ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  分からないと言える勇気3
 
 
キリストの教えについて、分かることと分からないことがあります。ずっと分からなかったが、あるとき分かったということもあります。キリストの教えを理解することは、信仰の成長に伴います。分からなければと、思い込もうとしたり、決めつけたりしないでください。
 
Q:「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
  (マタイ5:27より、口語訳)
  
  「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
  (同、新共同訳)
  
A:情欲をいだいてはいけない。
 
B:情欲をいだかなければ人類は滅亡する。
 
A:夫婦が子供を造るためにだけ許される。
 
B:さあ子作りを始るぞ・・だけでセックスする男女はいない。
   いたとすれば、偽善者の嘘か、気色悪いかだ。
 
A:「他人の妻」ということなら、守れるだろう。
 
B:情欲は、湧いてくるものであって、湧かないようにすることは出来ない。
 
A:だから、できるだけ心掛けようということ。
 
B:そんな教え、ありきたりの道徳と同じ安っぽさだ。
 
A:無意味だというのか。キリストの教えを。
 
B:その解釈と訳は、キリストの教えではないと言っている。守れという教えではないということだ。
 
A:教えは守るためにあるんじゃないのか。
 
B:この教えは、守れない私たちのためにあると思う。そして、できるだけ・・みたいな甘いものではない。信仰の根幹にかかわることだ。
 
B:恐らく、神のように完全になるには?と問う者が多かったゆえに、キリストは、守れないことを承知の上で、完全になるため?の教えを説いた。これは、到底守れないことの例示である。つまり、完全になることが信仰ではないという教えだ。
 
B:ゆえに、信仰は、守れない不完全な人間である罪人が救われるための信仰である。したがって、この教えは、結局、罪なき人は一人もいない、信仰者も罪人でなくなるわけではない、守れないゆえに、正直に祈って、赦しを乞いなさい、という悔い改めの教えである。
 
 
偽善者は、守っていない自分を隠して偽ります。こまごまと、ああせよ、こうせよ、こうするな、などを考えるのは行為義認に走りやすく、また、傲慢な偽善者の自慢話のネタになるだけでしょう。神の前に、不完全で罪深い自分を正直に告白することが、信仰です。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
聖書には、分かりにくいところが、いっぱいあります。そのような場合に、気安く分かったと言わないでください。聖書は、人間存在のあり方について、奥が深いのです。だから、女ではなく、他人の妻なら、不倫の戒めだから、守れるでしょ・・というような、気安い解釈をしてはなりません。
 
信仰は、誰でも理解できるように、すぐれてシンプルでもありますが、たとえ、分かったつもりでも、もっと深い話~解釈によって、信仰を新しくすることが必要な場合があります。自分の理解を固定しないことが大切です。また、道徳でしかないような安易な解釈をしてはなりません。
 
なんとなく言葉の辻褄が合った気がして、そうですね・・と言うのと、分かる、すなわち、理解する、ということは別です。分かったと思ったときに解放感を伴うのが理解です。伴わないのは実感のない辻褄合わせに過ぎません。
 
全能の神と、不完全な人の、決定的な違いを弁えることが信仰の節操です。キリストは、それを伝えて、人々を救う使命をもって来られました。その上で、身を捨てて、愛と共感を示されたのです。神のほうを向かず、神を恐れず、教えを安い道徳にしてしまう者がいます。
 
信仰が、守れという教えならば、教条主義となり、欺瞞によって、守っていると言って、守っていない自分を隠して、パリサイ人のようになるでしょう。そして、平板な道徳に堕して、いい加減な解釈をしてしまうのです。そういう、信仰を知らない偽善者も解釈者も、現にいるようです。
 
人が守れないことを承知の上で、人が完全でないことを承知の上で、そのような人々を救いに与(あずか)らせる福音を宣べ伝えるために、キリストは来られたのです。気安い道徳への曲解は、信仰も信仰者も滅ぼします。
 
中途半端に納得して頷いて、分かったことにしないでください。知識の優れた人も、いちばん大事なことを分かっていないかもしれません。信仰は、知識自慢ではありません。お高くとまっているなら、追放するべきであります。
 
 
私たちは、神の、計画も、意志も、教えも、行ないも、心も、分かるから信じるのではありません。分からないほど不完全であるゆえに、正直に祈り、神の憐れみによってのみ救われるのです。
 
 
ですから、肯定でもなく、否定でもなく、分からないことは、分からない箱に入れて、保留にしてください。分からないことを分かったことにしないでください。また、分かっても、それに従って行動するときに、神の意志として絶対化しないでください。
 
分かっても、分からなくても、よりよい理解を求めるために、再考と反省の余地を残すこと、これは、人間そして信仰者が、学習し成長するための務めとして、信仰のいちばん大事なことです。
 
すなわち、信仰において、いちばん大事なことは、分かると言うことではなく、分からないことを正直に分からないと言える勇気なのです。それゆえに、キリストの荷は軽い、つまり、キリストは、人の荷を軽くする、人を解放する、ということになるのです。
 
分からないと言う勇気は、祈りにおいて分かりませんと告白することでもあります。それは、神と違って完全ではないゆえに罪深い人間が、祈りによって、罪の重荷から解放されることでもあります。それによって、余計な力みや豪語から、神に祈る生き方へと向きを変えることであります。
 
 
分からないと言える勇気

分からないと言える勇気
 
 
(2020年03月03日)
(2021年03月04日)
(2022年03月10日、再録+加筆)
 
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
  罪と赦し(抜粋)
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔もその中にある嘘と本当を見抜かれる全知全能の神様に対しては偽りを向けてはならないはずです。神に対しては、正義や善よりも、正直な祈りだけが、人間に可能な真実です。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない場合もあるでしょう。信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性を押し殺すようなことをするべきではありません。
 
特に神様の前では、告白も、疑問も、願いも、どこまでも正直な告白と祈りができるように努めたいものです。
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は赦された」という言葉は命をもって与えられます。「信じれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して赦されることはない」。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、趣味の話を書いてきます。そういうときにも、楽山の病質は表れてきます。例えば、自らの立場を無視して、趣味の話じゃからからええじゃろ・・とでも言うような、趣味と真実の区別もせずに、テーマを混同して書いてくるのです。楽山は、未熟ではなく、既に、老醜の失禁なのかもしれません
 
 
 
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  祈る心2
   「祈り、でもでも」修正、加筆。
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈りたいことがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
殆ど、そのときの心境の吐露
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
人に分かるのかどうかといえば
どちらも人には
はっきりとは分からない
 
信仰が全知全能の神に従うことなら
不完全な人の信仰は
完全ではありえない
 
つまり分かっていると思うことは
御心か人間の勝手かどうかさえ分からないのに
分かったことにしやすいという自覚
 
神がではなく
自分が・・である
 
つまるところ
反省もせず分かったつもりになり
かつ分からないと言わなくなったら
もはや信仰ではない
 
祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
そして神だ
 
どうしても人には分からないことがあるからだ
 
神のなさることは分からない
 
人によっては
完全を気取った祈りが
実は自慢だったり呪いだったりする
 
いくつもの祈りの結果が総て益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
祈るとき鰯の頭を仰いではいないが
弱いから何かに頼りたい気持ちはいつもある
 
叶う叶わないにかかわらず
打ち明けて任せる相手を求める立場から出発しているからだ
 
でも本当の神を思い浮かべることは出来ないから
何も整ってはいなくて
むしろ整うことも壊れることも不完全なのである
 
正しく信じていない自分
信仰の薄い自分
 
いつも
そこから始まっているようだ
不完全、欠点だらけ
いたたまれなくて
祈り
 
 
(2011年10月29日)
(2019年05月29日、修正)
(2020年05月30日、修正)
 
 
人の言葉の不完全さ・不十分さを
書いたり読んだりするたびに思います。
そのたびに修正するとしても、
修正が必要であると感じること自体が既に不完全を示しています。
人の信仰は完全にはなりません。
 
前にも書いたけど、揺るがない信仰は、忍耐強いのであって、
信仰の固定と訂正不能は、もはや信仰ではありません。
 
自分の信仰を固定するのは自分信仰です。
それはまた唯一の絶対・永遠・不変の神
という飼い主である神を無視する行為です。
神以外に完全はありません。
 
神の導きは、どのようにあるか、事前に人は分かりません。
事後にも、完全には分かりません。
次に連なるのが、恵みか、試練か、人は確定できません。
 
信仰によって生きてゆく意志を与えられることはありますが、
信仰によって生活が便利になることはありません。
 
恵みと試練は同一なのかもしれないと前に書いたことがあります。
自分の思いは様々あっても
自分の気持ちだけから、恵みだ、試練だ、と確定してはいけないのです。
 
修正ばかりしていると、なんだか、いい加減のような気もするけれど、
その時その時は、一所懸命に書いてきたつもりなので、
自分の判断はその程度なんだ、という自覚は、結局、必要になります。
 
それは不完全である自覚=罪の自覚でもあります。
 
人の言葉は、伝達のための暗号です。
 
神の言葉が完全でも
聖書を読む人の言葉は不完全です。
 
人間の表現の、目に見える手立て、
すなわち、言葉、態度、行為、サイン、総て、伝達手段として
広い意味で、言葉と言ってよいでしょう。
そういう人間の言葉は、当てになりませんが、
その時その時は、当てにしているのです。
他に、人間は、表す言葉を持ちませんから。
 
神の言葉であるという聖書も、
私たちは、人間の言葉によって、
自分の言葉の世界において受け取っています。
 
神の言葉だから正しいというのは甚だしい間違いです。
受け取って伝えているのは不完全な人間です。
 
聖句の一つ一つに魔法を期待してはいけません。
聖書の言葉は、状況によって、
人によっては、躓(つまず)きの石ともなり得ます。
聖句をいつも正確に受け取っているわけではない人間が使うからです。
 
自分の心に起こる動きを、正確に対象とすることは難しく、
心を動かされたことも、恐らく、自分で言葉化してゆくのでしょう。
すなわち、信仰には、一時的には、不可避に、自分信仰の部分があります。
 
しかし、それを信仰だからと確信する方向には、
神と同一そして一体感という恐ろしいカルト信仰が待っています。
 
ゆえに、反省による学習によって成長できる信仰であることが必要です。
難しいことではなく、その最も大切な時と所が、祈りであると思っています。
 
祈りだけは、信仰の心が全くなければ、することはないでしょう。
祈るのは、信仰の心が、ちょっぴり以上あるからなのです。
 
正直に祈りたいという気持ちが、まず、第一に、信仰の、最も確かな恵みなのです。
 
 
祈り願う

祈り願う
 
 
(2020年06月09日、修正再録)
(2021年06月10日、再録+)
 
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
パスタファリアン
@FShinnja
普段、幸福の科学の盲信者を見ていると、ああこれなんだなと思うことがあくつも。
ただ、我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけないとも思う。
午前0:32 · 2021年6月9日·Twitter for Android
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。
 
楽山は、いつも、卑怯で、狡猾で、企みますが、大人の人格に成りえていないので、心は、ネズミ花火のようなものです。人を盲目にして、自らの盲目に気づかないのが、楽山です。恐ろしく知性も感性も劣化して、責任ある言動が出来ないのです。
 
「ああこれなんだな」と、いつも、他者を嘲笑っているのが楽山です。さらに、楽山は、「我が身もふりかえり、気を付けなくてはいけない」などとは思っていません。楽山は、だまされる側ではなく、自家製の詭弁によって、いつも、だます側の自覚だからです。
 
したがって、賛同したつもりでも、共感のつもりでも、自己愛性人格障害の楽山には、正常人の真似はできません。楽山には、共感も、誰かを真に尊敬することもありません。よって「我が身もふりかえ」ることなど出来ませんし「気を付け」ることもしません。だまされないでください。
 
楽山は、自分カルトですから、我が身を振り返ることもなく、慢心して、充実しているつもりで、人に意見が言えると思っており、かつ、その意見は客観的な卓見だという自覚があるのでしょう。自分のみすぼらしさを感知する能力がないので、自分の言ってることの下劣さに気づきません。
 
 
 楽山に似た筆致のツイッターですが
 
raku
@rakusyo34
自分のやったことはブーメランで自分に返ってきますね(・_・;
午前9:03 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
 
最初、こちらにブーメランと言ったのは楽山のほうです。しかし、今までに、こちらが、楽山について、ブーメランという指摘をすることが、つまり自爆のようなことが、どれほどあったでしょう。書けば、おかしなことにしかならない、因果の、因が楽山で、果が楽山、という繰り返しです。
 
楽山は、こちら、または、キリスト信仰を、批判・否定・攻撃して自己正当化をしたつもりで、ひっぱたかれるのは、いつも、楽山のほうなのです。こちらは、楽山が書くたびに、楽山の文章から、楽山批判の題材を受け取っているという成り行きです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
断定口調で話す奴や偉そうな奴は信じるな。賢くなればなるほど自分がいかに何も知らないか気付いて断定口調で話さなくなるし、偉くなればなるほど偉そうに振る舞う必要がなくなり腰が低くなる。断定口調で話す奴は100%ただのバカだし、偉そうな奴は120%実際は偉くない小物。お前ら、これメモっとけよ?
午後6:34 · 2021年6月9日·Twitter for iPhone
 
引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
断定口調でなければ大丈夫と言うことはありません。その最悪の例が、楽山ブログとツイッターであります。断定口調を避けることは、断定できるほどの責任を負えない楽山であったり、柔和を装う楽山であったり、刷り込むための楽山の丁寧語であったりします。
 
断定しているから受け取るのではなく、断定していないから安心するのでもなく、冷静に理路と心の共感を追う姿勢が大切です。楽山は、冷静に、冷酷に、邪悪な詭弁の理路を捏造し、理解と共感のなさを、とっつきやすそうな言葉の体裁で繕う婉曲表現が手口なのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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