に「万象の中に神を見)たとは言えぬだろう。けれども本講演ではそこまでは踏み込んで語られてはいない。ここは残念である。次回の講演でこの点についても語られているかどうかは分からないが、期待して読みすすめたいと思う。
 
楽山は、内村鑑三の言葉を、感性を通さず、文字通りに受け取って、理屈をこねています。万象を見れば、何でも、つぶさに理解できるのが、宗教だと思っているようです。何が残念でしょう。楽山こそが、ずっと残念な人なのです。
 
しかも、気づかないのです。楽山は、庭か公園の石を見て、一生、そこで、意味を考えておればよいでしょう。宗教にも信仰にも縁はないと思います。内村の「低劣を自白」とは正反対の、楽山の、自覚されず自白されない "低劣" が、鼻を突きます。
 
 
暗い低劣

暗い低劣
 
 
{2021年05月05日}
 
 
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  楽山の人間離れ
 
 「第十八講 ヨブの見神(二)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、人格に興味がないことが表れています。さらに、楽山は、人格ではないのかもしれません。宗教を考えるときに、自分以外のもの、被造物であるとか自然であるとかを考えて、心を考えないし、心に感じない楽山が、宗教と信仰、即ち、人間を生かす道を説くことなど出来るわけはないのです。
 
「第十八講 ヨブの見神(二)」を読んだので、印象に残った箇所と感想をメモしておきたい。
「第三十八章の研究」。
「有名なるドイツの科学者フンボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を説く能わずというた」。
海の動揺(心の動揺)は人には制御し難い。しかし「我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う」。
「神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる」。
「一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする」。神を見るには「彼の所作物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる」。
 
この引用は、楽山の興味を表しています。「海を制し」「荘大なる宇宙」「深妙なる運動、神の所作と支配」「所作物たる宇宙とその中の万物を見る」・・楽山の誇大妄想の世界でしょう。大きく偉大な者が好きで、そういうものとの関わりでないと神を考えることが出来ないのです。
 
宗教と信仰は、人を生かすためにあります。しかし、楽山は、人間の心が分からず、ゆえに人間の存在に興味がなく、人間を見たり考えたりが出来ないために、どんどん人間離れしたものしか見ないようになっています。
 
「一人の人」である自分「を真に知らんために」自分を見ることだけは出来ない楽山です。
 
楽山自身は、今まで楽山が書いてきたものから、スケールの大きいものどころではなく、人間一人さえも洞察や共感が出来ないでいて、できないことの反動のように、安っぽい空想だけで、宇宙と万物とかデカいものを語ろうとするのです。
 
一つには、スケールの大きなものは想像するしかないために、批判を受けにくいと見ているのでしょうか。誇大妄想的空想は、それだけで、身の程知らずを表すことになります。身近なものが、全く、意に反して、手に負えない楽山ならではの、子供じみた自慰行為の誇大広告なのです。
 
そういう事情だから、批判しても、返しも弁明も出来ないということでしょう。もう、2年以上も続いていることです。そうして、反省しない、責任は負わない、悪いことは人のせいにする、・・そういう人格が、自他を破壊する悪魔性の体質として養われてきたのでしょう。
 
自然の中に神を見るというのはよく聞く話ではあるし、それは自分も感じたことはある。「このようなものが偶然にできるものだろうか。そんなことがあるとは思えない。このようなものが存在するということは、やはりその背景には何らかの意思があるはずだ」など。
 
楽山の、月並みな、荘厳気分からの陶酔を語る口は、人間一人も、好きになれない、うまく関われない、共感できない、ならば、傷つけてやれ、壊してやれ、という方向に、堕ちてきたのだろうと思います。
 
私は、人付き合いが苦手ですが、聖書が、信仰が、キリストが、人間らしい道を示していることには気づいて、残り少なくなった人生において、今も、なお、人間として少しでも成長したいと思うゆえに、努力可能で修正可能な道を歩もうと努めています。楽山の語る神?は、楽山自身であり、嘘っぱちです。
 
でも自然の中には美しいものばかりではなく、醜いもの、酷いことも多くある。肉食獣は他の動物を生きたまま貪り喰うし、寄生バチ、カッコウなどの残酷な習性をもつ生物もいる。これまでに多くの種が無残にも絶滅したともいう。これらの事実からすると、自然は神に由来するという考え方にはどうにも疑問を感じないで入られなくなるし、自然によって神を知ろうとするのは想像以上に困難な道になりそうにも思えてくる。もしかしたら自然の見方が浅いせいでこのような考え方をしてしまうのかもしれないが、とりあえずはこれが現時点での正直な感想ではある。
 
「醜いもの、酷いことも多くある」・・その典型例が、楽山自身であることに、自己愛性人格障害の楽山は気づかないのです。そうして、平気で、人を無視し、あるいは、悪口を言い、自己正当化の詭弁を弄して、みすぼらしい自身と我執を隠そうとしては、いっそう恥ずかしい失敗と欠陥を露呈するのです。
 
楽山は、何事についても、決して、批評、評論する立場に立ってはいけない人です。すべて嘘となり、偽善となってしまうからです。自己愛性が、自分を、まともに見せかけようとするとき、最も、人を傷つけやすくなります。どうか気をつけてください。
 
また、今回も、楽山は、自分を良く見せようとあがいて、結果として、わざわざ、最も見苦しい自分を表してしまいます。一生、これを、繰り返す因業(いんごう)なのでしょうか。
 
自分を見ることなく、人に向かって、書いて表すことで、泥の靴を履き、虫の羽音を立て、笑いの口を引き伸ばして、なお、人の血を求めて、歪んでゆきます。
 
 
因業を踊る者

因業を踊る者
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田氏は、及川氏とは交流があっても、幸福の科学とは距離をおいてるんだろうと思ってたけど、それは間違いだったようだ。
百田氏は何年も前からリバティ(幸福の科学)との付き合いがあったんだね。
午後7:03 · 2021年5月3日·Twitter Web App
 
また、自分のことを棚に上げて、他者のことだけは語ろうとする楽山です。自己愛に凝り固まると、こういうことになります。今まで、自分を語っても、自分はこうだ・・みたいな書き方しかできず、反省と書いても、全く自分を斬ることのできない楽山です。
 
しかも、楽山は、発言の責任を負わず、反省もしないのだから、言論や批判をする者としては、完全に失格です。そのことさえも無視して書いてくるのは、病質者だから・・以外に考えられないのです。
 
遠い先のことを慮ること、すなわち、遠慮することの出来ない楽山です。楽山には、誰も、関わらず、近づかないことだけを願っています。
 
 
{2021年05月04日}
 
慮る(おもんばかる)
 
 
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  楽山の世辞と無責任
 
 「第十七講 ヨブの見神(一)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月01日 楽山日記(LD)
 
 
批判されて、答えることも返すことも出来ない反キリストの楽山は、今回、見苦しくも、伝道者である内村鑑三を、褒めているようです。ここで、褒めて舞い上がるのは、卑怯者だけでしょう。
 
このように、批判したが、褒めたから、責任はない、という文脈は、以前にもありました。責任逃れに過ぎません。本当に汚い男です。
 
楽山は、楽ではなく、山ではなく、落石です。危ないから、よけてください。
 
「第十七講 ヨブの見神(一)」を読んだので、要点をメモしつつ感想を書いてみたい。
「第三十八章の研究」。
「人の声は人を救うことは出来ぬ。神の声のみ人を救い得るのである」。
第三十八~四十一章について、「これ真の見神実験記である。人もし信仰と祈禱の心とを以てこれに対せば、これが真の見神記なることを認め得るであろう。いたずらにこれを貶するが如きは敬虔の念乏しく真摯において欠くる所の態度である」。
 
神を見る、と解すれば、大いに誤解がありそうなことを、楽山は、気遣いや思いやりが皆無なので、説明をしません。恐らく、故意に、キリスト教の信仰は、神を目で見ることだ、という誤解を広めて、その上で、否定したいのでしょう。こういう男だから、信頼度は、とっくにゼロ~マイナスなのです。
 
(ネットより)
けん‐しん【見神】 の解説
霊感によって神の本体を感知すること。神霊の働きを感知すること。
 
神の御心であろうか、導きであろうかと、いつもではないが、感じることはあります。しかし、それで、人に、いちいち説明のつくような生き方を、神は、人に、与えないだろうと思います。
 
何故なら、人は、神よりも低い存在として造られており、一気に、神を目で見たり、神のように完全になることはないからです。だから、前から言っているように、神を目で見るとか、耳で声を聞くとか、神秘が与えられることに執着するのは、キリスト信仰ではないのです。
 
楽山は、"見神" ということが気に入ったのでしょうか。今までも、楽山の興味は、超常や神聖、そして、霊など不思議な力や現象に向かっていました。それは、恐らく、楽山が、勉強する気のない怠け者で、霊能や超能力で、一気にスーパーマン的なものになりたいからでしょう。
 
楽山が、そういう霊の話、スピリチュアル、霊言、ホラーや冒険アニメを、好んでいることに表れています。そのような怠惰なのに欲望だけが強い者を、神が是とするでしょうか、どう考えても否であります。
 
つまり、楽山は、神にも、真実にも、もちろん真理にも、正しさにも、感動にも、共感にも、縁のない人だということを、楽山の書いたものによって、書くたびに自ら証明しているのです。
 
「エホバの声はとかく人の道が窮まった時に聞ゆるものである」。
 
神の声が聞こえるといっていますが、実際はどうなのか、ボイスなのか直感なのか感動なのか、誰も知らないと思います。幼稚な超常趣味の楽山ごときに利用~悪用されるような伝道者ではないから、内村鑑三は信頼を得ているのです。
 
私は、神については、人が、姿を目で見たら目がつぶれる、耳で声を聴いたら鼓膜が張り裂ける、さらに燃え尽きる、・・くらいに、思っておいたほうがよいと思っています。神を、甘く見て、舌で舐めている楽山の、罪業の深さは、楽山を、反信仰、反キリストに、どんどん向かわせています。
 
「神は地とその上に住む人を空しく造ったのではない。されば我らは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして安ずべきである」。
 
書いてあるように、内村鑑三の言う見神は、「地を見てそこに神の愛を悟る」ことではないかと思います。神を目で見る、奇跡を起こす、というのでなくても、「地を見て」だけでなく、人に起こる様々な信仰の表れを見ることは、恵みであり、救いであり、平安をもたらし、人を生かします。
 
これら福音の一切を、自己愛性人格障害によって捏造の観念から偏執固定している楽山は、全く知りません。楽山は、何も知らないことが表れているのに、書くことをやめません。書くと恥ずかしいのでは?という羞恥心がないのです。
 
楽山は、誰の助けにもならない口であり、何も語ってほしくない反キリストであり、嘘吐き宗教ペテン師なのです。
 
本講は内村鑑三の体調不良のためか短いものになっている。ただ体調はよくないにしても情熱はいささかも衰えてはおらず、一言一言に力があり、心に迫ってくるものがある。これが信仰というものなのだろう。
 
伝道者の、志や、情熱や、言葉の力や、真に迫ることなど、受け取る気がない楽山には、信仰というものについて、語る資格などありません。語れば、信仰の邪魔になるだけであり、無理解からの反信仰が表れるだけです。病質者の楽山の言葉は、広まれば広まるほど、不幸を、関わる人に及ぼすでしょう。
 
信仰というと静寂に向かうイメージがあるけれども、それとは反対に非常に活動的、積極的な方向に進む場合もあり、ここでの内村鑑三は後者のようだ。
 
信仰の静寂のイメージも、楽山においては、理解されていないと思います。何故なら、信仰による静寂とは心の安らぎであり、活動性や積極性の反対ではありません。何も分かっていない者が、何も分からずに、分からないことを書いています。迷惑も甚だしい。
 
楽山の口は、いつも災いです。嘘吐き楽山からの、溝も水路もないままに流されるインスタント腐食廃液を浴びないよう注意してください。
 
楽山は、嘘を吐いて空振りばかりして、ずっと前から、この記事のように中身も理解もない口だけ宗教を発信してきました。楽山の情報の信頼性は皆無であり、災難の時には、楽山のような良心カラッポ人格は必滅であり、人々はその巻き添えを食わないように警戒が必要です。
 
前に書いたことのある「狼と少年」は、いずれ、狼が、羊を食べつくし、嘘吐き少年をも食べてしまう話です。それに喩えれば「災いと楽山」であり、つまり、楽山は、いつも嘘を吐いて、自身の災いを感じず、知らせず、本当の災いの時には滅びをもたらす厄病神の機能しか持っていないのです。
 
 
うっ血性ピエロ

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{2021年05月03日}
 
 
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  楽山を斬る聖句
 
 「第十四講 ビルダデ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年03月27日 楽山日記(LD)
 
 
内村鑑三の本を引用して、まるで、論理立てをしているようです。しかし、前から書いてきましたが、自己愛性パーソナリティ障害の楽山には、論理も、理路も、情緒も、自己愛と自己正当化の方向に偏ってゆきます。また、論理どころか、できない無理を通そうという楽山の悪あがきです。
 
「第十四講 ビルダデ再び語る」の要点を抜き出しつつメモ。
ビルダデは「頭脳明晰」であり、その意見は「論理は整然」としていて、「さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大いにたじろい」ている。
 
ビルダデは、ヨブの三人の友人のうちの一人です。楽山が、上のように言うことには、何の根拠もありません。ここに書かれたことは、個人的な、楽山か著者の褒め言葉、という意味しかありません。楽山にとって、ビルダデは、都合がよいのでしょう。利用できるものはなんでも利用する楽山です。
 
ビルダデのように論理によってのみ判断する人は、神を弁護者としつつ神に対峙し、神を恨みつつ神に仲保者であることを期待し、「神を敵としまた味方とし」、「神を罵りまた神に憐れみを乞う」ようなヨブは、「理性と論理においては迷妄の極」ということになる。
 
ビルダデをはじめとするヨブの三人の友人は、神の偉大さを、教条的に大仰に述べているようです。それで、災難に見舞われているヨブの悲しみに答えているとは思えないという感想です。
 
ヨブは反論しますが、そこで語られているのは、自己正当化であることに変わりはないのです。楽山が、賛同して、ビルダデを「頭脳明晰」「論理は整然」と書いているのは、ただ、楽山の反キリストという目的に都合がよいからだけなのです。
 
「さすがのヨブ」を楽山は、全く理解していないことが、今までのヨブ記の記事で明らかになっています。楽山は、机上の幼稚な理屈しかありませんから、心を受け取れず、流れを把握できず、ただ、神を否定したいからにほかなりません。
 
それを指摘しても、なお、弁明せずに、主張だけを書いてくるのは、野良犬が、腹を空かして、獲物を漁って、吠えているのと同じです。犬には犬なりに条件反射的な学習機能がありますが、楽山には、人として学習することがありません。悪意だけの、いちゃもん屋、それが、楽山であります。
 
「ビルダデの悪人必滅論はヨブを指した者であることはいうまでもない」。
ヨブの苦しみは「産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のこと」ではない。
「神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている」「彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を思いきって棄ててしまうに堪えない」「失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦しみがある」。
 
前と同じように、ヨブを、正しいのに神にいじめられている悲劇の主人公として書きたいのでしょう。反キリストらしい文脈です。こういうことを書く人で、人の話を受け取らず、共通の場に立とうともしない楽山ですから、誰も近づかないように、批判記事を書いています。
 
「 」でくくっているのは、著者の引用なのでしょうか。つまり、楽山は、自分の考えを書きません。書けないからです。何も、頭にも心にも、説明できるような、しっかりした主張がないのです。
 
にもかかわらず、完成した自己、即ち、自己愛と自己中から、都合のよい言葉に賛同して、同等の学者気取りで、勝手に、神を否定する方向に進めてゆこうとする誘導の詭弁に、決して乗ってはいけません。そういう書き方をして、ますます、醜い本性を表してゆく楽山です。
 
楽山の言については、引用でも、楽山が書いたものでも、理路を追おうなどとすると、はてしなく病的な疲労におとしめられます。それを承知で、なお、楽山は、同じ書き方をしてくるのです。それは、もはや、悪意以外ではないのです。まともでない者が、まともを装う見栄張りの姿なのです。
 
文章を読んで、一般的には、よく考えることは必要です。しかし、魂胆があり、作為と悪意があり、理路の混乱によって疲れるだけの、楽山だけは、決して相手にしてはいけません。人生の大事な時間を、楽山というドブに捨てることになります。
 
この楽山の記事において、楽山は、著者に、世辞のような褒め言葉を書いて、また、賛同していますが、楽山自身は、何も、独自の解釈の理路を組み立てていないことに気づいてください。それが、楽山です。そして、楽山の記事全体を通した特徴です。
 
伝道者である内村鑑三の言葉を、エサに食らいつく野良犬のように、悪用して、貪る、それ以上ではないのです。荒い息と、よだれの臭いだけが、楽山の出しているものです。
 
ビルダデの放った言葉によって、ヨブの「苦悩は弥増るのみである」。これによって十九章において、ヨブは「友に憐れみを乞うに至」る。
 
 (ヨブ記、口語訳)
19:1-2
そこでヨブは答えて言った、「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3
あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
19:4
たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
19:5-6
もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
 (ヨブ19:1-6、旧約聖書)
 
ヨブの心を察して思いやるのではなく、神の正義の全能の教条によって、ヨブを責めているのが、ビルダデです。
 
それを指摘して、苦難を神のせいにして、自己正当化に、ますます、固まってゆくのが、ヨブです。
 
ビルダデの教条は、楽山に似ています。教条とは、机上の戒めと理屈であるところが、楽山に似ています。楽山は、自分と自分の体験を考えることが出来ず、幼稚なナルシストになり、他者の言葉に依存しています。ヨブの自己正当化も、楽山に似ています。
 
楽山は、上から眺めるように、神を否定する長い文脈の一部を書いています。しかし、楽山は、ヨブ記に書かれている背教と教条的信仰の特徴の、ヨブ記の登場人物の、ヨブと友人の両方に類似点があるということです。
 
つまり、ヨブ記は、宗教に関わる人間が犯す過ちの典型を表し、図らずも、根拠のない反キリストと幼稚な教条主義の楽山に当てはまることを描いているという結果になっているのです。楽山は、自分の過ちを見ているようなものです。楽山は、不感不応の病質のために、気づかないのです。
 
内村鑑三はヨブをよく理解し思いやっているが、それだけ三友に対して手厳しいことになっている。内村自身、ヨブと同じく深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう。
 
災いにおいて、自分の非を認めず、他者のせいにして、聖句を生かすことができず、自己愛に固まって、反省できない偽善者には、必然的に、よくあることです。聖句が自分に当てはまることに、まるで気づかないのです。ひどくなっています。
 
「深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう」などと、わざとらしく共感の言葉だけ書いて、上から、傍から、内村鑑三と、ヨブと、ヨブ記を読んで書いているつもりで、他人事として評価している楽山が、とても、滑稽です。
 
 
気づかない

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(2021年03月28日、同日一部修正)
 
 
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