ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:刷り込み

 
  楽山の悪意の詭弁
 
 人生の目的と使命なんて
 2014年03月22日 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の記事ですが、書けば、必ず、作為~悪意の詭弁~嘘偽りを込めてくる楽山です。今も、少しも変わるところがありません。どんなに批判されても、完全に無視するだけの、石ころのような、砂のような、泥のような、命のない根腐れが、異常人格を形成しているようです。
 
思い返してみれば
若かった頃は
すきなこと
やりたいことが
たくさんあった
そのせいか
人生の目的と使命なんて
あらためて考えたことはなかった
 
楽山は、人生の目的など、今も、考えていないと思います。やりたいことがあっても、努力をしないで、一気に超常世界のように、やれる世界が欲しくて、悪夢となって、怠惰の結果として、霊が分かるっぽい?という自覚を増長させ、結局、怠け者の現実離れとなっています。
 
目先の好都合な結果、即ち、目先の餌にくらいついて生きていると思います。それは、他者を、だますことによって得ようとするものです。楽山は、自分の自己愛性人格障害のために、言っているのです。楽山のようになってはいけません。
 
そんなことは考えず
ただすきなこと、やりたいことに夢中になっていた
 
今も、好きなように、やりたいように、他者をだましています。心の優しいお人柄などと言われることを好んで、丁寧に書き、じわじわと、カルト的な思想を刷り込んでゆきます。楽山は、無反省で、無責任です。人を、あざ笑うことを求めているだけです。近づいてはいけません。
 
でも
いくつかの挫折のあと
宗教書を読んで
人生の目的と使命について教えられた
それで次のように考えるようになった
「自分が生まれたのは、この宗教と出会うためだった
この教えを学び、自らを高め
この教えを広め、人々を幸福にするためだ」
 
宗教書など、楽山は読んでいないと思います。この3年近い経過で、楽山の読解力のなさと、自分に都合のよい言葉の表面だけを漁っている有り様は、ひどいものでした。有名人の口を、遠慮もなく、悪用してきます。楽山から、深い思慮の表出を見たことがありません。
 
それから
月日が経って
今はまた
若かった頃に戻ってきている
自分のすきなこと、やりたいことに夢中になっている
 
だから、何なのでしょう。楽山は、ずっと、そうなのです。楽山にあるのは、企みであって思想ではなく、ペテンであって真実につながる何ものでもありません。楽山の、やりたいことは、人を従えて、コントロールして、操ることです。つまり、教祖願望に他なりません。
 
神は××××の目的で人類を創造したとか
人生の目的と使命は××××であるとか
そういう考え方を聞くと
なんだか自分が
特定の目的のために大量生産される製品の一つに
されたような奇妙な心持ちがするようになった
 
神と人との、祈りを通した関係を知らない者の言です。祈りにおいて正直であることが、現実における絶対孤独からの解放なのですが、楽山は、全く分かっていません。分からないのに、宗教、特に、キリスト教について、信仰も含めて、幼稚な、いちゃもんをつけてくるのです。
 
詳しく知らないこと、経験のないこと、関係のないことについて、あまり語ろうとは思わないという常識的な思慮が、楽山には欠如しています。分かっているふりをして、誘い、誘導し、否定してゆく、という楽山の詭弁と嘘に、決して、付き合ってはいけません。
 
やはり
人生の目的、使命などは
他から与えられるよりは
自分自身で決めたい
 
信仰者になることは、自分で決めていないというのでしょうか。度外れた認識です。このように、楽山の幼稚さは、書く文章ごとに、表れてきたのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、説得力のある文章をかけません。その分、丁寧語の詭弁と嘘で誘導してきます。
 
他の人はどうか知らないが
少なくとも今の自分には
そういう生き方が合っているようだ
 
自分のことだけなら、書いて公表する必要はないはずです。楽山は、また嘘を吐いています。誘導の意図があるからこそ、こういうことを書いてくるのです。そういう楽山の狡猾さと作為性を知ってください。書いてくることの一つ一つに、まともを装う悪意があり、真実の要素は皆無なのです。
 
 
 
楽山は、何年も前に書いた記事も、最近書いた記事も、省みることなく無反省そして無責任で、訂正不能に言い放って終わりのヘッピリ虫です。楽山の書いてくる文章は、読む人の考える心を腐らせます。楽山の、生きて地獄、死んで地獄の、道なき道の有り様です。
 
 
悪意・怠惰と詭弁色の国

悪意・怠惰と詭弁色の国
 
 
(2021年10月12日)
 
 
 
  希生不念慮
 
私が生まれたことも生きたことも
否定するのなら
父と母も否定することになる
なぜ父と母は生まれ
大きな中国大陸で二度も偶然出会ったのか
なぜ父も母も戦争で死ななかったのか
 
私には父としてのアイデンティティがない
子供がいないのだから仕方あるまい
父と母には祖父母としてのそれがない
孫がいないのだから仕方あるまい
 
仕方ないのは承知の上だったはずだ
しかし気づいてはいなかった
承知などというものの上には
乗らないものがあることまでは
 
生きることを正面から肯定することが
出来なくなってしまった私は
今になって顎を外してみても仕方ないのだ
それこそ仕方ないのだ
今になって物乞い
の手を伸ばそうとしても無駄なのだ
 
そうだ無駄なのだ
口に入らず手にも乗らない以上
私が病気と怠惰の間を揺れながら
それでも気泡の体を揺さぶる世界の
片隅にいる限り
私は私であってはならず
私以外のものであってはならず
 
ああ決してそれはならず
無駄なのだ私が持つことがあるとしても
ドラッグのように費やせるのは
まだ動き続けることの無駄が
貴重な一生を私によって流される
私の排水管の舌尖においてだ
 
 
 かなしみでもよろこびでもなく
  肉体からのメッセージ
 
わたしも宇宙の子・世界の子でした
わたしが細胞であったとき
分裂し増殖した仲間たちと一緒に
あなたを殺そうとしたり
懸命に生かそうともしました
 
はげしく従順であることも
おとなしく反逆することも
わたしたちには出来たのです
 
わたしの仲間たちはその度に
後事を若い細胞たちに託して
たくさん死んでゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしが髪の毛になったあとも
わたしたち仲間はぽろぽろと
あなたが不潔な暮らしの中で
たまに洗髪するときには特に
まとめて抜け落ちて果ててゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
あなたが死んで焼かれるときには
もはやお供できないので
ここに認(したた)めておきます
 
あなたは長く病んでおられるようだが
わたしたちもまたいっしょに病んでいたのです
寝込むことや独り言や
人よりも機械と遊ぶことが
あなたは多いようだが
あなたの怠惰や悪意など
罪の軽重や多少にかかわらず
わたしたちから伝えておきたいメッセージが
ひとつだけあるのです
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしにはあなたがすべてでした
 
 
 
イエス・キリストの教えの、守ろうとすれば、無理難題としか思えないもの。
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
一は、心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれませんが、限度はあるでしょう。これを実行せよと言っているわけではないと思います。
 
二は、十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理でしょう。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。
 
三になると、死を覚悟しなければなりません。三の教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで、敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのです。極言すればイエスの教えを完全に守れる人は、死を制することの出来る神御自身だけではないかとさえ思うのであります。
 
キリストの教えは、完全な人は一人もいないということです。その前提で、救いは、宣べ伝えられているのです。・・罪なき人は、一人もいないのです。
 
これらの教えは、守れ・・でもなく、できるだけ守れ・・でもなく、人が守れないことをご存知の上で語られたものです。守れないのだから、神の前に正直に告白せよという意味だと思います。
 
私たち人間は、自分で完全な人間にはなれない存在です。ゆえに、神に正直に祈って、赦していただくしかない、という意味に受け取っています。そう読むことによって、キリストの、人に対する、限りない共感というアガペーの愛が表されているのです。その結実が、十字架なのでしょう。
 
 
 
 
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  無恥なる天狗
 
 自分の判断力を過信しないということ 
 (モンテーニュ『随想録』)
 2014年03月15日 楽山日記(LD)
 
 
(ネットより)
ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne [miʃɛl ekɛm də mɔ̃tɛɲ], 1533年2月28日 - 1592年9月13日[1])は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者[2]。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。
、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。17世紀のデカルトやパスカルにも多大な影響を与え、後には無神論の書として禁書とされた(1676年)。
モンテーニュ
 
どんな人足でも、無知な女でも、自分相応に分別をもっていると考えなかった者は一人もいない。われわれは容易に他人のうちに、勇気、体力、経験、敏捷、美貌などの優越性をみとめる。けれども、判断の優越性に関しては、われわれはこれを何びとにも譲らない。
(『世界の大思想7 モンテーニュ 随想録(エセ―)下』松浪新三郎訳、河出書房新社、昭和48年、p.211)
 
楽山は、「自分相応に分別を」持っていません。自分不相応の高慢を持っています。その表れが、無反省に書いてきて、人の言うことを聞かず、一切、責任を負わないことなどです。この性質が、自己愛性パーソナリティ障害NPDであり、実質無き思い上がりの惨劇となっています。
 
「判断の優越性に関しては、われわれはこれを何びとにも譲らない」・・言論の達人ならば、発言ごとに、逐一、根拠を述べることが出来るでしょう。楽山は、一度も、そして、ひと言も、根拠を示すことなどできなかったのです。
 
これには首肯しないわけにはいかない
自分は、まったく、ここで指摘されている通りの人間である
 
楽山は、全く、上に指摘された人間ではなく、そこから、ほど遠い未熟と怠慢の典型例です。
 
自分なりに、謙虚さは大事だと承知しているつもりだし
過去に判断をまちがったことも何度もあるというのに
それでも
「自分の目は節穴じゃない。真贋を見抜く力はある」
という自惚れを捨て去ることはできないのだから
我ながら懲りないやつだなあと思う
 
楽山には、丁寧語でごまかすだけで、謙虚さの欠片もありません。「「自分の目は節穴じゃない。真贋を見抜く力はある」という自惚れ」という自覚があるなら、訂正・修正もするし、懲りるはずなのです。楽山自体が、既に、節穴なのです。
 
自分の判断力を妄信することなく
物事を冷静に見極めるというのは
本当に難しい。
 
妄信をやめることが難しいなら、言論しないことです。冷静に見極めるなど、できるはずもないからです。その無自覚の結果として、楽山が書くたびに、冷静も真理も真実も裏切って、ゆがみと偏見と詭弁と嘘の醜態が、あらわになってきたのです。
 
 
 
 思いと言葉
 楽山日記(LD) 2014年03月15日
 
 
古い壁画のなかには
外気に触れると
急速に劣化して
ダメになってしまうものもあるという
秘めた思いも
これと似たところがあって
言葉に出した途端
ダメになってしまうものもあるかもしれない。
 
楽山においては、秘めた思いが、偽りと不合理に満ちて、腐っており、表した言葉が、嘘と詭弁に満ちて欺いていると思います。秘めた思いなどは、つまるところ、楽山においては、隠し事に過ぎず、最初からダメであり、言葉を公開すれば、このように醜悪になります。
 
 
 
 昼と夜
 2014年03月16日
 
 
昼と夜ではなく、表と裏の顔を持つ楽山です。柔和芝居、同情芝居、謙虚芝居、など、数えきれない三文芝居で、大根役者の楽山が、何か書けば、必ず、恣意の、作為の、詭弁と嘘が、着いてくるからです。まさに、虚偽は、楽山の衣服であり毛皮であり毛嚢なのです。
 
電車の窓は
昼は外の景色が見え
夜は自分の姿がうつります
自分の心も
昼は外の景色が見え
夜は自分の姿がうつるようです
 
知恵の足らない者ほど、ちょっとしたことに、無駄な意味づけをするものだと、詩か何かの本に書いてあったのを思い出します。楽山は、外界も、自分の姿も中身も、ほとんど見えてないことが、今まで楽山が書いてきたことに表れてきたのです。
 
洞察は皆無、共感も皆無の楽山です。楽山が、映ったというも思い込みを、外に反射させないでください、人に見せないでください。それは、とてつもなく有害です。
 
自然はうまいことできているもんです
 
楽山は、うつる自分の姿が、自然だと言うのでしょうか。楽山こそ、邪悪さのために不自然な世迷言を書いてきた人です。ですから、ここも、その一つなのです。何やら、哲学者の達観や警句であるかのように書いて、実際には、汚れた自分の尻を吹いているだけの楽山です。
 
 
 
 楽山日記(LD)
 2014年03月16日
 天の倉に富を積むことの是非
 
 
楽山の悪意は、底を知らず、天を知らず、地を知らず、無節操に、言葉を乱用して、他者の心を壊してゆくのです。宝や倉の代わりに、楽山の地底の牢獄の罪状が積まれるだけなのです。
 
他所で
天の倉に富を積むことについての
いろいろな意見を読みました
たしかに
天の倉に富を積むことを意識しすぎるのは
よくないかもしれません
 
よくないのではなく、意識しにくいということです。何故なら、天を知らないからです。ゆえに、天に宝を積むとは、地上の富を求めてばかりいる災いと不幸を明らかにするために語られているのです。地上の富は、大方、欲望によるものだからです。
 
そんなことも分からずに、底意地が悪く、かつ、理路も情感も弁えない楽山は、「天」を、詭弁の具材として悪用しているのです。そうして、楽山は、だまして使う従者、即ち自らの奴隷の数を積みたいのでしょう。楽山は、地上の最も悪質な狩人の部類であります。
 
トンデモ解釈ですし、嫌味な見方ですけど
天の倉のことばかり気にしている人を見ると
金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいという教えは
地上の富に執着する人ばかりでなく
天の蔵に執着する人についても言っているのかもしれない
という気がしてきます
 
「天の蔵に執着する」という言葉を机上でいじくる詭弁です。誰が、それを明確に意識できるというのでしょう。地上の富だけでなく、楽山のような甘言による詐欺的説教に頷くことも含めて、この世の偽りの富や慢心よりは、もっと求めるべきことがあるだろうという意味に受け取っています。
 
トンデモ解釈は、詭弁屋の楽山の持ち物です。そして、書くたびに唾のように撒き散らすのです。それが、いかに汚いかを、暴いてゆく必要があるゆえに、楽山批判は続いています。天の蔵に執着するのではなく、楽山のように、有頂天自己愛執着にならないことが何より大切です。
 
 
 
 真実か? 幸福か?
 2014年03月19 楽山日記(LD)
 
 
得意気に、デタラメな言葉を、次から次へと並べて、あげつらって、詭弁を吐く嘘吐きの楽山です。だまされないように願います。
 
真実と幸福とは、必ずしも両立できるとはかぎりません。
幸福のためには、真実を知らない方がいいときもあります。
真実を知りたいなら、幸福をあきらめなければならないときもあります。
真実と幸福、どちらも同時に手に入れられたら、それはとても運がいいことだと思います。
 
真実を知ることの幸福を考える、ということを出来ない楽山です。だまされて幸福になることを想定してしまう楽山です。まさに、真実を知らせず、幸福っぽい丁寧語を吐いて、だまそうとしている楽山だからでしょう。
 
実に、質(たち)の悪いペテン師、楽山の、吐き気のするような詭弁です。真実も幸福も、運ではありません。人間が真摯に求めるものです。真摯、誠実、良心、などのない怠慢な楽山には、縁のないのが、真実と幸福です。
 
 
 
 2014年03月19日 楽山日記(LD)
 無神論は信仰か
 
 
身の毛がよだつ詭弁屋の楽山です。
 
無神論は神はいないという信仰にすぎないという意見があります。これには一理あるかもしれません。けれども、わたしは、これとは違う考え方をしています。無神論は“ほぼ”現実であり、そんな現実を直視した上でもなお神を信じるのが信仰ではないかと思うのです。
 
神はいないということを現実だという前提で語ることについて無反省かつ無責任な楽山です。人間の日常ではなく超常については、生きる縁(よすが)になるかどうかだけが問題です。楽山の、無神論が現実を前提として神を信じるなんておかしい、ということを材料にする悪質な誘導です。
 
つまり無神論は現実にすぎず、信仰はその現実(無神論)を超えるものではないかという考え方です。わたしはこんな考え方なので、神を信じることも、信じないことも同じ信仰だとして両者をならべることは、信仰をこの世の現実(無神論)のレベルまで引きずり落とす行為のように感じられます。
 
信仰が現実と無神論を超えるもの・・なんて、楽山は毛ほども考えていません。神はいないのが現実じゃから、信じるほうがおかしいじゃろ・・という方向への誘導です。信仰を引きずり落としているのは、楽山であります。
 
神について、信じることと信じないことを、並列できないのは、信じることには祈りなど言動と務めが伴い、信じないことには楽山のような怠慢が蔓延りやすい、という違いがあるからです。嫌らしい詭弁を使って、信仰を貶めようとしてくる反キリストの楽山を決して相手にしてはいけません。
 
 
 
 いろいろな神様
 2014年03月21日 楽山日記(LD)
 
 
神様は、楽山の未熟が語るような「いろいろ」ではありません。
 
この世界を創造し
人々を見守り
祈りを聞いたり
時には奇跡を起こすこともある
慈悲深い神様
 
これは誘導としての世辞です。
 
この世界を創造したあとは
人々を見守ることも
祈りを聞き届けることも
奇跡を起こすこともなく
何の干渉もしない神様
 
何の干渉もしないか、しなかったか、これは、人間には分かりません。楽山の視野に、洞察力がないために起こる先入観であり、神否定のための砂を蒔いているのです。このように、楽山は、いつも、全能の神を、俯瞰するような態度で見下しています。そこには、一片の洞察もありえないのです。
 
この世界の秩序のもととなるものであって
霊界法則などの超自然的なものではない
物理的な法則としての神様
 
楽山には、前から言っているように、心がありません。ゆえに、神についても、人についても、心についても、物理法則などと言ってしまいます。「霊界法則などの超自然」・・こういうものだけを、楽山は、神と呼んでいるために、宗教も信仰も、人間離れしてゆくのです。
 
正直な感想を言えば
一つ目の神様には
どうしてこの世の悲劇を放っておくのだろう
と疑問に思わないではいられませんし
二つ目の神様には
さみしいような、物足らないような心地がします
三つ目の神様は
その存在にこれといって疑問はありません
 
神を仮定したうえで、楽山は、バーゲンのように、自分の好みと必要に合うかどうかを考えています。楽山は世界のことなど考えていませんから、結局、実際には、どうして自分の悲劇を放っておくのか、という疑問~怒り~怨念だけがあります。自己愛性人格障害の特徴と言えるでしょう。
 
楽山が、捏造する神には、何の真実味もありません。全部、楽山自身だからです。慈悲深いという嘘、鑑賞しないという嘘、それは、摂理も理路もない楽山なのです。詭弁を書いて、詭弁の神を否定して、自分がいかに偉いかを語るピエロ、それが、楽山です。
 
 
曇天境地

曇天境地
 
 
(2021年10月06日)
 
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道をふわふわ舞っている
そんな空気にのんびり
吸われながら歩いていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
 
切られたものが見当たらない
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
 
目の上にピッ
何かが撥ねた水滴
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
 
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
 
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
 
  狂気の椅子
 
狂気は病院にではなく
病人にでもなく
ありふれた口や顔が
集まり離れるところ
いつも何気なく
さりげなく
何事もないかのように
様々に色を変えて働く
 
個がなくなるとき
同時に声を変色させ
同じ色に眼を曇らせ
手を上げ押し寄せ
叩き痙攣する
 
個が過剰になるとき
刃物を探り
爆発の炎に燃え
殺意の来客を迎え入れて
白昼から密談する
 
ここに狂気がある
同じように正気がある
一皮むけると切符を握り締めて
どちらかが口になり顔になるのだ
 
危うげに揺れる明け暮れに
虹色と土色の暇(いとま)を転がしている
誰もが一度ならず腰を触れ
誰も見えない椅子の上
 
 
 
 
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  楽山という汚染
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 楽山日記(LD)を改めて批判
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に自分で定義した神に文句を言っているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口です。そういうことを書く者には、批判は、成り立ちようがないのです。
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷をしてきて、かつ、人の言うことを受け取りません。2014年のこの記事に書いた "含蓄" ?、楽山は、全く生かせておらず、全然、違うスタンスなのです。
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。ただし、批判しても、神は反論はしないでしょう。つまり、批判することに、あまり意味はないと言うことです。批判を含めた議論は有意義ですが、楽山は、反省と学習をしないで、いつまでも同じ否定を向けてくるので、意味がありません。
 
また、批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。つまり、楽山は、人間として疑問を呈し批判するのではなく、全能者を上回る全能の評論家気取りとして、訂正不能の自我を持っています。こういう自我は、信仰に邪魔な我執になるだけで、何の糧にもならないのです。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有し、責任を負います。神を信じる者からの批判は、当然、返ってくるが、楽山は、自分に向けられた批判に対して、同じ悪口を繰り返すだけで、全く返答の出来ない人です。
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。自分の神解釈における神に文句を言っているだけですから、話になりません。そして、何といっても、楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な批判も反論も弁明も返したことがありません。
 
全く、ネズミのように、したいようにして、言いたいように言って、あとは、無視してきます。つまり、こそこそと逃げるだけです。批判対象が、人でも、神でも、楽山だけは、許せない男なのです。
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。楽山は、自身の、極めて狭小で、成長のない先入観の視野の中にだけあるものをキリスト教と呼び、神と呼んでいることが明らかになっています。つまり、そこで、字面を追っただけの悪口に過ぎないのです。
 
そういう批判は、批判として成り立たず、悪口に過ぎません。それが、ずっと、続いています。楽山は、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていない、という判断です。そういう相手に対しては、その相手の欠陥を、指摘し続けるしかありません。
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!、という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「と言えなくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などと言う詭弁を弄してきたのです。
 
楽山は、話が煮詰まれば煮詰まるほど、相手にとって、こういう奴だけは相手したくない、という人物であり、あらゆる正常な理路を、詭弁によって破壊しようとするサディストです。
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。
ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。
これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
全くの勘違いです。自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことですから、してはならないという当たり前のことです。楽山の信仰は、自らへの我執でしかないので、そういう欲望相手に、話が通じることはありません。
 
せいぜい、感情的な表現をできるだけ控えることが出来るかどうかでしょう。根拠があれば、それを理解しない相手に対して、厳しくもなるわけです。楽山は、控えるのではなく、抑えるでもなく、考えていないのです。
 
字面だけを追っているから、正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような、抑えるべきか、難しい、などという、的外れの理路になる楽山です。「人はそれぞれ異なる信仰」という言い方は、楽山が逃げるときの、詭弁の常套句で、最後っ屁みたいなものです。
 
楽山の、こういう醜態は、自己愛性人格障害のために、いかなる問題についても、"分からないと言えない" ことの宿命でしょう。だから、楽山が、言論モドキを続ける限り、自己正当化の醜さとして、表れてくるでしょう。
 
楽山は、困ったときには、「人それぞれ」を出してきます。それによって、個人によって違ってくることと、一般的なこととを、混同して、「万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ」などと言って、一般的なことまで、即ち、神が存在する可能性まで否定してくるのです。
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいては正直であることが必要であります。楽山の言い分は、一面的~幼稚です。
 
楽山は、慈悲深い神も、天罰を下す神も、場合分けして語れると思っているようです。します。楽山は、客観的な立場のつもりでも、信じたことなど一度もなく、ゆえに、何も語れないのに、語ろうとする自己顕示欲という動機を表す結果になっています。
 
つまり、楽山は、生きるための切実な欲求から神を語るのではなく、あくまで、趣味か遊びごととして、机と紙の上で、面白がっているだけであります。神ではなく、"紙" を語っているだけなのです。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に逆であり、キリスト信仰において、いちばん意味のない言論を、さも大事そうに、得意げに語る高慢だけの、目立ちたがり屋に過ぎません。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と、社交のお友達になるわけではないからです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信仰は信じることで完全になることではないので、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものではないということです。
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その表面的な見方で、神の種類とか人間の種類とかを気安く分けてしまうから、実感など含まれるわけもなく、誰と語らうにも、真っ当な話にはなりません。
 
運転免許がなく、運転したこともない人が、運転マナーと車の良し悪しを語るようなものです。さらに、喩えるならば、山の向こうを知らない人が、山の向こうの様子を、想像と空想で、得々と語るようなものです。深海も宇宙も知らない人が、知りもしない深さと広さを語るようなものです。
 
楽山は、いったい、何を言っているのでしょう。的を外し過ぎるというより、的そのものがない楽山の言であります。こういう人と、まともに付き合うことは出来ませんし、それで神を否定したつもりなのだから、人それぞれで済む話ではないのです。
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
そういう心の法則を信仰に通用させてしまうのも幼稚だと思います。さらに、心の無い楽山は、最低限の心の法則すら知っているとは思えません。
 
楽山は「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっている」のではなく、神を全く知らないのに、否定しているのです。楽山は、勉強が大嫌いで、聖書も読まず、幼稚な先入観だけで、都合のよい文言を漁って書いてきただけなのでしょう。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、文章に表れてきた分について、おかしいと言っているだけです。
 
楽山の語る神が、神ではないというのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
楽山の、自分は分かるんだという強迫性だと思います。邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。
 
「神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心」ではなく、楽山は、神の権威より、自分の権威が上という立場から言っているわけです。神さえも見下して文句を言う、それが、病質的な自己愛なのです。
 
ゆえに、楽山は、人も、神も、机上の紙上の軽い概念に過ず、そこに向かって言っていることを、まともに見せかけるインチキなのです。しかも、無反省、無責任、無神経で、鈍麻しているから、恐れることがありません。どちらも、楽山の中では、紙だからです。
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることであります。楽山は、恐れも知らず、自尊だけから、神を批判しているつもりだけの人です。丁寧語にだまされないでください。
 
キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。楽山は、自己愛のプライドにしがみつくことが信仰とでも思っているのでしょうか。楽山という、勘違いして、恥ずかしいだけの文章を、何度も書いてくる、話にならない愚か者がいるという、それだけのことです。
 
楽山の、誰も楽山自身を批判してはいけない、という前提が、無視と無反応と無責任の実績によって、露骨に表れています。つまり、楽山は、楽山の自我の権威への偶像崇拝者であり自分信仰者なのです。
 
話が通じないのは、理解力がないからです。理解力がないのは、学習していないからです。学習していないのは、自己愛の慢心からです。・・という循環の中にいるのが、楽山です。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている" のは、信仰ではないのです。つまり、楽山の思想は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を貶めたいだけの強迫観念でしょう。
 
自我を絶対としている楽山のような自己愛性人格障害者は、決して、自分以外の全能者を認めることはなく、感受することも、その存在に気づくことも、可能性を考えることも、出来ないのです。楽山が、神について言っているすべてのことは、迷惑な的外れの虚言にしかなりません。
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないということは、思いやりがない、利己心だけ、という筆致に表れており、上から見下ろす視線で書いている限り、神も信仰も理解することはないのです。
 
学者気取りの柔和そうな書き方は、ちょろまかしに過ぎません。少し、じっくり読めば、誰でも書けるような先入観だけで、独創性がどこにもありません。それを、ごまかすために、多数意見の代表みたいな、柔和を装うという芝居を続けてきたのでしょう。
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、などということについて書いた後で、ややこしい、注意が必要と、書くだけで済ませられるのが、動機が皆無の楽山の自己愛と自己中の自己満足です。誰よりも自分に対して不注意で、柔和を気取る態度からは、生きる糧(かて)は生まれません。
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、超越という難しい言葉を、存在に付けて、言い得たつもりの楽山です。人は神を賛美することが出来ないのでしょうか、祈り願うことは出来ないのでしょうか、否です。人知を超えた計り知れない神だからこそ、讃美も願いも含めて、祈る以外にないわけです。
 
楽山は全く逆のことを言っています。どこまで外して、人を惑わせるつもりなのでしょう。何も理解できない者が、言葉だけは執拗、・・これは、何にも増して、誰にとっても、害毒となります。
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしていることです。
 
人が、神についてできるのは、聖書の話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、祈ること、願うこと、という、あくまで人の側の話です。
 
どうか、楽山のような、偽の神の捏造話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、決して、楽山に近づかないでください。
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
 
楽山は、神を知らないのに語るという習癖をもって、全く自由ではなく、全く広くもなく、安楽のお山に、ふんぞり返って、下を眺めては、何ごとか独り言を言い、ニヤニヤあざ笑っている類人の有り様に過ぎません。そのことが、楽山の人格を破壊して、モンスターに成り上がらせたのでしょう。
 
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
生ける神は、全能者でありながら、人格を包含し、人格に共感する神であることが、聖書には書かれています。聖書を、ろくに読んでいない楽山の無知が明らかであります。
 
恐ろしいことです。楽山は、感情のない自然のような神を信じたほうがよいと言っています。そのような神?が、どうして、生きる縁(よすが)となるでしょう。神は、人に共感する神であります。
 
楽山は、自分が、情緒の乏しい人格のために、巻き添えを欲しがっているようです。ゆえに、聖書を、超常または無機質としてしか受け取らず、そこに書かれている人間性を無視している楽山が、明らかになっています。何も読み取っていない楽山です。
 
楽山は、ここで、自らの気分的に気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、それでも、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が壊れてゆきます。
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の図画工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも自家製の飴玉を舐めて、よだれを垂らしてくる楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で、自分に合った信仰を持てばいいと、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。腐っているのに、生鮮のつもりになって、書くことだけは止めない楽山の、さらなる腐敗が続いています。
 
気をつけてください。楽山は、考えが浅い、そして、情緒が鈍い、という自分の精神と思想に、読む人を巻き込もうとしています。これが、楽山の他者の人格破壊という恐ろしい害毒なのです。決して関わらないでください。
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして、楽山は、自身の欠陥を棚に上げて、自分の姿を神に見ているのかもしれない、自分の姿を神に投影している、などと勝手な空想を結論みたいに言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と悪意の企みであり、ゆえに、破局点であり、楽山自身の人格の崩壊なのです。
 
信仰には、自分に、うんざりした人が、救いを求めてくることが多いのです。自己愛性人格障害者である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。神そして信仰は、自分を絶対視して、神を概念の紙片のように自分の視野に置いている者には、決して理解できないことです。
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
そうして、楽山の結びは、人によって勝手に信じる信仰、という、聞いても、何の役にも立たない結論のようです。恥ずかしげもなく、こういうことを書けるのは、楽山に、羞恥心と罪悪感がないからでしょう。
 
まわりくどく、まわりくどく、勝手にしたらいい、という結論に至ります。楽山を聞いて、蓄積するのは、徒労と疲労というゴミに過ぎないのです。
 
しかも、神を、人から独立した存在ではないと言っています。これは、ある種の、偶像崇拝のことであり、いと高き存在を恐れる心の無い楽山にとっては、偶像は自分自身、つまり自分信仰なのです。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを、混同して、幼稚に決めつけて、神を否定するのが楽山です。
 
決めつけない、という一点において、信仰は成立します。神を決めつけないことを、神を恐れる、という言い方をします。楽山は決めつけで出来ているために、分からないのです。
 
人は、神の意志と行為を決めつけることが出来ません。しかし、通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山は、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないでしょう。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。訂正不能の幼稚さを、ずっと続けて、学習と成長をしない無駄口が、楽山です。
 
信仰の押し付けはカルトがやっていることです。信仰の貶めは楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由だったら、聖書も、宗教も、信仰も、生まれる必要はなかったのです。現実には逆であって、本末転倒の、戒められることが何よりも嫌いな楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に絡み付いたときのような不快感をもたらします。
 
信仰が、楽山の言うような、飾りのような信仰?なら、それは、楽山の信仰であり、楽山の言うように、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のない信仰?だからです。
 
真の信仰は、現象としても、人が、それを必要としたから、伝えられて、広まっているのです。
 
宗教には、曲解やカルト化という弊害はありますが、今も、真の恐れを知り、信仰による癒しと救いを必要とする人々がいるのです。楽山やシャロームなどの易坊類に共通した典型的なこととして、信仰を語る資格のない自己愛の、思慮の足らない者に惑わされることのないように願っています。
 
楽山は、いかにも柔和な評論家か知識人であるかのよう装って、丁寧語で書いてきますが、実際は、無反省・無責任などを特徴とする自己愛性人格障害者であり、正義と善に見せかけて、無理解と悪意から、侮辱の言いがかりを、笑いながら平気で言って、訂正不能に、今も続けているサディストです。
 
 
(2020年05月22日、同日一部修正)
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
汚染の道

汚染の道
 
 
(2021年05月29日、加筆して再録)
 
 
 
  なれの果て
 
またも果てである
いつか果てである
目処(めど)が立っても立たなくても
耐えても進んでも
黙っていても
必ず果てである
止まれば土か
流れれば海か
飛べば空か
だから一つの
忘れやすい夢である
夢の属性に救われて
来るという保証のない
明日の目覚めを
願うことなく信じていた間
同じように忘れていた
見えない闇の果て
 
いつか手に
ショッピングバッグをぶら下げて
街頭に立ち
錆びた街灯に触れて
すりきれた外套の
衰えた視力の
細い明かりと
冷たい引っかかりと
見えない剥離と
輪郭の縁(へり)と
影をゆっくりなぞっている
見えない光の果てである
 
 
 
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  楽山のダークサイト
 
 三島由紀夫とスウェーデンボルグ
 (『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』)
 2021年05月12日 楽山日記(LD)
 
 
カルトを信じていた人は、脱会しても、霊の話などが、記憶に残ることがあるだろうと思います。楽山が、元々大好きな、超常・魔法・心霊・心霊・霊能者、などの話です。これらは、カルトが、信者を獲得するために、好んで、話題やテーマにするものです。
 
楽山は、子供のときから、"仏様の気持ちが分かるっぽい" そして、霊が分かるっぽいという自覚があるために、結局、こういう霊の話に飛びつくのでしょう。
 
書いて公開すれば批判される、という繰り返しで、楽山が選んだことは、自粛ではなく、反省でもなく、"秘密" であります。体質から逃れられない因業の魔物を持っていることが、公開から、秘密の情報にすることで、むしろ、明らかになっています。
 
楽山に好意的に関わってきた人は、不幸というしかありません。霊能者気取りだが、人の心が、まるで分からないということが、書いてくる文章に表れてきた楽山です。
 
*三島由紀夫とスウェーデンボルグ
『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』をつまみ読みしていたら、三島由紀夫がスウェーデンボルグに触れている箇所があったので、メモしておきたい。
十一日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボルグの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。
(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』新潮社、1997年、p.42)
 」
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
 今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
(ネットより)
エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
・・・
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
・・・
カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)
 
スウェーデンボルグは、霊について、不思議な能力について、大量に書いた人のようです。霊能者気取りの楽山にとっては、霊だから検証しなくてよく、考えなくて済むような、うってつけのテーマなのでしょう。秘密に教えますよ・・というやり方が、既に、あざといのです。
 
スウェーデンボルグの語る霊とは、聖霊なのでしょうか、悪霊なのでしょうか。楽山と似たような自己愛からの霊能者気取りなのでしょうか。私は、楽山を見てきて、うんざりしているので、興味はないです。
 
類は友を呼ぶ、というところでしょうが、著名人と楽山では、落差が大きく、楽山の語る霊の話も宗教の話も、幼稚だったことを考えると、関わらないほうがよいと思われます。
 
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
楽山にとって、霊は、疑うこともなく、存在が前提となっているようです。スピリットには、心という意味も含まれていて、スピリチュアリズムと言えば、心霊・霊能・霊魂と言うより、身近に感じられるというところがあります。
 
要するに、無条件で受け入れるしかない超常であり、楽山にとって、考える必要もなく、努力する必要もなく、反省もしないで言って気持ちがよいテーマなのです。
 
キリスト信仰において、霊は、労力の要らない便利ツールではなく、聖霊は、聖三位の一つであり、人間には届かない存在です。悪霊は、悪魔性の活動として、邪悪の代名詞のようなものです。
 
聖書では、病気や災いは悪霊のせいだと見なされ、病人は差別されていました。そこに救いの手を差し伸べたのが、イエス・キリストであります。キリストは、人間的な共感に溢れた御方であります。
 
つまり、問答無用・議論不要の霊に帰するところには、人間の心や共感が無くなり、超常の魔術的な結論だけが意味を持つのでしょう。努力しないで安きに流れてきた楽山には、霊と超常に傾倒する必然があるような気がします。
 
それにしても、また、三島由紀夫や川端康成などの著名人を引き合いに出して、恐らく右翼寄りの思想もあるのでしょう。楽山は、有名人が大好きで、自己満悦のために、書いていいのだろうか?という疑問も遠慮も節操もなく、好きなように利用しています。ずっと、節度なき我欲と我執を表しているのです。
 
*憑依
本書の巻末には、佐伯彰一と川端香男里の対談が収録されているが、そこにはこんな発言があった。
佐伯 四十一年六月号の「文藝」に載った「英靈の聲」は、ふっと何かにとりつかれたように一気に書き上げた、と三島さんご自身の口からうかがったな。その後、美輪明宏に会った時、「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとしたという話を、三島さんは例の誇張したおどけた調子でおっしゃられたことを覚えています。
(同上、p.215)
 」
以前、某匿名掲示板にて、三島由紀夫は「英靈の聲」を書いたときに、226事件の首謀者の霊に憑依された云々という話を読んだことがあったが、その元ネタはこれかもしれぬ。
「英靈の聲」は最恐ホラーよりもさらに怖いと思ってはいたが、やはりいわくつきの作品だったということか。
 
「「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとした」「誇張したおどけた調子で」・・これって、賛同でしょうか。楽山は、「最恐ホラーよりもさらに怖いと」受け取ったようですが、笑い話として書いているという見方はできないのでしょうか。
 
三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」のセリフに、「殴られるより悪いことがある」というのがありました。楽山は、まとも芝居で、丁寧語で、婉曲的に、そういう、"殴られるより悪いこと" をしては、人を疲労させ、傷つけて、何とも思わないでいる人です。
 
(以下は、心霊的な話題に踏み込むのでプライベートモードで失敬)
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宗教も信仰も理解できないのに批判だけしてくる楽山は、こういう不思議話を、まるで、吸い取り紙のように、何の疑念もなく無批判に、受け入れるようです。超常オタクで、人間として、いかにあるべきかという問題には、まるで関心を示さない楽山です。
 
"霊的"右翼の秘密結社でも作るつもりなのでしょうか。気の短かそうな、血しぶきの飛びそうな、掟のありそうな世界に、無反省・無責任の楽山が、通用すると思っているのでしょうか。
 
以前から、楽山については、人間としての、思考力、判断力、客観性、および、共感性に、問題を感じていましたが、いよいよ、とても怪しい領域に、本格的に、のめり込んで、誰かに刷り込んでゆくのでしょうか。公開すると叩かれるから、秘密のモードを使って(?)。 
 
結局、ペテンに終始するだけの楽山ブログのサイト、ダークサイトで、暗黒面ダークサイドまで行くかどうかは分かりませんが、もちろん刷り込まれたりしないように、また、とばっちりや巻き添えを食らうことのないように、決して楽山に関わらないでください。
 
 
暗黒面へ

暗黒面へ?
 
 
(2021年05月14日)
 
 
 
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  凶暴な反復2
 
 
 2020年03月28日
 『若い読者のための『種の起源』』ダーウィン著、ステフォフ編著
 楽山日記(LD)
 
 
ダーウィンを持ち出してきました。そして、読んで大正解、納得できる、と言っています。科学の部外者の立場では済まない傲慢は、進化論でキリスト教とキリスト信仰をおとしめる狙いが以前からあるという理由によります。
 
楽山の凶暴性は、自己愛、自己中、訂正不能、そして、執拗な自尊の繰り返しで、評論家を気取る体質にあります。それは、何を言われても気に入らなければ平気で無視して同じことを繰り返す執拗な性癖に表れてきましたし、今回も同様です。
 
若い読者のための『種の起源』
「種の起源」は随分前にはじめの数ページを読んだだけですぐに放り出してしまい、そのことがずっと気にかかっていたのだが、本書はこれを簡潔、平易にしたものだとのことで興味を持ち、読んでみた。
 
ナルシストで楽山の興味は、いかにして、キリスト教をおとしめるかということで貫かれています。そのために、楽山は、聖書の通りに天地と動物と人間を創造したと信じて進化論を否定するがキリスト教だと決めつけています。
 
私は、最初に通った教会で、創世記は神話として読むことを勧められています。そのほうが、より多くの真実を受け取ることが出来ると、私も思っています。その読み方によって、生き生きとした人間の有り様と罪性が分かってくるのです。
 
しかしながら、凶暴な訂正不能の楽山は、わざわざ、創造論と言って聖書を進化論と並べる理屈としてしまって決めつけ、進化論という仮説のほうが正しいと言いたいようです。丁寧な書き方は、楽山の策略であることを強調しておきます。
 
楽山は聖書の読み方を知りません。また、事実と真理を決めつけないと気が済まないようです。そういう読み方では、神と人間の関係など、微塵も理解できないことをも強調しておきます。そのことを何度言っても、理解力がないのか、感受性がないのか、反省力も成長もないのか、楽山は書いてくるのです。
 
結果は大正解。本書は、生物学に無知な自分でも面白く読めた。序盤は頭の中で音読するようにゆっくり、徐々にペースを上げて行く読み方をして、ただ最近はどうも何事にも飽きっぽくなっているので、最後のところはやや流し読みに近くなってしまったのではあるが、それでもやっぱり面白かった。折を見て再読したい。
 
学習途上の人々を惑わすようなことを書いて、何が大正解なのでしょう。罪悪感と羞恥心がまるで育っていない楽山の、批判されると、反論どころか弁明どころか、無視しか出来ず、今回のような当てつけしか返せないでいて、なお、気取っていられる心性は、とても異常です。
 
シャロームと同様、全く話し合いの成り立たない人なので、成りすましの疑いもあります。他にも、親子など親族、仲間、組織の可能性も考えています。シャロームは、仲間が多いことを誇っていたからです。
 
内容については、他の本で読んで既に知っていることも多かったが、高地に点在する動植物についての話ははじめて読んだ。寒冷地の生物は氷河期のように地球全体が冷え込んでいた頃に南下し、生息域を広めるも、やがて地球の温暖化がはじまると、北に戻るものもいれば、高地へと移動するものもあったのだろう…云々と。同種の生物が離れた場所に生息しているのは不思議だと思っていたが、こういう理由があったなら納得できる。
でもこれと似た疑問として、淡水魚の場合はどうなのだろうと思う。たとえば、フナは日本全国の河川、湖沼に分布しているけれども、他とはつながっていない孤立した湖沼それぞれに生息しているのはなぜだろう。これにはどういう説明があるのだろう。
 
人の意見を聞かず、自分を支持するような情報、学者の言うことも対等の立場のように分かる評論家気取り、実は勘違いと思い込みばかり、・・そういうものを漁(あさ)って、分かっていることにしているとこうなる、という例になります。
 
進化論については専門家でも議論のあって不思議のないところですが、私は学者ではないので進化論の正誤については遠慮するわけです。しかし、楽山は、学者の言うことが分かる、納得できる、と言いたくてたまらないのでしょう。
 
淡水魚の場合は、なぜだろう、どういう説明があるのだろう、と分からないことがある自覚?みたいなことを書いていますが、楽山のように、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、本当のことを言うことが少ない、こうなってくると、分からないという自覚を書いても、本気ではなく、何らかの作為があるとしか受け取られないということです。まさに、"狼と少年"の話になります。
 
楽山が、分かったつもりのことは、楽山の、キリスト教に対するおとしめの筋書きに合っているからであり、分かっていると言いたい楽山は、それゆえ、進化論を讃美するわけでしょう。
 
実際には、こういう進化論のことを、いくら賛同して、書いても、キリスト教の本質には、何の関係もないのです。
 
楽山が謙譲芝居をするとこうなるという例でもあります。分かっていない自分を出すときに、分かっている自分を暗示してしまうボンヤリ言語は、楽山の筆致なのです。
 
学者の言うことを評論家のごとく語って、さんざん的を外してきたのだから、なにせ恐れも知らず霊が分かるっぽい、と思っている楽山ですから、もはや、ダーウィンという大きな名前を出しても、楽山の信頼度はゼロのままであり、いっさい、無駄なのです。
 
この記事を、分からないこともあるかのように中学生の感想文みたいに思わせるのですが、このわざとらしい書き方をしながら、一方で、キリスト教をおとしめてくるのだから、とても成長発達途上の人の感想文として読むことなど出来ない悪意の作為があるわけです。楽山の攻撃性は深く、性根は凶暴です。
 
また本書では創造論への批判がさりげなく挿入されているが、そのうちで最も印象深かったのはこの箇所だった。
自然を観察することで「このように美しく、精巧で、秩序ある自然が偶然に生まれるわけがない、設計者が存在するはずだ」と思わないではいられなくなることもあるけれども、それとは反対に「このような無残なことを創造主がよしとされたとは考えにくいし、もしこれをよしとされたのであれば創造主は人の情緒とは相当に異なった感性、価値観を持った存在だろう」と推定せざるを得ず、神は愛であるなどとロマンチックなことは言ってはいられなくなることもあるが、一体どちらが本当なのだろうと思う。
 
上に書いたように、楽山の言う創造論というのは、聖書の創世記をそのまま歴史の事実の主張として受け取って、神が創造したのならなぜ・・という疑問を書いてくるものです。
 
そうやって、楽山は、学ぶべき創世記を始めとする聖書を、興味本位の非人間的な超常話にすり替えて、固定観念として、自分はインテリだから進化論を支持するみたいな文脈にしてゆくわけですが、聖書も本も、まるで受け取る節操も弁えも理路の整合性も感性の貯えも持っていない自分を図らずも出してしまうわけです。
 
キリスト教の本質は、歴史の事実として創造を受け取るよりも、実存的に今も在ることとして、人間のあり方と罪性につながることとして学ぶべきであります。
 
キリスト教を、神が事実として聖書通りに創造したという信条を掲げている教派もあるようですが、私は、そういう受け取り方では、信仰の大事なことを、受け取ることにならない、あるいは、超常の話によって、むしろ受け取るべき真実が阻害される恐れがあると思っています。
 
楽山は、キリスト教内部での違いなど何の関心もなく、いつ書いても、みな同じように、創造と進化という対立の誇大的なテーマだけで扱い、おとしめようとしてきます。
 
楽山の机上にあるのは、複雑な問題を凶暴に単純化して、それこそ、楽山の狭い視野の中に、紙くずのようにぶち込んで丸めてしまった上での空論であることを知ってほしいと思います。
 
無残な有り様を呈している世界に、神がいるとは思えないという言い分は、無残な地上を生きるために信仰が必要と考える思慮を持たないで一途に神を否定したいだけの楽山のようなものが唾を飛ばして言っているだけなのです。
 
はっきり言って、地上の悲劇をもたらしているのは、楽山のような良心の欠けた人格~群像であります。そういう群れは、いつまでも、どこまでも、自己愛を優先し、平和や協調を持ち得ないために、破壊的言辞をもって、神と信仰者への憎しみをいだき続けるでしょう。
 
この辺りは人によって判断は異なるだろうけれども、これまでの時代の流れからすると、創造論と進化論とではどちらが優勢であるかははっきりしているし、
 
このように、楽山は、進化論が優勢だと暗示して、創造論の理屈におとしめて狭い引き出しに閉じ込めたキリスト教?をおとしめて、いい気になるのです。しかして、信仰については、何の助言にも、否定にもならないような、卑しいだけの自己顕示欲を満たしているのでしょう。
 
批判に対して、いかなる弁明もできないで詭弁で文句だけを言ってくる楽山に対して、同じように狭い引き出しに思想を閉じ込めるような人間にならないためにも、楽山の詭弁を正当な感じなどと思わないでください。
 
楽山という疲労物質は、人間として聖書も思想も受け取るということが出来ないようです。人間として発揮できる良心の働きがないから、人の迷惑を省みることがないのでしょう。
 
今後は宗教的感性が発達し、かつ一定の知性を持つ人にとってはそうではない人よりもいっそう生き難い世の中になって行きそうではある。
 
楽山は、自分が感性がないと言われたものだから、人に向けて、宗教的感性が発達、などと、人ごとにして、どこまでも評論家?的立場というより、人よりも高みにいる立場の気取りを守りたいようです。その実、やっていることは、言論において、邪魔にしかならず、相手にもならないようなものばかりでした。人を惑わしてまで、自分を高めたい者の体質なのでしょう。
 
将来的にはそういう人のために何らかの新しい道の必要性はますます高まってゆくに違いない。
 
新しい道に、遠回しに、賢者の一人として自分は大事な役を担う、という自尊が表れています。汚い欲望の、しかも、暗示的な高慢です。だから、書き続けるのでしょう。いつか、尊敬され、崇(あが)められることを信じて。
 
ここに、楽山という自己愛性人格障害の訂正不能の誇大妄想が横たわっているのです。
 
 
だいたい、信仰は、人間が生きるためにあります。そのために、大昔が、創造であったとか、事実であったとかは、決して大きな問題ではありません。楽山の言は、低次元であるだけでなく、冷淡で平板な情性と、同じことを繰り返す惰性(だせい)で、宗教を舐めただけの的外れです。意図的だからインチキだと言いました。
 
史実にこだわることよりも、人間は、元々、どういう存在であり、どういう性質を持っているか、ということに焦点を当てることが、宗教と信仰を考えるときには、よっぽど重要なのです。
 
そのことを考えれば、私は今まで、貧弱な頭と心で、努めて、書いてきましたが、聖書は、とても大切なことを伝えています。それが、楽山には、全く分からないのです。
 
何故かと言えば、楽山やシャロームなどの易坊類は、その教えに真っ向から背き続けている前提があるからです。嘘を吐き、詭弁を弄し、偽りを好み、自分を高みに置く、そして悔いない、・・全てが、人をだますための偽善の背信行為だから、分かろうとしない前提があることが、続ければ続けるほど、明らかになるわけです。
 
そのことを、いくら言っても、楽山のような者は、性懲りもなく保身のために、嫌がらせのような、学術めいた上辺(うわべ)を装って、偏(かたよ)って一面的な、そして、悪意に満ちた方向に誘導された文章によって、詭弁でしかない言説を、こともあろうに先人の名を悪用して、広めようとするのです。こうなったら、おしまいという病質の症例であります。
 
シャロームなどのお仲間を喜ばせたいということがあるのでしょうが、それ以上に自分を満足させたいだけなのです。
 
そういう者同士というのは、つまり、楽山やシャロームなどの易坊類は、その幼稚さ、執拗さ、嘘と詭弁、悔いない厚かましさ、悪だくみ、などの点で、実に、よく似てくるのです。カルト性が、悪魔性を呼び、みんな似たような、話にならない人間になっていると思います。それで、成りすましの疑惑も、ずっとあるわけです。
 
そして、楽山との交流をあきらめた頃からずっとですが、批判の目的は、楽山を変えることではなく、楽山の悪性の執拗さを書くことで、近づいてはいけない人という警戒情報を広めるためだけになってきました。そのこと以外に、もはや、目的はないと言ってよいでしょう。
 
だから、シャロームに対するのと同様に、楽山に対しても、批判は、とてもシンプルになってきました。前提を繰り返すだけのスピーカーに過ぎない者たちであり、対話の成り立たない相手とは、話しても無駄だからです。
 
ネットには、ときに、ためになる話や、ほお・・っと思うような面白い話もあるのですが、一貫して、月並みであり詭弁まじりの楽山の言から学ぶべきことは皆無です。かつ、楽山の執拗さと凶暴な反復の企てを見ると、楽山は、とても無神経で底意地の悪い人だと思います。
 
 
孤独な自慢

孤独な自慢
 
 
楽山の自己愛性人格障害による体質的で極めて卑怯な単方向性の反復する言論活動は、組織的なものか、個人の怨念によるものか、まだ、はっきりと断定はできません。
 
ただ、言えるのは、一般に対して、そして、とりわけ信仰を求める人々に対して、侮辱であり精神の破壊者であることは、今までの批判から明らかであります。
 
楽山は、神がいるなら不幸があってはならないと、まるで、神の合否を云々して神の不在を判断しているのです。私たち信仰者は、不幸があるから神の救いを必要としているのです。楽山のような人にかまってはいられないです。
 
楽山は、神はいないと言いながら、神に代わる幸いを何も示せません。人にそんなことできません。楽山は、人の心をもてあそんでいるだけです。つまり、不幸があるからと言いながら、不幸と煩いをばらまいているのが、楽山です。楽山の言こそが、災いであり、不幸の元なのです。
 
楽山は、人を煩わせるだけで、誰の何の役にも立たない人です。欠損した能力と人格から、楽山が、どんなに難しい本をあげて何か言ってきても、いちばん理解していないのは、楽山なのです。これほど学ぶところのない人は珍しいですが、それが病質というものでしょう。
 
楽山は、言論者ではありません。自分が言うだけで、人の言うことを受け取る器がないからです。このことは双方向の意見交換が不能であることを意味しています。つまり、フィッシイングのように、誰かが、だまされて引っかかるのを楽しみに待っているだけなのです。
 
楽山は、訂正不能の、宣伝と誘導しか出来ないサディスティックな性根だけを持っています。あらゆる詭弁と虚偽を弄して、だまして刷り込もうとしてきます。まともに相手すれば、疲労と人格破壊が待っているだけです。決して相手にしないでください。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人。
午後9:44 · 2021年4月26日·twittbot.net
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 」
 
楽山は、自身の攻撃欲または企みに従って、故意に残酷な不感不応と無視によって、キリスト教をおとしめるというモラル・ハラスメントを続けてきました。
 
楽山こそが、思慮もなく、共感もなく、やたら、サディスティックに「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことをやりたい人」なのです。
 
ここでは、またしても企んで、卑怯者らしく他者の口を悪用していますが、「自分自身の攻撃欲に全く気づいておらず、無自覚のまま、残酷なことを」やっているのは、楽山であります。証拠は、ずっと言ってきた無反省と無責任で十分でしょう。
 
こちらには約2年に及ぶ楽山の偏狭な決めつけの履歴があります。なおも、このように、恣意的に、人の口をゆがめて悪用するのが、楽山のやり方なのです。病質の執念が凄まじい。
 
楽山は、いくら批判しても変わりはありません。したがって、批判記事を書くのは、批判を始めて数か月を経過したのちは、楽山を変えるためではなく、世の中にいるところの、近づいていい人と、近づいてはいけない人のうち、楽山が後者であることを伝えるためであります。
 
 
(2020年03月29日)
(2021年04月28日、加筆して再録)
 
 
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