ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:善人芝居

 
  楽山は邪悪に満ちて2
 
 
まず、楽山の善人芝居が、あざといです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
このエピソードを見て、給付金詐欺の総被害額と、霊感商法の被害総額と、どっちが多いだろうかと考えてしまった。
邪教の被害を無くすためにも、正しい宗教、信仰のあり方を広める必要がありますね。
>>引用ツイート
映画『呪い返し師―塩子誕生』大ヒット上映中!|公式アカウント
10月22日
限りない欲望という「呪い」
本当は孫たちと暮らしたいけど、迷惑はかけたくないと悩んでいる大滝梨乃(#星野ひらく)の祖母 芳江(#長谷川稀世)。
その葛藤に魔が入り詐欺師に(#土平ドンペイ)お金を騙し取られる…。
「貪―欲望」
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2022年10月23日
 
「正しい宗教、信仰のあり方」を、いちばん憎んでいるのが楽山です。楽山の考える宗教は、"テキトーに信じる" ことですが、信仰の本質を全く知らない者の、そして、共感や愛ということに、全く不感な楽山の、短絡した鈍麻、無感動からの垢(アカ)のようなものです。
 
 
 
 『世界は邪悪に満ちている だが日本は……。』
 日下公人、髙山正之著
 楽山日記(LD) 2021年10月16日
  を改めて批判。
 
 
神を恐れない楽山が、神の怒りを買うシーンのようです。まことに、身の程を知らないということが、いかに、災いであるかが、表れています。本人は、何をしているのか、まるで気づいていないのです。しかし、その分別も思慮もない軽口が向かっている先は、神であります。また他者の口を借りています。
 
楽山には、正常な理路がありません。大方、嘘と詭弁と妄想で出来ています。楽山には、深い思索を可能にする、しんみりした、おもに悲哀の共感という情緒が欠落しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からくるのだろうと判断しています。
 
著者二人は、つくる会、労組批判、などに関係があるようですから、右翼の思想家であろうと思われます。楽山が、A級戦犯を褒めていたのと、ほぼ同軸と思われます。つまり、右翼の楽山です。しかし、楽山の思想は、幼稚、かつ、支離滅裂です。
 
 
本書は、アメリカや中国などの悪辣さを指摘しつつ、日本の美点を強調しているものだが、キリスト教についても随分と厳しく批判をしており、その中には自分の知らなかったこともあったのでその一部をメモしておきたい。
 
キリスト教について悪口を並べているのは、楽山です。批判と違って、汲み取れるものが何もありません。楽山の悪辣な本性が、もはや、悪意だけの詭弁となって表れています。読むほどに、楽山に欠けている人間性の大事な部分を、逆に読み取れるでしょう。
 
 
まず本書では、欧米人の残虐さは聖書の影響があるとしている。
彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。
(民数記31:7)
 」
 
神の裁きであり、その厳しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。このような話は、絶対ではない人間に、絶対正義の存在である神を恐れよということを表しているのです。キリスト教について、やさしい神ばかりイメージするのは、間違いです。旧約聖書から、神への恐れを学びます。
 
モーセは預言者であり、神の意志を代弁している役割です。それを欧米人の残虐さに結びつけているのは、誰よりも冷酷で、温もりも潤いもない楽山その人です。何か個人的な憎しみを発散しているような記事になっています。神を、怨念の具材とする楽山の残虐性は、傍若無人であります。
 
神はこんなに残酷なんだよ・・とばかり、楽山は吹聴したいようですが、その楽山は神を恐れていないから、こういうことが書けるのです。神を恐れず、即ち、絶対正義の存在を恐れないエゴの妄想には、抵抗として批判を書くだけでなく、それを続けることが必要です。
 
ゆえに、批判は、こんな酷い人がいるから、楽山を読んでも、決して、真に受けないように、近づかないように、という警鐘を鳴らすためにあります。神に対する信仰とは真逆の、そして、悪魔に奉仕していることに悦楽をおぼえる、サディスティックな欲望が、無反省の病質者、楽山の記事に表れています。
 
 
直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。
(民数記31:17-18)
 」
後の方はモーセの言葉であるが、彼らはこういう考え方に馴染んでいるから、女はプレゼント、ボーナスという発想が生まれ、「慰安婦は天皇陛下からの贈り物だ」という日本的には理解できないおかしな発想も出てくるのだという。
 
慰安婦問題を、聖書のせいにしてきました。楽山は、どういう発想なのでしょう。聖書を読むのではなく、聖書を貶める材料を漁っているのです。とても卑しい根性です。ゆえに、楽山には、福音が届きません。楽山からは、厄病が送られてきます。それが、楽山ブログです。
 
歴史上、略奪・暴行によって、女性が戦の犠牲になるのは、恐らく、世界中であったことだと思います。つまり、歴史の負の遺産であります。モーセも、その時代の戦争のあり方から自由ではなかったということです。あらゆる好ましい人間性の敵、楽山などに、それを批判する資格はありません。
 
楽山は、残虐であり、共感も愛情も知らず、反キリスト・反宗教・背教者として、預言者をおとしめることに必死です。恐らく、笑いながら、自らの不能・不全の裏返しとして、残虐行為を楽しむ部類の人間でしょう。楽山の言が、まかり通る世界は、サイコパスの戦争の世界になるでしょう。
 
恐らく、戦争でも起こったら、いちばん残酷なことをするのは、思いやりなどの高等感情を失うのではなく、元々、持っていないために、冷血漢に徹することの出来る、楽山のような輩です。それが、神と預言者を、恐れもなく、心を受け取ることもなく、こき下ろせる理由です。
 
 
またスペイン人の南米における残虐行為の背景には、先住民にキリスト教を布教して受け入れたら理性の持ち主といえるが、受け入れなかったら猿と同じだから奴隷にしてよいという教会からの回答があったという。
 
歴史上の一部のキリスト教徒の過ちを、キリスト教のせいにするのが、楽山の快感なのです。つまり、一部の悪い例をもって、全体を否定する詭弁となっています。卑しい煽動者は、多く、このような詭弁の悪意ある辻褄を振り回して印象を植え付けてゆきます。これがダイレクトに楽山の因業です。
 
 
日本でキリスト教系の女子校が多い理由は、「母親がキリスト教徒になれば娘もキリスト教徒になる。娘がキリスト教徒になれば、やがて孫もキリスト教徒になる」というたくらみがあるのだという。
 
キリスト教系の女子校について、私は、よく知りません。楽山が、詳しく知っているとも思えません。つまり、おとしめるのに都合のよい材料を、むしゃぶりつくように「たくらみ」と宣伝する楽山こそが、恥も知らず、企むために発狂峠を越えているわけです。人間とは思えないです。
 
 
マヤにおける布教活動では十字架ではなく、マリア像を用いたそうで、その理由は先住民たちの儀式(心臓を取り出す)は残酷だと批判したら、磔刑だってそうじゃないかと反論されたので、十字架像は隠さざるを得なくなったからだそうだ。
 
マリア信仰を持ち出して、これで、キリスト教批判になるでしょうか。否です。いちばん残酷な冷血漢が思慮もなく持ち出してきた話には、信仰の本質の欠片も表れてはいません。このような話をしても、楽山の汚い自慰行為に過ぎないということです。
 
楽山は、キリスト信仰について、何も知りません。楽山は、誰も救えません。楽山は、自分教の薄汚い自慰性無神教カルトです。いくら、悪い例を、ベタベタベタベタ貼り付けてきても、キリストの恩恵が色褪せることはなく、楽山の薄汚さがあらわになってゆくだけです。
 
十字架は、楽山に似たサイコパス性のパリサイ人などが加害者で、キリストが被害者であり、人間の罪の贖い、そして、キリストからの無私の愛と、罪人への究極の共感を表しているのです。いつも、楽山は、その低劣な言論に見合うところの、実に不細工な誤謬と虚言を曝してきます。
 
 
本書にはこの他にもさまざまな批判が書いてあるが、残念ながら自分は無知なので、これらの批判の真偽、妥当性を判断するのは難しい。本書で語られていることがすべて本当であったとしたなら非常に残念なことだと思うばかりである。
 
「自分は無知」という自覚が本物なら、楽山は、ここまで汚い否定を当ててくることはないわけです。楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の、無根拠の思い上がりで出来ていて、ここだけ、それを隠して、いい子ぶっているだけの、嘘吐きです。だまされないでください。
 
ボロクソに言っておきながら、「自分は無知」「妥当性を判断するのは難しい」「本当であったとしたなら」という無責任が通るでしょうか。否、はてしない愚かさであります。楽山の、反キリストぶりが、制御を失って、それでも、責任逃れのボンヤリ言語で責任回避しようとする醜態です。
 
楽山における人格破壊は、これからも、進行するでしょう。肯定的に関われば、こちらも人格破壊が待っています。もはや、最小限の分別も持っていない楽山に、ブレーキが外れて自分が何を言っているか分からない楽山に、どうか、関わらないでください。身と心を、楽山から守ってください。
 
 
  わがままではなく自己中
 
 自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう? 2021年10月16日
   を改めて批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、嘘と詭弁が体質となって、日々、それを書くことが自慰行為となっている楽山です。
 
 
ツイッターを見ていたら、「自分の意見を言うこと」と「自分の意見を押し付けること」の違いを説明しているツイートがあった。
20211014 (2)自分の意見を言うことはワガママではない
 
意見を言い、他者の言うこと聞き、考えて、必要なら修正し、学習するのなら、成長につながりますから、わがままではありません。しかし、楽山のように、他者の言うことを無視し、考えず、修正せず、学習もしないなら、わがままというより、自己中であり、邪悪であり、病気であり、迷惑~害毒です。
 
 
以前、私が自分の意見を言っただけで、「ワガママだ!」「自己中だ!」と非難してきたHS信者がいて呆れつつも不思議に思ったりもしたのだが、多分この信者は上のツイートにあるように萎縮した考え方をしていたのだろう。
 
楽山は、誰からも、自己中だと言われるべき人です。そいう言わない人は、楽山の嘘と詭弁の丁寧語にだまされて、楽山に盲従しており、知性と感性が鈍麻してゆき、結果として、人格を破壊されることになります。楽山は、それを好んで企んでいる人です。
 
押し付けるのではなく、先入観として刷り込んでくるのは、隠蔽操作が合併しているわけですから、むしろ一層の汚さと醜さとして、その悪と偽善は決して見過ごしてはならず、人間の国から、はてしなく追放するべき凶悪さを示しています。
 
 
HSでは、エル・カンターレへの絶対的な帰依を求めているので、その信者はエル・カンターレとは独立した自分独自の意見を持つことをワガママ、自己中、高慢として抑圧しており、だからこそ私が自分の意見を言ったことをもって、ワガママだと非難せずにはいられなかったのだろう。
 
楽山は、自分独自ではなく、自分快楽原則の意見だけを持っており、我がまま、自己中、訂正不能、高慢、傲慢、偽善者、嘘吐きの、ペテン師です。ボンヤリ丁寧な筆致と、同情を引くためのトホホ言語に、だまされないでください。分別も能力もないのに、無反省・無責任に、教えたがる変質者です。
 
 
信者は「HSは自由な団体だ」と誇るけれども、実際はこのようにパワハラ加害者や毒親と同じやり方で信者を支配していることに早く気づいてほしいと思う。
 
楽山は、無神教カルトの教祖願望のであり、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。毒親となりパワハラが出てくるのは、もっと、うまくいって奴隷が増えてからでしょう。楽山には、正常な、親意識も、パワーも、ありません。恐ろしい疲労だけを与えてきます。
 
楽山は、詭弁と嘘と妄想とを駆使して、だましてきます。個別のことで全体の印象操作をする・・などというやり方です。罪悪感がありません。思いやり、共感などの、高等感情がありません。平気で嘘を吐きます。ネトウヨです。独自の発想も理路も感性もありません。
 
詭弁が体質となっている楽山です。それが、楽山の唯一の生き甲斐であり、生存するための悪知恵であり、それしかなく、理路も感性もないまま、図々しく押してきて、言い知れぬ疲労と徒労ともたらすので、決して、相手にしてはいけない病質者です。
 
 
 
※ 聖句:詩篇
 
 (詩篇64:5-7)
彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、
「だれがわれらを見破ることができるか。だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。
われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。
人の内なる思いと心とは深い。
しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
 (旧約聖書)
 
昔から、悪と偽善のパターンって、似たようなものだったようです。楽山や、悪い政治家や思想家が、常套手段としている隠蔽と偽装は、昔からあって、その心も、そのパターンも、そんなに変わっていないということでしょう。
 
だから、例えば、孫悟空が、どんなに飛び回っても、如来様の手の内から出られないのと同じなのでしょう。また、ある意味、現象としては、自業自得で、災いを及ぼせば、巡り巡って、結局、自分に返ってくるということでもあるでしょう。
 
 
赤茶けた悪意

赤茶けた悪意
 
 
(2021年10月17日)
(2022年10月24日、再録+加筆)
 
 
 
  感動
 
山の頂に立って
そこから空を飛べとは言わないし
山を移せとも言わないが
もう少し感動させてくれないか
 
目頭を焼いて楽園を追われ
いや捨てて日没へ去れと言うのか
選民を押し潰した被愛の傀儡よ
 
伝わらないことを誰のせいにする
読み方が悪い
書き方が悪いはよしてくれ
賛美も聞き飽きた 十字架を
重い荷物にたとえる愚は
異言を放つ教祖様方
 
溢れるほどのブドウ酒
産みの苦しみに快感を束ね
満腹の上に飽食を重ね
発酵しすぎた唇が
開く赤い闇が
パンのみにて生きるものにあらずと
ずいぶん酢を噛んでいる
 
異臭の迷路から
生まれた詩の永遠が
死の永遠へ昇天する刹那
信仰は迷いさまよい漂いただ酔いながら
久しぶりに口ずさむ
古い讃美歌に泣いて
復古、復古と愛人を呼ぶ
素直すぎる狂気の沙汰だ
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから虚言が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
そうではありませぬのか
主よ
 
そうではないのか
ことばよ
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはいまいち理解できない話だった。
成績が良くて、異性と仲良くしてる同級生を、「いいなー」と羨むなら分かるけど、絞め殺したいくらいに呪うというのは分からん。
脚本家には、これがリアルな感情の動きなのだろうか。
>>引用ツイート
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10月22日
嫉妬が生み出した「呪い」
成績優秀でクラスの人気者 五十嵐奈々子(#福永紗也)。ある日突然授業中に倒れる…。
そして奈々子の首には、謎のあざが…。
「序―嫉妬」
映画『#呪い返し師―#塩子誕生』大ヒット上映中🎬
<<
2022年10月23日
 
楽山を駆り立てている陰性の感情ですが、楽山は、嫉妬からの憎しみや殺意が分からないと言っています。気づかないのか・・いや、白々しい芝居、恐らく、善人アピールの嘘でしょう。「嫉妬が生み出した「呪い」」・・ルサンチマン、負け犬の遠吠え、殺伐とした楽山のリアルです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の病名~症状~性質は、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPD、サイコパス=精神病質、反キリスト、反宗教、無神教カルト、サディスト、エゴイスト、セルフィッシュ、誇大妄想者、被害妄想者、言論不適格者、単方向、ペテン師、嘘吐き、人間失格者、などです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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  楽山の善人芝居
 
 『生命に刻まれし愛のかたみ』三浦綾子著
 2021年12月11日 楽山日記(LD)
 
 
前川正氏は、三浦綾子さんが、結婚する前に、付き合っていたキリスト者のようです。前川正氏は、1954年に死去。(ウィキペディア三浦綾子より)
 
楽山の、世辞の、きれいごとです。今までも、詩のつもりの言葉で、丁寧語で、ボンヤリ言語で、トホホ言語で、言い逃れのための白々しい褒め言葉を「ただただ」じゃからと使いまくっています。
 
本書は前川正氏の書簡、日記などを収録した遺稿集である。これを読むと氏は生身の人間であり、男であったことがよく分かる。もちろんだからといって氏への尊敬が薄れるということはない。むしろ生身の人間として、男としての悩みや苦しみを背負いつつも、あれほど高潔に生きたのだと思えばますます尊敬しないではいられないくらいである。
 
キリスト教と神を否定している楽山が、よくも「尊敬しないではいられない」などと書けるものです。前に書いたと思いますが、嘘を吐けば、楽山の履歴が、嘘を暴くことになります。他者を利用しても、自己愛に利用するだけで、誰も尊敬などしたことのない楽山です。世辞を書いても無駄なのです。
 
人であれば病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり、気の利かない看護者に怒鳴り散らしたり、恋人には未練たらしいことを言い募ったりしたとしても致し方ないことである。
 
楽山は、「病状が悪化するほど思考力は低下し、あらぬことを口走ったり」しているようです。誰にとっても必要もなく役にも立たない意見を、執拗に書いて、安い言葉でヒューマニズムを気取って、粉塵のように、邪悪な正体を煙に巻きたいのでしょう。
 
けれども氏は最期のときまで看護者への思いやりを忘れなかったというし、恋人に対して紳士的な態度を少しも崩さず、その将来を気遣った手紙を残しているのだから感動せずにはいられない。
 
「感動せずにはいられない」・・同様です。自分の本心からのメッセージを書けないので、尊敬、感動、というような陳腐な言葉しか思いつかないのです。そして、他者への「思いやり」などの高等感情を持たないので、その言葉を並べることしか出来ません。だまされないでください。
 
また氏は優れた能力を持ちながらも、それを存分に発揮する機会を得られず、両親に孝行したくともそれも思うようにはできない状態のまま逝かねばならなかったのである。この無念さはどうだろう。氏はこういう状況に陥っても、決して捨て鉢になることはなく、自身の努力を続けつつ、他者をもいたわっていたのだから、これにはただただ頭を垂れるほかない。
 
「ただただ頭を垂れるほかない」・・楽山の、こんなにも人を尊敬できる自分は優しい人という嘘のアピールです。「ただただ」・・などと、大仰に書いて、真剣さをアピールしても、ただただ、純粋な人たちを、手のひらに乗せて玩び、自己愛のために悪用して、貶めているだけなのです。
 
自分は虚無主義者とまでは行かないにしても、厭世的、悲観的なところが多分にあるのだけれども、前川正氏のような人が存在したのであれば希望を持ってはいけないということはないようにも思えてくる。なんだか『道ありき』を再読したくなってきた。
 
虚無でも厭世でも悲観でもなく、楽山は、邪悪なだけです。だから、今回も、自分を高めるためにだけ、書いています。反省せず、責任を負わず、嘘と詭弁で人を惑わし、悔い改めのない楽山には、希望は、欲望と企みだけがあって、生まれようもないのです。
 
とうに偽善はバレているのに、まだ正常な良識の人を気取る楽山の言は、どんなに、善人ぶって書いたとしても、言葉に三文芝居の安いセリフしか書けないという大根役者ぶりです。見るも無残な駄文です。いつまで、腐った人間像の典型を、得意げに表してくるのでしょう。
 
今までの、反キリストとしての、キリスト教と神を冒涜したことを、反省も修正もしないで、このような記事を書くことが、むしろ証拠となって嘘がバレているのです。楽山はこれからも、似たような記事を書くでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は凶悪です。
 
ありふれた言葉を並べるだけで、心を表せない楽山です。批判者を怒らせたいのでしょうか。こちらは、駄文という評価を貼り付け続けるだけです。楽山は、一生、安い芝居を続けるのでしょう。楽山が無視しているところで、楽山の偽善の悪臭が、楽山を否定してゆきます。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:10-14、新約聖書)
 
この例え話では、善人ぶる高慢が偽善という救いがたい最悪であることを、キリストは伝えています。聖書をを学習すれば、嘘吐きが「尊敬」「感動」「希望」などという褒め言葉を使って、何も反省せず、悔い改めることなく、きれいごとを並べていることも分かってくるでしょう。
 
 
偽善臭

偽善臭
 
 
(2021年12月13日)
 
 
 
inotiyorokondeiru’s blog「命が神?仏?」2021-12-11 
https://inotiyorokondeiru.hatenablog.com/entry/2021/12/11/170000
 
「命よろこんでいる」という言葉は、心で唱えてみると、なんとなく、命に励まされているようで、心が落ち着いて、安らかに温まる感じがするので、優れた言葉です。人知はバカにはできません。
 
そして、信仰に必須なのは、知識や理屈ではなく、共感です。
しかしながら、
 
>神仏は信じる人間がいなくても存在価値は変わりなく続くでしょうか。・・・
>又、失敗ばかりする人間を創った責任はどうするのでしょう。
>絶えず争い合う人間をなぜ創ったのでしょう。
 
この、信じてもいない神の責任を問う高慢は、どうでしょう。楽山に似ています。こういうことだったか・・と思い、かつ、驚いています。楽山のツイートに、「いいね」を入れたこのブログ主は、楽山の仲間でしょうか。楽山の成りすましでしょうか。陰険なところも似ています。
 
すでに書いてきたことですが、神の辻褄が合うから神を信じるのではありません。このブログ以上の、支えとして、絶対孤独からの解放を与える祈りの信仰だから信じています。そういう真実をまるで理解しないで、神を人の辻褄で判断してくる無理解の楽山に、宗教を語る資格はありません。
 
このブログ主については、同じようなことを繰り返すかどうかによって、正体が分かってくるだろうと思います。楽山と社交の丁寧語だけで付き合って、だまされている人か、楽山の仲間か、それとも、楽山自身、即ち、HNを変えた成りすましなのか。
 
楽山の病質の根深さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。楽山は、もはや、生きていない、人間らしく生きる活性など持っていないと思います。命も、神も、人も、命も、よろこんでいない楽山です。極めて悪質だと思います。匿名のネットは、悪の巣窟ともなりえます。
 
人は、生き方を選択することは出来ますが、成り行きを決めることは出来ません。だから、成り行きは、神の導きだとしても、神がどうするかを、人は知りません。そこで、知りもしないし抗えもしない神に、恐れもしないで責任を問うか、神を仰ぎ神に祈るかが、分かれてくるのです。
 
 
 
  「それ」からの手紙
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
絶望によって希望を知る
希な望み
誠に希望を本当に知る人は少ない
欲望は派手な花々を求めてやまないが
希望はただ生きる魂を求めるのみである
 
 
  夜の行き方
 
夜を見ている目に
映らない夜が行きます
 
夜を見ない昼の目に
写らない夜が映っています
 
街の片隅
野辺の果て
唇を噛み締めて
拳を握り締めて
蹲(うずくま)る傷んだ黒い筋力が
痛みに盛り上がっていないと言えますか
 
夜と呼ばれる前に
夜は行くのです
闘いに
 
だからいつも抵抗する相手がいて
それぞれが独りで
抗(あらが)っては軋(きし)みながら
沈黙のうちに広がる暗黒の肉体を
引き裂こうと引き裂かれようと
潰そうと潰されようと
そうして夜は夜であり続けるのです
 
 
  正当性
 
熱を持たない夕日に焼けただれた雲の下
地雷の眠る森は暗く重く沈んで
明日までよみがえることはあるまい
 
焼かれてもいない正当性は
例えば単に
まっすぐな樹木の
どこが微妙に曲がっているか
を問うより間違っていた
 
辻褄や口裏は合わせられても
夕日もなければ森もない
元々熱を持たない正当性を
作られた角度から
いくら繰り返しても
いかなる納得の念じ方も
地雷の重みを示すこともできず
ましてや夕闇の雲と地平を
鋭角に貫くものなどあるわけもない
 
いわれもない念仏
永遠によみがえることはあるまい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そういう主旨のコメントではないでしょう。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己愛性人格障害の楽山には、病識がありません。効く薬もありません。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。自己正当化に酔うことしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山の病質の根深さと狡猾さ、あるいは、楽山の共犯の人間関係の根深さを思います。
 
 
 
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