ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:卑怯

 
   愛も悔いも書き残す
 
8年ほど前に投稿したものを手直しして投稿します。
 
 
  「聖書語」
 
 
前に、解釈信仰、神秘信仰、史実信仰、奇跡信仰、といった言葉を用いましたが、それらはいずれも人が解釈したことを神として信仰するのはおかしいという批判でした。ゆえに人の解釈を通しているので、一括して解釈信仰と呼んでよさそうに思えます。
 
しかもそれらは解釈した文章的なものだけではなく、すり込まれた観念か体質か習性のように染みついてきます。そこから外れると条件反射のように拒否反応が起こりやすくなっているようです。
・・「言っちゃいけない」「聞いちゃいけない」の潜在意識 ? ・・
 
「聖書語」というものについて前に書きましたが、教会では兄弟でもないのに兄弟と呼び合う。怖いのは、兄弟という呼称そのものではなく、兄弟と呼び合うことによって整った信徒である自分を確かめ合っているかのような雰囲気でしょう。信仰は呼称によって確かめることは出来ません。
 
そして聖書の話をしたり聞いたりするのですが、聖書に関連した好ましい話だけが語られるようです。そして讃美、感謝、きれいな言葉しか言わない。そんなに都合のよい話ばかりではないというようなことを言うと、とんでもないかのように風向きが冷たく変わってしまう。
 
ずっと昔いたことのある教会で、洗礼を受けるときに発作を起こして倒れた信徒がいて、その話を牧師に言うと、牧師がまるで舌打ちでもするかのように不快な表情を見せたことがありました。
 
教会では、にこやかに好ましいことだけを語って讃美していないと気が済まないらしい・・
・・牧師も長老も信徒も・・まるでパブロフの犬ではないか・・
 
またこの譬えで「誇る者↓」に書いたような変な解釈をされると困るので書いておきますが、パブロフの犬は人に飼われています。神に飼われているのではありません。人の解釈による慣習的条件付けです。「犬を誇る」なんて成り立ちません。
 
讃美できないような都合の悪い話について、現実の悲劇の話はおそらく結論は出ないと思います。教会はこの世にある間は聖なる教会ではないからです。人間の教会です。教会が人間としての共感を持ってそういう話を共有し考え話し合える場であったなら、私は教会から離れることはなかったかもしれません。
 
牧師は悩みのない平安の辻褄合わせのためにいるのではないのだから、確信や威厳という神の前に空しい虚栄よりも、育むべきは真実であり、人間同士の信頼関係です。牧師が信徒とともに人間として苦悩している教会であってほしいと願って止みません。
 
 
 
  誇る者
 
 
弱いと言えば
「弱さを誇る」と言う。
そうじゃない。
正面を向いて解決しようとせず
裏でこそこそ話を回すような
卑怯な「弱さ」のことを言っている。
 
しみついていると言えば
「しみを誇る」と言うのか。
そうじゃない。
体質のように「しみついて」
陰で欠点を譬えたシミに言いかえるような
卑怯な「しみ」のことを言っている。
 
臆病と言えば
「臆病を誇る」と言いかねない。
そうじゃない。
どこまでも受けず答えず考えず
教えられた沈黙を美徳とするような
卑怯な「臆病」のことを言っている。
 
卑怯と言えば
「卑怯を誇る」??
とでも言うのだろうか。
 
言い訳をする信仰者にはなりたくない。
強くもなりたくない。
実際、弱いのだから。
弱さがあれば
折々に主に捧げてゆくものだ。
 
パウロは、それが出来ていたから
「弱さを誇ろう」と言ったのである。
 
 
 (コリント人への第2の手紙、口語訳)
12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
 (2コリント12:9-10、新約聖書)
 
 
 
  善の判定
 
 
時が移れば、善と思ったことが悪の種になることもあり、因果は複雑になり、判定は困難です。自分の言動の影響を、影響がなくなるまで追える人はいない。ゆえに、善かれと思って傷つける、ということが起こります。人間の善は、絶対には成りえない。非絶対性=相対性を弁えておくべきでしょう。
 
悪の判定。善の対極の悪の判定は、善の判定と同じ理由で困難です。さらに両極の判定だから、善と悪の境界は不明瞭となる場合があります。
 
偽善の判定。善を装うことは比較的卑近に行われ、装いを見抜くことも上の2つに比べて困難な場合があります。しかし、経過観察によっては、可能かもしれない。ゆえに偽善の判定が重要になります。
 
偽善は自己満足の安易さを持っているので、その手段において、いつも同じやり方が通用することを求めます。即ち常態を欲するのです。偽善はほぼ常に自己防衛的なので、固着した常態を外れると、感情的になりやすく、ゆえに行動化しやすい。そのときの圧力を感じることが必要です。
 
圧力が生み出す軋轢が自他ともに、偽善の実害の始まりということになります。重要な問題で軋轢を生じるときには、どこかに固定観念から自己満足や偽善の種が蒔かれているのかもしれません。ゆえに、善は偽善を明らかにする過程で、おぼろげな在り方を暗示するのかもしれません。
 
 
 
  愛が引き裂くもの
 
 
いかなる愛も、食い違うというほどではなく、歯車は歯の僅かなズレで、回るほどに摩耗してゆきます。よかれと思ったことに過剰な期待を抱く出会いであったなら、誰にも出会ったことはないと思っているほうがよかったのだろうか、しかしそれでも、どうかあなたの信じるものと暮らしてください。
 
縁があることを疑いもせずに受け入れることがどうしても出来ないから、お互い与えようとしたものは贈り物にならなかった。もはや擦り減って、それぞれの軌道に空転しているだけで、離れられない無償の熱が噛み合わない隙間を焦がすばかり・・。
 
 
静かなる愛 共感

静かなる愛 共感
 
 
(2022年02月06日、再録+加筆)
 
 
 
  失敗だった曲に合わせて

束の間の夢をいだいて
秋の街を歩いた
あの頃
君の心にはもう
動きようのない索引が
私をいっしょにまとめてしまう
はねるような笑顔で
秋の色をたたんで
君は去った

女は性を求めていた
彼女は位置を求めていた
そして仕事を
私は今も遊び人
使い物にならないリビドーを秘めて
また秋の街を歩く
君の音色を求めても無駄なこと
失敗だった曲に合わせて
私は歌い始める
そしてせめてはと
そっと
君の思い出に
裏切るように
生と死の境目で
歌を滑らせる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、信仰といえば、超常現象を信じ込むことだと思っているようです。霊が分かるっぽい自覚があるからです。ゆえに、楽山の欲望の魂胆は、教祖願望だと思います。楽山は自己愛性人格障害のために、自他の心の問題を理解できません。ゆえに、楽山は、信仰を語る資格はないと判断しています。
 
 
 
 『近思録 朱子学の素敵な入門書』
  朱熹・呂祖謙編集、福田晃一訳解
 2022年02月05日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の背伸びした読書、というより、読んだと言いたい我執だけです。短い記事で、感想というより、空疎に褒めているだけです。楽山の、いい加減体質と、自己顕示欲が、鼻に突くだけです。
 
*背伸びした読書
 先日、『近思録』を読み返してみたので、特に共感できた箇所について感想を書きたいと思う。
 ちなみに、『近思録』について、Wikipediaにはこうある。
『近思録』(きんしろく)は、朱熹と呂祖謙が周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂した、1176年に刊行された朱子学の入門書である。4人は北宋時代の学者で、宋学を始めた人物とされる。内容は、14章に分かれている。
日本では江戸時代後期に各地の儒学塾で講義された。豊後日田の広瀬淡窓の咸宜園では、『伝習録』とともに学業の最後の段階に位置づけられていた。
・近思録 - Wikipedia
 」
四書五経も知らず学問のない自分には、本書は難しいのではあるが、己の未熟さを知るには、たまにはこういう背伸びした読書もいいものである。
 
「こうある」「難しい」「背伸びした読書もいいものである」・・背伸びしても、感想文になっていません。「共感できた箇所について」何も書いていません。こう書いておけば謙虚と思われるじゃろ・・という芝居の意図だけが明らかです。こういうのを書いて見せようとすることに呆れます。
 
 
 
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  楽山の卑怯
 
 KENTO氏による楽山批判(2)信仰を守るための議論!
 幸福の科学とは何だろう?ブログ 2021年02月04日
 
 
HS側の言い分を云々するつもりはありません。ネットにおける公害として、楽山の卑怯さを指摘してゆきます。
 
何かを正そうという意志は、責任を負います。しかし、楽山は、人に優っている自分、という快感を得たいだけなので、いっさい責任を負いません。
 
*反論あり
KENTO氏から、また反論ツイートがあった。
今回は、スクショではなく、文章をコピペしてから、自分の感想を書いてみたい。
(注 ツイートは細切れになっているが、それだと見難いので、ここでは文章をつなげてコピペすることにする。またツイートに引用されていた楽山の文章は、緑色に変えた)
 
楽山は批判に対して感想を書くのだそうです。ふつうは、弁明とか反論とかいうところですが、楽山には、そのような責任に相応しい知性と感性がないので、またしても、感想じゃから・・と、責任を回避するつもりでしょう。
 
*被害者?
>この議論のテーマは、咲也加氏の卒論についてであって、楽山の人品についてではないことを再確認してほしいと思う。
HSアンチ諸氏と対話すれば、
アンチ氏は概ね必ず「人格や性格を非難された」と言って被害者側に回り込もうとします。
 」
私が言っているのは、議論のテーマは盗用問題なのだから、それについて話しましょうということ。
不当に人格批判をされたという意識はない。ぶっちゃけ、こういうことはよくあるので、もう慣れた(笑)。
 
このように、楽山は、笑っています。それで、もうそういうことは言えないんだ、と思ったら、楽山の思うつぼです。楽山の不正は、総て、楽山の人格が原因です。「(笑)」でごまかされずに、徹底して、楽山の欠損人格を追及するべきであります。
 
*見当外れ
HSアンチ諸氏は「心の中」を見られるのが恥ずかしく、 
その「恥ずかしい心」がツイートの原点にある事を指摘されるのが痛いのです。
だから、一生懸命「心」を隠そうとして「人格や性格を非難された」と言い、話題を「心」から遠ざけようとします。
 」
これは見当外れ。
KENTO氏自身がそういう考え方をしているから、他の人もそうだと思い込んでいるのだろう。
 
楽山に限っては、人格から見てゆかねばなりません。人格を批判し、性格を非難するべきであります。別の問題に、逸らそうとする楽山の誘いと挑発に乗らないことが大事です。
 
*繰り返し
さて、繰り返しになりますが、私が主張し続けている事は以下のⅠ~Ⅳです。
Ⅰ.お茶の水大学の広報が出した見解によれば咲也加様に卒論盗用の事実はない事。
Ⅱ.楽山氏は次の理由から本件に関して咲也加様に物申すには役不足である事。
 ・楽山氏は「学術論文とは何なのか」が分かっていない。
 ・だから「論文の引用とは何なのか」が分っていない。
 ・そして「卒業論文とはどのような位置づけの論文なのか」も理解していない。 
 ・だから、卒論指導をする教員の役目も理解していない。
Ⅲ.楽山氏の理屈はHSアンチが多用する次の手法である事。
 ・信憑性が保証されていない様々な情報の中から、
 ・自身に好都合な部分だけを切り出して継ぎはぎし、
 ・無理やり理屈を創り出して、自身に好都合な結論を誘導する。
Ⅳ.信仰を守るのか穢すのか、修行するのか落伍するのかは、個人の心の在り方の問題である事。
 」
これらはすでに議論済みと思うが、一つツッコミを入れるとすると、「楽山氏は次の理由から本件に関して咲也加様に物申すには役不足である事」という文章は間違いだよ。ここは「役不足」ではなく、「力不足」とすべきだ。
 
ものが言えなくなると、小規模?の知識をひけらかして、ごまかそうとする典型です。焦点を逸らす意図が明白で、つまり、何も言えなくなりましたという楽山の自白です。
 
>・「役不足」と「力不足」の違い - 社会人の教科書
 
(ネットより)
役不足(やくぶそく)とは。[名・形動]1 俳優などが割り当てられた役に不満を抱くこと。2 力量に比べて、役目が不相応に軽いこと。
 
*盗用問題の答えは心にある?
当たり前の事ですが「咲也加様の卒論問題の答え」は、
・ネットの中、
・大学の見解、
・大学に問い合わせた時の電話やメールの回答内容、
・私と楽山氏の議論、
にはありません。
その答えは「咲也加様を中心とした当事者の心の中」にあります。
なので、私は始めから「咲也加様の卒論は盗用か否か」という不毛な議論はしていませんし、その必要もありません。
 」
この誤魔化し方は、棒氏(――氏)と同じだ。
棒氏は「アンチはみんな嘘つきだ」と言う。
アンチ諸氏は「どこがどう嘘なのかを具体的に示せ」と求める。
棒氏はのらりくらりと答えをはぐらかし、最後には「アンチは自分の心に嘘をついている」と宣言。
 
楽山は、自我に執着し、自己愛から、自己正当化のために、自分にも、他者にも、平気で、嘘を吐いてきたのです。楽山に、まともな心はないと思います。
 
今回はこうだ。
KENTO氏は「盗用の事実はない。盗用報道に信憑性なし」と言う。
楽山はその根拠の提示を求める。
KENTO氏はのらりくらりと答えをはぐらかし、理屈をこねた後、「この問題のこたえは、当事者の心の中にある」と宣う。
どちらも、事実関係の問題を、心の問題にすりかえてる。
すでに多方面から指摘されているけど、「棒氏=KENTO氏」だね。
 
楽山の最も苦手とするのは、心の問題なのです。楽山には、正常な人間としての、みずみずしい心が無いからです。私は、ずっと、そのことを書いてきました。これからも書いてゆきます。
 
*判断理由
私は以下の①~⑤(+⑥)の理由から咲也加様は盗作・盗用を行なっていないと判断しています。。
①咲也加様ご自身が「私は盗用しました」と懺悔していない事。
②総裁先生から「この程度の引用で怒るのかな?」といった趣旨のご発言があったと記憶する事。
③大学の裁定が、咲也加様には何もなく、指導教官が罰せられた事。
④大学の見解が「無断借用」である事。
⑤新潮の取材に対する大学の回答には○○○〇研究が絡んだ一定の疑問がある事。
⑥大学が公表したとされる書面に対する私個人の見解。※詳細を知りたい信者さんはDMを下さい。
 」
盗作、盗用、パクリを判断する際には、まず現物を見比べた上で判断しようと考えるものだ。
でも、KENTO氏は、現物を比較検証するというもっとも重要なことは避けて、盗用はなかったとするための材料を集め、理屈を積み重ねてる。これじゃ、ダメだよ。
 
私について言えば、キリスト教について、愚にもつかない幼稚な屁理屈を積み上げてきた楽山です。その記録が私の記事にあります。しかも、無反省・無責任で、自らの快楽と、自尊の満悦のために書いているだけだということが明らかになっています。ケチを付けて優越感に浸るのが趣味の楽山です。
 
*目的
楽山氏が力説するように、
・ネットの意見は盗用が多数、
・週刊誌の取材で盗用と記された、
という見方は、 
あくまでも葉末な周辺情報の一部に過ぎないものであり、
こうした事柄だけで物事を論じてはならないと思っています。
但し、そもそも楽山氏は卒論問題を論じたいのではなく、
「HSを貶めることができるなら、その手段を選ぶ必要はない=信仰を穢したい」と考えているだけの事と察します。 
一方、私は「信仰を守りたい」と考えているだけです。
 」
私が、盗用と判断したのは、こちらの比較検証記事を読んだことが決定的だった。この記事を読めば、マスコミ報道も、幸福の科学側の反応も、よく理解できる。
 
楽山は、長い文章を書きますが、他者の長い記事を理解できていないと思います。楽山は、聖書を読んでも、神学書を読んでも、的を外して、けちを付けるか、悪用してきたことが明らかになっています。身の程を知らない背伸びだけの楽山です。
 
(リンクは省略)
 
ただ私は、現物比較をして、この記事が正しいかどうかまでは調べていない。この問題にはそこまでの関心はないので。
 
このように、楽山は、難しいところや複雑なところを、考えることができないのです。それを、関心がない、という言い方でごまかしていますが、批判しておきながら、それでいいのでしょうか。
 
だから、もしKENTO氏でも、他の誰かでも、現物の写真の提示とともに、このブログ記事に間違いがあることを証明するなら、いつでも判断を改める用意はある。
私の第一目的は、「信仰を守りたい」でも、「信仰を穢したい」でもなく、ただ事実を知りたいということにあるから、そういうことになる。
あとは、ツイート中に「あくまでも葉末な周辺情報の一部に過ぎない」というのは、「葉末」ではなく、「些末」の間違いだろう。
 
キリスト教について、事実も真実も信仰も、小学生レベルのいちゃもんをつけて、中心となる問題を、恥ずかしいほど外して、得意になっているのが、楽山その人です。
 
ここで、また、言葉の間違いを指摘して、思いやりを示したつもりで、話を濁しています。ふだんは、思いやりの欠片もない冷淡な詭弁屋の楽山ですから、目先を変えるための、ごまかしに過ぎません。
 
*見たまんま
そして、私から見ればですが、
楽山氏の言い分(=ネットの意見を集約)は「偏りが過ぎるもの」であり、
私の言い分(=上記①~⑤、及び⑥)は「ある程度は妥当」と思う次第です。
また、上記Ⅰ~Ⅳは「本件に関わろうとする者のど真ん中」に刺さります。
つまり、楽山氏が何をどう論じようとも、
私は①~⑥とⅠ~Ⅳを繰り返せば大半の方は付くと思う次第です。
 」
私は大したことは論じていない。パクリはパクリだという見たまんまをいっているだけだよ。
一方、KENTO氏は、信仰を守りたいという自分の目的に都合のいい情報を集め、そのための理屈を積み重ねてる。
 
「いっているだけだよ」と、楽山の言い方が、荒くなっています。キリスト教について、成長しない固定観念の先入観で都合のいい偏見をネタにして、さらに、嘘を吐いて、詭弁を弄して、罵ってきたのが、信仰などどうでもよい楽山であります。
 
楽山は、パクり・パクり・見た、と言っていますが、本を見ても、聖書を見ても、キリスト信仰をけなしたいという自分の目的に都合のいい情報を集め理屈を積んだつもりで、あまりにもお粗末な文章しか書いて来なかったのが楽山です。つまり、見ても、見えていないのが楽山です。
 
*別問題
信仰を守るのか穢すのか、修行するのか落伍するのかは、個人の問題です。
私はHSアンチ諸氏に期待をしてはいません。
しかし、早く気付いて欲しいとは願っています。
 」
信仰を守るか穢すか、修行するかしないかは、盗用があったかなかったかとは別問題だ。
 
楽山は、自分が、批判していることを忘れているようです。そういう立場に立っているという自覚がないのでしょう。自分は中立だという甚だしい勘違いによって、責任逃れをするのは、今に始まったことではありません。
 
無反省・無責任で、楽山は、何の責任を負う意志も持ちません。こういう人は、相手にしないのが一番ですが、人格の問題は、非常に迷惑であるために、私は、批判を続けているわけです。
 
もしこれらを関連づけるとしても、「信仰を守り修行をするためには盗用があったとは認めることはできない」ではなく、「盗用があったとするなら、現実は現実として認めなければならない。その上で、ではどうしたら信仰を守り修行を続けられるか考えよう」とすべきだと思う。
 
楽山は、自分が当然のごとく期待した勝ちに基づいて、相手の返しのお手本をわざわざ書いているようですが、自分が正しいからという前提の慢心が表れています。
 
楽山は、誰もが自分が決めた道徳基準に従うべきだと思っているのでしょう。これは、楽山の総ての言に表れてきたことです。夫婦げんかの仲裁か小学生が我を張るようなものです。
 
自己愛性パーソナリティ障害の特徴であり、議論する気などないのです。自慢したいだけの無反省・無責任の未熟者が、こうあるべきという規範を定めて見せるのは、見苦しい限りです。穏やかな筆致の裏には、ガチガチに凝り固まった訂正不能の岩石のような自己正当の前提があるということです。
 
*問い合わせ
(最期に一言)
私がHSアンチ氏から入手した文書が大学の公式見解であるなら、
これは教授会を経た「組織」としての動かし難い決定事項です。
楽山氏が自信満々で言うように、
 」
(楽山)KENTO氏は、大学は盗用はなかったと認識しているというなら、直接問い合わせをしたら済む話だ。盗用があったとは認識していないという回答メールをもらえたら、KENTO氏の見解の正しさは証明され、決着がつく。
というものではありません。
こんな事は社会の常識と思いますが・・・
 」
文書の末尾には、問い合わせ先が書いてある。文書に解釈が分かれる箇所があったら、問い合わせをするのは当たり前のことだろう。
また文書にある日付と、こちらのブログにある週刊誌記事の発売日とは、ほぼ同じ時期になっている。
 
楽山は、ホラー映画のアニメの感想から宗教を語ったことがあります。そういう楽山なら、週刊誌記事を根拠に批判記事を書くのは、まだ、マシなほうでしょう。・・笑える。
 
(リンク省略)・インチキの系譜 - Algorab archives
 
この二つを合わせて読むならば、大学側は個別の問い合わせには、直截的に「盗用」といい、改まった文書では幾分やわらげて「無断引用」としたのだろうという推測ができる。大雑把に言えば、本音と建前ってこと。
これを否定するには、直接問い合わせをしてみない限りはどうにもならないよ。
 
どうにもならない、という言い方で、自己正当化を図っています。責任を、他者へ、他者へと持ってゆく楽山の責任逃れなのです。いつの日も、反省するのではなく、相手の負荷を増やし、疲れさせることで、言い逃れてきたのでしょう。乗せられないように気をつけるべきところです。
 
楽山と正面から遣り取りをするのは、やたら、異常に、疲れるということです。それを手段とし、相手が疲れるのを待っているのが、楽山という卑怯者です。
 
楽山を説得しようとしたり、楽山と、まともな議論が出来るなどとは思わないでください。楽山は、議論や批判をツールとして、快楽を、満悦を、自分が上だという優越感を、味わいたいだけなのです。
 
*まとめ
今回のツイートを読む限りは、KENTO氏がこの議論をしているのは、信仰を守るためであるらしい。
結局のところ、盗用はあったとする記事は嘘だと言い張っているのは、なんらかの証拠があってのことではなく、信仰を守るためなのだろう。
「ためにする議論」をしているから、盗用の有る無しという事実究明はそっちのけで、信仰がどうした、心がどうしたという風に話をそらすのだろう。
信仰を守るためには、事実と論理に基づく対話をすることができないのだとしたら、気の毒なことだと思う。
 
楽山と対話するのは、非常に危険です。楽山が与える病的疲労は、もはや、精神衛生の問題です。楽山のほうは、ごまかしと責任転嫁だけの詭弁の技を持っています。それは、楽山の、実に傍迷惑な、病質者としての、生き方なのです。
 
誰からも相手にされなくなるであろう楽山は、自らの蟻地獄に嵌ってゆくわけですから、気の毒です。・・もちろん皮肉です。
 
楽山の、同情のような言い方は、総て、嘘です。誰とも、和解できない人だと思います。楽山は、優越を感じて、他者を下に見たいだけの人です。そのための、やさしさ芝居なのです。
 
私としては、いかなる真実も宗教も、ゴシップのような話におとしめる楽山ですから、彼が、撤退するまで、いや、誰からも信頼されなくなるまで、そのいい加減さを批判するのに、遠慮するつもりはありません。
 
もう一度、言いますが、問題は、楽山のパーソナリティ・人格にあるのであって、他の事実とかは、個々の派生に過ぎません。どうか、疲労を避けてください。人格が訂正不能に壊れている楽山に煩わされないでください。まともに相手しないでください。
 
今までと同様、スクショは省略します。私は、病気になりたくはありません。やたら長いのは、楽山の策略なのです。術中にはまらないように、心から願います。
 
楽山の言は、意気とか説得力とか共感とかの深みがありません。せいぜい、通念的で、そこに嘘と詭弁を加えて、めんどくさくして、相手を疲労させてゆきます。
 
恐らく、楽山は、何事にも、実感がないのではないかと思われます。楽山の書いたものに、生き生きしたエネルギーを感じたことがありません。
 
楽山は、ねちねちと執拗に、話の方向を本筋から逸らし、歪めて、クレームまがいのことを言い続けて、相手を疲労させ、その気力を奪う人、いわゆるエナジーバンパイアだと思います。
 
楽山は、十年批判している偽牧師のシャロームの仲間です。シャロームは、神を褒めればいいじゃろ根性でボロを出しました。また、シャロームは、荒らしの易坊と仲間です。この、楽山、シャローム、易坊の三者については、同一人物の成りすましではないかという疑いもあります。いずれにしても、実際には、反キリスト、反宗教、という共通点があります。ネットに巣食うならず者です。
 
 
きたない!

きたない
 
 
 2021年02月05日
 KENTO氏による楽山批判(3)有効な反論なし
 一部抜粋して批判します。
 
抜粋して批判を入れておきます。実感がまるでない観念の遊びに逃げている楽山です。
 
*心と信仰
最後に、ちょっと脱線して、心と信仰について書いてみる。
まず一般論として、信仰を第一にして現実をあとまわしにすると、信仰に合致しない現実は認められなくなったり、そういう現実と信仰を合致させるために屁理屈を重ねるようになるものだ。
 
楽山は、信仰と現実を分けることができるそうです。実際は、分けられず、現実を生かすために信仰があるわけです。宗教を、空想の理屈でしか考えていない楽山らしい詭弁です。
 
その上で、信仰に合致しない現実というものを考えるのだそうです。合致させるために屁理屈を重ねる、と言っています。
 
信仰と現実についての実感もないまま、論理の表面を滑らせているだけなので、実感のない観念的な話に堕ちています。心など、どこにも書かれていません。
 
楽山は、こう言う書き方しか出来なくなっています。時間の無駄なので、理解に努めることはしないほうがいいでしょう。
 
現実が厳しいために、信仰があるのです。屁理屈ではなく、切実な欲求があって、信仰は生まれます。楽山は、何も分からないので、観念をころがして遊ぶしかないのです。実に空疎です。
 
一方、現実を直視した上で信仰を持つ場合は、現実を直視するのを拒否したり、屁理屈を重ねることはある程度回避できる。その結果、心にかかるストレスは軽減され、病まないですむ。
 
現実を直視できない楽山が言っています。そして、相変わらず、屁理屈を回避できるという屁理屈の観念的な言い方に堕ちています。
 
心にかかるストレスについては、経験からの感想が必要ですが、何の具体的なことも語れない楽山は、他人事のように、病まないで済む、などと軽口で済ませます。何を語ったことにもなりません。
 
今回の件でいえば、KENTO氏は前者の立場であり、咲也加様は盗用はしないという信仰から出発し、それに反する現実は、やっきになって否定したり、屁理屈を重ねて信仰に合うように改変しようとしてる。これは現実直視する前に、自分の信仰を絶対化してしまったための悲劇といえるだろうし、この点、KENTO氏は可哀想ではある。
 
躍起になって自己弁護と自己正当化をしている楽山です。「やっきになって」「屁理屈」「絶対化」「悲劇」という決めつけの乱暴な短絡をして、「可哀想」という言葉で、相変わらず、自らの優位を、説得力もなく、言うだけ、言っている感じです。説明・説得のない結論への観念的短絡、こういう人に付き合うと、いつも、見下されることになるでしょう。
 
ちなみに私も、HS信者だったころはこういう落し穴にハマってた。とほほ。
 
トホホ言語について、批判してきましたが、楽山は、よほど気に入っているのか、これで読者を魅了できるとでも思ったのか、また、使ってきます。
 
落とし穴に嵌った経験を持つ人は、立ち直り、生きることに必死だから、嘘と詭弁を使うことはないでしょう。芝居もしないでしょう。つまり、ここは、本当の信仰というものを知らない楽山の大嘘です。白々しいことです。
 
楽山は、説得力のある文章を書けないために、しつこいだけの投稿ストーカーになっているようです。見苦しい限りです。どこにも響くものがありません。決して関わらないでください。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
思い上がっている者は、富んでいる者と同様に、救いを拒むことになります。楽山の言は、ラクダが針の穴を、通ろう、通ろうとしているようなものです。無駄なのです。
 
 
(2021年02月06日)
 
 
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  被害的・他罰的2の4
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   楽山から見た st、shalom 問題を振り返る
   楽山日記(a)2019-11-21 に対する批判を加筆して再録。
 
 
またしても、悪口の機関銃となっている楽山です。罪悪感の欠損と厚顔無恥の結果なのです。読む上での読者の利便性を気遣うということが出来ないのです。楽山の言論には、適切、というのが無くて、みな、テキトーになっているのでしょう。
 
中村元の原始仏教もこれと同じ構図だ。HSでは、大川隆法の過去世は仏陀であり、偉大な神通力を持っていて、人を超えた存在だったとしている。だから仏陀の神通力や、奇跡話やらは、後世の神格化の過程で生まれた神話伝説であって、現実の仏陀はそうではなく、その人格的な高貴さによって尊崇されたのだろうという中村元は批判されることになる。
 
分かるでしょう。楽山は、仏教もキリスト教も、薄っぺらに受け取って、小学生レベルの理路と感情の、先入観だけで、話にならない幼稚さで、けなしているだけです。
 
楽山には、保留という概念がないようです。分からないと言えない人なのです。そのくせ、好き勝手に、賛成を言い、反対を言い、断定していないから、責任はないと言うのです。人格そのものが、既に、矛盾しているのです。
 
実際には、どちらも宗教も、様々な人々によって、いろいろな考え方があって、思索や議論や意見交換がなされている必然です。
 
楽山のような軽薄者が、短絡した決めつけで、結論を出せるようなものではないのです。楽山が人を無視してきたように、誰からも無視されてほしい楽山です。自己顕示欲の最も貧弱で、最も恐ろしい顛末(てんまつ)が楽山において見られます。
 
(ネットより)
中村 元(なかむら はじめ、1912年(大正元年)11月28日 - 1999年(平成11年)10月10日)は、日本のインド哲学者、仏教学者[1]。東京大学名誉教授、日本学士院会員。勲一等瑞宝章、文化勲章、紫綬褒章受章[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%83_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
 
楽山は、ビッグネームが大好きのようです。自分も同様だと肩を並べるような自意識でしょうか、そういう悦楽を覚えるのでしょうか。しかし、今まで、その有名を、自分を高め、他者をおとしめるために、悪用してきたのです。引用元が、いい迷惑でしょうが、既に故人であります。
 
でも私に言わせれば、中村元の考え方は、遠藤周作の考え方と同様に、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどの偶像崇拝をしりぞけ、HSのマイコン解除に益ありということになる。
 
どこまでも、反省せず、責任を負わないのに、忠告したがる自己顕示欲の楽山です。そういう人は、結構いるかもしれないが、今回の記事で、その人間離れした悪意は、むしろ、突出して脅威です。
 
先の遠藤周作と中村元についての記事には、以上のような背景があるし、こういうHSの知識があれば、よりその意図が分かると思う。もっともこの辺りの事情は、HSとは無関係な人は知る由もなかろうし、そんなことは気にせず読んでもらって構わないけど、一応知っとく方が深く読めるというのは言える。
 
すっかり有名人を味方にしているような、楽山の高慢です。訂正不能の自己中妄想かもしれません。楽山の知識は、塵埃よりも有害であると、経験から申し上げておきます。
 
あと中村元の読書感想文にある、信仰を捨てよというのは、中村元が翻訳した原始仏典にある有名な言葉だ。釈迦がこの言葉を言ったとして、どういう意味で言ったのかは議論があるようで、自分にとっても興味ある言葉になっている。だから記事の中にしれっと入れといた。
 
しれっと無視してください。楽山は、誰の言うことも無視して、有名人を味方につけているつもりの誇大妄想狂と言ってよいでしょう。人を無視していると、このようにも、つけあがるというのは、怖いことです。負の教訓としてください。今までの経過から、楽山は、とても、惨めな人であり、自ら悲惨を招いており、これからも、大きく変わることはないでしょう。
 
>私は文字を詰めて書いた記事は、分かる人には分かればいいと考え、
 
楽山の記事を読んで、分かると思った人は危険です。楽山のこのような言葉にだまされないでください。怒り狂って嘘を吐きまくるか、あざ笑うか、ニタニタ笑うか、という程度しか出来ない男です。
 
ある程度の知識量がある読者を想定して書いてる。一般読者は何も感じず読み飛ばしてしまうが、ある程度ものを知っている読者であれば楽山はあのことを言ってるんだなとニヤリとするだろう書き方。「赤毛のアン」にはさりげなくシェイクスピアなどが埋め込まれているというし、映画作品には、一般人には分からないが、映画ファンにはすぐに気づけるオマージュが仕込んであることがあるが、私はそういうのは好きなので。
 
楽山には、役に立つ知識も、真実へのヒントになる知識も、皆無です。楽山の書いた記事が、役に立つことも、参考になることも、今まで、なかったからです。楽山だけが、部屋の中で、裏を読んだつもりで、独りで、得意そうに笑っているだけだと思います。
 
*生きにくさ(追記 2019.11.23)
率直に言って、stさんを見てると、こんな感想を持つ。被害妄想があるなら逃げればいいのに、やたら攻撃してくる。嫌いなら離れればいいのに、くっついてくる。被害者を出さないためにカルトを批判するというなら優しい人だろうと思えば、自分の思い通りにならない相手にはすぐ怒る。
 
私は、批判しているのです。根拠も示しているのです。楽山は、人間に必要なものが欠けているのです。良心、共感性、深い情緒と、深い思慮、いずれも、楽山には、見られないのです。
 
私は、大方、冷静に書いています。厳しい言葉も、コントロールして使っています。そういうことを、シャローム批判では書いたことがあるのですが、人の書いたものを、まるで読まないし、読んでも理解できない楽山には分からないのでしょう。
 
ずいぶんと屈折してるし、これだと相当に生きにくいだろうと気の毒に思う。でもこういう人は、私が知らなかっただけで、案外にいるらしい。ツイートにこんなのがあった。
(省略)
 」
上のツイートの返信には、こういう声もあった。
(省略)
 」
こういうのもある。
(省略)
 」
 
あえて書くなら・・
今回、楽山は、言葉でこちらを傷つけて、自分を守ろうとしています。刃物を振り回している感じです。楽山に近寄らないでください。楽山は、褒められないと攻撃する人です。
 
少しも、気の毒などとは思っていない記事を書きながら、気の毒と言う楽山は、嘘っぱちであります。息を吐くように嘘を吐き、詭弁をもってしか、交流できない、ならず者に、どうか関わらないでください。近づくこともしないでください。
 
他人から猛烈に攻撃されると、自分はそうされても仕方ない悪いことをしたのかもしれないと落ち込んでしまいそうになるけど、今はネットがあるおかげで、やたらと他人を攻撃する人についての知識を広く共有できて便利だ。ネットは本当にありがたい。もっともネットのせいで、その種の人と出くわす機会も増えたかもしれないが。
 
楽山は、私を、すっかり、その種の人にしたいようです。私は、「やたらと他人を攻撃する」のではなく、今、特に悪質な、楽山とシャロームを批判しています。彼らは、異常者、病的ナルシスト、サイコパスだと思うからです。今回、その意識は強化されました。
 
ところで、被害妄想について検索したらこのページが出てきた。stさんにはいろいろと当てはまるところはあるようだ。ちょっとしたことで激怒する。相手を敵と思い込んで攻撃する。自分のブログは見られてる、自分は注視されてると思い込んでいるせいか、全然関係ないことも自分への嫌がらせ、攻撃だと決めつける。
 
楽山が、前に、私がアクセスを増やそうとして実名を出している、つまり、自己顕示欲からだ、と言ったことと大して変わりないようです。有名人でもないのに、実名を出したからと言って、アクセスが伸びたりしないです。
 
当てはまるのは、楽山のほうです。特に、「自分は注視されてると思い込んでいる」という自己愛と自己顕示欲は、犯罪心理レベルだと思いますし、楽山の体質だろうと思っています。
 
私は、激怒はしていません。今までの成り行きは、楽山への、負の判断が、楽山によって、強化され、いよいよ確からしくなってゆくだけです。今回、特にそうです。楽山が悪口の機関銃になると言いましたが、あることないこと無節操に並べて、まさに、そうなっています。
 
自分と友好的な相手でも陰に隠れて敵と秘密の遣り取りをしているのではと疑う。悪の組織が自分を迫害しようとしていると思い込む。さして根拠もないのに性急に結論を出し、いったんこうと思い込んだらそれに反する証拠が出てきても訂正不能となる等々。お節介かもしれないが、もしまだ専門家に相談していないならばそれを検討してみてはどうかと思う。
 
楽山の陰険さと、クリスチャンでもないのに偽牧師シャロームと強張(こわば)って連携していることが表れています。また、私が批判したことを否定する証拠を、楽山は一度も提示したことはないです。ただただ、悪口を言い張っているだけです。
 
楽山は、恐らく、今までにも問題行動があったでしょうから、精神科で診察を受けたことがあるのではないかと思います。ひょっとして、警察の世話になったこともあるのでしょうか。
 
今回の悪意と敵意は、相当なものです。なりふり構わず、前後の見境なく、一方的に、書いてきましたが、根拠は何も示されていないのです。一方で、事実の歪曲、捏造が、目立ってきました。
 
丁寧語で書くので、楽山本人は、目立たないと思っているかもしれないが、激情と言ってよいほどの勢い任せで、あることないこと書きまくっています。
 
読者に、読みやすく、分かりやすく、などという配慮を、まるで気にかけずに、まるで押し売りのように、顔を近づけて、脂汗を滲ませて、目をむいて、書きなぐっているのではないかと思いました。そういうのは、嫌です。
 
*動機(追記 2019.11.23)
ちなみに今回の記事を書こうと思ったのは、下のやり取りを見たから
だ。shalomさんは、vさんはstさんの攻撃で深く傷つけられたと語ってる。
[省略]
vさんは神学者、哲学者として福音を土台として人間学的な聖書理解をしようとしておられました。イエスの死とよみがえり、聖霊信仰もその根底にありました。そのことで、あなたの激しい批判の的にされ、中傷され、人格否定をされ苦しまれたのでしょう。
あなたは謝罪したようなコメントもされていたようですが、
あなたの姿勢はその時から一貫して変わっていないようですね。
思い当たるのではありませんか? 
これに対して、stさんは、それはshalomが原因だ、shalomは何でも人のせいにするといいつつ、すべてをshalomさんのせいにしてる。vさんについても、shalomさんの味方をしたから批判したとか何とかいって、vさんに落ち度があったからだとしてる。自分も言い過ぎたようで申し訳ないことをしたという謝罪反省の言葉は見当たらない。これには驚き、あきれずにはいられないし、これからも同じ事を繰り返すんだろうなと思わずにはいられない。だからこの記事を書くことにしたわけである。将来、stさんに標的にされ、粘着攻撃されて難渋してる人が、この記事を見つけて、いくらかでも楽になってくれたらうれしい。
 
批判しているのは、楽山とシャロームとアドラー教でしょうか。今のところ、それで、精いっぱいです。しかし、将来は、分からないと正直に申し上げます。力は足りませんが。
 
vさんは、神学者ですが、シャロームを恐れているようで、それで、学者なら分かるはずの、信仰についての発言を曲げてしまったので、残念ながら、絶交しました。これは、残念ながら、どうしようもないことです。シャロームが圧力でも掛けていたのではないかと疑っています。
 
粘着攻撃というのは、一連の、この楽山の記事でしょう。相手を疲れさせるために、あることないこと、書き放題です。
 
*反省(追記 2019.11.24)
今さらながらに気づいたが、自分はまた同じ失敗を繰り返したようだ。上に述べた通り、今回の記事は、将来またvさんのような被害者が出ないように注意喚起したり、もし不幸にして被害者が出てしまったらその手助けになればと思って書いたわけだが、よく考えてみれば自分は情に流され、取り越し苦労をし、要らぬことをしてしまったかもしれぬ。
 
ここで、いつも、怒りと憎しみ、笑いとベタ褒め、という原始的な感情しか持たず、しんみり悲しんだり共感したりすることのない楽山らしい、トホホ言語の、反省芝居です。もう飽き飽きしています。白々しさに、自分で気づかないらしい。
 
こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
 
楽山は、何をしてくるか分からないし、手段を選ばないでしょうから、怖いですが、私は、キリスト者として、できることをしていますし、これからも、生きている限り、続けるつもりです。もう年だから、疲労が祟って、死んだとしても仕方ありません。
 
そう言えば、楽山は、丁寧語の、曖昧なボンヤリ言語と、謙虚を装うトホホ言語を使って、反省芝居や謙虚芝居をすることが多くなりました。白々しいと、ふつうは気づいて、恥ずかしくなるのですが、羞恥心のない楽山は、やはり、気づかないのでしょうか。
 
楽山は、他者を情に流す人です。柔和芝居の筆致に、"やさしいお人柄ですね" と楽山ブログに好意的なコメントが来たことがあります。そういうのが、いちばんのご馳走なのでしょうか、それとも、そこは、入り口に過ぎないのでしょうか。底知れぬ恐ろしさを、読者を考えない負の馬力で、今回は表している楽山です。
 
でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。
 
私は、アドラー心理学を、アドラー教と呼んで、自己中促進カルトだと批判しています。それを承知で、楽山は書いているようです。バックはアドラー教か。
 
課題の分離は、言葉ではできても、実践においては、難しいというより、無理があると思っています。そして、楽山は、アドラー教の宣伝者です。前は、気に入らないことは無視しましょうとか、課題の分離とか、ブログにも書いていました。楽山の自己中に合致しているのでしょう。
 
ついでに書くと、以下の考え方も、余計なことに手を出してしまいがちな自分にはどうしても必要なものだ。
「人の心は変えられない。変えられるのは自分の心だけだ」
「他人の事をとやかく言う前に、まず自分の事をしなさい」
「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ(ニーバー)」
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)」
「修身斉家治国平天下」
 
楽山が、自分は学がある、学がある、と言っているようです。しかし、肝心な、そして、いちばん大切な、他者との交流に必須の、共感と反省という点で、楽山は、何も出来ていません。だから、人の言葉を借りて、まともに見せかけているのでしょう。
 
聖書も言葉まで持ち出しています。楽山は、自分の目の中にある丸太、即ち、間違い、嘘、詭弁、自己中心、訂正不能、一方的発言、柔和芝居、前後関係に無頓着な反省芝居、「かなあ」「ていうか」「否定はできない」「と言えなくもない」みたいななどのトホホ言語と曖昧なボンヤリ言語、そういった毒に、まるで気づいていません。
 
むしろ、その性質を、一部は、良心だと思っているのでしょうか、それとも、それも意図的にだましているのでしょうか。
 
やっぱり自分は、他人のことを心配するより先に、まずは自分づくりに専念しよう。といっても、またすぐに情に流され、自分のことより他人の事に手を出してしまうのだろうけれども、それでも自分づくりに専念しようという意識は常に忘れないようにしよう。善く生きようと努力している人は、何も語らずとも、その生き様によって周囲の人々を感化し、善を広めるものだけど、自分もそんな人になりたい。
 
深い情を持たない病質の楽山は、自分の体質や、やってきたこととは逆を言い、忘れないようにしよう、などと、ごまかして、悦に入れるようです。つまり、いつも、言葉面だけ、柔和を気取り、一度も、その実質を表したことがない、これが楽山の、生きてゆくための "自己満悦" のようです。
 
「生き様によって周囲の人々を感化し、善を広める」・・・そういう人に対して、まともな情のない楽山の、わざとらしい丁寧語は、楽山にとって気持ちのいい、一番の、だまし言葉なのでしょう。まだ、人を、滅ぼし続けるつもりなのでしょうか。
 
*付け足し修正(2019.12.8)
今日、マグマリさんのブログを見た。
・、、、自分が正しいと肯定するのは大事だけど
 」(リンク省略)
これは他の人のことを言ってるんだろうと思ったけど、考えて見れば、この記事ではヨシュアさんには触れても、マグマリさんには触れてないのだった。この記事は誰に向けてのものかはよく分からないが、とりあえずは上の経緯説明で、マグマリさんのことも少し書き足してみた次第である。
 
リンク貼るだけで、何を書き足したつもりでいるのでしょう。
 
自称マグダラマリアは、こちらが批判すると豹変して、「プププ」「ケロッ」など、気味の悪いセリフを書いて、人をボロクソに攻撃する人です。一時期、批判しましたが、罵詈雑言しか返せない人なので、今は、一応、批判は停止しています。楽山が、恐怖のカルト思想屋だと分かって批判を開始したからでもあります。そのHNに全く相応しくない人です。
 
自称ヨシュアは、パリサイ人が好きで、教えを守って完全になれるんですと言っていました。その時点で、キリスト教ではないのです。考えてみると、楽山が味方しているサイトは、怪しいところばかりです。楽山の異常性から言って、当然なのかもしれないが。
 
どんな間違いをしても、楽山を受け入れることだけはしないでください。他者の人生を平気で壊す人です。だから、平気で、あることないこと、書いてきます。楽山は、恐ろしい保身の、無反省、無責任、訂正不能、無視、言いたい放題、そして、手段を選ばず、事実を捏造する大嘘吐きです。
 
それにしても、楽山は、新規記事が止まったかと思ったら、いつものライブドアの楽山日記(LD)ではなく、アメブロの楽山日記(a)のほうの、しかも過去記事を、知らないうちに恐ろしく長く書き加えています。密かに、隠れて憂さ晴らしをしているふうの固陋(ころう)の男がPCに向かっている姿は、正々堂々とは、まるで、かけ離れて、記事の中身と同じように、悲惨であります。
 
 
真っ赤な大嘘

真っ赤な大嘘
 
 
(2020年12月01日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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