ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:善悪

 
  善悪3
 
 
何が正しくて、何が間違っているかなど、善悪の厳密な結論は、風さえも支配されるところの全能の神ならば分かるでしょうが、風を追うような私たちに分かるはずはないのです。
 
 (伝道の書、口語訳)1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
 (伝道の書1:17、旧約聖書)
 
私たちは、ただ、懸命に考え、判断して、実行し、反省して、それを神様に正直に捧げる祈りの時を知っているだけなのです。
 
正しいか間違っているか、すなわち正邪というのは、風を追えない私たち人間にとって、判断に過ぎないのであって、そこに、信仰があるから云々とか、神の御心は云々とか、私たちが言葉を並べてみても不完全で、高が知れていると弁えるべきでしょう。
 
私たち信仰者が、何を人に伝えられるかと言えば、福音伝道と言いますから、聖書を読み、神の寛容のもとで、キリストの共感と慈愛の同伴により、正直に祈ることによって、反省し成長する道を与えられたことに他なりません。
 
与えられているということは、否(いな)みようもないことですから、その通り、与えられたと言うしかありません。それが福音なのです。聖書におけるキリストからの共感に、キリストへの共感を持つようになった人が、キリスト者になります。
 
しかしながら、聖書の話や信仰の恵みについて、神がどうであるとかいったことは、私たちも多くを知らないのであって、この地上では分からないこととして求道者と共有と共感を目指すべきであって、まちがっても知らない者に教えるという態度になってはいけません。
 
共感と共有だけが、人としての立場を弁えて目指せる目標であります。つまり、福音伝道は、自他という人が主語であります。人に共感の可能性を伝えるのであります。
 
神の導きと言えば、どのように?、神とはと言えば、どういう存在?、キリストはと言えば、どのように同伴?、という難題になりますが、自分という人間が、束縛された心から解放されたという話なら、信仰者は話が出来るでしょう。
 
受けたことを伝える、この立場を守るならば、たとえ邪悪なカルトが、私たちの完全ではないことを罵(ののし)ってきたとしても、知らないことは知らないと言えるでしょうし、受けたことは受けたと言えるでしょう。
 
良心を持たない思い込みカルトの類は、実に思い上がっていて哀れむように見せかけて、軽蔑や嘲笑いを向けてくるでしょう。そんなとき、"主を誇る" などと言ってもカルトには通じないでしょう。カルトに何を言っても無駄です。
 
信仰において気づいたこと、即ち、神という絶対者を仰ぎ、キリストという救い主を好きになり、キリストの共感と同伴を祈り願って、その大いなる存在に比べて低く弱く小さい存在であることの幸いを知ったのなら、その自覚が多くの束縛からの解放だったことを改めて自らも知ることになるでしょう。
 
余計な負けず嫌いや自尊過大がなければ、然(しか)りは然り、否(いな)は否と言えるでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
 (マタイ5:37、新約聖書)
 
そういうことをカルトは全く理解できないが、へりくだって真実を求める求道者の中には、共感が芽生えることがあるかもしれません。そうやって自分もキリスト者になったことを新たに自覚する機会にもなるのです。
 
そのようにして、信仰者と求道者双方に恵みは続き、学習は続き、成長は続き、福音は宣べ伝えられてゆくのです。善悪および正邪は、人にとって、その時の良心の判断に過ぎません。良心に基づいて行動しますが、絶対ではありません。
 
しかし、神の前に努めて正直であることは、人間に出来る唯一の "神を愛すること" であり、神に救われる必要十分条件なのです。ゆえに、正直な祈りに努めることは、神に対して人間が出来る "唯一の正しいと言えること" なのです。
 
正直な祈り以上の良きものを、人が神に捧げることは出来ないのです。決定的な優先順位を、人の不完全性と罪深さにとって不可知な善悪や正邪ではなく、正直な祈りに置くのがキリスト信仰であります。善と正義に励んでも、その影響を果てまで追うことは、人間には出来ないからです。
 
正直な祈りを捧げる心は、絶対正義の善行にはならなくても、反省と成長が可能となり、悪意と悪行からは遠ざかる生き方になるです。つまり、神の前に、正しく善となることをもって救われるという信仰は人間には成り立たず、正義と善への方向は、ただ正直な信仰の結果として表れることです。
 
そのようにして、凶悪な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)やサイコパスの嘘や詭弁の偽善の罠にも、騙されることなく、近づくことなく、不完全で不十分であっても、温もりと潤いのある豊かな良心を持つ人間性へと、育(はぐく)まれてゆくのが信仰の道です。
 
何故なら、聖書より、神は、いつも、罪に対する寛容をもって、正直な祈りを待っておられるからです。善が先でもなく、正義が先でもなく、それら、人間には重すぎる義務や戒律の負荷ではなく、人間なら誰にでも可能で、かつ、間違えても訂正可能で成長可能なのが、正直な祈りの信仰なのです。
 
 
善悪 正直

善悪 正直
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年05月26日、再録+加筆)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
  祈りと叫び
 
いつくしみ深き
神様に感謝します
という賛美の祈りより
神も仏もあるものか!
という叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられる
ような気がすることがあります
 
その血塗(ちまみ)れの
蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を
遣わされた神様だから
 
 
  言質
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  気分
 
いつから厭(いや)になった
世捨て人の気分でも
この世のお世話になって生きている
世俗を離れた気分でも
俗は欲と一緒についてまわる
いつから嫌(いや)になった
勝つことができなくなって
自分自身にさえ負けてばかりだから
惜しみなく勝ちは譲る気分でも
勝ち負けそのものが分からなくなった
いつから柔(やわ)になった
善し悪しも弁(わきま)えず
まさに今そういう気分
いつから今になった
ずっと気分だよ
今以外に何かあったか
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
あなたはだれ?
なにしているの?
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
血糊が減ることはないのである
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省、修正、学習、というプロセスを通らずに、自分は自分、人それぞれ、自分を貫く、といったことを、その範囲も是非も考えないまま続けると、人間は成長しなくなります。理路は小学生、感受性は鈍く、知識は都合のよいことばかりを集めて、いったい、どういう大人になったつもりなのでしょう。
 
 
 
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  当てにならない2
 
 
私たちは実に当てにならない世界に住んでいます。実際は、当てにならないのは私たちの心であり内部なのです。
 
入力は総て感覚器を通している。内部処理は総て脳が行っています。いずれも寿命が尽きればなくなるものであり、これらは、寿命がある間は維持されるけれど、本当に変わらないで維持されているかどうか、検証は不可能です。
 
当てにならない世界を、当てにならない知情意をもって、断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは、当てにならない世界において、当てにならない知情意をもって、判断し実行するしかないのである。それが人間の不完全性である。
 
神が絶対でも、あるいは、たとえ絶対がどこかにあっても、私たちには絶対はない。それを知ることが信仰の始めです。絶対とは不変に正しいこと。非絶対即ち相対とは可変で、ときに、当てにならないこと、そして変わりうること。即ち、学習と成長を旨とするべき存在、それが人間です。
 
当てにならない知情意をもって、当てにならない感覚・知性・感性をもって、生きてゆくのに絶対は全く向いていない。にもかかわらず、絶対の訂正不能で、ワナを仕掛けてくるのが、楽山です。
 
神の属性である不変は、変わることなく成り立つということであり、神義すなわち神の正しさも、真理の働きを持ちます。人は、神を、つまり、絶対を、理解することなど出来ません。ゆえに、人と運命を共にする仲保者が、キリストであります。
 
人間の正しさは不変ではなく、より正しいことによって、また状況によって、否定され超克されてゆくのが、人生です。これを人間の相対性と呼びます。信仰をもっても、この相対性は変わりません。これを、一般的には、罪深さと呼んでいます。
 
人間に成り立つ絶対性は、絶対は絶対にないという循環論法にしかなりません。
 
自覚の弊害として、人の絶対は慢心し訂正不能を好みますが、自覚の必要として、人の相対は努力して成長することを求めるでしょう。
 
しかし、人は絶対を求めやすい。絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。だから絶対の存在を確定しようとするか、あるいは確定したつもりの言動を、神の御心だと言って神聖化しやすい。それを信仰と呼び使命と呼び確定して、感じることと考えることを疑いだと、退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので、人は決して絶対を確定できないのに、気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。神とは違う人としての身の程を弁えることが信仰の始めであるのに、味方としての神しか欲しがらない信仰は、戒める神と懲らしめる神をそっくり除外して、揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
この人の罪性ゆえ、キリストは十字架の道を歩まれる。今も。・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。その理由は神の秘密ということがある。神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。神の考えることを人がいつも理解できるわけではないのです。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、私たちの狭い見識と視野と能力では、神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力、即ち、全能を理解できないことを考えるべきでしょう。真の信仰者は、既に、知っていることです。ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、地上のみならず、総ての世界での計画を持っておられるのでしょう。その詳細は、神の秘密、神秘である。神を恐れるべきとは、このことであります。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからです。
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は、その自覚は、
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
 
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。そこから信仰の敬虔が生まれます。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
 
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのです。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っていたほうがよいでしょう。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人を騙すのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たちは、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが、いかなる正しさも、人が敬虔を忘れるとき、絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。私たち信仰者は、罪を認め、悔い改めることが、信仰生活として必要です。
 
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。心を決めつけることは、経験による学習を怠けることになる可能性があります。決心は、暫定的な結論であり、言動の原動力ですが、絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。
 
相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は汚れ過ぎています。洗礼は、神に対する人の信仰告白の儀式です。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、否であります。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の心を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであります
 
そして、人に対しては
その"神の前の正直をもって武装"しておくことが大切なのです。
 
 
神に対して、偽り、あるいは、飾る人は、人に対しては、さらに嘘を吐き、自分を立派に見せかけるでしょう。神の前での正直を努めない人は、いかなる讃美の美辞麗句を弄しても、キリスト信仰者ではないのです。パリサイ人は誇り、取税人は自らの胸を打つ喩え話に表されています。
 
 
真理は神に 人には人の真実

真理は神に 人には人の真実
 
 
(2020年04月02日)
(2022年04月03日、再録+加筆)
 
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
  真実
 
宗教人のあわれみは
ときどき気色が悪かったりするので
やめておいたつもりの男が
自分を憐れんだり憎んだりするので
きっと地球は丸いのだなと
あくびをして考えてみるに
 
子供を戦場に送って死なせたり
科学者を殺したりした中世の教会を経て
まだ教会というのがあるのは
昔のことを悪者にして
あれらは間違っていて
あれらは悪かったと
言えるおかげさまだったりしている
 
地球が太陽のまわりを回っていることは
今は誰でも知っているけれど
相変らず日が昇ると言い日が沈むと言っている
感覚というものから
科学はどんどん遠くなっていく
 
宗教人の求める真実が
遠くなりませんように
軽々しく人を憐れんだり
憎んだりするときに
お前が間違っていて
お前が悪いと言ってもらえる
お叱りと憐れみがそばにいて下さいますように
 
面倒は嫌いなので
青信号を
緑信号と呼ばなくてすみますように
急に地平線や水平線がまるくなったり
地球が昇ったり沈んだりしませんように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘と詭弁で言葉をいじって、自分を高める?ことだけしてきて、罪を認めることも、悔い改めることも、鼻で笑って、気にしない楽山です。いくらインテリや学者を気取っても、教える姿勢だけでは、ズルズルな自我の低格が表れるだけです。柔和を装う楽山に、決して関わらないでください。
 
楽山は、何を興奮したのか、最近、二度にわたって、大量の記事を書いてきました。そこに私の発言が引用されていますが、前後関係を無視して、"stは、こういうことを言う奴です" と決めつける乱暴が表れて、結局、楽山は、自らの正体である荒らし体質を、自分で、さらす結果になっています。
 
 
 
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  善悪と判断3
 
 私の前の記事「できることを」
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
 
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で似たようなことは言われるでしょう。
 
私たちは、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、犯人または悪人と呼んでいます。そして、陰性の感情をいだきます。しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過を知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。というより、そうするしかないわけです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。総ての状況と、総ての影響を、知っているわけではないからです。
 
人間が、行動するときの、事前の判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断能力は、同じです。信仰は、誤りのない正義を与えるわけではありません。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を、罪深さとして自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、その時、判断しているに過ぎません。人間の判断には、絶対はありません。例えば、批判が続くのは、批判対象に、改める様子が全く見られない場合です。批判を続けるかどうかについても、同様に判断をすることになります。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、副次的なものです。他者に勝るものでも匹敵するものでもありません。人の義は不完全です。
 
神が人に与える義は、正直な祈りに対する信仰義認であって、正しいことをしたという行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳を語るには注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルト的な言論者が、批判に対して発してくることだからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言動は、絶対の正しさではありません。批判する必要があって、批判する気があって、批判できる人がすることに過ぎません。
 
人は、自らの言動の影響を、影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って、逆に、傷つけるということが起こり得るわけです。
 
つまり、あらゆる言論は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残しているという弁え、それが、敬虔であります。最終的には、神に任されるべきことであり、人は、そのことを自覚していなくてはいけません。そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。無条件に、さらには、実際は快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れさえあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰は、信仰の確信のつもりで、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くゆえに、喜怒哀楽が起きて、悲哀や苦難に忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。それによって、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
信仰は、神と人との双方向です。しかし、前から言っていますが、人は、神に語ったつもりでも、直接、その時、神から返事を聞くことは出来ません。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であり、人と神の双方向を保つ唯一の行為なのです。
 
その信仰の正直であろうとする姿勢こそが、立派に完全になりたい、という、人間の思いこみの欲望から、また、悪意や憎しみから、人間を解放し救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうることを求め、感謝するのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、直接、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のように聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、癒しの体験は、信仰を通して、人にも分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほど、いる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを表すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。悔い改めとは、世俗ではなく、神のほうを向く、すなわち、祈ることです。
 
 
信じ仰ぐ

信じ 仰ぐ
 
 
(2020年02月27日)
(2022年03月04日、再録+加筆)
 
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 
楽山の、意地悪な自己中リツイートについては、前にも批判しましたが、いくつか、さかのぼって見てみると、もっとありました。ちょこちょこと、人の口を借りて、・・楽山の姑息です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·2月22日
自分を見失いそうになるほど忙しいとき、苦しいときは、ちょっと無理をしてでも、自分が好きなことをするための時間をつくりましょう。自分が本当にしたいこと、心の底から望んでいることさえ忘れなければ、自分を見失うことはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:56 · 2021年2月22日·Twitter Web App
 
忙しくなくても、自分を見失っている楽山です。だから、深く考えもせずに、他者の口を利用します。考えて新しく記事を書くのではなく、コピペして、見境もなく、多量の、多数の記事を書いていることを既に報告しました。まるで発作か衝動のようです。
 
「本当にしたいこと」「心の底から望んでいること」というのには、自分を律すること、考えることが、必須であります。楽山は、欲望しているに過ぎません。空恐ろしい敵意と悪意であります。楽山のような嘘吐きは、神の祝福から、最も遠い人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
·2月23日
コメディアンに宗教をジョークにするのをやめさせたいって?だったら宗教がこんなに素晴らしいネタの宝庫でいるのをやめたらいいんじゃないかな。トム・バラード(オーストラリアのコメディアン)
午後5:53 · 2021年2月23日·twittbot.net
 
このツイートを選んで引用して、楽山が言いたいことは明らかです。宗教なんてお笑いのネタだと揶揄したいわけです。底意地の悪さが、引用にも出てくる例でしょう。楽山こそ、地獄の火の車なのです。巻き添えを求めて、だまそうとしてきます。
 
宗教の勘違いがもたらす、おかしな話というのは、恐らく、いっぱいあるでしょう。しかし、それは、勘違いによって起こるものであり、楽山のように、本来の宗教の根本を好きなように揶揄していい、悪口を言って否定していい、ということの根拠には決してなりません。
 
楽山は、悲劇が起こるから神はいない、霊が分かるっぽい自分が偉くなれないから神はいない、と言っているに等しいことを、今まで書いてきたのです。言い換えれば、神はいない、自分は偉い、と言っているようなものです。
 
そう思わせたくて、楽山は、自己顕示欲から、丁寧語の詭弁を、数え切れないほど発してきました。楽山は、実に、自分の家には柱も床も塀も焼け焦げているのに、隣りの家が、汚いと言い、貧乏だと言って、笑っているような人です。放っておくと町が焼けてしまいます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
陣内 侘助
@muAscLTeYb2WlXo
·2月23日
画像:
君らの神の正気は
一体どこの誰が
保証してくれるのだね?
 
神の正気は、楽山とは何の関係もないわけです。
つまり、楽山などに全能者の心配は無用です。
 
楽山は自らの正気を疑うべきです。
神も、人も、誰も、保証しないからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」では決して説明できないような、罪と悪と偽善を重ねて、一片の正直も表したことのない楽山です。つまり、人間であり続けることを、ずっと拒み続けています。代わりに、霊が分かるっぽい?という教祖願望に至り、ますます、空想パニックに堕ち続けているのです。
 
楽山は、自分の不出来を棚に上げたまま、他者を批判してきました。それこそ、遅くとも9年前から、実際は、もっと前からでしょう。「反省。とほほ」と書いた後も、変わりはありません。そして、最近、さらに醜い悪口を発作的に並べています。楽山の悪は、偽善を伴って、不治と判断するしかないのです。
 
「st氏からつきまとわれる」「前々から、st氏には、誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…などが多すぎることは指摘していますが、残念ながら今回も同じ感想を持ちました。」・・こういう書き方ですが、何も根拠を示せない楽山です。しぶとく、しぶとく、批判を重ねるしかありません。
 
 
 
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  楽山の無理と我執
 
 
 楽山日記(LD)
 真理と言葉
  2014年03月03日
 
 
楽山の、7年前の記事ですが、短くて、中身は、さらに短い、というより、中身のない文章で、楽山の精神病理を表すデータになると思います。書いたけど、めんどくさくなった、しかし、自分の書いたものだから何かあると思う自己愛によって、載せた・・ということでしょうか。
 
真理とは、言葉では語り尽くせないものだといいます。とすると、真理として語られた言葉は、真理そのものではなく、真理そのものの一面を言葉で表現したにすぎないのでしょう。
 
言葉は、伝達のための暗号です。だから、国によって違います。楽山は、真理という言葉で、何を表しているのでしょう。真理を伝えるのには、言葉以外の方法も、芸術関係や、ドキュメンタリーの映像など、ありますが、言葉に頼らないでは、伝えにくく、生きにくくもある世界なのです。
 
楽山は、言葉以外の方法を身に着けているのでしょうか。一度も見たことがありません。「一面を言葉で表現したにすぎない」と言って、何を伝えたいのでしょう。この楽山の言も、私の言も、言葉を使って書いているのです。主旨が不明です。
 
霊感のことでも言いたいのでしょうか。しかし、この記事、後に2行書いているだけで、他には何も書いていないのです。発言の意図が不明です。つまり、数行の作文、不十分であり、的を外しているということです。このような、主張の不明な作文が、楽山の特徴です。
 
そうであれば、真理として語られた言葉を、真理そのものだと思い込むことは、貴人の肖像画を貴人本人と信じ込むくらいに愚かなことかもしれません。
 
真理を言葉で書くことが、愚かなことなのでしょうか。だとしたら、何によって表せというのでしょう。それを言えない以上、この作文の意義はないと判断されます。このように、楽山は、奇を衒(てら)って、常識を否定して、いい気になって・・、それだけということが多いです。
 
楽山が言いたいのは
1.自分が、いい加減なことを書いてきたことの不可避の言い訳。
2.霊が分かるっぽい自覚から、霊感を主張したい。
といったことが考えられます。
 
それにしても、中身のない文章ですから、けなすだけで、それも言葉をけなすだけで、書く意味はない文章だと思います。楽山の文章は、表面的に、もっともらしい体裁だが、よく読んでみると無意味という特徴があります。だから、私は、何度も、丁寧語にだまされないように、と書いてきました。
 
楽山の世界は、虚無なのだと思います。その表れなのかもしれません。基本的に、拠って立つ所がなく、言葉も、楽山の存在も、何もかも虚無だから、好きなことを好きなように言い放ち、反省もせず、責任を負わないでいられるのでしょう。
 
楽山は、仏様の気持ちが分かるという妄想様の体験を持っています。自分が、言葉で何かを表すことが出来ないから、一般に言葉は空しいことにして、霊能によって真理を伝えられるという自負でしょうか。しかし、楽山に、霊感インスピレーションの、ひらめきや洞察を感じたことは、皆無です。
 
楽山が書いてくることは、通念的なことを冗長になぞってくるか、理路や意味が妄想や偏見によるもの、そして、作為の嘘と詭弁、という類のもので、真理について、有益な情報も、感動も、何か参考になることさえも、受け取ることはなかったのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDにおいては、真理など、自分が分からないことは、自分の無能でも無恥でもなく、むしろ、逆で、本質的に分からないのだということを見抜いた自分の優れた洞察だとでも思うのでしょう。
 
つまり、都合の悪いことは、皆、他者のせいにするわけです。こういう人と付き合うと、疲労し、人格を破壊されるという根拠でもあります。実際には、自己愛性人格障害の楽山にだけは分からないことがあります。深い情感、羞恥心、悔いること、改めること、など、つまり、良心の産物です。
 
 
 
 性善説と性悪説
 楽山日記 2014年03月03日
 
 
楽山の、善悪についての、お粗末な感慨です。人間は、善だから、悪だから、ということが決まっているから生きているわけではありません。
 
「世の中、捨てたもんじゃない。根っからの悪人はいない。人は素晴らしいものだ」と思うときもあれば、「“義人一人もなし”とは本当だ。エゴイストでない人はいない」と思うときもあります。性善説と性悪説、どっちが正しいのかよく分かりません。
 
性善説と性悪説、どちらかが、正しいということなのでしょうか。おかしいです。楽山は、人間は、良心もあれば、悪意もいだく、言い換えれば、動物より高等で、かつ、動物より悪意をいだく、ということが、理解できないのでしょうか。
 
 (聖書より)
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 
 (ローマ人への手紙3章10~12節)
 
ローマの人々への手紙ということです。意味は、完全なる善は神のみであり、人間には、罪なき人はいない、ということでしょう。楽山のように、自分の非を認めない者は、神の存在を知ることもないということにつながります。
 
なのに、楽山は、神への不満と、神の不在を、詭弁と妄想をもって語り続けています。まさに、人間としての、義と悟りから、最も遠い者です。偉いと讃えられることもなく、有能と褒められることもない者が、ひねくれて、他者のせい、神のせいにするときの、偽善の陰湿な路地裏です。
 
ただ人に対して、やさしい目を向ければ性善説が正しく見え、厳しい目を向ければ性悪説が正しく見えるような気がします。
 
楽山の、やさしい目や、やさしい言葉や、コメントに寄せられた、やさしい人柄は、楽山の三文芝居であることが明らかになっています。やさしさの実質が、書いたものにさえ、その内容と文脈において、皆無だからです。
 
ゆえに、楽山は、性善説を知りません。また、罪を認めないのだから、性悪説も知りません。他にも、神、信仰、救いについても、知らないことを、自覚せず、自己中の、知ったかぶりだけで、学者気取りで、安い芝居で、書いては破綻を表している実情です。決して真に受けないでください。
 
 
 
 善人も、悪人もいない?
 楽山日記(LD)2014年03月04日
 
 
楽山は、以前にも悪を指摘されていたのでしょうか。自己正当化に必死で、しかも詭弁です。
 
「この人は善い人だ」と思っていた人が悪いことをしたり、「この人は悪い人だ」と思っていた人が善いことをしたりすることがあります。
 
結局のところ、人はその時々によって、善いこともすれば、悪いこともするのであって、そう簡単には「この人は善人だ」「この人は悪人だ」などと決めつけることはできないものなのでしょう。
 
完全な善は神のみであって、人間には、完全な善はないということです。悪魔は、神に勝てませんから完全でない悪ということでしょう。悪人は、どうでしょう。精神病質サイコパスは、乱暴とは限らず、やさしい言葉でだましたりもします。善の部分は、なかなか見つからない病質です。
 
楽山は、自分を悪と決めつけるなと言いたいようです。完全な悪もないと思っていましたが、楽山という人物には、悪意の嘘と詭弁ばかりが目立っていて、善なるものの欠片も見たことがありません。
決めつけではなく、悪を否定するための善の根拠が見つからないということです。
 
楽山は、あちこちに、学者気取り、評論家気取り、読書家気取り、そして、同情芝居、などで、自らを飾り、善人アピールをするのですが、無反省・無責任で、言ってることが嘘偽りなら、誰も信用など出来るわけがありません。
 
 
 
 「わからない」という幸福
 2014年03月04日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、答えられない人を、幸福だと言っています。しかし、楽山がしてきたことは、そういう人への、誘導のためのインチキアドバイスでしかありません。経過が、すでに長い間、楽山の発言を否定しているのに、楽山は、この時も、今も、自己正当化と誘導の詭弁を弄するのです。
 
愛とは何か?
死とは何か?
真理とは何か?
人生とは何か?
信仰とは何か?
こたえのない問いに明確にこたえられないのは幸福です。なぜならそれはマインドコントロールされていないこと、考える能力があることを意味するからです。
 
答えられないのと、知らないことにお構いなしというのは違います。ゆえに、後者の場合、考える能力がない可能性を考えてみるべきです。すなわち、答えられないのは、必ずしも、上の「考える能力があることを意味する」とは限りません。楽山の詭弁の褒め言葉にだまされないでください。
 
ゆえに、答えられないのが幸福と関係ないのは、当たり前です。むしろ、幸福なのだと誘って、考える能力を奪い、自らの奴隷のように見なしてゆくような、自己中のペテン師を警戒するところだということです。楽山は、いつも、明確でない嘘と詭弁と刷り込みを用意して欺いてきたのです。
 
 
善、悪、偽善(小)

善、悪、偽善
 
 
(2021年10月01日)
 
 
 
キーワード:悪
 
 
  風に開く
 
風はひととき息になって
わずかの冷気を与え
わずかの熱を奪い
失意の胸を過ぎて
街角をさまよう
風は善し悪しを知らない
風はどれだけの人が
身を任せているかを知らない
風にとって自然に開く扉はないから
閉じられた扉の前で
風は乱れ分かれ
町を過ぎて
波の上を
川を過ぎて
森の中を
針葉樹のあいだを
連山の尾根に
吹き上げ
吹き下ろす
風は扉になって
自然に向かって開かれてゆく
 
 
  医者だった頃・三段論法
 
時々入院はするけれど
あの頃は気持ちも落ち着いて
調子は悪くないはずの患者さんが
医局にやってきて医局秘書さんに尋ねた
「○○先生はどこな」
「○○先生は今は会議です」
「・・・だけん、どこな」
「だから会議って」
「・・・だけん、どこなって」
と患者さんは粘った
 
口調は割と穏やか
落ち着いてはおられるようだが
○○先生は会議
会議中は会えない
ゆえに○○先生に今は会えない
という
三段論法の常識部分が不十分で
会議なら会議場へ行けば会える
という論理らしい
 
デスクで聞いていた私は言った
「会議で忙しかけん今日は会えんよ」
かくして三段目まで補足され
「あ、そですか」と言って
患者さんはあっさり帰った
「あれ?」と笑いながら
医局秘書さんは首を傾(かし)げる
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
 
 
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  脅し? (再)2
 
 
宗教が
あるいは宗教を利用して人が
人を脅すというのは
例えば
このままでは祟りが来ますよ
といった文言で
カルトにおいて
おこなわれることだろう。
 
信仰においては
人が人を脅すのではなく
神が人を脅すのでもなく
 
人は神を恐れるべきである
というのは
全知全能の御方と信じた神への
キリスト信仰の主軸である。
 
決して
恐れさせて何かをさせようということではない。
 
信仰者は人間であり
明らかに全知全能ではなく
神に比べて
はるかに劣った人間であるから
神と人の関係を語る上で
神が上で、人が下
という節操のことを言っている。
 
 
反対意見を悪口と同じように見なして
キリスト教を
批判禁忌という自己中の命題におとしめて
批判されると
人が人を脅してはいけない
などと
批判を脅しや悪口と同じと見なすのは
偽善者の詭弁の所業です。
 
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)
4:25
こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 
4:26
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27
また、悪魔に機会を与えてはいけない。 
4:28
盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 
4:31
すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32
互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。
 (エペソ4:25-32、新約聖書)
 
 
真実を語りなさい、ということから、真実を求めることの大切さを伝えています。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。ということから、復讐という恨みに基づく行為を戒めています。
 
悪い言葉を口から出してはいけない、というのは、悪意だけによる言葉、悪口だけを語ることを戒めています。批判は、相手の悪の指摘である。怒りはコントロールすることが大事なのであって、悪を見ても怒らないようになってしまうのは、心の鈍麻と破壊であり、同時に、偽善なのです。
 
悪口だけを言うこと、嫌がらせを言うこと、当てつけること、ケチを付けること、これらは、批判とは全く別物で、悪意だけの産物です。これを同質であるかのように言って、偽善者は、逆に、自分が批判されているにもかかわらず、おとしめてくるのです。
 
聖霊の証印は、人が、その凡庸なる善意によって、いちいち確かめることはできません。即ち、人は、その凡庸なる善意によって、批判禁忌を定めることは出来ません。つまり、結果を神に任せる信仰があれば、批判禁忌ではないのです。批判禁忌は、むしろ、信仰を偽善化する悪口です。
 
パウロが言っているのは、一切の悪意を捨て去ることは、恒常的には、不可能と、痛いほど知っているからでしょう。背教の裏切りは、一度だけではない、ゆえに、悪意に支配されてはいけないと言っています。いけない、という説教であって、これを、戒律と受け取ってはいけません。
 
情け深く、あわれみ深いものとなり、互いにゆるし合う、これは、理想です。パウロの愛の賛歌と同じであって、それを否定形にしたものが、現実の有り様であることを忘れてはいけません。
 
聖書には、愛の賛歌をはじめとして、理想を述べられているところがあります。
理想は求めるべきですが、
当為(「べき」の付くこと)と事実を、区別してください。
すなわち、理想と現実を区別してください。
 
キリスト信仰は、善に、特に、自らの善に、のぼせ上がることではありません。キリスト信仰は、陶酔気分を与える信仰ではありません。のぼせ上がって高みから物を言う偽善者の口車に乗ってはなりませんし、口車になってはいけません。
 
 
まず批判が脅しと違うのは
根拠と理由があって否定するということであり
 
批判対象が
神を恐れない言動であるという根拠を示して
指摘するにあたって
遠慮してはいけないということです。
 
人が人を批判してはいけないなら
このことは
人を批判する人を批判してもいけなくなり矛盾します。
 
人が人に間違いを指摘しなくなったら悪がはびこります。
批判禁忌は、不完全な人から学習と成長を奪い、停滞へ誘う偽善です。
 
今のキリスト教内外には、批判されないカルトが蔓延っています。
批判禁忌という偽善は、カルトが喜んで批判者に向ける常套手段です。
 
人が人を批判しなくなって
神への恐れを言わなくなっても
神は人を叱って脅してくださるか
というと
言うまでもないが
神はひょいひょい顕れて
いちいち人を脅したり怒鳴ったり戒めたりはして下さらない。
 
つまり
現象としては
私たちは沈黙の神しか知りませんし
それで神を知ったと思ってはいけないでしょう。
 
神は恐るべき御方であり
悪魔が優しそうに誘惑してくるなら
一見、悪魔のほうが付き合いやすく見えることもあるでしょう。
私たちには神と悪魔の区別もなかなか出来はしないのです。
 
起こった現象の
どれが神の意志で
どれが神に逆らう意志であるか
神は、いちいち正解を教えて説明してはくださらない。
これが地上に表れる基本的な現象です。
 
神と人の関係において
神は、人が恐れるべき存在
ということが信仰の主軸であるから
人が信仰を伝えるときには
この関係も伝えなければならない。
 
批判を禁忌とすることは成長を拒むことです。
誰もが批判せよということではなく
意欲があって批判する人を
批判ゆえに罪に定めるのは間違っているということです。
それこそ、逆に、人が人を裁く行為なのです。
 
やさしい神を慕うだけでは信仰にならない。
 
戒め懲らしめる神を恐れるならば
神を恐れないで嘘を吐く者たちを受容してはいけないのです。
 
これを私は
信仰の節操あるいは弁えと呼んでいます。
 
神よりも劣っていて
不完全で罪深い私たち人間は
直接、神に談判することなど出来ない存在です。
 
神を
どこかにいる徳の高い優しいオジサン
と同じように思ってはいけない。
 
全知全能の神に対して
ご機嫌取りの讃美や
世辞の誉め言葉や丁寧さは通用しない。
 
正直さ以外は何も通用しないのが神であります。
 
これが神への恐れであり
恐れると書いていたものを
畏れると書き替えてはいけない理由です。
 
その恐るべき神に祈るときには
愛のために命を惜しまない救い主
イエス・キリストの御名を通して祈るわけです。
 
 
キリストにおいて成就された救いとは
人への愛と共感と同伴であり
神への執り成しであります。
 
したがって
神の前に不正直や
ましてや故意に嘘を吐くことは赦されないが
 
神の前に
あるとき隠したり嘘を吐いたりしても
別のときに罪を認め、悔い改める者を
神は見捨てたままにはしないし
その機会は一生を通して与えられています。
 
そこに神の
人の正直さに対する限りない寛容さが表れています。
 
神は人に対して
真善美の高みに立つことを求めるのではなく
つまり善悪の善を条件とはせず戒律ともせず
 
神の前に努めて正直であることのみをもって
神が人を救うということが
キリストの負いやすいくびきであり
キリストの愛であり
キリスト信仰の芯となっている。
 
 
聖書を読んで
神に祈るとき
努めて正直であろうとする誠実な信仰があるならば
人の前でも
だますような白々しい悪意の嘘は吐けなくなる
ということをもって
神への正直な告白の祈りが前提であれば
神のほうを向く生き方は
悪ではなく、もちろん偽善でもなく、
真善美の方向に
完成はしないものの
導かれるだろうということです。
 
真善美は目標であり、経過に過ぎません。完全な真善美は、人には不可能です。もし、可能であったなら、地上は、歴史的に、また、現在のように、乱れることはないはずです。
 
信仰は、神の前で、正直に祈ることです。言い換えれば、正直に、祈り願う相手、即ち、神の存在を知ることです。全能者である神ですから、目で見て知るのではないために、希望として縁(よすが)として、信じ仰ぐということになります。
 
 
正直の反映

正直の反映
 
 
(2019年05月29日、修正再録)
(2021年06月20日、再録+)
 
脅し(おどし)
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
 
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
 
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
 
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない眼差しに
主よ、あなたの御名によって
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私と言う名の人間が
父の手によって救われますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  列
 
いつか加わるであろう
同じ列に
 
とりとめのない思いを抱き
通じない言葉を話し
散乱したベクトルを持ち
悪しき者には
容易に切り捨てられ
しかし団結することのない
ひとつの群れ
 
やがて口を閉ざし
あきらめて並んでいる
長い長い列
いつか加わるであろう
同じ列に
 
曲がった背中と
突き出た口唇の影に
疲れを残しながら
ゆっくり歩いてゆく
 
列の先には
さびしげに横たわる
聖者が居るだろうか
青い霧の中に
道は向かっている
 
 
  友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
 
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
 
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
 
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
 
 
(90年代か)
 
 
 
 雑談
 
MLB大谷選手のホームランの中で、最長の140m弾は、
ただの、カーン、ではなく、カアーンと聞こえました。
とても気持ちのよい響きの、アーン、でした。
 
 
 
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