ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:利己主義

 
  楽山の幼稚3
 
 『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著
 2020年07月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
(ネットより)
モラルハラスメント:
モラル(良識とされる道徳や倫理)によって行われるハラスメント(嫌がらせ)。 俗語としてモラハラと略すこともある。
(ウィキペディア)
 
過去の楽山の記事ですが、改めて批判します。楽山は、いかんなく、自覚のないモンスターぶりを見せています。モラルハラスメント・アニマル楽山といっても過言ではない。楽山は、自己中からの判断だけで、都合の悪い人を無視し、理解もできないまま宗教をおとしめる人です。
 
楽山の論理めいた詭弁は、扉を、その外見だけから、開けないままで、行く先は空しいと言うのに似ています。扉を開けて中に入るのが面倒で、机上で、中の部屋を、決めつけて満足しています。一切の労苦をしないで、真理を得たと思いたいだけの幼稚さです。
 
 
本書では主に進化心理学の立場から男と女の心理について考察しているが、あっと驚かされる話が沢山披露されていて面白い。たとえば誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、一夫多妻は女性に有利で、離婚は男性に有利だとか、結婚相手に求めることは男と女とではどのような違いがあるかなどだ。こういう話は実に面白い。
 
楽山にとって面白い話は、楽山の我欲に都合のいい話で、楽山は、あっと驚いても、それに相応しい感受性など持っておらず、都合がいいという思いだけだと思います。あっと驚く=面白い、という判断こそ、背伸びした楽山の興味本位の宗教話に過ぎないことを示しているのです。
 
楽山は、「あっと驚かされる」のだそうです。しかし、このような楽山の発言に、全く信頼性がないことが3年余りの批判によって明らかになってきたのです。あっと驚く楽山ですが、驚きを表す単純な言葉しか思いつかないようです。「実に面白い」も、表現の乏しさを表すだけです。
 
楽山が、あっと驚くことは、小学生なら、驚くかもしれないが、中学生なら、あまり驚かず、高校生なら、舌打ちをするようなことでした。自己満悦しかない者というのは、本当に困りものです。しかも、訂正不能に繰り返すだけで、学習と成長がないのです。
 
楽山が言っていることを信頼しないでください。男女のことは、単純に割り切ることは出来ない、という当たり前のことが、楽山の頭にも心にも入っておらず、実に、安易に、自己満で、分かったとか、驚いたとか、面白いとかいうのが、楽山の嘘っぱちの特徴なのです。
 
 
ただ著者の語る人間観については、人によって合う、合わないははっきりわかれることになりそうだ。たとえばまず著者は、人の心について次のように規定している。
 
人によって合う合わないがあるのに、なぜ、上では、男女の話を実に面白いと肯定するのでしょうか。主張の一貫性がなく、ばらばらなのも、楽山の特徴です。つまり、楽山には、一定の主張というものはないのです。その時その場で、適当に言葉の字面を並べて楽しんでいるだけなのです。
 
 
利他主義、同情、共感、良心、公平などの感覚は、すべて遺伝子を基に生じている。
(『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著、竹内久美子監訳、小川敏子訳、講談社、1995年、p.33)
 
遺伝子を基にしていることを知っても、予測など付かない、ということを、楽山は、考えることが出来ない人です。遺伝子がどうなって精神がどうなる・・という具体的なことは、分かってはいないのに、それで、次のようなことを言うのです。
 
 
おそらくは、人の精神について他の生物とはまったくの別物とし、なんらかの崇高な存在に由来すると考える人にとっては、このような人間観は承服し難いものだろうと思う。
 
崇高な存在に由来するとは、人間を無条件に高めるのではなく、神と信仰のことですが、また、楽山は、反キリストらしく嫌がらせの当てつけをしています。こういうことを言って、自分は真理を知っていると思い込んで満悦するのが、哀れな楽山であり、崇高とは逆の存在の有り様を見せ続けているのです。
 
ゆえに、承服しがたい対象は楽山であり、小学生レベルの夢物語で現実を語ったつもりになる人なので、くれぐれも、真に受けないでください。楽山は、弁明も反論も出来ない無理な人です。多くの人の中に少数いるところの相手にしてはいけない人が、楽山です。
 
遺伝子の存在と、学校で習った機能を、否定するのが宗教ではありません。そういう科学で表されたものだけで説明できないのが、心です。楽山は、心が無いので、心を抜きにしたところに居たいのでしょう。そこで、何も分かっていないのに、本を読んだからと自慢したいのでしょう。
 
そこで、止まってしまうから、誰とも共感を持ち得ないのですが、無反省で訂正不能の楽山は、そのことを無視して、学習も成長もなしに、自身の鈍い停滞を神?として、自分は、他者と違って、崇高だと思い込んで、他者を軽く見て、自己満足しているのです。
 
間違っても、楽山の、低レベル、停滞、精神の鈍化、自己満足と満悦、他者の軽視、などと、同様になってはいけません。それこそが、人格破壊による、人間の、あらゆる機能の鈍麻から、コントロールが効かなった姿です。だから、いつまでも、恥知らずに、これ見よがしに書いてくるのです。
 
 
また著者は、人の自由意思についてはこう書いている。
遺伝子とは、無意識のうちに私たちを動かすものなのだと頭に入れておいて欲しい。そうすれば、セックスだけに限らずさまざまな領域で、自分たちは操り人形だということがわかってくる。かろうじて手にすることのできるわずかな自由といえば、人形遣いの論理を解読することだ。
(同上、p.65)
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、このことで満悦し、賛同しているのでしょうか。だとすれば、呆れます。楽山の体質的異常の、自己中からの分かっている妄想の不治の弊害に、誰も巻き込まれないようにしてください。
 
操り人形だと分かることも、操り人形ではなく自由意志だと思うことも、操られているだけの必然であるならば、結局、操り人形であるかどうかを考えること自体が無意味だという理路が、楽山には、分からないのです。だから、盛んに、神に文句を言い、神を否定してきました。
 
人間は操り人形だから、自分が詭弁と嘘で操ってみせるとでも企んでいるのでしょうか。またしても、いつものように、自らの辻褄に、短絡して、酔い痴れて、のぼせて、自らの論理といっても、実際は、思いつきに、妄想に、満悦する楽山です。酷いインチキの詭弁です。
 
このような、何も良いものをもたらさない空論は、楽山の好むところではあります。意味の帰結を考えず、とにかく、結論を出して決めつけることだけが、楽山の快感なのでしょう。それで、悟ったような気持ちになるのでしょう。救いがたい浅はかさです。
 
恐らく、楽山は、生きることに何の望みも見い出せないのでしょう。だから、毎度毎度、気持ちの悪い詭弁の言説をもって、信仰を卑しめるサディストになっています。楽山は、人を、絶望と怠惰と疲労へと誘導する煽動者です。シャロームや易坊、そして賛同者まで、類が激しく類を呼んでいます。
 
今回の楽山の主張は、操り人形という詭弁を語って、絶望を広め、絶望仲間へと誘いたがっているのです。楽山の言を読んでも、真実と希望の欠片も受け取ることはない、つまり、全くの無意味発言と無責任が飛び交う世界に住んでいる楽山だということを知ってほしいと思います。
 
 
これはドーキンスの『利己的な遺伝子』で語られている人間観と同一のものだろう。
いくら個体レベルでは利他的に見えたとしても、遺伝子は一貫して利己主義を貫いている。
(同上、p.240)
 
遺伝子に、感情はありませんが、利己という主義があるのでしょうか。遺伝子を見ることも測ることも出来ない楽山が言っています。比喩表現であることは分かっているのかな・・とさえ思います。ただ、やたら遺伝子の悪口を言いたいのでしょうか。自らの誕生を呪っているのでしょうか。
 
喩えであってもなくても、遺伝子の利己主義が、人間の利己主義につながるわけではないのは、次元が違うのだし、かつ、遺伝子をモニターも出来ないのだから、常識があれば、当然のこととして、分かるはずなのです。楽山のような自己中が、言葉の表面をなぞって悪用しているだけなのです。
 
しかし、利己主義の自己中の楽山は、利己主義という言葉だけで、自らの自己正当化が成ったかのように、大発見?であるかのように、驚くべき理解?だと思い込んで、酔い痴れて、"残念だが、これが真実だよ" と言わんばかりに、書いてくるのです。
 
真実への、真っ当な追求が出来なくなった楽山は、殆ど、学者からの文字列を運んでいるだけのピエロです。それで見栄を張って、付き合う人をおとしめ、本を理解できず、心を思いやることもできないまま、ガラガラ音やガチャガチャ音を立てる陶器の破片のようです。
 
 
これも上と同じ人間観だ。
 
操り人形のどこが人間観なのでしょう。見たことも分かったこともない遺伝子なのに、遺伝子に規定されているというだけで、楽山は、総ての結論を得たかのような気分になるのでしょうか。ここにも、自己中のもたらす害毒が表されています。
 
その結果、虚無に陥り、努力を怠り、何も実のあることを学習できなくなって、都合の良い文言だけを、本の中から漁って投げてくる楽山の惨劇であります。楽山の言は、洞察も深みもなく、殆ど我欲からの、原始的な反応系です。
 
 
先に述べた通り、こういう考え方には人によって合う合わないはあるだろうが、自分はこれをユニークかつリアルに感じるタイプではある。これが進化心理学というものであるなら、もっと知りたいとも思う。
 
合う合わないではなく、楽山は、理路が全く分かっていません。ユニークかつリアルではなく、未熟かつ幼稚なのです。分かっている自分という慢心があると、こうなってしまうという例です。その後の学習を怠ってきた楽山の、これまでと、これからの、経過は、恐らく、とても悲惨です。
 
 
人間の心…たとえば「利他主義、同情、共感、良心、公平」、信仰、愛情、希望、うそ、エゴ、怨恨、懐疑など、崇高または下劣なあらゆる心理を、超自然的な何かを持ち出すことなく、進化論で説明できるとしたら、実に面白く、興味はつきない。
 
人間の精神を進化論で説明するという虚妄を語る楽山です。楽山は、「興味は尽きない」と書いていますが、それは、真実の興味ではなく、自己満悦欲求からの妄想に過ぎません。自己愛性に凝り固まると、このような人格になって、あらゆる間違いが噴き出してきます。
 
人間の心理を、進化論で説明することは出来ません。個別と全体、人間と人体、という、追究のワールドが全く異なります。それに、心の問題は、"論" で尽くすことは出来ません。楽山は、それも分からないのです。楽山の異常性の病理は、増幅して、人格の退化を進めるだけなのです。
 
楽山が欲しているのは、自分は偉いんだという満悦だけですから、そのうち、今度は、現実の市井(しせい)で、悟り?を語り始めるかもしれません。だまされた人々と、自己中のお仲間も、巻き添えになるのでしょうか。そうなれば、カルトだと、はっきり分かりやすくはなるでしょう。
 
精神病院に収容されるでしょうか、恐らく、否です。人格障害は、医療や薬では治らないので、扱わないでしょう。犯罪行為に及ぶまで、野放しになる可能性が大です。その犯罪行為は、恐らく、ペテンから詐欺、そして、とんでもカルトの教祖の排尿に至るでしょう。
 
楽山の人格の低格化は、凄まじいものがあると思います。それとともに、罪悪感も羞恥心もなくなり、今後、さらに、誇大妄想を、実際は、絶望への妄想を、むやみに押し出してくることが予想されます。決して楽山に関わってはいけません。
 
楽山については、関わらないことと、批判することと、情報を敷衍(ふえん)すること以外に、出来ることはないです。批判は、批判する気になった人がします。楽山は、情緒も理性も、まともではない危険人物です。どうか、近づかないでください。
 
 
※ 
 
楽山の言の、語尾を「と言えなくもない」「否定できない」「かなあ」などは、語尾を濁しているから断定していないつもりのようで、それで、楽山がやってきたのは、多くのことを曖昧なボンヤリ言語でごまかして、責任を負わない態度でした。しかし訂正不能であれば明らかに断定なのです。
 
しかし、断定して、訂正不能でありながら、楽山は、責任だけ負わないのです。何だか、とても、イージーな言論を、楽山は、味わっているつもりなのですが、全く成り立ちません。自己愛者が考える論理というのは、大方、そのようなものに堕しています。論理構築過程が、既に詭弁です。
 
何故なら、通常、人間は、何を言っても、何をぼかしても、書いても、総ての語尾には「と思う」が付いているようなものだからです。それが、楽山には分からないので、ボンヤリ言語でごまかせると思うのでしょう。いったい、どういう論理を学んできたのでしょう。言葉の遊びごとでしかありません。
 
神を否定しておきながら、ある教会を褒めたり、祈り芝居の詩のような?ものを書いたり、否定も肯定もしていないから、責任問題は発生しないと、言っていたことも、言論の論理が分かっていない証拠です。否定と肯定、両方とも、それぞれ、その都度、責任は発生します。
 
このように、楽山には、何か発言するたびに、無責任な詭弁の必然があり、元の言論の責任+詭弁の責任が、大きな問題、というより、大きな作為の欺瞞として発生してきます。治らないでしょうから、議論においても、論者の精神衛生上も、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
断定していないと言い張りましたが、語尾を曖昧にすれば断定していないことになるなら、楽山には、すべての議論は結論が出ず、楽山の言論は不能という循環になります。責任を負いたくないものだから、曖昧で柔和を装う楽山の企みは、害毒だけで、本質的に無意味です。
 
 
嘘吐きの有頂天

嘘吐きの有頂天
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月04日、再録+加筆)
 
 
 
 イメージ断片
 
緑の向こうに
濃い緑
その向こうに
また緑
その向こうに
バキッ
耳に残る
急ぐ足の下に枯れ枝が
たまたま折れやすくあっただけなのだが
 
走るオートバイの上から
葉を残した
落葉樹を見つけるのに時間がかかった
寒さはすでに
秋から冬を教えているのに
秋には秋を
なぜ探す
 
枕木の上に横たわる
霧を轢(ひ)き轢き
列車は自らを牽引する
遠く向こうの霧の中へ
後戻りできない水滴を乗せて
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
自覚がないから、神を自称し、人にああしろこうしろと説教できるのかもしれないですね。
自分を棚の上において、人にああだこうだ言うことにかけては、大川さんに勝てる人はいないでしょう(笑)
午後7:44 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
また、他者のことを「(笑)」っています。自分が、いちばん、醜いことに気づかないのです。楽山の言ってることが当てはまる悪は、楽山に他なりません。詭弁と嘘による誘導、乗らない人は無視する、自分を棚に上げて、「人にああだこうだ言う」のは、他でもない、楽山です。
 
楽山を受け入れると、疲労し、人格が破壊されるおそれがあります。楽山とは、議論してはいけないし、関わってはいけません。世辞を真に受けないでください。楽山を相手にしないでください。霊が分かるっぽいと思い上がり、いつも満悦したいために、人を人とも思わず、詭弁の餌食にします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
最近は、この手のニュースを見るたびに、大川隆法が表社会の高い地位についたら、過去の言行をさらされ、えらいことになるだろうなあと想像してます(笑)
 (引用省略)
午後7:28 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、性懲りもなく「えらいことになる」ことを「(笑)」っている楽山です。人格に締まりがなくなってきたのでしょうか。無意味に、無理に、他者を嘲笑いながら、低次元の快楽を、笑いを、求めているようです。
 
楽山が「社会の高い地位についたら」ネットで言ってきたことなど「過去の言行をさらされ、えらいことになるだろう」と思います。楽山のように、他者を、自分の都合だけで、平気で無視して、勝手に発信だけを続けるなんて厚顔は、社会人でも、まともな人間でもありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
藤倉善郎@やや日刊カルト新聞
@SuspendedNyorai
人権問題は「信教の自由」で正当化できない。「5大宗教」だけ別格扱いで「信教の自由」を強調し、「カルト」はその対象外みたいな発想では、人権侵害が問題なのだという普遍的な視点に立ちにくい。そもそも信教の自由の問題じゃないと思います。
globe.asahi.com
カルトの危険性を学校が指導、「宗教の自由」と見なさないドイツ 旧統一教会問題:朝日新聞GLOBE+
7月8日に安倍晋三元首相を銃撃した容疑者が、犯行の動機として「母親が旧統一教会に多額の献金をしたことで家庭が崩壊した。安倍元首相が統一教会に近い人間だと思い襲撃した」と話したことから、日本では最近、新興宗教にスポットが当たり様々なメデ...
 」
午後3:30 · 2022年7月31日·Twitter Web App
 
信教の自由も、公共の福祉に反してはいけないのだから、人権問題が信教の自由で正当化できないのは当然のことです。つまり、自分絶対正当化の立場に安穏として、人の意見を無視し、嘘と詭弁で人心を誘導して偏見を広めようとする楽山の行為も、同様に、決して見過ごしてはいけないと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の体質的訂正不能は、病気だから同情するべき・・なとど言えません。「だよなあ」「なんでしょうかね」という言い方で、人間の性だからオレは悪くないとでも言いたいのでしょうか。「嘘ばかり」「保身」「魅力の欠片もない」「失敗」・・どこが人間なのでしょうか。
 
 
 
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  楽山の無理の路2(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
つづきです。楽山の、ハッとさせられるものが皆無の記事です。
 
*愛と利己主義
この言葉は、霊界における霊たちが、地上の人々の手助けをしたく思うのは、利己主義と言われればその通りかもしれないという流れからの発言である。
愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。
(同上、p.96)
 」
自分がこの種の考え方を知ったのは、マーク・トウェインの『人間とは何か』でだった。その中では人はどんなに世のため人のためと思って行動したところで、しょせん利己性からは逃れられないとしていた。
 
酷い利己主義と自己中心の、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山が言っています。決して真に受けてはいけません。
 
たとえば仮に、ある人物が人のために自分の命を捨てた場合、傍目には何の見返りも求めず、人のためにわが身を捨てた純粋な利他行為に見えたとしても、実際にはその出発点には自分の命を捨てでも人に尽くしたいという自己の願望があり、純粋な利他行為とは言えないという論法である。
 
利己主義というのは、ふつう、自分の利益だけを求めるものです。楽山は、命を捨てる、つまり、そこで、いっさいの、物質的精神的利益が終わる行為を、実に軽く、同じ利己主義と見なしたいようです。言葉と意味についての分別のない証拠と言ってよいでしょう。
 
利他の願望は、その人の願望だから利己主義と言いたのでしょうか。どういう理路なんでしょう。何でもかんでも利己主義にしたいのでしょうか。理路にも論理にも理屈にもなっていない。
 
愛が我がままで自己中になりやすいとしても、利益や報酬を求めない行為であるならば、利己主義とは区別されるべきです。楽山の言うことは、成り立ちません。楽山は、いつも、自分を高めて、よく見せようとするナルシスト・エゴイストであります。
 
恐らく、楽山は、深みのある高等感情を理解できないために、無償の愛を理解できず、ゆえに、利他ということが分からないのだと思います。分からないのに書いてくるところが、楽山の病質だと思っています。
 
多くの新興宗教では、世のため人のために生きましょうということは言っても、その根底に潜んでいる利己心まで暴きたてることはないので、シルバー・バーチの霊言はここでも並の宗教よりよほど深いものがある。
 
以前から、呆れているのは、楽山は、自らが、自己愛、自己中からの、無反省、訂正不能、という、少なくとも精神的な、自己愛の利己主義者だということに、全く気づいていない、ということです。自己愛性は、常に自己を高めようとする欲望によって酔っていますから、利己主義なのです。
 
ちなみに竹内均は、上の現実を承知した上で、利他的利己という生き方を推奨していた。人は利己的な生物だとしても、自分だけがよければ他人のことはどうでもよいというのではなくて、自も他も幸福になる道を目指そう、他を幸福にすることが結局は自分の幸福にもなるという考え方だったかと思う。
 
訂正不能の自己愛の病質で、利他から最も遠い楽山が、こういう引用をしても、説得力は皆無であります。
 
自分としては、見返りを求めない無償の愛を実践しようというのはいささか理想主義的に過ぎて現実離れしているし、他をかえりみずに利己的に過ぎれば結局は他だけでなく自分も傷つけるだけになろうし、この利他的利己という生き方が最も現実的であり無難な指針であると思う。
 
利他を理解していない楽山の言う利他的利己とは何でしょう。どこが現実的で、どこが無難なのでしょう。「過ぎれば」云々・・と言っていますが、どうやって過ぎたと分かるのでしょう。基準が書いてありません。とても大事な問題を、いい加減な結論で済ませて満悦している楽山です。
 
相反する意味を持つ言葉の字面を、よく考えもせず安易に合成しただけではないかと思われます。洞察のない者は、言葉を勝手に結びつけて引き寄せて満悦するという特徴があります。
 
*真理を押し付けないこと
これも自分には耳に痛い言葉だ。
自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。
[省略]
私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。
(同上、p.118)
 」
とある宗教の信者だった自分は、教祖の伝道せよ、伝道せよ…という掛け声に従って、周囲の人々に宗教をすすめてばかりいたのだった。そんなに強引にすすめているつもりはなかったが、それでも周囲の人々からしたらさぞ迷惑なことだったろう。申し訳ないことをしたものだ。
 
改宗を勧める代わりに、楽山のやり方は、いちゃもんの詭弁によってキリスト教をおとしめる、また、丁寧語の曖昧なボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で誘導するという、実に嫌らしい手口です。決して関わらないでください。
 
でも今にして思えば、この教祖は、他人の心は変えられない、変えられるのは自分の心だけだと説きながら、伝道、伝道…と繰り返していたわけで、これはどうも矛盾しているように思える。
 
キリスト信仰の福音伝道は、良き訪れを伝えるという意味であり、変わるのは本人であります。つまり、楽山の「伝道、伝道…と繰り返」す、ということは、「変えられるのは自分の心だけ」と矛盾しないわけです。
 
人の言葉尻を捕らえて、HSか何かの批判をしている体で、宗教全体を否定したい楽山の狡猾な婉曲表現でしょう。信仰は、見えない導きという神秘性と、努力と学習という自主性とが、不可分になっています。人間に、意識して出来るのは、後者であります。
 
他人の心は変えられないといいつつ、他人に信仰を持つように改心を迫れというのは、おかしな話だ。
 
伝道ならば、伝えることであり、迫ることはないのですから、矛盾ではありません。楽山は、言葉の勘違いが多くて、言っていることが、一般的な言論としては、的外れになってゆきます。それは、だんだん、著しくなってゆくでしょう。無反省では、成長しないからです。
 
反省と学習を怠ってきた楽山は、気取りのために、いつも、言論の理路が、ふつう未満で、足りないと感じます。とても迷惑です。こういう人が、無反省と訂正不能になって、好きなように語っているわけですから、及ぼす悪影響も計り知れなくなるので、批判を続けています。
 
他人の心は変えられないと承知しつつも、啓蒙活動も怠らないというのなら分からなくもない。でも他人の心は変えられないと説きつつも、大きな危機が迫っているとして、急いで人々に改心を迫れというのは無茶だし、終末論で煽るカルト臭が強烈にすぎる。
 
むしろ、脅しながらの、救われ妄想信条に、惑わされないことが大切です。楽山のような詭弁と刷り込みによって、霊が分かるっぽい自己愛を満たそうとする悪魔性も、カルトと同じような対処が必要になります。
 
この辺りのおかしさに気づけなかったのは、自分の子供時代には、ノストラダムスの大予言ブームがあり、終末論にさほどの違和感を感じなくなっていたことも原因の一つになっているのかもしれぬ。
 
テレビなどで「ノストラダムスの大予言ブーム」は、70年代~遅くとも20世紀の間だったと思います。それが、楽山の「子供時代」なら、今、楽山は、30~50代ででしょうか。それにしては、文章が稚拙過ぎるとも思います。
 
しかも、自分の不覚と未熟を、今度は、ノストラダムスのせいにしています。本当に、自分の責任を認めない楽山です。くれぐれも、上のほうの、反省、トホホ、などと言う芝居に、だまされないでください。
 
*信仰者と無神論者
前の記事で書いたように大川周明の『安楽の門』では、何を信じるかではなく、いかに信じるかが大切だとしていたが、シルバー・バーチも同じような発言をしている。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
(同上、p.171)
 」
以前自分が信じていた、とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちるとしているが、このシルバー・バーチの発言が真実であるとすると、ことはそれほど単純ではなさそうだ。
 
まず、楽山が書いているような「〝選ばれし者〟の一人になったと信じている」なら、その人は信仰者ではないということです。
 
「無神論者や唯物論者は地獄に堕ちる」・・無神論者や唯物論者は、地獄を信じているのでしょうか。腹いせのような言葉です。言うだけ無意味なことのように思われます。
 
そして、楽山は、単純ではなさそうだ、という言い方しか出来ません。それも、そのはずで、楽山は、他者の意見を字面だけ利用して、心を受け取ることが出来ないのです。楽山にとっては、自他の総ての言論が、霊が分かるっぽい次元の、遊びごとに過ぎないのだろうと思います。
 
特定の宗教を信じ込んでしまうと、この宗教を信じる者は救われるが、この宗教を信じず、否定する無神論者や唯物論者は地獄に堕ちると思いたくなることもあろうが、それは公平ではないし、スピリチュアリズム的な真理にかなったものの見方でもないのだ。
 
まだ「地獄」のことを言っています。「公平ではない」というのは、単純すぎる言葉です。一方、「スピリチャアル的な真理」という言葉は、信じる者だけの不思議言葉です。この二つを並べてしまうところに、楽山の、いい加減さが、また、表れています。説明と根拠が無さすぎるのです。
 
そういえば、とある国民作家は、高僧とされる僧侶と幾人もあったことがあるが、そういう人々よりもむしろこの道ウン十年という職人さんの方が立派な人格を持っていると感じることが多い云々と言っていたそうだ。
 
とある国民作家とは誰なのでしょう、楽山は書かないのです。そして、高僧という言葉で宗教を代表させ、職人さんのほうが立派な人格と、例示の印象操作による刷り込みの汚い手口です。説明と根拠が無さすぎるのは、楽山が、説明も、根拠の提示も、できないからです。ずっとそうなのです。
 
人の霊性というものは、信仰、思想、主義、職業、立場などの表面的なことだけでは分からないものであるし、それだけで分かったつもりになるのは差別主義者くらいのものなのだろう。
 
楽山は、表面的なことに、信仰と思想と職業を並べています。本質において違うと思います。また、職業という言葉は浮いているように感じます。これらが表面的だと言いたいのでしょうか。それとも、これらの表面的な部分を指して言いたいのでしょうか。説明がありません。
 
理路が、言葉の選択が、曖昧で、いい加減で、書いときゃいい、という表面しか持たない楽山です。冷静に書いているように見せかけていますが、こういう粗雑な理路は、乱暴者の特徴です。
 
共通の理解があるわけでもないのに、楽山は、何をもって、表面的と言えるのでしょうか。何も説明がありません。思いついた言葉を、また原始反応で、よく考えもせず、貼り付けて、言い得たと満悦するのでしょうか。
 
一方、楽山という個人について言えば、確かに、自己愛のために、表面的にしか受け取っていないと思います。ゆえに、そういう表面だけで、あるいは、表面という言葉の字面を書くだけで、分かったつもりになり、何やら気取りになるのが、ずっと、楽山の特徴です。
 
本当の信仰者は、分かったと決めつけることなく、人の話を聞きます。むしろ、聞きたいので、ネットを巡ったりもします。そして、切り捨てることなく考えてみます。その上で、分からないことと分かることを分けてゆくのが考える信仰です。
 
もちろん、百害あって一利なしの、楽山やシャロームなどの悪意ある詭弁は、見るたびに、良きものは何も伝わってこないし、無駄に疲れるだけなので、ある段階で、まともに相手にしてはいけないと判断することになります。
 
「差別主義者」とは、どういう差別の意味で、楽山は書いたのでしょう。差別されたと言いたいのでしょうか、何かの種類の人物を指しているのでしょうか、特定の人物を指しているのでしょうか。差別と区別を、言葉遣いにおいて、ちゃんと分けていないようです。
 
楽山は、説明もなく書いて、丁寧語を使っているだけで、自らを、丁寧な人のつもりでいるのです。説明はしないか、できないのに、「分かったつもりになる」のは傲慢だから、批判され、否定され、退けられるのです。先入観だけの差別主義者は楽山でしょう。
 
何を言われても、何も返せないのに、高慢な自己愛ゆえに、なおも居座って、そこから、見下ろしながら、まともなつもりで、ひどい文章を書いて公表し、ごまかしに、トホホ言語で、謙虚芝居をするのが楽山です。
 
 
相手が具体的にいるかどうかにかかわらず、自分が書いていることの説得力を意識するとき、その文章には、双方向への努力が生まれています。楽山のように、自分の言い分を書くだけの場合、説得力を意識せず、その文章は、単方向の自己満足にしかなりません。
 
 
光無き誘導

光無き誘導
 
 
(2021年10月28日)
 
 
 
  視線と刃先
 
人ごみは
人ではない
人ごみは
ごみではない
 
知恵をつけ始めた子供が
はじめて手にするナイフの刃先のように
さまよう視線
ときに動きは素早くても
しばしば明確な目標を定めていない
 
目標が定まる刃先に至るとき
切り裂かれる道理が生まれ
無理が生まれるまでは
 
人ごみは人ごみである間
切る道理も切られる無理もなく
情もなく無情もなく
計られる明確さによって切り取られ
分けられてゆく
 
 
  永遠と絶対
 
永遠や絶対を求めたりするのは
それらに近づこうとするのも
人間だけ
 
動物は限りある命を
生きられるだけ生きて果てる
だから動物には
ゆとりはあっても無駄のように見えても
無駄なことをする必要もなく
無駄なことをする時間もない
 
身近なところに
その眼差しにさえ
永遠と絶対に連なる僕(しもべ)
人間も動物であるのに
 
痩せ犬が首を振り振り通り過ぎる
信じてもいい しかし
久遠
 
それは最初から届かないものとして
水晶の遙か彼方に
捨て去ったのでもなく
捨て去られたのでもなく
光の速度で止まっている
見捨てたのでもなく
見捨てられたのでもなく
 
 
 
楽山日記のコメントです。誰かは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山の幼稚2
 
 『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著
 2020年07月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
(ネットより)モラルハラスメント
モラル(良識とされる道徳や倫理)によって行われるハラスメント(嫌がらせ)。 俗語としてモラハラと略すこともある。
 
去年の楽山の記事ですが、改めて批判します。楽山は、いかんなく、自覚のないモンスターぶりを見せています。モラルハラスメント・アニマル楽山といっても過言ではない。楽山は、自己中からの判断だけで、都合の悪い人を無視し、理解もできないまま宗教をおとしめる人です。
 
楽山の論理めいた詭弁は、扉を、その外見だけから、開けないままで、先は空しいと言うのに似ています。扉を開けて中に入るのが面倒で、机上で、中の部屋を、決めつけて満足しています。一切の労苦をしないで、真理を得たと思いたいだけの幼稚さです。
 
本書では主に進化心理学の立場から男と女の心理について考察しているが、あっと驚かされる話が沢山披露されていて面白い。たとえば誤解を恐れずに大雑把な言い方をすれば、一夫多妻は女性に有利で、離婚は男性に有利だとか、結婚相手に求めることは男と女とではどのような違いがあるかなどだ。こういう話は実に面白い。
 
楽山は、「あっと驚かされる」のだそうです。しかし、このような楽山の発言に、全く信頼性がないことが2年余りの批判によって明らかになってきたのです。あっと驚く楽山ですが、驚きを表す単純な言葉しか思いつかないようです。「実に面白い」も、表現の乏しさを表すだけです。
 
楽山が、あっと驚くことは、小学生なら、驚くかもしれないが、中学生なら、あまり驚かず、高校生なら、舌打ちをするようなことでした。自己満悦しかない者というのは、本当に困りものです。しかも、訂正不能に繰り返すだけで、学習と成長がないのです。
 
楽山が言っていることを信頼しないでください。男女のことは、単純に割り切ることは出来ない、という当たり前のことが、楽山の頭にも心にも入っておらず、実に、安易に、自己満で、分かったとか、驚いたとか、面白いとかいうのが、楽山の嘘っぱちの特徴なのです。
 
ただ著者の語る人間観については、人によって合う、合わないははっきりわかれることになりそうだ。たとえばまず著者は、人の心について次のように規定している。
 
人によって合う合わないがあるのに、なぜ、上では、男女の話を実に面白いと肯定するのでしょうか。主張の一貫性がなく、ばらばらなのも、楽山の特徴です。つまり、楽山には、一定の主張というものはないのです。その時その場で、適当に言葉の字面を並べているだけなのです。
 
利他主義、同情、共感、良心、公平などの感覚は、すべて遺伝子を基に生じている。
(『モラル・アニマル(上)』ロバート・ライト著、竹内久美子監訳、小川敏子訳、講談社、1995年、p.33)
 
遺伝子を基にしていることを知っても、予測など付かない、ということを、楽山は、考えることが出来ない人です。遺伝子がどうなって精神がどうなる・・という具体的なことは、分かってはいないのに、それで、次のようなことを言うのです。
 
おそらくは、人の精神について他の生物とはまったくの別物とし、なんらかの崇高な存在に由来すると考える人にとっては、このような人間観は承服し難いものだろうと思う。
 
崇高な存在に由来するとは、神と信仰のことでしょう。また、反キリストらしく嫌がらせの当てつけをしています。こういうことを言って、自分は真理を知っているんだ、と思い込んで満悦するのが、哀れなほど低レベルのままの楽山であり、崇高とは逆の存在の有り様を見せ続けているのです。
 
ゆえに、承服しがたい対象は楽山であり、小学生レベルの夢物語で現実を語ったつもりになる人なので、くれぐれも、真に受けないでください。楽山は、弁明も反論も出来ない無理な人です。多くの人の中に少数いるところの相手にしてはいけない人が、楽山です。
 
遺伝子の存在と、学校で習った機能を、否定するのが宗教ではありません。そういう科学で表されたものだけで説明できないのが、心です。楽山は、心が無いので、心を抜きにしたところに居たいのでしょう。そこで、何も分かっていないのに、本を読んだからと自慢したいのでしょう。
 
そこで、止まってしまうから、誰とも共感を持ち得ないのですが、無反省で訂正不能の楽山は、そのことを無視して、学習も成長もなしに、自身の鈍い停滞を神?として、自分は、他者と違って、崇高だと思い込んで、他者を軽く見て、自己満足しているのです。
 
間違っても、楽山の、低レベル、停滞、精神の鈍化、自己満足と満悦、他者の軽視、などと、同様になってはいけません。それこそが、人格破壊による、人間の、あらゆる機能の鈍麻から、コントロールが効かなった姿です。だから、いつまでも、これ見よがしに書いてくるのです。
 
また著者は、人の自由意思についてはこう書いている。
遺伝子とは、無意識のうちに私たちを動かすものなのだと頭に入れておいて欲しい。そうすれば、セックスだけに限らずさまざまな領域で、自分たちは操り人形だということがわかってくる。かろうじて手にすることのできるわずかな自由といえば、人形遣いの論理を解読することだ。
(同上、p.65)
 
楽山は、このことで満悦し、賛同しているのでしょうか。だとすれば、呆れます。
 
操り人形だと分かることも、操り人形ではなく自由意志だと思うことも、操られているだけの必然であるならば、結局、操り人形であるかどうかを考えること自体が無意味だという理路が、楽山には、分からないのです。
 
人間は操り人形だから、自分が詭弁と嘘で操ってみせるとでも思っているのでしょうか。またしても、いつものように、自らの辻褄に、短絡して、酔い痴れて、のぼせて、満悦する楽山です。酷いインチキの詭弁です。
 
このような、何も良いものをもたらさない空論は、確かに、楽山の好むところではあります。意味の帰結を考えず、とにかく、結論を出して決めつけることだけが、楽山の快感なのでしょう。それで、悟ったような気持ちになるのでしょう。浅はかです。
 
恐らく、楽山は、生きることに何の望みも見い出せないのでしょう。だから、毎度毎度、気持ちの悪い詭弁の言説をもって、信仰を卑しめるサディストになっています。楽山は、人を、絶望と怠惰と疲労へと誘導する煽動者です。類が激しく類を呼んでいるのです。
 
今回は、操り人形という詭弁を語って、絶望を広め、絶望仲間へと誘いたがっているのです。楽山の言を読んでも、真実と希望の欠片も受け取ることはない、つまり、全くの無意味発言と無責任が楽山だということを知ってほしいと思います。
 
これはドーキンスの『利己的な遺伝子』で語られている人間観と同一のものだろう。
いくら個体レベルでは利他的に見えたとしても、遺伝子は一貫して利己主義を貫いている。
(同上、p.240)
 
遺伝子に、感情はありませんが、利己という主義があるのでしょうか。遺伝子を見ることも測ることも出来ない楽山が言っています。比喩表現であることは分かっているのかな・・とさえ思います。
 
喩えであってもなくても、遺伝子の利己主義が、人間の利己主義につながるわけではないのは、次元が違うのだし、かつ、遺伝子をモニターも出来ないのだから、常識があれば、当然のこととして、分かるはずなのです。
 
しかし、利己主義の自己中の楽山は、利己主義という言葉だけで、自らの自己正当化が成ったかのように、大発見?であるかのように、驚くべき理解?だと思い込んで、酔い痴れて、"残念だが、これが真実だよ" と言わんばかりに、書いてくるのです。
 
真実への、真っ当な追求が出来なくなった楽山は、殆ど、学者からの文字列を運んでいるだけのピエロです。それで見栄を張って、付き合う人をおとしめ、本を理解できず、心を思いやることもできないまま、ガラガラ音やガチャガチャ音を立てる陶器の破片のようです。
 
これも上と同じ人間観だ。
 
操り人形のどこが人間観なのでしょう。見たことも分かったこともない遺伝子なのに、遺伝子に規定されているというだけで、総ての結論を得たかのような気分になるのでしょうか。
 
その結果、虚無に陥り、努力を怠り、何も実のあることを学習できなくなって、都合の良い文言だけを、本の中から漁って投げてくる楽山の惨劇であります。楽山は、殆ど原始的な反応系です。
 
先に述べた通り、こういう考え方には人によって合う合わないはあるだろうが、自分はこれをユニークかつリアルに感じるタイプではある。これが進化心理学というものであるなら、もっと知りたいとも思う。
 
合う合わないではなく、楽山は、理路が全く分かっていません。ユニークかつリアルではなく、未熟かつ幼稚なのです。分かっている自分という慢心があると、こうなります。その後の学習を怠ってきた楽山の、これまでと、これからの、経過は、恐らく、とても悲惨です。
 
人間の心…たとえば「利他主義、同情、共感、良心、公平」、信仰、愛情、希望、うそ、エゴ、怨恨、懐疑など、崇高または下劣なあらゆる心理を、超自然的な何かを持ち出すことなく、進化論で説明できるとしたら、実に面白く、興味はつきない。
 
人間の精神を進化論で説明するという虚妄を語る楽山です。楽山は、「興味は尽きない」と書いていますが、それは、真実の興味ではなく、自己満悦欲求に過ぎません。自己愛性に凝り固まると、このような人格になって、あらゆる間違いが噴き出してきます。
 
人間の心理を、進化論で説明することは出来ません。個別と全体、人間と人体、という、追究のワールドが全く異なります。それに、心の問題は、"論" で尽くすことは出来ません。楽山は、それも分からないのです。楽山の異常性の病理は、増幅して、人格の退化を進めています。
 
楽山が欲しているのは、自分は偉いんだという満悦だけですから、そのうち、今度は、現実の市井(しせい)で、悟り?を語り始めるかもしれません。だまされた人々と、自己中のお仲間も、巻き添えになるのでしょうか。そうなれば、カルトだと、はっきり分かりやすくはなるでしょう。
 
精神病院に収容されるでしょうか、恐らく、否です。人格障害は、医療や薬では治らないので、扱わないでしょう。犯罪行為に及ぶまで、野放しになる可能性が大です。
 
楽山の人格の低格化は、凄まじいものがあると思います。それとともに、羞恥心もなくなり、今後、さらに、誇大妄想を、実際は、絶望への妄想を、むやみに押し出してくることが予想されます。
 
楽山については、関わらないことと、批判することと、情報を敷衍(ふえん)すること以外に、出来ることはないようです。批判は、批判する気になった人がします。楽山は、情緒も理性も、まともではない危険人物です。どうか、近づかないでください。
 
 
※ 
 
楽山の言の、語尾を「と言えなくもない」「否定できない」「かなあ」などは、語尾を濁しているから断定していないつもりのようで、それで、楽山がやってきたのは、多くのことを曖昧なボンヤリ言語でごまかして、責任を負わない態度でした。しかし訂正不能であれば断定なのです。
 
しかし、断定して、訂正不能でありながら、楽山は、責任だけ負わないのです。何だか、とても、イージーな言論を、楽山は、完成しているつもりなのですが、全く成り立ちません。自己愛者が考える論理というのは、大方、そのようなものに堕しています。論理構築過程が、既に詭弁です。
 
何故なら、通常、人間は、何を言っても、何をぼかしても、書いても、総ての語尾には「と思う」が付いているようなものだからです。それが、楽山には分からないのです。いったい、どういう論理を学んできたのでしょう。人間の言葉ではなく、記号の遊びごとしかしていません。
 
神を否定しておきながら、ある教会を褒めたり、祈り芝居の詩のような?ものを書いたり、否定も肯定もしていないから、責任問題は発生しないと、言っていたこと、言論の論理が分かっていない証拠です。否定と肯定、両方とも、それぞれ、その都度、責任は発生します。
 
このように、楽山には、何か発言するたびに、無責任な詭弁の必然があり、元の言論の責任+詭弁の責任が、大きな問題、というより、大きな作為の欺瞞として発生してきます。治らないでしょうから、議論においても、論者の精神衛生上も、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
断定していないと言い張りますが、語尾を曖昧にすれば断定していないことになるなら、楽山には、すべての議論は結論が出ず、楽山の言論は不能という循環になります。責任を負いたくないものだから、曖昧で柔和を装う楽山の企みは、無意味です。
 
 
背伸びして折れる

背伸びして折れる
 
 
(2020年07月13日)
(2021年07月29日、再録+)
 
 
 
 イメージ断片
 
緑の向こうに
濃い緑
その向こうに
また緑
その向こうに
バキッ
耳に残る
急ぐ足の下に枯れ枝が
たまたま折れやすくあっただけなのだが
 
走るオートバイの上から
葉を残した
落葉樹を見つけるのに時間がかかった
寒さはすでに
秋から冬を教えているのに
秋には秋を
なぜ探す
 
枕木の上に横たわる
霧を轢(ひ)き轢き
列車は自らを牽引する
遠く向こうの霧の中へ
後戻りできない水滴を乗せて
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
自覚がないから、神を自称し、人にああしろこうしろと説教できるのかもしれないですね。
自分を棚の上において、人にああだこうだ言うことにかけては、大川さんに勝てる人はいないでしょう(笑)
午後7:44 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
また、他者のことを「(笑)」っています。自分が、いちばん、醜いことに気づかないのです。楽山の言ってることが当てはまる悪は、楽山に他なりません。詭弁と嘘による誘導、乗らない人は無視する。自分を棚に上げて、「人にああだこうだ言う」のは、楽山です。
 
楽山を受け入れると、疲労し、人格が破壊されます。楽山とは、議論してはいけないし、関わってはいけません。世辞を真に受けないでください。楽山を相手にしないでください。ある時期に、霊が分かるっぽいと思い上がり、いつも満悦したいために、人を人とも思わず、詭弁の餌食にします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
最近は、この手のニュースを見るたびに、大川隆法が表社会の高い地位についたら、過去の言行をさらされ、えらいことになるだろうなあと想像してます(笑)
 (引用省略)
午後7:28 · 2021年7月22日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、性懲りもなく「えらいことになる」ことを「(笑)」っている楽山です。人格に締まりがなくなってきたのでしょうか。無意味に、無理に、他者を嘲笑いながら、低次元の快楽を、笑いを、求めているようです。
 
楽山が「社会の高い地位についたら」ネットで、言ってきたこと、やってきたことなど「過去の言行をさらされ、えらいことになるだろう」と思います。楽山のように、他者を、自分の都合だけで無視して、勝手に発信だけを続けるなんて厚顔は、社会人でも、まともな人間でもありません。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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