ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:右翼

 
  楽山の右翼思想3
 
 『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』佐藤優著
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
大川周明:
(ネット百科事典マイペディアの解説より)
 「
右翼国粋主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京帝大でインド哲学を学ぶ。1919年北一輝らと猶存社,1924年行地社を結成。啓蒙活動を行う一方,軍部桜会の将校と接近。三月事件,十月事件に関係し,五・一五事件で検挙。釈放後は法政大学教授を務め,《米英東亜侵略史》などを刊行。第2次大戦後,A級戦犯に指名されたが,東京裁判の公判中精神障害を起こし釈放。著書に《日本文明史》,コーランの翻訳がある。
 」
コトバンク
 
 
楽山は、A級戦犯となった大川周明についての記事を載せています。これが、楽山の奥底に隠してきた本音だったのでしょうか。政治思想の記事を出してきた楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であると同時に、軍国青年だったのでしょうか。
 
 
大川周明については、もう大分前に某リサイクルショップで『米英東亜侵略史』を見つけて読み、「つくる会」の歴史観と同じだと思ったのと、東京裁判での奇行くらいしか知らないので、もう少し知識を仕入れておきたいと思い、本書を読んでみた。
 
「つくる会」は、右翼団体です。右翼に偏向した教科書をつくる会でしょう。大川周明の奇行というのは、東京裁判で東条英機の頭をポンと叩いたことでしょう。
 
(ネットより)
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。東條は叩かれようとも激怒したりせず微笑んでいた。)、「インダー・コメンジー!(「Inder kommen Sie!、ドイツ語で「インド人よ来たれ」の意。アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア・コメディ!(It's a comedy!、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ・シンク(I, I think)(我思うゆえに我ありで知られる、何らかの哲学的思想的主張を行おうとしたと言う説もある)」などと支離滅裂な言動を行ったため、法廷内で失笑を誘った。
 
 
>そんな自分が本書の中で特に心に残ったのは以下のことだ。
まず一つ目は、大川周明が語った『米英東亜侵略史』は事実に基づいていたためにアメリカを激怒させたという話。これについて著者は「大川周明という知識人に対してアメリカが激怒したことを筆者は誇りに思う」(p.90 単行本2006年)としている。たしかに対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。
 
楽山のような、理非を弁えず、人間らしい情緒を持たず、未熟なまま大人になったような人物が、政治思想を語るのは、非常に危険であります。極端に走ってゆく傾向があるからです。周囲の誰もブレーキを掛けないのでしょうか。
 
楽山は、対立している批判者を、そして、すべての他者、および、全ての都合の悪い意見を、無視し続ける男です。そして、真実の交流、本音の話し合い、真っ当な議論などは、全くできない人です。議論できないものだから、都合が悪くなると無視するのです。
 
「対立している相手になめられるよりは激怒された方がよほどましだ。」などと、よく言えると思います。実際は、対立している相手を完全に舐めて、無視してよいと思っているのが楽山です。不感不応の無責任男、楽山こそ、真実の追求においては、誰よりも、議論から除外されるべき人です。
 
 
二つ目は大川周明が東京裁判に呼び戻されなかったのは、「大川は腹の底から法廷をバカにして」いるようであり、「いたずら心で法廷を喜劇の場にしてしまうことをアメリカは恐れたのではないか」(p.97)という見方である。
 
大川周明は、知能の高い人のようですが、先勝国であるアメリカが恐れるのでしょうか。楽山は、恐れられるような言論力はなく、代わりに、煙に巻く詭弁と嘘があり、無反省と無責任と無神経ゆえに鈍麻して、実際は、楽山が誰も恐れていないのでしょう。ゆえに、楽山を恐れる必要もないのです。
 
 
自分としては大川は裁判から逃げたいがために、人の頭をピシャリと叩き、正気を失ったふりをしたのだろうと推測していたが、氏が優れた論客であり、あの場でふざけてみせる図太さがあるならば、たしかに東京裁判を喜劇に変えることは出来たであろうし、アメリカがそれを警戒した可能性もなきにしもあらず。
 
東京裁判を喜劇に変えるのではなく、独りで喜劇を演じることになったのではないでしょうか。梅毒による精神障害と書いてあるようですが。アメリカは、それを警戒するでしょうか。楽山の持ち上げ方は異常だと思います。高い知能を引き寄せて、自分もだと言いたいのでしょうか。
 
 
三つ目は大川が『日本二千六百年史』において源頼朝や足利尊氏に一定の評価を与えたところ、蓑田胸喜から天皇機関説の疑いをかけられ、修正を余儀なくされたという話だ。この批判は筋は通ってはいるのだろうが、あまりに窮屈すぎて笑いをこらえるのには苦労する。でもこの批判を受け入れる形で当該書籍が修正されたとすると、当然ながら当時は笑いごとでは済まされなかったということなのだろう。
 
どう笑いごとでなかったのか、説明がありません。「筋は通ってはいる」と言いながら「笑いをこらえるのには苦労する」というところに、楽山の、いい加減さが表れています。ブログ読者への説得力など、楽山には、どうでもいいのでしょう。自己愛で、完成しているつもりだからです。
 
 
四つ目は上と関連するが、蓑田胸喜は自己を復古主義者と規定していたかもしれないが、実際には「典型的な近代主義者」であり、「自らが生きる時代の視座をもって日本の歴史の諸事実をつなぎあわせ、単一の価値観で貫かれた歴史を提示する手法は、典型的な近代ロマン主義である」(p.272)という指摘だ。
 
楽山も、自分はは学者レベルだから偉い!そして言うことはおのずから皆正しい、という単一の価値観のようです。自説に反することは、すべて、無視してきた3年間でした。楽山は、反論・弁明できなくても笑っていられる、という、実な強面の厚かましい体質です。
 
 
またこれに対して大川周明の場合は、「前近代的な復古主義(プレモダン)であると同時に、近代の限界を超克したポストモダン思想の両義性をもつ」のだという。
これは何やら難しい話ではあるが、自分は後者の方が好みだ。話は少々変わるが、たとえば宗教について考察する場合、信仰、唯心論、有神論という方向からだけではなく、それとは反対の懐疑論、唯物論、無神論という方向からも考えたい性質なので。
 
(ネットより)
ポストモダニズムは、懐疑主義(英語版)的・イロニー的な姿勢、あるいは大きな物語(英語版)や近代主義と関連のあるイデオロギーの拒絶によって一般的に定義され、啓蒙主義的な理性主義を批判し、政治的・経済的権力の維持におけるイデオロギーの役割に焦点を当てていることが多い。
ウィキペディア:ポストモダン
 
説教より批判ということか。
 
楽山の語る○○主義を、まともに受け取ってはいけません。字面の浅い概念しか受け取らない楽山は、言葉だけ、専門用語を使って、自分を飾っているだけだと思います。キリスト教について、如実に表れていたことです。既に浅はかさがバレているのに、なおも見栄を張り続ける楽山です。
 
楽山の、論、というのが、どの方向であれ、話にならないことを、私は、今までの批判記事に書いてきたつもりです。今回の記事で、危険が増し加わったと思います。これが、自己愛のために知性も感性も壊れてゆく楽山、という暴力的で節操のないサイコパス的人格です。
 
楽山は、信仰という方向から考えたことはありません。信仰についての話は、幼稚な詭弁ばかりです。恐らく、総ての思想と論理について、楽山は、まともに組み立てて語ったことはなく、ネジが緩んだガタガタの精神モデルでしかなく、何も成り立ってはいないと思います。
 
対立する命題から考えるというのは、思考において当然のことです。しかし、心が無ければ、賛否の論も、いっさいは空しく、危険なだけなのです。そこに、楽山の、思い込みから暴力的思考への傾倒が生まれています。楽山の○○論は、チンドン屋のようなものです。
 
 
つらつらと、とりとめのないことを書き連ねてしまったが、本書を読んだことで、自分は大川周明について、さほどの知識もないままに、偏見を持ち、不当に低く見ていたということがよく分かった。やはり知識が増えるとそれだけ視野は広がるようだ。読書の大切さが身に染みる。大川周明についてはもうちょっと調べてみたいと思う。
 
難しい用語を用いて書いてきて、ここで「とりとめのないことを書き連ねてしまった」という謙虚芝居を認めてはいけません。楽山ほど、遠慮も思慮もなく、厚かましく書いて満悦する人は珍しく、ゆえに、いくら芝居でごまかしても、謙遜も遠慮も品もない獣皮のような人格だと分かってくるのです。
 
楽山は、勉強が嫌いで、かつ、宗教が嫌いな、右翼青年だったのかもしれませんが、そういうこととは関わりなく「つらつらと、とりとめのないことを書き連ね」たのなら、正当な論者であれば、公開しないはずです。実際、ゴミ箱だけが似合っている楽山の言であります。
 
知識が増えて視野が広がる、と言っています。無反省に無責任に命題を決めつけてゆくことで失ってゆくものに、失われてゆくものに、全く無関心な楽山です。悲しみに共感できる心がないために、自分について、悲劇を想起できないのでしょう。
 
読書の大切さを、ことごとく、自我の満悦のために棒に振って、自我によって笑いながら、自我によって他者を軽視~無視し続けられる亡者は、楽山という形骸を通して、いかんなく、その吐き気を催すような醜さを表し続けています。
 
私は、右も左も詳しくはありません。しかし、国家主義・軍国主義が支配した日本の歴史に、誰も否定はできないのは、日本だけで300万人の犠牲を出した戦争があったという事実でしょう。楽山の視野では、不都合は総て無視するので、特に人名や人生や心や命について、楽山は不感症です。
 
楽山には、決して近づかないでください。思っていたとおり、楽山は、危険です。さらに、右翼思想家に傾倒となれば、今後、どういう転帰を辿るか、恐怖しかありません。しかも、楽山は、今までの批判に書いたように、笑うサディストですから、人の人生も命も、何とも思っていないと思います。
 
 
虚偽と詭弁と偽善の文章に対する厳しい批判とは、対象の文章を見たとたんに生じる悪臭と不快感と怒りを、コントロールしてクールダウンして、冷徹な理路と比喩に置き換えてゆく作業を理想としています。うまくいってるかどうかは、また、別ですが。
 
 
行き場のない妄念思想

行き場のない妄念思想
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月03日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
 
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
(ネットWikiより抜粋)記事の参考までに:
 「
 
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年(明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)は、日本の思想家[1]。東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。
 
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した[2]。
 
東京裁判においては、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されたことで著名となった。しかし梅毒による精神障害と診断され、裁かれなかった。なお、晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究で著名。
 
大学時代は先賢古聖を思索する中で頓挫・懊悩し、救いをキリストに求めた。キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。
やがてキリスト教会の物質を偏軽する道徳の虚偽に憤り、社会制度の根本的改造を必要とし「マルクスを仰いで吾師とした」[4]。さらにプラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」。
 
貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
 
満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。
 
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
 
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。
 
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。
 
東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる[10]。
 
 
 」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誇るべき知性も感性も無く、地道に生きるでもなく、できない理路を、できない読書を、自慢することで誇りを守ろうとする楽山ですが、そもそも、人間であることの尊厳と誇りを、嘘と詭弁で捨て去るということを繰り返しては、人間たるに相応しいものを持ちうるはずがないのです。
 
 
 
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  楽山の我執2
 
 「死について」西尾幹二著
 2021年03月15日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
 
西尾寛治は、右翼の思想家です。別の右翼の人を介してサイトなどを見ただけですが。この人だけでなく、楽山は、右翼としての記事も書いています。おべっかでしょうか。体質的に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山に、一貫した思想はありません。
 
楽山は、感情・情緒の鈍麻によって、感じなくなった精神から、死と死後を恐れていないかのようなことを言っています。信仰による平安ではなく、詭弁の妄想的捏造と、老化による鈍麻に縋りつくしかなくなるのではないでしょうか。
 
 
*死後、人の意識は存続するのか?
『西尾幹二の思想と行動③』に収録されている「死について」というエセーを読んでみた。著者はまず冒頭において、死をテーマにした文章は多々あれども、「死は振り返って回顧できない」ものであるから、「死の経験は誰にも書けない」としつつ、次のような自身の考えを表明している。
私は、私の体が亡びると共に個体としての私も消滅し、「自分の意識」もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えをもつことがどうしても出来ない。
(『西尾幹二の思想と行動③ 論争の精神』「死について」西尾幹二著、扶桑社、2000年、p.131)
 」
この後、著者は上田三四二の『この世この生』、岸本英夫の『死を見つめる心』の文章を紹介しているが、どちらも基本的には著者と同じ死生観であり、死んだら無になるのだから、一度だけの人生を悔いのないように生きようと考えているようだ。
 
一度だけの人生を、悔いることなく、改めることなく、反省することなく、責任を負うことなく、言葉の垂れ流しで、生きているのが、楽山であります。そりゃ、楽山に悔いはないでしょう。楽山には罪悪感がないからです。
 
 
*輪廻転生の可能性
著者は上の結論に至る理由の一つとして次のように述べている。
もし来世というものが存在し、今のこの現世というものに生を得ている「自分の意識」が来世にひきつがれるというのであるなら、われわれは現世に生きながら、それに先立つ前世からひきつがれている「自分の意識」を、なにほどか記憶していなくてはならないはずだからである。記憶がなければ意識は存続していないのと同じである。
(同上、p.131)
 」
 
この手の議論には、さほど重要な意味はありません。人生はリアルですが、死後は想像~空想に過ぎないからです。それを信じ込むのが信仰というのは、全くの誤謬であります。信仰はリアルの人生を生きるためにあります。
 
 
スピリチュアリズム方面の書物を読めば、前世の記憶が失われている理由だとか、死後の生が存在する〝証拠〟とされるものはいくつも提示されてはいるのではあるが、現実を先入観なしにみるならば、熟睡しているときは意識がなくなるように死は永遠の眠りであろうとか、前世の記憶がないことをもって生まれ変わりはないだろうとするのは当然の結論ではある。
 
空想的死生観は、簡単な理路で、上に書いたように、真理の理解としては単純に否定されるということです。キリスト者は、神を恐れるので、空想としてではなく、リアルとして、不完全なる自分を、完全なる神の前に、正直に差し出すことを信条とするべきでしょう。
 
それ以上の、特に超常についての断定は、神を恐れるなら、するべきではありません。超常ではない人間としての身の程を弁えるのが信仰であり、神を恐れることであります。人間は、与えられた知性と感性を生かして生きるべきです。それ以上の神秘や超常は、神のみのものです。
 
楽山は、永遠という時間が把握できるのでしょうか。楽山は、やたら、宗教といえば、超常を語りたがりますが、現実の、嘘も詭弁も、何も気にしないで、永遠を分かって、過ごせるのでしょうか。とんでもない曲解です。何が、当然の結論でしょう。この問題に、この地上で、結論などないのです。
 
 
*死んだら無になるという怖ろしさ
このエセーにおいて、著者は死に対する考察とともに恐怖についても書いている。死後、自己の意識は消え失せ、無になることを想像するのは怖ろしくてならないと。
 
当然のことです。無になる自分を、想像だに出来ないのが、人間です。
 
思い返してみれば、自分も同じような怖ろしさを感じていたのだった。理屈としては、死んだら無になるなら、恐怖や苦痛を感じる自分も無くなるわけで、それなら何も心配する必要はないのではあるが、それでもやっぱり怖いと思わないではいられなかったのだ。
 
楽山の感じる恐ろしさは、引用とは違うと思います。そういう実感のある共感が成立しないのが楽山です。何も分からないのが怖いわけですが、楽山は、その怖さを感じることが出来ません。だから、何も分からなくても平気でいるのでしょう。
 
何も心配する必要がないの、というより、心配することが無意味だということです。特に、楽山のように、我執で悪行を重ねている者は、あの世を心配すればするほど、恐怖するしかないでしょう。現在形~未来形~永遠形です。有名人の言葉を引用しても、楽山は、乖離しており、違うのです。
 
 
でもどういうわけが最近はそんな感覚は薄れて、「死んだら無になるのでも、霊になってあの世に行くのでも、どっちでもいい」という気分になってきている。死後の状態について、こうであるはずだ、こうならなければ嫌だという強い願望はなくなってしまったのである。
 
どっちでもいい、と思うことを、分からないから、ではなく、願望がないという言い方をしています。願望があってもなくても、恐怖してもしなくても、謙虚な懐のない楽山には分からないし、今の無駄は、ずっと無駄なのです。死んでからのお苦しみということでしょうか。
 
 
こういう変化は大方は年を取ったせいだろうし、人は毎晩眠りに落ちるたびに無になっていること、自分の意識は過去から連続しているようでも実際には過去の自分は既に消え去っており、現在の自分もやがて消え去ることに合点が行ったことなどもその理由ではある。
 
合点が行くはずのない、自らが無となることに、合点が行くと言っている時点で、作為的で、かつ、嘘であることがバレています。実際には、楽山には、横暴を極めている現実も、嘘吐きの幻想も、実感などというものはないだろうと思います。楽山の人生が幻想だから、酷いことが言えるのです。
 
現在の自分は、明日には、もういません。年を取って、ボケてくると、恐怖が薄れるというものでもないでしょう。楽山が「合点が行った」と思っているのとは、楽山が大好きな、ホラーに登場するようなものかもしれません。楽山自身が、ホラーです。
 
こうであるはずだという願望が薄れるのは、できるだけの真実を追求してきた人でしょう。楽山は、できることをせず、してはいけないことをしてきたのだから、死が迫るほどに、恐怖は増大すると思います。それを、今、感じないのは、意志が強いからではなく、ますます鈍感になったからでしょう。
 
 
このあたりの感覚は人それぞれではあろうが、自分の場合はこのような思考を経て、死後に無になることはさほど気にならなくなった次第である。釈尊は執着を去れば平安が得られると説いたというけれども、上の経験からするとこれは本当にその通りだと思う。
 
面倒臭くなったときの「人それぞれ」がまた出てきました。有名人の言葉にも使っています。執着だらけの楽山が、何かを書く技量などない証拠でしょう。楽山は、今まで書いてきたことからは、自己顕示欲という欲への執着だけしか見せていません。
 
楽山は、死ぬまで、執着を去ることはないでしょう。一生涯、我執だけに生きて、我執だけに、ニヤニヤする快感と、煤のような悪意をもって生きてきたから、我執に追われることになるでしょう。それこそ、認知症になったほうが楽ではないかと思います。
 
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
草@kusaweod
·19時間
青天を衝けで渋沢栄一が祈祷師のインチキを見破って追い払ったエピソードは実話のようでここで読める。
500社育てた渋沢栄一、商才は10代から凄かった | 日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
午後9:23 · 2021年3月14日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/kusaweod/status/1371074629582741514
<<
https://twitter.com/komo266
 
楽山と、明治の実業家である渋沢栄一とは、当たり前ですが、何の関係もありません。渋沢栄一は、大河ドラマで、旬であり、一般の人からも注目されているところでしょう。いつもの楽山の宗教への悪口とは何の関係もないのです。
 
しかし、楽山という反宗教が、今まで、いかに、宗教、特にキリスト教を、詭弁で、おとしめる投稿をしてきたかを思うとき、この他者のツイート引用を、見逃すことは出来ません。引用元の様々な有名人を自己顕示欲のために利用~悪用してきたのです。まともに受け取ることは出来ません。
 
キーワードは、"祈祷"師であります。真面目に宗教を考えることのないの楽山は、いつも宗教をおとしめることばかり考えているのでしょう。恐らく合理的な考え方の渋沢栄一が、インチキ祈祷師の嘘を見破った、ということが、楽山には、えも言われぬ痛快事なのでしょう。
 
祈祷と宗教を同一視すると、楽山の詭弁になります。一般とは違って、楽山の真意は、素直ではなく、捻じ曲がったものです。宗教は皆インチキと思っている楽山にとっては、宗教をおとしめる格好の材料に思えたのでしょう。
 
つまり、わざわざ、このエピソードを引用した楽山の意図は、偉い人が、宗教のインチキを見破った話として、受け取っているのだろうと思います。インチキ祈祷師と宗教を一緒に見ている楽山の、いかにも、あざとい宗教攻撃なのです。
 
楽山は、何を言っても理路も共感も成り立たなず、誰にとっても益とならない文章になります。気安いところで、偉人の言動を出してきて、気慰みにするのです。偉人は懐の大きさで図太い肝を持って見抜き、楽山のようなインチキな小者は、ネズミのような小心で動いて、的を外しているのです。
 
 
ちなみに楽山日記に
2017年05月11日
HS関連ブログを読む 18
という気の遠くなりそうな長い記事がありますが、渋沢栄一のことを書いています。
 
一部抜粋。
 
「書痴の楽園」を見てたら、渡部昇一は渋沢栄一を評して、常に道徳的に正しかったと語ってた。道徳と成功を両立させていたと…。
考えてみれば、論語と算盤と、あの世とこの世を貫く幸福は、似たところがあるかもしれない。真理(倫理)にかなった生活をしつつ、本当の幸福(成功)を得ようというところとか。
 
真理を知らず、倫理に全然かなっていない嘘吐きの楽山が言っています。「この世」に適っていないで、「あの世」を貫く幸福が、楽山には分かるのでしょうか。「真理(倫理)」に適うことが、楽山に分かるのでしょうか。真理と倫理は同義語でしょうか。表れるのは、分かるっぽい?自認~妄想だけです。
 
 
とはいえ、後者の方がより宗教的であるという相違点もあるけれど…。
近頃のHS本は、さっぱり読んでないけれど、ひょっとしたらこういうことは既に語られているのかなあ。どうだろう。
 
どの後者なのでしょう。道徳と成功でしょうか、あの世とこの世でしょうか、真理と幸福でしょうか、倫理と成功でしょうか。楽山の考える宗教が、さっぱり不明なのは、何も考えていないからではないでしょうか。楽山は、気が遠くなっているのでしょうか。
 
右翼思想家に、経済人にと、生死にかかわらず、有名人の名前と言葉面だけを、宗教をけなすために、我執と我執で利用~悪用する楽山です。
 
 
引きずる我執の醜い素顔

引きずる我執の醜い素顔
 
 
(2021年03月16日、同日一部修正)
(2022年03月17日、再録+加筆)
 
 
 
  懐かしき訪問者
 
四角い静物の部屋に
タバコ一本の煙
上っていく
 
友と呼んでいいのか
珍客と呼んだらいいのか
どんな縁かもよくわからない人
ともかくも久々に我が家に迎えた
懐かしき訪問者は
二泊三日で忙しそうに帰っていった
 
何てシャバダバな人生なんだ
ぐらいの話はしたかったのだが
 
 
※ (ネットより)
シャバダバとは、意味のない音でメロディーを即興的につないでいくスキャットという歌い方で、おもにジャズで使われ、楽器を弾けなくても表現できる方法のひとつです。
 
 
 
  問いと問い
 
昨日があるから今日がある
そう でも
今日があるから昨日がある
でも どこか
では明日は
明日は?
 
 
  家の階段
 
数えることもないから
数えきれない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
 
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
 
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
 
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
  祝福
 
この あかりの もれいづる
この いえに すまう ものは
つとめを はたして いこう もの
いこいを もとめて つとめる もの
ひとごとながら いのりを こめて
きぼうの くいを うちこめば
やみは またたいて ほしを かくす
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
楽山が、自らの嘘と無反省と無責任など、とんでもない偽善の最悪について「これも一種の、人間の性」と言った時点で、「人で在り続ける」ことをやめている証拠です。ブログやツイッターで好きなように、他者を、だまし、誘導してきたわけですから、「開いた出店を畳むしかない」ということです。
 
 
 
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  インチキ思想の楽山
 
 『決定版 日本人論』渡部昇一著
 2021年11月23日 楽山日記(LD)
 
 
楽山には、宗教も思想も成り立たないので、政治思想を語れば、とにかく右翼的に書けばいいじゃろ・・という投げやりが見られます。今までも、ずっとそうだったのでしょう。言葉を覚えても、言葉を使うための、心が無いのです。ゆえに、説得力もなくなっています。
 
楽山は、人に分かるように説明することが出来ないのです。人に分かるように工夫することが出来ないのです。自己愛性人格障害だからでしょう。インテリ気取りで発表して、満悦する人です。共感性がないので、読む側の気持ちを察することが出来ないのです。
 
インテリ気取りで、まともに見せかけようとしても、読んで受け取れるものが何もない文章です。例えば、小中学校で、感想を聞かれて、・・ヨカッタ・・と答えて、先生に叱られる部類の文章です。それに類する語尾が多いと思います。
 
例えば、「筋が通っているようだ」「何かしたいと思わせるものでもある」「一読の価値ありと思う」・・こういう褒め言葉だけで、曖昧で婉曲で、無責任な結論だけで、切実さが、何も感じられません。「ようだ」「思わせる」「ありと思う」・・楽山の、ボンヤリ言語と呼んでいます。
 
著者は本書において、日本の歴史を振り返りつつ、日本の長所および日本の独自性について語っている。皇室、神社、大和言葉、本地垂迹説、武士道など。
 
日本の長所と独自性を、右翼思想で語ろうというのでしょうか。言葉を、並べてみても、その説明も説得力もないなら、読者に無駄な時間を費やさせるだけの、短絡、幼稚、字面だけ、妄想的、訂正不能の危険思想にしか出てこないという楽山の精神病理が、より明らかになるだけです。
 
記事を書いても、文章は短く、短いのに中身がなく、理路は散乱~滅裂となり、思想を語るのではなく、思想の偏りだけが鮮明になってゆくようです。根拠のない偏りを、押し出してくる楽山は、無反省と無責任のペテン師ぶりを、書くたびに明らかにしています。
 
とはいえ著者は日本を褒めてばかりいるわけではない。たとえば靖国神社参拝を問題視する人々の浅薄さを批判したり、
 
靖国参拝を問題視しなくていいという根拠を何も書いていません。結論だけで、説得力の無いことが、明らかです。右翼の旗を振って、その旗に、絡まって、転びながら、言葉と結論だけが、浮いて、納まりもつかないことで、楽山が、いかに、いい加減に思想を唱えているかを表すのです。
 
他者が批判したことを書いて、何の意味があるでしょう。いつものように、怠慢な楽山は、面倒だから、自分で批判しないのでしょうか。それだけではなく、理路を正した批判ができないものだから、無駄に、丁寧語でありながら、シュプレヒコールのように、賛同だけを繰り返すのでしょう。
 
日本は東京裁判の判決は受け入れても、その裁判を受け入れたわけではないにもかかわらず、近年は政治家の中にさえ、この区別に無頓着で判決のみならず、裁判をも受け入れたと勘違いしている輩がいるとして憤り、かつ憂えている。
 
判決は受け入れて、裁判を受け入れない、という摩訶不思議な理屈を、「政治家」という言葉だけをあげて、箔をつけたいのでしょうか。何も言えない楽山の、無理、怠慢、偏見、思い込みが、羅列されてゆく文章など、もはや、理路が散乱して、読んでも、空疎でしかありません。
 
受け入れるかどうかではなく、日本人300万人の命を奪った戦争について、何の見解も持ち得ない楽山の、右翼だから右翼の思想の言葉を並べるだけ、という気色の悪い自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の末路が、ここに表れています。
 
そういわれてみれば確かに東京裁判には、事後法だとか、共同謀議を立証できなかったとか、裁判官は中立国でなく戦勝国人ばかりだったなどという批判がある。とすれば、やむなく刑には服したとしても、その裁判は受け入れないというのは筋が通っているようだ。
 
このように「筋が通っているようだ」とボンヤリ言語で書いても、楽山は、根拠と説明が、右翼の意見を書けばいいじゃろ・・という安易さに、帰結しているだけで、知性のまとまりがなくなっています。右でも左でも中立でも、無責任思想の迷惑だけを表している楽山です。
 
本書は「日本人でよかった」という気分にさせてくれる本である。しかしそれと同時に「このままではいけない。日本のために何かしたい」と思わせるものでもある。
 
楽山の言の、どこに「日本人でよかった」「このままではいけない。日本のために何かしたい」という説明が表されているでしょう。このような安い刷り込みをしてくる楽山は、右翼でも思想家でもありません。もはや、右翼的な言葉を、壊れたエンジンのようにブルブルブルと失禁するだけです。
 
右翼に短絡しただけで、右翼を書くだけの素養が何もないのです。さらに、筋の通った思想一般に、楽山の居場所など無いと言えるでしょう。あらゆることに責任を負わない無緊張の生き方は、楽山に、喜びではなく、笑われることだけを与えるでしょう。楽山の思路が、弛緩しています。
 
楽山には、反省も、修正も、学習もしないまま、インテリや学者を真似た気取りだけで、一人前を装う無理が、どんどん表れているようです。全てが、大根役者の、三文芝居だったのでしょう。何事にも、人生をかける気力も勇気も、楽山には感じられないのです。
 
現状を肯定するとともに、現状打破を志すというのはなにやら矛盾しているようではあるが、この矛盾こそが前に進むために原動力となるものなのだろう。月並みな言い方ではあるが、本書は日本人なら一読の価値ありと思う。
 
結びに「日本人なら一読の価値あり」と、理路の過程を何も書かず、結論だけを書いて、ごまかしています。このように、つまるところ、何も分かるような説明など出来ない楽山です。楽山は、自らの現状を打破できないのに、人に、現状打破を向けて、何が成り立つと言うのでしょう。
 
楽山は、何事を主張するにも根拠を示せない、ということが分かる結びです。現状肯定と現状打破、矛盾が原動力、などと、意味のない理路を並べています。こうなってしまうのは、楽山に、心が無いからです。楽山においては、肯定も否定も安っぽくなって、結局、何も主張できないのです。
 
こういう人がいると、その集団の主張は混乱し、詭弁だらけとなり、嘘だらけとなり、丁寧語で、ごまかしても、いずれ、馬脚をあらわして、誰からも信用されなくなります。まともそうだけど、見ているうちに、ただの自信過剰の怠け者だとバレてしまうのです。
 
楽山は、右翼ではなく、我欲しかありません。楽山は、思想ではなく、屎尿のような臭さだけの文章を、恥知らずだから、載せてくるのでしょう。楽山は思想など持ってはいません。楽山の心無い精神においては、何も、まとまらないのです。人格破壊が進んでいます。
 
 
屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)

屎尿(しにょう)排泄(はいせつ)
 
 
(2021年11月24日)
 
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
  仲間と責め
 
ねえねえ
・・・だって
・・・だよねえ
ねえ
孤独な仲間たち
寄り添う
似たような視線になる
責めをすり替える
身を守る
捨てられたものがある
ときに加担する
ときに捨てられる
仲間ではない仲間
責めではない責め
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
すごい容赦ない言葉だ。
でもこれが残酷な真実というやつか…顔文字(考えている顔)
引用ツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
 · 11月17日
頭の悪い人は自分の無知・愚かさを理解できていない。自分の欠点を認める謙虚さが足りない傲慢な人達です。そんな人に理解させようとしても時間の無駄。本人の意欲が低く、努力ができないのなら、もうどうしようもない人だと諦めることも賢人には必要です。そうしないと、あなたまで狂わされる。
午前8:48 · 2021年11月17日
 」
午後9:09 · 2021年11月17日
 
人のことしか言えず、自分を見ない楽山は「考えて」はいないと思います。相手の理路を受け取って、その上で物を言う、ということが、全然できない人です。挨拶と世辞の遣り取り以外は全く無意味です。正誤ではなく、正常な遣り取りが出来ないので、異常な疲労が残るだけです。
 
楽山は他人事と思って書いているようですが、引用ツイートが、楽山に、ぴったり当てはまっています。実に「残酷な真実」です。精神衛生の問題として、人格を破壊されたくなかったら、楽山と議論しても経過も結論も成り立たないので、関わらないことです。
 
「無知・愚かさを理解できていない。」「欠点を認める謙虚さが足りない傲慢」「理解させようとしても時間の無駄」「意欲が低く、努力ができない」「どうしようもない人だと諦める」「必要」「そうしないと」「狂わされる」・・ほぼ全文ですが、楽山は、そういう人です。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという詭弁の言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
 
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  楽山の的外れ
 
 『素顔の安岡正篤 わが祖父の思い出』安岡定子著
 2020年12月20日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、有名人を引用して、利用して、悪用して、自分もそうだと、自分を高めようとする、安いアピール、言い換えれば、詭弁の印象操作をしてきます。
 
前にもらった「おやさしいお人柄ですね」という社交の世辞のコメントを欲しがるからでしょう。そうして、いつも、わざわざ、楽山の低劣さとの落差を目立たせて、ひどい落差を、自ら表してしまう宿命なのでしょう。
 
本書はタイトル通り、孫の立場から家庭における安岡正篤について語ったものであり、興味深い話がたくさん紹介されている。
 
(ネットより)
安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年[1](明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は、陽明学者[注釈 1]・哲学者・思想家。
(略)
戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。
(略)
戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蔣介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった[13]。
 
有名人のようですが、右翼思想家のようです。楽山が好むタイプの人物でしょう。しかし、楽山とは、まったく違って、スケールの大きな人だったようです。
 
たとえば、安岡正篤はドライフラワーを見て「この花はもう捨てなさい。枯れておるよ」(p.112)といったり、時代劇のビデオを見せられたときは「これはどの番組だい。新聞には載っておらんよ」(p.103)と首を傾げたり、娘の縁談があったときには「節子は一体どの大学に通っておったんだ」(p.151)と訊いたのだという。
正月に家族で集まった時には、「こりゃあすごい御馳走だね。食事はやっぱりみんなで食べるのが美味しいよ」(p.211)という感慨を述べ、学問については、子や孫に過干渉はしないが、「本はとにかくたくさん読みなさい。本を買うお小遣いだったら、おぢいちゃんがあげるから」(p.36)といっていたこともあったという。どれも微笑ましいエピソードばかりである。
 
思想家をテーマにして、思想を述べず、家庭的なことしか書かないというのも珍しいのではないでしょうか。「微笑ましいエピソード」と書いてあります。楽山には皆無の話題です。つまり、楽山は、このような家庭的な人になりたいという気持ちだけで、思想家の記事を書くのでしょうか。
 
安岡正篤については厳格なイメージがあるし、どのような政治的立場から見るかによって評価は大きく分かれるだろうが、本書を読む限りにおいては、実際の安岡正篤はちょっと天然なところがありつつも家族を大事にする人であり、孫にとってよいおぢいちゃんだったようだ。
 
楽山とは対照的な人物のようです。楽山は、厳格ではなく曖昧なことしか言えず、評価は下がるばかりで、卑怯、無反省、無責任、訂正不能、他者無視、詐欺師的詭弁や、嘘吐き、自己愛性パーソナリティ障害、自己中、厚顔無恥、など、良いところが全くない楽山とは、本当に対照的です。
 
楽山は、その時その場の思いつきと出まかせで、出来の悪い文章を一方的に書いてくるだけです。スケールが小さいというより、スケールなど何も持っていないのが楽山です。
 
親族が書いた心温まる話を読んで、そのような温かい心が皆無の楽山が感想を書く?・・楽山の、どこに、そんな余裕があるのでしょう、楽山は、その必然性を、どういう効果を、期待するのでしょう。言えるのは、総て無視する無反省の楽山だから書ける、その証拠なのです。
 
それから著者の文章は、やさしい人柄を感じさせるものであって、読んでいると自然と気持ちが和んでくるものになっている。とてもよい文章だと思う。
 
やさしくない人柄の楽山は、誰かによって、和むということはないと思います。どれだけ批判されても、平気で、このような文章を書いてくるのですから、いつも、和むというより、自己の山積した問題を何も気にせずに、独り緩んでいるのです。
 
ボロクソな状況を弁えず、善後策を講じることも出来ず、へらへら笑っていられる人格なのでしょう。つまり、一見柔和に見えて、だまされていると、関われば関わるほど、不快と疲労を与える男です。だから、書くのでしょうか。カムフラージュでしょうか。無意味です。
 
つまり、引用した人物とは雲泥の差があるわけで、根底において、そのような人物に決してなれないのが楽山です。それでも、弁えもなく、今回も、有名人を引き合いに出して、自分もそのようであるという、身の程知らずの、気持ちの悪い自己アピールをしている因業なのでしょう。
 
いい気になって書いても、楽山との比較になって、スケールの違いがひどすぎて、その結果は、やさしさのおこぼれちょうだいどころではなく、やさしい人柄がいいから、などという、自己アピールの滑り方が半端でなく、楽山の愚昧さだけが際立ち、的外れもいいとこだと感じるだけです。
 
やさしい人柄と、
何を言われても、ヘラヘラだけの、無反省・無感情の白々しい、やさしさ芝居とは、
全然、違うのです。
 
楽山は、反省をしないので学習機能が成り立たず、ゆえに心の成長がなくなっています。楽山が、感想文でも何でも文章を書けば、そこには、心が無いために、物や、仕組みや、言葉面だけで、不成立の理屈を言うような世界しか表れないのです。
 
感動は心からの感動でなくなり、共感は心からの共感でなくなり、感想は心からの感想ではなくなり、理解は心からの理解でなくなります。楽山の、なごみ話を、真に受けてはいけません。

同じ、感動、感想、理解、また、反省、という言葉でも、楽山が言えば、表しているものが、全然違って、オモチャの言葉になり、うわべだけの、深みのない、おちゃらけに過ぎなくなります。
 
やさしい人柄というのも、また、あらゆる真実も、オモチャの、おちゃらけに過ぎないですから、オモチャを組み立てて、人々に見せびらかすだけの文章になるので、語ることが、良い心の実感からは遠く離れて、言えば印象がよくなるから言ってみただけの、また、みんな時々言うわけだから言ってみただけの、中身のない、つまり、嘘にまみれてゆくということです。
 
 
的外れ

的外れ
 
 
(2020年12月21日)
 
 
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