ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反キリスト

 
  福音から遠い者2
 
 
 楽山のツイッターですが
 
書くか引用しないと人生が成り立たないのでしょうか。反省はせずに。
つぶやきでしょうか、いいえ、妄想です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
キリストは、アメリカや日本にも訪れていたとすることは、モルモン経、竹内文書にも一理ありとすることになりますね。
午前7:13 · 2021年3月28日·Twitter Web App
>>
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
昔の幸福の科学は、イエス・キリストの復活とは霊的な復活だと言ってた。
なのに最近は、宇宙人の協力を得て物理的復活を遂げ、その後アメリカ大陸、さらに日本の青森へ渡ったと言うことになったそうだ。訳わからん。
午前1:10 · 2021年3月28日·Twitter for Android
<<
 
楽山は「訳わからん」というツイートを引用して、訳わからんのがキリスト教だと言いたいのでしょう。世の中には、霊が分かるっぽい?という妄想をもって、他の宗教を否定する者がいます。楽山です。つまり、自分が教祖願望に酔っているのです。
 
目に見えないあり方で、ということを、霊的、という言い方もしますが、霊的と言うことで、神秘の味を人が加えたがる傾向は、あまり良いこととは思えません。心霊は、超常であり、人間には分からない、自由に扱えない、よく知らない、という敬虔のスタンスを持つべきです。
 
さらに、楽山のような者は、キリスト教が、こんなにバカなことを言っている、あるいは、誰かに言われていると、揶揄して笑うだけです。悪意と作為で物を言う者の定めなのでしょう。聖書から、本から、世辞か笑いのネタを探している楽山です。
 
聖書を読んで、キリストを必要とする人と、笑いか妄想のネタにする人が分かれます。キリスト者であってもなくても、2つに分かれてゆきます。楽山は、後者です。笑いのネタばかり探しているのは、これほど、恵みへの感受性のないのは、人格そのものに問題があると判断しています。
 
神の存在や、キリストの教えに、疑問をいだくのは、正常です。そこから、人の生きた学習が始まり、神の導きが始まるのでしょう。神については、存在も不在も証明できないのに、どちらかを決めてものを言うのは、信仰の概念的固着から自分信仰への落とし穴です。
 
しかし、最初から、おごり高ぶり笑っている妄想家に、真実が届くのは、それこそ、ラクダが針の穴を通るくらい、無理だということです。笑えば笑うほど、怒れば怒るほど、慢心すればするほど、揶揄すればするほど、別の者に愛され、利用され、捨てられてゆくのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
 
地上に生きる人の信仰が、完全になることはありません。
完全という能力が人にはないからです。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は罪人です。正直な祈りだけが、人の側の為し得ることです。
 
救われることと、完全になることは別です。信仰の希望は、前者であって、後者ではありません。楽山は、いつも、自らを完全の立場に置いています。だから、インテリ評論家気取りになるのです。
 
ゆえに、おごり高ぶる者は、傲りを信仰し、高ぶりを信仰し、即ち、自分を信仰しているので、いかなる救いも、受け取ることがないのです。神がどうこうというよりも、人がどうこうということで、救いを受けるかどうかは、終末以前に決まってゆくものなのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
確かに隆法って変に正直なところありますよね。信者さんたちも含めて、それがおかしいことだと考えてないから、ことさらに正直じゃなくて普通にしてるだけって感じかもしれないですが、それでも結果、正直っちゃ正直。特に信者さんは基本、ウソはよくないっていう教えにも忠実な真面目な人たちだし。
午後3:58 · 2021年3月28日·Twitter Web App
 
HSは、教祖も信者も正直だというツイートを、楽山が引用しています。「変に正直」と楽山が言っても、不正直よりは、マシです。楽山は正直なところが全然ありません。言い損ないではなく、故意に偽りを言う、つまり、嘘吐きです。それを隠している芝居に、だまされないでください。
 
ゆえに、なおさら、不誠実で、嘘吐きの楽山には、HS批判をする資格はないし、あらゆる宗教と信仰を批判する資格もないのです。楽山の体質的な嘘吐きは、当然ながら、体質的な正直よりは、はるかに性悪です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の害です。
 
どんどん墓穴を掘ってゆく楽山です。既に、批判されて、その卑しさが明らかにされてゆく途上ですが、ますます、高ぶって、書いては、寒くなる楽山です。楽山が活動するところ、血が通いません。温もりが滅しています。潤いが凍り付きます。
 
 
 
※ 信仰は
 
信仰は、
静的ではなく、動的です。
守ることではなく、求めることです。
保存ではなく、成長です。
達成ではなく、努力です。
到着ではなく、旅路です。
座すことではなく、歩むことです。
境地ではなく、道です。
 
だから、気づけば誰でもできることです。
 
それを可能にするのは正直な祈りです。
 
信仰者は、
得ていると高ぶることをせず、
足らざるを知って低さの弁えを欲します。
 
偽善者は、そこを、真逆に勘違いしてゆきます。あざ笑うかのように。
いつも陰気臭く、意地汚く、鬱陶しい楽山が典型です。
 
 
明るさ芝居が陰気臭い

明るさ芝居が陰気臭い
 
 
(2021年03月30日)
(2022年04月09日、再録+)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  (抜粋)
 
自分を責める心を持っているということが、人間であり続けるための最低条件なのでございます。それができなくなったら人間ではない、人間性を保ち得ない。信仰は妄想か狂信に過ぎなくなるとさえ思うのであります。
 
 
 
 
 2022年04月04日
 「幸福の科学」の抗議活動
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  抜粋、批判。
 
幸福の科学は、政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので、社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども、批判封じのような抗議が目立つせいか、どうも守りに入っているというか、自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか。
 
この楽山の文章で、鼻に突くのは、「社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども」と持ち上げておきながら、「自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか」と貶(おとし)めていることです。
 
前から書いてきましたが、これが、楽山の、典型的なボンヤリ言語なのです。同時に、評論家気取りでもあります。楽山は、知性も論理性も小学生レベルです。評論など出来る人ではありません。恐ろしく背伸びした見栄張り楽山の悲惨な症状と言ってよいでしょう。
 
批判するために、まず褒めておくって、あり得ないです。しかも「政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので」というのは、気持ち悪い世辞であり、何の根拠にもなりません。根拠なしで語って、同意を誘う楽山のボンヤリ柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分の罪を「人間の性」というのは、いつも楽山がやっている自己正当化の詭弁です。人間の性だから、自分は責められることはない、という意味です。このような詭弁が、いたるところに見られるのが、楽山の言説です。詭弁による誘導、決して引っかかってはいけません。
 
 
 
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  試練と不幸2
 
 
確率的には高くはなくても、ヨブが受けたような試練に、この世的には不幸に、信仰者だけが遭わないで済むなんてことはないでしょう。むしろ、信仰者だから遭う、試される、ということも言えるかもしれません。
 
すべてを失うような不幸でなくても、なんでも守られる、生活困窮からも病気からも守られて、健康で文化的に長生きする、という、身勝手な妄想信じ込み信仰?のまま、何も考えない人にはならないでほしいです。
 
試練は不幸の形を取って、すべての人に起こるという地上の定めに対しても、安穏としているのが人間だから、信仰は試されるのです。ゆえに試練と言う・・ということを忘れてはいけないでしょう。
 
その時、悪魔のような病的ナルシストが、熱心に信仰を捨てることを勧めるかもしれません。まさに、現在進行形であります。
 
 
 
「おかしいと感じるなら、
速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。
信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、
苦しみを長引かせるばかりだ。」
 
「苦しみを長引かせるばかりだ」・・まるで安楽死を勧めているような楽山です。やさしそうな言い方に惑わされないようにしてください。当たり前のような言い方で、宗教は苦しみを与えるから「苦しみを長引かせ」ないようにと、信仰を捨てよ、・・とでも言っているような、乱暴な筆致なのです。
 
自己愛者は、気遣いが出来ないので、こういう場違いのピント外れの表現が多くなります。宗教に一時的には疑問をいだく人は少なくないということを悪用した誘惑であります。楽山は、何の役にも立たないのに、説得力も根拠もなく、宗教と信仰を目の仇にしている反キリストです。
 
このような悪しき誘惑をする者こそカルトに多い自己愛性人格障害者であります。こういう者からは、直ちに逃げてください。話せば分かるなどという人ではありません。詭弁で疲れさせて、思いやりに見せかけて、疲れたんじゃないですか・・などと言ってくる白々しさです。
 
 
耐え忍ぶ者は救われる。しかし、救いが地上で起こると思い込むのは、神の意志を決めつける罪であります。人間が逃れられない死という定めに対して、命を捧げたキリストの共感を得て、信仰者は、できることをして、できないことを神に任せる弁えと恵みのうちに過ごします。
 
神の前に、へりくだり、神に対してだけは、正直に祈る、という自由を忘れないでください。そういう時と場所を持つことが、ある種の解放につながるでしょう。人間に必要な信仰は、超常ではありません。
 
 
試練の向こうに

試練の向こうに
 
 
(2022年04月07日、再録+加筆)
 
 
 
※ 
 
楽山のような自己愛性人格障害者は、人の言うことに対して、弁明も反論も反省もできないのに、できないまま、何事もなかったかのように、また、自己満悦記事やツイートを書けるし、同じ目的でリツイートも出来る異常者です。詭弁の卑怯な陰気臭さが、うわべだけ、ヒト型になっているような楽山です。
 
こういう平静を装う冷酷な者の存在は、社会にとって、真面目に生きている人にとって、恐怖以外の何ものでもないと思います。楽山にとっては、理路も共感もないのに、文字と言葉を並べることだけは出来るということが、最も不幸なことなのかもしれません。
 
楽山は、都合が悪くなると、スルーするとか言って、無視して平気そうですが、無視は何も起こらないのではなく、弁明できないことを意味します。それさえも、楽山は、分からないから、話を変えればいいと思って、別のことを書いて、気にしないようにする悪癖が身についています。
 
楽山は、無風地帯&安全地帯に住んでいるつもりでしょうか。そのような場所は、どこにもありません。孤独であっても、人は関わりの中で生きています。関わりを無視しては生きられません。むしろ、楽山のいるところは、無法地帯の崖っぷちなのです。
 
自己愛性人格障害者そして病的ナルシストは、学習意欲も真摯さも向上心も反省力も理解力もないから、繰り返し読まされるほどに、毎度、うんざりするか、がっかりするかして、おえっ・・と顔を背けたくなるような見苦しい文章を書いてきます。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
悲観的な人は、何も起きてなくても悲観的になる。
楽観的な人は、何が起きても楽観的でいる。
後者のほうがずっと楽しいわ。
とりあえず
「なんとかなるさ」
ってつぶやきましょ。
午後2:23 · 2021年4月2日·Twitter for Android
 
自らの置かれている状況を弁えず、平気でツイートを引用して、平気で、なおも教えたがる楽山です。今までの不都合や失敗や失言を完全に無視して人のせいにする自己愛性人格障害者は、何が起きても楽観的でいられるでしょう。この無神経によって、徒労と疲労がもたらされ、人格を破壊されてゆきます。
 
だまされた人は、「何とかなるさ」と呟いても、離れて自主性を取り戻さない限り、自分の心と言葉を取り戻さない限り、どうにもなりません。だます人は、無反省で無責任の訂正不能ですから、最初から、どうにもなりません。
 
性格についての一般的に励ますようなツイートを、楽山は、自己正当化にすり替えて満悦するほど、どんな迷惑をかけても気にしないでいられる病的な楽観主義なのです。罪悪感、思いやり、悔いる心、共感などの、高等感情がないからです。
 
エサを漁る野良犬のように、楽山は、他者から、本から、漁って、都合のよい言葉を引用しては、自分に都合のいいことを暗示し刷り込むために、曲解し、悪用してきたのです。人の迷惑など、一切、考えることがありません。
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
隆法チャンとヒトラーが重なるなら
学園とヒトラー・ユーゲントの比較検証も必要かもしれん
>>
山内ビン@葬式を在家に
@vincent20200110
 · 19時間
返信先: @Null259216さん, @hamayokomegumiさん, @asasfjggさん
ゲッシュタポみたいですね。これでは隆法チャンはヒトラーと同じですね。
午前8:44 · 2021年4月3日·Twitter Web App
<<
 
「かもしれん」という荒い言い方で、ヒトラーの独裁と大虐殺の歴史へのたとえを、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団体)という話に広げて、乗ったつもりで、説明もなく、それだけで、冗談として、面白がっている楽山です。他者の不幸を面白がる体質が表れています。
 
このように、冗談っぽく反応するけれど、自らの立場や責任などは全く考えないところに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が表れています。宗教を考えるのではなく、揶揄したいだけなのです。自分も独自の独裁のユーゲントのつもりでしょうか。
 
そういう自己中と、弁えの無さが、書く文章にも、引用にも、さまざま表れてきたにもかかわらず、当事者意識がなく、揶揄が大好きで、つまり、何事につけ、真剣味がないのに、図々しく関わってきて、結果、無反省、無責任と言われても、平気なのです。
 
楽山は、前に、宗教について、否定を書いて、あとで、肯定を書いて、断定していないから責任はない、という、無責任の正当化?でしょうか、詭弁というより、奇便とでも言うべき、言い逃れを書いていました。理路も心も、まるで育っておらず、学習しておらず、何も整っていないのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
広報チャンネルが、「大人の教養TV」を批判してる。
タイトルには「あきれた無教養」とあるし、動画内では「デタラメ」「嘘」などともいってる。
広報チャンネルは、宏洋氏以外にも、こんな乱暴な言葉を投げつけるんだね。
 
「あきれた無教養」「デタラメ」「嘘」・・楽山についてならば、実感をもって、本当です。
「乱暴な言葉を投げつける」・・楽山は、丁寧語に、詭弁と嘘を込めて、投げつけてきます。
 
楽山は、教養もなく、思考力もなく、デタラメで、温かい感受性もありません。反省しません。責任を負いません。ゆえに、関わると、詭弁の罠によって、言い知れぬ疲労を与えてきます。
 
訂正不能の自己中心で、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断します。誰も近づいてはいけません。まともな人間と思ってはいけない人です。間違っても、やさしい人柄などと思わないでください。前に、楽山ブログに、そういうコメントが付いたことがあるので申し上げています。
 
今までの発言の嘘と詭弁を思い返してみるたびに気持ちを新たにするのですが、腹は、下血のタール便のように黒いのです。楽山が平気で上のようなツイッターで書いてくることが証拠になっています。楽山は、「乱暴な言葉」の代わりに、汚い屁理屈の迷路を用意してきます。
 
 
 
  動かない死
 
肉体は座ったまま
動かなかったので
次第に乾いていった
頭皮から離れたフケが髪の間に点々として
かつて食したであろう食物の残渣が口角でひび割れ
鼻から頬にかけての皮脂が乾いて
こわばったうろこのように落ちかけていた
 
そのまま消えていくと思っていた
座ったまま便通は圧迫され
腸の動きは眼のように不明だった
眼脂に覆われていたのである
 
やがて形なく
透き通り
消えてゆくはずのもくろみは
思いに反して
よりかたくなで
固い肉体を作り出していた
 
心は座ることができなかったので
乾いてはいても
絶えず何かを思わずにはいられなかった
とうに周囲とは無縁であったが
いつしか清潔な裸体を想像していた
 
明日はなく
昨日は捨て
今日の消滅を願っていた
来る日も来る日も
死は肉体よりも心に近く
そのくせ清潔な裸体ばかりを描いていた
 
 
  バラバラになって
 
奇妙なやつだ
死んでいるはずなのに
 
バラバラになって
半分焼け焦げた肉片が
あちこちに転がっている
 
黒焦げになったのや
まだくすぶっているのもある
 
口と鼻の一部が
瓦礫の上に斜めに傾いたまま
少し離れて片方は飛び出した眼球から
原形をとどめない髪の頭部までが
逆さになって
 
言い残したことでもあったのか
唇はしきりに動かしているし
目はキョロキョロとあたりを見回したり
時々こちらを見ている
 
声にならないので何を言っているのかわからないが
むごたらしさ以外の何かを
伝えようとしているように思えてくる
 
ひょっとしたら彼も
隣に転がっている私を何か言いたげな
妙なやつだと不思議がっているのかもしれぬ
誰かが私を持ち上げた
天と地が大きく回った
 
反応がない
周りの人たち
口を動かし声を出そうとするのだが
出てないらしい
 
ドーンと
音と衝撃のようなものがあって・・・
そこまでしか覚えていない
 
ライトはやけに明るいが
もともと暗い部屋だなここは
 
胴体と手足を並べている人
その足首は違うよ
私のじゃない
気づいたらしくどこかへ持っていった
別の人はしげしげと眺めては何か書いている
 
皮膚や肉を切り取ってガラスの皿やビンに入れながら
話しあっている別の人たち
メスを入れるのか痛くはないが
 
幾人かは書類を持ってすでに去った
やがてライトが消され
カバーをかける一人を残して皆去って行く
 
とても暗いよ
ちょっと待ってもらえないかな
まだあるんだ言いたいこと
たくさん持って私ここに
まだ・・・ある・・・のに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「難しいんだよなあ」・・みんなそうでしょ、ですよね、というニュアンスを載せた危険な誘導の言い回しです。それで「自分もそんな風です」という同意は、一般化の詭弁です。つまるところ、「反省」なんかしない、という詭弁なのです。・・とんでもない、無反省は非人間です。
 
 
 
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  体質と言葉3
        (再録+)
 
 
体質とは、ここでは、先天的または後天的に規定されるところの、その人の言動を特徴づける人格の意味で使っています。
 
(ネットより)
百科事典マイペディアの解説。
体質:
すべての精神的・身体的な人間の形質の総和で,遺伝と環境の相互作用によってつくられる。
 
思想・宗教の言葉は、それを表した人の言葉によってではなく、それに反対する人の言葉によってでもなく、それを発する人の体質の良否によって、それを受ける人の、救いともなり、邪悪ともなります。
 
神の言葉は、それを受け取った人格の言葉を通して、人を生かすことがあり、人を壊すこともあります。こういうことは、人間の不完全性によりますが、なぜ起こるかは神の秘密でしょう。以上は、認めるしかない事実であります。認めない者は、自分信仰になるでしょう。
 
神の言葉は、人の言葉となって、先ず、人は、神と人の、そして、神の言葉と人の言葉の違いを学ぶべきです。神の言葉の真理は不可知であり、人の言葉の真実は曖昧に可知であります。この違いが、心掛けて弁えるべき信仰の節操であります。
 
 
受け取ることと、信じ込むことは違う。
 
思うことと、、決めつけることは違う。
 
判断と、断定は違う。
 
救いの希望と、不変の境地は違う。
 
いずれも、前者がキリスト信仰である。
 
 
絶えることがないのは、常時の平安ではなく、必要なときに、祈りに答えて与えられる癒しと平安であります。信仰は不変の境地ではなく、成長可能な生き方を支えるものであります。
 
人は、受け取れるものを受け取りますが、信仰が、物としてのプレゼントと違うのは、受け取って忘れるのではなく、受け取ってそのまま置いておけるものでもなく、即ち、固定できるものではなく、いつも人生に必要だから否定できなくなることであります。
 
それは、信仰が、固定して揺るがないのではなく、忍耐強く求め続けるものであり、否定の判断が下せないほど必要だと思い、希望し続ける祈りの生き方に生かされてゆくものです。
 
それゆえ、信仰は、いつも、新しい目覚めを求め続けます。完全に知ることが出来ないゆえに、求め続けるのです。そうして、信仰は、成長してゆくのです。一時に一気に、悟りを啓くことではありません。
 
正直に祈ることによって、人は、神の偉大さとキリストの愛と共感を新たに知るからであります。
 
 
 
異常な体質の特徴:
 
自分を責めることができない。
罪悪感がない。
しんみりと悲しむことがない。
自己中心にしか考えることができない。
 
思考と感情に深みが見られない。
短絡しやすく、上気しやすく、妄想化、固定化しやすい。
 
それゆえに、不都合において、自分の罪を認めず、反省せず、すべてを人のせいにする。
思慮によって理路を整えることができず、結論的決めつけを繰り返す。情緒面で、深い高等感情が発達していない。ゆえに、他者の意見を受け取っておらず、学習不能で、自己修正できない。
 
能力ではなく、異常な人格が、理路と感性を奪うからです。
ふつうに共感できることが、過大な自尊のために出来なくなります。
 
ゆえに、バランスが保てず、バランスが分からず、大仰な讃美言葉や、世辞の褒め言葉、そして、整わないまま結論を、でっち上げて、作り話やデマなどで、相手を侮辱するしかなくなり、暴論も正論も理解できず区別できずに、自分に都合の良い欲望の方向と、相手をおとしめ罵る言葉だけを繰り返します。
 
しかも、その間、高みから見下ろす嘲りが感情の表現として見られ、自分が上だという立場から抜けられないために、相手を見くびった発言しか出来ず、そういう見下し言葉だけを探しては出してきます。
 
そういう者が、人の意見を聞く耳を持たず、しかも、上から教える態度だけに凝り固まって、万事が益となると信じ込んで、自分の利益、つまり、正当性の根拠として、よく引き合いに出しているのが以下の聖句です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
共に働くことなく、自説に慢心している者には、万事を疫病となるように、今に至る加害の成り行きが出来ているようです。決して、友達にも、仲間にもしてはいけない破壊的人格です。そういう人を批判するのでなければ、そういう人から遠ざかることが唯一の対策となります。
 
 
誤謬を撒き散らす者

誤謬を撒き散らす者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年03月29日、再録+加筆)
 
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山は、他者の言を引用すれば責任はないと思っているようです。しかし、例えば、リツイートなどで引用して、批判対象としないことは、引用の意図が、賛同か、利用であるという責任を、全く理解しないのが楽山の自己中の病質なのです。口出しするな・・と、他者の口にしゃべらせて平気な楽山です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
·3月21日
何にでも口出ししてくるお節介な人っているじゃない?
そういう人はね、
暇なのよ。
別にアナタのことを気にしてるんじゃないの。暇つぶしなの。
 
他者を気にせず、暇つぶし、これは、まさに楽山のことでしょう。楽山は、おおよそ、関わるだけの真実も心得も持たないまま、宗教とカルトの問題に、さも分かっているふうに、コメントや記事を入れてきます。人の迷惑を考えず何でも自分勝手にやるのが自由だと思っているのです。
 
それに文句を言うのは、全部、余計な口を出すことでお節介だと言いたいのです。通らない屁理屈の刷り込みで、いちゃもんだけのボンヤリ言語で、真実に反する卑怯な迷惑行為をして、根拠もなく良いことを言っているつもりでいる裸の王様が楽山なのです。
 
そして、批判されると、このリツイートのように、他者のツイートから都合のよい文言を選んで当てつけてくるのです。自分で説明とか弁明とかが、全然できないからです。
 
楽山は、実に気安く、暇つぶしで、かつ、小学生レベルの知識で、宗教・信仰・真実について書いているとしか思えないのです。読者に対しても、とんでもない無礼な話であり、さらに、引用元に対しても、無礼な話であります。
 
以上より、楽山がこのツイートを引用する妥当性は、楽山が、していること、してきたこと、言ってきたことなどを考えれば、どこにもありません。人のことを考えず、なりふり構わない楽山の自己中の病質が今回も表れています。
 
 
中途半端に相手すると、どんどん入り込んでくるから、
笑顔で一言こう言いなさい。
「あ、大丈夫です」
午後2:45 · 2021年3月21日·Twitter for Android
 
人を巻き込み、評論家気取りで、子供じみた幼稚な先入観で物を言い、かつ、責任は一切負わず、詭弁で言い逃れを書いて、全くの無反省でいられるような楽山は、ずいぶん前から、病質の者であり、全く "大丈夫" ではない、とても有害な人です。
 
前に書いたように、楽山の笑顔は、微笑みではなく、意地悪な、ほくそ笑みか、あざ笑いか、高笑いであります。それ以外に求めるものがないようです。また、他にすることもないようです。ゆえに、楽山は言われるべきです・・あなたは大丈夫ではなく病気です・・。
 
楽山は、悪意と作為について、結果を気にしなければ、平気でいられると思っているようです。あらゆる結果を無視して気にしないということは、正常心理ではありえないことなのですが、楽山は、病識がないので、反省することもなく悔いることもなく生きていられるのでしょう。
 
そのようにして、何度も何度も、楽山は、醜い自分を表して、恥をさらしに来るのです。楽山は、偽善者であり、カルト教祖願望であり、刷り込みや印象操作の詭弁屋であり、大嘘吐きです。
 
 
 
  値踏み
 
一人で思い巡らす人
こいつから学ぶべきことは何もない
むしろ邪魔だ
自ら手を下さずともこの辺が弱み
チクチクとついてやれば
そのうち手も足も出なくなるさ
逃げ出してくれれば願ったりかなったり
この男は役には立たないが
咬まれることはあるまいゆえ
当分は飼ってやるとするか
この人は一応立てておいて
程々の敬意を見せておけばことはあるまい
このお人からは幾らかは頂戴できる
今のところ借りるだけでもよいな
このお方こそ組んで、お味方、お味方
うまくいけばいつかは・・・
ん、ん、・・・フフ
 
私にいくらの値をつけた
人格を値踏みする者よ
 
えっ・・・?
空耳か
 
一人で思いわずらう人
人の気持ちをあれこれと推し量り
自分と比べ
思いあぐねては疲れ果て
寝込んでいる人
見積もれば
自分が誰よりも安くなることだけは知っていた
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いないのが楽山です。まともな人なら口だけ「実践するのは難しい」などと、ごまかすことは出来ないからです。楽山は「恥ずかし」という感性を持っていないので、みんなそうでしょ・・とばかり「人間の性」という、実に迷惑な一般化という詭弁を弄します。
 
また、楽山の、発作的で衝動的な多量の投稿が見られます。こちらは、まるで昆虫観察をしているようです。楽山については、病質者、偽善者、サイコパスなどと言ってきましたが、楽山は、そうじゃないという弁明の代わりに、悪口を書いてきます。この態度にもサイコパシーが表れているということです。
 
 
 
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  疑い
 
 
人間に分かる信仰、どこまで人間に分かるのか、というテーマについて、これまで考えてきたことを書いてみます。
 
 
神の性質は、全知全能・絶対完全・永遠不変、などと言葉で表します。これらの性質は、人間には手に負えないものです。人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない・・からです。すなわち、人間は、不完全ということです。ゆえに、罪を犯します。
 
 
Q.神は、将来起こることもご存じなのか。つまり、未来は、既に、決まっているのか。だったら、何をしても無駄ではないか。
 
A.運命論的な考え方ですが、招来は決まっているとしても、人間は、それを知らないのですから、折々に、最善を考えて、努力するしかないのです。それが、人間の宿命です。努力しないのは、ただの怠慢であります。それが、全知全能の神に対して恐れをいだく信仰の根拠であり、信仰の動機であります。
 
 
Q.神様は守ってくれるのか。ならば、なぜ、この世に悲劇が起こるのだ。
 
A.神が人を守ることが、人の都合に合うとは限りません。神が守ってくれると、人の知恵で思い込む信仰は、ご利益信仰に陥りやすく、起こった出来事を自分で解釈して神の意志を、こうなんだ、と決めつけるという背教にもつながりやすいでしょう。
 
それに、神が統べる世界が、この地上だけかということも分かりはしません。神だけがご存知のことです。私たちは、この地上にいて、この地上で成り立つところの、人が学ぶべき真実と善と正義を学んでいますが、不完全ゆえに、何をもって守られていると言うのかさえ知らないのです。
 
それと、試練ということが、よく言われますが、これから試練が起こると分かるわけではないのですし、見方によっては、一生が試練なのかもしれません。信仰は、未来の安全を保証すると考えるのは、傲慢です。信仰生活は、起こったことに対して、人間として、出来ることをして、祈ることことです。
 
 
Q.信じて、試練だけなら、信じることは空しい。
 
A.私たちは、不完全で罪深い人間です。それは信仰者になっても変わりません。恵みや試練を決めつけてはいけません。恵みと思ったことが試練であるかもしれないし、試練と思ったことが恵みであるかもしれません。全部、恵みと思うことは、人間には酷です。思い込み信仰に陥る危険があります。
 
喜び、感謝し、讃美するのが信仰の務めだと思い、悲しむという人間の陰性の感情を抑制していると、だんだん人間離れになってカルト化してゆく可能性があります。信仰者にとって、多くの目覚めや気づきという恵みは、悲しみを通して与えられるでしょう。神に対して正直であってください。
 
信仰の直接の恵みは、ただ、神に正直に祈る時と所が与えられることです。人に正直になれないことが多い地上では、信仰者にとって、包み隠さず告白できる祈りは、宝物となります。できることをする努力以上の、例えば、自分の人生の成功や失敗という結果は、神に任されることです。
 
信仰は、人に都合のよいことが、生涯にわたって保証されることではありません。信仰は、生命保険ではありません。洗礼受けたから、キリスト者になったから、大丈夫ということではありません。信仰が人生に与えるのは、生きる活性です。絶望の崖っぷちで、それを得た人がいるということです。
 
神は、何か良いものをくださるかもしれません。しかし、人は、それを、良いか悪いか、完全に判断する能力を与えられてはいません。私たちは、地上に生きるあいだ、地上の物事に縛られているのです。信仰が、神秘的な悟りのような達観を与えるというのは、人には分からないことです。
 
 
Q.信仰者は、他者より、悟っていて、優れているのか。
 
A.そういうことはないと思っていたほうがよいでしょう。キリスト者の偉人の話は、多く、死後に語られますが、そういう人々になるために信仰があるのではありません。キリストが、語りかけた人々は、ふつうの人々であり、救いの言葉をかけたのは、ただ、余計な先入観を、持てない人でした。
 
 
Q.善人にならなくていいのか。
 
福音書には、多く善人とは言えない人が救われています。信仰は、人の判断する善では測れません。同様に、信仰は、人の判断する正義でも測れません。信仰は、ただ、精いっぱい、正直な祈りをしているかどうかです。大きな勘違いがあるようです。
 
戒めを守って、正しい人に、良い人になる、これは、パリサイ人が目指したことです。キリストは、それを打ち破るために、神に相応しい人を、悪人や病人から選んでいます。守っていると言う青年には、守れない教えを告げました。信仰の真実が、高が知れている人の善や義ではないことを教えています。
 
 
Q.いつも祈っておればよいのか。
 
A.祈らなければ・・で、祈るのは、強迫症状です。祈りの本質は、神経症の症状ではありません。祈りたいときだけ、祈ってください。祈るときは、精いっぱいの正直を心得てください。正直でなかったと気づいたときには、また改めて祈ればいいのです。神は寛容です。
 
信仰者なら、祈りたい時は必ずあります。神は、既に、人が不完全であることをご存知です。正直な祈りを待っておられます。飾った祈りや讃美だらけの祈りで、義務を果たした気分になるのは、強迫神経症の症状です。神の前で、嘘で飾ることは、罪であって、祈りではありません。
 
神は、正直な祈りだけを、寛容さをもって忍耐強く待っておられます。それが、人間が、神に対して出来る精いっぱいであることを、神はご存知だからです。そういう祈りでないと、心の解放にも、魂の救いにもならないのです。
 
 
Q.なぜ、祈りの終わりに、イエス・キリストの御名によって、御名を通して・・と言うのでしょう。
 
A.聖三位の中で、イエスキリストだけが、地上で、人間に直に接した神格だからです。そして、命を捧げるという犠牲によって、人間の死を超克し、人間への命を惜しまない共感すなわち愛を成就したからです。私たちキリスト者には、キリストを通さずに、信仰はありえません。
 
 
Q.異教徒に対しては?
 
A.全能の神が、神の目的そして計画のために、キリスト教を通さずに、何らかの使命を与えて導くということを否定できません。キリスト者が優っている、キリスト者だけが救われる、キリスト者だけが正しいというのは、信仰に思い上がった優越思想であります。
 
キリスト者が特別優秀ということは全然なく、尊敬に値する異教徒も無宗教も求道者も、同じ人間として、平等に、尊ぶべきと考えます。非キリスト者の偉人も、ふつうの人も、人類の敵以外は、尊ぶべきであります。
 
 
Q.信仰の敵とは? 人類の敵とは?
 
A.人類の敵は、国家でも組織でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。邪悪な集団に、さらに、少数ですが、あらゆる集団の中に、必ずと言ってよいほど含まれている異常人格です。一方的で自己愛と笑いと怒りしか持ち合わせず、しんみり悲しむ情感と罪悪感がありません。
 
 
Q.人類の敵は殺して良いか?
 
A.殺してはいけません。特定して隔離するべきかもしれないが、法制度は、未だ、そのようには出来ていません。サイコパスからは、即、逃げたほうがよいのですが、サイコパスかどうかの判断は、その知情意と理路と感性とを経時的に見なければならず、気安く決めつけることは出来ません。
 
 
 
疑いと希望

疑いと希望
 
 
(2022年2月23日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
 
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を正すのは、自分の過ちや罪や悪や足らざるものに気づく人です。気づけない人がいて、嘘を吐き詭弁を弄して人を惑わすなら、放ってはおけないはずです。かといって、捕まえる権利が私たちにはありません。批判を続ける以外にないのです。
 
楽山は、ツイッターや記事、私のツイッターにも、厚かましく何か書き込んで、批判返しを書いたつもりのようです。私は、さらに批判するのに3記事3日を要しました。無駄でしょうけど、それが、批判するしかない対象に対する私の立場だということです。
 
前から言っているように、楽山の信頼度はゼロなのです。つまり、全く信頼していないのです。遣り取りなどしないのです。楽山は、まだ、言論者のつもりでいるようだが、楽山は、害毒を対話に撒き散らすだけです。自分の中の化け物に気づかないのです。楽山からは離れてください。
 
 
 
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  神と偶像3
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであります。
ゆえに神は、常に、
正直な告白の祈りを待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての正直な告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
神に正直に祈る人は
神に対しても人に対しても
だますために悪意で嘘を吐くことはなくなるでしょう。
つまり、善行は結果の一部に過ぎないのです。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
とりわけ讃美の回数や強さではなく
 
神の前の正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
つまり嘘を吐くわけですから
神に対して
偽りを続けているのです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
自由意志の悪意によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエスは
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書は明確に伝えているからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
(2022年02月18日、再録+)
 
 
偶像の飼葉

偶像の飼葉(かいば)
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。
 
「(引用ツイート)
(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。 
8:3-5
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 
8:6-8
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 
8:10-11
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書)
 
キリストにまつわる「美しい話」というだけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。楽山が病質によって救いから除外されているとしか思えない根拠でもあります。
 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えている中身には、一切触れることが出来ず、理解も出来ないのに、「あとで挿入されたもの」ということだけを取り上げています。信仰は、聖書から心の癒しと救いを受け取ることです。
 
楽山は、何も受け取れないことで、逆恨みをして、おかしいだろと、いちゃもんをつけてきます。つまり、楽山は、中身を読み取れない代わりに、それを聖書のせいにして、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD、サイコパス(精神病質))の人でしょう。楽山は、宗教を否定するためにだけに聖書を取り上げています。哀れですが、こういう者が、キリストの敵、反キリストになるのです。
 
楽山の、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめたいだけの憎しみからの偏見~妄想のゆえだと思います。インテリを気取っても、チクリと刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、ということは、楽山のような人には、聖書を読むために必要な良心の感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いも癒しも何も受け取っていないということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはないでしょう。楽山が、その見本となっているということです。聖書を読めない愚か者が、あらかじめ定められているのでしょうか。それは分かりません。
 
楽山が、いかに聖句をバカにしているかが表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、その愚見を自分で言いふらすことで信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その他害性は明らかであり、反キリストが自分は反キリストだと自己顕示していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、結果として、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しています。聖書の大事なところを理解しようともせず、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、石を投げて、ペッペッと唾を吐いているようなものです。
 
 
あとからの加筆を、しれっと、楽山もしているようです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。
 
楽山は、中身の重要性の中身について書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのです。付け加えると、私は、新共同訳を信頼していないので、新共同訳に書いてあるなら、訳者のこじつけか言い訳に過ぎない可能性もあります。
 
信仰が、神を信じて完全な善人になって救われることではない、ということです。完全な善は、神のものであり、人の手に負えるものではありません。キリストは、姦淫した女性が、自分を飾れる立場ではなく、即ち、ご自身の前に正直であるしかなかったから、救いを与えのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
こちらの記事で批判してきたように、いちゃもんだけを書いてきた楽山ですが、ここ2~3日は目立った動きがないと思っていたら、ツイッターのほうに、当てつけがましいツイートやリツイートを載せてきます。自己顕示欲、教祖願望、インテリ気取りが、抜けることはないようです。
 
教祖願望から、悲劇のヒーローのつもりでしょうか。楽山は、いかなるヒーローにもなれない嘘吐きです。被害者のつもりでしょうか。楽山は加害者です。インテリ評論家でしょうか。インテリジェンスのないケダモノです。理論家ではなく詭弁屋です。詩人ではなく鈍麻した受けねらいです。
 
悪い奴だということが分かりにくいように丁寧語や曖昧な語尾で書いてきます。いい人そう、という安易さで関わると、疲労と徒労から鈍感な人格になり、最悪の場合、奴隷になるでしょう。私は、ヤフー時代に、数か月、楽山の害を体験した被害者であり、とんでもないと反発して、批判を続けています。
 
 
 
 楽山のコメント欄ですが
 
>(第三者らしい)
2022年02月08日 10:52
https://twitter.com/st5402jp
君のストーカー(笑)
それにしても、へのへの爺ぃはしつこいよな。
 
いつのまにか、私は「へのへの」と呼ばれているようです。
面白がり屋の楽山は、私のHNを出してきます。↓
 
5. 楽山2022年02月08日 21:20
そのアカウントは、stさんですね。キリスト教系の方です。
やっぱ、ぽん吉さんからみても、ストーカーに見えるんだね。
へのへのさんのことは、この間、ツイッターで話題になってました。みなが、へのへのさんのことをどう思ってるか分かって面白かったです。
 
楽山は、自分を批判する人を「ストーカー」と決めつけ、意味を拡大して「みなが、へのへのさんのことをどう思ってるか分かって面白かったです。」と、皆が、私をストーカーと思っているという印象操作をして「面白」がっています。自己中サディストの、根拠のない卑怯な筆致です。
 
楽山は、他者を批判に巻き込みたいようですが、私は、このような卑怯者である楽山を批判する動機を新たにするのです。真っ当な返しが出来ない荒らし根性だから、陰で、他者を利用して当てつけてくる卑しさが、楽山の常習そして性癖です。
 
私からの批判の内容に触れずに、侮辱して憂さ晴らしを謀るような、丁寧語の、吐き気のするような筆致が、楽山の特徴です。楽山は害だけで、何の魅力もない人です。決して関わらないように近づかないように注意・警戒してください。表面的に丁寧でも、楽山の心の中は、真っ黒な闇です。
 
私は、楽山をストークしているのではありません。サイコパスで精神が貧困で詭弁屋の楽山には、何も惹かれるものはないです。近づくと大けがする恐れのある楽山に誰も関わることのないように、楽山の欠陥と不正を、多くの人に知ってもらいたいから批判記事を書き続けています。
 
 
 
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