ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:嘘

 
  嘘の履歴2
 
 2020年03月01日 楽山日記(LD)
 間違いがある書物は、無価値なのだろうか? 
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 再び、加筆して批判。
 
 
偉大な人の間違いは、間違いを補って余りあるような業績があるから、なお、偉大なのです。楽山に、あり余るのは、嘘と詭弁の、うんざりするような履歴だけです。
 
楽山は、このような暗示的な文章で、なにげなく、もっともらしく、怖い印象を刷り込んできます。そして、嘘を吐いている自分を、間違っていても正しい、と言い始めたのです。それが、今に始まったことではない、楽山のやり方です。
 
『宗教的経験の諸相』を読んでいて、このくだりを読んだときは、思わず膝を打って「やった!」と言いたくなるほど共感できた。
書物というものは、おのれの運命の危機と闘いぬいた偉大な魂をもった人間の内的経験の真実の記録でさえあれば、たとえ多くの誤謬や激情が含まれていようとも、また人間の故意の作為がそこにあったとしても、りっぱに一つの啓示たりうる、ということを認めるものであれば、聖書ははるかに有利な評価を受けることであろう。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 」
 
楽山の言は、おのれの運命の危機と闘うことから徹底的に逃げて、先人の偉大な魂を悪用するところの、偽善者の表面的ボンヤリ言語の虚偽の記録であるために、誤謬ではなく、作為の嘘と妄想観念であり、また楽山独特の故意の印象操作、刷り込み、詭弁を弄するために、啓示どころか、一つの意見としても、悪意の企みに満ちていて、成立することは決してありえず、人間の醜さの掃きだめのようなものになってゆくのです。
 
楽山は、自分が間違っていることを、正当化するために、一生懸命書いたから間違っていてもいいんだよ、というふうに読解を捻じ曲げて、学者の聖書に対する評価という能力を、自分に当てはめようとしているのです。それは、そのまま、楽山の、ねじけた根性の病理を表しています。
 
もう一度書いておきます。偉大な先人の間違いは、間違いを補って余りあるような洞察という業績があるから、なお、偉大なのです。
 
楽山は、このことを、気づかないのか、作為的にか、書きません。何故なら、訂正することもしない楽山に有り余るのは、業績とは真逆の、嘘と詭弁の、うんざりするような履歴だけなので、聖書を理解できないのに当てはめるなら聖書と本の悪用であり、自己正当化に引用するのなら、そのまま、、愚かさを隠蔽するための偽善なのです。
 
楽山には、「人間の内的経験の真実の記録」など、どこにもありません。楽山は、全然、違います。真逆です。人の良心を、平気で、裏切り、踏みにじる男です。
 
間違っても正しい、という、めちゃくちゃな矛盾律を、主張していることが、楽山の、読書にも表れるてくる幼児性なのです。
 
聖書には歴史的に実際にあった出来事が書いてあり、間違いは一切ないという考え方もあるだろうけれども、その記述はすべてが歴史的事実そのままであるとまでは言えないが、だからといってそのことを理由として宗教的古典的価値までも完全否定されるとは限らないという考え方もあるだろうし、自分はどちらかといえば後者寄りの立場なので、本書のこの箇所には大いに納得できる。
 
楽山は、決して宗教に価値など認めていないことが、2年にわたって表れてきました。このように宗教に賛同するようなこという舌で、また、神を否定してくるのだから、相手にしてはいけないのです。
 
聖書から、何も受け取らず、文脈も読めず、ただ、史実かどうかだけに、趣味的興味をもって、舌でベロベロと舐めるように軽く読んだつもりになっている自己満悦から、高名な学者の言うことを、自分に都合よく曲解して、聖なる書と言われるものを、自己正当化という欲望の痰ツボにしています。楽山の書く文章は、その痰ツボに、ばい菌だらけの黄色い唾を吐く行為であります。
 
聖書の価値は、古典的価値などではありません。生きるために必要な縁(よすが)として読んでいる人もいるわけです。それを嘲笑う楽山は、聖書の価値など全く分からない人です。
 
楽山は、聖書の価値など全く分からないことが今まで表れてきたのに、分かっているかのように、上から見下ろして笑うだけの、批評家気取りに過ぎません。新しいこと、身近なこと、自分のこと、何も分からないのに、古典的価値を云々する資格はありません。
 
またこの考え方は聖書以外でも通用するように思う。たとえば、物語は、間違いや破綻があったとしても、その価値を失うとは限らないというのは常識であろうし、音楽の方面では、「ベートーベンは偉大であったゆえに、その間違いも偉大であった」という批評があったりもする。おそらくこれらは真実の一端を示しているだろう。
 
醜い自己正当化が続いています。どういう根性を持ったら、聖書や、ベートーベンをネタにして、自分もそうだよ、だから、自分が間違っても偉大だよ、・・みたいに、おのれを正当化するような、汚い真似ができるのでしょう。こういう我執からの引用が、楽山の偽善地獄のあゆみなのでしょう。
 
間違いは少ない方がいいし、間違いを減らす努力は必要ではあろうが、でもそれ以上にもっと大切なことがあり、これこそがそのものの最終的な価値を決定するというのは本当だと思う。
 
「もっと大切なことがあり、これこそがそのものの最終的な価値を決定するというのは本当だと思う」・・楽山は何を表したつもりでしょう。決めつけだけを書いて、表現として恐ろしく抽象的な誉め言葉に過ぎず、なまぬるくて気持ちが悪いです。
 
間違いと、故意の嘘は違います。
 
楽山は、理路と情緒がないのに、作為と悪意だけがあるために、先人の書いたものや人格について、無反省に、自分に都合の良いところだけを、全体の文脈を弁えもせず、先人に対して畏敬の欠片もなく、つまみ食いのように、褒めまくったり、笑ったりしている盗人です。
 
楽山の言には、原初的価値も、最終的価値も、将来の成長も、全く見られません。体のいいだけの丁寧言葉で、人を、批評し批判しておきながら、わが身を見ない楽山は、どこまでもどこまでも、楽をして、いい気持になりたいだけの、楽な山登りの高慢以外ではなく、山から沼に堕ちたものであり、一途に有害であり、汲み取るべき価値など、微塵もない迷惑物質です。
 
*追記 2020.3.1
いつものことながら、書名は失念してしまったのだが、とある本で、聖書の記述に矛盾があることについて、それは意図的なものだとする話を読んだことがある。
もし聖書に矛盾がなく、一つの正しい解釈が成立し得るとしたならば、必ずや自分は聖書を正しく解釈し、その戒めを守っているとして、自己を誇る輩が出てくるだろうから、あえて矛盾した記述をすることで、唯一の正しい解釈を打ち立てることができないようにし、そのような輩が出ないようにしているのだと…。
 
楽山は、自分の矛盾には全くの不感不応でありながら、いつも、他者をネタにして、他者を悪者にして、それを憐れむ自分としての自己正当化を図ります。楽山が、他者を褒めるとき、それは、楽山にとって利用価値がある、ということでしかありません。汚い欲望の根性、全開です。
 
楽山が聖書を褒めることには、まるで信頼性がありません。楽山は聖書の心を理解していないからです。なのに、前に、けなしたことを中和するかのように、褒めておけばよいじゃろ・・とばかり、気安く、生ぬるく、舐めているのです。この粘着性は、ナメクジかヒルのようです。
 
聖書の解釈は多様ですが、楽山の話にだけは、全面的に不同意です。それは、楽山批判を始めてから変わることのない方針であります。楽山は、平気で嘘と詭弁を振り回す精神の詐欺師です。
 
自分はこれを読んで、聖書に矛盾があったとしても、さほど気にならなくなった。ただひとつ気になるのは、こういう考え方は、カルト教団が知れば悪用しそうだということだ。カルト教団は教義に疑問を持つ信者には、こんな風に説明して煙に巻きそうだなと。「教祖様の教えに、矛盾があるように思えることもあるかもしれません。でもそれは決して、教祖様がその場その場でいい加減なことを話していたからだということではありません。教えに矛盾があるのは理由があるのです。その理由とは…」
 
今、まさに、楽山が、自己の正当化と誇大化のために、自己満悦のために、悪用しています。
 
他者を見ても、自分を見ようとしない楽山です。ここまで、平気で、詭弁の策を弄する楽山には、責任感も罪悪感もないので、人の矛盾を指摘する資格はないと思います。その原因は、楽山の自己愛性パーソナリティ障害であります。
 
「…」で、ごまかしているので、説得力皆無の、中身のない文章になっています。楽山にとっては、自己正当化に結び付けたという慢心だけ得られれば、理路はどうでもよいということが表れています。
 
宗教の聖典、教義に矛盾があったからといって、その宗教的価値が全否定されるわけではないのは当然ではある。でもこの考え方は時と場合によっては、本来それほどの価値がないものにさえ価値ありと誤認させることにもなりかねない危うさが含まれていなくもないわけで、この点は注意が必要である。
 
つまり、「価値がないものにさえ価値ありと誤認させること」、これを当てはめようとしているのは、まさに、楽山だということです。
 
間違いというより欠損と嘘だらけの楽山を信用してはいけないと思います。注意・警戒だけを向けるべき対象です。楽山に、決して近づかないでください。楽山は、同類になることを求めて、価値があるかのような、インテリぶった、もっともらしい文章の体をもって、近寄ってくるのです。
 
このようにして、嘘吐きや詭弁屋というのは、名のある他者のことを述べて、間違ってばかりの自分も正しいと刷り込むような書き方が得意のようですが、結局は、自分を斬ることになるのです。
 
そこを明らかにして、そのうえで考えるならば、楽山を、間違っても、丁寧な説明ですね、学者レベルですね、とか、たとえ社交の世辞でも、褒めて言ってしまうことのないように、注意・警戒が必要です。
 
楽山は、軽い世辞で、安上がりに舞い上がる人です。それが、ボンヤリ言語です。批判的に読めない人は、無視してください。
 
学者の名前を出して、その人の本に書いてあるからお墨付きであるかのような書き方で、楽山は、自己正当化の誤謬を故意に認めさせるように、言葉だけ拾って歪曲しています。まるで、笑いながら嘘を吐いて、世辞を受け取ったら悦ぶというのが、既に目に見えるような、気色の悪い自己顕示欲の表れですから、けっして真に受けてはいけません。
 
 
ねっからうそつき

根っから嘘吐き
 
 
(2020年03月03日、同日一部修正)
(2021年03月06日、加筆して再録) 
 
 
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  楽山の偽り
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
  抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、批判する資格はないと思います。
 
楽山の、約2年半の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。
 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 
ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。
 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、あらゆる問題を無視する人です。
 
教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。
 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いて、せいぜい、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。
 
恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために、批判して、のちに、賛同めいたことを言う、というような、いい加減さで、ごまかしているネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。
 
批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖気取りなのかもしれません。カルトの犠牲者ではないと思います。
 
今言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。
 
古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。
 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、注意してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。
 
ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。
 
こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としてゆくつもりです。
 
 
偽りの柔和芝居

偽りの柔和芝居
 
 
(2021年02月26日)
 
 
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  楽山の上から目線
 
 2021年02月21日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 信仰と現実(ツイート保存)
 抜粋して批判。
 
 
性懲りもなく、次から次に、何かを書いてくる楽山は、そのたびに、恥ずかしい悪名のHNをさらすことになっています。
 
上から目線で、アドバイスふうに、刷り込んでくる楽山は、自己愛・自己中による人格破綻の進行する様を表しているに過ぎません。
 
よく知りもしないHSについて、私は、とやかく言うつもりはありませんが、宗教を知るだけの器を持たないのに、信仰について何も分かっていないのに、的外れのまま、資格も視野もなく、とやかく言ってくる楽山に対しては、批判を貼りつけるしかありません。
 
*内面
想像するに、上のような状況にある時の信者の内面は、次のようになっている。
信仰心旺盛のとき…「HSの教えは本物だ。人にはみな仏性があるのだから、この教えが本物であることは分かるはずだ。たとえアンチであっても、この教えを知ったら改心しないではいられないだろう」と奇跡の改心を信じている。または「自分はアンチを折伏する使命がある」と宗教的使命感に燃えている。
現実主義、合理主義に変わるとき…HSの教えを説いても、アンチから反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ、奇跡の改心を信じなくなり、「アンチと不毛な議論をしていても仕方がない。自分の話を聞く人にだけ話そう。救える者から救ってゆこう」という現実主義、合理主義的な路線に転換する。
 
楽山が言っている「立て板に水」とは、どういう意味でしょう。
 
(ネットより)
立て板に水(たていたにみず): よどみなく、すらすらと話すことのたとえ。
 
「反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ」という表現で、意味が通じるでしょうか。切りがない徒労、無駄に時が過ぎる、という意味を言いたいのでしょうか。辞書くらい引いたらどうでしょう。
 
楽山の、"横板に雨垂れ" のような記事です。言うたびに疑問と誤謬だらけの表現と内容の、楽山の言葉が詰まってゆくようで、先が見えません。
 
楽山にとって、旺盛な信仰は、現実主義や合理主義と対立するものなのでしょうか。むしろ、楽山の宗教観が、現実や合理から乖離していることを表しています。前に書いたと思いますが、楽山は、信仰を、非現実で、非合理の、夢・幻・お伽噺として見ていることが表れています。
 
信仰は、この世を生きるためにあるものですから、楽山の信仰話が、いかに甚だしい先入観と偏見で出来ているかが分かります。すなわち、こういう楽山のような人の話を真に受けていると、信仰者は、現実離れしてゆく非合理のために、堂々巡りとなり、無駄に疲れるということを表しています。
 
人間は、現実の中で生きているわけですから、現実離れしたり、合理を考えなくなったりすることは、即、生きることが困難になることではないでしょうか。そうなっているのが、楽山なのです。
 
なお、信仰というものは、人が正確に伝えられるものではありません。楽山は、深みのない教条主義的な宗教観か、夢物語の奇跡信仰という概念しか持たないので、教えを伝える奇跡の改心という魔法を信じることを信仰だと思い込んでいます。いたずらに混乱させる楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、安易な概念から、軽口をたたいて、分析して整理したつもりになります。信仰に必須であるところの心の深みがなく、共感性を持ち得ないからです。
 
楽山は、誰の心配もしていません。聞く人を自分より劣った者と見なして、上から眺めることを楽しんでいるだけです。相手にしないでください。
 
ただし自分の説法能力、感化力の乏しさは反省しない。自分の言葉を受け入れぬアンチはけしからんと、すべてアンチが悪いとする。
 
楽山の言に、説得力が見られたことは、一度もありません。楽山は、嘘と詭弁で誘導することを、説法能力とか感化力とか思っているのでしょうか。楽山のそれは、だますことです。
 
楽山は、自分の言葉を受け入れない者や否定したり批判したりする者は、けしからんと反論や批判をする代わりに、話にならないと無視しますが、いちばん話にならないのは、楽山その人であります。
 
言っておきますが、楽山は、すべての不祥事を人のせいにします。楽山は、非を認めたことがありません。楽山が、今まで、言ってきた「反省」「トホホ」「共感」などの謙譲言葉~芝居は、言葉だけで、全く内実がありません。
 
アンチに関わってきては退散することを繰り返す信者は、この二つの心理状況を行ったり来たりしてるのだろう。
 
楽山の、自らを一度も省みることなく、他者を上から目線で眺めて、批評家気取りで意見する、という姿勢と態度は、そのまま、本当の先生は自分だと言っているのと同じです。
 
「信者は、行ったり来たりしている」・・ここに最大級の軽蔑が表れていることを見逃してはいけません。楽山には、思いやりや共感という高等感情がないので、気遣いが出来ないのです。丁寧語を使っても、性根は、とても冷酷です。
 
*信仰の敗北
ちなみに私は無宗教なので、信仰によって考えるより、現実主義、合理主義寄りの考え方をしている。奇跡の改心は絶対に無いとは思わないが、人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない。
 
楽山は、自己愛性の人格の異常です。宗教を理解していませんが、自分のお粗末な頭と心だけを絶対化して宗教・思想を語ります。霊が分かるっぽい?自覚があり、ホラー趣味と同レベルで宗教を語り、現実主義とも合理主義とも交点すらありません。
 
「奇跡の改心」について「絶対に無いとは思わないが」と言っている楽山の頭の中にある "奇跡" は、魔法みたいな奇跡だと思います。その前提で、「絶対に無いとは思わないが」と奇跡には否定的であることは、心の奇跡を否定する先入観につながります。心というものを知らない者の言であります。
 
「人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない」と言っている楽山は、自分で言っている通り、通念と先入観の絶望的奴隷として訂正不能に陥っています。ゆえに、そのことは、学習不能となって、信仰の敗北というより、楽山だけの絶望的敗北となっているのです。
 
>私はこういう考え方なので、
 
楽山の考え方は、あってはならない考え方です。現状が、うまくいっていないことを自覚することは、進歩し成長するために必須なのですが、楽山には、この自覚がないのです。
 
KENTO氏がアンチから距離を取ろうとするのは理解できる。特定の信仰を他人に押し付けようとするのも、押し付けられるのも迷惑なことであるし、そういうことから離れるのはよいことだ。でも信仰者がこういう考え方をするようになるということは、ある意味、信仰の敗北ではあろうし、このことはきちんと自覚してほしく思う。
 
信仰は、まず、「押し付け」られるようなものではありません。楽山は、押し付けていないつもりのようですが、代わりに、嘘と詭弁で刷り込んできます。「とても迷惑なこと」です。
 
押し付けはよくないと明確に書くべきところを「そういうことから離れるのはよいことだ」と書けば、宗教から離れる印象になります。乱暴な理路と筆致です。
 
「信仰の敗北」「このことは自覚してほしく思う」・・楽山は、信仰について、その望ましい在り方も、勝利も敗北もを理解しておらず、信仰を感受できてもいないのに、さも分かってるふうに言ってくる、ということを忘れないでほしいと思います。
 
繰り返しますが、押しつけはよくないと言う楽山は、嘘と詭弁で、だましてくるのです。自分を大切にしてください。決して、楽山を、相手にしてはいけません。楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
 
上から見る者

上から見る者
 
 
(2021年02月22日)
 
 
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  汚い読書2
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。
 
しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。
 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。それは、宗教でも信仰でもなく、超常の魔法を意味しています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解によるものではないと思います。
 
まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、
 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかということになるのです。
 
(ネットより)
【超自然主義】 の解説
《supernaturalism》哲学・宗教学などで、理性では説明のつかない事象の存在を認め、これを超自然的な力や神の啓示・奇跡などによって説明しようとする立場。
 
上のような言い方で、現実離れした超自然の世界を夢想して、そこから、他者を愚かしいと言うことが、楽山には快感なのでしょうか。楽山は、スーパーナチュラルになりたいのでしょうか、既に、なっていると言いたいのでしょうか。実に、アンナチュラルで、愚かしいことです。
 
後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。
 
楽山の筆致は、いつものように、曖昧なボンヤリ言語ですから、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。
 
そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい?自覚の楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。楽山は、殆ど、超常奇跡信仰の天国みたいな話を作っています。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、実に幼稚な空想と言うべき誤謬にしてしまいました。つまり、子供の発達心理学の話を捻じ曲げて、心霊の話として読むという酷い誤読であります。楽山は無理解ということの根拠であります。
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。無神経で成り立たない理屈遊びです。
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるためには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、自分を超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界が存在する可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の思い込み超能力を指示も支持もしてなどいないのです。こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。何も実のあることを語れない楽山です。
 
また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。
 
楽山は、「判然としない」と言いながら、心霊主義的に「おおよその意味は了解できそう」と言っています。つまり、楽山が理解と言うとき、理解は、心霊のように、判然としていないことになります。
 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度によって、一定の位置を占めるだけなのです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、カルト精神に、学者の名前まで利用して巻き込もうとしているのでしょうか。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えているようなものです。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。
 
とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。
 
「即日可能というわけではないだろうが」「誰にでも可能のはず」と言って、いつかは自分も出来る、誰でもできる、と言っています。空約束を語って恥ずかしくないのでしょうか。
 
直ぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい超能力者?であることを、やんわり、ボンヤリと、しかも、強調しているのです。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。悪霊になるからです。
 
楽山は、なんとか、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうる、ということを暗示したいようだが、今まで、ずっと、鋭く深い洞察や共感の欠片も見られない楽山の文章からは、もはや、すべて、思い上がりの思い込みに過ぎないことは明らかであり、一切は、無意味な作り話に過ぎないと分かる記事になっています。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも悪用する楽山が表れているだけです。
 
最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、
 
実在界・理想世界に興味と関心と思い込みが薄いならば、こういう厚かましく超常を語る記事は書かないはずなのです。
 
つまり、真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を飾るためだけに書いてきたとしか思えないものです。ナルシシストの自己顕示欲と、それに全く値しない楽山の実態と実体だけが浮き彫りになってきた経過です。
 
やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。
 
文脈から、超自然主義の超常の理想世界がなつかしいのだそうです。昔そこに自分はいた、という、今度は、昔話でも捏造したいのでしょうか。
 
楽山の霊が分かるっぽい?自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 
結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、
 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、中にあるという言い方をして、一般的な事柄に見せかけて、自分を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使うのが、楽山の詭弁屋たるゆえんなのです。
 
ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになる、という妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びることを夢見ているなら、寒気のすることです。霊能というものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 
それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。楽山が自然体と言っているのは、周りが何と言おうと無視して平気でいることでしょう。つまり、無反応で一方的な凝固体です。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、何を言いたいのか分からなかったり、言うまでもない当たり前のことであったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、作為的にバカ丁寧であったり、わざとらしい芝居がかったものであったり、奇奇怪怪なものだらけです。
 
自然というより、不自然さらに不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりで、載せてくるのです。
 
楽山は、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には、大方、負の、心霊と超常には、大方、正の、印象の刷り込みをしてきました。それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。体質的な、精神の異常であり、病質であり、虚妄の泥の風呂に浸かっているようなものです。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、奇跡の霊力が降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てる喩えだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して、印象操作をして、自己顕示してくる楽山に対しては、やはり、自己愛性人格障害、という見方をせざるを得ないのかもしれません。シャロームに対する判断と極めて近い判断になりますから、体質的なものか、それとも、悪意ある企みか、いすれであるかにかかわらず、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に似合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、黙ることしかありません。しかし、楽山は、既に2年半、黙らないようですから、逐一、批判を貼りつけるしかないでしょう。
 
 
誰をだます気か

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(2020年02月20日)
 
 
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  分かったふう?2
 
 2020年01月30日  楽山日記(LD)
 『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』
 ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳
 
http://mn266z.blog.jp/archives/23315368.html
  の批判記事を加筆して再録。
 
 
ドーキンスという人は、科学者で、無神論者のようです。無神論者には、自分の知性で、必要なものは賄(まかな)える、という、自己愛性の強い人が多いように思います。卑近な例では、自己愛性人格の者は、宗教嫌いの無神論者の楽山と、自分信仰のカルトであるシャロームがいます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である。
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている[35]。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている[36]。
『盲目の時計職人』では次のように述べている。
ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論はダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。[37]
 
神は、学問によって説明する対象ではありません。説明できる対象でもありません。神は、学問のように何かを説明するためにあるのでもありません。神を学問と同列に考えることは出来ません。
 
宗教は信仰のためにあり、信仰は、神を詳しく知るためではなく、人を、むしろ、神との関係において、自他という人間を通して、その存在と当為を、深く知るためにあります。
 
神を信じる信仰は、人間が、神と違って不完全ゆえの罪の性質という限界があることを弁えて、人間らしく生きるためにあるのです。そのために、キリスト教では聖書から、神と違う人間の罪性を学ぶことが必要だという考え方であります。
 
聖書を読んで神のような完全になる・・などというのは、カルトの妄想に過ぎません。
 
本書はドーキンスの代表作だけども、まだ読んでいなかったので、ざっと斜め読みしてみたのだが、自分にとっては程度が高すぎて難しい本である。でもドーキンスの著作はあれこれつまみ読みしているので、見覚えのある論点、お馴染みの話が散見されるのは楽しい。
 
楽山は、自分では、ろくな記事を書けないのか、ドーキンスの記事を借りて、気色の悪い独特な婉曲表現であるボンヤリ言語をもって、神と信仰を否定してきました。狡くて卑怯な人だと思います。
 
楽山にとって「お馴染みの話」というのは、楽山と同じ反キリストの方向を示していると、楽山が勝手に思い込んでいるだけの、神についての極めて安易で幼稚な捏造の筋書きに過ぎません。そこから、一歩も、成長しないのが、楽山の特徴なのです。
 
自分は迷信深い性質なので、こういう本を読んでどうやら神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じてしまい、無神論にどっぷりハマり続けるということはできないのではあるが、それでもドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う。
 
楽山が、迷信深いから神の臨在を感じると言っていることを見逃さないでください。信じるどころか、楽山にとって、恐らく最初から、神と迷信は同列なのです。迷信深いのなら、神についても、信仰についても、学問についても、書くことが迷信になるでしょう。
 
楽山は、またしても、神を引き寄せて、自分は特別と思わせたいようですが、実際には「神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じて」しまうことは、ないと思います。神の臨在を感じたなら信じるはずだからです。つまり嘘です。楽山は、ただ、自分が神聖を感じることができると自慢したいのでしょう。これも、嘘だと思います。症状かもしれません。
 
楽山は、神の臨在を感じながら、無神論を理解しているようなことを言う、つまり、どっちも分かっている、という、嘘っぱちの立場にいる妄想的学者気取りです。
 
いつも、はっきり言わず、どっちつかずであるように装っていますが、楽山が神に親和するときの、神の臨在、というのは、実に、いかなる宗教とも思えないような、気色の悪いオカルト興味の飾りで出来ています。こうやって、楽山は、心の中の正気を失い、妄想様観念を、ぶくぶくと膨らませてきたのでしょう。
 
楽山が信じているのは、自らの、霊が分かるっぽい自覚だけです。そういう思い込みがあるために、楽山は、神、宗教、信仰、心霊、など超常について自分は語れる、という訂正不能の妄念の奴隷として、読めば、浅はかさが表れているだけのような自慢の記事を書いてくるのです。
 
楽山は、まるで宗教について評論家にでもなったかのような態度で、ああでもないこうでもない、でも神はいないと、深みも意義もない繰り言を書いてきているに過ぎません。
 
そういう自覚によって、宗教についての単なる感想にとどまらない是非を語ろうとして、失敗しては、なお反省はせずに、病識のない自意識だけの記事を、また、批判に答えることもなく、性懲りもなく、書いてくるのです。自己愛性人格障害のサイコパスを思わせる危険な人だと思っています。
 
「ドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ない」・・楽山は、地上の生命の素晴らしさを説明できるというのでしょうか。だったら、説明してください、ということなのですが、楽山は、一度も、そういう深みのある文章を書いたことはありません。
 
>神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う<
 
神は、持ち出される存在ではなく、また、何かの説明に使われる存在でもありません。神は、この浅はかな楽山などに付き合ったり、突き放されたりするような存在ではありません。
 
この幼稚な安っぽい楽山の妄想に付き合わされる人は、犠牲者でしかないのです。よく平気で、これだけ整わない作り話が出来るものだと思います。
 
楽山は、人間らしい理路から外れる度合いの分だけ、人格が破壊されている表れとなるでしょう。何でもわかっているという誤った自尊~妄想を表しながら、かつ、自分は柔和だと思わせたがるのは、まさに、カルト的な精神詐欺師の特徴と言ってもいいと思います。
 
とある書物…うろ覚えだけども『パパラギ』だったかな…では、自然は神のものであったが、この木は俺のものだなどという人々のために、神は貧しくなってしまった云々という話があったと思うが、この話に乗っかって言うならば、人々の所有権によって神は貧しくなったように、進化論によって神は創造者としての地位をも失ってしまったと言えるのかもしれぬ。
 
神は、人の所有権によって貧しくはなりません。神は、楽山などによって否定されることもありません。そういう神?は、楽山の机上のオモチャに過ぎません。つまり、楽山は、神の悪口を言っているに過ぎません。楽山のオモチャの神?は、実に容易に、否定されるのでしょう。
 
これが、楽山の本音だと思います。神を、机上の概念か、自分の批評の下にある類人格としてしか扱えないのです。そのような人の言論は、永遠に神について語れることはないと断言できるでしょう。
 
信仰は、人が神に対する身の程を知ることを前提としていますから、楽山のような身の程知らずには、信仰が芽生えることはないと思います。
 
楽山が、書けば書くほど、表れてくるのは、救いようのない慢心に満たされて、自己正当化し保身しようとする醜い人格に他なりません。神は貧しくなったと書いていますが、神に貧富はありません。楽山は、心の貧困によって、人間でさえなくなりつつあります。
 
自分はもともと創造論者ではなく、生物の進化についてはごく自然に受け入れてはいたのではあるが、
 
自然に受け入れて・・というこの時点で、自然に、ということさえ、当たり前の先入観の固定観念になっている、ということからも、楽山の無反省な不自然さが表れています。いかなる論者にもなれない者の、知的な本を読んでるからというだけの自己満悦です。
 
恐らく、読書をしても、表層だけしか受け取っていないと思います。それで、本と、人と、神の、是非を語ろうとする楽山なのです。身の程を弁えない言論の浅さは、読む人の思考を乱して疲労させるだけで、考察の糧にも資料にも対象にもならず、自尊だけが異常に目立っていて、百害あって一利ないことを特徴としています。
 
そこには神の意思があったのだろうとは考えていたので、神の存在も、その意思も関係なしに、進化は成立しうるというのはやはり驚かないではいられないし、こういう驚きを与えてくれたドーキンスと、ドーキンスの著作を教えてくれた知人には感謝したいと思う。もちろんダーウィンにも…。
 
神の行為も意志も関係も、誰も確定的に知ることはないのです。しかし、楽山は、神の存在と意志が関係していないと分かるような進め方をするのです。不確定要素を確定的に語る楽山の虚言です。
 
そして、進化論の成立を、既成のことのように語ります。進化論を知っているのでしょうか。否、楽山は、身近にかかわってくる人の気持ちも分からない人だと思います。そこで成り立っていない人が、いったい何を得て感謝しているのでしょう。
 
そして、同じように、知っている、分かっている、というスタンスで、学者に感謝を述べるのは、自分も、同等の並びにいるつもりなのでしょう。よく読めば、楽山の病的ナルシシズムぶりは、いたるところに表れてくるのです。
 
楽山の、分かったふう?の気取り、というのは、いかなる信仰にも反する態度ですし、宗教と信仰の名を上げながら、まるで理解していない楽山の、机上や手のひらで堂々巡りをする繰り言であり、一歩も進んでいない足踏みであり地団駄であります。それを、思慮だと勘違いしているのです。
 
愚かでありながら、それに気づかない者が、三途の川の石積みのように空しく、見ようとしない目と、聞こうとしない耳と、感じようとしない心と、考えようとしない頭で、その時その時の欲望でたどる結末への不毛の砂地で、そこは目に見えない多くの虫の巣食う下肥(しもごえ)となるでしょう。
 
それを、ブログに書いて、人に見せようとする自己顕示欲が、かえって、楽山の不遜の怖さを見せつけています。楽山は、自己のためには、いかなる嘘も、印象操作も、詭弁も、手段を選ばず使うカルト的偽善者です。楽山やシャロームなどの易坊類に共通してみられる特徴です。
 
楽山は、心~精神が破壊されていると思います。そして、さらに、他の人の心を破壊するだろうと思います。恐らく体質的なもので、約2年の批判に対しても、無反応で無反省そして無責任で無神経ですから、治る見込みもないのでしょう。自覚~病識もなく、ゆえに、自己中の絶対から、人をだますことしか出来なくなっています。
 
楽山は、こちらが無反省と書けば、「反省。トホホ」などと書いてくる。反省の内実に相当する文章がないので、嘘なのですが、反省という言葉だけ書いてくる。「トホホ」については、むしろ、書いてやったぞ、これでいいだろ、と言われているようで、逆効果なのだが、それも気づかないわけです。
 
共感もなく、反省もせず、鼻先の人参を追い求めるように、批評家気取りで発信だけを続ける病的なナルシシストは、誰もいない砂漠で叫びながら骨になってゆく宿命から逃れられないのでしょうか。
 
誰とも人間らしい共感が成り立たず、深い理解もなく、見せかけの読書自慢と心霊の話をして、世辞の褒め言葉を待っているような、楽山の軽薄な文章を決して真に受けないでください。
 
 
自己顕示欲だけ

自己顕示欲だけ
 
 
(2021円02月19日、一部加筆)
 
 
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