ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:印象操作

 
  汚い読書2
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。
 
しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。
 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。それは、宗教でも信仰でもなく、超常の魔法を意味しています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解によるものではないと思います。
 
まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、
 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかということになるのです。
 
(ネットより)
【超自然主義】 の解説
《supernaturalism》哲学・宗教学などで、理性では説明のつかない事象の存在を認め、これを超自然的な力や神の啓示・奇跡などによって説明しようとする立場。
 
上のような言い方で、現実離れした超自然の世界を夢想して、そこから、他者を愚かしいと言うことが、楽山には快感なのでしょうか。楽山は、スーパーナチュラルになりたいのでしょうか、既に、なっていると言いたいのでしょうか。実に、アンナチュラルで、愚かしいことです。
 
後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。
 
楽山の筆致は、いつものように、曖昧なボンヤリ言語ですから、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。
 
そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい?自覚の楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。楽山は、殆ど、超常奇跡信仰の天国みたいな話を作っています。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、実に幼稚な空想と言うべき誤謬にしてしまいました。つまり、子供の発達心理学の話を捻じ曲げて、心霊の話として読むという酷い誤読であります。楽山は無理解ということの根拠であります。
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。無神経で成り立たない理屈遊びです。
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるためには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、自分を超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界が存在する可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の思い込み超能力を指示も支持もしてなどいないのです。こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。何も実のあることを語れない楽山です。
 
また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。
 
楽山は、「判然としない」と言いながら、心霊主義的に「おおよその意味は了解できそう」と言っています。つまり、楽山が理解と言うとき、理解は、心霊のように、判然としていないことになります。
 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度によって、一定の位置を占めるだけなのです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、カルト精神に、学者の名前まで利用して巻き込もうとしているのでしょうか。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えているようなものです。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。
 
とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。
 
「即日可能というわけではないだろうが」「誰にでも可能のはず」と言って、いつかは自分も出来る、誰でもできる、と言っています。空約束を語って恥ずかしくないのでしょうか。
 
直ぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい超能力者?であることを、やんわり、ボンヤリと、しかも、強調しているのです。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。悪霊になるからです。
 
楽山は、なんとか、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうる、ということを暗示したいようだが、今まで、ずっと、鋭く深い洞察や共感の欠片も見られない楽山の文章からは、もはや、すべて、思い上がりの思い込みに過ぎないことは明らかであり、一切は、無意味な作り話に過ぎないと分かる記事になっています。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも悪用する楽山が表れているだけです。
 
最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、
 
実在界・理想世界に興味と関心と思い込みが薄いならば、こういう厚かましく超常を語る記事は書かないはずなのです。
 
つまり、真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を飾るためだけに書いてきたとしか思えないものです。ナルシシストの自己顕示欲と、それに全く値しない楽山の実態と実体だけが浮き彫りになってきた経過です。
 
やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。
 
文脈から、超自然主義の超常の理想世界がなつかしいのだそうです。昔そこに自分はいた、という、今度は、昔話でも捏造したいのでしょうか。
 
楽山の霊が分かるっぽい?自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 
結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、
 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、中にあるという言い方をして、一般的な事柄に見せかけて、自分を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使うのが、楽山の詭弁屋たるゆえんなのです。
 
ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになる、という妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びることを夢見ているなら、寒気のすることです。霊能というものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 
それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。楽山が自然体と言っているのは、周りが何と言おうと無視して平気でいることでしょう。つまり、無反応で一方的な凝固体です。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、何を言いたいのか分からなかったり、言うまでもない当たり前のことであったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、作為的にバカ丁寧であったり、わざとらしい芝居がかったものであったり、奇奇怪怪なものだらけです。
 
自然というより、不自然さらに不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりで、載せてくるのです。
 
楽山は、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には、大方、負の、心霊と超常には、大方、正の、印象の刷り込みをしてきました。それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。体質的な、精神の異常であり、病質であり、虚妄の泥の風呂に浸かっているようなものです。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、奇跡の霊力が降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てる喩えだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して、印象操作をして、自己顕示してくる楽山に対しては、やはり、自己愛性人格障害、という見方をせざるを得ないのかもしれません。シャロームに対する判断と極めて近い判断になりますから、体質的なものか、それとも、悪意ある企みか、いすれであるかにかかわらず、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に似合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、黙ることしかありません。しかし、楽山は、既に2年半、黙らないようですから、逐一、批判を貼りつけるしかないでしょう。
 
 
誰をだます気か

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(2020年02月20日)
 
 
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  楽山の的外れ
 
 『素顔の安岡正篤 わが祖父の思い出』安岡定子著
 2020年12月20日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、有名人を引用して、利用して、悪用して、自分もそうだと、自分を高めようとする、安いアピール、言い換えれば、詭弁の印象操作をしてきます。
 
前にもらった「おやさしいお人柄ですね」という社交の世辞のコメントを欲しがるからでしょう。そうして、いつも、わざわざ、楽山の低劣さとの落差を目立たせて、ひどい落差を、自ら表してしまう宿命なのでしょう。
 
本書はタイトル通り、孫の立場から家庭における安岡正篤について語ったものであり、興味深い話がたくさん紹介されている。
 
(ネットより)
安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年[1](明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は、陽明学者[注釈 1]・哲学者・思想家。
(略)
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。
(略)
戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蔣介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった[13]。
 
有名人のようですが、右翼思想家のようです。楽山が好むタイプの人物でしょう。しかし、楽山とは、まったく違って、スケールの大きな人だったようです。
 
たとえば、安岡正篤はドライフラワーを見て「この花はもう捨てなさい。枯れておるよ」(p.112)といったり、時代劇のビデオを見せられたときは「これはどの番組だい。新聞には載っておらんよ」(p.103)と首を傾げたり、娘の縁談があったときには「節子は一体どの大学に通っておったんだ」(p.151)と訊いたのだという。
正月に家族で集まった時には、「こりゃあすごい御馳走だね。食事はやっぱりみんなで食べるのが美味しいよ」(p.211)という感慨を述べ、学問については、子や孫に過干渉はしないが、「本はとにかくたくさん読みなさい。本を買うお小遣いだったら、おぢいちゃんがあげるから」(p.36)といっていたこともあったという。どれも微笑ましいエピソードばかりである。
 
思想家をテーマにして、思想を述べず、家庭的なことしか書かないというのも珍しいのではないでしょうか。「微笑ましいエピソード」と書いてあります。楽山には皆無の話題です。つまり、楽山は、このような家庭的な人になりたいという気持ちだけで、思想家の記事を書くのでしょうか。
 
安岡正篤については厳格なイメージがあるし、どのような政治的立場から見るかによって評価は大きく分かれるだろうが、本書を読む限りにおいては、実際の安岡正篤はちょっと天然なところがありつつも家族を大事にする人であり、孫にとってよいおぢいちゃんだったようだ。
 
楽山とは対照的な人物のようです。楽山は、厳格ではなく曖昧なことしか言えず、評価は下がるばかりで、卑怯、無反省、無責任、訂正不能、他者無視、詐欺師的詭弁や、嘘吐き、自己愛性パーソナリティ障害、自己中、厚顔無恥、など、良いところが全くない楽山とは、本当に対照的です。
 
楽山は、その時その場の思いつきと出まかせで、出来の悪い文章を一方的に書いてくるだけです。スケールが小さいというより、スケールなど何も持っていないのが楽山です。
 
親族が書いた心温まる話を読んで、そのような温かい心が皆無の楽山が感想を書く?・・楽山の、どこに、そんな余裕があるのでしょう、楽山は、その必然性を、どういう効果を、期待するのでしょう。言えるのは、総て無視する無反省の楽山だから書ける、その証拠なのです。
 
それから著者の文章は、やさしい人柄を感じさせるものであって、読んでいると自然と気持ちが和んでくるものになっている。とてもよい文章だと思う。
 
やさしくない人柄の楽山は、誰かによって、和むということはないと思います。どれだけ批判されても、平気で、このような文章を書いてくるのですから、いつも、和むというより、自己の山積した問題を何も気にせずに、独り緩んでいるのです。
 
ボロクソな状況を弁えず、善後策を講じることも出来ず、へらへら笑っていられる人格なのでしょう。つまり、一見柔和に見えて、だまされていると、関われば関わるほど、不快と疲労を与える男です。だから、書くのでしょうか。カムフラージュでしょうか。無意味です。
 
つまり、引用した人物とは雲泥の差があるわけで、根底において、そのような人物に決してなれないのが楽山です。それでも、弁えもなく、今回も、有名人を引き合いに出して、自分もそのようであるという、身の程知らずの、気持ちの悪い自己アピールをしている因業なのでしょう。
 
いい気になって書いても、楽山との比較になって、スケールの違いがひどすぎて、その結果は、やさしさのおこぼれちょうだいどころではなく、やさしい人柄がいいから、などという、自己アピールの滑り方が半端でなく、楽山の愚昧さだけが際立ち、的外れもいいとこだと感じるだけです。
 
やさしい人柄と、
何を言われても、ヘラヘラだけの、無反省・無感情の白々しい、やさしさ芝居とは、
全然、違うのです。
 
楽山は、反省をしないので学習機能が成り立たず、ゆえに心の成長がなくなっています。楽山が、感想文でも何でも文章を書けば、そこには、心が無いために、物や、仕組みや、言葉面だけで、不成立の理屈を言うような世界しか表れないのです。
 
感動は心からの感動でなくなり、共感は心からの共感でなくなり、感想は心からの感想ではなくなり、理解は心からの理解でなくなります。楽山の、なごみ話を、真に受けてはいけません。

同じ、感動、感想、理解、また、反省、という言葉でも、楽山が言えば、表しているものが、全然違って、オモチャの言葉になり、うわべだけの、深みのない、おちゃらけに過ぎなくなります。
 
やさしい人柄というのも、また、あらゆる真実も、オモチャの、おちゃらけに過ぎないですから、オモチャを組み立てて、人々に見せびらかすだけの文章になるので、語ることが、良い心の実感からは遠く離れて、言えば印象がよくなるから言ってみただけの、また、みんな時々言うわけだから言ってみただけの、中身のない、つまり、嘘にまみれてゆくということです。
 
 
的外れ

的外れ
 
 
(2020年12月21日)
 
 
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