ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反キリスト

 
  楽山=無神教カルト
   (過去記事を再録+加筆)
 
 
楽山が引用してきた無神論は、「神の不在は証明できない」に対して「神の存在は証明できない」ことをもって「神が存在する根拠を示せ」と言い、「根拠が無いから神は存在しない」という結論のようです。しかし、神が存在する根拠があるなら証明されたのだから、信じる必要はないのです。
 
人間に存在の根拠を示すことが出来たり、人間の論理で証明できるような、安っぽい捏造の神?は、巷にも、そして、キリスト教内部にも、溢れているような気がしますが、それは、キリスト教とキリスト信仰の神ではなく、カルトの神?であります。つまり、心のない楽山の曲解上の神?なのです。
 
さらに、神を、人の論理で扱えると思うこと自体、人の傲慢であり、その時点で、無神論は、論理の破綻をきたしています。不完全な人が、完全な神を、理屈で扱い、その在か不在かを語るなら、それは、捏造した神?であって、どちらを証明しても、聖書に表された神とは全く違うものです。
 
無神論は、成り立ちませんが、同様に、有神論も、成り立ちません。神の存在を証明することなど出来ません。人の論理で、神は存在したり、しなかったりする御方ではありません。つまり、信じる人にとってだけ、神に対する信仰は、希望が個人に与えられることです。信仰の邪魔をしないでください。
 
タイトルに、無神教カルトと書いたのは、神はいないという乱暴な信念を持つ集団ということです。その間違った思い込みは、カルトに負けないくらい、憎しみを伴って強く確信されているようです。無神教カルトは、論とは言えず、楽山の怨念を表していると思います。
 
そして、無神教カルトは、理屈のようなことを言ってきますが、人の理屈で語ることが、そもそも、神については成り立たないので、苦し紛れに、聖書を、ベースから取り違えて、曲解した結果なのです。加えて、楽山の記事から察するに、その曲解の程度は、カルトに劣らないほど頑迷~悪質です。
 
無神教徒が、神を否定するなら、神に代わる救いを提示する責任がありますが、いくら理屈を整えたとしても、信仰に代わるような福音にはなりません。辻褄合わせをしても、癒しにも、慰めにも、救いにも、愛にも、共感に、至ることはないでしょう。彼らによって誰も救われることはないのです。
 
 
信仰の根拠は、論理や史実の整合性にあるのではなく、共感と癒しとにあります。つまり、理屈ではありません。人間に、人間らしい温もりと潤いを与えるのが信仰です。キリスト信仰者は、神という存在が整っているから信じるのではありません。神の整合性を人は知りません。
 
信じるに足るものなど、この地上に在るとは思えなくなった人にとって、聖書の、キリストからの共感に、人としてキリストへの共感に至ったから信じる、という言い方になります。聖書から、キリストが、洞察力と共感性に溢れた御方であることを知って、信仰に至るのです。
 
旧約聖書の神の業(わざ)や、新約聖書のキリストの奇跡のうち、物や肉体への奇跡は、超常現象であり、超常を、人の日常が理解するのは、理解の実感が伴わないので不可能です、物や肉体の奇跡は、信仰に直接つながる実感を表してはいません。現代、次々に起こっているとも思えません。
 
ゆえに、聖書に書いてある超常の奇跡については、"分からない" と答えるほかはないのです。分かるのは、人間性によって受け取ることの出来るもの、つまり、人間として共感できることだけです。超常は人間には分からないことであり、神を恐れよ・・という信仰のベースであります。
 
物や肉体の奇跡によって信じ込むのは、非現実を信じ込むことになり、陶酔気分から、ありがたや宗教になって、現実を疎かにする危険があります。分からないことは、神に向かっても、人に向かっても、分からないというのが正直なのです。それで信仰を捨てるなら、元々信仰だったのかが疑問です。
 
キリストによって与えられる癒しと慰めは、現実にあって、避け所として、祈りの時と場を与えます。それは、自動的に続くものではなく、折々の祈りによって、絶対孤独からの解放として与えられるものです。祈りを受け取る神は、聖書の神であり、全知全能・絶対完全・永遠不変と信じるゆえの祈りです。
 
神の属性である全知全能・絶対完全・永遠不変は、どれも、人には手に負えないものばかりです。しかし、手に負えないことがあると知ることで、人間としての不完全、即ち、罪の性質を知ることになるので、神の怒りや裁きの話と同様に、信仰の弁えとして大事なことです。
 
 
砕かれて信仰 固まってカルト

砕かれて信仰 固まってカルト
 
 
(2022年01月27日)
(2023年01月30日、再録+加筆)
 
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
   (キリスト以外の
    神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神教徒になる人には、キリスト教の先入観に対する反発があるのかもしれません。あるいは、クリスチャンの家庭環境からの誤った押し付けに対する反発もあるのかもしれませんが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)には、反省力や罪悪感が育たないこともあるでしょう。
 
あざ笑いと怒りに生きる病質には、悔い改める、ということが、理解できないのかもしれません。ゆえに、嘘を吐き、詭弁を弄し、それが通用すると、万能感が生まれ、芝居をするようになり、不祥事にも「反省。とほほ」などと言って、気安い嘘の手当てが通用すると勘違いするのでしょう。
 
 
 
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  楽山の限りない悪意2
 
 『あさっての風』三浦綾子著
 2022年01月15日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、書く衝動を抑えられないようです。楽山の書いたものは、誰かを救うことも誰かの糧になることもないのですが、楽山は、書ける人、物を言える人を、気取ってきます。これほど無反省で無分別の醜態は、病質でしか説明できません。
 
 
*概要
これは三浦綾子のエッセイ集である。キリスト教の信仰について書かれている箇所もあるが、副題に「あなたと共に考える人生論」とあるように、おおむね人生について語られており、善く生きようとする人であれば、宗教の別に関わりなく、誰もが興味を持って読めるものになっている。
 
誰とも、独りでも、考えることをしない楽山です。楽山は、学習できず、偏見と先入観しかありません。その結論から、嘘と詭弁を書いて騙してきます。誰もが読める本も、楽山だけは、曲解して、自分の都合に合わせてゆくのです。楽山には、興味をもって読めるなどと人に勧める資格はありません。
 
 
自分の場合も本書を読んで、さまざまなことを考えさせられたのではあるが、ここではそのうちの三点ほどメモしておきたい。
まず一つは、日記についてである。自分は三浦綾子の本に触発されて日記を書くようになって二十年以上は経つのであるが、迂闊ながら、その本のタイトルを長らく失念したままだった。
 
楽山は、いったい何歳なのでしょう。20歳の若者に成りすましたり、学者に成りすましたり、今度は、「日記を書くようになって二十年以上」だそうです。プロの詐欺師ぶりです。そうやって楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が不治であることを示すことになるのです。
 
 
でも今回それが本書であることが分かった。自分は、本書に収録されている「日記のない青春への疑問」を読んで、日記を書き始めたのだった。このことを確認できたのは再読の御利益かな。
 
嘘だと思います。そのような正当な動機は、悲しみを知っている心からしか生まれません。楽山は、まさに、それを失っているのです。動機を確認して、それを「御利益」などと言っていることが、傍証になるでしょう。楽山は、大方、言ったことのどこかに、偏向した世界の用語を漏らします。
 
 
*夢
もう一つは、神秘体験についてである。著者の夢には色や匂いがあるそうだ。いつか硫黄山の夢を見たときは、目覚めた後の室内も硫黄臭かったという。また睡眠の前後には種々の幻覚が見えるともいう。不思議な話だ。
 
楽山は、著者の信仰を、夢や幻の神秘体験の超常信仰でしか語れないようです。有名人に対しても、貶(おとし)めを制御しない楽山が、他者一般に、中庸であるわけがありません。今となっては、自己中からの狂気に近い悪意で、他者を決めつけ、おとしめてくるので、決して、関わってはいけません。
 
 
そういえば著者のエッセイで、虫の知らせについて書いたものを読んだ記憶がある。ある冬の夜、凍結を防ぐために水道の蛇口を開きっぱなしにしてたら、なぜか突然水が止まり、少ししてまた水が流れ出したときがあり、同時間にさる方が亡くなっていたのが後で分かったというような話だったかと…。著者はオカルト的なことはあまり書かない方だとは思うが、不思議なことがあるということまでは否定はしないということなのだろう。
 
著者が「あまり書かない」神秘体験を、楽山は取り上げて、信仰は超常を思い込むことだというイメージの先入観でしょうか。不思議なことも、ときに起こり得るでしょう。しかし、楽山のように、有名人さえ論ってネタにしてきた無遠慮は珍しいでしょう。
 
もはや、ただの意見発表とは違います。真実を追求する人々を滅ぼしたいという衝動です。ルサンチマン、という、不遇に対する憎しみの発露なのでしょう。こういうことを、ずっと、続けておれば、自らの知性も感性も、自らの悪意によって食い尽くされてゆく宿命でしょうか。
 
 
*人生論
三つ目は著者の人生論には大いに賛成できるということである。宗教観、信仰観については、自分はキリスト教徒ではないこともあってか必ずしも賛成できることばかりではないのではあるが、人はいかに生きるべきかということについては素直に肯けることばかりである。この点、自分にとって本書は人生について様々なことを教えてくれる、とてもよい本である。
 
楽山は、誰からも、真っ当な影響など受けることはありません。他者の意見から有意義なものを受容する精神が既に壊れています。楽山は、自己愛性人格障害のフィルターを通してしか見ないのです。楽山を、決して信頼してはいけません。楽山の丁寧語の嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
楽山は、どこからも評価されないゴミ溜めから単方向に排泄してきます。詭弁は、詭弁臭を、嘘は、言葉の腐敗臭を、悪意は、悪臭を放つようになってゆくということです。こちらは、楽山から出てくる悪意の文章を、どこが臭いか、どこが悪意か、その都度、指摘して書いてゆくだけです。
 
楽山は、人を傷つけて悔いない体質的異常者です。他者を下に見て満悦する人です。「人それぞれ」「自分を貫く」「意見を言ってはいけないのですか」と言っていましたが、すべて詭弁です。だまされないでください。3つの言葉は、責任感のある人間についてであり、異常者に当てはまることはないのです。
 
 
闇の眼は歪む

闇の眼は歪む
 
 
(2022年01月)
(2023年01月28日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害者は、世辞や嘘が習慣になっていますが、素直さ正直などは一切ありません。どんな卑怯なことをしても罪悪感を感じません。策略だけで、だまして生きています。楽山は、他者を平気で無視できる心性なので、自らの無知と無恥に気づかないのです。悲しみを知らないからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
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  あくどい偽善者楽山
 
 「和解」志賀直哉著
 2022年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
自分が上だという前提の奴隷になって意地を張る楽山には、あらゆる和解は成立しないでしょう。人間として最低限の身の程を弁える気さえないようです。読んだ、読んだ、・・で、内容が皆無の記事を書くのは、今に始まったことではありません。しかも、どんどん悪くなっています。
 
 
志賀直哉の「和解」を読んだ。本作は主人公とその父親の確執と和解をつづったものだが、自分には父子関係のあれこれよりも、主人公の悠々自適な生活ぶりが印象的だった。これには志賀直哉の創作方法を聞いた芥川龍之介のつぶやきを思い出さずにはいられない。
 
楽山が題材にしてきたから言いますが、楽山の親との関係はどうなのでしょう。最悪で見捨てられたのでしょうか。楽山と家族との話題がないようです。それとも、親族もだましているのでしょうか。特殊な家族関係の履歴がありそうな気がします。そうならざるを得ない病質を楽山が持っているからです。
 
「思い出さずにはいられない」・・で、書かないのです。読めないけど、知ったかぶりしたいのでしょう。知りたければ読んだらどうかね?・・とでも言いたいようです。楽山は、いかなる作文の方法も持たずに、宗教を貶めてくる人ですが、有名人を引用しては、有識者気取りの芝居をしてきます。悪いお手本です。
 
 
ところで、今回は「精選 名著復刻全集」の『夜の光』に収録されているものを読んだのだが、やはり戦前に発表された作品は旧字旧仮名遣いで読むと味わいがあってよい。これまで志賀直哉の作品は新字新仮名遣いのものばかり読んでいたので、余計にそのように感じるのかもしれない。このような復刻版はもっと増えてほしいし、そうでないとしても旧字旧仮名遣いで発表された作品はそのままの形で本にしてほしいものだ。
 
呆れます。本文の感想が、まるで無いのです。これで読んだ、感想文書いたことにして、志賀直哉も芥川龍之介も読みましたとか言いたいのでしょうか。書けないのでしょうか。楽山は、恐らく、親族に顔向けが全くできない人だろうと思います。文脈把握のできない読書障害も疑っています。
 
 
 
 「教会健康度チェック」を試してみた
 2022年12月27日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
楽山は無神教カルトの自己愛性パーソナリティ障害NPDであることを、カルトは嫌いという善人芝居でアピールして、ごまかしたいようです。うまくいくと思っているのでしょうか。既に3年以上の、中身の無い雑言しか書けない履歴があります。短い記事も、寸足らずになり、乱れてゆくようです。
 
 
*教会健康度チェック
ツイッターを見ていたら、「教会健康度チェック」というものが流れてきたので、とある教団のことをチェックした結果をつぶやいて↓みた。 リプによると、どうやら他の方々も、自分と同じような結果になったらしい。やっぱりそうなるよなあと思う。
 
「やっぱりそうなるよなあと思う」根拠を書かないのでしょうか。アンチなら書くでしょう。アンチじゃないからでしょうか。教祖願望の妄想があるからでしょうか。いつか教祖になって、偉いと言われたいのでしょうか。誰かを見返してやりたいのでしょうか。騙す範囲を広げたいのでしょうか。
 
楽山は、自分が極めて不健康なのに、教会を評価できると思うのでしょうか。楽山は、訂正不能で、自己中で、無反省、無責任、平気で嘘吐き、詭弁で相手を罠にはめて疲れさせる罪悪感のない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)~サイコパスであろうと判断しています。
 
 
 ↓
楽山のつぶやき
★こも/楽山日記3
@komo266
とある宗教を念頭に置いて試したら、合計150でした。さて、これは健康といえるのか、いえないのか?
 
アンチHSを気取っていて、キリスト教を超常奇跡が起こらないからと否定してきた楽山です。どの宗教か書かないわけです。下記の項目を、概略でも書かないのです。無神教カルトの教祖願望が楽山の夢だからでしょうか。このような短い記事を書いているのは、何も、伝えたい動機がないからです。
 
万事につけ、嫌らしい筆致になってしまいます。教会のカルト化とは何かも書かないのでしょうか。つまり、楽山にとっては、どの宗教もカルトで、自分の無神教妄想だけが真理だと思っているのでしょう。あらゆる真っ当な宗教の敵が、実は楽山です。
 
 
 教会健康度チェック
 
下記のことについて、0~3から選び、点数の高いのが不健康ということでしょう。楽山は、自説の無神教カルトを広めてヒーローになりたいのでしょうか。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山には無理という結果と経過が、すでに3年以上続いています。
 
 0 あてはまらない
 1 どちらとも言えない(わからない)
 2 少し当てはまる
 3 まったく当てはまる
 
Ⅰ 指導者の権威主義
1 指導者は、「私は特別に神から選ばれた者である」、「私は神の代弁者である」、「私は特別に神に近い関係にある」と主張する
2 指導者及び信徒を権威づけるために、しるし・奇蹟を利用する。
3 指導者及び信徒を権威づけるために、直接啓示を強調する。
4 指導者を権威づけるために、「使徒」や「預言者」と自称する。
5 指導者は信者に対して「あなたは霊的子どもだし、何もわからない。だから、私の言うことを聞きなさい」などと口癖のように言う。
6 指導者が不道徳や違法行為に対する責任を取らない。
7 牧師が誤りを犯しても、覆い隠すように指導する。
8 「指導」の名の下に、人格を傷つけるような暴言をはいたり不当な罰則を科すなど、パワー・ハラスメント行為やモラル・ハラスメント行為がある。
9 指導者は絶対的存在で、指導者に対する従順(もしくは不従順)は、神に対する従順(もしくは不従順)とみなされる。
10 指導者に絶対服従すべきこと、指導者に間違いがあっても批判したり意見したりすべきでないことなど、聖書を使って自己正当化する。
11 指導者について、信者間で意見や見解を述べる自由がない。
12 指導者は信者の質問や意見に耳を貸さずに、逆に怒る。
13 指導者の方針に対して反対意見を述べると制裁が加えられる。
14 指導者に批判的な信者を集団で取り囲んで攻撃することがある。
15 指導者を崇拝する(過剰な敬意を払う)ように、いつも信者を教育している。
16 指導者の矛盾が著しい。(教会の規約を無視、教えと実生活が著しく違う)。
17 指導者が特別裕福な生活をするために過剰な献金をさせる。
18 批判者に対して、「名誉毀損だ」とのクレームを濫発したり、「裁判するぞ」との脅しをたてに使ったりする。
19 批判者に対して脅迫や嫌がらせの文書を送ったり電話をしたりする。
問1~19 の小計
Ⅱ 教会(関連団体・集団)の公共性 
20 教会内に傷害事件や自殺者や自殺未遂者が普通より多く出ている。
21 教会周辺に暮らす住民生活への配慮が全くなく、苦情が多く出てくる。
22 教会活動の正当性をたてに、法を犯すことがある。神の名を用いて、他への迷惑行為について 責任を持とうとしない。
23 教会が関わって与えた被害や損害に対して誠意ある対応をしない。
24 「霊的訓練」の名のもとに信者に対する抑圧・虐待が起きている。
問20~24 の小計
Ⅲ 性的被害
25 指導者のセクハラ行為や疑われる行為がある。
26 性的虐待・性的強要の被害がある。
27 過去の性体験を指導者に告白するように、あるいは会衆の面前で告白し悔い改めるように強要される。
28 指導者が性行為について不当に介入する。
問25~28 の小計
Ⅳ 信者の健康被害
29 必要な診察や投薬が、「不信仰」と攻撃される。
30 偏った聖書解釈によって、必要な医療行為を制限されたり、禁止されたりする。
31 偏った聖書解釈のために、心身に異常をきたす人がいる。
32 長時間の伝道や奉仕活動を無理に連続して行わされ、心身に異常をきたす人がいる。
33 やるべき奉仕活動が多すぎて、慢性の睡眠不足に悩まされる。
34 劣悪な住環境に住むことを強要され、健康を害する人がいる。
35 長期間の断食を強要される。
36 病気や怪我は、全部、「悪魔のせい」とされ、医療行為は必要ないと言われる。
37 信仰や祈りの度合いでいやしを関連付ける抑圧的なメッセージや言動をする。
38 身体の不調や病気の時でも、教会の活動を休んだり医師にかかったりする自由がない。
問29~38 の小計
Ⅴ 子ども、未成年、家族の問題
39 子どもに対するせっかん・体罰が正当化され、日常的にある。
40 公教育を否定し、教会内の教育だけを正しいとする。
41 高校や大学進学など高等教育を受ける自由を制限されているか、もしくは必要ないように教えられる。
42 信者の家族が不仲になったり離婚したりなど家族崩壊が頻発している。
問39~42 の小計
Ⅵ 信者の経済被害
43 会計報告がほとんどない。または、適正な会計報告・監査がされていない。
44 有給スタッフへの給与は、支払い能力があるにもかかわらず、給与が支払われないか、 異常に低い額である。
45 財産や物品の個人的所有をほとんど認めないか、著しく制限する。
46 教会が家族に内緒にさせて多額の献金を強要する。
47 生活に困窮しても、教会が献金を強要する。
48 家族、友人、また消費者金融やカードローンから借金させてでも献金させる。
49 経済的に元の暮らしに戻れないほどの財産の寄付・高額の献金を求める。
50 私的な生命保険を解約させたり、資産を処分させたりして教会に献金させる。
51 教会が献金額に関する相談に一切応じない。献金額が減ると嫌味を言ったり、態度が変わる。
52 脱会者やその意思を持つ者が、財産返還を要求しても、それに全く応じようとしない。
53 健康保険、生活保護や年金の受給が制限される。国や家族から経済的支援を受けているのに、 献金を強要される。
問43~53 の小計
Ⅶ 極端な教理
54 「私たちだけが唯一正しい宗教(キリスト教)である」と言っている。
55 他の宗教団体・キリスト教会は「悪魔の手先」、「堕落してる」、「霊的にレベルが低い」とされている。
56 外部の人々に対して、エリート意識や優越感をもっている。
57 「私たちのグループは外部から迫害されている」と強調する。
58 「聖書の学び」で、いつも特定の教理や聖書箇所ばかりが強調される。
59 学校の行事参加や課外活動の参加を極端に禁止される。もしくは偏った教えによって、参加できない精神構造になる。
問54~59 の小計
Ⅷ 自由、人権問題
60 本人の了解なくプライベートな情報を漏らしたり、個人的な秘密を守らなかったりすることがある。
61 指定された場所で集団生活をさせられ、プライバシーがない。
62 個人の日記、手紙、メモ、メール、預金などを指導者に見せなければならない。
63 個人的な秘密も、集団の指導者に明かさなければならない。
64 たとえ家族であっても、集団外の者は信者の居住地を知ることができない。
65 個人的に大切にしていたものを捨てさせたり、大切にしていた対人関係の縁を切らせたりする。
66 伝道や奉仕活動に専念させる目的で仕事や学校を辞めることを望ましいとしたり、強制的に 辞めさせようとしたりする。
67 恋人や配偶者がいても、入信すると、別れるしかない。
68 伴侶が教会に対して好意的でない場合、指導者によって離婚させられることがある。
69 夫婦が教会や指導者の方針によって別々に暮らしている。
70 生活のすべてについて、指導者や上の立場の人に連絡・報告・相談をしなければならず、 自己決定権を大幅に制限される。
71 指導者が一部の者をサタンや悪霊呼ばわりし、他の信者にもそのような印象を持たせ、 付き合いを絶たせるように仕向ける。
72 指導者が信者の交わりや学びに過度に介入し、束縛する。
73 教会活動以外には無気力になる。
問60~73 の小計
Ⅸ 入信過程での問題
74 入信に際して、家族や友人・知人などの教会外の人々に相談させないようにする。
75 集団的な熱狂状態や情緒的な興奮状態の中で入信の意思決定を強要する。
76 「超常現象」と思わせる体験をさせて、吟味のないまま証で体験を強調し、指導者や教会の 思想や理念を正当化する。
問74~76 の小計
Ⅹ 批判や脱会に関わる問題
77 「退会すると不幸になる」「神に見離される」「罰が下る」「地獄に落ちる」 「この教会から出ることは キリストの傘から出ることだ」などの恐怖感を植えつける。
78 批判的な信者に対して、無視、侮辱、非難、などの精神的罰を与える。
79 退会した元信者に対して、脅迫したり、嫌がらせをしたり、汚名を着せたりする。
80 退会した元信者とはつき合わないように、話をしたり挨拶したりもしないように、信者を指導する。
問77~80 の小計
Ⅺ 信者がマインド・コントロールされている被害
81 たとえ内容に納得できなくても、指導者の指示や意見に従うことは当然とされている。
82 信者は、指導者の許可を得てからでなくては、行動できない。
83 多くの信者は、「指導者(団体)の助け(指示)がなければ、私は生きていけない」という考えを持たされた。
84 生活のスケジュールはすべて管理され、家事を含め個人で自由に使う時間がほとんどない。
85 入信してから、自分の考えを捨て教会の教えに従うよう教えられるため、自分の思考力、判断力、 決断力が低下してきた。
86 自分で考えることは「悪いこと」とされている。
87 信者は信仰において子ども扱いされる。
88 信徒は、キリストの導きを仰ぐというより、指導者の顔色をうかがって行動する。
89 教会や教団の規則が私生活にも及び、罰や報酬が与えられる。暴力がしつけと称されることもある。
90 伝道や奉仕において果たさなければならないノルマがある。
91 懲戒に関して、本人には弁明・反論する機会が十分与えられない。指導者の都合がよいように 歪曲されたり、偽りを蔓延させたりすることがある。
92 教会が勧める本以外に読んではならないなど、個人の自由な読書は認められない。
93 教会に対して批判的な情報はすべて禁止されている。
94 嘘が頻発する。
問81~94 の小計
 」
 
楽山は、自分は批判・評価する立場だと言いたいのでしょう。しかし、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)こそが、最悪の、無神教カルトなのです。つまり、アンチカルトを気取っている楽山がカルトを批判すればするほど、楽山のカルト性が明らかになってバレてゆくのです。
 
教会の権威主義によって信徒を縛っているカルト性の尺度のようです・・くらい書けないのでしょうか。上のような評価尺度を紹介しながら、なぜ「150でした」で済ませるのでしょうか。言えば、自分の丁寧語による偽善性が明らかになるからでしょうか。中庸・中立を気取るのも、限界に来ています。
 
権威主義、公共性、ハラスメントと被害、嘘・偽り、マインドコントロール、などを尺度にしているようです。楽山の、虚妄の権威主義、公共の責任を負わない態度、詭弁と罠と雑言で貶めてくるマイコン、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する体質が当てはまります。ちょっと見るだけで、楽山に当てはまってしまうのです。
 
上の尺度の悪いほうは、いずれも、楽山がそうありたいと思うことなのでしょう。しかも、楽山は、極めて怠慢なので、部下がいて、何でもやってくれるカルト組織を夢見ているのかもしれません。楽山は宗教を否定したうえで、無神教カルト教祖になりたいのだろうと思っています。実現させてはいけないことです。
 
薄汚れた楽山の精神は、サイコパスに向かいながら、なおも丁寧語を使うことで、また、実質もなく優しい世辞のような褒め言葉もたくさん使ってきた今までの経過から、分裂と崩壊に向かっています。ゆえに、ペテン師としてはバレてはいけないことが、じわじわと目についてきました。もっとひどくなるでしょう。
 
 
甚だしく足りない 中身なき気取り

甚だしく足りない 中身なき気取り
 
 
(2022年12月29日)
 
 
 
  疾走する闇

少しばかりの自負を抱き
捨てて
出発したのだ
魔界の裏側へ
地獄の底より下を目指して
頭は割れたのだ
脳髄は垂れ流しだ
脈管は怒張し虚脱した
青黒い溝となった
溝に白く細い筋が交叉するだけの
四肢を振り回し
皮下に残る油の
わずかな膨らみに歯噛みをした
引き裂かれたいためだ
引き裂かれるものも無くなるまでだ
跳んで来る矢も石も天の恵みだ
天の恵みもなくなるのだ
疾走する闇が風だ
失われる視野が道だ
失われる足元が光だ
すべては道標だ
すべては罠だ
引っかかった
転びはしない
伸び切ろうとするだけだ
影が主を失ったときからだ


  赤の明暗
 
雪に目を見張る少女
頬の赤み
 
白い中へ飛び込んでゆく
横面ひっぱたかれて腫れ上がった顔
頬の赤み
 
黒ずんで逃げ出してゆく
どちらも痛みを忘れる驚き
危うく帰らぬ人
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
迷路の途絶のような楽山の文章は、楽山の虚栄と病質と症状を表してきました。大事なことを何も分かっていない、恥を知らない、反省しない、楽山は、いつまでも、どこまでも、自らの廃墟を彷徨いたいのでしょうか。鏡で自分の顔を見ることもないのでしょうか。そして、笑い、怒るのでしょうか。ずっと末路なのです。
 
思想や宗教の理路も共感も欠落している楽山です。超常関連のカルトを批判して、ついでに、キリスト教も批判してきて、こちらの理路を全く受け取れない病質的自己満悦だけが明らかになりました。それで、もう3年以上も批判していますが、病質の衝動でしょうか、考えないのに書くことが止められないのです。
 
 
 
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  超常と信仰2
 
 
神・キリスト、聖霊の聖三位は、いずれも、超常の御方であります。人間は、超常に住んではいないし、超常を解釈する立場でもありません。人間が神聖に関わるのは、あくまで、人間として、受け取り、考え、信仰者は、仰ぎ、希望として生きる縁(よすが)とするためであります。
 
超常の神聖なる世界を、人間が、推測したり想像したり、説を述べたりすることは、人間の知的な営みとして是とされますが、それを決めつけて信じ込むことは、背教に他なりません。超常を考えるより大切なことは、地上の日常、即ち、人間の生き方を考えることです。
 
神聖を語るに、神聖の用語を語っても、人には理解できません。理解したかのように振り回すのは、とても醜いことです。自分という人間に、神聖は、どのように影響しているかを語るべきであります。そのヒントは、他でもない、聖書にあります。
 
旧約聖書には、神と人の違いが、多く語られています。人は有限であり、神は、全知・全能、絶対・完全、永遠・不変の存在として語られています。この6つの性質は、いずれも、人にはないものであり、神聖なる御方だけの性質であります。
 
新約聖書には、キリストの、この上ない洞察力と共感性が語られています。数々の物や肉体への奇跡、超常奇跡については、現代において、殆ど起こっていないので、人間には理解を超えた神聖の力であり、そこに、不完全な人間の信仰は成り立ちません。生きる縁にならないからです。
 
キリストは、傷ついた人、病の人、取税人、姦淫を犯した女性、犯罪人、などを、選んで、救いました。その人々は、正直に告白する以外、何も持っていなかった人々です。一方、分かっている、守っている、知っている、見える、という人々には、信仰の義を与えず、敵としました。
 
聖書を読んで、不完全な性質、即ち、罪深さを常態として持っている人間が、何を受け取るべきか、そして、何を考えるべきかが、そこに、表れています。超常の神聖自体の理解は、終末まで、保留するべきであります。ゆえに、神秘と言われます。
 
私たちは、祈りにおいて、何が語れるでしょう。正しい絶対の完全な真理、救いの具体的な仕組み、終末まで、私たちは知りません。人間を見て洞察するキリストの共感に、私たちも、共感を覚えたゆえに、キリストを好きになり、祈るようになっただけなのです。
 
ですから、祈りにおいて、語れるのは、正直な、罪の告白と、癒しと救いの希望です。それを学ぶために、聖書があり、ヒントとしての教義があり信条があるのです。分かっているから信じるのではありません。信じていないと生きられないから、祈るのが、信仰です。
 
 
必要だったから求めた

必要だったから求めた 27歳 (・・今は68才)
 
 
(2021年)
(2022年12月16日、再録+加筆)
 
 
 
超常の神の辻褄を、日常の人の辻褄で、確定できません。肯定することも、否定することも、できないと知るべきであります。それよりも、もっと、自分が、何ゆえ、どのように、キリスト者になったのか、自分が、何ゆえ、聖書を読み求道しているのかを、人間として考えるべきだと思います。
 
キリストの深い共感に呼応して、私は、キリストに共感できるから、キリスト者になり、あるいは、求道を続けています。人間の共感性を失うようになって、教理の言葉を並べるだけになったら、もはや、人間を生かす信仰ではありません。
 
昔「愛の唄にはなぜか、愛のことだけが書かれていない」という詩を読んだことがあり、愛よりも、共感という双方向の言葉が好きです。共感は、愛につながると言ってもよいでしょう。愛の行いは、人を生かしますが、一方、よかれと思って傷つけることもあります。人間は不完全です。
 
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに折れて
中央は欠損していた
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
 
  自殺について
 
(「自殺は最大の罪」とは
「自殺者は最大の罪人」の意ではない
 これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
 死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
(神が生ける者の神であるように
罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
最大といわれる自殺の罪が
果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
(基督は確かに生きよと言われるだろう
だが その理由によって生きている人間は
思ったほど多くはあるまい)
 
死ぬ ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
もともと基督など信じていなかったのだ
ということにすれば辻褄は合う
だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
 
生きたかったと
 
 
 
※ 
 
正直な告白と願い以外は、神には通用しないと思います。
 
絶対の神に対して、真善美の大仰な讃美だけは、しないほうがよいと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、小学生の興味本位の謎解きのようなことを書いていました。神がいるなら酷い悲劇は起こらないはずだから、悲劇が起こっているということは、神はいない・・という主張ですが、神の辻褄を、自分の辻褄で語れると思うこと自体が、既に、神を少しも知らないということです。
 
酷い悲劇が起こる地上だから、生きるための縁(よすが)が必要なのです。楽山は、自己愛・自己中を生きる縁として、自分のほうが上だという優越感だけを求めて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の醜さを表すようになっている反キリストです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
訂正!
× Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
○ Pさんにとっての神は、逆らおうと思える存在なんですな。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: @vincent20200110さん
神に対するアンチなんて
やろうと思えば誰でもやれる
 」
Pさんにとっても神は、逆らおうと思える存在なんですな。
私は、神には誰も逆らえないと思うけどね。
たとえば臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話はあっても、逆らった話なんて聞いたことないもんね。
午後9:47 · 2021年12月14日
 
「神には誰も逆らえないと思うけどね」・・神を知らないし、信じてもいない楽山が言っています。口から出まかせとは、このことでしょう。このように、知りもしない存在を、分かっているかのように、いけしゃあしゃあと書いてくるのが、自己愛性人格障害の特徴でしょう。
 
「臨死体験で、光の存在と会って、深い愛を感じ、癒やされ、改心した話」・・楽山の夢想~妄想する神?は、「臨死体験」とかでないと、ぴんと来ないのでしょう。それを、「光の存在」「深い愛」「癒され」「改心」などと、目いっぱい飾ってきました。
 
実感のない言葉は文脈から浮いてきます。
 
楽山レベルの、アンチというのは、大嘘なので、無知で無恥な分、誰でもやれるだろうと思います。楽山のインテリ宗教家気取りは、止みません。楽山は、神を、そして、深い愛を、文章に表せたことがなく、全く知らないのです。言葉だけをいじくる楽山の企みは、空しいばかりです。
 
楽山の、マンガ的な落書きの世界で、"神"という言葉は、言葉だけで、何の意味も持ちません。そして、楽山は、自分の物差しで測れる神?を、せっせと貶めてきたのです。真摯な態度というのが、全くないのが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの、転落中の、楽山の特徴です。
 
楽山は、全てが分かっていないと気の済まない男なので、平気で、"神" と言い、それを自身の安っぽい概念の箱に納めてしまうのです。そこは偏見の溜まり場であって、信仰の欠片も芽生えも、ありません。埒(らち)もない暗く陰湿な魔道を、楽山は、ずっと、徘徊しているのです。
 
 
 
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  楽山は闇の中に2
 
 『朝の光の中に』溝部脩著
 2021年11月21日 楽山日記(LD)
   を改めて再録+批判。
 
 
楽山が、いかに、美化しようとしても、楽山の体質からの発言は、言語を通して、楽山の卑怯と病質を表して見苦しいだけの雑言になってしまうようです。楽山には、深い文章、特に、宗教や信仰の文章について、全く理解力がないことを、自ら表しています。
 
(ネットより)
溝部 脩(みぞべ おさむ、1935年3月5日 – 2016年2月29日)は、カトリック教会の司教でサレジオ会士。カトリック高松司教区及びカトリック仙台司教区の教区長。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。
 
 
*概略
本書は溝部司教の説教集である。収録されている説教は、一、二頁と短く、読みやすいものが多いが、やや長く難しいものもある。
以下に、本書中で特に印象に残った箇所をメモしてみたい。
 
楽山は、いつも、メモするだけです。それで責任を逃れようとしています。表れてくるのは、楽山が、理路を正して自分の意見をまとめることが出来ないということなのです。「読みやすい」・・楽山は、何も読み取っていないと思います。心にもないことを平気でいう男です。
 
 
*聖書
著者は亡くなった司教様のことに思いを馳せつつ、次の言葉について触れている。
わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。
(黙示録2:19)
 」
これは心にじんと来る言葉だ。自分のことを理解してくれている存在があると思えば慰められる心持ちはするが、その一方で怖ろしくもある。
 
「心にじんと来る」・・楽山は、しばしばこういう単純な感動言葉を使いますが、こう書けば受けるじゃろ・・という、実感のない世辞の類です。「怖ろしくもある」・・これも嘘です。そう思わせたいのでしょう。もし本当であるなら、今までの偽善と嘘と詭弁は書けなかったはずなのです。
 
寒い世辞です。「心にじんと来」て「慰められる心持ち」で「恐ろし」いのでしょうか。感情がバラバラであることに気づいてください。こう書いとけばいいじゃろ・・という楽山にしばしば見られる受けねらいの細工なのです。言葉の深い意味が分かっていないからです。
 
 
*罪と救い
著者はイエスの系図に罪を犯した者がいることを指摘しつつ、次のように述べている。
罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれてきます。アウグスティヌスではありませんが、罪のないところには救いがありません。わたしたちの罪深さ、ほんとうに深い人間のもつ罪深さ、これらを通してこそ、神の救いがあるのです。
(『朝の光の中に 溝部司教の説教より』溝部脩著、ドン・ポスコ社、2003年、p.64)
 」
罪があるから救いがあるというのは、悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある。
 
「イエスの系図に罪を犯した者がいる」と書いて、キリストの神性を暗に否定したい楽山です。本では「罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれ」という救い主の由来を書いて、超常のスーパーマンの家系ではないゆえにこそ、罪深い人間に多く接して、共感できるということでしょう。
 
「罪のないところには救いがありません」・・条件法ではなく、罪なき人はいないということです。言い換えれば、罪の自覚のないところには救いはないということです。誰でも人間として完全ではなく罪を犯すから、悔い改めて正直に祈ることで救いがあるのです。自己中の楽山には理解できないのです。
 
楽山は、罪を自覚したことがないので「罪があるから救いがある」という「どうしても救いが必要な人間」という意味が理解できないのです。"罪" と "救い" を、単純に反対語として受け取っています。こういう人には、救いも信仰も分かりません。言葉を表面的にしか受け取れず、詭弁しか語れないのです。
 
悔い改めない自己愛性人格障害の自己中である楽山は、救いに該当しません。このように、話を進める前提に、既に、詭弁の躓きの石を置いてゆく楽山です。小さい言葉一つ、楽山を信用してはいけません。根っからのペテン師になり下がった男です。
 
「罪のないところには救いがありません」とか、罪人が救われる、とか言ったことは誤解を招きやすく、早速、楽山は、罪があるから救われるから自分も救われるという詭弁として悪用しています。罪人の自覚が、救いを求める動機になるということであり、楽山には一度もないものです。
 
「悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある」・・説明もなく、意味不明です。楽山のような作為の偽善という極悪があるから、その反対側に、悪の自覚から善を考えられる信仰という意味なのだろうと受け取っておきます。楽山は、自らの救いの可能性を自ら否定してゆくようです。
 
 
そういえば、三浦綾子の『氷点』のヒロインは、自身の出生の秘密を知って悩んでいたのだった。先祖に不義を犯した者が一人もいない者はいないだろうが、それについてさほど気にせず生きられる人と、それらの不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人とでは、その生き方は全く違ったものにならざるを得ないのだろう。
 
楽山は、罪の物語を、他人事としてしか受け取らず言っているのです。いつもそうです。楽山は、不義も罪も偽善も全く気にしないでいられる自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の生き方をしてきました。楽山には、このような題材で、何も書く資格はないのです。
 
「不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人」・・楽山は、いかなる悪も偽善も、感じないでいられるということが今までの記事に表れてきました。確かに、罪深さを自覚する人と、自覚しない楽山では、生き方が全く違います。楽山は罪の自覚がないために根腐れになっています。
 
 
*聖体拝領
著者はその昔、太平洋の島にやってきた司教や白人女性が、現地住民に食べられてしまった話をしつつ、聖体拝領の意義を説明している。
現地住民は、司教のような偉い人にあやかりたい、美人の白人女性のように美しくなりたいということから食べたのであるが、聖体拝領には次のような意味があるという。
ご聖体を戴く度ごとに、わたしたちはイエス様に同化し、大きく成長して、今度は自分を人々にあげられるようになるのです。
(同上、p.188)
 」
自分としては神の血と肉を食べるというのは感覚的にどうにも受け入れがたいものがあるのだが、この説明を聞くとその論理に関しては理解できなくもない。ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かるので。
 
現地住民に食べられることを「理解できなくもない」と言っています。とんでもない不祥事でしょう。「相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・気でも狂ったのでしょうか。それとも、キリスト教はそんな宗教だと、吹聴したいのでしょうか。楽山の狂気と悪意が全開です。
 
聖体拝領(聖餐式)のことを、楽山は、人食いやライオンの話におとしめています。やはり、偽善の作業のために、悪意も疲弊して、楽山の人間性を破壊しているようです。私は教会を離れてしまったが、聖餐式は、そのような儀式ではありません。キリストの血と肉は、あくまで比喩~希望であります。
 
信仰者が、希望を求めようとしているところで、それを腐らせるために、楽山のような反キリストが、悪意を向けてくるのです。聖餐式は、キリストの犠牲の血と肉の、象徴的儀式です。「力を得ることができるという発想は分かる」という楽山は、人食いの精神で、血を求めているかのようです。
 
楽山は、ふつうに読めば、慎重に構えるべきことくらいは分かることが、分からなくなっているようです。こういうことしか書けないのは、既に末期なのか。楽山のことをケダモノとは書いてきたけれど、本当に肉食本能だけの飢えた動物に堕ちているのでしょうか。楽山の文章が、臭くて、たまりません。
 
「ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・比喩とも言ってないようです。牛肉を食べれば牛のように強くなるでしょうか。「分かる」などと根拠もないことを言う楽山は、正気ではありません。
 
以上のようなことを平気で書いてくる楽山の非人間性です。楽山は、本当に、偏見と悪意しか持っていないと思います。精神病質でサディストで、良心の慎みの欠片もない男です。読む人の心に与える寒気と吐き気が楽山の生産物です。さらに増悪する恐れがあるので、決して関わらないようにしてください。
 
 
どんな間違いや嘘を言っても反省も訂正もしない楽山のような人間になってはいけません。そういう人間は成長しません。人間は成長するのが特徴ですから、訂正不能の人間は、人間ではありません。そういう人は、関わる人々に迷惑をかけながら、混乱し劣化し崩壊してゆくだけです。
 
 
人の心を食らう肉食獣

人の心を食らう肉食獣
 
 
(2021年)
(2022年12月15日、再録+加筆)
 
 
 
  (抜粋)
 
ある日ネズミを捕まえた親猫は
しばらく足でいたぶっていたが
にわかに頭から口に入れ
バリバリと骨を砕く音を立てながら
尻尾まで残らず食べてしまった
そのときの親猫の眼は
獲物を奪われないように警戒する
肉食獣のそれを思わせて
さすがに恐かった
 
 
  引き継がれ
 
ときに和み
ときに競い
ときに揺さぶり
ときに闘って
似ていても
相反していても
結局どこまでも孤立しており
いつまでも孤立していながら
引き継がれる力がある
 
微かな光を浴び
あるいは底知れぬ陰に沈み
あるいは叩かれて去り潰されて消え
あるいは独り獣道に迷い込んで倒れ
犬か鼠のように死んだとしても
 
信じようと信じまいと
それぞれは役割を担っており
そのそれぞれを刺激し賦活し
いつまでも秘密でありながら
引き継がれ押し出そうとする
大いなる力がある
 
だから心置きなく
時が来たら安らかに速やかに死ね
だから心置きなく
時が来るまで苦しみ抜いて生きよ
 
無数の苔むした躓(つまず)きの石の潜む
果てしない樹海へ
無数の肉食プランクトンの生息する
果てしない深海へ
押し出されて行け
 
 
  混線ラップ
 
ぎ・み・さ・わら
少しでいい
いがらっぽい毎日に
煙草のせいではなさそうだ
呪いの国 笑いの街角 箱の中
 
殺伐たる事件の数々
せめて明るいニュースで埋めて
メリットだらけのメッセージ入れて
 
無理な遊戯の化粧と愛想が
期待通りの笑みを浮かべて
飛びたい刃物の獣性を隠して
二十歳(はたち)過ぎても三十過ぎても
食えるのにまだ飢えている
 
 どんなに図体(ずうたい)でっかくても
 線が細いと長持ちしないぜ
 だって太い線はみんな完全
 感電・感染しているくせに
 罅(ひび)割れ漏電しかけているから
 下手に触ると怪我(けが)するよ
 
これはフィクションです
これはフリクションでガーガーガーガー
 
銃声とジェット機が
走る背中を追い越してゆく
 
呪詛の国
笑って殺すか殺されるか
期待の未来の原稿読むか
うりゅ・ぎ・み・さ・わら・ぷり ?
これはフィクションです
水を水を水を水を
聞こえますか どうぞ?
 
 
※ 初めの1行目と、数行前は、は、一応、
  ( will you ) give me some water please のつもり。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、サディスティックな性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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