ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反宗教

 
  楽山ツイッター(3)2
 
 
2021年の楽山の、無理解からの、努力ではなく、使命でもなく、務めでもなく、真面目でもなく、ふざけ半分の、趣味のような、憂さ晴らしのツイッターです。生きる楽しみが、意地の悪い趣味以外にないのだろうかと思います。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の影響が垣間見えますな。
つーか、詩人、作家であれば、「限りなく透明」という表現は避けそうなもんだけどね。
午後8:15 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」は、読んだことがあります。楽山は、この題名の「透明」の意味を分かっているのでしょうか。「透明」は、存在しないかのように、無視される、「ブルー」は、悲しみでしょう。
 
楽山は、「透明」を、まさか、透き通って美しい・・みたいな意味に捉えているのでしょうか。それで、「詩人、作家であれば」「避けそうなもんだ」、と言っているのなら、楽山の読解力は、ひどいものです。ひょっとして、読んでいないのではないかとさえ思います。
 
読んでいないのなら、上のような悪口は、それこそ、何の根拠もないことになり、村上龍をネタにしているだけだから、相手を選ばずに論(あげつら)う酷い侮辱です。楽山は、存在感もなく透き通って、人をブルーにする透明人間なのでしょうか。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·6時間
「自分の意思で信じています」と、わざわざ強調してあるところが、
二世、三世信者の現状を如実に表してるなあ…。
午後8:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
楽山に、宗教批判をする資格はありません。この3年余り見てきましたが、楽山の書く文章には、まともな根拠が、まるで示されていないからです。書いてきたのは、揶揄、嫌がらせ、いちゃもんだけです。なぜそうなるかと言えば、楽山が、無反省・無神経・無責任・無理解、そして鈍感だからです。
 
楽山の言うことだけは、どうか、信用しないでください。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、ゴシップ好みで、笑って茶化しているに過ぎません。受け取っても、何の助けにも参考にもなりません。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·14時間
前半の話は聞いたことあるけど、後半の話は初めて聞きました。なるほど。
喜べる人はより喜べるようになり、嫉妬深い人はより嫉妬深くなり惨めになるというのは、恐ろしいけど、真実なんだろうな。
引用ツイート
Testosterone
@badassceo
 · 15時間
友人や知人の成功を一緒に喜んであげられる人になろう。それができれば友人や知人の数だけ喜べる数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに自分も幸せになれる。逆に、それができない人は友人や知人の数だけ嫉妬の数も増え、友人や知人に良いことがあるたびに惨めな気持ちになる。この差は超デカい。
 」
午後0:04 · 2021年4月17日·Twitter Web App
 
楽山は、二進法のような安易すぎる是非の誤判断はしても、共感性がないので、喜びと悲しみを共にすることが出来ません。ゆえに、ルサンチマン的な嫉妬からの惨めな気持ち、そして、その反発として、敵意、揶揄、無責任な否定、幼稚な動機からの笑い、といった低次元の反応しかしてこなかったのです。
 
「喜び」と「惨め」さと書いて、心に響くような説明もなしに、物差しで測るような単純な理路で、「この差は超デカい」という、表現を強めるだけの軽薄な形容で、つまり、これも、笑いのネタにしているだけなのです。
 
楽山は、人間らしく喜ぶことが出来ないので、意地悪に笑えることだけを求めています。人格も、理路も、感性も、破綻して、「恐ろしい」事態になっているのは、楽山です。真剣味がなく、他者は雑談のネタに過ぎないのでしょう。
 
刹那的な常套句の遣り取りという見せかけだけの付き合いを続けて、長く親身になって付き合うことのできない楽山からの、にじみ出てくるような敵意と怨念が筆致の裏に隠されています。恐らく、真面目に考えるということが出来ない障害なのだろうと思います。
 
楽山には、人生の目的がなく、他者について、自らの惨めさから嫉妬して、怨念のようなものがベースとなり、そこから物を言うゆえに、感受する焦点がズレて、理路が歪曲し、理解から遠のき、他者の欠点ばかりをあげつらい、揶揄して、面白がるだけになっているのでしょう。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
・・・
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
うさ@宗教2世・非定型うつ
@merry_ura
よく奇跡の体験などで「信仰して病気が治りました!」って体験談出てくるけど
信者 かつ 病気が治った人
を切り取っているだけに見える。他にもいろんな人がいるのにね。
同じ病気の信者と未信者を集め、長期的にデータをとって「信仰すると○%治る確率が上がりました」ってしないと納得できないよ
 」
午後0:37 · 2021年4月16日·Twitter for iPhone
 
データの選択による偏りを言っているようです。信仰は、病気が治る呪(まじな)いではありません。信仰は、心の救済であって、物や肉体の奇跡のご利益ではありません。また、信仰は、データを取って有意だから信じる、などというものではありません。超常のことは、神にお任せするのが信仰です。
 
楽山は、宗教に恨みがあって、おとしめたいので、こういう見方に賛成してリツイートするわけですが、楽山自身が、霊が分かるっぽい超常の自覚から、奇跡を起こす人になりたがっているのです。結果は、人をだまして面白がる悲惨な絶望への一方通行です。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
近所の人やキリスト教界隈の人等から情報が寄せられれば教会に確認したりとかできますが、そういう取っ掛かりがないと難しいんですよねえ。あと、仮に特定できたとしても公表するかどうかは事情によります。
引用ツイート
「「
サボ
@apple200apple
 · 7時間
返信先: @SuspendedNyoraiさん
クラスター感染を引き起こした教会が一体どこなのか、取材して特定して貰えませんか? お願いします。そんじゃそこらの宗教被害やカルト宗教よりも、話題性があるかも。
https://tokai-tv.com/tokainews/article_20210416_168068
午前9:14 · 2021年4月18日·Twitter Web App
 」」
 」
 
楽山の悪趣味に合わせて、教会のクラスター感染を載せて、キリスト教を間接的におとしめている悪意が、かえって露骨になります。クラスター感染があったのなら公表し対策を講じるべきでしょう。どんなときも、決して、楽山に関わらせてはいけません。
 
また、いつもの、他者の口を使えば、自分が言ったのではないから責任がないじゃろ・・という楽山の厚顔無恥の企みです。引用した責任というのが分からない楽山です。楽山という悪性スピーカーには良心がありません。嘘と詭弁によって刷り込んで欺く者は、医学では扱えない悪性の病原です。
 
下手に楽山を参加させると、自己愛性人格障害の意地悪、無反省、無責任ぶりに、近くにいるほど、長く付き合うほど、頼りにすればするほど、忘れられないほどの消耗と疲労を味わうことになります。決して関わらないでください。
 
 
独り言の人生

独り言の人生
 
 
(2021年)
(2022年05月28日)
 
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
 
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
 
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴むことができようか
 
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
 
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
 
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
  捨てる
 
破り捨てることは
いつでもできる
書くことはいつでもできる
わけではない
 
捨てることはいつでもできる
君の中の僕の記憶のように
何てやすやすと
僕はまだ生きているのに
 
書いたもの全部
引きずって
何て重たいと
つぶやいたのは
書かれたものたち
 
もう放しても
いいよ
 
 
  悲しい顔の先
 
生きている間に見るがいい
紛れもなく有機物である人間の顔
そこから目をくりぬき舌を抜き
耳と鼻をそぎ落としたとして
いくつかの穴だけを伴った
首の上に乗っているのっぺらぼう
 
どれが涙でどれが血かわからなくても
凄惨な穴と穴の
位置と形態のあり様は
やはり人間の顔の迫真であるはずだ
 
生きている間に見るがいい
やがて失われていく水分のために
無数のしわが隠していくもの
頭皮を剥ぎ皮膚と筋肉をそぎ落とし
さらに乾燥して光沢さえ見せるされこうべは
不気味に笑っているかのようで
そういった悲しみの成れの果てに
下顎が落ちて
転がった先を無機質という
 
生きている間に見るがいい
土と石の中から無機質のかけらを
拾っては丁寧に泥を取り去り
集めては手に取って眺め
つぶやくように
「下顎骨・・・」と
深く静かに息をつかせるもの
見られている先を人間という
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
世辞と芝居と嘘と詭弁で出来た人生は、朽ちてゆくガイコツのようなものです。「だよなあ」「恥ずかしながら」と書いても、実感などは無くて、しらばくれる卑怯さが、一種異様な臭みをもって、鼻を突き、目を乾かし、口を歪ませているだけなのです。実りなき偽りの人生です。
 
 
 
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  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
   を改めて批判。
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
宗教は麻薬と言われたことがありますが、それを楽山は言いたいのでしょう。一面的な偏見だけで書いてくる楽山です。自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、聖人気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要ですが、楽山は、悲哀に不感であるため、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の、教祖願望の、反宗教反キリストです。信じないのは自由ですが、根拠もなく否定するのは、無知の無恥の因業であります。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、キリスト教の敵、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。楽山は、言論の敵です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変質させる麻酔ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害言論者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。独創性が皆無の楽山の人真似です。解釈は、聖書の文言だけではなく、人間の心にとっての必要性があるから生まれてきます。
 
信仰の真実は、物事の解釈や意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのでしょうが、楽山が、今になっても、まるで、読書による知識の広がりがないことの証拠になります。だまし続けているのは、楽山です。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。カルトも宗教も、区別できず、いっしょくたになっている楽山の言です。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛の妄想~決めつけによって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいと自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
心理学と心霊主義も区別できない楽山です。ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようです。
 
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
「やっかい」なのは、楽山です。宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。楽山は、宗教を、ひとまとめにして否定し、まともな根拠を持ちません。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵も、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい人間になってしまったのが、楽山であります。
 
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「骨までしゃぶられる」宗教?は、宗教でも信仰でもありません。キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
何も考えないで、神のことも自分の頭で扱えるつもりの、楽山の惨劇です。
 
楽山の言は、宗教については、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいようですが、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっているのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そしてサイコパスの、楽山その人であります。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって悪口だけを書いています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習障害によって知らないままの楽山の、執拗な言い張りを、実際は、カルトの洗脳・暗示・刷り込みを、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
虚言の澱(おり)

虚言の澱(おり)
 
 
(2020年)
(2022年04月27日、再録+加筆)
 
 
 
  池のある公園
 
ここに来るのも久しぶりだ
暖かい日曜の午後
池には無人のボートが数そう浮かんで
緩やかな風が
池の面にかすかな波を立てている
 
ほとりに向かって歩いていくと
俺に似たやつが
セメントのベンチに腰掛けている
片手には詩集のようなものを手にしているが
眺めているのはほとりに戯れる小魚の方だ
 
向こうからもやってくる
よれよれのブレザーを着て
手には紙屑を握っている
あれも俺だ
 
よく見れば
あっちにもこっちにも
数人の俺が歩いている
大学に入った頃の俺
野球場からの帰りの俺
バイクに乗り始めた頃の俺
ここにいる俺
 
見てみろ
俺達はなんてさびしげだ
声をかけあうこともなく
ただ声もなくたたずんでいる
 
俺が小石を池に投げると
ベンチに座っているやつがそれを眺めている
そいつの後ろから
そっと手を伸ばしてみた
 
それより早く
誰かが俺の肩に触った
はっとしてあたりを見回せば
暖かい日曜の午後
まわりを歩いているのは
みんな知らない人たちばかりだ
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
  荒療治
 
ダニか他の虫刺されか
赤いブツブツ
かゆいけれど
かけば汁が出てひろがる
悪いものはたいていそうだ
 
毒には毒をと
タバコの火、近づけて
熱さが、痒みから痛みへ
一、二秒がまんして
軟膏を塗る
 
この荒療治は、しばしば
やり過ぎて水疱をつくる
破って中の液を
ティッシュで吸い取り
また軟膏を塗る
 
何カ所かやって
ひとつだけ治らない
絆創膏でかぶれて
ますます赤くなって痒い
 
悪いものはたいていそうだ
またタバコであぶったり
ちり紙でゴシゴシこすったり
手持ちのあらゆる軟膏を塗ったのち
愚かなことをしたと気づく
愚かなものはたいていそうだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、ますます、かぶれて、ただれてゆくようです。人格が、元々未熟な上に、反省もせず、学びもせず、罪悪感の欠乏から、何も気にしないで書いてくることが、病質を表してゆきます。どこへ行くのでしょう。ホラーアニメとお伽噺と超常の霊を、独り待ち続けてゆくようです。
 
 
 
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  楽山の駄弁(2)
 
 楽山ツイッター
 
 
いちゃもんをつけるだけなら簡単と、楽山は、引用+批判をツイートしていますが、いつものように、高慢と、思慮不足で、自慢になったり、断片的になったり、何にもならなかったりしています。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
私は、カクカク・シカジカの理由で大川隆法は嫌いだと書いてます。
でもPさんは、その理由の部分をはぶいて引用してます。その結果、私がただ大川隆法をくさしたかのようになってます。
こういう切り取り方は印象操作であって、正しくありません。
 
楽山の、ふざけた「カクカク、シカジカ」を信用してはいけません。理論家気取りですが、大方、詭弁です。楽山は、理屈めいた書き方をしていますが、嘘と印象操作など詭弁を弄し、結局、くさしているだけです。自己愛性人格障害によって、楽山は、自らをも、腐らせてゆきます。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「誤読だ」「Pの解釈だ」と強弁し、
私は結論だけでなくその理由を書きます。理由の提示なしに結論だけを強弁してるのはPさんかと。
 
楽山は、根拠も理由もなく、霊能者気取りであり、上から見下ろして、言いたいことだけを言い、批判に対しては、ことごとく無視してきました。にもかかわらず、今も書いてくるのは、羞恥心がないからです。楽山の言は、嫌がらせ以上ではなく、はっとさせるものは皆無です。
 
総裁先生の悪口を言っても
 」
これについては上に書きました。
私が全く乗ってこないので
 」
いいえ、毎回反論してきてるでしょう。殆ど精神勝利宣言だけど。
 
楽山のほうが、鈍感を冷静と勘違いして、鈍いのに高慢な勝利が前提になっています。説得力も、思いやりも、罪悪感もなく、乗ってこないのではなく、都合の悪い他者の意見に反論も詭弁となり、自分の言だけを押し出してくる厚顔無恥の単方向が本質なのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
アナタはかなりお困りのようですね。
 」
私の意見は、Pさん以外の方々には理解してもらえてるようなので困ってはいません。
ただ同じようなことばかり繰り返し書くのは、さすがに面倒くさくなってきてますけど。
 
誰も楽山の言を理解していないと思います。楽山は病識がないので、理解されたと勘違いしていますが、実際は、楽山を受け入れることは、だまされていることを意味します。面倒くさいのは、本心を隠して、詭弁を捏造しているからです。
 
誰も感動していないのに、執拗に、ネチネチと同じようなことを書き続ける性懲りのなさが、楽山のやり方です。肝心なところでは、行き詰まるようなところでは、さっさと逃げて、都合の悪いことを、一切、無かったことにするのです。荒らしよりも悪質です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
あっ、そうだ。HSにはオリジナルの教えがありました。
「大川隆法は主エル・カンターレであり、神様である」
これはHS以外では、どこも言ってないオリジナルだと思います。絵文字(握った手)
 
楽山には、自分は霊が分かるっぽいと書いた記事があり、批判されても、無反応です。楽山にあるのは、霊能者気取りをはじめとする様々な気取りと、三文芝居と、現実と超常の混同と、不都合を無視するアドラー教からの自己中です。
 
楽山を相手にしてはいけません。疲労して、楽山と同じように、知性も感性も鈍麻して、自分に頷き続ける人形のような精神異常になる恐れがあります。それに、楽山には、オリジナルな思想は、何一つありません。都合のよいところを、拾って、引用~悪用するだけなのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@komo266
さん
ちなみに、大川隆法を嫌だなと思うのは、人を尊敬せず、大切にしないところです。
教団初期は、谷口雅春や高橋信次から多大の恩恵を受けながら、その後はこき下ろした。
きょう子夫人についても五人の子供をもうけながら、その後はこき下ろした。
こういうところは嫌悪感を抱かないではいられない。
 
楽山を嫌だなと思うのは、人を尊重もせず、大切にもしないところです。楽山と長く遣り取りをして、異常な疲労感を覚えた人は少なくないでしょう。楽山は、温もりと潤いに満ちた人間らしさが欠落しているので、質の悪い歯車のような仕掛けで、堂々巡りし続ける迷惑分子です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
HSのオリジナルな仏法真理は膨大だから
仕方がないのかもしれないネ
 」
いやいや、今どきHSに限らず、
オリジナルなんてものはそうそう無いです。
どんなものでも先行する何かに影響を受けてるものです。
 
楽山には、オリジナルなど全くないと言ってよいでしょう。このように、自分の欠点を、一般化して、自分を相対的に、正常に見せかけてきます。理解力がないため人真似も上手には出来ないので、言葉の端々だけ真似て、自分の意見であるかのように吹聴しています。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それだから
先人の影響を認め、リスペクトする人は賞賛され、
オリジナルと言い張り、先人の功績を認めない人は軽蔑されるんですよ。
 
自らの不遇を、自ら英雄視しています。これが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの自己顕示欲です。先人にも、聖書にも、書物にも、学ぶことが出来ず、ゆえに、訂正不能の自我によって、分かっているんじゃ芝居を、何度も何度も、意地になって、繰り返すしかないのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
アナタが「トンデモ発言」と毒づく仏法真理とは何なのでしょうね?
 」
これは誤読です。こんな感じかな。
楽山「P氏はトンデモ発言してる」
P解釈「楽山は仏法真理をトンデモ発言とした」
P氏にとって「私の言葉を否定するのは仏法真理を否定することだ」ということかな?
 」
 
違うようです・・相手がトンデモ発言していることを、楽山が毒づいていることの正当性を担保する仏法真理を、何なのかと聞いているようです。楽山は、答えることが出来ないので、また、詭弁を並べて返したつもりになっているようです。
 
嘘、詭弁、印象操作、妄想、霊能者気取り、無反省、無責任、罪悪感や羞恥心の欠如、無神経、冷酷、等々、楽山は、トンデモ発言製造工場のような、雑な木工細工なのです。人間の温もりがなく、生気がなく、曇った仮面の節穴から、いい加減発言を、正義であるかのように振り回してきました。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、私がORはTSワールドから出れないというのは、こういうこと。
・ORのすべての教えの土台には霊的真実がある
・この霊的真実はTSの霊界観に多くを依拠している
・ORがどんなに沢山の教えを説いても、この霊的真実を土台としている限り、TSの影響下にあり続ける
 」
★こも/楽山日記3
@komo266
ぶっちゃけ、ORは、神、霊界、霊的法則などの霊的真実以外の教えを説いているとか、高橋信次の影響は受けていないとかいうのは、
ORの言葉の上っ面だけ見て、その背景の思想とか、理念とかを全然感じ取れてないからだと思います。
 
「ORの言葉の上っ面だけ見て、その背景の思想とか、理念とかを全然感じ取れてないからだ」
・・ORのことを、自分は、背景も理念も、深く分かっている、という、楽山の自慢です。批判に答えられないのに、よく言います。背景、思想、理念、楽山から感じたことはないです。
 
教祖願望が強く、趣味のアニメから宗教に至るまで、霊と超常で語ろうとしてきた楽山は、全く、その器でないことに、妬みでもあるのでしょうか。それゆえ、他者について、「言葉の上っ面だけ見て」いると言い、自分こそ、人知も理念も、超常も、深く分かっていると妄想するのでしょうか。
 
実際は、人間一人の気持ちさえ察することできない楽山です。霊的真実も、何的真実も、楽山が言っても排泄に過ぎないのは、人間理解に関わることで、楽山の手に負えるものが何もなくて、何を言われても、感じず、考えず、無視して、言い張りだけを続けていられるからです。
 
楽山ほど厚顔になったら、人間としての言論生活や社会生活は、だます以外できなくなり、楽山のように、超常の宗教に、そして、妄想に、逃げるしかなくなるでしょうか。そうならないために、楽山には、関わらないでください。近づかないでください。楽山を相手にしないでください。
 
 
 
丁寧な口調で控えめなわりに、大きな話をする人。・・本当に、性格が控えめで丁寧な人は、大袈裟な話はしないだろうということを考えて、丁寧で控えめで・・のほうを疑って、様子を見てゆくと、やっぱり丁寧な口調は、カムフラージュで、高慢な偽善者だったと分かることがあります。
 
 
詭弁の雑言

詭弁の雑言
 
 
(2021年12月05日)
 
 
 
 キーワード:雑
 
 
  通過と圧力
 
次から次に礫(つぶて)を投げてくる口は
ちょうど列車が通過するガード下
を通過するように無言である
 
光を除外した反射を幾たびも経て
細く向けられる上目遣いの
耳を持たない微笑の眼差しは
うっかり渡ってしまった横断歩道上の
歩行者に迫り来る轟音(ごうおん)と雑言(ぞうごん)である
 
であるからであるを繰り返して
階段を下りてくる論理が
転げ落ちるしかなかったように
すべて嚥下(えんげ)して受けてしまったものは
 
下って落ちてゆくしかないものとして
すでに口を通過しており
食道を通過して胃を腸管を・・・
詰まりであるからも糞(くそ)もなく
 
ゆっくり潰しにかかる種々の圧力によって
ワームの消化管が失ってゆく容積に等しい
 
 
  人の往来
 
利発な新芽の子らは溌剌(はつらつ)として歩み
しばしば見つからない目標から外れながら
未だ懺悔(ざんげ)も罪さえも知らぬまま
長い後悔の旅を気づかずに始めている
 
辛辣(しんらつ)な林の大人は雑木の目測に遑(いとま)もなく
枝葉の区別も構わず枚挙に充(あ)てて
呆気(あっけ)にとられた日々を追う
 
街へ行く人
街から帰る人
ただ黙ってうろうろする人
雷雲の中を山から下りてきて
ずぶ濡れで稲光と轟音に囲まれ
身も心も冷えきって夏に震える人は
ポンコツのオートバイをさらに傷めて
ヒューズが飛んだ
ヒューズが飛んだ
方向指示器が点かなくなったと
狼狽(うろた)えて目を剥(む)いている
 
暢気(のんき)にここら界隈(かいわい)
呵々(かか)と笑う営みの声を聞き流し
今日一日を畳もうと出かけたときには
あんなに晴れていたのに
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。自分を見ないで人のばかり言ってきた楽山の、人間離れの悪と罪と偽善です。
 
楽山は、ツイッターで、他者に、議論?のつもりで、いちゃもんをつけて、遊んでいるようです。何を書いても、自己愛性人格障害として批判対象にしかならないのに、それでも、書いてくるのは、その病質によって、自分は出来るんだ妄想が膨らんでくるからでしょう。
 
 
 
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  楽山の口から出まかせ
 
 『世界を動かす「宗教」と「思想」が2時間でわかる』
 蔭山克秀著
 2021年10月30日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、また、性懲りもなく書いてきました。その都度、批判します。
 
楽山は概念把握が出来ていません。この段階で、理路が壊れてゆくのです。そのことを全く自覚しない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なので、まともな言論者を気取って、自己顕示してきます。
 
いくら書いても、恥の上塗りに過ぎません。公共に対する大迷惑であり、楽山は、ペテン師であり、いかなる言論者でもありません。楽山の、本の紹介を真に受けないでください。楽山は、都合のよい文言を漁っているだけで、読解していません。だから、破綻が表れます。
 
*概要と感想
本書では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東アジア諸国などの国民のものの考え方を解き明かしつつ、キリスト教、イスラム教、儒教、社会主義についても説明してある。
 
宗教・思想の名前を並べて「説明してある」は、何の説明にもなりません。ゆえに、何の主張にもなりません。こういうことも分からない楽山です。イントロだとしても、そのあと、何も説明らしい説明が続いていないのです。
 
その文体は軽妙、平易でとてもわかり易く、すらすら読める。ただ大ざっぱすぎると感じるところがなくもない。たとえばイギリスについては「島国人は村人だし、村人は保守的だから、その結果、みんなそこそこのところで満足し、その後現状にそこそこ不満を抱く」(p.72)云々という具合に単純化しすぎて偏見を助長することになりはしないかと心配になるところはある。
とはいえ、本書はいろいろな思想宗教の要点を掴んだり、それぞれの国民性を大まかに把握するには良い本である。
 
楽山は、何を「良い本」などと、教える立場で言っているのでしょう。楽山に、評価する能力はありませんし、教える器量もありません。楽山は、理路が組み立てられないため、文章が成り立たないので、何も「把握」していません。嘘を詭弁でつないで載せてきます。
 
それが、約3年間の批判の結論であり、今回も、覆ることはありません。恥を知らない楽山だから無遠慮に書いてくるのです。言葉は、その時その場で、楽山の頭に浮かんで、意味なく浮遊して、バラまかれ、保持されず、霧散して消えてゆきます。
 
*科学と宗教
個人的には、本書の中ではこの部分にはよく納得できた。
科学や理性は「頭」で宗教は「心」と、それぞれ担当部署が違う。科学や理性は簡単に「神を殺す」が、心は神を求め、神に居場所を与える。なら科学が「神の存在証明をしようぜ」なんて野暮なことを言い出す前に、科学とは別ジャンルの「安らぎの源」として、完全に棲み分けてしまった方がいい。その方が、お互いにとって幸せだ。
(『世界を動かす「宗教」と「思想」が2時間でわかる』蔭山克秀著、青春出版社、2016年、p.48)
 」
本来なら科学と宗教が一致しているのが理想であろうし、「棲み分け」という考え方には抵抗を感ずる人もいるだろうが、現実的には両者の一致も、共存も難しいだろうし、いらぬ衝突を避けるには一定の距離を保つということも時には必要なのだろう。
 
「科学と宗教が一致しているのが理想」・・楽山の無理解が表れています。科学と宗教を、自然科学と人文科学+信仰を、どうやって同じ土俵に置くのでしょう。この発言は、例えば、数学と国語をいっしょに扱うようなものです。概念形成が未熟で、楽山の理想は妄想にしかなりません。
 
科学と宗教を一致させて、公式のように神を考えるのでしょうか、滅裂です。学問・思想・宗教の、方法論の初歩から、楽山には分かっていません。楽山の思考と言論が、小学生以下だと思うだけでなく、他者を混乱させるだけのインチキであることが表れています。
 
楽山という人は、こういうふうに、疲労と混乱と害悪だけをもたらしてきます。楽山は、科学も宗教も理解していません。恐らく、数学も国語も理解せずに大人になり、理解を見せかけで気取りたいだけだと思います。楽山は、常識欠如の小便を引っ掛けて、言論の公園を汚しています。
 
私は、理論家でも専門家でも学者でもないので、常識的な理路と、温もりと潤いのある心を求めて文章を書くように努めているつもりです。そのような良心の欲求を踏みにじってきたのが、楽山です。楽山は、文章が書けないことがバレても、嫌がらせの嘘と詭弁で、だましてくる人です。
 
楽山は、学ばずに教えようとし、百害あって一利なく、邪魔をして役には立たず、本を舐めて読書家を気取り、人の口を悪用して自己を顕示し、大人の口真似をして足らざるを露呈し、永遠を語って目の前を見ず、文章を書いて三途の川の石積みを続けています。
 
 
河と面の皮の宿命

河と面の皮の宿命
 
 
(2021年10月31日)
 
 
 
  アンビバ…烈
 
嘲(あざ)笑いの顔
侮(あなど)りの口
俯(うつむ)いた身を見下ろして
氷を当てて舐(な)め上げる冷たい視線
 
あるとき世辞
皮肉
頼みもしない評価
の一蹴
無視
 
何事もなかったかのように
過ぎ去ったそれら
向けられた者には
癒えない傷を残して
 
しかし向けたことはなかったか
向けたことは
なかったとは言えないはずだ
と癒えない傷が疼(うず)く
自らの目が赤いと感じる
兎の目か
鬼の目か
 
自らの存続から
人類の存続の是非までを
ときに激しく神に問いかけ
自ら慙愧(ざんき)のうちに切々と祈り
強烈なる厭世をもってなお
烈々とこの世を愛さねばならぬ
 
(※ アンビバレンツ(独)アンビバレンス(英)=両価性
 =同時に2つの相反する感情を同時に持つこと。愛と憎しみなど。)
 
 
  薄い
 
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
 
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
 
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
 
 
  狼狽える顔
 
老醜へ向かえば向かうほど
いやもっと若くても
悪知恵をつければつけるほど
面の皮は厚くなり
鼻の皮は硬くなり
鼻の穴は黒くなる
腹の中が黒くなるように
という繰り言で
鏡に向かうと
見えない
老眼と結膜炎だ
狼狽(うろた)えて眼を洗い
しばらくするとピントが合ってくる
みんな当たっているのだが
加之(しかのみならず)
面の皮は荒れており
鼻の皮は脂ぎり
鼻の穴から洟(はな)が垂れている
顔全体が垂れて弛(たる)んで
今にも流れてしまいそう
 
目と鼻と口の位置は
昨日と同じでしょうか
あわわ・・・
 
鼻の穴が黒くなりました
毛穴という毛穴も
黒く開いて没没没・・・
二十歳過ぎたら
顔は自分の責任です
 
---------------------------------------
※「没没没・・・」は敢えて誤用です。
狼狽える(うろたえる)
 
 
 
悪意の嫌がらせを抑えられない楽山は、また、有害な記事を書いてきました。根拠が無いので、殆どネット荒らしです。したがって、また、当分、下記のコメントも載せることになります。
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
楽山は、自分ではなく「人間の性」のせいにしています。一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であることを、拒み続けています。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、治癒するということはなく、効く薬もなく、言動と生活の範囲を限定して存(ながら)えるしかないのです。
 
 
 
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  楽山の誘導2
 
 真理を語りつくした宗教は存在しないということ
 2020年08月02日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山が、人間を、いかに知らないか、ということが表れています。幼稚なことばかり書いてきて、人の言うことは聞かないのです。誰も、楽山を、批判する以外、相手にしてはいけないと思います。宗教は、信じれば真理が分かるんじゃろ・・という偏見が、妄想的に訂正不能です。
 
「真理を語りつくした宗教は存在しない」・・宗教は、人として生きるためであって、人は、神ではないのだから、完全な真理を知ることはありません。だから、このことで、宗教を批判することは、全く無意味なのです。何を、評論家気取りで、言い得たつもりになっているのでしょう。
 
最近、内村鑑三の「宗教座談」で、神は聖書より大きいとしているのを読んで、思わず膝を打ってしまったのだったが、次のツイートを見ると、スピリチュアルな方面でも同じような考え方をあるらしい。
 
神を信じない楽山が言っています。聖書も曲解している楽山が言っています。膝を打つというのは、感心したときのジェスチャーですが、その根拠が、楽山にはありません。何もかも、自分の妄想に都合がよいかどうかで判断しているだけだと思います。どこまで思い上がれば気が済むのでしょう。
 
霊界からのメッセージ
@CaIrx4KSwAxAIYO
宗教についての真実を申せば、真理の全てを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
 」
ちなみに、自分がこの問題に興味を持ったのは、某宗教の信者と信者の論争を観戦していたときだった。この時、ある信者が「あなたが言っていることは教義にありますか。どこにも説かれていないのではありませんか。そんなものは真理ではなく、あなたの妄想にすぎません」という主旨で相手を批判しており、自分はこれに対して、いやいや教義に無いからといって真理ではないとは限らないだろうと思ったのだった。
 
そもそも、人が、真理の総てを知ることは出来ません。人間の知りうる時空が限られているからであり、人の心ひとつも総て知り得るものではない、ということが分かっているなら、当たり前のことなのです。楽山は、他者の論争を観戦するだけだと思います。
 
真理を尽くしたのが完全な宗教などという先入観の世迷言で宗教を語ろうというのは、自己愛に慢心した自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山のような自分信仰の狂信者が捏造し吹聴したがっているだけであります。楽山は真っ当な理路を持っていません。
 
神は全き真理なのでしょう、されど、人は不完全なので、神の真理を完全には知りません。しかし、人が生きるためには、ひとかけらの真実があればよいのです。絶望した人が、ひとかけらの真実によって、生き直すことこそ、復活であり、信仰なのです。楽山は何も分かっていません。
 
教義や教理を信仰してしまうと、説教で語られる言葉や聖書の言葉しか使わなくなる可能性があります。これは、神が与えた自由意志に反することなのです。大事なことは、聖書を読んで、何を受け取ったかということです。楽山は、何も受け取っていないようです。
 
「教義に無いからといって真理ではないとは限らない」と楽山が言うのは、自己顕示欲から、自分が好きなように言って真理だと言いたがっており、実際は無知で無恥の発言を正当化するために他ならず、言い張るための黒いエネルギーにしたいからに他なりません。
 
楽山の言うことは、まず、知性の常識と良心の直観に反しています。楽山の言は、良心と常識を持っていないのに、恣意的に、詭弁で誘導し刷り込んで、だますために語る言葉ですから、決して信用しないでください。偏った人格からは、偏見しか生まれてこないのです。
 
「教義にないことは、教義ではありません。教義でないものを、教義であるかのように言うのは止めてください。教義と個人的な感想や意見は、きちんと区別して言ってください」と言うならまだ分かる。でも、「教義にないことは真理ではありません。あなたの妄想にすぎません」というのは、ずいぶん、ヘンテコな話なのだ。
 
それ以上に「ヘンテコ」なのは、教義を知らない楽山が、教義云々を語ることです。妄想かどうかは、それを、もし多くの人が信じたら反社会的にさえなるだろうと推測されることであって、楽山の言っている自己愛と自己中の無反省こそが、それに当てはまります。
 
楽山は、教義を知っても、聖書を読んでも、人間の良心に基づくことがないために、少しも理解できていないことが、今までの記事とコメントから明らかになってきたのです。楽山こそ、神を完全に知らないと気が済まず、実際は何も分かっていない見当違いで、神を否定してきたのです。
 
信仰というのは、それを与えられる機会を得たときには、そもそも、苦難があり、それでも良き人でありたい、そのための勇気と平安を求めるという良心の欲求によって判断されてゆきます。最初から、聖書の正しさを先天的に持っているわけではないという自明の理から始まるのであります。
 
したがって、信仰は、人間の良心を促し、人間の悪意を減らしてゆく方向に行くのは言うまでもないことなのです。何か特別の神の啓示でもあって、良心を蹴散らして信仰に向かう、などということは、カルトならあり得ますが、正しい信仰にはあり得ないことです。・・楽山は偏見だらけです。
 
こういう場面を見ていると、宗教信者は、唯物論者に向かって、「この世がすべてではありません。この世を超えた世界があるのです。そのことを知ってください」と言ったりもするけれども、これは宗教信者にも言えることであって、宗教信者の方も、宗教で説いていることがすべてではなく、宗教を超えた世界があることを知らなければならないのではないかと思う。
 
楽山は、「この世」と「宗教」という別の話を、無理に並列して、「宗教を超えた世界」というのを捏造しています。これは、どう考えるんだろう、だけではなく、何も考えないで、いちゃもんを書くだけで、気持ちがよくなる症状なのです。
 
宗教についての話を自己愛によってゆがめてしまい、自前の字面の屁理屈しか言えなくなっているのが、楽山です。それは、自己愛と自己中による無反省と学習不能と訂正不能によって起こっています。楽山ほど、前もって警戒を要する人は、むしろ、珍しいのです。
 
信仰者は、陶酔気分で誇大妄想を語ることがあります。現実を弁えずに思い込んで信じ込んでいる人は、考えることも、共感することも、自ら止めてしまって、そのために、現実離れや人間離れを起こしてゆくこともあるでしょう。キリスト教においても、決して小さい問題ではありません。
 
むしろ逆に、楽山こそが、多くを隠しているようですが、大方、妄想化に当てはまると思います。人心を操作しようと企み、先入観のように吹き込み、平気で嘘を吐き、詭弁を弄する、という今までの経過に表れています。楽山は、現実を考えることも人間的に共感することも出来ないのです。
 
宗教にハマってしまうと、宗教で説かれていることこそが真理であって、それに反することや、説かれていないことについては真理ではないという短絡的な思考に陥ってしまうこともあるが、ここはぜひとも注意したいところである。
 
自分信仰の自己愛に嵌ってしまうと、他者の意見を無視して、反省をしなくなるので、学習と成長がなくなります。楽山がしているような、自分に都合の良い字面ばかりを漁って積み重ねることは学習でも成長でもありません。記事を、どれだけ書いても、何の糧(かて)にもなりません。
 
楽山のように無反省で訂正不能になると、他者の意見や思想や宗教を侮辱し、あるいは、軽く見なして、何を言われても無視して、悪に悪を、欺瞞に欺瞞を、偽善に偽善を、悔いることもなく、重ねてゆくようになります。自己愛性パーソナリティ障害NPDによるものだと思います。
 
一年以上批判してきて、楽山の言から、何らかの納得を得られたことは、一度もありません。だまし誘導する意図だけが、気色悪く伝わってきます。そういうことを平気で書いてくるのが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質の症状です。
 
あまりに酷い記事が続くので、楽山批判の記事のタイトルにも「楽山の・・」というように、"楽山" という名前を出して、責任者および批判対象を明示するようになりました。遣り取りしてはいけない相手です。コメントなど遣り取りすると、とても異常な疲労を受け取ることになるでしょう。
 
楽山の偽善性を批判できるのは、ある程度、批判者が詭弁と誘導について学習している場合であって、カルトや誘導に対する免疫や抵抗力や批判力に自信が無くて影響を受けやすい人は、楽山の言うことに対しては、決して相手にしない、という方針しかないと思います。
 
楽山に関わって、良いことは何もないと思います。影響を受けてしまうと、知性も感性も鈍くなり、楽山と同じように他者を無視するようになり、自分の言いたいことだけをアワアワと繰り返すようになるでしょう。楽山のボンヤリ言語やトホホ言語に似た言い逃れをするようにもなるでしょう。
 
真実の追求を志すならば、修正可能で学習可能な心性を持ち、他者の言ったことをそのまま受け入れるのではなく、自分の学習経過と結果である知性と感性によって処理して、総ての人が信じたらどうなるかを考えて、生かすか、保留するか、否定命題とするかを、判断する必要があります。
 
 
理路も共感もない誘導

理路も共感もない誘導
 
 
(2020年08月05日)
(2020年08月13日、一部修正)
(2021年10月29日、再録+)
 
 
 
  悪魔とは
 
悪魔とは蛇の誘惑の微笑か
欲望から欲望へ渡るための偶像か
突然襲い来る不幸の類か
 
知らない ただ少なくとも
悪魔とは何か
それは今 私の中に満ちているものである
と考えてみる必要があるだろう
 
人と交わる席において
私は悪しき謀(はかりごと)であり
孤独の椅子において
私は魔と友人である
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて真顔で盃の宴に加わり
いつか笑えず泣けず顔を背けた
私は私を他人のように呼んだ
 
私は私が招いた出来事を
私に出入りする何者かのせいにした
 
例えば幸運は天使の目録に記(しる)し
災難は悪魔の罪状に加えた
私は他人の魔女狩りをした
私は自らの悪魔狩りを試みた
 
それらは到底できることではなかった
私に関するかぎり
私は私以外の悪魔を実感したことがない
 
 
  ある日の祈り
 
私が意図し
私が求め
私が追いかけ
あるいは諦めたもの
私が企み
私が謀(はか)り
私が手に入れ
あるいは失ったものから
 
私を誘惑し
私を陥(おとしい)れ
私を快楽(けらく)に酔わせ
私を責め呵(さいな)むものから
 
どうかお救い下さい
 
そして私を裁き
しかるべき所へと導いて下さい
それが永遠の無でも
地獄でも
せめてその時には
私の抗う醜さが
断末魔の呪いになりませぬように
 
せめてその時には
私が俯(うつむ)いて
裁かれる姿勢で受けられますように
言い渡される宣告の前に
跪(ひざまず)かせて下さい
 
せめてその時には
私の悔いが全て見えますように
できればその時まで
知る時まで
見る時まで
ずっと
ずっと
御前において
跪かせて下さい
 
 
 
楽山日記のコメント再録です。誰のコメントかは不明です。
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
「 
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 」
 
2019年だから、それほど古いコメントではありません。
 
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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