ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反宗教

 
  固定観念3
    加筆して再録。
 
 
楽山の文章から平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。楽山の本質は、無宗教ではなく、反信仰・反キリストだと思います。
 
信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、他者も、思想と宗教と信仰をも、自己中心に、自己の下に置いて、上から見ている姿勢と態度しか表れてきませんでした。
 
楽山の、もう一つの大きな罪は、楽山というHNです。"楽山" は、中国の観光名所であり、多くのサイトやブロガーが、HNや記事に利用しています。さらに、
楽山が、多くの善良な "楽山" の中に、紛れ込んでいること自体が、狡猾な悪意だということです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  2019-12-30NEW !
 
 
思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。
 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選んで信じ込むのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない楽山のような人には、届くことのないものです。
 
 
一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。
 
「あらゆる面で」「元に戻った」なら、楽山には、成長がないということです。その原因は、体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無反省と無学習ということになります。実際、楽山には、そのような、嘘と詭弁の証拠だけが明らかになってきました。
 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、自らの固定観念という基準で、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、また思想としても、物見遊山の散歩をしてきたに過ぎず、どう告白されても、意味はないと思います。楽山は一歩も進んでいないのです。
 
楽山は、信仰とは関係のないところを堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いにも恵みにも気づくことはありません。そのことに、まるで気づかずに、我執によって、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。そういう人には信仰は生まれません。
 
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  2019-12-30NEW !
 
 
加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )
相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。
 
楽山には罪悪感はないと思います。今まで見たことがありません。そういう人こそ、要注意人物であります。それはサイコパスの性質だからです。4年批判してきて、もはや、楽山は、ネットの言論のレベルにも、いてはならない人だと思います。
 
「抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう」なら、まず、自分の理非を考えるべきですが、楽山は、ダイレクトに、「相手は要注意人物である」と言っています。これこそが、楽山が、自己正当化の妄想者である証拠です。いつも人のせいにする人です。
 
つまり、要注意人物の楽山が、要注意人物を指定して批判しているのです。
 
キリスト信仰では、罪の意識は、神に対して持つものです。楽山のような、人をだます詭弁屋に罪の意識を持ってしまうと隷属しかなくなります。決して、楽山を、まともに聞いてはいけません。
 
 
こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
 
困った状況になるのは、楽山が相手の意見を平気で無視する自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害で、受け取って考えて必要なら反論か弁明をするということが全くできない無反省だからです。楽山は恐ろしく自己中で残酷な病質者で、騙すために丁寧語を使う人格障害者です。
 
 
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。
 
「怒って噛みついてきたり」・・楽山こそが、被害者意識しかない欠格者であります。むしろ楽山の特徴です。これは、だますための芝居です。楽山の自己中、自己正当化、不祥事は全て人のせいにするという病質の表れです。どんどん白々しさが明らかになってゆきます。
 
「冷たすぎるかな…」・・「かな」ではなく、楽山は、共感からの思いやりのない冷たい人です。それを隠すために、「かな」とか「断るなんてできない」と書いて、思いやりのあるふりをして、そのあと「やっかいな人」と書き、相手を「怒って噛みついてきたりとか」などと、結局、否定するやり方です。
 
宗教を、ホラー映画の超常や、世辞や社交の関係でしか考えない楽山です。真実の追求という大きなテーマにおいては、しっかり受け取り、真剣に返すことが大事になりますが、楽山は、趣味や道楽としてしか見ていないのです。その上での理屈遊びなので、何も実はないということです。
 
楽山は、人を思いやることができない人です。約3年間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を訂正不能に決めつける狭量だけです。楽山こそが「やっかいな人」なのです。
 
「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居です。「断りたいのに断れない」・・いいえ、気に入らないことは、総て平気で無視する人です。
 
楽山は、自分が無反省かつ無責任であることを指摘されて弁明できないために、相手を、いじめっ子のような立場に、おとしめて否定し、被害者面をして同情を引くために書いている詭弁の悪口に過ぎません。こちらが言いたいことを、逆に、先に、こちらに向けて言い逃れとするペテン師なのです。
 
 
なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。
 
このように、楽山の結論は、断ること、無視すること、聞かないこと、否定することに、全く、引け目を感じない自己正当化になっています。何か言われると、肝心なところは無視して、まわりくどく、相手をおとしめてくるのが、楽山の常道ですから、相手にしないでほしいと思います。
 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想を、まるで品物でも選ぶような態度なら、宗教も信仰も語る資格はないということです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚ということに相応しい自覚が、まるでありません。まさに、無反省の自己中の高慢が特徴です。
 
楽山のように、宗教・思想・政治・人生というような大きなテーマについて、勝手なことを書いて、責任は負わない、反省はしない、ということでは、いかなる話し合いも交流も言論も成り立ちません。
 
否定を書いて、あとで肯定のようなことを書き、どちらとも断定していないから責任問題は発生しない、などと言っていたのが楽山です。楽山に対しては、非常識で病的な精神から病的疲労を与えるだけの病原として批判して楽山の情報を積み上げ、相手にしてはいけないことを広めるしかないのです。
 
宗教・思想は、思い付きで辻褄合わせ・噂話・世辞・悪口を語ればいいようなテーマではないのです。未熟ならば、その自覚を持っていなければならないところで、恐ろしく未熟なのに知ってるふうを装い、誰よりも高慢な決めつけを当ててくるのが、楽山です。
 
 
蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。
 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることをあげて、楽山が反省せず責任を負わないことを、、同次元で語ることは出来ません。信仰を知らないのに信仰を語るという酷い詭弁の偽善者が楽山です。楽山は、書けば、的を外してばかりです。楽山は、人が悪いどころではなく、明らかに害毒です。
 
楽山は、はっきりした意見を持てない人です。楽山は、決してお人好しではなく、悪意の因業の病質者です。信仰を、軽く扱って書いて、おとしめて、気持ちよくなりたいだけなのです。楽山に出会うことは、不幸そして不運ですが、受け入れると、精神の疲労から自分の人格を損なう恐れがあります。
 
 
 
  宗教の押しつけ
  2019-12-30NEW !
 
 
・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。
 
押し付けの代わりに印象操作による誘導を、善意の代わりに嘘と詭弁を、生業としているのが楽山です。もはや、いかなる許容もしてはいけない人だと思います。人格障害者の楽山を、人格として付き合うことが禁忌なのです。
 
「一神教もイメージはよくないようだ」・・これは、明らかに、キリスト教などの一神教の悪いイメージを刷り込む印象操作です。楽山が身に着けてきたことは、真実追求への深い思考ではなく、嘘と詭弁だけの誘導だということが、明らかになってきた約4年間でした。
 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っている無神教カルトなので、一般にとっても、特別に、特殊に、有害だと思います。まともに交流も議論も出来ない人で、関わってはいけない人です。
 
一部の刷り込み屋の詭弁をもって、信仰全体を否定することはできません。批判には、信仰を、ある程度、人間として常識的に理解しておくことが必要ですが、楽山は、宗教・信仰に、ケチを付けようと、悪い例だけを漁っているのでしょう。自己愛を満足させることだけを本能としている体質です。
 
 
実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。
 
楽山が「仕方ない」で言い逃れしようとも、隅から隅まで、詭弁のペンキを糊塗してくる楽山は、生きている間、批判の対象にしかならず、交流の対象にしてはいけない人であり、楽山が寄ってくるなら、きっぱり遠ざけるしかありません。それは、楽山に誰も近づかないように批判を公表することです。
 
楽山は、浅はかな曲解で悪口を言ってきます。これからも、宗教と信仰に、楽山のような病質者が介入して余計なことを触れ回ることでしょう。楽山は、混乱と疲労を人に与えますが、理解もヒントも与えることはありません。いつも嘘っぱちで、社会人のふりをしても楽山は反社会です。
 
信仰観?、楽山の場合、訂正不能の信条ですから、反信仰観であります。しかも、安っぽくて深みのないものです。楽山は、自己満悦感に生きているので、事実と言葉の選択も歪んできます。そのベースから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているだけなのです。
 
宗教の強制は、硬派カルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ないことを本質とします。楽山などの丁寧語を使う無神教軟派カルトは、自己肯定の妄想的信条を持っており、楽山の文章には、いつも、表れています。ほのめかして婉曲的に誘導することを手段としているのです。
 
アドラー教にならって、自己中を広めている楽山は、カルトを批判しているように言っていますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般に・・ですよね" 的な印象を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んできます。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、楽山のような無神教カルトに特徴的で、言論において陰湿で卑怯なやり口ということになります。ジメジメした陰気で、地を這う目立たない害虫です。
 
楽山に「見守り続ける」などというスタンスはないと思います。共感からの思いやりがないからです。楽山が何か書くたびに、楽山の冷酷な恣意から何ごとかを吹き込んでくるわけですから、楽山に見守られることは、人格の隷属と破壊を意味します。背筋が寒くなります。
 
 
こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、
 
「心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者」・・こういう大袈裟な書き方は、揶揄でしかありません。対象が見苦しいことを強調する書き方です。信仰熱心は、沸騰ではありません。楽山は、実に、質の悪い男だと思います。楽山は沸騰しますが、厚い信仰は沸騰しません。
 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山は、とんでもない企みを持っている確信犯、あるいは、パーソナリティ障害の不治と判断せざるを得ないのです。
 
 
そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。
 
楽山が、自分を律するなら、楽山は、去るしかないのですが、楽山は、無反省・無責任ですから、他者に対しても、誠意があるような三文芝居をするだけです。しかし、本当の真摯な態度を持ちません。だから「信じて待つ」などということは、最初からできない人です。嘘ばかりです。
 
宗教を信じることが、害であるかのような誘導をしています。宗教・信仰は、いい加減でよい、という刷り込みをして、無信仰~反信仰を刷り込んでゆくのが楽山です。ゆえに、決して信頼せず、批判しないのであれば相手にしないでください。
 
少なくとも、キリスト信仰においては、神の前の祈りの正直さにおいて、いい加減であってはいけないのです。そこを、楽山は、カルトしか知らないくせに悪い例だけを挙げて、宗教全体を踏みにじっています。これはカルト批判ではありません。双方向の批判を、決めつけの悪口におとしめる企みです。
 
自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、吹き込んで、ほのめかして、印象操作~マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルト楽山の手口のようです。
 
 
こってり固定観念

こってり固定観念
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年01月)
(2023年01月27日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】「伝道のためなら嘘が正当化されてしまう」「組織のためなら人権侵害や公共の福祉を破壊しても許される」「組織やリーダーを疑うことが許されない」といった点が当てはまるなら、それは健全な信仰ではなく、カルト信者の思考です。「信仰深さ」は「無批判になること」ではありません。
2023年1月25日
 
賛同したのなら、また、楽山へのブーメランです。平気で嘘を吐き、悪意で疲れさせて退かせるという人権侵害に近く、反論を無視して、雑言で返し、自分を疑うことを学んでいない、それは健全な精神ではなく、無神教カルトの思考です。まさに「信仰深さ」は「無批判になること」ではありません。
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いつまでも訂正不能の自己愛に執着して、人の意見を聞かない、そして、考えない、それで通用すると思っているのは、もはや、妄想の無自覚の信念とでも言うべきものです。経験から学ばず、子供の頭のまま、宗教と信仰に、とやかく言っても、迷惑~有害なだけで、何も収穫などないのです。
 
 
 
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  宗教を裁く楽山2
 
 宗教の組織化
   を改めて批判。
 
 
 
楽山の古い記事です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、同情芝居をして、お情けを乞うているようです。自分の問題を全く自覚しないまま、被害者面をして、こういう芝居をするのが、楽山の特徴です。
 
宗教と信仰を、超常の辻褄と物品と組織化とかでしか考えていないのが、楽山です。欠けているのは、人間の心です。そこが信仰の受け皿なのですが、楽山に見られたことはありません。ならば黙っておればよいのに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、言葉を失禁し続けます。
 
しかし、心を感受できない楽山は、悲劇が起こるから神はいないなどと、小学生でも考えそうな幼稚な理屈だけで否定してきました。楽山にだけは、宗教と信仰について何も言う資格はないと思っています。残りの一生を費やすことになりそうな批判記事、書き始めて、3年以上になります。
 
楽山には、あざ笑いと不機嫌の感情だけ、即ち、快楽原則しかないと思います。後悔や罪悪感などの高等感情としての悲しみの心が欠如していると思います。だから、しんみり悲しんだり、深く考える姿勢が、楽山の文章を読んでも感じられません。
 
 
かつて
ある宗教の発展期に
関わったことがある
当時
新たな仲間が増えていくのは
うれしかった
ただ
教団が大きくなり
組織化されていくにつれて
人間的なあたたかみが
うすれて行ったのはさみしかった
 
楽山の言う温かみというのは、気持ちよさとか、ごきげん・・というようなものだと思います。本当の温もりを知っている人は、白々しい詭弁や嘘を言いませんし、何より、反省できるでしょう。楽山は、それらが、一切、出来ていない人です。
 
 
また
神のためよりも
真理のためよりも
人のためよりも
組織の利益を優先するかのような
場面を見るのはつらかった
 
神のためも、真理のためも、人間としての真実のためも、楽山は、考えてこなかったのだろうと思います。だから、宗教を、ホラーと同じように書いている記事が見られ、一方で、取引のように、自分の利益として、考えているらしいところが、明らかになっています。信仰とは真逆です。
 
 
宗教は、神の論理だが
組織は、地上の論理(人の論理)であり
この二つを調和させるのは
とても難しいことなのかもしれない
 
宗教を「神の論理だが」などと書いてくるところが、楽山の安易さであります。神の論理、人に分かるわけはないのです。楽山は調和させれば認めるみたいな理屈を言っていますが、難しいのではなく、全能の理解は不可能という認識から、信仰の敬虔が生まれてきます。
 
 
 
 宗教の組織化 2
 2014年04月01日
 
 
組織化は、あくまで便宜上の仕組みに過ぎません。そこを論じて、宗教を論じたつもりの楽山は、何も宗教を知らないということです。"知らないという自覚" のほうが、よほど信仰に近くなりますが、そういうことが、楽山には、自己愛性人格障害のために、全く出来ないのです。
 
 
本来
心は
各人のものである
しかし
宗教は組織化の過程で
各人の信仰(心)を一定の枠内におさめ
共有しようとする
 
「信仰(心)を一定の枠内におさめ」ることなど出来ません。楽山は、その時には曲解し、今は、妄想的に偏向してゆきます。自己愛性パーソナリティ障害NPDにおいては、自分以外の物事を、自分より下に扱うという特徴があるので、宗教と信仰の考え方そのものが、成立しません。
 
 
信仰(心)にしろ
財産にしろ
私有を否定し
共有とするなんて無理なのに……
宗教の組織化の難しさは
このあたりにあるのかもしれない
 
このような制度・政治的な問題で、宗教を語っても、それは、宗教と信仰の本質とは遠いところでしかありません。それに、楽山には、あらゆる真実について、道理が成立することがありません。何故なら、反省せず、責任を負わないからです。
 
そうなると、何を書いても、言い放って終わりというだけになり、他者の意見を無視します。ゆえに、また、他者の意見を容易に忘れてもいるのでしょう。真実追求の糧にも意見にも議論にもならないのです。つまり言論にならないということです。
 
 
 
 宗教の正邪を見分ける方法
 2014年04月02日
   を改めて批判。
 
 
楽山は、まず、自分の邪悪さを見るべきですが、それをしないのだから、他者や他の物事について、そして、宗教なら、なおさら、その正邪を見分けることなど出来るはずもありません。自らを見ない者が、他者だけをあげつらうことは、害毒でしかありません。
 
 
一目見ただけで
プラスチック成型の大量生産品で
原価はどうみてもせいぜい数百、数千円くらい
と推測される仏具、神具などを
霊的な価値があり、御利益も期待できるとして
異様なほどの高額で譲渡しようとする宗教
 
このように、物品を見て、安いからご利益がないみたいなことを言っている楽山です。高ければよいのかという問題にもなりますが、何よりも、楽山の思考の浅薄さが表れているのです。だから、他者のインチキを批判して、自らのインチキに気づかないペテン師でしかないのです。
 
このように、楽山は、カルト批判と、宗教の在り方を語りたいようですが、その楽山自身がインチキでは、全ては空しいのです。かつ、そのことに気づかず、自己愛性人格障害の満悦から不平不満を言っても、一歩も真実に近づくことは出来ません。
 
 
仏具、神具などは
材料、品質などに応じて適正な価格をつけて
霊的な価値や御利益については軽口をたたくことなく
譲渡する宗教
 
軽口を叩かなければよいのでしょうか。むしろ、高くても安くても、霊験あらたかを歌うのがカルトではないでしょうか。譲渡するとしても、そこに込められた心に触れなければ、何の意味もないでしょう。そもそも、第一に、宗教は、物品や値段では決まりません。
 
 
いつもいつもお布施を募っておきながら
お金はいくら集まり、何に使ったかは
少しも明らかにしない宗教
 
お金と物品に、どこまでこだわっても、宗教を語ったことにはなりません。収支を明らかにするのは当たり前で、それで宗教になるわけではありません。それに、楽山は、多くの不祥事、不都合、嘘、詭弁を、認めもせずに、反省もせずに、平気でいます。宗教を批判し語る資格はありません。
 
自らの罪と偽善を隠しながら、他者のことを言っている楽山の醜さを忘れないでください。楽山の意見は、どこにも通じることなく、隠蔽と偽装によって、無明の沼に沈んでゆくだけの雑言に過ぎません。かなり前の記事にもかかわらず、楽山の思想の破れ具合が、既に表れています。
 
 
寄付を募るときには
その目的を明示した上で行い
事後には、集まった寄付金の総額、使用状況等を明らかにする
透明性の高い宗教
 
透明性も、当たり前のことです。宗教に限ったことではありません。個人について言うなら正直さということになりますが、嘘吐きの楽山に、最も欠けているものです。楽山は、時々、透明人間になって、逃げたり、人の言うことを無視したりしますから、人間としての透明性は皆無です。
 
 
こうしていろいろな宗教を見ると
その正邪を判断するには
信仰対象、教義、奇跡、歴史、信者などよりも
お金に対する態度を見るのが
もっとも簡単な方法かもしれない
 
お金に対する態度を見るのがよい・・というのは短絡です。必要条件に過ぎません。貧乏な暴力の集団は、正しいのでしょうか。楽山は、そういう目しか持っていないわけです。ゆえに、心の問題について何も語れない安っぽい軽口の楽山が、とりとめもなく自己中発言を吐いてゆくだけになります。
 
分かってないのに言ってくる、楽山のような者が、いちばん宗教を駄目にするのです。楽山自身が信頼できない人なのだから、楽山が、肯定しても肯定とは受け取れず、否定しても否定とは受け取れない、ということです。そういう人との交流は無意味です。
 
このように、何を言っても無駄という災いになる人は、稀です。楽山のような自己愛性パーソナリティ障害などの、身勝手で、平気で、だましたり、嘘を吐く人が、そうなってゆくでしょう。楽山批判は、人間性を守るために、非人間性との接触を避けるためには当然の成り行きなのです。
 
楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、もっともらしく「お金に対する態度を見る」と言っているのは、心を誘導し支配したいからでしょう。楽山は「信仰対象、教義、奇跡、歴史、信者」のどれも、まともに理解していません。「簡便に」だまそうとしています。
 
 
不平不満のブーメラン

不平不満のブーメラン
 
 
(2021年)
(2022年11月01日、再録+加筆)
 
 
 
  かたすみ
 
滅びゆく家の片隅に
うずくまってじっと耐えているか
去りゆく人の残していく
滅びゆく影を追って
北風に唇をふるわせて野辺に立つか
滅びゆく世界の
残された片隅に
あてがう呼び名もなく
呼ばれることもなく
吹きすさぶ嵐に傾いて
ひび割れた古い柱に
さらに寄り掛かる冬の重さに
耐えるときの命の中に
命に似て
少しく潤んで
しのぶもの
滅びゆく希望の
片隅に凍えて
小さく開かれた永遠を信じて
小さく開いた眼だけになって
やがて白く
広く
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
  聖書
 
一般に紙は薄く、頁はめくりにくく、ボールペンで線でも引くと裏から透けて見えること多く、にじんでくることさえある。一般に分厚く、途方もないと思えて、なおかつすべての一行一行に涙流れるわけでもない。メモでもしておかないとすぐどこだったか忘れてしまう。
 
これに一生を費やす人がいるわけだ、と他人ごとのように思う。聖書、バイブル。旧約聖書、新約聖書。文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書、共同訳聖書、リビングバイブル。
 
永遠のベストセラー、というより永く買わされてきたこの書物を全部読みこなせた人がどれだけいるのだろう。たとえそらんじたとしても信仰に保証はないのだ。
 
開こうとするたび、無数の異国の怪人が現れ、白髪の老人であったり、真黒な眉毛と髭の間にこわそうな目がにらみつけたりする。
 
こりかたまりの戦争の話であったり、道に伏した栄養失調の嘆きであったり、熱くなって爆発しそうな顔であったり、こちらが爆発しそうになったりする。
 
ただときどき、ふだん嫌いな憐れみが命がけで迫ってきて、荒野や砂漠が潤ったりするので、海が割れたり死人が生き返ったりしてこんな頭持ってないと破り捨てたくなるのを、笑えなくする。
 
 
 
前にも載せた楽山日記のコメントです。誰のコメントかは知りません。
コメント欄
 
 
隆くんへ
 
・・・
 
間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
自分 正さなくちゃいけない
 
それが出来て 初めて人間だと
それ出来ないなら 人ではないと
 
・・・
 
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
 
・・・
 
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 
人間で在り続けるのなら
人で在り続けるのなら
 
 」
 
このコメントは、毎回載せようかと思っています。
 
楽山は、インチキ占いか、詐欺でも、やっていたのでしょうか。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
毎回載せているコメント欄ですが、最初は、上記のような書き方をしていました。それにしても、楽山は、恥ずかしい自分の、ブログ、ツイッター、そして、原典のような扱いの、佐倉哲のHPを、どうして削除しないのでしょう。ここに、楽山の自己顕示欲からの執拗な病質の原点が表れています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の反宗教3
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう自己満悦の立ち位置は、どこにも正当に存在しない悪意の産物です。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、悪意と無恥が見抜かれても書き続ける厚かましい男です。自己満足だけに生きて、周りを見ず、受け止めず、考えず、反省しないと、成長できないまま、これだけ図々しくなるのです。
 
 
この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。
 
聖書は、文献としても分析されることはあるでしょう。その結果は、信仰を考える上での資料となりますが、信仰そのものには決してなりません。つまり、楽山が挙げているような○○主義派などは、派生した思想であって、信仰ではありません。楽山の宗教観は、見当違いで出来ています。
 
宗教は、思想となり、教条主義となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではなく、むしろ信仰を受け取る人間の側の修正を促す必要を表しているのです。
 
楽山のような者が、手持ちの、半端で偏った、偏見と先入観に満ちた知識で決めつけて否定することこそが、信仰を最も損なう害悪です。楽山の知識は、宗教と信仰を語る上で、何の役にも立たず、ただ、楽山の攻撃性を満足させるだけのために積まれているものです。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。信仰者も例外ではありません。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教、そして、心と命を支える正直な祈りの信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感もなく、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのです。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力に実践しているのが、楽山であり、善に見せかけた悪意の存在であります。まさに、その類似は、聖書にあるところの偽善者であり、一見まともに見せかけていても、心を失った嘘と詭弁と教条の悪鬼なのです。
 
 
千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。
 
「悔い改めてキリストの審判を待つ」のは、原理主義ではなく信仰者の使命であります。楽山は、これを「悲観的傾向」と言っています。何も分かっていない証拠です。楽山の自己愛からは、何でも一気に解決して安穏になるのが信仰なのでしょうが、それは楽山の欲望であり、信仰ではないのです。
 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから・・という理由だけで信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。愛も共感も知らない楽山です。
 
それぞれが、悲観的傾向ではなく、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。誰が、千年王国の立場を待つというのでしょう。楽山の固陋(ころう)の嘘八百です。
 
楽山は、人の信仰を、ゴミも靴も人格も、いっしょにしている妄想者なのです。そして、一方で、楽山は、何の努力もしないし、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかないという、すっとぼけの病的ナルシストなのです。
 
ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如から、また、何をやってもうまくいかないという現実の当然の不都合な成り行きから、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)で、宗教と信仰を、訂正不能の我執から貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる根性です。アンチを気取る楽山は、むしろ、そういうカルトの性質と符合しています。
 
 
中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。
 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、専門用語を使う評論家気取りで、現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをなすりつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、楽山には欠片もなくて、ゆえに、他者にも、それらを認めなくなったのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして自己満悦する醜いサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例として明らかになるでしょう。楽山の言は、悪い例だけを挙げて貶める詭弁であり、楽山の暇つぶしや、いちゃもんの材料にはなっても、宗教批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、共感も生まれず、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。的を著しく外しながら、宗教と信仰を語る楽山は、ただただ、ノイズに過ぎません。
 
楽山が言っているのは、悪い霊というより、間違った例であり、一部でありながら極端な例ですから、全ての信仰が間違いということにはなりません。さらに、間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、次々に実行して、表しているわけです。
 
 
アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。
 
楽山は、進化論を支持し、同じような無信仰カルトとでも呼ぶべきものたちの記事を載せています。自分に理解できないものだから悪いという幼児性が、楽山の宗教観ですから、言論として、成り立つことはないのです。
 
こういう人間とは思えない蛮行に走る事件が起こることはあります。人間らしい宗教と信仰ではなく、カルト化している場合です。そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、悪口だけを、的外れに書いてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。
 
どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応と無責任の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、宗教荒らしとして煽(あお)っています。
 
しかし、一方で、世辞のように、言い訳のように、キリスト教を褒める話も書いてきました。この否定したり、褒めたり、という相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、これが宗教だとばかり、いい気になっています。この見苦しささえも、無反省で高等感情のない楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の腐敗性の浸出液として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 
悪性浸出液の墓場

悪性浸出液の墓場
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月06日、再録+加筆)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の醜さは、楽山が養ってきた体質~人格からもので、本人が直そうとしない限り、増悪はしても、治癒はしません。いつも半端で、心の弱い人を頷かせて侵食するペテンは、同時に、楽山の悪性をも増悪させているのです。その先には、固陋(ころう)の洞窟の独り笑いが待っているのです。
 
こ‐ろう【固×陋】 の解説
[名・形動]古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと。また、そのさま。「旧時代の―な人々」「頑迷―」
 
 
 
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  楽山ツイッター(3)2
 
 
2021年の楽山の、無理解からの、努力ではなく、使命でもなく、務めでもなく、真面目でもなく、ふざけ半分の、趣味のような、憂さ晴らしのツイッターです。生きる楽しみが、意地の悪い趣味以外にないのだろうかと思います。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の影響が垣間見えますな。
つーか、詩人、作家であれば、「限りなく透明」という表現は避けそうなもんだけどね。
午後8:15 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」は、読んだことがあります。楽山は、この題名の「透明」の意味を分かっているのでしょうか。「透明」は、存在しないかのように、無視される、「ブルー」は、悲しみでしょう。
 
楽山は、「透明」を、まさか、透き通って美しい・・みたいな意味に捉えているのでしょうか。それで、「詩人、作家であれば」「避けそうなもんだ」、と言っているのなら、楽山の読解力は、ひどいものです。ひょっとして、読んでいないのではないかとさえ思います。
 
読んでいないのなら、上のような悪口は、それこそ、何の根拠もないことになり、村上龍をネタにしているだけだから、相手を選ばずに論(あげつら)う酷い侮辱です。楽山は、存在感もなく透き通って、人をブルーにする透明人間なのでしょうか。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
「自分の意思で信じています」と、わざわざ強調してあるところが、
二世、三世信者の現状を如実に表してるなあ…。
午後8:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
楽山に、宗教批判をする資格はありません。この3年余り見てきましたが、楽山の書く文章には、まともな根拠が、まるで示されていないからです。書いてきたのは、揶揄、嫌がらせ、いちゃもんだけです。なぜそうなるかと言えば、楽山が、無反省・無神経・無責任・無理解、そして鈍感だからです。
 
楽山の言うことだけは、どうか、信用しないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、ゴシップ好みで、笑って茶化しているに過ぎません。受け取っても、何の助けにも参考にもなりません。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·14時間
前半の話は聞いたことあるけど、後半の話は初めて聞きました。なるほど。
喜べる人はより喜べるようになり、嫉妬深い人はより嫉妬深くなり惨めになるというのは、恐ろしいけど、真実なんだろうな。
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 15時間
友人や知人の成功を一緒に喜んであげられる人になろう。それができれば友人や知人の数だけ喜べる数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに自分も幸せになれる。逆に、それができない人は友人や知人の数だけ嫉妬の数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに惨めな気持ちになる。この差は超デカい。
 」
午後0:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
楽山は、二進法のような安易すぎる是非の誤判断はしても、共感性がないので、喜びと悲しみを共にすることが出来ません。ゆえに、ルサンチマン的な嫉妬からの惨めな気持ち、そして、その反発として、敵意、揶揄、無責任な否定、幼稚な動機からの笑い、といった低次元の反応しかしてこなかったのです。
 
「喜び」と「惨め」さと書いて、心に響くような説明もなしに、物差しで測るような単純な理路で、「この差は超デカい」という、表現を強めるだけの軽薄な形容で、つまり、これも、笑いのネタにしているだけなのです。
 
楽山は、人間らしく喜ぶことが出来ないので、意地悪に笑えることだけを求めています。人格も、理路も、感性も、破綻して、「恐ろしい」事態になっているのは、楽山です。真剣味がなく、他者は雑談のネタに過ぎないのでしょう。
 
刹那的な常套句の遣り取りという見せかけだけの付き合いを続けて、長く親身になって付き合うことのできない楽山からの、にじみ出てくるような敵意と怨念が筆致の裏に隠されています。恐らく、真面目に考えるということが出来ない障害なのだろうと思います。
 
楽山には、人生の目的がなく、他者について、自らの惨めさから嫉妬して、怨念のようなものがベースとなり、そこから物を言うゆえに、感受する焦点がズレて、理路が歪曲し、理解から遠のき、他者の欠点ばかりをあげつらい、揶揄して、面白がるだけになっているのでしょう。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
・・・
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
うさ@宗教2世・非定型うつ
@merry_ura
よく奇跡の体験などで「信仰して病気が治りました!」って体験談出てくるけど
信者 かつ 病気が治った人
を切り取っているだけに見える。他にもいろんな人がいるのにね。
同じ病気の信者と未信者を集め、長期的にデータをとって「信仰すると○%治る確率が上がりました」ってしないと納得できないよ
 」
午後0:37 · 2021年4月16日·Twitter for iPhone
 
データの選択による偏りを言っているようです。信仰は、病気が治る呪(まじな)いではありません。信仰は、心の救済であって、物や肉体の奇跡のご利益ではありません。また、信仰は、データを取って有意だから信じる、などというものではありません。超常のことは、神にお任せするのが信仰です。
 
楽山は、宗教に恨みがあって、おとしめたいので、こういう見方に賛成してリツイートするわけですが、楽山自身が、霊が分かるっぽい超常の自覚から、奇跡を起こす人になりたがっているのです。結果は、人をだまして面白がる悲惨な絶望への一方通行です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
近所の人やキリスト教界隈の人等から情報が寄せられれば教会に確認したりとかできますが、そういう取っ掛かりがないと難しいんですよねえ。あと、仮に特定できたとしても公表するかどうかは事情によります。
引用ツイート
「「
サボ
@apple200apple
 · 7時間
返信先: @SuspendedNyoraiさん
クラスター感染を引き起こした教会が一体どこなのか、取材して特定して貰えませんか? お願いします。そんじゃそこらの宗教被害やカルト宗教よりも、話題性があるかも。
https://tokai-tv.com/tokainews/article_20210416_168068
午前9:14 · 2021年4月18日·Twitter Web App
 」」
 」
 
楽山の悪趣味に合わせて、教会のクラスター感染を載せて、キリスト教を間接的におとしめている悪意が、かえって露骨になります。クラスター感染があったのなら公表し対策を講じるべきでしょう。どんなときも、決して、楽山に関わらせてはいけません。
 
また、いつもの、他者の口を使えば、自分が言ったのではないから責任がないじゃろ・・という楽山の厚顔無恥の企みです。引用した責任というのが分からない楽山です。楽山という悪性スピーカーには良心がありません。嘘と詭弁によって刷り込んで欺く者は、医学では扱えない悪性の病原です。
 
下手に楽山を参加させると、自己愛性人格障害の意地悪、無反省、無責任ぶりに、近くにいるほど、長く付き合うほど、頼りにすればするほど、忘れられないほどの消耗と疲労を味わうことになります。決して関わらないでください。
 
 
独り言の人生

独り言の人生
 
 
(2021年)
(2022年05月28日)
 
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
 
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
 
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴むことができようか
 
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
 
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
 
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
  捨てる
 
破り捨てることは
いつでもできる
書くことはいつでもできる
わけではない
 
捨てることはいつでもできる
君の中の僕の記憶のように
何てやすやすと
僕はまだ生きているのに
 
書いたもの全部
引きずって
何て重たいと
つぶやいたのは
書かれたものたち
 
もう放しても
いいよ
 
 
  悲しい顔の先
 
生きている間に見るがいい
紛れもなく有機物である人間の顔
そこから目をくりぬき舌を抜き
耳と鼻をそぎ落としたとして
いくつかの穴だけを伴った
首の上に乗っているのっぺらぼう
 
どれが涙でどれが血かわからなくても
凄惨な穴と穴の
位置と形態のあり様は
やはり人間の顔の迫真であるはずだ
 
生きている間に見るがいい
やがて失われていく水分のために
無数のしわが隠していくもの
頭皮を剥ぎ皮膚と筋肉をそぎ落とし
さらに乾燥して光沢さえ見せるされこうべは
不気味に笑っているかのようで
そういった悲しみの成れの果てに
下顎が落ちて
転がった先を無機質という
 
生きている間に見るがいい
土と石の中から無機質のかけらを
拾っては丁寧に泥を取り去り
集めては手に取って眺め
つぶやくように
「下顎骨・・・」と
深く静かに息をつかせるもの
見られている先を人間という
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
世辞と芝居と嘘と詭弁で出来た人生は、朽ちてゆくガイコツのようなものです。「だよなあ」「恥ずかしながら」と書いても、実感などは無くて、しらばくれる卑怯さが、一種異様な臭みをもって、鼻を突き、目を乾かし、口を歪ませているだけなのです。実りなき偽りの人生です。
 
 
 
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  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
   を改めて批判。
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
宗教は麻薬と言われたことがありますが、それを楽山は言いたいのでしょう。一面的な偏見だけで書いてくる楽山です。自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、聖人気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要ですが、楽山は、悲哀に不感であるため、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の、教祖願望の、反宗教反キリストです。信じないのは自由ですが、根拠もなく否定するのは、無知の無恥の因業であります。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、キリスト教の敵、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。楽山は、言論の敵です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変質させる麻酔ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害言論者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。独創性が皆無の楽山の人真似です。解釈は、聖書の文言だけではなく、人間の心にとっての必要性があるから生まれてきます。
 
信仰の真実は、物事の解釈や意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのでしょうが、楽山が、今になっても、まるで、読書による知識の広がりがないことの証拠になります。だまし続けているのは、楽山です。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。カルトも宗教も、区別できず、いっしょくたになっている楽山の言です。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛の妄想~決めつけによって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいと自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
心理学と心霊主義も区別できない楽山です。ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようです。
 
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
「やっかい」なのは、楽山です。宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。楽山は、宗教を、ひとまとめにして否定し、まともな根拠を持ちません。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵も、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい人間になってしまったのが、楽山であります。
 
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「骨までしゃぶられる」宗教?は、宗教でも信仰でもありません。キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
何も考えないで、神のことも自分の頭で扱えるつもりの、楽山の惨劇です。
 
楽山の言は、宗教については、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいようですが、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスの、楽山その人であります。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって悪口だけを書いています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習障害によって知らないままの楽山の、執拗な言い張りを、実際は、カルトの洗脳・暗示・刷り込みを、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
虚言の澱(おり)

虚言の澱(おり)
 
 
(2020年)
(2022年04月27日、再録+加筆)
 
 
 
  池のある公園
 
ここに来るのも久しぶりだ
暖かい日曜の午後
池には無人のボートが数そう浮かんで
緩やかな風が
池の面にかすかな波を立てている
 
ほとりに向かって歩いていくと
俺に似たやつが
セメントのベンチに腰掛けている
片手には詩集のようなものを手にしているが
眺めているのはほとりに戯れる小魚の方だ
 
向こうからもやってくる
よれよれのブレザーを着て
手には紙屑を握っている
あれも俺だ
 
よく見れば
あっちにもこっちにも
数人の俺が歩いている
大学に入った頃の俺
野球場からの帰りの俺
バイクに乗り始めた頃の俺
ここにいる俺
 
見てみろ
俺達はなんてさびしげだ
声をかけあうこともなく
ただ声もなくたたずんでいる
 
俺が小石を池に投げると
ベンチに座っているやつがそれを眺めている
そいつの後ろから
そっと手を伸ばしてみた
 
それより早く
誰かが俺の肩に触った
はっとしてあたりを見回せば
暖かい日曜の午後
まわりを歩いているのは
みんな知らない人たちばかりだ
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
 
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
 
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
 
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
 
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、ますます、かぶれて、ただれてゆくようです。人格が、元々未熟な上に、反省もせず、学びもせず、罪悪感の欠乏から、何も気にしないで書いてくることが、病質を表してゆきます。どこへ行くのでしょう。ホラーアニメとお伽噺と超常の霊を、独り待ち続けてゆくようです。
 
 
 
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