ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反キリスト

 
  楽山の心無い芝居
 
 「鬼滅の刃」と「スピリチュアリズム」
 2021年02月28日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の精神年齢の低さが表れています。
 
「鬼滅の刃」を通読してみた。その基本設定は予想以上にスピリチュアリズムと重なるところが多かった。
 
「鬼滅の刃」 → スピリチュアリズム の流れで、宗教・信仰を語って現実離れしてきた楽山を信用しないでください。人生を趣味で片づけようとする者です。
 
たとえば、この辺り。
人は生まれ変わる。
人は単身で生まれ変わるのでなく、ソウルメイトがいる。
 
生まれ変わりとは、既に、話が超常のことになっています。一方、楽山は、心・精神の生まれ変わりであるところの、魂の奇跡を、何も考えることが出来ません。そういう記事を書けない楽山です。
 
利他的な生き方の推奨。
感謝の大切さ。
 
どこでも聞かれる当たり前の倫理・道徳です。これで、楽山は何を確認するのでしょうか。総て、楽山が裏切って、悪用してきたことです。楽山の白々しさに、背筋が寒くなります。
 
>非難、難詰では、人は変わらない。怒り、自己正当化を生むばかり。
 
批判を非難していますが、反省しない者は、何を言われても変わらず悪と偽善に走る、ということが、まさに、楽山を通して実証されてきたのです。
 
楽山のような偽善者は、「自己正当化」のように、自分が言われたこと、言われそうなことを、わざと書いてきます。何度も書いてきます。
 
この記事も、今までの記事も、楽山の自己正当化→誇大化が動機であります。それだけを言ってきたようなものです。楽山は、人のことなどには、何の関心もない男だと判断しています。きれいごとを並べれば、人は騙されてくれると思って、舐めきっているのでしょう。
 
良心を持たない者は、やさしい言葉でも、批判でも、変わらないでしょう。だから、誰も近づかないようにと、私は批判を書いて、資料としてゆくしかありません。
 
人は、やさしさ(愛)によってこそ変わる。
圧倒的な善意(愛)には誰も抗うことはできない。
 
優しさ芝居で、人の優しさを利用して、悪意と偽善を企んできたのが、楽山です。圧倒的な愛について、楽山が語るのは、犯罪人がニヤニヤ笑いながら説教をするようなものです。
 
(ネットより)
難詰(読み)ナンキツ
[名](スル)手きびしく非難すること。きびしく問いつめること。「不注意を難詰する」
 
自らの罪を悔い、反省をはじめると、守護する霊の姿を見、その声を聞くようになる。
 
自らの罪を悔いず、反省もせず、霊が分かるっぽい気でいるのが、楽山であります。とうとう幻聴も始まったのでしょうか。善には善の種が、信仰には信仰の種が必要です。切っ掛けとなる体験のことですが、楽山には、自らを偉く見せるような、でっち上げの体験と、だまし言葉があるだけなのです。
 
>悪いことをすれば天国には行けず、地獄に行くことになる。
 
よく言われる通念的な話です。単に悪といえば浅い話になってしまうことを、楽山は弁えていないのです。何も学んでいないことが表れています。
 
>地獄は強要されるのでなく、自ら納得して行く。
 
説明もなく何を言っているのでしょう。楽山には、何も学ぶ気もないことが、楽山の気安い高慢な妄想的言語に表れています。このような言葉だけで、何かを表したような気分になる楽山です。この思い上がりには、逆に言葉自体がけがされてゆくでしょう。あらゆる努力を怠って、人も言葉も、鼻先で笑っている者の言だと思います。
 
主人公は決して自分を見失わない。権威、権力、恐怖…などには屈せず、自らの内なる声に従う。
個性尊重。自分らしさを保ち、かつ他人の個性も認める。
愛に飢え、貪欲な鬼は、口が強調された姿となる。その姿はその心によって決まる。
その他いろいろ。
 
楽山は、プラスを言いマイナスを言い、断定していないから責任はないなどと言う、元々、自分を持っていない人です。自分の代わりに、欲望の自我の企みで書いています。
 
楽山の自分らしさは、今までのところ、無反省・無責任・無理解・無神経・偽善者・嘘吐き・詭弁屋・無視・不感不応、など、・・でしかなかったのです。このような自我は、人を傷つけるだけです。保たれてはたまりません。悔いないなら、一刻も早く、何も言えないほど縮んでください。
 
スピリチュアリズム的な世界観は極めて特殊でもなく、多方面に広まってもいるので、「鬼滅の刃」のなかにスピリチュアリズム的なところがあっても別段不思議はないのではあるが、なにはともあれ、スピリチュアリズムに共感する人であれば、血飛沫が飛ぶようなアクションは大の苦手というのでもない限りは、本作に感動できるにちがいないと思う。
 
アニメとスピリチュアリズムを同一視する楽山は、結局、そのレベルでしか宗教と信仰を語れないのです。楽山は、哲学・思想・宗教・信仰を全く理解できないからです。それで、楽山は、執拗に、同一視したいのでしょうが、既に、ボロボロの理路・妄想・自己中・自己愛が表れてきたのであり、一切の弁解はボロ布のようなものであり、今さら、何も成り立ちません。
 
主人公のやさしさに触れて、鬼が自らの罪を自覚し、見失っていた自己を取り戻し、改心していく場面はもちろん、このやさしさは鬼のみならず、仲間たちをも良い方に変えてゆくところは本当に素晴らしく、
 
こういうところにしか褒め言葉を当てられない楽山です。触れて、自覚し、取り戻し、改心していく、これらは、すべて、楽山にはできないために、楽山が嘘と詭弁で裏切ってきたことなのです。
 
まさに、今、この記事も、そういう嘘であります。真実を追求しているつもりの、楽山という、いい大人が褒めまくって書いていますが、楽山は、ホラーアニメに依存しているのでしょうか。
 
真実を追求している本当の大人なら、趣味以上に書くことではないのです。
 
「愛こそはすべて」ということがよく分かるようになっているし、スピリチュアリズム的な考え方はあちこちに散りばめられているし、スピリチュアルなことに関心のある人にはお勧めの作品である。
 
「愛こそすべて」が分かるなら、今までの楽山は、なかったはずです。大袈裟な豪語をすれば、信用されるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山が自分で言って、逆に、楽山の行状がそれを否定し、楽山の言葉が、まさに、楽山自身を責めている記事であります。楽山に、何かを「お勧め」などする資格はないです。
 
楽山の見当違いの妄想世界から、お勧めされては、実に迷惑です。ほんとうに、台詞の白々しさが、ひどい。楽山のようにだけは、ならないでください。
 
 
どんづまり、地獄

どんづまりの地獄
 
 
(2021年03月01日、同日一部修正)
 
 
  楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·35分
おススメ書籍、ちょこっと読みました。 
悪魔が嫌うことは、
・正直(嘘はつかない)
・勤勉(コツコツ努力する)
・明朗活発(明るく積極的)
 」
とのことですね。
書籍後半では、謙虚、無執着、恨まないなども挙げられてた。
これらは総裁も出来てないし、言うは易し行うは難しだと思いました。😊
午後4:40 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、平気で、数えきれない嘘を吐いてきました。
人間関係のベースとなる普通に正直であることを、まず、楽山は守る気がないのです。
楽山には、傲慢で、霊が分かるっぽい自我への異常な執着、そして、その体質ゆえに誰からも信頼されないことに対する人間と社会に対する根深い怨念があるのだろうと推測しています。
 
楽山は、努力が大嫌いです。霊が分かるっぽい?霊能者気取りだから、人の言うことを聞いて考えることを全くしないのです。すなわち、無反省・無理解・無責任・無神経です。
 
楽山が嘘を吐いて平気なのは、陰険であり、決して明るくはないです。
楽山は性悪で、陰気に悪と偽善を企み実行してきました。
楽山は、鈍麻・鈍感・不感不応だから、不都合を無視するのです。
 
楽山は、嘘を言うは易し、正直も、最小限の善も、行うは難し~しないよ・・なのです。
 
前に、楽山は、親族に、仏様が喜んでいると言ったら笑われたことがあり、親族が仏様の気持ちが分からないっぽすぎるのには驚いた、というようなことを書いていました。
 
楽山が、仏様と言っているのは、仏像、仏壇のことでしょうか、仏陀のことでしょうか、ご先祖様のことでしょうか、いずれにしても、こういう小児期の異常感覚に、今も支配されて、霊能者気取りになっているのでしょうか。
 
もし、楽山が、超常の存在の気持ちが分かる本物の霊能者なら、嘘と詭弁にまみれた今までの有り様は、むしろ、ありえないわけです。即ち、嘘で出来ている楽山は、霊能者どころか人間として成り立っていません。
 
楽山を、信用しないでください。相手にしないでください。楽山に関わらないでください。近づかないでください。お願いします。約2年間、私は、そう言い続けています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
集団リンチの様相を呈していたのも酷いけど、
政治家なら、自分の発言の一部を切り取られ、非難されることがあるのは承知しているはずなのに、この罠にはまる政治家があとを絶たないのも酷いですね。
こういう無防備さ、不用心さの原因を探る論考も掲載されてるのだろうか。
午後5:31 · 2021年2月28日·Twitter Web App
 
楽山は、自分の発言が批判されているのは承知のはずなのに、無視し続けているのは酷い話です。
 
こういう楽山の、無視による防備と、影響を考えず、反省することもなく、責任を負うこともないという原因は、楽山の自己愛性の体質にあるのでしょう。
 
楽山は、嘘で飾れば、白々しさが表れ、苦言を呈すれば、自分が当てはまる、という無間地獄の様相です。それでも、自覚がなく、平気を装うのが、体質的異常者なのです。
 
 
 面白いドラマ、アニメ
 (『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』、『ゆるキャン△』など)
 2021-02-28 楽山日記(a)
 
『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』は、第一回では学芸会的過ぎると思ったのだが、つい第二回も見てしまい、それ以降すっかりハマってしまった(笑)。毎回、泣かされ、笑わされている。
『ゆるキャン△』はタイトルだけは知っていたが、第一回を見てすぐハマった。アニメもおもしろい。こういう雰囲気はすきだ。
『進撃の巨人』も盛り上がっているし、面白いドラマ、アニメがたくさんあってうれしいぞ。
 
批判されている最中に、批判されていることに無頓着でいられる。無視して、ドラマやアニメの趣味の記事を平気で書いていられる。しかも、びくともしないぞとでも言っているような余裕ありげの「(笑)」「うれしいぞ」という文言を付けてくる。これが、楽山という人です。問題を何も感じないのです。
 
 
(2021年03月01日、同日追加)
 
  
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  楽山のネトウヨ
 
 『国民の歴史』西尾幹二著
 2021年02月27日 楽山日記(LD)
 
 
ネトウヨ楽山の登場です。著者は、東大文学部卒の、右翼の思想家です。有名人といってよいでしょう。生きている有名人の本の引用、ネトウヨなら無断でしていいのでしょうか。
 
*心に残った箇所
『国民の歴史』は、新しい歴史教科書をつくる会がよく話題にされていた頃に一度通読したきりで、今はもう巻頭の写真をみて円空はすごいと思ったことくらいしか記憶に残っていないので、ひさしぶりに読み返してみた。通史というより、歴史エッセイ集のような体裁なので、どこから読み始めてもよいのはありがたい。宗教絡みでは二点ほど心に残った箇所があったので、ここにメモしておく。
 
読みやすさを強調し、「メモしておく」、というのは、だから、自分は、ちゃんと読んだ、読めた、ということを言いたい楽山のやり方です。実際には、理路と読解の両方に欠陥があります。
 
*聖なるもの
まず一つは、「GODを「神」と訳した間違い」にある「大樹の下にただずむのは私も好きだが、ときに言いしれぬ、ぞっとする恐ろしさを覚えることがある」(平成11年 p.387)という文章だ。この感覚は自分にもある。大樹はもちろん、海山川岩石にも同様の感じを受けることはある。
著者によれば、「この「ぞっとする恐ろしさ」が、他でもない、ルードルフ・オットーの有名な「聖なるもの」の定義に属する。「戦慄すべきもの」あるいは「薄気味わるいもの」あるいは「妖怪的なもの」の感覚から聖なるものの領域の気配がはじまるというのである」(p.387)とのことである。オットーの『聖なるもの』は読もう読もうと思いつつも読んでいなかったのではあるが、こういう話を聞くとますます読みたくなってくる。
 
嘘を吐いている楽山には、神に「ぞっとする恐ろしさ」が強いのだろうと思ったら、楽山の思うつぼです。「戦慄すべきもの」ならば、今までのような、自己中で妄想的な安易さで神を否定することはないでしょう。
 
また、有名人の言葉を借りているだけであり、実際は「薄気味悪いもの」とも感じていないのが楽山です。楽山は、都合の悪い感情は切り捨てて、快感だけを貪ってきたことが、今までの筆致に表れています。
 
*キリスト教の敗北
もう一つは、「キリスト教の敗北」についてである。著者によれば、ザビエルは日本での布教活動においては、民衆にむかってキリスト教を知らずに死んだ祖父母らは救われないと「断固厳しい断定をし」(p.396)たのだったが、近年の「第二回ヴァチカン公会議」では「世界の情勢にあわせて世俗化の傾向を強め、異なる宗教との妥協と調和を図る方向へ教義を改訂した」(p.395)としており、これは「キリスト教の敗北」だというのである。これに対してはドイツ人から「あなたの方が私たちよりもずっとキリスト教徒だ」と評され、大笑いになったそうだ。
 
楽山は、キリスト教の勝利、神の勝利が分かるのでしょうか。何も分からないと思います。であれば、キリスト教の敗北も分からないはずです。信仰について何も知らないくせに、またしても、身の程知らずを露呈する楽山です。
 
異教との調和は、どういう異教かにもよるでしょう。自分が舐める飴ばかり漁っている楽山の手に負えるような問題ではないのです。すべて、ケースバイケースです。それを、一般的に語ろうとして、「キリスト教の敗北」と言っている楽山は、大笑いではなく、最初から、愚昧を自ら表しているようなものです。
 
(ネットより)
愚昧(ぐまい):おろかで道理に暗いこと。
 
著者の宗教観は、「こうした原理主義的な自己への明確な規定は、宗教の本来の性格からしてあたりまえのことであり、すべてを曖昧にする寛容さのほうがむしろ例外である。非寛容は宗教の特性ですらある」(p.395)というものらしいので、上のような結論になるのも当然ではある。
 
どういうキリスト教を見ているのでしょう。個人の心の中の宗教は、信仰としてしか生きていないものです。それは、結局、他者には分からないもので、神との秘密でもあります。
 
宗教の組織的なことを歴史的に見て、それで宗教を語ったつもりの人は、信仰に触れていないのだから、何が当然なのか、分からないはずです。
 
一部の愚昧な楽山のような者だけが、自らの惨憺たる敗北の履歴には気づかずに、「キリスト教の敗北」などと軽軽に言ってしまうのです。
 
*宗教と人情
ちなみに自分はどんな宗教観をもっているかといえば、下のような文章に感動するクチである。
ああ、そん時近藤先生に、
「多喜二は天国にいるべか」
 って聞いたら、
「あのね、お母さん。聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』という言葉があるんですよ。チマさんからも聞いていますが、多喜二さんはずいぶんたくさんの貧しい人に、いろいろ親切にして上げたそうですよね。『小さき者』というのは、貧しい人ということですね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエスさまに親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
 うれしかったなあ。多喜二に会える。多喜二に会える。うれしかったなあ。
(『母』三浦綾子著、角川書店〈角川文庫〉、平成21年、p.214)
 」
これは小林多喜二の母が、洗礼を受けておらずキリスト信者ではない多喜二は天国に行けたかを心配したところ、親切な人なら信者でなくても天国にいないわけがないといってもらって慰められるという場面だけども、自分にはこれこそ宗教の役割であるように思われる。ただここでは「多喜二さんは天国にいる」と言い切らず、「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」と若干含みを持たせてるところは、著者の微妙な立ち位置が想像されるのではあるが。
 
「多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」は、人間としての明確な肯定だと思います。楽山は、情緒面の欠陥から、含みを持たせていると受け取っています。
 
激励することが大切な場面でしょうから、日頃の楽山のような雑な言い方はせず、自分はどう思うかを、ちゃんと言い表しています。楽山は、何を言っているのでしょう。
 
(ネットより)
含みを持たせる
読み方:ふくみをもたせる
直接には言い表されてはいないが、表現の中に秘められた意味合いを持っている様子。
 
宗教と人としての情緒が完全に重なっていれば上のような問題は生じないのだろうけれども、そういうことはまずないのだから、情緒豊かな人ほど宗教を信じようとする場合は、宗教と人情のどちらをとるかという問題から逃れることはできず、やっかいである。この点、多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだと思う。
 
宗教と人情という2つの言葉による、楽山の、楽山のための、楽山だけの、独り遊びです。いつも楽山がやっていることです。楽山の言葉に、感動の要素が一切ないのは、このような理路の自己中心による破たんがあるからです。
 
その破たんした言葉で、無宗教を賢明だと言っていますが、これは、そのまま、自分は賢明な人だと自慢しているのだから、背筋が寒くなるのです。こういう婉曲に、だまされないでください。
 
「宗教と人情のどちらをとるか」「多くの日本人が無宗教なのは賢明なことだ」・・頭がおかしいとしか思えません。よほど、戒律的、妄想的な、カルトだけを、宗教だと思っているようです。馬脚をあらわすとは、このこと。
 
キリスト信仰の情は、聖書からの、キリストご自身の深い共感に反応して発達します。
 
宗教と人情が重なっていないと言っています。違うのだそうです。それを最も如実に感じるのは、楽山においてであります。
 
景色と水が違うと言っているような的外れです。必ずしも背反しないものを、重なっているものを、崩壊した理路で分けて、どっちだと聞いているようなものです。
 
なぜなら、楽山においては、宗教は超常の怪奇物語に過ぎず、また、楽山には、人としての情がないからです。宗教も、情も、理路も、まるで知らない楽山だからでしょう。
 
当然、楽山の書くものに、そういう冷血と的外れは表れてくるのです。言葉は、楽山には、喧嘩のときに投げる石以上ではないのでしょう。
 
今日も、鬼畜の所業をやめない楽山です。人としての情のない男が、情を語ろうとして、自ら仕掛けた罠につかまってしまう例でしょう。楽山の言は、質の悪い独り言、楽山だけに返ってゆきます。
 
人生の、いろいろなシーンで、雫のように表れてくる真実の欠片を、ことごとく見逃してきたところの、いつもながらの楽山らしい棘だけで出来ている筆致でした。
 
深い情緒は、神への恐れから敬虔の必然として生まれてきます。
 
神を恐れないところからは豪語と虚偽と悪口が生まれてきます。
 
 
非常の沼

非情の沼
 
 
(2021年02月28日、同日一部修正)
 
 
楽山のリツイートです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·22時間
冷たい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も冷たくし、温かい言葉は、相手の心だけでなく自分自身の心も温めます。心を冷やさないように、温かな心でぐっすり眠れるように、冷たい言葉を避け、温かい言葉を選んで話しまょう。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:32 · 2021年2月26日·Twitter Web App
 
記事の流れの中では冷血が明らかであるのに、場面場面に、丁寧語で、温もりを捏造する者もいます。
 
そういう者に温かい言葉を使うと、ますます、つけあがり、温もりを装うでしょう。そのような温もり芝居だけの、自分納得だけの世界に住んでいる者がいるのだから、暖かい言葉を使いましょう、という説教は、現実の中で、あまりに単純で、あまりに通念的な説教として記録されることになるのです。
 
今回、まさに、そういう者が、このツイートを引用しています。
 
 
(2021年02月28日)
 
 
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  楽山の偽り
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
  抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、批判する資格はないと思います。
 
楽山の、約2年半の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。
 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 
ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。
 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、あらゆる問題を無視する人です。
 
教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。
 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いて、せいぜい、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。
 
恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために、批判して、のちに、賛同めいたことを言う、というような、いい加減さで、ごまかしているネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。
 
批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖気取りなのかもしれません。カルトの犠牲者ではないと思います。
 
今言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。
 
古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。
 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、注意してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。
 
ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。
 
こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としてゆくつもりです。
 
 
偽りの柔和芝居

偽りの柔和芝居
 
 
(2021年02月26日)
 
 
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  分かったふう?2
 
 2020年01月30日  楽山日記(LD)
 『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』
 ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳
 
http://mn266z.blog.jp/archives/23315368.html
  の批判記事を加筆して再録。
 
 
ドーキンスという人は、科学者で、無神論者のようです。無神論者には、自分の知性で、必要なものは賄(まかな)える、という、自己愛性の強い人が多いように思います。卑近な例では、自己愛性人格の者は、宗教嫌いの無神論者の楽山と、自分信仰のカルトであるシャロームがいます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である。
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている[35]。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている[36]。
『盲目の時計職人』では次のように述べている。
ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論はダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。[37]
 
神は、学問によって説明する対象ではありません。説明できる対象でもありません。神は、学問のように何かを説明するためにあるのでもありません。神を学問と同列に考えることは出来ません。
 
宗教は信仰のためにあり、信仰は、神を詳しく知るためではなく、人を、むしろ、神との関係において、自他という人間を通して、その存在と当為を、深く知るためにあります。
 
神を信じる信仰は、人間が、神と違って不完全ゆえの罪の性質という限界があることを弁えて、人間らしく生きるためにあるのです。そのために、キリスト教では聖書から、神と違う人間の罪性を学ぶことが必要だという考え方であります。
 
聖書を読んで神のような完全になる・・などというのは、カルトの妄想に過ぎません。
 
本書はドーキンスの代表作だけども、まだ読んでいなかったので、ざっと斜め読みしてみたのだが、自分にとっては程度が高すぎて難しい本である。でもドーキンスの著作はあれこれつまみ読みしているので、見覚えのある論点、お馴染みの話が散見されるのは楽しい。
 
楽山は、自分では、ろくな記事を書けないのか、ドーキンスの記事を借りて、気色の悪い独特な婉曲表現であるボンヤリ言語をもって、神と信仰を否定してきました。狡くて卑怯な人だと思います。
 
楽山にとって「お馴染みの話」というのは、楽山と同じ反キリストの方向を示していると、楽山が勝手に思い込んでいるだけの、神についての極めて安易で幼稚な捏造の筋書きに過ぎません。そこから、一歩も、成長しないのが、楽山の特徴なのです。
 
自分は迷信深い性質なので、こういう本を読んでどうやら神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じてしまい、無神論にどっぷりハマり続けるということはできないのではあるが、それでもドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う。
 
楽山が、迷信深いから神の臨在を感じると言っていることを見逃さないでください。信じるどころか、楽山にとって、恐らく最初から、神と迷信は同列なのです。迷信深いのなら、神についても、信仰についても、学問についても、書くことが迷信になるでしょう。
 
楽山は、またしても、神を引き寄せて、自分は特別と思わせたいようですが、実際には「神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じて」しまうことは、ないと思います。神の臨在を感じたなら信じるはずだからです。つまり嘘です。楽山は、ただ、自分が神聖を感じることができると自慢したいのでしょう。これも、嘘だと思います。症状かもしれません。
 
楽山は、神の臨在を感じながら、無神論を理解しているようなことを言う、つまり、どっちも分かっている、という、嘘っぱちの立場にいる妄想的学者気取りです。
 
いつも、はっきり言わず、どっちつかずであるように装っていますが、楽山が神に親和するときの、神の臨在、というのは、実に、いかなる宗教とも思えないような、気色の悪いオカルト興味の飾りで出来ています。こうやって、楽山は、心の中の正気を失い、妄想様観念を、ぶくぶくと膨らませてきたのでしょう。
 
楽山が信じているのは、自らの、霊が分かるっぽい自覚だけです。そういう思い込みがあるために、楽山は、神、宗教、信仰、心霊、など超常について自分は語れる、という訂正不能の妄念の奴隷として、読めば、浅はかさが表れているだけのような自慢の記事を書いてくるのです。
 
楽山は、まるで宗教について評論家にでもなったかのような態度で、ああでもないこうでもない、でも神はいないと、深みも意義もない繰り言を書いてきているに過ぎません。
 
そういう自覚によって、宗教についての単なる感想にとどまらない是非を語ろうとして、失敗しては、なお反省はせずに、病識のない自意識だけの記事を、また、批判に答えることもなく、性懲りもなく、書いてくるのです。自己愛性人格障害のサイコパスを思わせる危険な人だと思っています。
 
「ドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ない」・・楽山は、地上の生命の素晴らしさを説明できるというのでしょうか。だったら、説明してください、ということなのですが、楽山は、一度も、そういう深みのある文章を書いたことはありません。
 
>神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う<
 
神は、持ち出される存在ではなく、また、何かの説明に使われる存在でもありません。神は、この浅はかな楽山などに付き合ったり、突き放されたりするような存在ではありません。
 
この幼稚な安っぽい楽山の妄想に付き合わされる人は、犠牲者でしかないのです。よく平気で、これだけ整わない作り話が出来るものだと思います。
 
楽山は、人間らしい理路から外れる度合いの分だけ、人格が破壊されている表れとなるでしょう。何でもわかっているという誤った自尊~妄想を表しながら、かつ、自分は柔和だと思わせたがるのは、まさに、カルト的な精神詐欺師の特徴と言ってもいいと思います。
 
とある書物…うろ覚えだけども『パパラギ』だったかな…では、自然は神のものであったが、この木は俺のものだなどという人々のために、神は貧しくなってしまった云々という話があったと思うが、この話に乗っかって言うならば、人々の所有権によって神は貧しくなったように、進化論によって神は創造者としての地位をも失ってしまったと言えるのかもしれぬ。
 
神は、人の所有権によって貧しくはなりません。神は、楽山などによって否定されることもありません。そういう神?は、楽山の机上のオモチャに過ぎません。つまり、楽山は、神の悪口を言っているに過ぎません。楽山のオモチャの神?は、実に容易に、否定されるのでしょう。
 
これが、楽山の本音だと思います。神を、机上の概念か、自分の批評の下にある類人格としてしか扱えないのです。そのような人の言論は、永遠に神について語れることはないと断言できるでしょう。
 
信仰は、人が神に対する身の程を知ることを前提としていますから、楽山のような身の程知らずには、信仰が芽生えることはないと思います。
 
楽山が、書けば書くほど、表れてくるのは、救いようのない慢心に満たされて、自己正当化し保身しようとする醜い人格に他なりません。神は貧しくなったと書いていますが、神に貧富はありません。楽山は、心の貧困によって、人間でさえなくなりつつあります。
 
自分はもともと創造論者ではなく、生物の進化についてはごく自然に受け入れてはいたのではあるが、
 
自然に受け入れて・・というこの時点で、自然に、ということさえ、当たり前の先入観の固定観念になっている、ということからも、楽山の無反省な不自然さが表れています。いかなる論者にもなれない者の、知的な本を読んでるからというだけの自己満悦です。
 
恐らく、読書をしても、表層だけしか受け取っていないと思います。それで、本と、人と、神の、是非を語ろうとする楽山なのです。身の程を弁えない言論の浅さは、読む人の思考を乱して疲労させるだけで、考察の糧にも資料にも対象にもならず、自尊だけが異常に目立っていて、百害あって一利ないことを特徴としています。
 
そこには神の意思があったのだろうとは考えていたので、神の存在も、その意思も関係なしに、進化は成立しうるというのはやはり驚かないではいられないし、こういう驚きを与えてくれたドーキンスと、ドーキンスの著作を教えてくれた知人には感謝したいと思う。もちろんダーウィンにも…。
 
神の行為も意志も関係も、誰も確定的に知ることはないのです。しかし、楽山は、神の存在と意志が関係していないと分かるような進め方をするのです。不確定要素を確定的に語る楽山の虚言です。
 
そして、進化論の成立を、既成のことのように語ります。進化論を知っているのでしょうか。否、楽山は、身近にかかわってくる人の気持ちも分からない人だと思います。そこで成り立っていない人が、いったい何を得て感謝しているのでしょう。
 
そして、同じように、知っている、分かっている、というスタンスで、学者に感謝を述べるのは、自分も、同等の並びにいるつもりなのでしょう。よく読めば、楽山の病的ナルシシズムぶりは、いたるところに表れてくるのです。
 
楽山の、分かったふう?の気取り、というのは、いかなる信仰にも反する態度ですし、宗教と信仰の名を上げながら、まるで理解していない楽山の、机上や手のひらで堂々巡りをする繰り言であり、一歩も進んでいない足踏みであり地団駄であります。それを、思慮だと勘違いしているのです。
 
愚かでありながら、それに気づかない者が、三途の川の石積みのように空しく、見ようとしない目と、聞こうとしない耳と、感じようとしない心と、考えようとしない頭で、その時その時の欲望でたどる結末への不毛の砂地で、そこは目に見えない多くの虫の巣食う下肥(しもごえ)となるでしょう。
 
それを、ブログに書いて、人に見せようとする自己顕示欲が、かえって、楽山の不遜の怖さを見せつけています。楽山は、自己のためには、いかなる嘘も、印象操作も、詭弁も、手段を選ばず使うカルト的偽善者です。楽山やシャロームなどの易坊類に共通してみられる特徴です。
 
楽山は、心~精神が破壊されていると思います。そして、さらに、他の人の心を破壊するだろうと思います。恐らく体質的なもので、約2年の批判に対しても、無反応で無反省そして無責任で無神経ですから、治る見込みもないのでしょう。自覚~病識もなく、ゆえに、自己中の絶対から、人をだますことしか出来なくなっています。
 
楽山は、こちらが無反省と書けば、「反省。トホホ」などと書いてくる。反省の内実に相当する文章がないので、嘘なのですが、反省という言葉だけ書いてくる。「トホホ」については、むしろ、書いてやったぞ、これでいいだろ、と言われているようで、逆効果なのだが、それも気づかないわけです。
 
共感もなく、反省もせず、鼻先の人参を追い求めるように、批評家気取りで発信だけを続ける病的なナルシシストは、誰もいない砂漠で叫びながら骨になってゆく宿命から逃れられないのでしょうか。
 
誰とも人間らしい共感が成り立たず、深い理解もなく、見せかけの読書自慢と心霊の話をして、世辞の褒め言葉を待っているような、楽山の軽薄な文章を決して真に受けないでください。
 
 
自己顕示欲だけ

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(2021円02月19日、一部加筆)
 
 
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  楽山の欺瞞(ぎまん)
 
 「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年01月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山が、性懲りもなく書いてくるのは、批判を無視してのことです。だから、だいたい、同じようなことを書いてきます。無反省で無責任な楽山は学習し成長するということがないからです。
 
それにしても、この楽山の不感不応の執拗な書き方は、本能しかない実験動物のようです。かつ、何の貢献にも糧にもなりえない、ただの迷惑であります。
 
そして、楽山は、自己正当化という自堕落に満悦するのでしょう。自堕落に満悦するところと、嘘と詭弁を平気で書いてくるところが、信仰者ヨブとの決定的な違いです。
 
「第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上)」の要点を抜き出しつつメモ。
第十六章の研究
「「汝らは皆人を慰めんとてかえって人を煩わすものなり」は原語を直訳すれば「汝らは人を苦しむる慰者なり」となる。慰者とは名のみで実は人を苦め煩わす者であるとの意、強き嘲りの語である」
 
友人たちは、慰めようとして、教条を振りかざし、ヨブの心に触れることができませんでした。ゆえに、ヨブの心を煩わせるだけになります。
 
批判でもなく、嘘と詭弁で、人をだまし、キリスト教についての、幼稚な固定観念を植え付けて、反キリストらしい文章を書いているのが楽山です。
 
慰めようとして、結果が逆で、煩わすのではありません。楽山は、最初から、悪意をもって図り、キリスト教についての悪い印象を吹き込んでゆく反キリストですから、容認されることはありません。
 
楽山のことを柔和な人と思えば、その時点で、罠にかかっているということです。私も、数か月、だまされていました。
 
そういう履歴だけを、ブログを書くことで残してきたのが楽山です。楽山は、教条ではなく、もっともらしい言葉を選んで来ては、悪い印象だけを吹き込んでくる精神の詐欺師であります。
 
「この怨語を聴きたる三友は、ヨブを以て神を謗る不信の徒となしたのである」「しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦みである。神を離れし者または神に背ける者は神を忘れ去る者であって、神を怨み得ないのである」
 
ヨブは、自己正当化をしましたが、神が表れることで、衝撃をもって、悔い改め、その信仰を回復しました。恨んでも、神に背き得ないのは、神を恐れる故であり、信仰の回復の兆しではあります。
 
そして、信仰と呼べるのは、悔い改めたからです。それは、ヨブが、楽山と違って、神を恐れる人であり、終始、真剣だったからでしょう。
 
そのようなヨブと違って、逆恨みで、いつまでも、いつまでも、神を、呪い続けているのが楽山です。信仰がないなら、とやかく言う資格もないのに、根っこに怨念だけを持って、信仰の兆しもないために、同類を増やしたくて、だますことしか思いつかないのが楽山です。
 
楽山は、ヨブとは全く逆であり、無反省・無責任・無理解・訂正不能の反キリストだと思います。どうか近づかないでください。楽山には、信仰もなく、信仰についての興味もなく、信仰につながる可能性も感じられません。
 
根拠は、今までの記事であり、信仰の「し」の字も理解していないのに、知ったかぶりで、低劣な理屈を捏ねて、神を否定し、かつ、その責任を負わず、かつ、反省もせずに、書き続けていることです。
 
この記事も、恨むのは忘れ得えないから、という逆説を利用して、楽山が自己正当化することが狙いなのでしょう。それによって、自己顕示欲を満たし、自分が高められることだけを求めるのです。
 
「神に対する怨言は、懊悩絶望の極にある心霊の乱奏曲である。かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づくのである。これ心霊実験上の事実である。この実験なき浅薄者流はこれを解し得ずして、エリパズらの過誤を繰返すのである」
 
楽山は、悲痛を経験していません。経験していたら、嘘と詭弁を弄したりしないからです。楽山は、少しも神と真理に近づいていません。繰り言のような、いちゃもんを書いて自己満悦を繰り返しています。この記事もそうです。心の底まで、狡猾な、反キリストです。
 
心霊実験とは何でしょう。心霊って実験できるものなのでしょうか。少なくとも、信仰において、心霊を振り回す人は、信用できないと思います。大事なのは、人間らしい心であって、霊でも、心霊でも、ないのです。
 
霊が分かるっぽい自覚の、信仰についても、何事についても、超常のことばかりで片づけようとするような、おふざけ評論家気取りの楽山が、自分と似たような文言を探しては引用して、文言だけで賛同芝居をして、あとは、神と人を揶揄して、遊んでいるだけです。
 
「人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は、大地に向って訴え、わが血に向って我の証人たれと願うほどに至るのである」
 
神に捨てられたと思うなら、何に向かっても、証人など求めたりしないはずです。ヨブは、神に捨てらたような気持ちになって、自己正当化によって失いそうになった信仰を、神によって取り戻します。
 
楽山は、元々、信仰の欠片も持っていないので、証人も、証拠も、根拠も必要なく、また、神など、どうでもよく、自己を飾りたいだけです。総ては、楽山の自己正当化のためでしょう。それ以外は、どうでもよいから、平気で、オモチャにして、平気で、嘘を吐くのです。
 
「二十節に言う「わが友は我を嘲る、されどもわが目は神に向いて涙を注ぐ」と」
 
 (ヨブ記、口語訳)16:20
わたしの友はわたしをあざける、
しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
 (ヨブ16:20、旧約聖書)
 
友人たちは、信仰の理屈を語っているだけだったので、ヨブへは、あざけりになります。ヨブは、自己正当化を図って、神と議論をしようと言いました。その本心に涙があったとしても、神と議論できる人間などいないのです。
 
 (ヨブ記、口語訳)
13:2
あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
13:3
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む。
 (ヨブ13:2-3、新約聖書)
 
楽山は、そういう信仰のこと、神と人の関係が、聖書からも、全く理解できないので、涙をもって悲しむこともなく、そのポーズだけを真似て、「反省、トホホ」などと書いて、逆に、得意になっても、決して、神に向いて、涙を流すことなどないことが明らかになっています。
 
楽山の言は、乾燥大麻のようなものです。吸い込んで気持ちよくなると、癖になり、やがて、人格を破壊されるでしょう。心が無く、高等感情が鈍麻して、共感も持ち得ないために、芝居と嘘と詭弁で、だまして、つないでゆく蟻地獄にいて、人に対しても、蟻地獄となっています。
 
「友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々たる宇宙ただ神と我のみあるの実感に入りて、初て神と真の関係に入り得るのである。しかして後また友誼を恢復して、これを潔め得るのである」
 
このような大仰な書き方をする必要はありません。このような書き方を好むのは、ホラーや超常現象や心霊現象が大好きな楽山の趣味であり、あくまで趣味であり、そこに中身は、まるでないのです。
 
信仰は、宇宙的境地の神の実感を与えられることではありません。人間に可能な共感を与えるものです。これら大仰な超常のことは、楽山やシャロームのようなカルト的反キリストが求めるものです。
 
キリスト者は、ただ、敬虔という身の低さをもって、神の憐れみを待ち望みます。楽山は、好みも、志向も、全く逆です。つまり、カルトが好んでやまない、自己優越感だけを求めているのです。特別の存在になって、注目を浴びたい、これだけが、楽山の無謀な野心であります。
 
「人は己の無力を覚るとき、強くして力ある我の代弁者を求めざるを得ないのである」
羽仁もと子がヨブは神を信じているからこそ恨み言を述べているとしていて、はっとさせられたのだが、この点についてはこの講を読んでさらに納得できた。
 
楽山は、己の無力を認めないからこそ、嘘を吐き続け、詭弁を弄し続けています。健常人には考えられないことで、病質的異常者であろうと思っています。
 
楽山は、己の無力を知ることも、神のほうを向くことも、祈ることも、芝居以上にならず、それでも自己顕示欲を抑制できないために、なお、恥ずかしげもなく書き続けて、結果として、己についての見苦しさの資料を増やしているだけなのです。決して、相手にしてはいけません。
 
そういえば以前、キリスト教批判の是非について、とあるクリスチャンに問うたら、批判するということは関心があるということだから無関心よりずっとよいとしていたのだった。
 
楽山は、悪口を刷り込んできます。ゆえに、楽山に対しては、全否定のためだけに批判しています。楽山のあり方は、信仰において、容認できる要素が、皆無であります。
 
楽山には、キリスト教に関心があるのではなく、嘘と詭弁によってキリスト教と信仰をおとしめる意図が、約2年にわたって、表れています。
 
熱心な信仰者のなかには、宗教批判したら、即、不信仰者だと決めつける人もいるが、事実はそれほど単純ではないということだろう。 
 
私も、キリスト教批判をすることはあります。キリスト教内外に、カビのように蔓延る教条主義や悪しき慣習や自己満足や固定観念に対してであります。しかし、楽山は、全く違います。約2年にわたる楽山の嘘と詭弁が証拠です。
 
楽山は、キリスト教を批判しているのではなく、侮辱しているだけです。楽山は、信仰者でもなく、不信仰者でもなく、恨みと嫌悪と自己満足のための反キリストです。
 
信仰は、命がテーマですから、楽山が、勧善懲悪のホラー映画につける感想のレベルの、みすぼらしい屁理屈で語るような、善と悪とか辻褄が合うとか合わないとかいった単純なものではないのです。分かったふうな、楽山の評論家気取りに、だまされないでください。
 
楽山は、厚顔無恥で薄っぺらな印象を吹き込む煽動者です。いずれ、大好きなホラーの世界に沈んでゆくでしょう。沈黙する神は、また、いつまでも黙っている神ではないのです。
 
 
欺瞞

ぎまん
 
 
(2021年01月31日、同日一部修正)
 
 
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