ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:反省

 
  教条主義2
 
 
繰り返す決まり文句は、心の面倒を見ない。
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
イデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
そこにアクティブな波動がないからだ。
 
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。▷ dogmatism の訳語。
「教条主義」Oxford Languagesの定義
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表しています。偽善の多くが、教条主義の所産です。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪なのです。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られます。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、慢心し、人間の心を忘れていました。よって、キリストにとって最悪の敵となったのです。
 
多くの思いは言葉で表され、言葉は伝達のための暗号であります。つまり、ダイレクトに心を伝えているわけではないことを弁えておく必要があるでしょう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかであります。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになります。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってきます。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってきます。真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、努力目標であったりなど、当為と事実が混同している場合もあるのです。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいません。神を信じているという意志表示に過ぎない場合があります。神の偉大さを知って信じるのではありません。しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはあるというように、言葉による表現は、曖昧であることが多いです。
 
しかし、表現を変えてはいけないと思い込み、同じ言葉だから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてきます。そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいでしょう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともあります。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのです。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがあります。典型は、やはり、パリサイ人です。神の言葉と言っても、受け取る人間は人の言葉しか持ちません。
 
また、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山のように、浅い屁理屈をもてあそんで、人間に人生に必要なことを汲み取れず、深みもなく、共感もなく、慢心して、繰り言のように言い張るということもあります。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己満足の絶対化から、逆に、非人間的な言動が目立つようになります。論理性が、辻褄合わせになり、故意に合わせるために、的外れな理路になり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、詭弁となって無理を押し通して破綻してゆきます。
 
実際は、浅はかで不自然な言動となって表れます。思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくでしょう。教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆきます。
 
いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになります。そうして楽山のような反キリストの教条主義が生まれます。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたします。理路も情緒も、深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手や、さらには、神のせいにする特徴を持ちます。
 
楽山もそうですが、教条主義者は、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってきます。そして、屁理屈遊びで、相手を負かそうとするのです。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人ですが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような自他の人格の変容~破壊を来たしやすいでしょう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もありますが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきです。つまり、悪を隠して善に見せかけるという偽善者なのです。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いようです。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、被害者によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いであります。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
心の中身がない

心の中身がない
 
 
(2021年04月17日)
(2022年05月04日、再録+加筆)
 
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
 
  年を経て
 
僕にも二十代、十代があったんだよ、と
自分でも信じられないから
心に叫ぶのでしょう
 
今は違う若さから
成長してきた人々の間にいて
全然知らない人生の結実を垣間見ている
 
同じような風景でも
違う生き方の中で
たとえば空も
それを見ている人が
それを見ている間
その人の意味をもつものなのでしょう
 
忘れられない場面
重ねて
遠く
別の人にはまた別の
忘れられない出来事
 
心の層に積み重なって
見えないものは見えないまま
関わっている
人の動き
 
ある日 誰でもいい
人の笑顔が
妙に懐かしく思えるときがあります
 
 
  夏の朝
 
夏の朝まだ早く
外はまだ暗く
しかしぼんやりと夜明けの気配
まだ眠っている頭と心を
揺さぶるように告げるもの
 
もうすぐ朝だよ
すっかり明るくなった頃には
また汗と蒸し暑さの中で
悲鳴をあげる元気もなく
重たい体を持ち上げて
その時はっきり見えるものを
呪いたくなるだけだから
いま眠気の中に咲こうとしている朝に
力を抜いてご覧なさい
 
やがて暑くなる夏の日だって
都会から田舎まで
夢見る若者から老人まで
健やかな者だけでなく傷ついた者まで
等しく朝の予感を用意してくれている
 
ぼんやりと見ている目が
静かに受け取る機会を与えられた
明け方の涼しいひとときを
心の薄明かりのゆえに
ただの薄明かりに過ぎないかどうか
動かなくてもいい
力を抜いてご覧なさい
 
寝ていてもいい
起きてもいい
たとえ朝もやの
霧の
低い雲の
水滴の
みずみずしさに触れなくても
見えない日記はすでに記している
 
ただこのひとときが
その傷と苦悩の中で
許されたことを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の言うことは、とても幼稚な理屈で、かつ、とても曖昧なことが多いのに、そこに、詭弁を絡ませてくるから、冷静で柔和だと思って受け容れてしまう人が出てくるのです。そういう悪の実績があるのでしょう、楽山は、一人前の思想や宗教を語ったつもりになって、続けている嘘吐きとなっています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
英さんの話を読んで思い出したが、英さんは乱暴な発言が多いが、迷言もあるんだよね。たとえば、これとか↓
たぶん、東大での討論と、自衛隊駐屯地での割腹がごっちゃになったと思われる。
午後7:36 · 2022年5月3日
 
「乱暴」「迷言」「だよね」と、なじっておいて、相手の間違いを指摘しています。つまり、単なる記憶違いの指摘ではなく、傷つけて、おとしめたい、という病質からの悪意が表れています。楽山は、冷静を装いますが、人をバカにした態度は、表れてしまうのです。それが生き甲斐だからでしょう。
 
私は、楽山に厳しい批判を向けていますが、そこにあるのは、バカにしたいのではなく、真剣に怒っているからです。ゆえにこそ、感情を抑制して表現を考えます。おとしめたいのではなく、楽山には、堕ちてゆく、かつ、他者を落としてゆく病質があるという判断に基づいています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  悲しみと信仰2
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時にはは、時に任せて、じっとしていても、流れてゆくのに任せて、生きています。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服が、悲しみの過ぎ去ることが、喜びとなり、楽しみへ導かれることになるのでしょう。そのときに、人間は、成長するのだろうと思っています。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのではないでしょうか。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか
他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。
 
自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうか、モニターは反省に、正直は祈りに通じます。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。
 
 
悲しみと癒し

悲しみと癒し
 
 
(2019年01月15日)
(2021年12月25日、再録+)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  修正可能3
 
  2018年11月25日
 「修正可能」を修正再録。
 
 
キリスト教に傾倒する人で、しばしば完全なる成就が一気に自分のものになることを、そして完成して揺るがない平安を他者よりも早く欲しがることがありますが、そういう悟りの境地は、有限で成長可能な人間性に、そぐわないもので、人間の獲得するものではないような気がします。
 
私は何度も、修正可能ということを強調してきました。キリスト信仰は不変の境地ではなく、成長するための道だということです。修正可能は、一般的にも、成長するためには必要なことです。修正可能だから成長可能になるのです。
 
とりわけ信仰については、人は不完全であるがゆえに修正可能こそが神の恵みだと思っています。もちろん、人間に分からないところで神の導きもあるでしょうけれど、人間が認識できる恵みとしては、恵みを受け取る人間側の条件として修正可能の心がけだろうと思います。
 
そして何よりも、悔い改めこそ他でもない修正なのです。その機会が一生を通じて与えられていることは、あるとき間違えて、ふてくされて神のもとを去ったとしても、いつでも悔い改めることで、戻ることが許されているということです。
 
キリスト者になるとき、洗礼を受けるときには、私の経験から言うと、罪について殆ど分かっていなかったと思います。教えられるから認めることにした概念のようなもので、やさしい神様、やさしいキリスト、そのイメージと一生付き合うという決意のようなものでした。
 
洗礼によって自分が俗人と違う特別の存在になったという自己神格化みたいになってはいけません。神の民となることは、より御心に適う人間として成長する、という人から神への、決意の意志表示であり、洗礼の神秘つまり神の秘密については、人は知り得ないのです。
 
信仰は完成ではなく成長です。信仰者になって、悟ったかのように思い込み、のぼせ上がり、預言者気取りになって、思考が誇大的になり、世界を相手に、それこそ天国から物を言いそうなほどの有頂天の陶酔気分が、若かった私にはあったような気がして、反省しています。
 
つまり修正可能は、すなわち折々の悔い改めであり、キリスト者になってから、ますます必要になってくるということです。悔い改めは、一生にわたることですから、信仰告白と洗礼で、完成して済むということはありません。
 
偽牧師シャロームshalom のように、悔い改めをしなくてよいなどというのは、まさに人が神に成り上がろうとする背教、そして、反逆に他ならないのです。そして、それに賛同したのが、楽山であり、何も分かっていない証拠となります。楽山とシャロームは、反キリストであります。
 
神の民になったから完成ではなく、完全になるわけでもなく、目指すべきは、信仰者として人間としての成長であり、学習による修正可能すなわち悔い改めが、さらに必要であり、その機会と、そうしなければいけない機会とが、必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として、訂正不能に信じ込むことをしてはいけません。解釈は人の解釈であり絶対ではなく、学びの糧とするべきものです。変わらないのは、神聖であり、人ではありません。そして、人においては、同じ言葉も、聖書と体験を通して、その都度、新しくなってゆくのです。
 
自分の生きる力になることを時々に受け取ってください。たとえその後に人が道を踏み外すことがあっても、神は、いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが、信仰を問われて受洗証明みたいな書類を出してくるようなカルトもいますから、もはや洗礼は人にとって完成とか到達とかの意味ではありません。はっきり言えば、洗礼の有無にかかわらず、悔い改めるとき、そこに信仰があるという証なのです。
 
生きていて、陰性の感情が激しくなるとき、怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、失望、絶望、それらのときに正直な祈りのうちに慰めと癒しを得て、悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは、キリスト者の義務というより、神が誰にでも与えている恵みであります。
 
正直に祈る人は、祈りを聞いておられる神によって、改めて癒しと赦しを与えられ、神と人の双方向の絆に包み込まれ、秘密のうちに恵まれる温もりと潤いによって、愛と共感の悔い改めを通して、心と体の、新しい時と所へ導かれるでしょう。
 
前に引用した聖句ですが
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
私は、社会的には落ちています。仕事も出来ず、心身の病気も患って、老化して、今以上に、よいことがあるとは思えません。この地上を去る時を待っているような暮らしです。ただ、正直に祈ったときの解放感を忘れられないので、できる唯一のこととして、ブログを書いて過ごしています。
 
 
悔いることが成長

悔いることが成長
 
 
(2018年11月25日、同日一部修正)
(2020年12月10日、修正加筆して再録)
 
(2021年12月12日、再録+)
 
折々(おりおり)
証(あかし)
 
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように
 
要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般にあることみたいに、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などの高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山は、極端に走るのがよくない、ということを言っていました。つまり、自分は極端ではなく、バランスが取れて柔和と思っているのでしょう。その前提に自分を置いている既に人格の偏奇なのです。楽山は、自己愛によって、無反省な訂正不能の極端さを示してきました。
 
殆ど死んでゆくしかないようなほど傷ついた魂を癒すのが信仰で、その体験を持つ人は、楽山のような自己愛性人格障害から語られる神?についての反証めいた机上の理屈など、何の意味もありません。
ただ、楽山の婉曲な丁寧語を受け続けると、ひどい疲労か、人格破壊に至る可能性があります。
 
楽山が嘘と出まかせを広めることに対して、できることをするのが、信仰者の務めです。批判をする普遍的な必要性は、楽山の、一見まともで、付き合えば付き合うほどに疲労しか与えない無反省と無責任とキリスト教の曲解を指摘し否定し、情報を敷衍することにあります。
 
一生の間に、楽山のような病質人格に出会わないならば、それだけで、無上の幸運であろうと思っています。出会ったからには、半端な根性では乗り切れない攻撃性を、楽山は、結局、表してきます。それは、人が傷つくのを見て得意になるサイコパスならではのことなのです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは信者あるあるですね。
信者は、自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき、
「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」
といって事実と向き合うことを避ける。
これを乗り越えてこそ、本当の信仰者になれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する。
 
楽山「あるある」です。楽山は「自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき」「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」と、現実と向き合うことを避けるのです。そうして、自分を見ずに、正義の味方気取り、助言者気取りで、今日も、罠をかけ続けます。
 
今日も、人のことばかり言って、「これを乗り越えてこそ、本当」に「なれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する」ので、なおも、オレがオレが・・を、書き続けるのです。しかし、楽山は、何も乗り越えたことはないから、楽山は、何の助けもにならないからです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ