ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:創世記

 
  聖書におけるサイコパス
 
 
悲しむことなく、悔いることはありません。
後悔するとき、人は、悲しんでいます。
悲しみと悔いは、人間の高等感情です。
 
そして、悔いることのないまま、改めることはないのです。
 
正義や慈善とかではなく、悲しみを知ることが、人間の良心なのです。神に、正直に祈る人は、楽山のような嘘と詭弁と決めつけではなく、正直に告白して救いの希望を祈り願います。
 
そして、悲しみを知らないのが、サイコパスです。何か言われると怒るか笑うだけなのです。
 
聖書に登場する二人の悪役、カインとユダについてについて考えてみます。
 
カインはサイコパスだと思います。しかしユダは違うと思います。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6-7
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世記4:5-7、旧約聖書)
 
供え物が受け入れられなかったとき、カインは、悲しむのではなく、怒りました。
そして、弟を殺します。
 
 
 (創世記、口語訳)
4:8
カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 
4:9
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
 (創世記4:8-9、旧約聖書)
 
殺すという行為には、過失致死、正当防衛、そして故意の殺人があります。カインは、3番目の殺人です。そして、神に問われると、カインは、ふてくされて、弟の番人でしょうか、と言い返します。
 
サイコパスには、笑いと怒りしかありません。良心がありません。罪悪感がありません。悔いる、反省する、しんみり悲しむ、という高等感情がありません。いつも、自分の都合だけで反応します。罪を指摘されると、怒り、恨みます。
 
 
聖書を書いた人も、同じように思ったのか、カインの子孫も殺人者という書き方です。
 
 (創世記、口語訳)
4:23
レメクはその妻たちに言った、
「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
4:24
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」。
 (創世記4:23-24、旧約聖書)
 
 
サイコパスは、罪を指摘され、傷つけられると、悔いることも改めることも悲しむことも恥じることもなく、怨念を燃やし、復讐ばかりを考えます。ユダは、どうでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、裏切ったのち、後悔して自殺しているので、サイコパスではないと思います。裏切りの罪ならば、他の弟子たちも、十字架の時には逃げているので、同じです。そして、それは、私たちの罪でもあります。私たちも、神に対しキリストに対して、恥ずべき罪人です。
 
 ※
 
裏切りの罪人である自覚ならば、神について、キリストについて、聖霊について、決めつけたり、豪語したりなどは出来ないはずです。神とキリストと聖霊と話をしました・・などとも言えないはずです。
 
キリスト者は、神の前に、ただ、正直な祈りを捧げることのみをもって、キリスト者なのです。
 
 ※
 
時間も宇宙も果てしないのに、人間の心は、一部でも見えにくいのに、ほんの一点のような時空を右往左往して生きている人間には、思い上がれる道理はないのです。果てまでなど、とても、追えない、見えない、分からないという非力を弁えているならば、正直に分からないと祈るのです。
 
 
信仰 vs サイコパス

信仰 vs サイコパス
 
 
(2022年04月21日)
 
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
写らない夜が行きます
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
魂を揺さぶられて、恨みに思う者もいるようです。反省と悔い改めの機会を逃し続けて、身につけた嘘と詭弁から正しさを求めても、得たつもりでも、悲惨な自我の、醜態にしかならないのです。もはや、思想も宗教も信仰も、語れば詭弁になり嘘になって、崖っぷちを彷徨うしかないでしょう。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
のりたま🍀358🍀
@ichigooooo0914
誹謗中傷が辞められない人。発する言葉を
一番最初に聴く人は
発している貴方自身。
午前0:19 · 2022年4月17日
 
楽山が、これを引用するのは、誹謗中傷と批判の区別が分からないからです。誹謗中傷は、楽山の記事で、対象はキリスト教です。根拠が、全く的外れの曲解~妄想です。つまり、楽山が、教祖願望の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自分自身を誹謗中傷しているのです。
 
 
 
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  個人カルトの惨状2
     以前の記事とダブっているところがあります。
     改めて考えてみます。
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活がなくてはならない、と信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中が増えてきて、人間と人間は、なかなか一致しないものですから、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えて、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。言動が合ってないような気がするとき、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、怒り恨んで人のせいにするでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (漱石4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、不都合で怒り、他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて、絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって、好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての関係です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように、恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ信じ方の形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。信仰の目覚めには、このことに気づくことが必ず含まれると思っています。どうか人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
個人カルトの果て2

個人カルトの果て
 
 
(2019年07月17日)
(2021年08月03日、再録+)
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前に、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前でも、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約2年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけなのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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