ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:卑怯者

 
  厚顔無恥3
 
 
 私の記事「Rose Garden」コメント欄
 コメント者:シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
偽善者・偽クリスチャン・偽牧師のシャロームが、凄まじい詭弁で言い逃れをしている、という過去記事を、加筆修正して再録します。偽善者の典型が表れています。"名無し"からの荒らしコメントです。シャロームの開き直りです。
 
私が既に言って、反論も弁明も出来なかったのに、また、書いてきます。荒らしは"猫かぶり"です。宗教家に成りすました、恐らく、シャロームが、自分で、そう名乗っています。呆れます。あとで、何か言われたとき、自分じゃないよと、とぼけるためでしょうか。
 
1. 所在不明の名無しの猫かぶりです
 2020年01月21日 10:50
st5402さん おはようございます
「罪を認めることからキリスト信仰は始まります。」とのことですが、
キリスト信仰は神の赦しから始まります。
 
シャローム、名前を書きなさい。卑怯者め。
 
何を赦すというのでしょう。罪を認めて告白するから、赦されるのです。認めてもいない罪は、赦しようがありません。あなたの都合に合わせて、神が、告白もしない罪を赦す、などということは、決してありません。嘘吐き、偽善者、ペテン師の、シャロームです。
 
人はイエスの十字架の血潮に罪贖われ、神の恵みによって赦されてはじめて、罪を悔い、自己受容でき、赦すこと、他者受容ができるのです。
 
「血潮に罪贖われ」などと、かっこつけても無駄です。前にも言ったことを、また繰り返す愚は、そのまま、ネットの疲労物質としてのあなたの悪意です。どんな罪でも、甘々の自己中心に受容して気にしないシャロームです。信仰者が求めるのは、神に、罪を赦され、生きることを諦めないことであります。
 
自分信仰者の偽牧師シャロームの、汚い詭弁は、その罪を隠そうとして、隠せず、かつ、自己満悦に至って、人間とは思えないほどの、醜いイメージとともに、脂汗の不潔であり、もはや永遠に、神に受け入れられることはないのです。
 
使徒パウロは「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」と書いています。
 
これも、前に、私が書いたこと。あなたシャロームが悔い改めないでいるのは、神の慈愛も受け取らず、悔い改めもしていない、という、あなたが信仰に関する何ものも受け取っていないことの証明です。言い換えれば、シャロームは、導かれていないか、導きを拒んでいるかであることを、自ら、表しています。
 
初めに神天地を創り給えりという言葉で聖書が始まっているように。
神の天地創造のわざにおいて人は指一本もなしうることはありませんでした。神は創造されたすべてのものをご覧になり、“すべてはよかった”と言われたのです。
 
"すべてはよかった" を、自己正当化して、悪質な言説におとしめているのが、あなたシャロームです。つまり、シャロームは、「すべてよかった」・・には含まれていないということです。シャロームは、人の自由意志を、神の御心とは、まるで逆方向に使っているのです。すごい詭弁です。
 
"すべてはよかった" は、天地創造の話です。被造物は、よかったと言っても、すぐ堕落の話になるわけです。その典型であるシャロームが、よかったことは、ないと思います。さらに、"人は指一本もなしうることはありませんでした" で、自分は何もしなくていい・・にはならないのです。すごい詭弁です。
 
この聖句にしがみついている醜さが、あなたシャロームです。すべてがよかった、だから、悔い改めない自分もよい、これが、あなたのエゴから出た詭弁です。自分の都合に合わせて、聖書解釈を捏造する、あなたシャロームの悪意と反キリスト全開。
 
使徒ヤコブは「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」と書き記しています。ほかにもたくさん同じ意味の言葉がありますが、
読んだことはありませんか?それともst5402さんの聖書には書かれていないのですか?それともいつものように読んでおられないのでしょうか?
 
実に、ふざけた皮肉を書いています。シャロームの、自分のほうが上で、私が下だと言いたいがための醜い文言です。私は、学者ではないし聖書も完璧に読んではいません。しかし、シャロームが、聖書を読んでいるとは、少しも思えません。
 
誇大妄想に聖書を悪用しているだけです。この皮肉によって、シャロームの悪意は明らかでしょう。さらに、シャロームが聖書をまともに読んでいるなら、今の悪意も、今までの偽善も、なかったはずなのです。シャロームは、自らの悪意を、自ら証明しています。楽山と、同一か、同じ体質だからです。
 
前に私は書いています。聖句は検索すればよいと。あなたは、本当に、人の言うこと、聞いてないですね。記憶障害でしょうか、認知症その他の精神障害でしょうか、否、知ったかぶりの傲慢からの悪意です。それで気持ちがいいのでしょうか、それが自己愛性人格障害の悪魔性です。
 
あなたシャロームは、わずかばかりの聖書の知識さえ、人をおとしめる道具にするのです。そういう性質しか持たないのでしょう。これも、あなたシャロームの罪と偽善に対して与えられる報いなのでしょう。明らかなのは、聖書を読んでも、何も受け取らない楽山とシャロームという悪意の者がいるということです。
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:15-16
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
 (ヤコブ1:15-16、新約聖書)
 
これが、あなたシャロームです。そして
 
 (ヤコブの手紙、口語訳)1:17-18
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
 (ヤコブ1:17-18、新約聖書)
 
私は、神について、全知全能、絶対完全、永遠不変、と書いています。シャロームは、何を勘違いしているのでしょう。絶対言葉を理解できなくても、神は恐るべし、ということです。それを、全く恐れず、悪だくみに利用しているのが、あなたシャロームです。
 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉から」という言葉もありますがだれがどこに書いているのでしょうか?
いつもwikiは役に立ちますね。
名無しの猫かぶり
 
あなたシャロームは、聖書のキリストに聞こうとしません。また、あなたは、人の言うことを聞こうともしません。あまりにも、哀れな、くずれようです。それでも、分かっているかのように、教えようとします。あなたは、あなた自身の言論失禁の惨状に、もはや気づかなくなっています。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
 (ローマ10:14-17、新約聖書)
 
楽山は詭弁が、シャロームは偽信条がバレています。書いてくるのは、罪を感じないからなのです。一切、無駄なのです。もうバレてしまったのです。だから、聖句をいくら引用しても、発言しても、他者を引用しても、楽山とシャロームの穴だらけのパンツが臭く濡れてゆくだけなのです。
 
 
私たち人間は、人格的な知性と感性から交わりを持つことしか出来ません。神聖を、自分に当てはめたり、なぞらえたりすることは、神に対する大罪であります。神聖は神のみのものです。したがって、神聖を分かってるふうに上から教えようとするシャロームは、何か書くたびに、大罪を犯しているのです。
 
その罪の日数は、赦されることを拒んでいる日数となります。あなたシャロームは、いったい、何を聞いてきたのでしょう。聞くこと、そして、キリストの言葉から、何も学んでいないことだけが表れています。むしろ、逆へ、逆へと進んでいます。
 
だから、私も、もはや、あなたとは、関わりたくないのです。あなたのコメントは、カルト宗教からのハラスメントに他なりません。あなたシャロームは、福音に聞かない者たちの一人です。キリストに聞かず、聖書に学ばず、しかも、分かっているふうに、妄想の上に、ふんぞり返っているだけです。
 
パリサイ人であり、偽善者であり、ますます、醜く、かつ滑稽です。あなたシャロームに好意的に関わる者は、あなたと同じように、人格が破壊されてゆきます。恥も罪も知らないということは恐ろしいことです。こんなに醜悪な者たちが、キリスト教の内部や周辺には、我を張っているのです。
 
あなたシャロームは、罪の門口に待ち伏せている悪魔に、詭弁で言い訳することになるのでしょう。その結果は、見抜かれて、・・目を覆うばかりです。だから、私も、偽善者の資料として以上には、もはや、関わりたくないのです。楽山とシャロームは、彼らの憎む神から、最も憎まれている者たちです。
 
ネットだからと甘く見て、書き捨て御免とばかり、嘘、でっち上げ、妄想、詭弁などを、好きなように言って、傍若無人を通してきた楽山とシャロームです。履歴と記録の残るネットだからこそ、偽善と批判の集積という莫大な負の財産=記録=資料を残すことになります。楽山は3年、シャロームは10年分です。
 
 
憎しみへの絶対

憎しみへの絶対
 
 
(2020年01月22日)
(2021年01月23日、一部加筆修正して再録、さらに加筆)
(2022年01月24日、再録+加筆)
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 ・・・・・・・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、間違いを自覚しません。素直さを持っていません。ゆえに、自らを正すことが出来ません。嘘と詭弁を重ねて、一人前に、出来た!と思う楽山の心性は、何の魅力もなく、卑怯で、既に失敗しているのに気づきません。自覚や反省という人間の当たり前の分別を、まるで持っていない楽山です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは悲惨すぎる(絵文字:口を開けて冷や汗をかいた顔)
引用リツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
自己愛性のモラハラ者は、自分こそが良識人であるという顔をし、気づくと、こちらが≪悪者≫にされていることさえある。
午前8:14 · 2022年1月23日·twittbot.net
 」
 
モラルと人格へのハラスメントを生業(なりわい)とする楽山の本性を実感すれば「口を開けて冷や汗をかいた顔」になるでしょう。むしろ、「良識人であるという顔」をして、人を「≪悪者≫」にしてしまうのが、楽山です。ゆえに、楽山からの批判は、ことごとく楽山に向かうことになります。
 
こういうブーメラン現象が起こるのは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分を省みることが出来ず、人のことばかり評論家気取りで言う、という楽山の負の学習の結果なのです。それを知ってしまうと、楽山の文章は、とても恐ろしく感じます。
 
 
 
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  楽山の依存性無神論
 
 ドーキンスの話
 楽山日記(LD) 2021年07月03日
 
類似の批判記事があります。
「楽山の縋りつくもの」
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
という人のツイッターのようです。学者のようですが、一面的な印象です。
 
楽山を、自立した大人と思わないでください。自己愛性パーソナリティ障害だと思います。我執を満足させるために、人の口を借りないと、人の名前を借りないと、まともなことを何も言えない不全と悪性の人なのです。さらに、人の迷惑、何も考えていません。
 
>(楽山)
*ドーキンス
ツイッターにて、ドーキンスの『神は妄想である』について語られていたので、気になったツイートだけでも保存しておきたい。
 
いつも卑怯な楽山は、どう気になったのでしょう。悪意以外ないと思いますが、自分で書いても、ボロボロになるからと、学者らしい人のツイッターを、コピペしにくい形で、転載しています。
 
欧米では無神論が台頭していますが、この手の無神論Tシャツあるいはノー宗教Tシャツというのが無数にあるようです。イマジン~はもちろんレノンの「イマジン」の歌詞によりますが、自爆テロで崩壊したWTCの図柄はドーキンスが出演した英国のTVの新聞広告に由来するものでしょう。
ドーキンズやデネットの無神論は宗教を口にするいかなる人にとっても重要ではないかと私は思っているのですが、信者さん一般はドーキンスの本など読む義理を感じないでしょうし、人文系の研究者も「これは自然科学からの一方的な議論ではないか」と、敬遠する傾向があるのではないかと思います。
 」
 
だったら、書かないほうがよいと思います。早速、楽山のような自己愛性人格障害NPDの者が悪用しています。実際、自然科学からの決めつけが見られます。それと同時に、生きてゆくための支えとしての信仰が無視されていると思います。信仰に証明は付きません。
 
ドーキンス『神は妄想であるThe God Delusion』をどう読んだらいいか? ちょっとずつ読んでみましょう。目につく言葉を拾ってみます。第1章。ドーキンスが「神」をどういう意味で使うべきと思うかを書いた所があります。それは「①我々が崇拝するに値する②超自然的な③創造者」だ、と。
 」
 
超自然的、創造者、いずれも、聖書の超常現象ということをテーマとしています。これは、決してキリスト信仰の中心ではありません。何故なら、超常は、人間の手に負えないことだからです。
 
つまり、無神論者は「説明が未だつかない領域というものがある」と認める。しかし「説明がつかないのなら説明がつくまで待とう」と考える。逆に、説明のつかない現象に対して「神霊がやった」あるいは「超自然現象というものがある」と「説明」するが、宗教(神信仰、奇跡信仰)です。
 」
 
違います。多くの信仰者は、生きるための心の支えとしています。ゆえに、祈りの信仰と言えるわけです。このことを無視して、否定の的外れを言ってくるのが、楽山などの、一方的な、いちゃもん屋とか、無神論者の中の思い込みの強い人たちだろうと思っています。
 
無神論が、科学であるなら、宗教化してはいけないのですが。科学万能から、科学教、さらには、科学カルトになって、余計なことを言う人が出てきているのでしょうか。
 
無神論的一元論は《体系的説明+空白領域》で考える。宗教的二元論は《体系的説明+神霊的説明》で考える。神霊的説明は実は説明ではなく説明のつかないものをパッケージにしたものです。そしてこの非説明的説明を認めないのは傲慢だと言う。しかしこの態度そのものが無神論者には性急=傲慢に見えます
 」
 
命といえるのは、心の救いです。それを、霊ということはあるでしょう。しかし、聖霊などの超常の心霊の説明は、人間には出来ません。悪霊も同様です。そういう言葉を使って信仰のつもりの宗教人がいたら、その人たちは、信仰者ではないということです。
 
「信仰の信仰」とは、自分では神様を信じていないのだけれど、信仰はとても大事だとの立場をとることです。「神の信仰」が神を信じることであるのに対し、「信仰の信仰」は信仰には美徳があると信じること。自分はその美徳に与っておりませぬと遠慮するわけですから、心理的にはやや屈折した立場です。
 」
 
信じていないけど、大事だ、という言い分は、私には分かりません。大事にするだけで、拠り所としないことには、信仰の心は、分からないと思います。なお、私は、洗礼をもって、信仰の証明ということには反対です、神の保険に入ったかのように、多くの教条主義が生まれるからです。
 
無神論者ヒチンズによれば、⑥マザー・テレサも「神が信じられない」と神父に告白しており、このタイプに近いのだとか。神父は「そのような苦しみこそ主の十字架の苦しみです。悦びなさい」といったようなことを言う。こうなると「信仰」と「信仰の信仰」と「不信仰」の境界線がかなり怪しくなります。
 」
 
ある意味、信仰は、不信仰の自覚とも言えるところがあります。アダムもエバも、キリストに救われた多くの人々も、不信仰ながら、神に、キリストに縋りつくことを忘れなかった人たちです。救われた人々が、そのあと、価値観が変わっても、聖人のような信仰者になったわけではないでしょう。
 
先走って言いますと信仰問題は結局「政治的」な問題だというのが私の認識です。信仰という概念で事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ているのが宗教者であると。もっとも宗教者はその政治性を認めないでしょう。政治性を認めないこと自体が政治的なのでは?と水掛け論になります
 」
 
政治的な問題になってゆくのは、信仰ではないと思います。したがって、「事実認識と信頼とを曖昧に結ぶ政治的レトリックから利益を得ている」のは宗教者でも信仰者でもないと思います。政治には、誰もが巻き込まれて政治を考えるでしょう。しかし、信仰が政治的になったら、信仰ではないです。
 
言い換えれば、ドーキンズは神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題だと言っているわけです。ドーキンズがそう考えるのは、神学者も一般信徒も「神」を数学的な観念の類ではなく、啓示、奇跡、祈りへの応答を通じて《経験》的な領域に具体的に介入する存在と考えているからです。
 」
 
「神の有無の問題は《経験的》な(科学的検証の対象となる)問題」にはなりません。神の全能は、科学という限られた人知では測れないからです。つまり、神への信仰は、人知の及ばないところに生きる意義を託すことであります。
 
すなわち、信仰は、科学的に分かるから信じる、科学的に矛盾するから信じない、というところには、その欠片すらもありません。
 
《経験》に顔を出すものは、すべて科学の研究対象となります。心理的介入ならば心理学や生理学が、オカルト的介入ならばオカルトそのものの当否を決める科学が、歴史的介入ならば歴史学が関わることになる。それらのどれでもない形而上学的存在といったものが想像可能かが問題となるでしょう。
 」
 
心理学は、さらには精神医学も、一部には、人文科学の発想とか直観からの資産を利用しますから、自然科学と同列ではありません。実験、観察、帰納、演繹、という論理立て以外の筋道を使っている学問は、別の科学ということです。
 
しかし、法則性による科学が、信仰を語ることはないのです。信仰には、生きる目的とか、情感とか、愛とか、科学の扱わない問題が、濃厚に関わってくるので、何でも、何かの○○学で述べられると思うのは間違っています。
 
というわけで、神学者や一般信徒がふつうに語っているところの《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象となり、「あり得るか」「あり得ないか」の確率を計るべき対象となることになります。そんな神の有無をガチの不可知論の対象であるかのように述べるのは間違いだ、というわけです
 」
 
「《啓示と奇跡と祈りの神》それ自体はすべて科学的批判の対象」となるのではなく、その中の、教条主義的なところが、批判の対象となります。その典型が、楽山の語る神理解であり、浅ましい病質者の、悪口と寝言のようなものです。
 
一般則として、何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います。それを怠るのであれば、まわりの人間はあっさり無視してかまいません。「ここは霊のスポットだ」「証拠は?」「証拠はない」「どうやって調べる?」「調べようがない」「ではさようなら」でOKです。
 」
 
「何かがあると主張したほうがその証拠を示す義務を負います」・・いかにも科学教の信者が言いそうなことです。しかし、神の存在の証拠を、人が見つけるということ自体、もはや信仰から遠く外れたことです。信仰は人の、心に、あるものです。科学的手段で云々できることではありません。
 
では、神の(哲学的抽象観念としての神ではなく、啓示などにより歴史に介入するとされる神の)存在の有無については、惑星間ティーポットの場合と比べてどうなるでしょうか? 結局、個人ないし集団の言説という以上の存在性の証拠が挙がっていない以上、神もティーポットも同類ということになります。
 」
 
「惑星間ティーポット」が分かりませんし、検索しても、茶器のことしか出てきませんが、無意味な例として挙げたのでしょうか。なお、想像の産物は、自由だが、根拠を持ちませんので、信仰の根拠にはなりません。上に述べたように信仰の根拠は、個人の心の癒しの体験です。
 
そこでドーキンズは、有神論者に対して「君は他宗教については無神論者なんじゃないか」とツッこむという戦略を提案します。聖書の神を信じる人も、ゼウスについては(惑星間ティーポットと同様)「存在しっこない」で片づけてしまいます。だから有神論者も他宗教に関しては無神論であると。
 」
 
信仰に、論理性を求めても、結局、心にあるものを、伝達の暗号である言葉で完全に表すことは出来ないと知るべきです。しかし、ヒントにはなるわけです。科学者は、証明云々と、厳密性を誇って、得意気に信仰に関わるべきではないのです。
 
>(楽山)
*反省
ツイートはこれ以降も続いているが、質、量ともに素晴らしいので油断するとすべて保存したくなってしまい、きりがない。そんなわけで、とりあえずはメモはここまでとしたい。
それにしてもこれを読むと、自分は『神は妄想である』は通読済みのつもりだったが、全然読めてなかったことを思い知らされる。日暮れて道遠しを思う年になってきてはいるが、焦らず地道に精進するとしよう。
 
楽山は、「地道に精進する」人を侮辱する人です。楽山は、怠け者なので、人の口を借り、本の言葉の表面にしがみつき、嘘と詭弁で、反キリストの悪魔性の役割を演じて、ざまあみろ、できた、とばかり、笑っているのです。これほど愚かになったら、まともに生きてはゆけないわけです。
 
>(楽山)
*注意
上は、連投ツイートの一部を保存したものである。そのため前後のつながりが不自然なところもある。このテーマに興味のある方は元ツイートを確認してもらえればと思う。以上。
 
つまり、楽山は、自分の言葉で説明することが出来ない、と自分で証明しています。いかなる文章も、自分で理解して、処理できないものだから、名のある人の口を悪用するしかなくなっています。引用された側の迷惑は、一切考えない悪性度です。しかも、楽山は、何か言われたら、人のせいにします。
 
楽山の、自己愛性の、反キリスト性が、全開です。手段を選ばす、人の口を悪用してきます。広い世界には、様々な人がいます。あちこち見まわして、人並みの理解力もない悪魔性の楽山が、HNを変えながら、悪用できる対象を探していますから、注意・警戒してください。
 
 
神を信じるとは、全能ではない自らの人としての不完全と罪性を認めることが主軸です。ゆえに、人が、神の超常の業(わざ)について、希望することはあっても、あったのだ、起こるのだ、と信じ込んでしまうことは、神に対する越権行為という背教であり、同時に、自分の心を損なうことなのです。
 
宗教の堕落についても、人間の罪性についても、聖書においては明らかです。宗教の代表者たちがキリストを殺しました。歴史においても明らかでしょう。人間には、独裁を見抜く知性も、排除する力もありませんでした。
 
堕落やカルト化や政治集団化を批判するのは善いことだと思います。しかし、そういう一部をもって全部を否定することは出来ないです。キリスト信仰者は、言論の全否定をペテン師の楽山には向けるべきですが、神とキリストに向けることは決して出来ません。既に心の恩恵を受けているからです。
 
 
神は論にあらず2

神は論にあらず
 
 
(2021年07月04日)
 
 
 
  在るもの
 
目の前の
そこに在るもの
静物
生物
動物
虫のような
事物
移入された感情
論理的に
感覚的に
直観的に
在る
のだが
無い
のかもしれない
 
背を向けたら
後ろには無い
後ろには
別のもの
論理も感性も拒んで在る
全く別の在り方で
背後から関わるもの
背後から支え
倒すもの
振り向けば
目の前に無いもの
目の前に存るのか
 
(90年代か?)
 
 
 
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  隠された攻撃性2
 
 神義論、弁神論について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月07日
 楽山日記(LD)批判再録+
 
 
楽山は、またしても、神についての幼稚な疑問を投げてきました。誰も分からないということだけが、分かっている疑問です。つまり、信仰は、その疑問を解決して生まれるのではないということです。
 
楽山という人は、宗教には全くの無関係なところで、霊能者を気取っているだけの人で、信仰など持つ気もないなら黙っておればよいのに、著しく幼稚ないちゃもんを、嫌がらせのように繰り返し書いてくるのです。
 
楽山には、分からないだけでなく、何度も繰り返し言って、信仰者を、疲労と混乱に陥れようという攻撃的な意図があるとしか思えません。
 
楽山は対話を求めません。また、私も、楽山のような、何も聞かず、受け取らず、嫌がらせだけを書いてきて、話の双方向の成り立たない人と、対話する気はありません。
 
いい加減な楽山の言説を、いちいち批判して否定するのは、丁寧語に騙されて真に受けやすい人がいるだろうと思っているからです。その弱みにつけ込む人です。私は、私にできることをしています。
 
批判記事を重ねて、楽山は、シャロームと同様、悪意と偽善の資料になりつつあります。
 
前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。
一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 」
多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。
 
楽山は、引用の文章を、恐ろしく、幼稚な低次元の空想話にしています。「善神もいれば、悪神もいる」・・見たのか。呆れます。神と神聖を全然知らないから、こういうことが言えるのです。
 
 ※
 
神が、悪に与えた存在の根拠を、人が知り得る、知らないと気が済まない、という疑問は、悪も神も信じる気のない身の程知らずの欲望であります。神が悪の存在を支配しているとしても、その悪を神がどうするかは、神の意志によるのであって、神の意志が、人に分かるはずはないのです。
 
いったい、誰が、神の台所に行って、悪を何故どうして作ったのですか?悪をどう料理するのですか?などと聞けるでしょう。そのような者は、真理の絶対に対して、ただ、自らの不遇を、神のせいにしているだけなのです。
 
神の存在下で、悪が存在の根拠を持っていたとしても、人という地上の存在が、それを問いただして理解できるなどと思うのは、神の超常と同等に成り上がろうとする身の程知らずであり、虚妄の越権行為であり、地上では、どこまでも、詭弁に堕ちてゆくだけなのです。
 
地上の貧相な理屈で、神と超常の真理を語ることなど出来ないと弁えるべきです。聖書は、神の仕組みではなく、神からの恵みを、いかに人が知って弁えるべきかを表しています。
 
人は、神の意志を知り得るほど賢くはない!・・という弁えこそが、聖書の語ろうとしている第一義だと知るべきであります。そこを受け取らない者には、信仰も、神の愛も、キリストの共感も、人の愛も、人の共感も、理解はおろか、人間性さえ理解できはしないのであります。
 
ゆえに、楽山のような者は、その蚊のような不全の知性において、ンンンンと空しい音を立てて、世界を飛べると思い込んで、悪がなぜ存在するんじゃ?・・と神を否定したつもりになっているようだが、そういう理路の立て方は、それこそ、存在しない出発点に立っている妄想から、知恵者を気取っているだけの、実際は、虫の糞に過ぎないのです。
 
真実の知性は、真実の共感とともに、神には及びもつかない、という、人としての身の程を知っています。虚偽の知性は、自らの存在の箍(たが)が外れて全能と同等のレベルにいるつもりで、それこそ、自らの存在さえも理解していないということだから、信仰を理解することなど出来ません。
 
地上にいる私たち人間は、神に近づくのではなく、神との決定的な違いを学ぶのが、信仰なのです。聖書は、繰り返し、そのことを語っています。
 
 ※
 
楽山の言っている神は、「鬼滅の刃」のようなホラーアニメ的な視点です。だから、気安く、神もさまざまで、善神も悪神もあるなどと、多神教のお伽話であるかのように言ってくるのです。
 
「神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問」
楽山が同意しているこの引用は、実態は、楽山が前から言っていた幼稚な神否定の考えです。楽山は、都合の良いことだけを、学者の名をもって、引用し悪用してきます。
 
楽山の言う神は、矛盾のないことが人間にも分かりやすい神で、人間が何もしなくても幸せを与えてくれる神なのです。そのような勝手な者に対して、神は、そうですかと、いちいち分かりやすく説明するでしょうか。
 
こういうことは、考えれば、ふつうに推測できそうな話なのですが、楽山にはできないようです。たぶん、こう言っても、なお、性懲りもなく、いちゃもんをつけてくるのでしょう。
 
キリスト教の神は、聖書から全能ですから、人類を全体として見るだけでなく、人間一人一人を見て、その個性も、その発言も、その行為も、個別に、漏らさず見ておられます。そのことについて、根拠を人に示す必要のないところの、在って在るものとして、神を信じる者は受け入れるのです。
 
楽山のような欲張りで勝手な人を納得させるために、神が、いちいち矛盾がないように摂理を整えるとでも思っているのか。いちいち説明してくれるとでも思っているのか。愚かなナルシストは、どこまで思い上がっているのか。
 
神にとっては、地上には、キリスト者になりそうな、あるいは、救いが必要になりそうな、砕かれた魂を持つ敬虔な人がいっぱいいるわけですから、楽山のような不満と否定と苦情で出来ているようなナルシストにかまうことはないのでしょう・・くらいは、厳密でも完璧でもないが、推測できるわけです。
 
恐らく、楽山のような人物は、神は矛盾するとか疑問だとか言い張って、人を惑わしながら、自己満足するような恵みがないことに、さらに不平不満を募(つの)らせて、キリスト者を何とかして貶(おとし)めようとしながら、納得などいくわけもなく、年を取って、残酷なときの流れの飛沫として、誰にも見られないまま、散ってゆくのでしょう。
 
また、人間の都合に合わせた神を見下ろして考えているだけなら、戒める神への信仰もないわけですから、無反省に終始して、思考も感情も崩壊してしまうだろう、ということも、推測されるわけですが、楽山は分からないのです。楽山が、その通りになっていること。
 
楽山が引用しているこの神についての疑問には、この地上では、人間に答えなど分かるはずもない、ということを、常識のない楽山は、まるで分かろうともしないのです。楽山は、ただ、自分は、神・上・紙をホホ、語るインテリだ!とホホ、片手にアニメの広告を握りしめて、おめいているのです。
 
つまり、楽山は、神を信じる気などないということです。ということは、楽山は、神を茶化したいだけの荒らしみたいな存在です。良識ある人が、付き合える相手ではないのです。大真面目な学者口調が、楽山の欲望と悪意です。
 
悲しみ多く苦しみ多きこの世界に、それでも生きてゆくために私たちは生まれています。楽山のような者が、安直な思考で、洟垂れ安穏を貪る者に惑わされてはいけません。
 
「多神教的な世界を想定」
楽山が、いかに神を軽く想定しているかが分かります。
「善神もいれば、悪神もいる」
楽山が、いかに神を軽く見ているかが表れています。
 
これが「この世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ない」ことの説明になるでしょうか。何の実感も伝えていません。まさに、楽山のような反キリストに答えられる問いではないのです。楽山の今日も、詭弁を弄しているだけです。
 
でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。
 
楽山は、このような、最初から答えなど得られない問題にこだわって、神などいない、いたら、おかしい、というような悪態を吐きながら、自分は一段高所から神と世界を眺めている慢心にどっぷりつかりながら、ますます人間としての感受性を鈍らせながら、ぼんやり一生を過ごしたいようです。
 
だから、毎回、同じことをグダグダ書いて、何の努力も成長もしないのでしょう。そして、信仰者を侮辱し呪い続けるのでしょう。
 
神が、楽山の酸っぱい納得のために、全能の力を振るうことはないと思います。救いは、それを必要とする人に、意味を持ちます。だから、楽山は、人格的成長がない間、宗教については、愚痴とクレームを言うことに終始するのでしょう。
 
神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。
 
先ず、考えることの順序が、著しく間違っています。楽山は、神を頭の中の前提にして、おのれの要求を出して、これに沿わないからダメと、まるで、神相手に試験をして合否の否を与えているのです。
 
信仰者は、まず、神がいるとは思えない世界を嘆きますが、そこに、聖書から、希望の光を見出します。今は、ひどい有り様だが、この背後には、いつか、大きな世界への導きを用意した聖なる御方ががいるのだろうと思い、そして、そうでなければ、生きられない自分を、正直に捧げて信仰者となるのです。
 
ここには、キリストとの縁のようなものがあります。また、この世の外に、何があるのか、意識はなくなるのか、何もないのか、しかし、救われるとは何か、こういった問題を、考えながら、生きていくのが信仰者です。
 
分からないことを、楽山のように、分からないから安直に否定するのではなく、分からないこととして、自分で決めたりせずに、自らの存在の小ささと世界の奥深さに恐れをいだきながら、神に、キリストに、希望を託して、待つことと、望むことと、生きることと、祈ることを、学んでゆくのです。
 
楽山は、その縁のようなものを感受することが出来ず、しかも、それを、自分ではなく、神のせいにして、不満だけを述べているわけです。楽山の、神がいるならぁ・・前提は、決して理路ではなく、自己愛性人格障害の症状となっているようです。
 
信仰が持てないなら、非信仰者としての生き方もあるでしょうが、その努力を一切せずに、自分の作ったところの、神のいない無為・安穏の沼につかって、インテリ気取りと学者もどきで視野の広いさまを見せかけ、実際は、最も見苦しい有り様を見せながら、自己愛だけを養って、いい気になってバハバハ言っているのです。
 
またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。
 
神の目的も意志も、神の秘密、神秘であります。神の秘められた意志も計画も、自分で決めつけている哀れな楽山です。楽山のように、神の原初を分かろうとするのは、分かるはずの自分に酔い痴れる悪態でしかありません。
 
どうして、神が、楽山のこしらえる神の理屈に付き合う必要があるでしょう。創造主以上に高いものはないのです。楽山のように、神を見下ろす視線には、いないようにしか見えないのが神であります。これによって、思い上がった者は、篩(ふるい)にかけられ、救いに向かわなくなるのです。
 
このような者は、神の恵みに与る可能性を自分で否定し拒んでいるだけの、実に、くだらないナルシストとしか言いようがありません。神が、罪の種を人に残そうが、蛇の誘惑に乗ってしまう弱さを造ろうが、楽山の許可など問題にするわけがないのです。
 
善きものと言えば、完全に善きものしか思い浮かばず、どうだ、どうだと、いちゃもんの材料にする愚かで凶悪な反キリストの本性です。
 
このように学者気取りで難癖をつけながら、一方では、神によってもたらされた恵みに、いっさい気づかず、人の意見をも、いっさい受け付けず、常同行為のように、同じことを繰り返して、進歩というものをいっさい拒否することで、超常と霊が分かるっぽい自分を、ひとかどの人物に見られたがっているのです。おぞましいかぎりです。
 
どこまでも、我欲と自己中のみで、訂正不能に完成したつもりでいる人格の末路を表すのでしょう。楽山は、勝手に、神という存在に、思考においても、情緒においても、気づくことなく一生を過ごせばいいでしょう。無反省なのに、人に、影響を及ぼそうとするあいだ、批判対象となります。
 
神に難癖をつけても、何も返ってこないことをよいことに、神と、問答、駆け引き、取引でもしているかのような尊大な言は、永遠の堂々巡りです。進歩のない楽山の記事は、百害あって一利なしの怠慢の退屈地獄への道です。
 
こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。
 
楽山は、大事なことを何も考えてなどいません。
考える信仰者や、考える非信仰者とは、全く違う人種です。
 
楽山のような、自己愛からの無神論が訂正不能の前提となる者には、思考も情緒も、有意義に働くことはなく、ただ、言い張って、いい気になって、やたら、しつこく、無駄や詭弁を書いて、自己満悦して、その実、自己破壊しか起こっていないという証拠を自ら積み重ねてゆく経過しかないのです。
 
楽山は、明けても暮れても、同じところだけを巡っています。考えたつもりでも、自己愛が思考と情緒を妨げるために、同じところだと気づかないのです。気づかない、感じない、考えない、ということだけが、積み重なってゆきます。決して真面目に相手にしてはいけない人です。
 
これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。
 
世界観という概念が、楽山の宗教思想なのでしょうか。人間一人の様々な問題について、不感不応で、言いたいことだけを言って、実際は、何の関心もないことが表れてきました。だから、楽山は、何も解決しない不毛の時空をうろついているだけなのです。
 
つまり、楽山は、セカイカンに酔い痴れているだけで、世界観を理解してはいないということです。何故なら、世界観を考えるのは、それが、一個人の人間にとって建設的な意味を持つことだからです。楽山が白々しく語る世界観という言葉に騙されないでください。
 
霊が分かるっぽいと楽山が訂正不能に思い込んだ時から、今に至るまでの、空疎で、進歩がなく、建設的な要素がないにもかかわらず、反キリストのシャロームの肩を持ったりするような、理路も無ければ人間の正常な感情も持っていない無意味な、信仰への妨害行為が続いています。
 
厄介なのは、意図的に、気に入らないと無視することしかできず、どこまでも悪意に徹する楽山の質量のない口であります。このように、良心のない人は、何を冷静に書いたつもりでも、彼の言う霊性?の訂正不能から、妨害にしかならないのです。
 
楽山の提示する疑問は、ことごとく、いちゃもんであることが明らかになってきて、これからも、単純に、同じ繰り返しになるでしょう。それは、楽山の、今までの、受けて答えることをしない卑怯者の態度と姿勢から既に予測されてきたことです。
 
丁寧そうな言葉に騙されないでください。文脈と今までの記事の流れから、分からないことを分かったことにしないと気が済まない楽山は、人を巻き込んで混乱させる、きわめて狡猾な言論の攻撃性を持つところの、悪意の人です。
 
楽山は、例えば、読書と考えることがお好きなのですね、むずかしいことをテーマにして感心しました、インテリなのですね、やさしいお人柄ですね、など、世辞を言ってくれる人か、素直に受け入れて騙されやすい人、などが現れてコメントを書いてくることを待っている生業(なりわい)なのでしょう。・・カビのように陰気臭いと思います。
 
世々にわたって、この楽山やシャロームのような、責任を負わずに自由を悪用して自己中で勝手なことを言い続ける者たちが、中身のない説法を専らとして、人の良心を破壊して、人にも社会にも世界にも、災いの種を蒔(ま)いてきたし、また、蒔いてゆくのだろうと思っています。
 
しかし、楽山が、いかなる仲間と、いかに神に疑問を呈して、人を、神否定の方向にマインドコントロールしても、命の沙汰は、私も楽山も誰も知らず、神が決めることなのです。
 
私は、楽山のように、神を否定して、逆に、神に否定されるような被造物にはなりたくないから、できる範囲で、書いています。楽山には、くれぐれも近づかないようにしてください。
 
 
楽山には、宗教と信仰を云々するための理解のベースが、論理および感性の両方において、全くと言っていいほど、ありません。そして、ベースがないことを、これまた、理解できずに、弁えもせずに、自己愛の衝動のようなものによって、ボンヤリ言語で、身の毛の弥立つような詭弁と刷り込みを書いてきます。
 
楽山が信仰しないのは楽山の自由であり、楽山に対して福音伝道が不可能なのは明らかであり、神もキリストも分かっていないのだから、宗教と信仰について書かなければよいのに、楽山は、なおも、いちゃもんをつけるという陰湿な自己顕示だけは、じとじとと、じめじめと、いつまでも止めない、まことに恐ろしいほどの不遜な愚か者です。
 
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与えるから自分でしなくていい、という信条に無条件に賛同しました。この時点で、二人とも、キリスト教と信仰を語る資格はありません。
 
正常な人間には、最低限度の正常な言語能力があります。それは、人の言うことを受け取り、自分の意見と照らし合わせて、新しい意見を考えるという能力です。上の二人には、それがありません。だから、世辞でごまかして、訂正不能のままです。
 
プラスでも、マイナスでも、言った時点で、言った責任は生まれるのですが、楽山は、プラスを言い、マイナスを言ったら、はっきり言っていないから責任はない、プラマイゼロだみたいなことを、平気で言っていたのです。この詭弁は、駄々っ子と同じ、小学生にも劣る低次元の言い逃れです。
 
楽山は、大人になり損なった人なのです。大人の常識的理路が発達しておらず、人間ではなく、脳の機能の大事な部分が欠損した人体、あるいは、ヒトに過ぎないと言ってもいいでしょう。
 
それで、楽山が、学習もしないで、本から都合のよい言葉だけを集めて、今も、一人前の大人を気取っているさまは、もはや、自らによって破壊された人格としか言いようがないのです。
 
 
偽善の侵襲2

偽善の侵襲
 
 
(2020年04月)
 
(2021年04月13日、再録+)
(2021年04月14日、加筆修正)
 
 
 私のライブドアブログの記事
 「神と人の未分化」に付いたシャロームのコメントを批判
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、私)
 批判再録+
 
 
シャロームであることは筆致から明らかですが、名無しの猫と名乗っている荒らしです。荒らしという本性の正体を現して、ライブドアの私のブログに、揶揄コメントを書いてきました。
 
1. 今も名無しの猫2020年04月08日 10:13
おはようございます!名無しの猫です。お久しぶりです!
相変わらず誰も相手にしてくれないようですね。
マグダラさんであればあるいはコメントしてくれるかもでしょうか?
 
上に「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」と揶揄しておきながら、下のほうには「いいですね」と時候の挨拶を入れています。この極めて不適切なアンバランスに、まだ気づかないようです。シャロームという人のケダモノのような荒々しさには、気づくことを期待するのが無理のようです。
 
楽山とシャロームは、カルトの仲間ということです。自称マグダラマリアも仲間なのでしょうか。私が自称マグダラに批判記事を書いたので、そのことを書いています。仲良しカルトの根は深いのでしょう。同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
Yahooブログ時代が懐かしいですね!
今年はことさらにきれいですが、
満開の桜がいいですね!
色とりどりの花と木々の緑も鮮やかな公園を今日も散歩します。
スポーツを楽しむ人の姿もあり、いいですね!
お元気でお過ごしください。
名無しの猫より
 
「Yahooブログ時代が懐かしいですね!」・・反キリストの親分のようなシャロームなど、私は、ちっとも懐かしくなどないのです。早く消えてください。挨拶は入れません。
 
名無しの猫、という荒らし、実は、足掛け10年間、批判対象のシャロームです。
 
いくら、時候の挨拶、自然を愛でる文言、「お元気でお過ごしください」と書いても、上の「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」で、敵意は明らかなわけです。
 
荒らしであることを隠さず「名無しの猫」と書いて、短い揶揄+挨拶のコメント、相手にする価値はありません。
 
シャロームは、アドラー心理学が人間をどうしようもない自己中に変えるということの中心的な要素を持っています。また、在日らしいシャロームは、日本人を嫌韓に変えてゆく典型的な要素を持っています。
 
それは、自己中、人の言うことを聞かない、受け取って反応することが出来ない、反省しない、理路と情緒がない、思考力も理解力も共感性もない、罪悪感がない、訂正不能、平気で嘘を吐く、ありもしない事実を平気で捏造する、真摯な態度を欠片も持たない、などです。楽山も、大方、似たようなものです。
 
シャローム、楽山、易坊、自称ヨシュア、自称マグダラのマリア、この者たちは、つながっていると思っています。言ってることが、よく似てる。ひょっとしたら、アドラー心理学も・・??
 
乱暴だと思われて嫌われることを避けるために、言葉だけ丁寧です。
 
共通するのは、自己中という滅びの道です。言うことが、うっすら、冷たくて、気に入らないことは無視して、刹那的に楽になる世辞だけ受け入れて、次には気づかない人を騙してゆく、という特徴です。社交の世辞レベルで、既に、心を侵してきます。
 
 
(2020年04月09日)
(2020年04月11日、一部修正)
 
(2021年04月13日、再録+)
 
 
 楽山の悪意のリツイートです
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
普通なら敢えて言うまでもないことだが、信仰者は知っておいたほうが良い。相手の人格を非難するようなことをいくらしようが、あなたの主張の正しさを証明する上では、何の役割も果たさない。あなたの主張の正しさを示したければ、行うべきことはただ一つ、それを支持する客観的根拠を提出することだ。
午後7:21 · 2021年4月12日·twittbot.net
 
楽山は、自分で言えなくなると、他者の言うことを利用するという卑怯者の典型です。前にも書いたことですが、楽山は、学習しないから、何の進歩もなく、また、他者を悪用しています。
 
人格が、病的で、虚言、妄想、無反省、無責任、であるならば、その口で何か言えば、迷惑にしかなりません。その迷惑を、指摘して、批判しなければいけません。
 
本人を変えることは諦めていますが、楽山に、近づいて、ひどい目に遭わないように、関わらないように、相手にしないように、・・などを、広く伝えることは必要です。
 
人の客観などで、神を扱うことは出来ません。つまり、神の存在も不在も、人が証明することは出来ません。信仰は、証明の可否が結論となる世界ではないからです。
 
なぜか、楽山は、そのことを弁えず、理屈を言ってきます。信じる信じないは、人の自由だけど、神の不在を、理屈みたいな言葉で言うのは、無意味なだけでなく、一種の宣伝~煽動になるでしょう。人の理屈では、神の肯定も否定も、証明不可という認識です。
 
繰り返しますが、人の理屈によって、神の存在も不在も証明できません。人が信仰を持つのは、必要だからであって、証明されたからでも、客観的根拠があるからでもないのです。
 
無神論が論として成り立つと思っている楽山には分からないところの、共感の話に対して、言い換えれば、信仰について、即ち、キリストを好きになることに対して、いちいち、悪意に満ちた屁理屈で否定の誘導をしかける楽山は、いつまでたっても、変わることはないのでしょう。その都度、屁理屈の詭弁だと批判して警戒を呼びかけるしかありません。
 
楽山は、迷惑で、有害で、対話の成り立たない自己愛性人格障害です。楽山の書いてくることが、今まで証拠になってきたし、これからも証拠になってゆくでしょう。
 
 
(2021年04月13日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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