ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反キリスト

 
  楽山の神噛み2
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。楽山は、知りもしない神に噛みついているだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
 
『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」
皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。
 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。楽山は「正直」は神霊でないといけないと思っているようです。人として当たり前の正直が、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
楽山は、次には、「いのらずとても神やまもらむ」、つまり、祈らなくても神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
楽山は、気安く何が「通じる」と言うのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、その偽りのキレイさ?が、逆に、自分を斬ってくるという例になります。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
 
私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。
 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、ずっと嘘吐きの、楽山なのです。しかも、関わると、関わった相手をも、壊してゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。楽山は、既に、この世の地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
 
最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。
 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターです。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込んでいるホラーなのです。
 
 
もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。
 
信じられないのではなく、体質的な悪と偽善のために、信じる気など最初から無いのが、楽山です。これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。神は、全てを既に見抜いているのです。
 
楽山は、一言も正直のない手遅れ地獄にいて、それで「気がとがめることもない」のだそうです。大嘘です。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい捏造で言われても、笑止だけでなく、地獄へのガイダンスに過ぎません。悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで堕ちてください。
 
 
いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。
 
信仰の正直は、神の前の正直です。神は、決して嘘を吐いてはいけない相手だということです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじっているわけです。楽山は、神を呪うかのように嫌っていて、舐めていて、神をもだませると思う身の程知らずなのです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者です。「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。しかも、神にも嘘を吐いて、それで通ると思っているのです。近づいてはいけません。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
 
*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。
及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」
返信
及川幸久 香港加油!
@oikawa_yukihisa
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。
 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、冷酷で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
 
*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家
 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけです。何を、他者のことを、一人前の評論家人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。むしろ、楽山は、真面目な言論を、おとしめ、あざ笑い、けがしてゆく妨害者です。
 
 
*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。
 
こういう問題は、荒唐無稽ですから、空想の理屈遊びができるのでしょうか。楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、破れた障子のようなことしか書けなくなります。バラバラで、ピラピラで、フラフラなのです。
 
 
*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。
 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りませんし、信じてもいません。約3年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、次から次へと表れてきました。
 
 
反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。
 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。「見直す必要がある」などと他者に言う資格はありません。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、単方向で、何を言われても、平気で無視します。誰に憎まれても不思議ではないと思います。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。よく、ぶん殴られもせずに済んでいるものです。
 
 
嘘は飾っても嘘

嘘は、飾っても嘘
 
 
(2021年05月09日)
(2022年05月20日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  愛して
 
二十代から数えて
二十年の凹凸を噛んで
出来上がった顔が弱っている
さしのべた手をかすめて
わずかの小銭が通り抜けた
歪んだ顔を隠す
愛してもいないのに
 
二十年の空白を吸いきれずに
出来上がった変質者がふらついている
その辺り昔話でいっぱい
作り話でいっぱい
もう一杯と
暗い路地に足の裏を残しながら歩いていく
歩く後ろから世界は崩れていく
前は暗闇
 
どちらを選ぶか
どちらを選んでいるか十年後
路地に人影はなく
多くの足跡乱れて
入り組んだ空白から
もれた明かりが凹凸を噛む
愛してもいないのに
 
 
  ぶらぶら
 
逆さになって
ひっくりかえった
夢を笑う
花を摘み
逆さにして
ぶらぶらと振る
何かを吹き
何かに吹かれて
みんな自分だったと
苦い実を噛む
濁った汁がしみて痛い
 
細かく雑草が揺れるほどの風
受けて少し逆流する
寒けが空っぽの気道を舞う
何を恐れている
それとも憎んでいる
咳き込むほどに渇き
荒れて
濁った痰に癒されるのは
肉体に似て
退いてゆくもの
しかし方角が違う
そちらへ行けば
逆さになって
ぶらぶらになって
 
後ろを向いた眼球を
旅人の姿に隠して
ぶらさがって
空へ落ちかかっている
この世を
そんなものだと
眺めながら
誰にも会わず
去っていったあいつ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、うまくいかないと、落ち込む代わりに怒り、敵意と悪意を増幅するのでしょう。生きるエネルギーとして最低の自家発電に終始します。だから、怒りを表出せず、怨念を燃やす体質なのでしょう。それは生き方ではなく、自滅の刃であることにも気づかないようです。
 
 
 
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  福音から遠い者2
 
 
 楽山のツイッターですが
 
書くか引用しないと人生が成り立たないのでしょうか。反省はせずに。
つぶやきでしょうか、いいえ、妄想です。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
キリストは、アメリカや日本にも訪れていたとすることは、モルモン経、竹内文書にも一理ありとすることになりますね。
午前7:13 · 2021年3月28日·Twitter Web App
>>
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
昔の幸福の科学は、イエス・キリストの復活とは霊的な復活だと言ってた。
なのに最近は、宇宙人の協力を得て物理的復活を遂げ、その後アメリカ大陸、さらに日本の青森へ渡ったと言うことになったそうだ。訳わからん。
午前1:10 · 2021年3月28日·Twitter for Android
<<
 
楽山は「訳わからん」というツイートを引用して、訳わからんのがキリスト教だと言いたいのでしょう。世の中には、霊が分かるっぽい?という妄想をもって、他の宗教を否定する者がいます。楽山です。つまり、自分が教祖願望に酔っているのです。
 
目に見えないあり方で、ということを、霊的、という言い方もしますが、霊的と言うことで、神秘の味を人が加えたがる傾向は、あまり良いこととは思えません。心霊は、超常であり、人間には分からない、自由に扱えない、よく知らない、という敬虔のスタンスを持つべきです。
 
さらに、楽山のような者は、キリスト教が、こんなにバカなことを言っている、あるいは、誰かに言われていると、揶揄して笑うだけです。悪意と作為で物を言う者の定めなのでしょう。聖書から、本から、世辞か笑いのネタを探している楽山です。
 
聖書を読んで、キリストを必要とする人と、笑いか妄想のネタにする人が分かれます。キリスト者であってもなくても、2つに分かれてゆきます。楽山は、後者です。笑いのネタばかり探しているのは、これほど、恵みへの感受性のないのは、人格そのものに問題があると判断しています。
 
神の存在や、キリストの教えに、疑問をいだくのは、正常です。そこから、人の生きた学習が始まり、神の導きが始まるのでしょう。神については、存在も不在も証明できないのに、どちらかを決めてものを言うのは、信仰の概念的固着から自分信仰への落とし穴です。
 
しかし、最初から、おごり高ぶり笑っている妄想家に、真実が届くのは、それこそ、ラクダが針の穴を通るくらい、無理だということです。笑えば笑うほど、怒れば怒るほど、慢心すればするほど、揶揄すればするほど、別の者に愛され、利用され、捨てられてゆくのです。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:23
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 
23:24
盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 (マタイ23:23-24、新約聖書)
 
 
地上に生きる人の信仰が、完全になることはありません。
完全という能力が人にはないからです。
 
完全な信仰を求めること自体が間違いであります。信仰が完全になる、あるいは、なったと思うなら、その思いは罪であります。人間である限り完全はありません。神の前に、信仰者であってもなくても、人は罪人です。正直な祈りだけが、人の側の為し得ることです。
 
救われることと、完全になることは別です。信仰の希望は、前者であって、後者ではありません。楽山は、いつも、自らを完全の立場に置いています。だから、インテリ評論家気取りになるのです。
 
ゆえに、おごり高ぶる者は、傲りを信仰し、高ぶりを信仰し、即ち、自分を信仰しているので、いかなる救いも、受け取ることがないのです。神がどうこうというよりも、人がどうこうということで、救いを受けるかどうかは、終末以前に決まってゆくものなのです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
確かに隆法って変に正直なところありますよね。信者さんたちも含めて、それがおかしいことだと考えてないから、ことさらに正直じゃなくて普通にしてるだけって感じかもしれないですが、それでも結果、正直っちゃ正直。特に信者さんは基本、ウソはよくないっていう教えにも忠実な真面目な人たちだし。
午後3:58 · 2021年3月28日·Twitter Web App
 
HSは、教祖も信者も正直だというツイートを、楽山が引用しています。「変に正直」と楽山が言っても、不正直よりは、マシです。楽山は正直なところが全然ありません。言い損ないではなく、故意に偽りを言う、つまり、嘘吐きです。それを隠している芝居に、だまされないでください。
 
ゆえに、なおさら、不誠実で、嘘吐きの楽山には、HS批判をする資格はないし、あらゆる宗教と信仰を批判する資格もないのです。楽山の体質的な嘘吐きは、当然ながら、体質的な正直よりは、はるかに性悪です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の害です。
 
どんどん墓穴を掘ってゆく楽山です。既に、批判されて、その卑しさが明らかにされてゆく途上ですが、ますます、高ぶって、書いては、寒くなる楽山です。楽山が活動するところ、血が通いません。温もりが滅しています。潤いが凍り付きます。
 
 
 
※ 信仰は
 
信仰は、
静的ではなく、動的です。
守ることではなく、求めることです。
保存ではなく、成長です。
達成ではなく、努力です。
到着ではなく、旅路です。
座すことではなく、歩むことです。
境地ではなく、道です。
 
だから、気づけば誰でもできることです。
 
それを可能にするのは正直な祈りです。
 
信仰者は、
得ていると高ぶることをせず、
足らざるを知って低さの弁えを欲します。
 
偽善者は、そこを、真逆に勘違いしてゆきます。あざ笑うかのように。
いつも陰気臭く、意地汚く、鬱陶しい楽山が典型です。
 
 
明るさ芝居が陰気臭い

明るさ芝居が陰気臭い
 
 
(2021年03月30日)
(2022年04月09日、再録+)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔
 
外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
  (抜粋)
 
自分を責める心を持っているということが、人間であり続けるための最低条件なのでございます。それができなくなったら人間ではない、人間性を保ち得ない。信仰は妄想か狂信に過ぎなくなるとさえ思うのであります。
 
 
 
 
 2022年04月04日
 「幸福の科学」の抗議活動
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  抜粋、批判。
 
幸福の科学は、政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので、社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども、批判封じのような抗議が目立つせいか、どうも守りに入っているというか、自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか。
 
この楽山の文章で、鼻に突くのは、「社会全体のためを考えていないわけではないだろうけれども」と持ち上げておきながら、「自己保存欲が強い団体だという印象を受けざるを得ないのであるがいかがだろうか」と貶(おとし)めていることです。
 
前から書いてきましたが、これが、楽山の、典型的なボンヤリ言語なのです。同時に、評論家気取りでもあります。楽山は、知性も論理性も小学生レベルです。評論など出来る人ではありません。恐ろしく背伸びした見栄張り楽山の悲惨な症状と言ってよいでしょう。
 
批判するために、まず褒めておくって、あり得ないです。しかも「政治、経済、教育…など、多方面に向けて意見を述べているので」というのは、気持ち悪い世辞であり、何の根拠にもなりません。根拠なしで語って、同意を誘う楽山のボンヤリ柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分の罪を「人間の性」というのは、いつも楽山がやっている自己正当化の詭弁です。人間の性だから、自分は責められることはない、という意味です。このような詭弁が、いたるところに見られるのが、楽山の言説です。詭弁による誘導、決して引っかかってはいけません。
 
 
 
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  試練と不幸2
 
 
確率的には高くはなくても、ヨブが受けたような試練に、この世的には不幸に、信仰者だけが遭わないで済むなんてことはないでしょう。むしろ、信仰者だから遭う、試される、ということも言えるかもしれません。
 
すべてを失うような不幸でなくても、なんでも守られる、生活困窮からも病気からも守られて、健康で文化的に長生きする、という、身勝手な妄想信じ込み信仰?のまま、何も考えない人にはならないでほしいです。
 
試練は不幸の形を取って、すべての人に起こるという地上の定めに対しても、安穏としているのが人間だから、信仰は試されるのです。ゆえに試練と言う・・ということを忘れてはいけないでしょう。
 
その時、悪魔のような病的ナルシストが、熱心に信仰を捨てることを勧めるかもしれません。まさに、現在進行形であります。
 
 
 
「おかしいと感じるなら、
速やかに、その宗教とは距離をとるのがいい。
信仰を続けようとして疑問を抑圧しても、
苦しみを長引かせるばかりだ。」
 
「苦しみを長引かせるばかりだ」・・まるで安楽死を勧めているような楽山です。やさしそうな言い方に惑わされないようにしてください。当たり前のような言い方で、宗教は苦しみを与えるから「苦しみを長引かせ」ないようにと、信仰を捨てよ、・・とでも言っているような、乱暴な筆致なのです。
 
自己愛者は、気遣いが出来ないので、こういう場違いのピント外れの表現が多くなります。宗教に一時的には疑問をいだく人は少なくないということを悪用した誘惑であります。楽山は、何の役にも立たないのに、説得力も根拠もなく、宗教と信仰を目の仇にしている反キリストです。
 
このような悪しき誘惑をする者こそカルトに多い自己愛性人格障害者であります。こういう者からは、直ちに逃げてください。話せば分かるなどという人ではありません。詭弁で疲れさせて、思いやりに見せかけて、疲れたんじゃないですか・・などと言ってくる白々しさです。
 
 
耐え忍ぶ者は救われる。しかし、救いが地上で起こると思い込むのは、神の意志を決めつける罪であります。人間が逃れられない死という定めに対して、命を捧げたキリストの共感を得て、信仰者は、できることをして、できないことを神に任せる弁えと恵みのうちに過ごします。
 
神の前に、へりくだり、神に対してだけは、正直に祈る、という自由を忘れないでください。そういう時と場所を持つことが、ある種の解放につながるでしょう。人間に必要な信仰は、超常ではありません。
 
 
試練の向こうに

試練の向こうに
 
 
(2022年04月07日、再録+加筆)
 
 
 
※ 
 
楽山のような自己愛性人格障害者は、人の言うことに対して、弁明も反論も反省もできないのに、できないまま、何事もなかったかのように、また、自己満悦記事やツイートを書けるし、同じ目的でリツイートも出来る異常者です。詭弁の卑怯な陰気臭さが、うわべだけ、ヒト型になっているような楽山です。
 
こういう平静を装う冷酷な者の存在は、社会にとって、真面目に生きている人にとって、恐怖以外の何ものでもないと思います。楽山にとっては、理路も共感もないのに、文字と言葉を並べることだけは出来るということが、最も不幸なことなのかもしれません。
 
楽山は、都合が悪くなると、スルーするとか言って、無視して平気そうですが、無視は何も起こらないのではなく、弁明できないことを意味します。それさえも、楽山は、分からないから、話を変えればいいと思って、別のことを書いて、気にしないようにする悪癖が身についています。
 
楽山は、無風地帯&安全地帯に住んでいるつもりでしょうか。そのような場所は、どこにもありません。孤独であっても、人は関わりの中で生きています。関わりを無視しては生きられません。むしろ、楽山のいるところは、無法地帯の崖っぷちなのです。
 
自己愛性人格障害者そして病的ナルシストは、学習意欲も真摯さも向上心も反省力も理解力もないから、繰り返し読まされるほどに、毎度、うんざりするか、がっかりするかして、おえっ・・と顔を背けたくなるような見苦しい文章を書いてきます。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
悲観的な人は、何も起きてなくても悲観的になる。
楽観的な人は、何が起きても楽観的でいる。
後者のほうがずっと楽しいわ。
とりあえず
「なんとかなるさ」
ってつぶやきましょ。
午後2:23 · 2021年4月2日·Twitter for Android
 
自らの置かれている状況を弁えず、平気でツイートを引用して、平気で、なおも教えたがる楽山です。今までの不都合や失敗や失言を完全に無視して人のせいにする自己愛性人格障害者は、何が起きても楽観的でいられるでしょう。この無神経によって、徒労と疲労がもたらされ、人格を破壊されてゆきます。
 
だまされた人は、「何とかなるさ」と呟いても、離れて自主性を取り戻さない限り、自分の心と言葉を取り戻さない限り、どうにもなりません。だます人は、無反省で無責任の訂正不能ですから、最初から、どうにもなりません。
 
性格についての一般的に励ますようなツイートを、楽山は、自己正当化にすり替えて満悦するほど、どんな迷惑をかけても気にしないでいられる病的な楽観主義なのです。罪悪感、思いやり、悔いる心、共感などの、高等感情がないからです。
 
エサを漁る野良犬のように、楽山は、他者から、本から、漁って、都合のよい言葉を引用しては、自分に都合のいいことを暗示し刷り込むために、曲解し、悪用してきたのです。人の迷惑など、一切、考えることがありません。
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·11時間
隆法チャンとヒトラーが重なるなら
学園とヒトラー・ユーゲントの比較検証も必要かもしれん
>>
山内ビン@葬式を在家に
@vincent20200110
 · 19時間
返信先: @Null259216さん, @hamayokomegumiさん, @asasfjggさん
ゲッシュタポみたいですね。これでは隆法チャンはヒトラーと同じですね。
午前8:44 · 2021年4月3日·Twitter Web App
<<
 
「かもしれん」という荒い言い方で、ヒトラーの独裁と大虐殺の歴史へのたとえを、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団体)という話に広げて、乗ったつもりで、説明もなく、それだけで、冗談として、面白がっている楽山です。他者の不幸を面白がる体質が表れています。
 
このように、冗談っぽく反応するけれど、自らの立場や責任などは全く考えないところに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が表れています。宗教を考えるのではなく、揶揄したいだけなのです。自分も独自の独裁のユーゲントのつもりでしょうか。
 
そういう自己中と、弁えの無さが、書く文章にも、引用にも、さまざま表れてきたにもかかわらず、当事者意識がなく、揶揄が大好きで、つまり、何事につけ、真剣味がないのに、図々しく関わってきて、結果、無反省、無責任と言われても、平気なのです。
 
楽山は、前に、宗教について、否定を書いて、あとで、肯定を書いて、断定していないから責任はない、という、無責任の正当化?でしょうか、詭弁というより、奇便とでも言うべき、言い逃れを書いていました。理路も心も、まるで育っておらず、学習しておらず、何も整っていないのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
広報チャンネルが、「大人の教養TV」を批判してる。
タイトルには「あきれた無教養」とあるし、動画内では「デタラメ」「嘘」などともいってる。
広報チャンネルは、宏洋氏以外にも、こんな乱暴な言葉を投げつけるんだね。
 
「あきれた無教養」「デタラメ」「嘘」・・楽山についてならば、実感をもって、本当です。
「乱暴な言葉を投げつける」・・楽山は、丁寧語に、詭弁と嘘を込めて、投げつけてきます。
 
楽山は、教養もなく、思考力もなく、デタラメで、温かい感受性もありません。反省しません。責任を負いません。ゆえに、関わると、詭弁の罠によって、言い知れぬ疲労を与えてきます。
 
訂正不能の自己中心で、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断します。誰も近づいてはいけません。まともな人間と思ってはいけない人です。間違っても、やさしい人柄などと思わないでください。前に、楽山ブログに、そういうコメントが付いたことがあるので申し上げています。
 
今までの発言の嘘と詭弁を思い返してみるたびに気持ちを新たにするのですが、腹は、下血のタール便のように黒いのです。楽山が平気で上のようなツイッターで書いてくることが証拠になっています。楽山は、「乱暴な言葉」の代わりに、汚い屁理屈の迷路を用意してきます。
 
 
 
  動かない死
 
肉体は座ったまま
動かなかったので
次第に乾いていった
頭皮から離れたフケが髪の間に点々として
かつて食したであろう食物の残渣が口角でひび割れ
鼻から頬にかけての皮脂が乾いて
こわばったうろこのように落ちかけていた
 
そのまま消えていくと思っていた
座ったまま便通は圧迫され
腸の動きは眼のように不明だった
眼脂に覆われていたのである
 
やがて形なく
透き通り
消えてゆくはずのもくろみは
思いに反して
よりかたくなで
固い肉体を作り出していた
 
心は座ることができなかったので
乾いてはいても
絶えず何かを思わずにはいられなかった
とうに周囲とは無縁であったが
いつしか清潔な裸体を想像していた
 
明日はなく
昨日は捨て
今日の消滅を願っていた
来る日も来る日も
死は肉体よりも心に近く
そのくせ清潔な裸体ばかりを描いていた
 
 
  バラバラになって
 
奇妙なやつだ
死んでいるはずなのに
 
バラバラになって
半分焼け焦げた肉片が
あちこちに転がっている
 
黒焦げになったのや
まだくすぶっているのもある
 
口と鼻の一部が
瓦礫の上に斜めに傾いたまま
少し離れて片方は飛び出した眼球から
原形をとどめない髪の頭部までが
逆さになって
 
言い残したことでもあったのか
唇はしきりに動かしているし
目はキョロキョロとあたりを見回したり
時々こちらを見ている
 
声にならないので何を言っているのかわからないが
むごたらしさ以外の何かを
伝えようとしているように思えてくる
 
ひょっとしたら彼も
隣に転がっている私を何か言いたげな
妙なやつだと不思議がっているのかもしれぬ
誰かが私を持ち上げた
天と地が大きく回った
 
反応がない
周りの人たち
口を動かし声を出そうとするのだが
出てないらしい
 
ドーンと
音と衝撃のようなものがあって・・・
そこまでしか覚えていない
 
ライトはやけに明るいが
もともと暗い部屋だなここは
 
胴体と手足を並べている人
その足首は違うよ
私のじゃない
気づいたらしくどこかへ持っていった
別の人はしげしげと眺めては何か書いている
 
皮膚や肉を切り取ってガラスの皿やビンに入れながら
話しあっている別の人たち
メスを入れるのか痛くはないが
 
幾人かは書類を持ってすでに去った
やがてライトが消され
カバーをかける一人を残して皆去って行く
 
とても暗いよ
ちょっと待ってもらえないかな
まだあるんだ言いたいこと
たくさん持って私ここに
まだ・・・ある・・・のに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「難しいんだよなあ」・・みんなそうでしょ、ですよね、というニュアンスを載せた危険な誘導の言い回しです。それで「自分もそんな風です」という同意は、一般化の詭弁です。つまるところ、「反省」なんかしない、という詭弁なのです。・・とんでもない、無反省は非人間です。
 
 
 
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  体質と言葉3
        (再録+)
 
 
体質とは、ここでは、先天的または後天的に規定されるところの、その人の言動を特徴づける人格の意味で使っています。
 
(ネットより)
百科事典マイペディアの解説。
体質:
すべての精神的・身体的な人間の形質の総和で,遺伝と環境の相互作用によってつくられる。
 
思想・宗教の言葉は、それを表した人の言葉によってではなく、それに反対する人の言葉によってでもなく、それを発する人の体質の良否によって、それを受ける人の、救いともなり、邪悪ともなります。
 
神の言葉は、それを受け取った人格の言葉を通して、人を生かすことがあり、人を壊すこともあります。こういうことは、人間の不完全性によりますが、なぜ起こるかは神の秘密でしょう。以上は、認めるしかない事実であります。認めない者は、自分信仰になるでしょう。
 
神の言葉は、人の言葉となって、先ず、人は、神と人の、そして、神の言葉と人の言葉の違いを学ぶべきです。神の言葉の真理は不可知であり、人の言葉の真実は曖昧に可知であります。この違いが、心掛けて弁えるべき信仰の節操であります。
 
 
受け取ることと、信じ込むことは違う。
 
思うことと、、決めつけることは違う。
 
判断と、断定は違う。
 
救いの希望と、不変の境地は違う。
 
いずれも、前者がキリスト信仰である。
 
 
絶えることがないのは、常時の平安ではなく、必要なときに、祈りに答えて与えられる癒しと平安であります。信仰は不変の境地ではなく、成長可能な生き方を支えるものであります。
 
人は、受け取れるものを受け取りますが、信仰が、物としてのプレゼントと違うのは、受け取って忘れるのではなく、受け取ってそのまま置いておけるものでもなく、即ち、固定できるものではなく、いつも人生に必要だから否定できなくなることであります。
 
それは、信仰が、固定して揺るがないのではなく、忍耐強く求め続けるものであり、否定の判断が下せないほど必要だと思い、希望し続ける祈りの生き方に生かされてゆくものです。
 
それゆえ、信仰は、いつも、新しい目覚めを求め続けます。完全に知ることが出来ないゆえに、求め続けるのです。そうして、信仰は、成長してゆくのです。一時に一気に、悟りを啓くことではありません。
 
正直に祈ることによって、人は、神の偉大さとキリストの愛と共感を新たに知るからであります。
 
 
 
異常な体質の特徴:
 
自分を責めることができない。
罪悪感がない。
しんみりと悲しむことがない。
自己中心にしか考えることができない。
 
思考と感情に深みが見られない。
短絡しやすく、上気しやすく、妄想化、固定化しやすい。
 
それゆえに、不都合において、自分の罪を認めず、反省せず、すべてを人のせいにする。
思慮によって理路を整えることができず、結論的決めつけを繰り返す。情緒面で、深い高等感情が発達していない。ゆえに、他者の意見を受け取っておらず、学習不能で、自己修正できない。
 
能力ではなく、異常な人格が、理路と感性を奪うからです。
ふつうに共感できることが、過大な自尊のために出来なくなります。
 
ゆえに、バランスが保てず、バランスが分からず、大仰な讃美言葉や、世辞の褒め言葉、そして、整わないまま結論を、でっち上げて、作り話やデマなどで、相手を侮辱するしかなくなり、暴論も正論も理解できず区別できずに、自分に都合の良い欲望の方向と、相手をおとしめ罵る言葉だけを繰り返します。
 
しかも、その間、高みから見下ろす嘲りが感情の表現として見られ、自分が上だという立場から抜けられないために、相手を見くびった発言しか出来ず、そういう見下し言葉だけを探しては出してきます。
 
そういう者が、人の意見を聞く耳を持たず、しかも、上から教える態度だけに凝り固まって、万事が益となると信じ込んで、自分の利益、つまり、正当性の根拠として、よく引き合いに出しているのが以下の聖句です。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)8:28
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 (ローマ8:28、新約聖書)
 
共に働くことなく、自説に慢心している者には、万事を疫病となるように、今に至る加害の成り行きが出来ているようです。決して、友達にも、仲間にもしてはいけない破壊的人格です。そういう人を批判するのでなければ、そういう人から遠ざかることが唯一の対策となります。
 
 
誤謬を撒き散らす者

誤謬を撒き散らす者
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年03月29日、再録+加筆)
 
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山は、他者の言を引用すれば責任はないと思っているようです。しかし、例えば、リツイートなどで引用して、批判対象としないことは、引用の意図が、賛同か、利用であるという責任を、全く理解しないのが楽山の自己中の病質なのです。口出しするな・・と、他者の口にしゃべらせて平気な楽山です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ゲイの精神科医Tomy
@PdoctorTomy
·3月21日
何にでも口出ししてくるお節介な人っているじゃない?
そういう人はね、
暇なのよ。
別にアナタのことを気にしてるんじゃないの。暇つぶしなの。
 
他者を気にせず、暇つぶし、これは、まさに楽山のことでしょう。楽山は、おおよそ、関わるだけの真実も心得も持たないまま、宗教とカルトの問題に、さも分かっているふうに、コメントや記事を入れてきます。人の迷惑を考えず何でも自分勝手にやるのが自由だと思っているのです。
 
それに文句を言うのは、全部、余計な口を出すことでお節介だと言いたいのです。通らない屁理屈の刷り込みで、いちゃもんだけのボンヤリ言語で、真実に反する卑怯な迷惑行為をして、根拠もなく良いことを言っているつもりでいる裸の王様が楽山なのです。
 
そして、批判されると、このリツイートのように、他者のツイートから都合のよい文言を選んで当てつけてくるのです。自分で説明とか弁明とかが、全然できないからです。
 
楽山は、実に気安く、暇つぶしで、かつ、小学生レベルの知識で、宗教・信仰・真実について書いているとしか思えないのです。読者に対しても、とんでもない無礼な話であり、さらに、引用元に対しても、無礼な話であります。
 
以上より、楽山がこのツイートを引用する妥当性は、楽山が、していること、してきたこと、言ってきたことなどを考えれば、どこにもありません。人のことを考えず、なりふり構わない楽山の自己中の病質が今回も表れています。
 
 
中途半端に相手すると、どんどん入り込んでくるから、
笑顔で一言こう言いなさい。
「あ、大丈夫です」
午後2:45 · 2021年3月21日·Twitter for Android
 
人を巻き込み、評論家気取りで、子供じみた幼稚な先入観で物を言い、かつ、責任は一切負わず、詭弁で言い逃れを書いて、全くの無反省でいられるような楽山は、ずいぶん前から、病質の者であり、全く "大丈夫" ではない、とても有害な人です。
 
前に書いたように、楽山の笑顔は、微笑みではなく、意地悪な、ほくそ笑みか、あざ笑いか、高笑いであります。それ以外に求めるものがないようです。また、他にすることもないようです。ゆえに、楽山は言われるべきです・・あなたは大丈夫ではなく病気です・・。
 
楽山は、悪意と作為について、結果を気にしなければ、平気でいられると思っているようです。あらゆる結果を無視して気にしないということは、正常心理ではありえないことなのですが、楽山は、病識がないので、反省することもなく悔いることもなく生きていられるのでしょう。
 
そのようにして、何度も何度も、楽山は、醜い自分を表して、恥をさらしに来るのです。楽山は、偽善者であり、カルト教祖願望であり、刷り込みや印象操作の詭弁屋であり、大嘘吐きです。
 
 
 
  値踏み
 
一人で思い巡らす人
こいつから学ぶべきことは何もない
むしろ邪魔だ
自ら手を下さずともこの辺が弱み
チクチクとついてやれば
そのうち手も足も出なくなるさ
逃げ出してくれれば願ったりかなったり
この男は役には立たないが
咬まれることはあるまいゆえ
当分は飼ってやるとするか
この人は一応立てておいて
程々の敬意を見せておけばことはあるまい
このお人からは幾らかは頂戴できる
今のところ借りるだけでもよいな
このお方こそ組んで、お味方、お味方
うまくいけばいつかは・・・
ん、ん、・・・フフ
 
私にいくらの値をつけた
人格を値踏みする者よ
 
えっ・・・?
空耳か
 
一人で思いわずらう人
人の気持ちをあれこれと推し量り
自分と比べ
思いあぐねては疲れ果て
寝込んでいる人
見積もれば
自分が誰よりも安くなることだけは知っていた
 
 
  少年と空
 
少年は空に焦がれる
少年は病んでいた
 
少年は口笛を吹き
歌を歌った
 
歌は空に流れ
きらめく無数の塵となって消えた
野に遊ぶだけの
少年の毎日
 
いつか風が吹いていた
いつか草が倒れていた
日は暮れつつあった
燃えるように誰もいなかった
 
少年が空に投げた希望も、夢も
やさしさも、光も、鏡も、人形も
ついに空に届くことはなかったが
夕暮れ、赤く焼けた大地に
空はどこまでも
少年の面影を追い続けた
 
口笛は空に焦がれる
口笛は病んでいた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「反省、謝罪は大事なことだと分かって」いないのが楽山です。まともな人なら口だけ「実践するのは難しい」などと、ごまかすことは出来ないからです。楽山は「恥ずかし」という感性を持っていないので、みんなそうでしょ・・とばかり「人間の性」という、実に迷惑な一般化という詭弁を弄します。
 
また、楽山の、発作的で衝動的な多量の投稿が見られます。こちらは、まるで昆虫観察をしているようです。楽山については、病質者、偽善者、サイコパスなどと言ってきましたが、楽山は、そうじゃないという弁明の代わりに、悪口を書いてきます。この態度にもサイコパシーが表れているということです。
 
 
 
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  疑い
 
 
人間に分かる信仰、どこまで人間に分かるのか、というテーマについて、これまで考えてきたことを書いてみます。
 
 
神の性質は、全知全能・絶対完全・永遠不変、などと言葉で表します。これらの性質は、人間には手に負えないものです。人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない・・からです。すなわち、人間は、不完全ということです。ゆえに、罪を犯します。
 
 
Q.神は、将来起こることもご存じなのか。つまり、未来は、既に、決まっているのか。だったら、何をしても無駄ではないか。
 
A.運命論的な考え方ですが、招来は決まっているとしても、人間は、それを知らないのですから、折々に、最善を考えて、努力するしかないのです。それが、人間の宿命です。努力しないのは、ただの怠慢であります。それが、全知全能の神に対して恐れをいだく信仰の根拠であり、信仰の動機であります。
 
 
Q.神様は守ってくれるのか。ならば、なぜ、この世に悲劇が起こるのだ。
 
A.神が人を守ることが、人の都合に合うとは限りません。神が守ってくれると、人の知恵で思い込む信仰は、ご利益信仰に陥りやすく、起こった出来事を自分で解釈して神の意志を、こうなんだ、と決めつけるという背教にもつながりやすいでしょう。
 
それに、神が統べる世界が、この地上だけかということも分かりはしません。神だけがご存知のことです。私たちは、この地上にいて、この地上で成り立つところの、人が学ぶべき真実と善と正義を学んでいますが、不完全ゆえに、何をもって守られていると言うのかさえ知らないのです。
 
それと、試練ということが、よく言われますが、これから試練が起こると分かるわけではないのですし、見方によっては、一生が試練なのかもしれません。信仰は、未来の安全を保証すると考えるのは、傲慢です。信仰生活は、起こったことに対して、人間として、出来ることをして、祈ることことです。
 
 
Q.信じて、試練だけなら、信じることは空しい。
 
A.私たちは、不完全で罪深い人間です。それは信仰者になっても変わりません。恵みや試練を決めつけてはいけません。恵みと思ったことが試練であるかもしれないし、試練と思ったことが恵みであるかもしれません。全部、恵みと思うことは、人間には酷です。思い込み信仰に陥る危険があります。
 
喜び、感謝し、讃美するのが信仰の務めだと思い、悲しむという人間の陰性の感情を抑制していると、だんだん人間離れになってカルト化してゆく可能性があります。信仰者にとって、多くの目覚めや気づきという恵みは、悲しみを通して与えられるでしょう。神に対して正直であってください。
 
信仰の直接の恵みは、ただ、神に正直に祈る時と所が与えられることです。人に正直になれないことが多い地上では、信仰者にとって、包み隠さず告白できる祈りは、宝物となります。できることをする努力以上の、例えば、自分の人生の成功や失敗という結果は、神に任されることです。
 
信仰は、人に都合のよいことが、生涯にわたって保証されることではありません。信仰は、生命保険ではありません。洗礼受けたから、キリスト者になったから、大丈夫ということではありません。信仰が人生に与えるのは、生きる活性です。絶望の崖っぷちで、それを得た人がいるということです。
 
神は、何か良いものをくださるかもしれません。しかし、人は、それを、良いか悪いか、完全に判断する能力を与えられてはいません。私たちは、地上に生きるあいだ、地上の物事に縛られているのです。信仰が、神秘的な悟りのような達観を与えるというのは、人には分からないことです。
 
 
Q.信仰者は、他者より、悟っていて、優れているのか。
 
A.そういうことはないと思っていたほうがよいでしょう。キリスト者の偉人の話は、多く、死後に語られますが、そういう人々になるために信仰があるのではありません。キリストが、語りかけた人々は、ふつうの人々であり、救いの言葉をかけたのは、ただ、余計な先入観を、持てない人でした。
 
 
Q.善人にならなくていいのか。
 
福音書には、多く善人とは言えない人が救われています。信仰は、人の判断する善では測れません。同様に、信仰は、人の判断する正義でも測れません。信仰は、ただ、精いっぱい、正直な祈りをしているかどうかです。大きな勘違いがあるようです。
 
戒めを守って、正しい人に、良い人になる、これは、パリサイ人が目指したことです。キリストは、それを打ち破るために、神に相応しい人を、悪人や病人から選んでいます。守っていると言う青年には、守れない教えを告げました。信仰の真実が、高が知れている人の善や義ではないことを教えています。
 
 
Q.いつも祈っておればよいのか。
 
A.祈らなければ・・で、祈るのは、強迫症状です。祈りの本質は、神経症の症状ではありません。祈りたいときだけ、祈ってください。祈るときは、精いっぱいの正直を心得てください。正直でなかったと気づいたときには、また改めて祈ればいいのです。神は寛容です。
 
信仰者なら、祈りたい時は必ずあります。神は、既に、人が不完全であることをご存知です。正直な祈りを待っておられます。飾った祈りや讃美だらけの祈りで、義務を果たした気分になるのは、強迫神経症の症状です。神の前で、嘘で飾ることは、罪であって、祈りではありません。
 
神は、正直な祈りだけを、寛容さをもって忍耐強く待っておられます。それが、人間が、神に対して出来る精いっぱいであることを、神はご存知だからです。そういう祈りでないと、心の解放にも、魂の救いにもならないのです。
 
 
Q.なぜ、祈りの終わりに、イエス・キリストの御名によって、御名を通して・・と言うのでしょう。
 
A.聖三位の中で、イエスキリストだけが、地上で、人間に直に接した神格だからです。そして、命を捧げるという犠牲によって、人間の死を超克し、人間への命を惜しまない共感すなわち愛を成就したからです。私たちキリスト者には、キリストを通さずに、信仰はありえません。
 
 
Q.異教徒に対しては?
 
A.全能の神が、神の目的そして計画のために、キリスト教を通さずに、何らかの使命を与えて導くということを否定できません。キリスト者が優っている、キリスト者だけが救われる、キリスト者だけが正しいというのは、信仰に思い上がった優越思想であります。
 
キリスト者が特別優秀ということは全然なく、尊敬に値する異教徒も無宗教も求道者も、同じ人間として、平等に、尊ぶべきと考えます。非キリスト者の偉人も、ふつうの人も、人類の敵以外は、尊ぶべきであります。
 
 
Q.信仰の敵とは? 人類の敵とは?
 
A.人類の敵は、国家でも組織でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。邪悪な集団に、さらに、少数ですが、あらゆる集団の中に、必ずと言ってよいほど含まれている異常人格です。一方的で自己愛と笑いと怒りしか持ち合わせず、しんみり悲しむ情感と罪悪感がありません。
 
 
Q.人類の敵は殺して良いか?
 
A.殺してはいけません。特定して隔離するべきかもしれないが、法制度は、未だ、そのようには出来ていません。サイコパスからは、即、逃げたほうがよいのですが、サイコパスかどうかの判断は、その知情意と理路と感性とを経時的に見なければならず、気安く決めつけることは出来ません。
 
 
 
疑いと希望

疑いと希望
 
 
(2022年2月23日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
 
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を正すのは、自分の過ちや罪や悪や足らざるものに気づく人です。気づけない人がいて、嘘を吐き詭弁を弄して人を惑わすなら、放ってはおけないはずです。かといって、捕まえる権利が私たちにはありません。批判を続ける以外にないのです。
 
楽山は、ツイッターや記事、私のツイッターにも、厚かましく何か書き込んで、批判返しを書いたつもりのようです。私は、さらに批判するのに3記事3日を要しました。無駄でしょうけど、それが、批判するしかない対象に対する私の立場だということです。
 
前から言っているように、楽山の信頼度はゼロなのです。つまり、全く信頼していないのです。遣り取りなどしないのです。楽山は、まだ、言論者のつもりでいるようだが、楽山は、害毒を対話に撒き散らすだけです。自分の中の化け物に気づかないのです。楽山からは離れてください。
 
 
 
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