ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反キリスト

 
  信仰者の立場から(改、再録)2
 
 
私は、もう長いこと、教会には行っていない。
教会を否定しているわけではないが、向かないと思ったことはある。
「誤解」
 
 
今まで書いてきたことを、キリスト信仰の立場から考えてみようと思ったが、
思い出話になったかもしれない。
 
教会で説教を聞いて、心がふるえるほど感動することは、恐らくないだろう。
魂の救いを求めているけれど、それこそ、短兵急に得られると思うのは間違いだろう。
 
私が洗礼を受けるに至った経緯は、牧師の説教に感動したからではない。
聖書に興味を持ち、説教にも、興味くらいは湧いたと思うが。
讃美歌も、かなり影響を受けた。歌詞に孤独な魂の救いと感じることがあった。
 
牧師は、毎週、説教を考えないといけない職業である。
多くを、ましてや、総てを手短に求めるほうが無理というものだ。
 
 
聖書に忠実な説教や記事というのは、神とキリストを中心に書いてあることが多く、その中で、その時の神の意志と行為が書かれているが、神の意志と行為である。つまり、奇跡を起こしても不思議のない御方のなされようである。ときに残酷と感じるし、大方手に負えない。
 
キリストについては、教理が中心となることが多い。処女懐妊、数々の奇跡、十字架の贖い、肉体を含めた復活、超常現象としか言いようがないもので、それを否定することはできないが、超常ではない今の自分にとって、物や肉体の奇跡は、やはり、手に負えない。
 
物や肉体の奇跡が手に負えないという意味は、否定はしないが、驚きはしても、今生きていて、滅多に起こらないわけだし、生きる支えとして当てにするには、現実離れしすぎているという意味である。
 
聖書において、キリストと人々の心の交流の記事に比べると、超常の奇跡は、孤独からの解放にもなりそうにないということは、今までも書いてきたことである。
 
その奇跡だけで、驚いて、ありがたくて、涙が出るようなことは、私にはない。素適な説教でしたとありがたがる人は、ありがたがらなければならないという強迫観念があるのではないかとさえ思っている。
 
私の記事においては、キリストと、救われた人々の間の遣り取り、キリストの言葉、などを中心に書いてきたつもりで、祈りにおいて神に対しては立派な祈りや讃美を・・ではなく、神の前に正直でしかありえなかった人が、犯したであろう罪によらず、救われていることを書いてきた。
 
そして、キリスト者の善行は、信仰の結果に過ぎないとも書いた。高が知れている人の善行に救いの鍵はないと思っている。私が惹かれたのは、神を信仰することの真善美ではなく、神の前においてだけは正直であるということだ。既に総てをご存知の神の前に、正直以外は意味を持たないからだ。
 
聖書、特に、福音書を読む場合、どういう人が救われ、どういう人が批判されたかが、特に重要だと思っている。ここには、信仰生活の努力、すなわち、できることをする、という方向のようなものが暗示されていると思う。
 
 
私は、長いものでは10年間、批判記事を書き続けている。キリスト者の立場から批判をする、という人は、あまりいないようである。悪い言葉を使ってはいけない、という教えの誤解か曲解によるところの、批判=悪口、という先入観があるような気がしてならない。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
キリスト者だと偽って、さらに、元牧師だと偽って、罪を認めず悔い改めもしない、という、とんでもない者がいるのに、さらに、キリスト教系、また、キリスト教内部から、カルトが出てくるのに、悪い言葉を使ってなならないという聖句は、批判しないことを正当化するための言い訳に過ぎないと感じる。
 
聖句を利用して正当化するならば偽善になってしまうのだから、批判をしたくないのなら、正直に率直に、そういう気にならないとか、苦手だと言えば済むことなのです。それで責められることはありません。
 
偽善者は、批判返しをしない代わりに、批判に対しては、嫌らしい当てつけや皮肉や決めつけなどの悪口を返してくる。詭弁も常套手段で、実際は、反論も弁明もできないからだろうと思っている。
 
それに関連しているような気もするのだが、敬虔というのを、腰が低く、口数少なく、控えめで、丁寧で、優しいことと理解して、実行ではなく、うわべだけを真似をしている人がいます。その者は、真っ赤な偽キリスト者です。
 
偽キリスト者、偽牧師の言です。
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」
「悔い改めは神が与える」など。
 
私に言わせれば、敬虔は、神を恐れることから表れることであって、弱い自分を隠さないことであり、身振りや口数とは関係ないと思う。正しくなることは結果であり、正しくなることが信仰ではない。悔い改めは、それまでの人生と、生きるための軸が変わるということである。神の民となるからです。
 
「恐れる」を「畏れる」と書いて、神は恐怖ではなく畏敬だという考え方には反対です。言葉とイメージの辻褄合わせだと思います。
 
雷や嵐とともに顕れ、背く者たちを滅ぼしたりする旧約の神のイメージは、恐怖以外の何ものでもない。恐怖と同じくらい、仮に、人は神に直接出会ったら、おののくしかないと思っている。神について、私には、優しい父のイメージはない。
 
神に祈れるのは、キリスト・イエスがおられるからであることは言うまでもないことです。
 
信仰者は、辻褄が合うからではなく、孤独からの解放と癒しの恵みによって、
神は全知全能の創造主と、キリストは救い主と、信じるしかありません。
 
もしおられるなら、全知全能こそは何よりも怖いのである。総て既に知っておられる、というのは近づきがたい存在である。もしおられるなら、と書きました。存在の証明も出来ず、会ったこともないという意味であります。
 
神はいますよ!という確信を持つべきだと言う人は、心の中の偶像作りを促進するようなものだと思います。そういうところから、敬虔を忘れて、内なる高慢を、信仰として、ふくらませてゆく人もいるのでしょう。
 
 
キリスト者の、神についての認識は、非信仰者の常識を超えるものではないのです。聖書を読んだからといって、非信仰者と違って超常や神を分かっているなどと思い上がってはいけないと思います。
 
神は、人の認識の対象になるような御方ではありません。神は、人の認識の枠の中に納まるような、人の言葉で表せるような、事物と同じように対象となるような御方ではありません。
 
そこを勘違いして、分かっていると思い込んで熱心な信者気取りや、また一方で、逆に、矛盾しているから存在しないと思い込む無神論者が、いっぱいいるのは、嘆かわしいことです。
 
信仰は、絶えることのない希望であり、神はいる!と信じ込んで言い張ることではありません。
 
神がいるとは思えない世の中について、信仰者は、非信仰者との間には、反発ではなく、共感があるべきです。何故なら、信仰者は、そのような世の中だからこそ、信じること、つまり、唯一の希望として信仰することを必要としているという道を歩んできたし、歩んでゆくからです。
 
神について、分かっている、知っている、見えている、という発言や思想に対して、私は、とても気色が悪くなります。前に、教えを守って完全になれるのです、などと言ったキリスト教系カルトを、もはや人間とさえ思えなくなっているような気がします。
 
 
幸福になるにはどうしたら、ということが、ネットでも、あちこちでブログの話題やテーマになっているようです。その一つで、私はアドラー教と呼んでいるが、アドラー心理学というのを批判しています。
 
アドラー教は、人間の不完全な言葉の詭弁であり、ときに極端に断定し豪語し、ときに言い訳めいたことを、また、疑問に対して否定だけで語っているようで、両極端であり、一種のカルトだと思います。
 
気に入らないことは無視しましょうと言いながら、試行錯誤を必然として進めたり、完全を実現できるような高ぶった調子でありながら、できないときはできないと言い、それを補うかのように、ダメなら他のことに没頭すれば結果は出る、というような安請け合いの慰めを言うアドラー教を信頼できません。
 
聖書には、完全を目指したら、バベルの塔のことがあり、思い上がり浮かれてしまえば、ソドムとゴモラの滅亡やノアの洪水があり、キリスト信仰においては、何よりも、神の前で、パリサイ人のように自慢したり戒律の形式だけになってゆく堕落が書かれています。
 
 
人間が完全を目指すとき、あるいは自認するとき、安らぎであれ、成功であれ、人間の言葉の不完全さが、もろに表れてくるのです。パリサイ人は、ついには、キリストを殺すことになって最大の悪役となるのは、聖書を読めば、必然なのでしょう。
 
神秘を説くのではなく、神秘、特に奇跡を、そのまま信じこむのではなく、私たちは、どのような人が救われ、どのような人がキリストの敵となったかを聖書から考えるべきです。
 
 
嘘ばかり吐いて、それでも神は自分をどんでん返しの奇跡で守り救うと言い張っている偽牧師もいますが、失言と嘘だけが目立つようになり、どんどん壊れてゆくようで、いくら彼が、神は救うと豪語しても、キリストの名前に巣食っているだけの反キリストだと判断しています。
 
神はいつも優しく微笑んでいるばかりではないことくらい、聖書を読めばわかるはずなのです。恐らく、彼は、聖書も、ろくに読んでいない偽善者だと思う。裁きは、最終的に、神がなさることですが、人間は、信仰の節操を弁えていないと、自ら信仰の道から遠ざかり、偽善者となり、自らを破壊してゆきます。 
偽牧師の彼は、キリスト者と称しながら、人の話を殆ど受け取っていません。すでに通用しない自説を、また繰り返してくる始末です。今は所在不明となっています。反キリスト楽山の成りすましである可能性もあります。
 
 
神の前では、つまり一人で祈るときには、努めて、故意に嘘は吐かないでください。人に対して隠したり飾ったりしても、神の前では通用しません。神は全知の御方であり、既に見抜いておられるからです。そして、正直な祈りを捧げることに精いっぱい努めることだけが、救いに与る必要十分条件です。
 
悔い改めということについては、罪を犯さなくなることだとしたら、果たして罪を犯さなくなるだろうかと考えると、無理があるような気がします。神に正直に祈ることこそが、言い換えると神に祈り正直さに立ち返ることであり、世俗のほうから神のほうへ向きを変えることが、悔い改めだろうと思っています。
 
思わず、嘘を吐いたら、あるいは、言うべきことを言わなかったら、気づいたときに、また祈ればいいのです。それが、キリスト者の負うべき、キリストのくびきの負いやすさであり、キリストの荷の、言い換えると、負荷の軽さであり、また、神の限りない寛容であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-29、新約聖書)
 
ここに書いたことは、キリスト者のつもりでいる私という個人の見解に過ぎません。そして、私は、もっと心に響く信仰の考え方や感じ方があれば、見解を修正する用意があると思っています。
 
これは、とても大事なことで、修正不能になった信仰は、新しいことが受け入れられなくなり、成長しなくなり、言葉に、行ないに、儀式に、しがみついて、人の技の細工か習慣に過ぎなくなり、キリスト信仰の真実の深みを失ってしまうからです。
 
ゆえに、自分について、違和感を感じたり、おかしいと思ったときには、正直に祈ることが大切です。精神的にも、祈ること自体が発散になり、反省になり、癒しの効果を持つかもしれません。立派な祈りをしようと、きれいごとや理想や "べき" を並べるのは、癒しと赦しを求めたい心に反しています。
 
神は、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、どこまでも寛容であり、キリストは、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、命を惜しまぬほどに共感し、限りない愛を用意して、同伴されるでしょう。
 
信仰の節操は、負いやすく軽いのです。そして、信仰の情熱は、ときに、エロスの愛のように、一途でさえあり得るのです。
 
 
進む力

進む力
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年09月27日、再録+加筆)
 
 
 
  神様の約束
 
神様は救うと約束されました
それは神様との新しい契約
生にあっても死に臨んでも
命の全ては神様の手の中にあるのだから
 
諦めるのは捨てることではなく
諦めると言えるのは
それで穏やかな目覚めを望むときだけ
 
ひとつの夢が断たれたからといって
諦めてはならないのです
多くの努力が報われなかったからといって
諦めてはならないのです
まだ心があり体があり
動かす手足もある
今できることから考えてごらんなさい
 
体が病んだからといって
病人と思ってはならないのです
まだ心がある
戦おうとしています
感覚し反応する
清流を求めてごらんなさい
 
心が病んだからといって
努力さえできなくなったからといって
全てを失ったと思うことはないのです
まだ体があり目があり耳がある
残された心が願うものを探してごらんなさい
 
身も心も病んだからといって
何もかも終わったと思うことはないのです
病んでいることは生きていること
まだ命がある
何かが動いている
動けるものを見つめてごらんなさい
 
起きてもいい
寝ていてもいい
何をしてもいい
何をしなくてもいい、でも
諦めてはならないのです
忘れてはならないのです
神様との約束だけは
 
※ これは、昔聞いた、あるクリスチャンの言葉から連想したものです。
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
 
以下は、反キリスト楽山のコメント欄です。
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
この記事に書いたことに、理解することなく、笑いながら、背くのが、楽山です。ときに、世辞でキリスト教を褒めたりしますが、理解はしていません。人間ならば分かるはずの、共感性がないからでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと思っています。
 
楽山は、他力と自力で宗教を分けるという安易さです。キリスト信仰者は努力しないとでも言うのでしょうか。また、聖書についても、否定するために、奇跡の事実性に、いつまでも、こだわるという幼児的執着を見せています。宗教と信仰について、ひと言も信頼できない楽山です。
 
楽山は理解不能の人です。楽山を理解できないし、楽山は他者の意見を理解していません。安い理屈を論理学に見せかけて、勝ったつもりになる病的ナルシストです。訂正不能なので、議論や交流をする意義は全くありません。詭弁に振り回されるだけですから、接触があったら、関わらず、拒否してください。
 
楽山は、理路の代わりに詭弁を弄します。共感の代わりに芝居をします。最初だまされて、ひどく疲れます。正体を知ってからは、この世で最も軽蔑する対象になります。最初の数か月の遣り取りで病的な疲労を味わい、その後の3年以上、誰も同じ目に遭わないように関わらないように批判しています。
 
 
 
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NTTより電話がありました。今日が、光接続の工事です。私はネットの仕組みが分かっていないので、ブログを休むのかどうか分かりません。
 
 
 「排泄の口、誰の前で幼子?」3
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけですが、
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられるでしょう。
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえあります。
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたいです。
 
人間はおかしいところがいっぱい、
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的、
など、いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていないと思います。
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しいと思います。
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるでしょう。
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業です。
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいます。
 
意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうるのです。
 
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢であります。
そしてそれは正直さに他なりません。
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ません。
だから悔い改めの祈りがあるのです。
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになります。
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはなりません。
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者であります。
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言うでしょう。
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではありません。
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけません。
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよいでしょう。
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのです。
 
そのような説教者を裸にしなければなりません。
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけません。
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけません。
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいません。
 
また、神に対する従順は人には確定できません。
 
ゆえに「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えないでしょう。
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様であります。
 
 
自分を含めて、人のもとにあれば、人を恐れるが、
 
神のもとにあれば、神のみを恐れる。
 
 
心貧しさ = 余計な先入観のないこと  = 柔軟で成長可能 = 幼子 =  敬虔
 
精神の貧困= 余計な先入観しかないこと = 固着と成長不能 = 偽善者 = 傲慢
 
 
少なくとも現代において、神・キリスト・聖霊は、目に見えません。神にお任せするのは、非力でも人が精いっぱい、できる範囲で、正しさを求める言動に努めた上でのことです。神にお任せすると言って、努めず、学ばず、考えないのは、安穏教であって、キリスト信仰ではありません。
 
人には考えることと感じることがあります。このことに無頓着になっているような信仰はありません。神は、人を、感じて、考え、行動する存在として造られたからです。聖書の、悲しみ苦しむキリストを忘れてはいけません。精いっぱいを尽くしたのち、祈りに答えて、安らぎは与えられます。
 
"精いっぱい" というのは、作業や結果の量ではありません。
 
マタイによる福音書22:37,39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
 
"精いっぱい" は、個人によって違います。病気の人は治療と療養で精いっぱいでしょう。怠慢で人をだましてあざ笑う楽山などは、精いっぱいだったことは一度もないのだろうと思っています。
 
 
信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想

信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想
 
 
(2011年)
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年09月09日、再録+加筆)
 
 
 
  ふくらむ陰と影
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
 
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らにまつわる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊した
虚脱の揺籃に
身を委ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)のように
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘びて怠い
漠(ばく)のうちに
崩れ落ちた楼閣
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
 
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  いだかれて眠るとき
 
昔覚え
昔忘れた幼い言葉に
包まれて眠る夢の中に
生き生きと遊んでいる
雫の時
まるで未知のように
幼子とひとつ
そのときは長さではなく
そのときは広さではなく
そのときは名前ではなく
滴り落ちる前に
影絵のように切り抜かれて
短い目覚めの朝
心残りに細い記憶を
たどれば呟くのだ
何か低く
きらめいていたと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
Pさんの書き方だと、一般のアッパレな「高校生」だと思えるけど、実際は占いビジネスで稼ごうとしたり、HS支部長からもう関わりたくないと言われてる特殊な人で、手放しで褒めるのは無理なんだよなあ。
Pさんは、印象操作のために重要な事実は伏せて報道するという悪徳マスコミと同じやり方してる。
午前7:15 · 2021年9月7日
 
楽山が、印象操作を批判しています。今まで、人それぞれ、自分を貫く、個人の自由、などといった広い意味の言葉で、まともだと印象を吹き込もうとしてきたのは、楽山であります。この3つ、いずれも、公共の福祉に反しない範囲、迷惑かけない範囲、という条件が付くわけです。
 
このように、公共の害として、詭弁と印象操作によって、自己正当化を企んできた楽山に、他者の悪徳を批判する資格はないと思います。楽山は、恐らく、自分のしたことを記憶できないのだろうと思いますが、ならば、なおさら、平気で書いてはいけないことがあるはずです。
 
楽山は、若いのかどうか知りませんが、大人でしょう。決して、アッパレなどではなく、人のことを言える立場も器量もないと思います。褒めるどころか、今まで、やってきたのは、詭弁、嘘、印象操作、無視、無反省、無責任、・・どこまでも、追及されてしかるべき人です。
 
振り返って、私は・・と言えば、特に優れたところもなく、褒められたものではありませんが、そういう自分の有り様を、少なくとも、ある程度、折に触れて内省もしています。そういう自分を弁えてさえおれば、どこまでもハナタカな楽山に対して、批判を遠慮する必要はないと思っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自己顕示欲から、多数のHNを使って成りすまし、無責任に、あちこちで言いたい放題で、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。そういうのは、混乱させるだけだと分からず、百害あって一利ないことを繰り返しています。
 
 
 
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  楽山の醜い虚栄2
 
 『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著
 2021年09月05日 楽山日記(LD)
 
 
聖書のいちばん大事なことを、全く理解していないのに、なおも、自分は分かってるつもりで重箱の隅をつついて満悦する楽山の、みじめな姿が、あらわとなっています。楽山には、聖書の知識はありません。いちばん大事な理解を飛ばして知識とは言えないからです。
 
既に浅薄だということがバレているのに、虚栄に走る楽山は、人間性の破壊された悲惨な姿を露呈するだけなのですが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山だけは、客観視ができないために、気づかないのです。見栄だけを張ることの醜さを、楽山によって学ぶことになります。
 
 
*通読
何年か前に本書を開いたときは難しすぎて読み通すことはできなかったのだが、先日また開いてみたら今度は最後まで興味を持って読むことができた。これはうれしい。本書の中で、特に印象に残った箇所について以下にメモしておきたい。
*熱心党
まず著者は、イエス在生の当時、その弟子に熱心党に属する者がいたという話はきっぱり否定している。
熱心党そのものはイエスの生きていた当時はまだ存在していなかった。あるいは、存在していたとしても、人々の間で問題になりうるほどの活動はしていなかった。
[省略]
マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)になって、ようやく熱心党の活動が顕著になってくる。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.93)
 」
「イエスの死からユダヤ戦争の勃発まで、約三十五年間であ」り、これはさして長い期間には思えぬかも知れぬが、日本の歴史にたとえれば「日本の一九三五年に、七十年の新左翼の存在を予測」できたかということにもなるし、この点を考えれば、この三十五年間という期間がどれほどの時間かは想像できようとのことである。そうして「熱心党の活動が顕著になってくる」のは、「マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)」だという。
自分は、ユダは熱心党であり、イエスがユダヤ人の独立解放の救世主となることを期待していたものの…云々という話を信じていたのだが、どうやらこれは全くの見当違いだったようだ。
 
二千年前の話に確定はないと思います。楽山だから都合のよい否定の方向に確定したいのでしょう。それに、熱心党がどうとかいうことは、今の信仰には何の影響もないのです。いつものように、史実がどうとかでキリスト教を否定できると思っている楽山の無知と無恥が表れています。
 
聖書の、いちばん大事なところを、全く理解していないことが明らかになっている楽山ですが、なおも、いつものように、他者の口を借りて、分かってるんだと、まるで学者のように気取ってきます。読むことが、災いにしかならない者もいるということです。
 
なぜ、娼婦や取税人が天国へ行くのか、キリストがどういう人を救ったのか、大事なところをすっ飛ばして何も理解しないのでは、聖書を語ることは、どこまでも、無意味であります。つまり、楽山にとって、読書は、インテリ気取りの飾りに過ぎないのです。
 
 
*書きかえ
本書では、聖書の書きかえについていくつかの指摘があるが、そのうちの一つをここにメモしておきたい。
マルコは二度「怒る」という語を用いてイエスの行為を描写している(三・五、一・四一。このうち後者は写本によっては「憐む」という動詞に書きかえられている)。ところがイエスを怒らない柔和な人にしたかった後の教会は、この二箇所とも削ってしまった(マタイ八・三、一二・一二、ルカ五・一三、六・一〇)。
(同上、p.293)
 」
新共同訳で確認してみると、たしかにマルコにある「怒って」(3:5)が、他ではなくなっている。また後者は「深く憐れんで」(1:41)としてあった。これらは写し間違いではなくて、著者の言う通り意図的な書きかえだったのだろうな。
 
理解も信仰もないのに、知識人を気取ろうとすると、細部を知っていると見せかけることになるのでしょう。無視してください。楽山は、重箱の隅をつつきますが、重箱に何が入っているか、全く知らないままなのです。悲惨な楽山は、読むことより、目を失うほうが幸いでしょう。
 
細かいところをあげてケチを付ける楽山の評論家気取りは、見るも無残な病質からの虚栄心の災いであります。こうはなりたくないし、かつ、こうなってしまわないように、気をつけるべきだという、戒めとしてください。聖書は、細かいところにこだわらなくても、命を救う力があります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27、新約聖書)
 
神レベルの正しさとは、こうであると語ることで、人間は、みな罪人であることを教えている聖句です。しかし、新共同訳では「女」を「人の妻」と書き換えて、キリストの教えを、月並みな安い道徳におとしめています。新共同訳は、神を、人の掌に乗せようとする悪魔の訳です。
 
 
*楽天性
個人的にはイエスには悲劇的でさみしそうなイメージがあるのだが、著者はそれとは反対にイエスの楽天的なところを繰り返し指摘している。
ここにもイエスの、神と神のつくった自然とに対する、実に楽天的な信頼感があふれている。
(同上、p.307)
 」
著者がその根拠としている箇所を確認してみると、たしかにこれは楽天的といえそうだ。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。だが、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイ6:26)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
[省略]
あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。
(マタイ7:8-11)
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
(マルコ4:26-29)
 」
改めて読むと、神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ちがする。なんというか、つい武者小路実篤を連想してしまう。
こうしてみると、キリスト教からニューソートが出てきたのは、必ずしも反発反動というわけではなく、当然の流れだったのかもしれぬという気がしてこないでもない。
 
「神に対する信頼感はすごい」・・キリストは神の子と言われているのだから当たり前です。楽山は、何も知ろうともせずに、外から石を投げてきますが、そのたびに、ボロを出しているのです。それでも自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから書いてくるのです。
 
プラスのこと、プラスの喩えを、キリストが言えば、楽天的なのでしょうか。キリストが洞察力と共感性あふれており、十字架で死ぬことを覚悟するほどの人だから、真実として言えるのです。
 
楽山が言えば、ウンコを投げつけられるでしょう。今、そんな感じです。汚い楽山です。
 
楽山は、自己愛性人格障害のために、自分の表現を持ちません。真摯に学ぶ、ということを怠ってきたからです。そういう場合、楽山が今までもしてきたことですが、難しい言葉や文章を引用して、べた褒めすることです。楽山の崩壊した虚栄の魔界です。
 
(ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[4]。
ニューソート:ウィキペディア
 
「神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・アホのべた褒めの、世辞そして嘘ということです。ひねくれついでに、正当が分かってもいないのに、超常のカルト的異端に走る楽山です。当然の流れだそうです。
 
「実に楽天的な信頼感」「たしかにこれは楽天的といえそうだ」・・キリストの教えは、決して「楽天的」ではありません。楽山が楽天的だと思うのは、神が与える「良いもの」を全く知らず、字面の狭い通念だけで判断しているからです。楽山は、キリストさえも、あざ笑いのネタにしています。
 
「心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・嘘です。かつ、作為の、べた褒めの幼稚さと言ってよいでしょう。楽山の心が落ち着くことは、なかったと思いますし、ありえないことです。楽山は、いつも、分かっていることにするために、わざとらしい台詞しか言えないのです。
 
 
*罪
著者によれば、イエスの楽天性は、自然に対してだけではなく、罪に対しても変わらなかったらしい。
ともかくこういうイエスだから、人間の数多くの行為を洗い上げて、どれが罪になるかを定めて断罪し、あるいはそもそも、人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす、などといった発想からはほど遠かっただろう。この人の楽天ぶりは、そういった陰湿な思想とは無縁である。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.271)
 」
 
キリストが救った人々と、キリストが厳しく批判した人々の違いを考えないのでしょうか。誰よりも、罪については厳しい見方をして、罪を認めた、あるいは、認めざるを得なかった人々を選んで、愛し、救いました。そこを理解してないのは、楽山と同じで、浅い辻褄合わせだけの思考のようです。
 
キリストは「罪になるかを定めて断罪」するスタンスは持っていません。それはキリスト信仰ではありません。この著者は、楽山と同様、無理解であります。しかも、それを楽天性と言ってしまうのは、著者は、キリストについて、真面目に考えていない人なのでしょう。
 
(ネットより)
田川 建三(たがわ けんぞう、1935年 - )は、日本の新約聖書学者、著述家。大阪女子大学名誉教授。宗教批判を通じて現代批判を試みた著作でも知られる。「神を信じないクリスチャン」[1]を名乗る。
1935年東京生まれ。聖学院高校、東京大学宗教学宗教史学科(1958年卒業)
文献批判に立脚した新約聖書学の伝統の上で、キリスト教批判や宗教批判、そして現代社会批判を展開したことで知られる。
 
私は、信仰を語る上で、○○学というのを、あまり信頼していません。信仰は、心の問題だからです。著者は、キリストを見下ろしているような気さえします。「人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす」のではなく、人間は、必ず罪を犯すという本質なのです。著者は信仰者ではないようです。
 
聖書の学者が、信仰者でなければ、何の意味もありません。誰の助けにもなりません。楽山と似たような妨害者です。それにしても、楽山の聖句の選び方は、悪意によるものです。楽天的なキリストが、十字架につくでしょうか。類は類を呼ぶという記事になっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:39、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 (マタイ27:46、新約聖書)
 
キリストが、その優れた弁舌の能力によって、パリサイ人に、少しでも歩み寄る姿勢を示せば、十字架は、免れたでしょう。しかし、キリストは、十字架の道を歩まれました。十字架は、どこまでも、悲劇です。それは、私たちの悲劇だからです。
 
 
これについてもその根拠を確認してみると、たしかにそのようである。
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
(マルコ3:28)
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
(マルコ2:5)
 」
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:4
ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 
2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:4-5、新約聖書)
 
赦されたのは、病人です。人々は、何とか、キリストのもとに連れてこようと努めました。楽山の言うことは、悪意による言いがかりです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
3:28
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 
3:29
しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 
3:30
そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。
 
楽山は、恣意と悪意によって、キリストを汚しました。しかも、悔い改めることなく、今回も、その反キリストぶりを発揮しています。引用された学者は、楽山というネズミ男に、好きなように悪用されています。楽山は、自らが赦される余地を、自ら捨ててゆくようです。
 
 
ちなみに著者は、これらの言葉についてこう書いている。
右の中風患者の話にせよ、この明快な宣言にせよ、別に、罪が赦されるために悔い改めねばならぬとか、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的な相違がある。 
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.275)
 」
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
この学者は、何を言っているのでしょう。ひょっとして、楽山と同じ反キリストなのでしょうか。はっきり言いますが、信仰の無い神学者や宗教学者ほど、無意味な職業はありません。信仰者の共感がないのです。結局、楽山のような無神教カルトに利用されるだけでしょう。
 
悔い改めは、神の前に正直に祈ることであります。悔い改めたからといって、完全な正義の人になることはありません。信仰は、成長するための道です。一気に悟る境地ではありません。こういうことは、何度も書いてきたのですが、楽山は、聞く耳も、感じ取る心も、持っていないようです。
 
 
また、マルコ3:28の後の文章についてはこう書いている。
(原始教団はこのせりふの明快さにたじろいで、「しかし聖霊の冒涜は赦されない」とつけ加えてしまった)。
(同上、p.275)
 」
そう言われてみれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)というのは、但し書きの部分は、前文の断言を弱めるために後から書き加えられたという感じがしてこないでもない。
 
聖霊を汚すのは、神聖をけがすことだからです。聖三位をけがしてはいけない、という当然の教えであります。神聖をけがすことは、楽山が、長いこと、続けてきたことです。それで、学者気取りでいるのだから、語ること自体が、疫病のように忌まわしいことなのです。
 
付け加えたのであろうとなかろうと、楽山のように、神をけがし、キリストをけがし、聖霊をけがす者が赦されないのは、当然のことであります。悔いることなく、改めることなく、遠慮することさえなく、駄文を書き続ける楽山の、自己正当化の尿臭が汚らわしいだけです。
 
 
*洗礼者ヨハネとキリスト教
上はイエスについての記述だが、著者は洗礼者ヨハネについてこう書いている。
その宗教的厳格さを極限までおし進めたのは洗礼者ヨハネであった。
[省略]
このヨハネが人々に対して呼びかけた言葉が、「悔い改めよ。神の国は近づいたのだ」(マタイ三・二)であった。
(同上、p.264)
「悔い改め」とそれに伴う「罪の赦し」という、通常いかにもキリスト教的と思われている宗教行為と宗教理念にしたところで、洗礼者ヨハネの宗教行為の中心にすえられていたものであって、イエス自身はそのどちらの言葉もほぼまったく口にしていない。 
(同上、p.267)
 」
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
1:14
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、 
1:15
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
 (マルコ1:14-15、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書)
 
悔い改めは、生きる寄る辺を、世俗から、神に求めることです。つまり、信仰と、信仰生活に、なくてはならないものです。楽山にだまされて、行為義認と勘違いすることのありませぬように。
 
 
著者はこれに続けて、「最古の福音書マルコにおいて、「悔い改め」という語は、後述する一・一五を別とすると、洗礼者ヨハネ(一・四)とイエスの弟子達(六・一二)の活動を表現する場合にしか用いられていない、というのは象徴的である」とし、さらに続けて、「ルカは、「復活した」イエスが弟子達に、洗礼者ヨハネとまさに同じことを宣教するように、と命じる場面を作文している」と指摘しつつ、「洗礼者ヨハネの説教の型が、キリスト教化されて原始教団によって継承されたのである」としている。
どうもこの辺りのことは、この間、『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』(中村圭志著)で読んだことと同じことを説明しているようだ。これは専門家の間で定説になっているのかどうかは知らないが、いかにもありそうなことだという感じはする。自分には学がないので、著者の言葉の真偽を確かめ、自分の意見をはっきり固めることはできず、「…と思う」「…と感じる」と呟くことしかできぬのがつらい。
 
信仰を知らず、さらに、信仰を否定したい楽山が「…と思う」「…と感じる」としか書けないのは、知らないのに書いてくる傲慢であり、惑わしであり、自己顕示欲であり、侮辱なのです。楽山は「学がない」というより怠慢であり、知ったかぶりのために書いて、人の意見は無視する単方向の害毒です。
 
聖書は、それを読んだ人に何を残すかが大切であって、それが救いになってゆくことは、信仰者が証拠なのです。だから、聖句に、ああだこうだと、いちゃもんを付けること自体が無意味なのです。受け取った人は、受け取ったものを忘れられず否定できないから信仰なのです。
 
史実性にこだわって、大切なものを見逃してゆくのは、知性が勝っている人に見られると思います。信仰は、辻褄合わせではないので、いくら、キリスト教と信仰を傷つけても、傷つけた人の資料が出来るだけで、何も解決しないのです。信仰は共感性の無い人には分からないと思います。
 
引用元の学者は、厚顔無恥で恥を知らない楽山によって、好きなように悪用されています。楽山は、いつも、婉曲表現で語って、責任を負わない人です。嘘吐きの楽山が「つらい」なんてことはないでしょう。そして、ますます反キリストに徹しているようです。
 
書籍紹介一覧は省略します。楽山は、いちゃもんを付けても、キリスト信仰に代わる良きものを、ひとかけらも提示できないのです。何も解決できない惨めなクレーマーなのです。書けば書くほど、楽山の汚さが伝わってくるのに、楽山は独り悦に入って、また、嫌われに来るのでしょう。
 
 
著者の率直な書評は、キリスト教に疎い自分にも、それぞれの書物がキリスト教においてどのような位置にあるかが察せられてありがたい。
 
楽山が紹介してくるのは、大方、信仰否定に関する書籍だと思います。字面だけなぞって、都合のよいところを引用~利用~悪用するなど、率直さが皆無で嘘吐きの楽山が、本を悪用することは、そこに諸悪の根源を表すことになるでしょう。楽山は特別の滅びですから、楽山にだけは関わらないでください。
 
 
すり込み業者

すり込み業者
 
 
(2021年)
(2022年09月07日、再録+加筆)
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が難しいのだそうです。これは、人間であるのは難しいと言ってるのと同じです。その通りに、楽山は、人間らしいことをやめてきたようです。平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、人の口を悪用して刷り込み、悔いず、反省せず、不感不応で、訂正不能で、・・何も残らない表象です。
 
 
 
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  楽山の偽り方3
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命でしょうか。
 
私は、反キリスト楽山を資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。楽山の書く文章は、ちょうどよい世辞の対象になりがちですが、よく読めば、真善美につながる内実は、何もないのです。
 
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
楽山が断定しないと言っているのは、語尾を曖昧にしていて、それを免罪符のように思こ込んでいるに過ぎません。実際は、曖昧で婉曲的な書き方は、率直なのと比べて、はるかに、嫌らしく気持ち悪い印象になります。楽山が、断定しないからいいだろう・・と思っているなら、大間違いです。
 
霊言なるものや、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、甚だしい無理解を示す根拠として明らかであります。丁寧語で書いて、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。底意地の悪さは隠せません。
 
楽山は、断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、偏見を刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意の誘導であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方で、つまり、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。どこまでも無理解で、人の気持ちの分からない楽山です。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定のベースなのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しないので、断定できず、判断も出来ず、それを反省する代わりに、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
楽山の勘違いは、まず、意見をはっきり述べるということと断定して訂正不能にすることの違いが分かっていないことです。どう信じているかは、はっきり言わねばなりません。それが、真実でないならば、その信仰はカルトであります。
 
しかし、楽山の場合には、主張が靄の中のように明確さを欠いているので、何もはっきり言えないだけです。つまり、思想がないのです。したがって、何もはっきり言わないのがいい・・などという自己弁護の妄想に陥っています。何も本気で信仰したことがないからです。
 
信じていないなら何も言わないことです。自分が明確に言える何ものも持っていないから、その不明を人類に当てはめるというトンデモが楽山です。誰が不明確な主張を信じえましょうか。楽山は盲目を信じているカルトです。誰の助けにもなりません。楽山は主張すべき真実を何も持ってないのです。
 
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる悪知恵として、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、そえゆえ、中身がないぶん、いっそう醜く煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、今のままでいいと思っているなら、もう何も書くなと言っています。詭弁だらけの理路、虚言、無感性、無共感、無反省、そして無責任では、人間として、目も当てられないほど、欠格なのです。
 
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。何も読まず理解せずに、人真似をして、言葉だけ引用すると、このような無知蒙昧になってしまうのです。
 
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところでもあります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
絶望でも、希望でも、人が勝手に決めつけてよいことではなく、私たちは、一人一人の人生の中で、この言葉を味わうべきであります。少なくとも、お祭り騒ぎの香具師のような、野卑な楽山を参考にしてはいけません。キリストの絶望の言葉を補えるのは、神だけであります。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、ボクは総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・とか言っているようなものです。
 
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
部外者の楽山は「捨てる」などという選択の権威を、いったいどこで与えられたのでしょう。言った傍から「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、身の程知らずの権威主義も甚だしいのです。自分は頭がいいから有名になりたいというのが、楽山の悪い夢でしょう。楽山を「捨てる」べきです。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、小中学生の時に、私もいだきました。楽山の信仰理解はゼロです。楽山が書くことは災いです。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山は、神と取引して損得勘定するような身の程知らずの病魔に蝕まれているだけです。
 
楽山のような因果応報の惨劇と違って、原因も分からず打ち勝つことも出来ないような悲劇があります。そういう悲劇に共感するキリストは、御自らが、最も理不尽で悲惨な災いを受けることで、魂の不滅に共感することが、新しい命の世界を開くことを証ししたのです。
 
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無です。だから感動とは真逆の刷り込みしか出来ません。楽山にあるのは、屁理屈、詭弁、妄想などです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観的洞察は、心を解放です。楽山には皆無です。
 
理屈というのは、欲しく思って付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、何もないのです。
 
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
信仰として必要なものは、生きるための感動からの共感力であります。楽山の「無難、穏当、一般的」は嘘です。何も開かれるものがないからです。月並みだが否定するのも何だか、・・というような言など、何の役にも立たず、ほぼ、お世辞と同じなのです。楽山が理解されないことこそ幸いです。
 
トンデモを退けるなら楽山の言葉を退けるべきです。楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないトンデモです。既にバレているのです。楽山は、祭の夜店でインチキを売るペテン師です。
 
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
「ほどほどの理屈で満足できる」と、楽山が自白しています。何も真剣味のない自己愛者の、いい加減な、与太話です。楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものです。それで満足すること自体が、楽山の言論不適応の根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。
 
言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。結局、何も整っていない者が、自己顕示欲のために、でっち上げの、良さそうな話で組み立てているインチキであります。それを、真顔で、書いてくる身の程知らずが、楽山に他なりません。
 
人間は大方の生き方を言葉を通して学びます。言論は「ほどほどの理屈で満足できるもの」ではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していません。楽山の言は、参考にもなりません。ただただ、嘘と詭弁だらけで、迷惑で、害になるだけです。
 
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
楽山は「無難、穏当」以外は、トンデモという理路のようです。心の底に生き続ける真実の共感というものを除外しているか、見えないのです。ひどい怠け者が大切なものに触れる感性がないのが悔しいから、自己顕示だけはしたいという動機で、深い思慮もなく、口から出まかせを続けているのです。
 
「無難、穏当」は、命を支えません。だからトンデモを退けるなら、まず、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。楽山は、真実の追求に、いちばん邪魔な障害物~惑わしの危険物です。楽山は、感動という言葉を知っていても、感動体験を知りません。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の言うことは、大方、体験に基づかない屁理屈です。
 
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。屁理屈だけを振り回しているのは、楽山です。楽山自身が、いつも、無味乾燥の屁理屈だけを言っています。私の経験として、3年以上、それだけです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要になります。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないことです。
 
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。「常識的で穏当なもの」は、楽山のものでしかなく、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないものが多いのです。さらに、楽山には常識はありません。楽山こそ嘘と詭弁とリーダー妄想のトンデモです。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、穏当などではなく、信仰は、人の心をとらえる、縁のようなものです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け、成長をしない楽山は、人の言葉を食い、排尿、排ガス、排便しているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に真実はありません。
 
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の常習です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいても、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。それでも書き続けるのは、それが病質だからでしょう。
 
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、この世を、いい加減色に染めたいだけのペテン師です。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だからこそ、とても異常~狂気なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の自己中と無反省は「(笑)」だけを、結局、楽山にもたらしてゆきます。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症状をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、おぞましい醜さが付きまとうでしょう。
 
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は完全に排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない楽山であります。見せかけの柔和をもって、嘘と詭弁で誘導し、だますのが楽山です。
 
私が楽山に対して批判として書いた「感性」「良心」という言葉を、楽山が、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っておらず、代わりに、当てつけや皮肉で、笑っています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書くべきではありません。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。楽山は、感性と良心を虫食む病質人格です。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いをしながら進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、楽山は、人の好意を貪ります。誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
いちいち嘘ばっかり

いちいち嘘ばっかり
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月27日、再録+加筆)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
 
  永遠の友・共感信仰
 
(人格は
 人格を超えるものを
 理解できない)
 
(人間の心を動かせるのは
 あくまで人間的な体験であって
 人間を超えるものではない)
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい心の絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の投稿が、最近、少ないようです。3年余り、楽山が何か書けば、私が、その非道を指摘し、楽山を批判し、楽山の言を否定しているからでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識がないので、説得は無理です。批判し続けるしかないのです。
 
 
 
>(楽山リツイート)
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】教義がおかしくなくても、伝統的な宗教でも、指導者への絶対服従や偽装勧誘などを指示し、金銭的・身体的・精神的被害をもたらしてしまうカルト(化)教会は存在します。カルトかどうかは「何を信じているか」ではなく「何をやっているか」が判断する基準です。
午後9:33 · 2022年8月24日·Botbird tweets
 
キリスト教でも、おかしな教派や、さらには、キリストの名を悪用するカルトはいます。しかし、真実を大事にするキリスト教と信仰を知らずに、おかしな教派をもって、キリスト教全体を否定することはできないはずです。それを書きたがるのが、飢えたケダモノのような反キリスト、楽山です。
 
 
 
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  神と人をけがす無反省
 
 反省によって、神の愛を知る
 楽山日記(LD)2013年03月30日
  古い記事ですが、偽善は既に始まっているようです。
 
 
楽山は、反省をしません。柔和と丁寧を装う筆致に騙されてはいけません。カルトに劣らないくらい訂正不能の妄想的自己愛を持っている病的ナルシストが、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山とは、真面目な遣り取りは禁忌です。人格を破壊される恐れがあります。
 
 
ブログの目的は、「アンチ幸福の科学批判ではなく、反省の実践」とのことですが、ブログ記事を読む限りは、反省というよりも、「自分は信者だ。エル・カンターレを信じ続けなければならない。絶対に退転してはならないのだ。絶対に、絶対に……」という自己暗示の実践に見えてしまいました。
なんていうか、信者さんを見ていると、心に殻(結界?)をつくり、信仰を揺るがすことは見ざる、聞かざる、考えざるとして、内にこもろうとする人が多いようです。
 
楽山の話には、耳を閉ざすのが正解です。誰も、楽山と真面目に議論してはいけないと思います。カルト信条に加えて、アンチの顔をした楽山という無神教カルトが暗躍しています。楽山は、無神教カルト、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、罪悪感がなく、無反省、無責任です。
 
 
こういう信者さんを見ていると、お節介とは思いつつも、信者さんたちに本当に必要なのは、反省と称して、自己暗示をかけて、心の殻を厚く、強固にすることではなくて、もっとリラックスして、いろいろな人たちと交流することではないかなと思います。
 
交流の相手に楽山を選ぶのは最悪だと思います。反省は、どこが間違っていたかを冷静に考えることです。楽山は間違いを認めない病質です。こういうところからも、楽山に都合のよい詭弁の誘導は、既に始まっているのです。反省という言葉を書いても、反省だけはしない楽山です。
 
 
アンチの研究さんは、幸いにして、自分の殻に閉じこもるばかりでなく、アンチ批判によって他者との交流に励んでいるようなので、これを続けることでいつかは殻を破って外に出てほしいです。外の世界は、広々としていて、空気も澄んでいるし、いろいろな人がいて楽しいものですよ。
 
アンチ批判・・「殻を破って外に出てほしい」と言っていますが、楽山は、アンチではないのでしょうか。アンチHSではなく、アンチとして批判の意味でしょうか。言葉が雑な楽山です。「いろいろな人がいて楽しいものですよ」・・こういう当たり前のことから、楽山の誘導は進行してゆくのでしょう。
 
 
ところで、今回の記事では、大川咲也加さんの発言が省略なしで引用されているようです。ここにも貼らせてもらいますと、こうです。 
人は、「希望」を持っているうちは、いくらでも頑張ることができるものですが、絶望を感じた瞬間や、「自分のしてきたことは間違いだったのではないか」と思った瞬間に、すべてが真っ暗になり、道を踏み外して、一気に退転してしまうことがとても多いですね。
しかし、あくまでも光明思想的に、「未来は明るい。私たちは、最後の一秒まで、自らの『信仰の力』により、未来を切り拓いていくことができる。自分たちの『心の光』で、世界を照らしていくことができる」という強い思いを、一人ひとりに持っていただきたいのです。これは、日本の特徴でもあります。
したがって、あまり悲観的になる必要はないと思いますし、むしろ、「一人ひとりの人に、もっともっと、何倍も明るい心を持っていただきたい」と私としては思っています。
できるのであれば、みなさまには、非常に“鈍感”になっていただきたいのです。どんなに負けても、どんなに辛いことがあってもへこたれず、あっけらかんとして、笑顔でいられるような、そんな強い心の持ち主になっていただきたいと思いますね。
『神国日本の精神』
 」
 
HSの人でしょうか。生長の家でしょうか。鈍感になりすぎると、人の気持ちが分からなくなり、自己中になってしまう楽山の例があります。楽山は、感性も知性も、実に、末期的に、鈍感です。分かりやすく言えば、楽山は、共感がなく、人の気持ちが分からない人です。不感不応と呼んでいます。
 
 
これを読む限りは、大川咲也加さんの考える反省と光明思想は、わたしとは全然ちがっているようです。
わたしは、反省とは、自分は間違いばかり犯してきたダメな奴だと自覚し、こんなダメな自分でさえも神は許してくれていると気付くことだと考えています。反省は神の愛を知るための道です。
 
「反省は神の愛を知るための道」・・実に、これとは正反対の道を進んでいるのが、楽山です。無反省、無責任、訂正不能、霊能者気取り、学者気取り、など、自分を立派に見せようとして、最も汚く卑しい自己愛を表してきたのが、楽山です。
 
 
そうしてここまで到達したならば、自分の力で未来を切り拓くとか、自分の心の光で世界を照らしていくと自惚れることはなくなり、「神様、わたしをお導き下さい。光を広げるために、わたしを使ってください」と謙虚に祈るようになるのだろうと思います。
 
この祈りの言葉、全くの嘘です。楽山には、謙虚も敬虔もありません。以上に答えて、嘘ばかり言っている楽山です。誰よりも、欺きの度合いの酷いのは、楽山その人です。この9年前の記事も、全く信頼できない楽山です。楽山の嘘吐きは生まれつきの悪魔性のものなのでしょうか。
 
 
ですから、大川咲也加さんがいうように、自分は間違っているのではないかと反省することを敬遠していたのでは神の愛を知ることはできないし、自分が未来を切り拓き、光を広めると自惚れていたのでは自我を肥大化させるばかりで信仰を持つことは難しいだろうと思います。
 
白々しいことを言っていたのですね。人には言うが、自分は守らない典型でしょう。つまり、偽善者の典型でもありす。口だけ、言うだけ、ここでだけ、言葉を飾って、実際は、人をだまし続けているのが、楽山というペテン師なのだと再確認しています。
 
 
上から目線のようで恐縮ですが、大川咲也加さんの年齢を考えれば、その言葉に深みがなくても、それは致し方ないことではあります。ただ、そういう大川咲也加さんを静かな環境で大切に育みもせずに、騒がしい表に連れ出して、著書を発表させ、よいしょする教祖、教団、信者たちは何を考えているのだろうと思います。
 
楽山は、相手の言葉に深みがないと言っていますが、嘘で欺くよりはましだと思います。最悪が、悪を、批判している形でしょう。視点を変えれば、このように他者の思い込みを批判して、自分は、好きなように、人をだましてきた楽山であります。
 
 
また上の引用文は、絶望と自惚れ(強がり?)という両極端になっています。鈍感になるべきだともしています。もしかしたら大川咲也加さんは、些細なことで気分が大きく変わるタイプなのでしょうか。もしもそういう傾向があるなら、ますます騒がしい表よりも、静かな環境にいる方がよいのではないかと思います。わたしの推測は全然、見当違いかもしれませんが、教祖と教団には、この点について再考してほしいと思います。
 
楽山は、他者に意見できるような人物ではありません。能力も誠意もありません。むしろ、サイコパスと言ってもよいほど、自己愛性~反社会性を持っていると思います。だますこと、嘘吐き、反省しないこと、ベースとなる霊妄想、これらに染まっている楽山は、人類の敵、という、モデルかもしれません。、
 
 
 
(コメント欄)
1. ueyonabaru2013年05月01日 23:08
さやかさんのお考えは好きです。楽山さんはクリスチャンのような感じを受けます。どちらも、正解。
 」
2. 楽山 (自由)2013年05月22日 19:59
ueyonabaruさん、お返事が遅くなってしまいましたが、コメントありがとうございます。
当方、クリスチャンではありませんが、キリスト教には興味を持っています。とはいっても教会には行かず、自分なりにキリスト教関連の本を読むくらいですけど。
 」
 
どちらも否です。しかし、楽山は凶悪な反キリストです。それは、この9年間、表れてきました。これほど卑怯な男はいません。楽山の知能は、笑いながら、刃物のように人を刺してきます。そして、共感性は、皆無なのです。楽山は、この他害性によって、サイコパスと言ってもよいと思っています。
 
 
無反省が反省を言う

無反省が反省を言う
 
 
(2022年08月19日)
 
 
 
  情報人間だ
 
多くの人が歩いている街
それぞれは血も涙もある人間だし
会って話している人もいるけれど
出会うことないお互いは
動く障害物にすぎない
障害物をよけながら
多くの人が上手に歩いている
群がり移動するお互いは
えさを運ぶ蟻以上の無関係
整然と群衆が移動する風景
確か複数のファイルをまとめてコピーする方法があったな
 
情報化社会のシステム
マルチメディア・ネットワーク
規格の統一
バーコードになった言葉
会話?
その恩恵から取り残されるとよっぽど怖いことになるのかな
 
今でさえテレビにも新聞にも本屋にも
情報はあふれているのに
どう選択したらいい
人間の記憶には限界があるのに
どう整理したらいい
コンピューターに保存しておけばいい
コンピューターの記憶装置が整理してくれる
コンピューターと記憶装置はつながっているが
人間とコンピューターはどうつながっている
人間の記憶の中にあった大切なものが
コンピューターに移されて
 
大切な約束のために訪ねたある日
ちょっと待ってねと
彼は部屋に入った
入ったきり出てこない
心配で見に行くと
パソコンがやさしい声で言った
「もうすぐですから少々お待ちください」
パソコンの前に座っている彼は
背筋をまっすぐ硬直させたまま
ディスプレイに向かって
複雑なバイナリーのコードらしきものを
さかんに左右の眼を点滅させながら
口から泡をふきながら叫んで発信し続けているのだった
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
神ノ義ヲ得ルコトガデキル
神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
人ハ生キルコトガ許サレテイル
人ハ生キルコトガ望マレテイル
人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
私ハ伝エルベキ
何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
神ノ立場デ物ヲ言ウナ
・・・・・・・・・
 
 
  敬虔な
 
ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山が書かなければ、宗教と信仰に訪れた、楽山害とでも言うべき災いが、一応、納まるかに見えて、いえいえ、また別のところで、楽山は、同じようなことを繰り返すでしょう。それが因業というものです。楽山は、その生き方しか身についていないのです。終わらせることが出来るのは、神だけです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法は批判されるのは嫌いな人だと思ってたけど、宗教間で真摯に批判し合い、切磋琢磨することをよしとしてるんだね。この本は読んだことはあるはずだけど、すっかり忘れてたよ。
あんまり批判したら申し訳ないかと思ったけど、それほど遠慮しなくてもよさそうだ。
引用ツイート(省略)
午後10:32 · 2022年8月17日·Twitter Web App
 
批判されると逃げるというのは、楽山の常套手段です。楽山が何か書いても、悪口だけで、理を通すことが出来ていません。それを反論のつもりで返してくるので、返されたほうは、無駄に疲労します。ゆえに、精神衛生のために、楽山との直接の遣り取りは禁忌なのです。
 
 
 
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