ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:印象操作

 
  印象操作と陰謀2
 
   楽山日記(a)
 
 
HSを脱会したと言い、アドラー教を宣伝し、似たような体質を持ち、クリスチャン芝居をし、一方で、キリスト教に、幼稚な疑問を当てつける否定の印象操作をする、という、とても、いい加減な楽山が、また、反省もなく、訂正もなく、よりによって、カルトとマインドコントロールについて書いてきました。
 
自己正当化の言い逃れであることは言うまでもありません。このように、自己中で、何を言われても無視して平気でいられるのが、楽山やシャロームなどの軟派カルトであります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だろうと思っています。
 
 
>・【書評】「カルト宗教信じてました。」を、カルト教祖の息子が解説します!<
 
楽山は、こういうところを、利用して、カルトはひどいですね、などと言う感じで、アンチカルトに共感があるかのような文章を書いて、自分は安心で大丈夫と、カルトとは無関係を装うのでしょう。そのための賛同の受けねらいの意図のようです。
 
 
*カルトはどこも一緒
この本はまだ未見なので、こういう動画を見ると読みたい気持ちが高まってくるなあ。
「カルトはどこも一緒…」という言葉については大いに共感する。紹介されてる書籍はまだ読んでないけど、他のカルト関連の本を読んでても、元信者さんらの言葉を聞いてても、そういう感想はもちますね。
カルトによって、その程度、言葉遣い、信仰対象などに違いがあったとしても、基本的なところは同じだなあと。
 
楽山の「気持ちが高まってくるなあ」は悪意が興奮することだろうと思います。楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分かないっぽいのに驚いたと言ったことがあります。心霊や超常の話に興味があることを表し、仏様や霊の気持ちが分かるみたいなことを言っています。
 
カルトなどの超常現象に惹かれるゆえに、カルト寄りの楽山が、今回は、硬派カルトの、うるささや汚さや体罰的なことを表している動画を見て賛同し、ヤバいことをする奴らは特別だからと、共感を装いながら、自分は全然違うという印象を吹き込もうとしています。
 
つまり、カルトはどこも一緒で、おかしいところがすぐ分かる、という印象操作をしています。実際は、硬派カルトだけでなく、友だち関係を求めてくるような、やさしさを装う詐欺みたいな、軟派カルトというのもいると思います。そして、その典型が、無神教カルトの楽山です。
 
楽山の主張は、自己中、身勝手、訂正不能で、広まれば社会悪になる可能性を持っていると思います。そして、楽山は、遣り取りや、交流が、全く成り立たない人です。相手にすると、とても異常は疲労を与えてきます。関わってはいけない人です。楽山は、理路も感性も偽物で、有害だと思います。
 
つまり、カルトが、どこも一緒ではないことは、楽山とシャロームを見れば分かるわけです。つまり、この二人は、先ず、受け入れられるために、やさしい人柄を装ってきます。それが、シャロームの丁寧語と、楽山のボンヤリ言語なのです。
 
しかし、よく見て考えながら付き合っているうちに、宗教についての記事やコメントから、宗教と信仰についての無理解や、社会悪につながりやすい性質、つまり、自己中心、訂正不能、無反省、自尊過剰、理路の単方向、他者への軽蔑と上から目線などが見られます。
 
表面的なものや法制度上のことに話をすり替える意図ですから、それに乗って騙されてはいけないのです。カルトは、犯罪が明らかになるまで、カルトではない、と言いたい楽山は、その発言からカルトに甘いこと、むしろ、カルト寄りであることを明らかにしているわけです。
 
カルト批判ではなく、自分は違うと見せかけるための、カルトのひどいイメージを借りて批判に見せかける偽装なのです。カルトの定義を、警察につかまらなきゃカルトじゃないよ、と印象付けたいのです。直ちに取り締まることは出来ませんが、批判するのは自由です。
 
 
*にがい顔
エホバの証人については、自分は、二、三の思い出がある。一つは社会見学のつもりで、王国会館に行ってみたときに、自分の隣りでにがい顔をして座ってた男性に「信者ですか」と聞いたら、ぶすっとして首を振っていたことだ。
そのときは、信者の奥さんに無理矢理つきあわされて、ぶすっとしてるんだろうと想像しただけだったが、今にして思うと、いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態というのは、よほどのことだったろうなと、前以上にこの男性に同情してしまう…。
 
今度は、カルトは愛想が悪い、ぶすっとしている、などと言う印象を与えようとしています。自分は全然違うでしょ・・と言いたいのでしょう。典型的な印象操作です。それと「みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌」云々・・は、先入観による乱暴な決めつけでしょう。
 
「いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態」
 
いい年した大人の男性は、みなが笑顔でいるところでは、笑顔でなければいけないでしょうか。楽山の見方は、一面的で、人それぞれの事情をかえりみない、みんな井戸端会議か社交みたいに見なして、笑い合い世辞を言い合うというのは、相当、偏った奇妙な考え方だと思います。
 
ぶすっとしていることは、カルトを示すこととは関係ないでしょう。こういうところにも、印象操作と刷り込みの意図を感じます。このように、楽山の理路というのは、根拠と成りえないことを決め手のように語ってくるので、真に受けてはいけないのです。
 
カルトが、誘導する目的を持っているなら、柔和そうな、パリピのような、楽しそうな、友達みたいな、物わかりのよさそうな、にこやかに近づいてくるキャラを装っても不思議はない。まさに、楽山とシャロームは、薄っぺらに表面的に、そういう柔和芝居のキャラで近づいてきます。
 
楽山の「だなあ」「ていうか」といった若い人に共感があるかのような書き方や、以前の、いかにも、共に自分も考えています的な、共感ありげな「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」、「やっぱり正しいように思える」などという婉曲的な言い方も、共感芝居の刷り込みでしょう。
 
 
*マイコン
もう一つの思い出は、近所の本屋の店員さんがエホバの証人だったので、「輸血拒否っておかしくないですか」と聞いたら、微笑を浮かべつつ、ゆったりと頷き、「勉強すれば分かりますよ」と言ってたことだ。
 
これも、カルトの極端な主張です。誰もが、おかしいと感じることを書いて、自分はそんなことは言いませんよ、という暗示によって、楽山は、カルトと対極にあり、カルトを分析しているかのような態度をアピールしてきます。
 
しかし、このような、あざとい、戦術的な言論の持っていき方が、既に、十分に怪しいのです。これは、今までの経過の中で、シャロームの肩を持ったり、当たり前や幼稚なことを、さもキーポイントであるかのように語る楽山の口車に表れてきたことです。楽山は、策士なのです。
 
楽山もシャロームも、世辞以外に、非を認めたことがありません。弱さ、不完全さを実感しているような文章を書いたことがありません。見せかけで書くのは、動機が分からないような文脈での、わざとらしく謙虚ぶる態度でしかありません。
 
楽山は、ペテンの芝居をするので、要注意です。自己顕示欲が強いために、陶酔するような芝居もありますが、心の感性が鈍麻しているために、子供だましの下手さ加減が分からないのです。文脈の流れで読むと、気色が悪く、わざとらしい大根役者でしかありません。
 
 
ちなみに先の記事に取り上げた本だと、疑問に対して「今にわかるよ! もっと勉強せねば!」というのは、マインド・コントロールで使われる常套句らしい。常識的にはおかしいことに思えるかもしれないが、教義を学ぶと真実だと分かりますという風に、教義を学び、その通りに思考することを促す言葉。
 
楽山の、友だちのように親し気に近づいて、勉強しなくても分かります、分かるでしょ、みたいな、ねちねちした誘導の仕方も要注意~恐怖なのです。楽山は、カルトの特徴の目立つところだけを書いています。目立たないところに潜ませる誘導や印象操作や詭弁が、本当は怖いものだと知ってほしいです。
 
 
当たり前に考えてみれば、その宗教の教義を学ばなければ分からないというのは、ようするにマイコンされなければ分からないということなんだから、そんなことは分からないままでいるのが正解なんだけども、教団の中にどっぷりつかっていると、この辺りの常識を見失ってしまうのが悲しいところだ。
 
楽山は、カルトの教義と言うべきところを、宗教の教義を学ぶことが、マインドコントロールされることだと言っています。殆ど、カルトと宗教を区別しないところも、宗教は、みんな、いっしょに、ひっくるめている、いい加減さが、滲み出ているのでしょう。
 
マインドコントロールされて初めて宗教が分かるなどと言う楽山は、カルトではない本当の宗教の恵みと幸いを何一つ分かっていません。宗教もカルトも一緒にして、侮辱してくるのが楽山です。そして、楽山こそが、宗教をバカにしながら、自前の、一種異様な無神教カルトを広める教祖願望なのです。
 
楽山もシャロームも、宗教人ではなく、宗教を利用して、カルト的な教えを広め、自分の自尊心を満足させたい病的ナルシシストだと思っています。彼らは、基本は、宗教嫌いなのです。宗教嫌いが、カルトを広める、これは、宗教を舐めてかかっているゆえに最も陰険な恐怖の企みであります。
 
教義の鵜呑みが、いちばん、カルトへの近道になります。それは、硬派カルトだけでなく、誤った未熟な宗教理解をする者によって、硬派カルト以外でも遠回しに教えられているかもしれません。そういうところからは、勇気をもって、きっぱり縁を切り、完全に離れることが必要です。
 
それと同じくらいに、あたかも、みんなと同じ常識人であるかのように振る舞って、その奥底に、誰が何と言っても何も聞き入れない自尊の固まりによって暗躍しているのが、楽山とシャロームのような、汚らしい軟派カルトの悪意の産物なのです。
 
シャロームは、いつも、自分が正しいという前提で物を言い、もはや、なんの資格も正しさもないことが明らかになっても、修正が利かなくなっている廃人のような存在です。丁寧語で世辞を言って、それだけで、自分は柔和だと思い込んでいる人格の病人です。関わらないでください。
 
楽山も、自分が正しくて中立な立場でいる人、自分はまともなことを言う人、という固まっている前提があり、修正不能であり、人の言うことを聞きません。そういう心性のために、未熟なまま、大人になり、今も、神について同じ疑問を書いて、真実を語ったつもりでいるお粗末な自己愛が支配する人格です。
 
シャロームより、狡賢く、言い方を変えてくるのが特徴です。関わらないでください。そして、二人とも、結託しているかのように、ともにキリスト信仰の心を無視~否定し、ときには一緒に、嫌がらせを書いたりもしました。
 
楽山批判の文章にシャロームの名前が出ると、嫌がらせのコメントをライブドアの私のブログに書いてくるので、シャロームのほうは、楽山の手助けをしているつもりなのでしょう。二人とも、仲間意識で結び付いているようです。
 
その仲間同士の無条件同意以外では、理路も、共感も、成り立ったことがありません。彼らの仲間意識には、人を生かす共感がありません。彼らには、欠点のある人間同士、という共感による付き合いが、まるで成り立たないのです。宗教とは対極の自尊の固まりが寄り添っているようなものです。
 
そういうことから、楽山とシャロームは、同一人物の成りすましではないかと疑うようになりました。この疑惑は、ネットでは証明は困難ですが、その可能性を知っていることは必要だと思っています。誰が誰に化けているか、分からないのがネットなのです。
 
 
教団内では、教義に則って考え、行動する人ばかりなんで、そういう人たちに囲まれていると、自分からすすんで教義に染まり、みなと同じになりたいと思わないではいられなくなるとか。
 
楽山の話を、間違って受け容れると、やさしい人柄だから、きっと、バランスのとれた話をしてくれるんですよ・・みたいな感想を持つかもしれませんが、その時が、既に、危険信号なのです。その根底には、企みはあっても、ふつうに通用するような共感の素地が全くないからです。
 
楽山やシャロームのような、共感性の欠片もないのに、そのことを隠している危険人物に、間違っても、受け入れたり、同じになりたいなどという経過になってはならず、そのためにも、好意的に関わってはいけないと思います。
 
腹黒いシャローム、陰謀家の病的ナルシスト楽山、という印象を持っています。その判断を改めさせるような彼らの言論は、今まで、一度も見たことが無いという現状です。
 
 
マイコンはカルトに限らず、大なり小なり至るところに存在するという見方もあるけれども、カルトのように一般常識から極端にズレたことを正当と思わせるというのは、巷によくある誤解、偏見、先入観の類とは大分ちがうし、本人にとっても社会にとっても悲劇だし、ここは気をつけなければならんと改めて思う。
 
また、楽山は、この記事で、重ねて、カルトのマインドコントロールというものを、ホラー的に常識からズレたものであるとして、自らが行っている誘導、詭弁、ボンヤリ言語による刷り込み、印象操作を、それに比べさせて、大丈夫なものという暗示で、刷り込もうとしています。
 
いつも、文章を、企みの目的をもって書いてくるのが楽山です。暗示と刷り込みに遭わないためにも、決して関わらないでください。楽山がこの記事を書いたのは、社会にとっての悲劇としてカルトのことを語り、自分とは異なるものという印象を重ねることが目的なのでしょう。
 
ということは、既に、このような印象操作が功を奏したことがあるのかもしれません。そうして、気軽に、友達、お気に入り仲間として、付き合って、言葉を交わしているうちに、知らず知らず、楽山の言うことには、いつのまにか、頷(うなず)いてしまうようになってゆくのかもしれません。
 
どこかで、軽いぜ・・と、味を占めてきたのだろうか。従来の豪語する硬派カルトにも、楽山やシャロームのような軟派カルトにも、惑わされることのないように、祈っています。拝。
 
 
※ 
 
キリスト信仰も、キリスト教も、堕落して、カルトになることはあり得ます。それは、神に対する節操としての、人間の不完全、すなわち、罪の性質を自覚するのではなく、逆に、信仰?ゆえに、自分は大丈夫だと確信してしまうところから生じてきます。
 
そうして、恐らく、神の前にも、こんなことは言ってはいけないというタブーが生まれ、祈りを飾るようになるのかもしれません。そこさえ間違わなければ、信仰者は、いつでも、主のもとに帰ることが出来るでしょう。
 
人が自分で勝手に確信して信じ込んで訂正不能にしなければ、人は、いつも赦しと憐れみを必要とする神の民であるからです。
 
キリスト信仰者は、おもに、旧約聖書の神の存在によって、自らの不完全性と罪性を自覚し、神への恐れと敬虔を学びます。そして、おもに、新約聖書のキリストの存在によって、人生におけるその同伴という共感という愛を知るのだろうと思います。
 
キリスト教によって、私たちは、罪と恐れと敬虔を学び、
私たち一人一人は、キリスト信仰によって、罪と赦しと愛を知るのでしょう。
 
キリスト教は、キリスト信仰の知識のベースであり、キリスト信仰のためにキリスト教があると言えるでしょう。
 
聖書にある物や肉体の奇跡の話は、神の偉大さと、神聖への恐れを伝えています。
福音書にある心~魂の奇跡の話は、キリストの人に対する限りない共感を伝えています。
 
どういう人がキリストによって救われ、どういう人がキリストの敵となったかを読み取ることが、聖書を読むうえで一番大事なポイントだと思います。
 
救われた人は悲しみを知る人でした。
悲しみを持ちうるかどうかが、信仰と、反信仰を分けるのです。
 
キリストの敵となった人たちは、悲しみを知らず、不都合に際して、誰かに怒り、誰かを憎む人たちです。そのサイコパス的な憎しみがキリストを殺しました。
 
私たちは、キリストの死の意味を深く理解するべきです。キリストの死を思わず、キリストは復活したのだからと済まして、讃美に明け暮れるのは、信仰者の態度ではありません。
 
 
悲しみへのいつくしみは共感

悲しみへのいつくしみは共感
 
 
(2019年)
(2022年07月27日、再録+加筆) 
 
 
 
  ある人に
 
引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
 
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり
 
引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証も導きも悟らぬ者よ
 
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる
愛と呼ばれるものの
実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世に在って
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ祈りへ
 
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 
 (コリント1,13:4-8、新約聖書)
 
 
興味深いのは、この章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることです。知識があっても、信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということであります。
 
愛と、悲しみと、共感する心によって、信仰は成り立っています。キリストが、お手本なのです。しかし、キリストのようになることは出来ません。キリストを目指すのでもありません。私たち信仰者は、キリストの民であります。そして、しばしば反逆の民であります。
 
その反逆の罪を知り、折々に、悔い改めることが祈りです。感謝と讃美より、大切なのは、正直な告白です。神は、人の言動を、既に、余すところなく、ご存じなのですから、正直以外、神に通用することはありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏はまたストローマン論法を使ってる。
私の意見は①です。
①「『仏陀再誕』の仏陀への帰依は、HS信仰の基本だ」
②「HS信仰は、『仏陀再誕』の仏陀への信仰だけだ」
私の意見を②の形に歪めた上で、反論してもダメですよ。
 
(ネットより)
ストローマンとは英語で案山子のような「人間のフリをさせるための等身大藁人形」を指す。ストローマン論法とは、相手の主張を取り違えたり歪曲したりして出来上がった脆弱な主張をストローマン(相手の代理)として打倒し、そのことによって相手の主張を論破したことにしようとする論点すり替えによる詭弁である。ストロー(藁)マンを直訳して藁人形論法(わら人形論法)とも呼ぶ
ニコニコ大百科
 
楽山は、信仰を語れる人ではありません。なのに、HSも、キリスト教も、同じように扱い、揶揄してきます。正常な分別を持たず、詭弁に生きています。真実を求める気はなく、自分の優越感を満たすためだけに書いてきます。精神衛生のために、決して、直接の遣り取りをしてはいけない人です。
 
楽山は、論客気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど、気取りだけなのです。実際は、理路を組み立てることも理解することも共感することも出来ません。真実の追求などする意思も能力もありません。既に真理を得ているという腐った高慢の悪臭が、書くものに染みついて表れてきます。
 
楽山は、文脈の理解に至らず、ただ、相手をストローマン(藁人形)のように見なして、その端くれの汚れを、中心であるかのように指摘して否定してゆきます。しかし、楽山は、心が無いので、実際は、何も理解していないのです。相手にしようなどと思ってはいけません。
 
ブーメランのように、楽山から出たものは楽山に返ってきます。本人が気づかないだけで、楽山の言は、楽山を責めているのです。楽山は、良識と良心を持った人間ではなく、人の不備を突いて悦に入る自己満足が生き甲斐の、それこそ棘(とげ)付きのストローマンなのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも宗教でもありません。人類の敵は、良心と罪悪感を持たない楽山のような無反省で無責任な病質人格、つまり、反社会性人格障害≒自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、ひと言で言えば、サイコパス(精神病質者)なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘吐きで詭弁屋で無神教カルトの楽山が、悪意の文脈によって実に軽々しく決めつけて否定する神は、キリスト教の神とも、キリストとも、何の関係もありません。楽山は、自ら捏造したキリスト教?の神?の安っぽい概念を、神として否定したために、永い批判にさらされることになっています。
 
 
 
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  隠された攻撃性3
 
 
 神義論、弁神論について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月07日
 楽山日記(LD)批判再録+
 
 
楽山は、またしても、神についての幼稚な疑問を投げてきました。誰も分からないということだけが、分かっている疑問です。弁神論は神義論とも言い、神の正しさの問題です。大事なこととして、信仰は、その疑問を解決して生まれるのではないということです。
 
楽山という人は、宗教には全くの無関係なところで、霊能者を気取っているだけで、信仰など持つ気もないなら黙っておればよいのに、著しく幼稚ないちゃもんを嫌がらせのように繰り返し書いてくるのです。
 
楽山には、分からないだけでなく、何度も繰り返し言って、信仰者と言論者を、疲労と混乱に陥れようという攻撃的な意図があるとしか思えません。楽山は、否定するために、分からないことを偏見で決めつけてきます。
 
楽山は対話を求めていません。また、私も、楽山のような、何も聞かず、受け取らず、嫌がらせだけを書いてきて、話の双方向の成り立たない人と、対話する気はありません。楽山は、人間としての身の程も弁えない底なしの愚か者です。
 
いい加減な楽山の言説を、いちいち批判して否定するのは、丁寧語に騙されて真に受ける人がいるだろうと思っているからです。その弱みにつけ込む人です。私は、私にできることをしています。批判記事を重ねて、楽山は、シャロームと同様、悪意と偽善の資料になりつつあります。
 
 
前々から、神義論、弁神論には興味があるのだけれども、本書でもそれについてチラリと触れていた。
一元論的あるいは汎神論的な見解によれば、悪は、他の一切のものと同じように、その根拠を神のうちにもたなければならない。そこで、もし神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問が生じる。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.201)
 」
多神教的な世界を想定すれば、神々にはそれぞれ個性があって、善神もいれば、悪神もいる、温厚な神もいれば、戦好きの神もいるだろうから、そういう神々の影響下にあるこの世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ないことではある。
 
神々のせめぎ合いを「致し方ないこと」と言っています。神々の知り合いか・・ってことです。楽山は、引用の文章を、恐ろしく、幼稚な低次元の空想話にしています。「善神もいれば、悪神もいる」・・見たのか・・ってことです。呆れます。神と神聖を全然知らないから、こういうことが言えるのです。
 
 ※
 
神が、悪に与えた存在の根拠を、人が知り得る、知らないと気が済まない、という疑問は、悪と神の存在に無関心で、興味本位の遊びだけの欲望であります。神が悪の存在を支配しているとしても、その悪を神がどうするかは、神の意志によるのであって、神の意志が、人に分かるはずはないのです。
 
いったい、誰が、神の台所に行って、悪を何故どうして作ったのですか?悪をどう料理するのですか?などと聞けるでしょう。そのような者は、真理の絶対に対して、ただ、自らの不遇を、神のせいにしているだけなのです。
 
神の存在下で、悪が存在の根拠を持っていたとしても、人という地上の存在が、それを問いただして理解できるなどと思うのは、神の超常と同等に成り上がろうとする身の程知らずであり、虚妄であり、地上では、どこまでも、空想から詭弁に堕ちてゆくだけなのです。
 
地上の貧相な理屈で、神と超常の真理を語ることなど出来ないと弁えるべきです。聖書は、神の仕組みではなく、神からの恵みを、人がいかに受け取って弁えるべきかを表しています。
 
人は、神の意志を知り得るほど賢くはない!・・という弁えこそが、聖書の語ろうとしている第一義なのです。そこを受け取らない者には、信仰も、神の愛も、キリストの共感も、人の愛も、人の共感も、理解はおろか、人間性さえ理解できはしないのであります。
 
楽山は、蚊のような不全の知性において、ンンンンと空しい音を立てて、世界を飛んでいるつもりで、神がいるなら悪がなぜ存在するんじゃ?・・と言って、神を否定したつもりになるようだが、そういう理路は、存在しない妄想の出発点から、知恵を見せびらかすような虫の糞に過ぎないのです。
 
真実の知性は、真実の共感とともに、神には及びもつかない、という、人としての身の程を知っています。虚偽の知性は、自らの存在の箍(たが)が外れて全能と同等のレベルにいるつもりで、それこそ、自らの存在さえも理解していないということだから、信仰を理解することなど出来ません。
 
地上にいる私たち人間は、神に近づくのではなく、神との決定的な違いを学ぶのが、信仰なのです。聖書は、繰り返し、そのことを語っています。楽山の不届きについては、楽山の書いてきたことから推測し、楽山の書かなかった文脈から行間から臭ってくるものとして書いています。
 
 ※
 
楽山の言っている神は、「鬼滅の刃」のようなホラーアニメの視点です。だから、気安く、神もさまざまで、善神も悪神もあるなどと、多神教のお伽話と同様に言ってくるのです。つまり、小学生くらいの子供の空想と基本的に同じです。
 
「神が絶対的に善であるとすれば、どうして悪が神のうちに根拠をもちうるのか、という難問」
楽山が同意しているこの引用は、実態は、楽山が前から言っていた幼稚な神否定の考えです。楽山は、都合の良いことだけを、学者の名をもって、引用し悪用してきます。
 
楽山の言う神は、矛盾のないことが人間にも分かりやすい神で、人間が何もしなくても幸せを与えてくれる神なのです。そのような勝手な者に対して、神は、そうですかと、ご利益を恵んだり、いちいち分かりやすく説明するでしょうか。否であります。
 
こういうことは、考えれば、ふつうに推測できそうな話なのですが、幼稚な楽山にはできないようです。無神論と呼ばれる無神教カルト信者も出来ないのでしょう。楽山は、たぶん、こう言われても、なお、性懲りもなく、いちゃもんをつけてくるのでしょう。
 
キリスト教の神は、聖書から全能ですから、人類を全体として見るだけでなく、人間一人一人を見て、その個性も、その発言も、その行為も、個別に、漏らさず見ておられます。そのことについて、根拠を人に示す必要のないところの、在って在るものとして、神を信じる者は、恐れをもって受け入れます。
 
楽山のような欲張りで勝手な人を納得させるために、神が、いちいち矛盾がないように摂理を整えることも、いちいち説明してくれることもありません。だから信仰なのです。愚かなナルシストは、どこまで思い上がっているので、神聖から遠く、かつ、神聖を否定してゆくでしょう。
 
神にとっては、地上には、キリスト者になりそうな、あるいは、救いが必要になりそうな、砕かれた魂を持つ敬虔な人がいっぱいいるわけですから、楽山のような不満と否定と苦情で出来ているようなナルシストにかまうことはないのでしょう・・くらいは、厳密でも完璧でもない人でも推測できるわけです。
 
楽山のような人は、神は矛盾するとか疑問だとか言い張って、人を惑わしながら、自己満足するような恵みがないことに、さらに不平不満を募(つの)らせて、キリスト者を何とかして貶(おとし)めようとして、気づきもなく年を取り、時の流れの飛沫として消滅するだけです。
 
自分の都合に合わせた神?を見下ろして考えているだけなら、戒める神への信仰もないわけですから、無反省に終始して、思考も感情も崩壊してしまうだろうと推測されるわけですが、楽山は分からないのです。楽山が、その通りになっていること。
 
楽山が引用しているこの神についての疑問には、この地上では、人間に答えなど分かるはずもない、ということを、常識のない楽山は、まるで分かろうともしないのです。楽山は、ただ、自分は、神・上・紙を語るインテリだ!と、片手にアニメの広告を眺めながら、おめいているのです。
 
つまり、楽山は、神を信じる気など元々ないということです。ということは、楽山は、神を茶化したいだけの荒らしみたいな存在です。良識ある人が、付き合える相手ではないのです。大真面目な学者口調が、楽山の欲望と悪意です。
 
悲しみ多く苦しみ多きこの世界に、それでも生きてゆくために私たちは生まれています。楽山のような者が、安直な思考で、洟垂れ(はなたれ)安穏を貪る者に惑わされてはいけません。
 
「多神教的な世界を想定」・・楽山が、いかに神を軽く想定しているかが分かります。
「善神もいれば、悪神もいる」・・楽山が、いかに神を軽く見ているかが表れています。
楽山は、底なしの、身のほど知らずの傲慢、そして、泥酔した自己満悦の愚か者です。
 
これが「この世において正邪善悪のせめぎあいがあったとしても致し方ない」ことの説明になるでしょうか。何の実感も伝えていません。まさに、楽山のような反キリストに答えられる問いではないのです。楽山の昨日も今日も明日も、詭弁を弄しているだけに終始するのでしょう。
 
 
でも愛と義を有する唯一の全能の神のみが存在すると仮定すると、その神はこの世の悪を一掃する能力を保持しつつも、それをしないのはなぜだろうという疑問を持たずにはいられなくなる。
 
楽山は、このような、最初から答えなど得られない問題にこだわって、安い理屈で、神などいない、いたら、おかしい、という悪態を吐きながら、自分は一段高所から神と世界を眺めている慢心にどっぷりつかりながら、ますます人間としての感受性を鈍らせながら、ぼんやり一生を過ごしたいようです。
 
だから、毎回、同じことをグダグダ書いて、何の努力も成長もしないのでしょう。そして、信仰者を侮辱し呪い続けるのでしょう。真面目に信じる信じないのは自由、いちゃもんは批判対象です。
 
神が、楽山の酸っぱい納得のために、全能の力を振るうことはないと思います。救いは、それを必要とする人に、意味を持ちます。だから、楽山は、人格的成長がない間、宗教については、愚痴とクレームを言うことに終始するのでしょう。
 
 
神にはある種の計画があり、あえて悪をそのままにしているのだろうという推測もできるけれども、そういう場合であっても児童虐待事件などをみれば、どんな計画にしろ、その完遂のために、愛ある全能の神が小さな子供を救おうと思えば救えるのに、それを見殺しにするというのはおかしな話であるし、もしその計画の実現のためにはどうしても子供の犠牲が必要だということであるならば、そういう神は愛深き神というよりも、ホラー映画に出てくる、自分の目的のために無垢な子供の血を欲する悪魔に近いということにもなる。
 
先ず、考えることの順序が、著しく間違っています。楽山は、神を頭の中の前提にして、おのれの理想と要求を出して、これに沿わないからダメと、まるで、神相手に試験をして合否の否を与えているのです。
 
信仰者は、まず、神がいるとは思えない世界を嘆きますが、そこに、聖書から、希望の光を見出します。今は、ひどい有り様だが、この背後には、いつか、大きな世界への導きを用意した聖なる御方ががいるのだろうと思い、そして、そうでなければ、生きられない自分を、正直に捧げて信仰者となるのです。
 
そこには、つまり信仰に至るプロセスには、キリストとの縁のようなものがあります。また、この世の外に、何があるのか、意識はなくなるのか、何もないのか、だとしたら、しかし、救われるとは何か、こういった問題を、考えながら、生きていくのが信仰者です。
 
楽山のように、分からないから安直に否定するのではなく、分からないこととして、自分で決めたりせずに、自らの存在と比べて、世界の奥深さに恐れをいだきながら、神に、キリストに、希望を託して、耐えることと、待つことと、望むことと、生きることと、祈ることを、学んでゆくのです。
 
楽山は、その縁のようなものを感受することが出来ず、しかも、それを、自分ではなく、神のせいにして、不満だけを述べているわけです。楽山の、神がいるならぁ・・前提は、決して理路ではなく、自己愛性人格障害の症状となっているようです。
 
信仰が持てないなら非信仰者としての生き方もあるでしょうに、その努力を一切せずに、自分の作った神?のいない無為・安穏の沼につかって、インテリ気取りと学者気取りで視野の広いさまを見せかけ、実際は、最も見苦しい有り様となり、自己愛だけで、いい気になってバハバハ言っているのです。
 
 
またこの唯一の神からすべてははじまったのだとすると、善だけでなく悪についてもその起点は神にあったということになる。「人は神から与えられた自由をはき違えて、悪を為すようになった。これが悪の始まりである」という考え方もあるけれども、もし人が善きものとして創造され、その内には少しの悪も存在しなかったのであるならば、仮に自由を与えられても悪の犯しようはなかったはずである。悪の種を持たないものには悪は犯せるわけもない。とすると、人が自由を与えられて悪を犯したとすれば、人のなかにはもともと悪の種、悪の因が埋め込まれていたことであろうし、これは神が人を善きものとして創造したという話と矛盾する。
 
神の目的も意志も、神の秘密、神秘であります。神の秘められた意志も計画も、自分で決めつけている哀れな楽山です。楽山のように、神の原初を分からないと気が済まないのは、分かるはずの自分に酔い痴れる悪態でしかありません。その精神が、いわば、悪の起源となり、伝染してゆくのです。
 
どうして、神が、楽山のこしらえる神の理屈に付き合う必要があるでしょう。創造主以上に高いものはないのです。楽山のように、神を見下ろす視線には、いないようにしか見えないのが神であります。これによって、思い上がった者は、篩(ふるい)にかけられ、救いに向かわなくなるのです。
 
このような者は、神の恵みに与る可能性を自分で否定し拒んでいるだけの、実に、くだらないナルシストとしか言いようがありません。神が、罪の種を人に残そうが、蛇の誘惑に乗ってしまう弱さを造ろうが、人の許可も、ましてや、楽山の許可も問題にするわけがないのです。
 
善きものと言えば、自分の欲望からの完全に善きものしか思い浮かばず、どうだ、どうだと、いちゃもんの材料にする愚かで凶悪な反キリスト・反宗教・オレがオレがの教祖願望が、楽山の本性です。
 
楽山は、学者気取りで難癖をつけながら、一方では、神によってもたらされた恵みに、いっさい気づかず、人の意見をも、いっさい受け付けず、常同行為のように、同じことを繰り返して、学習と進歩を拒否しながら、超常と霊が分かるっぽい自分を、ひとかどの人物に見られたがっているのです。
 
楽山は、我欲と自己中のみで、訂正不能に完成したつもりでいる人格の末路を表しています。楽山は、勝手に、神という存在に、思考においても、情緒においても、気づくことなく一生を過ごすのでしょう。無反省なのに、人に、影響を及ぼそうとするあいだ、批判対象となります。
 
神に難癖をつけても、何も返ってこないことをよいことに、神と、問答、駆け引き、取引でもしているかのような尊大な言は、永遠の堂々巡りです。進歩のない楽山の記事は、百害あって一利なしの怠慢の退屈地獄への道です。
 
 
こういう話は、興味ない人は本当に興味ないだろうけれども、自分としてはついついあれこれ考えないではいられなくなる話題ではある。
 
楽山は、大事なことを何も考えてなどいません。考える信仰者や、考える非信仰者とは、全く違う人種です。楽山のような、自己愛からの無神論が訂正不能の前提となる者には、思考も情緒も、有意義に働くことはないのです。
 
ただ、言い張って、いい気になって、やたら、しつこく、無駄や詭弁を重ねて、自己満悦して、その実、自己破壊しか起こっていないという証拠を自ら積み重ねてゆく経過になっています。堂々巡りを選んで、進歩がなく、同じように繰り返し宗教をおとしめて、悦に入る堕地獄の人が楽山です。
 
楽山は、明けても暮れても、同じところだけを巡っています。考えたつもりでも、自己愛が思考と情緒を妨げるために、同じところだと気づかないのです。気づかない、感じない、考えない、ということだけが、積み重なってゆきます。決して真面目に相手にしてはいけない人です。
 
 
これについては多神教的な世界観を持っていた頃はさほど関心もなかったのではあるが、一神教的な世界観を知り始めたら俄然関心を持たないではいられなくなったのである。一見したところでは一神教的な世界観は多神教的な世界観と比べてシンプルで分かり易いように見えることもあるけれども、実際には案外にやっかいな世界観だなと思う。
 
世界観という概念が、楽山の宗教観なのでしょうか。人間一人の様々な問題について、不感不応で、言いたいことだけを言って、実際は、何の関心もないことが表れてきました。だから、楽山は、何も解決しない不毛の時空をうろついているだけなのです。
 
つまり、楽山は、セカイカンに酔い痴れているだけで、世界観を理解してはいないということです。何故なら、世界観を考える意味は、それが、一個人の人間にとって建設的な意味を持つ場合だけだからです。楽山が白々しく語る世界観という言葉には、ひとかけらの実感も含まれていません。
 
霊が分かるっぽいと楽山が訂正不能に思い込んだ時から、今に至るまでの、空疎で、進歩がなく、建設的な要素がないにもかかわらず、反キリストのシャロームの肩を持ったりするような、理路も無ければ人間の正常な感情も持っていない無意味な、信仰への妨害行為が続いています。
 
厄介なのは、意図的であり、気に入らないと無視することしかできず、どこまでも悪意に徹する楽山の質量のない口であります。このように、良心のない人は、何を冷静に書いたつもりでも、彼の言う霊性?の訂正不能から、妨害にしかならないのです。
 
楽山の提示する疑問は、ことごとく、いちゃもんであることが明らかになってきて、これからも、単純に、同じ繰り返しになるでしょう。それは、楽山の、今までの、受けて答えることをしない卑怯者の態度と姿勢から既に予測されてきたことです。
 
丁寧そうな言葉に騙されないでください。文脈と今までの記事の流れから、分からないことを分かったことにしないと気が済まない楽山は、人を巻き込んで混乱させる、きわめて狡猾な言論の攻撃性を持つところの、悪意の人です。
 
楽山は、例えば、読書と考えることがお好きなのですね、インテリなのですね、やさしいお人柄ですね、など、世辞を言ってくれる人か、素直に受け入れて騙されやすい人、などが現れてコメントを書いてくることを待っている生業(なりわい)なのでしょう。・・カビのように陰気臭いと思います。
 
世々にわたって、この楽山やシャロームのような、責任を負わずに自由を悪用して自己中で勝手なことを言い続ける者たちが、中身のない説法を専らとして、人の良心を破壊して、人にも社会にも世界にも、災いの種を蒔(ま)いてきたし、また、蒔いてゆくのだろうと思っています。
 
しかし、楽山が、いかなる仲間と、いかに神に疑問を呈して、人を、神否定の方向にマインドコントロールしても、命の沙汰は、私も楽山も誰も知らず、神が決めることなのです。
 
私は、楽山のように、神を否定して、逆に、神に否定されるような被造物にはなりたくないから、できる範囲で、書いています。楽山には、くれぐれも近づかないようにしてください。
 
 
楽山には、宗教と信仰を云々するための理解のベースが、論理および感性の両方において、全くと言っていいほどありません。そして、ベースがないことを、これまた、理解できずに、弁えもせずに、自己愛の衝動のようなものによって、身の毛の弥立つような詭弁と刷り込みを書いてきます。
 
楽山が信仰しないのは楽山の自由であり、楽山に対して福音伝道が不可能なのは明らかであり、神もキリストも分かっていないのだから、宗教と信仰について書かなければよいのに、楽山は、なおも、いちゃもんをつけるという陰湿な自己顕示だけは、じとじとと、じめじめと、いつまでも止めないのです。
 
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与えるから自分でしなくていい、という信条に無条件に賛同しました。この時点で、二人とも、キリスト教と信仰を語る資格はありません。
 
正常な人間には、最低限度の正常な言語能力があります。それは、人の言うことを受け取り、自分の意見と照らし合わせて、新しい意見を考えるという能力です。上の二人には、それがありません。だから、世辞でごまかして、訂正不能のままです。
 
プラスでも、マイナスでも、言った時点で、言った責任は生まれるのですが、楽山は、プラスを言い、マイナスを言ったら、はっきり言っていないから責任はない、などと、プラマイゼロだみたいなことを、平気で言っていたのです。この詭弁は、駄々っ子と同じ、小学生にも劣る低次元の言い逃れです。
 
楽山は、大人になり損なった人なのです。大人の常識的理路が発達しておらず、人間ではなく、脳の機能の大事な部分が欠損した、言うならば、人体、あるいは、ヒトに過ぎないと言ってもいいでしょう。
 
それで、楽山が、学習もしないで、本から都合のよい言葉だけを集めて、今も、一人前の大人を気取っているさまは、もはや、自らによって破壊された人格としか言いようがないのです。
 
 
怨念の潜伏

怨念の潜伏
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月24日、再録+加筆)
 
 
 
 私のライブドアブログの記事
 「神と人の未分化」に付いたシャロームのコメントを批判
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、私)
 批判再録+
 
 
シャロームであることは筆致から明らかですが、名無しの猫と名乗っている荒らしです。荒らしという本性の正体を現して、ライブドアの私のブログに、揶揄コメントを書いてきました。
 
 
1. 今も名無しの猫2020年04月08日 10:13
おはようございます!名無しの猫です。お久しぶりです!
相変わらず誰も相手にしてくれないようですね。
マグダラさんであればあるいはコメントしてくれるかもでしょうか?
 
上に「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」と揶揄しておきながら、下のほうには時候の挨拶を入れています。この極めて不適切なアンバランスに、まだ気づかないようです。シャロームという人のケダモノのような荒々しさには、気づくことを期待するのが無理のようです。
 
楽山とシャロームは、カルトの仲間ということです。自称マグダラマリアも仲間なのでしょうか。私が自称マグダラに批判記事を書いたので、そのことを書いています。仲良しカルトの根は深いのでしょう。同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 
Yahooブログ時代が懐かしいですね!
今年はことさらにきれいですが、
満開の桜がいいですね!
色とりどりの花と木々の緑も鮮やかな公園を今日も散歩します。
スポーツを楽しむ人の姿もあり、いいですね!
お元気でお過ごしください。
名無しの猫より
 
「Yahooブログ時代が懐かしいですね!」・・反キリストの親分のようなシャロームなど、私は、ちっとも懐かしくなどないのです。早く消えてください。挨拶は入れません。名無しの猫、という荒らし、実は、足掛け10年間、批判対象のシャロームです。
 
いくら、時候の挨拶、自然を愛でる文言、「お元気でお過ごしください」と書いても、上の「相変わらず誰も相手にしてくれないようですね」で、敵意は明らかなわけです。荒らしであることを隠さず「名無しの猫」と書いて、短い揶揄+挨拶のコメント、相手にする価値はありません。
 
シャロームは、例えば、アドラー心理学が人間をどうしようもない自己中に変える、ということの中心的な要素を持っています。また、在日らしいシャロームは、日本人を嫌韓に変えてゆく典型的な要素を持っています。
 
それは、自己中、人の言うことを聞かない、受け取って反応することが出来ない、反省しない、理路と情緒がない、思考力も理解力も共感性もない、罪悪感がない、訂正不能、平気で嘘を吐く、ありもしない事実を平気で捏造する、真摯な態度を欠片も持たない、などです。楽山も、大方、似たようなものです。
 
シャローム、楽山、易坊、自称ヨシュア、自称マグダラのマリア、この者たちは、つながっていると思っています。言ってることが、よく似てる。ひょっとしたら、アドラー心理学も?。そして、乱暴だと思われて嫌われることを避けるために、言葉だけ丁寧です。
 
共通するのは、自己中という滅びの道です。言うことが、うっすら、冷たくて、気に入らないことは無視して、刹那的に世辞だけ書いて、次には気づかない人をだましてゆく、という特徴です。社交の世辞レベルで、既に、心を侵してきます。
 
 
 
 楽山の悪意のリツイートです
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
普通なら敢えて言うまでもないことだが、信仰者は知っておいたほうが良い。相手の人格を非難するようなことをいくらしようが、あなたの主張の正しさを証明する上では、何の役割も果たさない。あなたの主張の正しさを示したければ、行うべきことはただ一つ、それを支持する客観的根拠を提出することだ。
午後7:21 · 2021年4月12日·twittbot.net
 
楽山は、自分で言えなくなると、他者の言うことを利用するという卑怯者の典型です。前にも書いたことですが、楽山は、学習しないので、何の進歩もなく、また、他者を悪用しています。人格が、病的で、虚言、妄想、無反省、無責任、であるゆえに、その口で何か言えば、迷惑にしかなりません。
 
その迷惑を、指摘して、批判しなければいけません。本人を変えることは不可能だと諦めています。楽山に近づいて、ひどい目に遭わないように、関わらないように、相手にしないように、・・などを、広く伝えることは必要です。
 
人の客観などで、神を扱うことは出来ません。つまり、神の存在も不在も、人が証明することは出来ません。証明できたら信じる必要はないのです。信仰は、証明の可否が結論となる世界ではありません。なぜか、楽山は、そのことを弁えず、理屈を言ってきます。
 
信じる信じないは、人の自由だけど、神の不在を、屁理屈で言うのは、無意味なだけでなく、曲解に基づく一種の宣伝~煽動になるでしょう。なお、こちらは、人の理屈では、神の肯定も否定も、証明不可という認識です。
 
人生の体験から、楽山やシャロームのような者、他にも、平気で人を傷つけようとする者に出会ったからです。必要だから、信じているのです。繰り返しますが、人の理屈によって、神の存在も不在も証明できません。
 
人が信仰を持つのは、生きるのに必要だからであって、証明されたからでも、客観的根拠があるからでもないのです。
 
無神論が論として成り立つと思っている楽山には分からないところの、共感の話に対して、言い換えれば、信仰について、即ち、キリストを好きになることに対して、いちいち、悪意に満ちた屁理屈で否定の誘導をしかける楽山は、いつまでたっても、変わることはないのでしょう。
 
その都度、屁理屈の詭弁だと批判して警戒を呼びかけるしかありません。楽山は、迷惑で、有害で、対話の成り立たない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山の書いてくることが、今まで、その根拠になってきたし、これからも証拠になってゆくでしょう。
 
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
  あきらめのふち
 
いずれ
あきらめなければならない
ことは あり
ときは くる
 
こころのこりは ないか
やりのこしたことは ないか
たしかめることは むずかしいけれど
あらゆる
あとを ひくもの
ひっかかるものを さがして
あきらめの ふちで
おもいのこしたもの みつけたら
たとえ すこしでも
のこった ちから
おいてしまって いいのですか
それだけ きいておきたいと おもうのです
 
ちから つきた と
あきらめても
いのちは のこる
はしるのを やめても
あゆみは つづく
いのちの きえゆく ところ
たった いちどだけの
たった ひとつの
さくひんにむかって
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」「恥ずかしながら」「でしょうかね」・・こういう言い回しを、ボンヤリ言語と呼んでいます。反省しないのが「人間の性」だと言っています。もしそうなら、世界はとっくに滅びているでしょう。いつも、成り立たないことを平気で言ってくる楽山です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  うそのまま3
 
 ありのままの自分でいること
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2021-03-27
 楽山日記(LD)・・を改めて批判。
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、我を張ってくるものです。不感不応の症状が、ありのままなら、どれほど現実において有害かということです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、のぼせ上がります。今までの3年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は恥ずかしさを感じないのだろうか・・ということに驚くのです。
 
仏様の心が分かるっぽい?と言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく自己中心の醜態、楽山は、見た目の文章より、はるかに汚辱の作為に満ちています。
 
楽山は、アンチカルトではありません。霊が分かるっぽい?自覚の、楽山こそが、カルト教祖願望を持っていると判断しています。カルト被害者のふりをしていますが、楽山の言は、嘘と詭弁で出来ていて、どう見ても害毒でしかありません。
 
 
最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。
このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」
 
嘘吐きが、ありのままでいるのだそうです。楽山は、意地の悪い快楽刺激にしか反応できない人です。そして、人を傷つけても、疲れさせても、迷惑をかけても、悔いることがありません。罪悪感がないからです。楽山のありのままは、詐欺師のそれでしかないのです。
 
嘘吐きをやめない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとすることが、真実に生きることなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。反省しない楽山の、ありのままは、偽善であり、三文芝居であり、狂気であり、犯罪であり、極悪非道であります。
 
また、嘘を吐いています。「道徳的な詭弁や強弁」というのは、古い形式的な道徳を皮肉った言葉なのでしょう。楽山は、非道徳的で詭弁屋であり偽善者です。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも姑息的で無責任な楽山の引用なのです。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念して、人をだますことのようです。楽山の本能だから、良しとするのでしょう。このような「解放」?は、他者を犠牲にする凶悪につながります。罪悪感の無い楽山だから悦ぶのです。
 
偽牧師シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだん、言い張りから、ケダモノの遠吠えになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 
 
ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。
私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの? 
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」
 
楽山の、小説を悪用した悪意の逆説です。現実の実態がそうだと言っているのに、既に、ケダモノなのでしょうか、思考も情緒も意志もない雪という自然現象をお伽噺の因果に喩えている小説のセリフを、逆というだけで気持ちがいいのでしょうか、経過と結果の逆説に単純反応しています。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、人間としての基本的な節操・分別さえも持っていないので、他者の良心を、壊して、傷つけてゆきます。それが楽しいと言うのでしょうか。
 
楽山は、信じることは裏切りだ、積むことは崩れることだ、降るのは溶けることだ、だから、自分が悪を働くのは善だ、正しいとか正しくないとか無いんだ、裏切りがなぜいけないんだ・・とでも言いたいのでしょうか。逆説の悪用です。表現というものを全く知らない楽山の臭い臭い詭弁です。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人ならば、小説の文学的逆説の価値を認めても、こういう楽山のような、小説の文言を悪用して、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような詭弁には、同意しないはずです。
 
 
恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、
 
楽山は、情緒ではなく、快楽原則で判断しているだけです。なんでもかんでも、自分に都合がよければ拾ってくる作業を読書と呼んでいるのです。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れてきました。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。堅苦しくない自分、反封建という前提で、婉曲的に、見苦しい自己正当化を謀ろうとしています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は悪意の産物であり、善意の知性に見せかける悪魔性の罠(わな)であります。
 
 
宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。
 
楽山が「宗教に凝る」というのは、オカルト趣味や超常心霊オタクになったということです。人を操りたいという支配欲です。しかも、努力や学習をせずに偉くなりたいという怠惰な欲望であります。人間の真実追求を考える宗教と信仰とは、真逆であります。
 
楽山の基準は、自己中心で、他者を省みないところにあります。楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。むしろ、教祖願望でマインドコントロールしてゆくのです。
 
 
でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。
 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、無神教カルト宣伝者として、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山の生業(なりわい)です。
 
楽山の 「生来の情緒」は恐ろしいものがあると感じています。曲がった知性の総てを自己正当化だけに費やして、反省も学習もせず、都合のよい文言を漁っては、著者の名前で、自らの正当性を刷り込むなどは、「素直」などではなく、鬼畜に近いものを感じます。
 
また、ネットでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで、教祖願望の詭弁屋で人間離れしたことばかり書いている楽山の、どこに取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、嘘っぱちの霊感の優越意識を満足させたいだけです。
 
楽山の変わらぬ性質として表れてきたのが、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することも出来ないでしょうし、さらに、だらだらと書いてくることさえ、しないはずだからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは逆であって、むしろ対極にあるもので、真っ向から、何の罪悪感もなく、自分はこんなに謙虚だ・・と見せかけるための、白々しい芝居なのです。楽山は、邪悪な衝動に素直に支配されている病魔なのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、自分は整った人間だと自慢したいだけなのです。謙虚さとは対極にある詭弁です。
 
楽山は、ずっと、不感不応の情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。楽山は、宗教と信仰の価値を、全く知りません。そういう、自我の欲望しか持っていない心性ですから、正常な情緒ではないと思います。あるのは、イド的欲求だけでしょう。
 
 
こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。
 
「信仰を捨てることで真の信仰を得る」・・楽山は何も得ていません。ますます、悪くなってゆきます。それに、楽山は、信仰を得たこともないのです。理路がデタラメなので、息をするように嘘を吐く因業または生業(なりわい)となっているのでしょう。
 
楽山は、我執だけの妄想家で、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、一度も無かったと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊が分かるっぽい?という自慢からの自己顕示欲に過ぎません。
 
それに、キリスト信仰は、規範や道徳に合致させる教条主義を行為義認と呼んで否定して生まれてきたものです。そのことを、旧勢力に殺される路程で、明らかにしたのはキリストご自身であります。いつものように、楽山の、宗教に対する無知が表れています。
 
楽山の宗教理解・信仰理解は、超常ホラーアニメを見た子供の感想のように、極めて幼稚であることが表れてきました。楽山は、娯楽の視野と、真実の追求を、区別できない人です。しかも、もはや、訂正不能のようです。学ぶことなく、言い張り続けるのは、とても醜い自己中カルト~オカルトです。
 
 
自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。
 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を全て除いてしまったら、楽山のような、極めて我儘で傍迷惑なケダモノになるということです。「ありのまま」の悪用の詭弁です。楽山において、ありのままは、自然体ではなく、我欲のみ、すなわち、嘘吐きのままです。
 
「ねばならぬ」という当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、自分勝手に生きて、真実を否定しています。努力したくない怠け者が結果だけを求めています。
 
楽山は「ねばならぬ」が宗教・信仰だと言いたいようです。型にはまるような印象を吹き込もうとしています。楽山は、別の大切な「でありたい」という希望のほうに感受性がないからでしょうか。宗教は、枠ではなく、根本的な存在を問うものです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。大嘘です。欲望と衝動のままに生きて、節操も弁えもありません。
 
「ありのまま」「人それぞれ」「自分を貫く」などは、楽山が、自己中正当化のために、しばしば使う詭弁です。他者を気にしたりなど、余計な心配事からのストレスを避けることであり、自分勝手を肯定する言葉ではありません。楽山は、こういう詭弁を何度も使ってくるので警戒してください。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。小説というフィクションにおける反発~逆説という表現を、読み取れず、逆に、真に受けて悦ぶ楽山のトンデモ詭弁です。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山が、自分では何も言えないものだから、またしても、他者のツイートを引用して、拡大解釈で曲解して、自己正当化に励んでいるようです。誰が何と言おうと好きなことをしておればよいと自分に言い聞かせ念じる暮らしなのでしょうか。人の口を、どこまでも、悪用する楽山です。
 
楽山にとって、人生とは、嫌なことを無視して、どんなに人が思おうとと、好きにやっていることが一人前に過ごしたことになると思っているのでしょう。楽山は、今までの自己中を続けるぞ・・とばかり、これからも自分だけを愛し続けるために字面だけ都合のよいツイートを引用しています。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
·7時間
幸せになる1番簡単な方法は時間の使い方を見直す事だ。嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ。例えば、無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する。ウジウジ悩む代わりに運動して心身共にリフレッシュする。これだけで超幸せになれる。
午後7:10 · 2021年3月25日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1375027275628830723
 
「嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ」・・楽山は、自分の好きなことだけしていようと思っているようです。しかし、そこに、他者を巻き込んで、平気で、迷惑や傷をもたらすならば、とうてい許されるはずはありません。
 
楽山のような病的ナルシストは、こういう発言を、自分の好きなようにしてよい、それが自由だからと、自己中から妄想的に曲解して、そういう言を探しては悪用します。人間ならば持っているはずの深い思考・理解・共感がないからです。
 
何となく読んで、ふつうのつもりで同意してしまうと、じわじわと自己中が、楽山から、伝染することになります。楽山は、ふつうではありません。自己中で曲解して引用したものを、なぜ、何度も何度も、手を変え品を変え、読ませようとするのでしょう。病質によって訂正不能だからです。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の見方で、他者の口を使って、これ、もっともでしょう、当たり前に正しいじゃないですかぁ・・という感じで、自己満悦して、ときに柔和に、丁寧語で、妄想を刷り込もうとしてくる人です。
 
それにしても、詭弁が成り立たないと、別の詭弁を出してくる、しかも、他者の言を勝手に解釈してのことだから、どこまでも、精神の低劣と貧困と狡猾さだけが伝わることになります。
 
「無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する」・・この言が、成り立つのは、大人として、責任を弁えて行動する人の場合です。節操のない楽山のような病質者では、無反省・無責任の体質によって、趣味、読書、創作、いずれも著しく偏ってゆきます。
 
趣味に独りで没頭して、誰にも迷惑をかけないなら、自由です。しかし、もしそうなら、何も書かず、公開せず、自己中が表れるリツイートもしないはずです。今までの、自己顕示欲で、恣意的に、他者を引用して書いて、公開する必要など、全くないはずです。
 
どうしても楽山は自己正当化しないと気が済まないから、都合のよい文言を、他者の言に求めて、出してくるのです。リフレッシュによる気分転換と、逃避は違います。不必要に逃避することは、無視と同じです。その結果に、目をつぶれば、悪意と病質が沈殿して蓄積されてゆくだけです。
 
人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言う、これが、楽山の生き方です。今まで、楽山が、ずっと、やってきたことです。リフレッシュではなく、楽山という自己中が、無視を続けて、後は門を閉ざした自閉から、他者無視から、書いたことを、わざわざ公開してくるのは、我執の害毒です。
 
過去の問題を反省しないまま、無視して、自己愛によって、ふつうに過ごしているつもりでいると、結局、また、活動するたびに同じ経過を辿り、同じ害を与え、地獄だけが深くなってゆきます。それが、いつの日か、具現化して報いとなるのでしょう。
 
人間は、学習することで成長します。学習するために、不完全な自分を意識し、自分に非があれば反省すして、改めて、成長するのです。その姿勢が、楽山には全く見られません。リフレッシュどころか、自己中再固定反復、それが、楽山の、繰り返される閉鎖エコーの世界なのです。
 
問題を無視して自閉することで、リフレッシュされるものは何もありません。フレッシュなものは何も生まれません。自己中→自閉→無視・・ここには、また同じように、自己愛で物を言う楽山が表れるだけなのです。どんどん醜くなり、衝動的に多量の中傷記事を書くに至っています。
 
それこそ、嘘を、嘘のままを保存し、嘘のままにして、そのうち、また、書き始めたら、嘘を吐き始めて、今までと同じように、迷惑をかけ、呆れさせ、誰かを害するだけなのです。楽山自身の心のエコードームでは、好きよ、好きよ、・・と、全方向から、聞こえているのでしょうか・・
 
 
詭弁の醜態

詭弁の醜態
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月13日、再録+加筆)
 
 
 
  傷つけて
 
古びてゆく
時間がたてば置かれているものはみな
命があることを
いや命がないことさえ
考えずに触っていた
道端や公園や街並みに
並んでいる遊びのような
色と形をもちながら
触れてゆく手は多くても
注がれる目は逸れていたから
 
人の手に触れたものは
かつて雨や風に耐えてきたもの
しかし人の手には耐えられない
敏感で弱いものたちだったかもしれない
今そこここに
相変わらずの姿で立っているけど
眼に見えない傷にいたみつづける
傷を見ない目に見られて
 
 
  あのよのはな
 
きのうは まんかい
きょうは あめ
あめのなかで
どんな ちりかたをしている
まだ しがみついているか
 
あしたの そらのしたで
あうことがあっても
はなびらを くべつできない
 
いろんな ひとが
いろんな あのよを
おしえようとするけれど
たしかなことは
この ちまたは
いちど で
この ちまたでは
もう あえない ひとがいる
 
はなは らいねんも さく
ひとは あやまちを くりかえす
いつでも あえる みぢかさ
みじかすぎて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘の人生を、嘘のまま過ごしている楽山です。それは、いつでも避けることが出来たのですが、楽山は、嘘が大好きなのでしょう。いつまでも、いつまでも、嘘を抱きしめているようです。「人間の性」ではなく、楽山の業(ごう)なのです。それを、まだ、見せ続けるつもりなのでしょうか。
 
楽山は、いつも笑っていると思います。根底には、他者を見下し、蔑視と、インテリ気取りだけの人です。時々文章に表れます。真摯な言論など、全くする気がなく、する能力も視野も、自己愛のために、持てない人なのです。楽山は、自己顕示のためだけに、真っ当な言論を、歪曲し邪魔します。
 
 
 
 2022年04月10日
 霊能力を語る(2)棒氏の場合
  抜粋して批判。
 
引用コピペが多い記事ですが、
 
ははは。「わたしは、あなたと違って、天使を知り、霊界の仲間も知り、ただの真理知識だけでなく、智慧も持っています」という自負がすごく伝わってくる。
まあ小さくまとまるよりは、傲慢なくらいがいいのかもしれないな、若いうちなら。 
 
これは、楽山の意見なのでしょうか。とうとう「ははは」と笑って、天使、霊界、真理知識、智慧、などと超常のことを言っています。常軌を逸した豪語です。発狂、あるいは、パニックと言ってもいいくらい、ボロボロの、人をバカにする態度が全開です。
 
楽山の発言なら、無節操にパニクった有頂天の絶叫であり狂気ですが、楽山が、相手の発言を、うっかり誰のものとも区別せずに書いている可能性もあります。その場合、楽山が取り乱しているということです。「天使を知り、霊界の仲間も知り」・・とうとう、全能者?になっている楽山です
 
霊にのめり込むほど、現実に生きている人の話を聞けなくなるというのはよくあることではあるが、棒氏は大丈夫だろうか。
棒氏は自分は霊能力信仰ではないと思っているようであるが、傍から見ると、けっこうな霊能マニアになっているといえるだろう。ご注意を。
 
楽山は、他者の心配をするより、自分の心配をするべきです。「霊にのめり込」んでいるのは、楽山なのです。ゆえに、「現実」の話を「聞けなく」なっているのも楽山であります。まさしく霊能マニアになっているのは、ずうっと、楽山なのです。「ははは」は、狂人の雄たけびでしょう。
 
霊能マニアの楽山に「ご注意を」。常識人を気取っていることも出来なくなり、今度は、霊能の極みに立って豪語しています。そういう立場に立とうとしても、楽山には、ふさわしい能力など何もなく、「ははは」は、楽山が、破裂する音でしょうか。楽山は、無節操雑言の末路を表しています。
 
 
 
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  宗教を語る軽口2
 
   「信仰は母性?」再録+
    「没後10年 遠藤周作と〈母なる神〉」加藤宗哉
 
   楽山日記(仮・倉庫)2019-10-1
    を改めて批判。
 
 
過去記事の再録+です。楽山は、性懲りもなく、前に書いた記事を、批判に答えたことは一度もないくせに、また載せてきます。改めて批判せざるを得ませんが、楽山の、こういう習癖は、自画自賛で、人の言うことを聞かないナルシシストの特徴のようです。
 
言い張って、言い張ることだけで、満悦するのでしょう。シャロームに体質が酷似しているので、成りすましを疑っています。いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。
 
『宗教と現代がわかる本 2007』(渡邊直樹責任編集)を眺めていたら、遠藤周作についての文章があったので読んでみた。江藤淳が『沈黙』に描かれたキリストについて、母性的な面が強調されて日本の母親のような存在に描かれていることを指摘したという話は知っていたけれど、「元来、キリスト教は〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが、日本へは前者の面だけが強調される形で伝達された」という見方は知らなかった。
 
キリスト教を「〈父なる神〉と〈母なる神〉の両面をあわせもつ宗教だが」と説明する短絡が、楽山の高慢なナルシシズムの特徴でしょう。父性だ、母性だ、あわせもつ、いずれとも、人は、神と違って不完全なのだから、決めつけてはいけないことです。
 
外からやって来て、信仰者でもないのにクリスチャン芝居をして、一方では、キリスト教とキリスト信仰を、自尊の分かってるつもりの思い上がりの軸から、猥雑な文章で、軽しめて、おとしめることを止めない。逆にそれが、信仰者ではない証拠となっているのが現状です。
 
いわば、楽山は、キリスト教とキリスト信仰をレイプしているようなものです。神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。ましてや、キリスト信仰を、まるで、オモチャにしているような楽山に、言えることなど何もないのです。
 
在って在るもの、すなわち、神を、楽山は、まるで、何か物ででもあるかのように軽く決めつけて済ませたいようです。楽山は、キリスト教についてもキリスト信仰についても、今までの経過から、何も知らない者です。無知で、それでも語ろうとする無恥なのです。
 
でも考えてみれば、キリスト教にはその両面があるというのはその通りのように思える。ただ日本ではマリア観音というものもあったというし、父なる神という「面だけが強調され」たというわけでもないようにも思うがどうなんだろう。
 
「考えてみれば」・・楽山は、キリスト教について、何も考えていないと思います。まるで、思いつきのような軽口だけで語ってきた楽山です。そして、ここでその根拠と言ったら、マリア観音なのです。楽山という思想家気取りは、軽く軽く、仏教まで軽口の巻き添えにするつもりでしょうか。
 
それはさておき、上の考え方からすると遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されないということになりそうではある。自分は遠藤周作のキリストに共感するところがあるのだが、それは遠藤周作によって日本人に合うように仕立て直しされたキリスト教であるからある意味当然であり、そういうキリストに共感したとしても実際のキリスト教のキリストを知ったことにはならないだろうし、遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと思ったりもしていたのではあるが、これはそれほど気にしなくてもよいということになるのかもしれぬ。
 
さておくのだそうです。なのに、図々しく、「遠藤周作の語るキリストは必ずしも否定されない」という部分肯定ですが、何も信じていない楽山は、その否定肯定を、どのように、考えたのでしょう。楽山の学者気取りの書き方には、理路も根拠もありません。
 
そして、遠藤周作が、キリスト教を日本人に合うように仕立て直した、みたいなことを言っています。これは、同氏に対する侮辱になるでしょう。楽山は、いかなる納得にも至らない、妄想的先入観しか持っていないのに、批判を無視して、くどくどと信仰を語り続けています。
 
「遠藤周作のキリスト像を批判するクリスチャンからしたら遠藤周作のキリストに共感することはむしろキリストから遠ざかることにさえなりそうだと・・・それほど気にしなくてもよい・・かもしれぬ」・・この気持ち悪い婉曲の筆致は。当たり障りが嫌なら、書くなということです。
 
こういう筆致では、反論しても、暖簾に腕押し、という感じで、答えることも今までなかったわけだし、楽山の文章は、何も得るものがなく、気取りだけの、しみったれた文章になり、実に、思考と読書の意欲を減退させるものだと思います。感動とは正反対の、まがい物の災いです。
 
また著者によれば、『日本人と母 文化としての母の観念についての研究』(山村賢明著)では、母親は「つねに、堪え忍び、あるいは家族に尽くす存在であり、子供の側から見れば〈受難者〉といった感じが強い」とされているとしており、それは「母親はあれほど苦労したのに自分は何もしてやれなかったという罪悪感」にもつながり、その辺りのことはキリストへの気持ちと、母親への気持ちは重なり得るのではないかとのことである。
 
人間の母性について、本を読んだからと、そこから、神の性別を語ろうとするのは、浅薄で愚かであり、ましてや、信じてもいないのだから、まるで深みがなく、読んでみても、時間を奪い、疲労させるだけであり、迷惑以外の何物でもないのです。楽山は、自己顕示欲の亡者のように思われます。
 
これは少し分かるようにも思う。母親へのすまないという気持ちは何らの前提なしに分かるし、キリストの場合もその教義から想像すれば自分のせいで罪無くして裁かれたとも言えるようであるし、いたたまれない心地はするので。
 
まるで聖書が分かっていない人の書き方と考え方です。聖書の目的は、母親へのすまない、でしょうか。何を考えているのでしょう。親子の情は、むしろ、キリストの使命からすれば、はっきり分離するべきことだと思います。著しく的を外して、ゴシップを語る楽山です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
12:46
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
12:47
それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48-50
イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
 (マタイ12:46-50、新約聖書)
 
キリストは、個人的な親兄弟と、信仰の親兄弟は、はっきり分けていたのですし、そのことが必要な立場だったのです。全く、楽山の貧弱な話には、あきれることばかりです。楽山は、何か、母親への須磨に気持ちでもあるのでしょうか。およそ、誰にも、すまないとは思わない楽山ですが。
 
さらに著者は、遠藤周作のキリストは無力な同伴者であって「奇跡は何も起こせず、無力だが、ただ黙って傍らに寄り添う」存在としており、これには「無力だがすべてを赦し、じっと子供を抱きしめる母親の姿がかさなる」としている。
 
楽山の本音として、キリストを、奇跡も起こせない無力へと、おとしめたいのでしょう。そして、キリストを何か、犠牲になった人として、母親的な、やさしい慈愛の人を持ち出して、か弱い無力なキリストとキリスト教にしたいのでしょう。
 
全く、楽山は、人間の不完全や罪の性質を真剣に考えようともせず、史実を解明したかのような思い上がりから、信仰を好きなだけ捻じ曲げてゆく意図があるのでしょう。自己愛性人格障害は、分かっているという前提しか持っていない、という表れでしょう。
 
楽山の書いたものを、私が読むのは、参考としてではなく、どれほど、楽山が、いい加減な文章を書く人であるかという情報を、広く知らせ拡散したい、ということ以上の目的はありません。
 
ここも分かるように思う。自分はここから連想するのはミケランジェロのピエタだけども、こうしてみるとたしかにキリストと母親の姿は重なるようではある。でもそうすると自分としては、ピエタをじっと見ているとだんだんにキリストと母親(マリア様)が重なり、母性の権化のようなマリア様こそがキリストそのものという感じがしてきて、無意識のうちに祈るときにはキリストにではなく、マリア様に向けて祈りたい心持ちになってしまうのだから我ながらおかしなものではある。
 
(ネットより)
ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF
 
キリストは救い主、マリアは聖母ですが、楽山は、キリスト信仰を捻じ曲げるために、共感を装って、マリアがキリストで、祈りたいなどと言っています。こういう楽山には、表面的な意味を読むのではなく、今までの嘘と詭弁という偽善を前提としなければいけません。
 
今までの経過も合わせると、楽山は、浅はかな感傷で鑑賞する態度しか持ち合わせていないと思います。それで、このような祈りという言葉をか書いてくるのは、信仰を、真剣に考えるということをバカにしている者の態度であり、神を知らず、キリストを知らない者だということです。
 
まるで、かっこつけるみたいに、キリスト教文化を知っているかのように語る態度と、さらに、恐れを知らずにズカズカと信仰の話を突き付けてくる無思慮と無分別は、信仰者でないのはもちろんのこと、求道者でもないことを示しています。
 
楽山は、結論だけで、求める道などはないのです。キリスト教文化をネタに自己顕示したいだけだとバレてしまうのです。実に、傍迷惑な部外者、そして、宗教を上から見て味見したかのような見かけ倒しのインテリ気取りと言ってよいでしょう。
 
三浦綾子は、「祈る対象は、この世を造り給うた全能の神でなければならない」(「天の梯子」第一章祈りの姿)ときっぱり言い切っているし、理屈から言えば、キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども、自分の場合は根が多神教体質にできているせいかどうか祈ろうとするときには、全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもするし、むしろそれこそが一番自然な流れだったりもするわけであり、もしそれを変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり、そういう状態は到底長続きさせることは無理なのだからしょうがない。こうしてみるとやはり外国の宗教を理解し、実感として分かるようになり、元から自分の中にあったもののように馴染み切るというのは本当に難しいものだと思う。
 
楽山は「キリスト教ではそれが正しいのだろうとは思うのだけども」と言いながら、「自分の場合は根が多神教体質にできているせいか」などとネチネチ書くのです。キリスト教と多神教は、両立することはありません。楽山の読書は、物見遊山と、ひやかしの社寺参拝のようなものです。
 
つまり、楽山は、茶化しているかのように、不真面目に宗教を捉えて、どうでもいいキリスト教へと誘導してゆく企みの偽善者なのです。さらに楽山は「全能の神とキリストはもちろん、マリア様を心に描き、そこに向けて祈ってしまいもする」と言っています。
 
キリスト教を婉曲的に否定しておきながら、かつ、多神教体質と言いながら、神聖に対して祈る、などと言うことが成り立つこともないのです。嘘っぱちであること明らかです。こういうところから、楽山の悪意が明らかになってきました。
 
悪意をもって、キリスト教を揶揄する者は、キリスト信仰の節操も何もお構いなく、まともを装って、刷り込んでくるようです。楽山は悪意の宗教家気取りそして批評家気取りとしか言えません。さらに、人の言うことには、何一つ答えることの出来ない劣悪の卑怯者なのです。
 
さらに、酷い詭弁として、楽山は「変えようとするならば自分の意志の力で自分の中の自然な流れに逆らおうと始終力んでいなければならなくなり」と言って、人間が変わることが、始終力んでいることだと言っています。
 
これこそ、宗教も信仰も、まるで分かっていない者の言であり、いい加減な思考で、宗教をもてあそんでいる自己中の力みであります。信仰には、力みは、在りません。なんて、いい加減で、悪意に満ちた低劣な心得で、冒涜の悪意の反キリストの限りを尽くそうとしていることでしょう。
 
今まで、批判されてきたにもかかわらず、それを無視して、受け取ることなく、反論も弁明も出来ないまま、また、同じ記事を出してくることからは、自己顕示欲と意地で、自説を通そうと言う執拗なキリスト信仰への破壊活動としか受け取れないものであります。
 
 
神の性別は、誰も確定できるものではありません。いくら論じても結論は出ませんから、個人によって、イメージにも若干の差は出てくるでしょう。そして、信仰者は、そのことも神はご存知だと、考えるべきでしょう。
 
楽山は、聖書から何も読み取っていません。だから、本を読んだ、批判するなら本を読んでからせよ、などという煩わしいクレームをつけてきたりしますが、読書自慢の自己顕示に過ぎません。聖書を学んでいない者が、学ぼうとさえしないのが楽山です。
 
楽山が、学者や小説家の書いたキリスト教の本を、いくら読んでも、川に落としたティッシュの行方を、ああでもないこうでもないと考えるようなものです。体験も思考も感性も浅すぎる中学生が、自慢したいがために、高慢で軽率な能天気で、ゲームをしているようなものにしかなりません。
 
キリストとマリアの関係においては、マリアの神への従順と、キリストの人間への共感と愛が、父なる神による救いにつながる神の計画の主軸となっています。マリアも、そして誰よりも、キリストも、溢れるばかりの温かい人間性を持っていました。
 
救い主キリストについてはもちろん、マリアについても、大事なことは、私たちに何を与えたかであります。そのことに全く感受できない者が、父性だ母性だとか、無力だとか、自分の生い立ちを悩むことなく、拙劣な文章に書いてくるのは、退屈を超えて、迷惑を超えて、有害なのです。
 
以上のように、信じる気もない者が、なんだか評論家気取りで、読書自慢のために、言葉と理屈と浅い情緒で、知ったかぶりをして賢者を装うのは、見苦しいかぎりです。バレてもバレても、続ける楽山の精神病理が明らかになるだけだと思います。
 
神について、父性か母性かという印象は、信仰者によっては、あって不思議はありませんが、全知全能・絶対完全・永遠不変という神の性質は、性別を、はるかに超えていると言わざるを得ないのです。楽山は、人物を考えるのと同じように神を考える傲慢不遜を表しているに過ぎません。
 
 
神の性別を語る愚

神の性別を語る愚
 
 
(2019年12月15日)
(2021年12月17日、再録+)
 
 
 
  キリストの神格と人格
 
父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
 
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
 
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました
 
 
  母を見るとき
 
車のハンドルを握りながら
実家から遠く離れた町で
知っている人など誰もいない街角の
歩道を行く高齢の女性に
母の後ろ姿を見てしまうとき
ひととき失われる場所と時間は
母の曲がった背中のように
あまりにも脆(もろ)く
儚(はかな)く過ぎて
あとには彼方(かなた)に残したまま
見捨ててきたかのような
小さな水たまりが揺らいでいる
 
 
  肉体
 
目覚めると顔に
ゴムのような棒が触れる
左手で掴(つか)み上げると
紛れもなく右腕だ
運動も感覚も麻痺している
しばらく伸ばしておけば回復するのだが
腕枕・寝返り・捻れ・圧迫?
よほど脆弱らしい神経
よほど相性が悪いらしい
骨格と神経
脆弱なのに
相性が悪いのに
長いこと世話になっている
肉体は今も
髪も髭(ひげ)も爪も
伸びては切り
伸びては切り
伸び切った
と切れかかるものを受け止める
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「人間の性」という人間共通のものではなく、楽山は、自己愛性人格障害による欠陥からの罪と偽善です。楽山の存在は、「自分もそんな風」ではなく、反省せず、学習せず、成長しないゆえに、楽山に起こっている特殊な、自他を傷つけるところの、残酷な災いであります。
 
楽山は、こういうときの常套手段として、芸能などのお気楽リツイートを重ねて、ごまかしています。楽山には、まともな信仰も思想もありません。快楽原則と、教祖願望だけで、地上を渡ってきた、これからも続けるつもりでしょう。
 
 
箴言5章、旧約聖書
人の歩む道は主の御目の前にある。
その道を主はすべて計っておられる。
主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり
自分の罪の綱が彼を捕える。
諭しを受け入れることもなく
重なる愚行に狂ったまま、死ぬであろう。
 
 (箴言、口語訳)
5:21
人の道は主の目の前にあり、
主はすべて、その行いを見守られる。
5:22
悪しき者は自分のとがに捕えられ、
自分の罪のなわにつながれる。
5:23
彼は、教訓がないために死に、
その愚かさの大きいことによって滅びる。
 (箴言5:21-23、旧約聖書)
 
 
 
 楽山と思われる "taka" のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
ありがとう警察、さようなら平塚正幸、そして国民主権党
#平塚正幸
引用ツイート
前橋ゆり 国民主権党
@yukun102030
 · 14時間
逮捕されそう...
 」
平塚正幸(@c:hiratsukamasayuki)さんのキャス https://twitcasting.tv/c:hiratsukamasayuki/movie/713553453
 」
午前8:57 · 2021年12月16日·Twitter for Android
 
楽山は、既に問題やトラブル山積の人と集団よりも、今は潜伏して正義の評論家気取りで、丁寧語で語る分だけ、本性において、偽善であり、ペテン師であり、自己愛性人格障害であり、凶悪であります。「さようなら」楽山と言える日が、一日も早く来ること望みます。
 
 
 
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 「排泄の口、誰の前で幼子?」2
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけですが、
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられるでしょう。
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえあります。
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたいです。
 
人間はおかしいところがいっぱい、
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的、
など、いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていないと思います。
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しいと思います。
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるでしょう。
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業です。
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいます。
 
意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうるのです。
 
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢であります。
そしてそれは正直さに他なりません。
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ません。
だから悔い改めの祈りがあるのです。
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになります。
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはなりません。
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者であります。
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言うでしょう。
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではありません。
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけません。
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよいでしょう。
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのです。
 
そのような説教者を裸にしなければなりません。
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけません。
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけません。
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいません。
 
また、神に対する従順は人には確定できません。
 
ゆえに「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えないでしょう。
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様であります。
 
 
自分を含めて、人のもとにあれば、人を恐れるが、
 
神のもとにあれば、神のみを恐れる。
 
 
心貧しさ = 先入観のないこと  = 柔軟で成長可能 = 幼子  =  敬虔
 
精神の貧困= 先入観しかないこと = 固着と成長不能 = 偽善者 = 傲慢
 
 
固定の災い

固定の災い
 
 
(2011年10月10日)
(2019年04月27日、修正)
(2020年08月28日、修正再録)
(2021年09月08日、再録+加筆)
 
幼子(おさなご)
巷(ちまた)
 
 
 
  ふくらむ陰と影
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
 
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らにまつわる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊した
虚脱の揺籃に
身を委ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘びて怠い
漠(ばく)
粉々に崩れ落ちた楼閣
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
 
(昔々の作)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
Pさんの書き方だと、一般のアッパレな「高校生」だと思えるけど、実際は占いビジネスで稼ごうとしたり、HS支部長からもう関わりたくないと言われてる特殊な人で、手放しで褒めるのは無理なんだよなあ。
Pさんは、印象操作のために重要な事実は伏せて報道するという悪徳マスコミと同じやり方してる。
午前7:15 · 2021年9月7日
 
楽山が、印象操作を批判しています。今まで、人それぞれ、自分を貫く、個人の自由、などといった広い意味の言葉で、まともだと印象を吹き込もうとしてきたのは、楽山であります。この3つ、いずれも、公共の福祉に反しない範囲、迷惑かけない範囲、という条件が付くわけです。
 
このように、公共の害として、詭弁と印象操作によって、自己正当化を企んできた楽山に、他者の悪徳を批判する資格はないと思います。楽山は、恐らく、自分のしたことを記憶できないのだろうと思いますが、ならば、なおさら、平気で書いてはいけないことがあるはずです。
 
楽山は、若いのかどうか知りませんが、大人でしょう。決して、アッパレなどではなく、人のことを言える立場も器量もないと思います。褒めるどころか、今まで、やってきたのは、詭弁、嘘、印象操作、無視、無反省、無責任、・・どこまでも、追及されてしかるべき人です。
 
振り返って、私は・・と言えば、特に優れたところもなく、褒められたものではありませんが、そういう自分の有り様を、少なくとも、ある程度、折に触れて内省もしています。そういう自分を弁えてさえおれば、どこまでもハナタカな楽山に対して、批判を遠慮する必要はないと思っています。
 
 
 
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