ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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  楽山の悪意の詭弁2
 
 人生の目的と使命なんて
 2014年03月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
かなり前の記事ですが、書けば、必ず、作為~悪意の詭弁~嘘偽りを込めてくる楽山です。今も、少しも変わるところがありません。どんなに批判されても、完全に無視するだけの、石ころのような、砂のような、泥のような、命のない流れが、異常人格を形成しているようです。
 
 
思い返してみれば
若かった頃は
すきなこと
やりたいことが
たくさんあった
そのせいか
人生の目的と使命なんて
あらためて考えたことはなかった
 
楽山は、人生の目的など、今も、考えていないと思います。やりたいことがあっても、努力をしないで、一気に超常世界のように、やれる世界が欲しくて、悪夢となって、怠惰の結果として、霊が分かるっぽい?という自覚を増長させ、結局、怠け者の現実離れとなっています。
 
目先の好都合な結果、即ち、目先の餌に食らいついて生きていると思います。それは、他者を、だますことによって得ようとするものです。楽山は、自分の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに節操も賢さも失っているのです。楽山のようになってはいけません。
 
 
そんなことは考えず
ただすきなこと、やりたいことに夢中になっていた
 
今も、好きなように、やりたいように、人をだましています。コメントで、心の優しいお人柄などと言われたことを好んで、丁寧に書き、じわじわと、カルト的な思想を刷り込んでゆきます。楽山は、無反省で、無責任です。人を、あざ笑うことを求めているだけですから、近づいてはいけないと思います。
 
 
でも
いくつかの挫折のあと
宗教書を読んで
人生の目的と使命について教えられた
それで次のように考えるようになった
「自分が生まれたのは、この宗教と出会うためだった
この教えを学び、自らを高め
この教えを広め、人々を幸福にするためだ」
 
今までの発言から、宗教書など、楽山は読んでいないと思います。この3年近い経過で、楽山の読解力のなさと、自分に都合のよい言葉の表面だけを漁っている有り様は、ひどいものでした。有名人の口を、遠慮もなく、悪用してきます。楽山から、思慮の深みを感じたことはありません。
 
楽山を受け入れることで、誰も幸福にはなりません。だまされて幸福になる人はいません。むしろ、吐き気のするような醜い人間の有り様を見るだけです。それで、自らを高めたつもりなら、伸びるのは鼻毛だけでしょう。こういう、不潔な嘘を、平気で吐いてくる楽山です。
 
 
それから
月日が経って
今はまた
若かった頃に戻ってきている
自分のすきなこと、やりたいことに夢中になっている
 
だから、何なのでしょう。楽山は、ずっと、そうなのです。楽山にあるのは、企みであって思想ではなく、ペテンであって真実につながる何ものでもありません。楽山の、やりたいことは、人を従えて、コントロールして、操ることです。つまり、教祖願望に他なりません。
 
楽山の「自分のすきなこと、やりたいこと」が、えらくなりたい、インテリだと思われたい、柔和、謙虚だと思われたい、その結果、自己中、嘘の自慢、インテリ気取り、柔和芝居、謙虚芝居、などをしてきたということです。夢中になると霧中に逃げてゆくことになるのです。
 
 
神は××××の目的で人類を創造したとか
人生の目的と使命は××××であるとか
そういう考え方を聞くと
なんだか自分が
特定の目的のために大量生産される製品の一つに
されたような奇妙な心持ちがするようになった
 
そういう感じがしても、ふつうは、個性というものを生かすすべを求めるものですが、楽山は、現実をごまかして、嘘を吐くことに、それを見い出したのでしょうか。嘘吐きは、人の道にはなりません。罪になるだけです。嘘は、人生の目的にはなりません。
 
神と人との、祈りを通した関係を知らない者の言です。祈りにおいて正直であることが、現実における絶対孤独からの解放なのですが、楽山は、全く分かっていません。分からないのに、宗教、特に、キリスト教について、信仰も含めて、知ったつもりで、不遜で幼稚な、いちゃもんをつけてくるのです。
 
楽山には、詳しく知らないこと、経験のないこと、関係のないことについて、苦手だから語ろうとは思わないという常識的な思慮と遠慮が欠如しています。宗教と学問を分かっているふりをして、誘い、誘導し、否定してゆく、という楽山の詭弁と嘘に、決して、付き合ってはいけません。
 
大量生産と言えば、楽山の、嘘と、詭弁と、悪口、雑言の類であります。もちろん、製品にはなりません。誰も見たくない、楽山の独り笑い醜さに過ぎません。なんて陰湿なのでしょう。誰よりも、陰気臭く、かび臭い路地をうろついて、じめじめした陰に住んでいるのが楽山です。
 
 
やはり
人生の目的、使命などは
他から与えられるよりは
自分自身で決めたい
 
信仰者になることは、自分で決めていないというのでしょうか。度外れた認識です。信仰と自由意志の関係が分かっていないのです。自由意志で信仰し、自由意志で言動して反省するという道が、楽山には生まれなかったということでしょう。
 
楽山は、自分で決めて、柔和に見せかける罠を、今、仕込んでいるのです。この記事の筆致がそうです。その結果、騙される人が増えるだけで、気づかない人は、人格を破壊され、気づいたときには、楽山のような、成長ゼロの世界に、楽山といっしょに独り笑いすることになるでしょう。
 
このように、理解力の不足から、楽山の幼稚さは、書く文章ごとに、表れてきたのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、説得力のある文章をかけません。その分、丁寧語の詭弁と嘘で、丁寧に見せかけて、精神の邪悪な湿地帯に誘導してきます。
 
 
他の人はどうか知らないが
少なくとも今の自分には
そういう生き方が合っているようだ
 
無理解で嘘偽りの生き方は、人間ならば、誰にも合うことはないのです。非人間だけが、嘘に生きる人生を笑って過ごすのでしょう。自分で嘘を造り、偽りを語って、無反省なら、真っ当な生き方になるわけがありません。デタラメな虚偽の人生を正当化しても無駄なのです。
 
自分のことだけなら、書いて公表する必要はないはずです。楽山は、また嘘を吐いています。他者を、自分と同じ方向に誘導する意図があるから書いてくるのです。そういう楽山の狡猾さと作為を知ってください。書いてくることの一つ一つに、まともを装う悪意があり、真実の要素は皆無であります。
 
 
 
楽山は、何年も前に書いた記事も、最近書いた記事も、省みることなく、ゆえに、無責任で、訂正不能に言い放って終わりのヘッピリ虫です。楽山の書いてくる文章は、読む人の考える心を腐らせます。楽山の、生きて地獄、死んで地獄の、道なき道の、笑うパニックです。
 
 
深い闇の潜熱

深い闇の潜熱
 
 
(2021年10月12日)
(2022年10月13日、再録+加筆)
 
 
 
  希生不念慮
 
私が生まれたことも生きたことも
否定するのなら
父と母も否定することになる
なぜ父と母は生まれ
大きな中国大陸で二度も偶然出会ったのか
なぜ父も母も戦争で死ななかったのか
 
私には父としてのアイデンティティがない
子供がいないのだから仕方あるまい
父と母には祖父母としてのそれがない
孫がいないのだから仕方あるまい
 
仕方ないのは承知の上だったはずだ
しかし気づいてはいなかった
承知などというものの上には
乗らないものがあることまでは
 
生きることを正面から肯定することが
出来なくなってしまった私は
今になって顎を外してみても仕方ないのだ
それこそ仕方ないのだ
今になって物乞い
の手を伸ばそうとしても無駄なのだ
 
そうだ無駄なのだ
口に入らず手にも乗らない以上
私が病気と怠惰の間を揺れながら
それでも気泡の体を揺さぶる世界の
片隅にいる限り
私は私であってはならず
私以外のものであってはならず
 
ああ決してそれはならず
無駄なのだ私が持つことがあるとしても
ドラッグのように費やせるのは
まだ動き続けることの無駄が
貴重な一生を私によって流される
私の排水管の舌尖においてだ
 
 
 かなしみでもよろこびでもなく
  肉体からのメッセージ
 
わたしも宇宙の子・世界の子でした
わたしが細胞であったとき
分裂し増殖した仲間たちと一緒に
あなたを殺そうとしたり
懸命に生かそうともしました
 
はげしく従順であることも
おとなしく反逆することも
わたしたちには出来たのです
 
わたしの仲間たちはその度に
後事を若い細胞たちに託して
たくさん死んでゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしが髪の毛になったあとも
わたしたち仲間はぽろぽろと
あなたが不潔な暮らしの中で
たまに洗髪するときには特に
まとめて抜け落ちて果ててゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
あなたが死んで焼かれるときには
もはやお供できないので
ここに認(したた)めておきます
 
あなたは長く病んでおられるようだが
わたしたちもまたいっしょに病んでいたのです
寝込むことや独り言や
人よりも機械と遊ぶことが
あなたは多いようだが
あなたの怠惰や悪意など
罪の軽重や多少にかかわらず
わたしたちから伝えておきたいメッセージが
ひとつだけあるのです
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしにはあなたがすべてでした
 
 
 
イエス・キリストの教えの、守ろうとすれば、無理難題としか思えないもの。
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
一は、心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれませんが、限度はあるでしょう。これを実行せよと言っているわけではないと思います。神相当の愛が、いかに厳しいかを表現していると思います。
 
二は、十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理でしょう。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。罪の重さを表現しています。
 
三になると、死を覚悟しなければなりません。三の教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで、敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのです。神の愛というより、キリストの愛ということです。その通りに、キリストは十字架につきました。
 
キリストの教えは、完全な人は一人もいないということです。その文脈において、救いは、宣べ伝えられているのです。・・罪なき人は、一人もいないのです。
 
これらの教えは、守れ・・でもなく、できるだけ守れ・・でもなく、人が守れないことをご存知の上で語られたものです。守れないのだから、神の前に正直に告白して赦しを請うしかない、ということです。
 
私たち人間は、完全にはなれない存在です。ゆえに、神に正直に祈って、赦していただくしかない、という意味に受け取っています。そう読むことによって、キリストの、人に対する、限りない共感というアガペーの愛が表されているのです。その結実が、十字架なのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、インテリを気取りながら、客寄せに、謙虚芝居、トホホ芝居をしてきます。丁寧語に騙されて、楽山を、心の優しい人と誤解することを危惧しております。何の足しにもならない月並みな言葉しか言えないのに、それに見合う、人間としての、悲哀の共感、謙虚、反省、学習などが全く見られません。
 
楽山は、恐らく、言ったら言いっぱなしで、しばらく経つと忘れて、平気で別のことを言い始める人なのでしょう。反省や責任とかは、概念すらなく、善悪の感覚がないとこうなるという人物です。発言の信頼度がゼロゆえに、交流することが有害無益でしかない輩(やから)です。
 
 
 
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  楽山の嘘3
 
 『大学4年間の宗教学が10時間でざっと学べる』島薗進著
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書かずにおれない自己愛と自己中と、物事や事態を感じ取れない体質だから、その体質のうちに、他者無視という絶対自己中心の体質を持っていて、既に、成長なき慢心に住んでいて、実際は、自己崩壊を待っているだけなのです。書きながら、人間を離れ、地獄を表してゆく楽山です。
 
しかし、それゆえに、楽山は、修正なき反省は成り立たないという症例として、自らをさらしてゆくことになります。反省がなく学習がなく、成長しない成り行きで、同じことを言い続ける一方通行を歩み続ける、宿命のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 
本書ではいわゆる世界宗教や日本の宗教史、近現代における宗教の置かれた状況、課題などについて解説されている。概論的なものなので個々の問題についてはあまり深く掘り下げてはいないが、特定の宗教だけではなく、宗教全体を把握するには読みやすくてよい本だ。文章だけでなく、図、イラストも多用されているので、記憶にも残りやすい。
ちなみに自分は本書を読んで、宗教に関する知識の不足を実感させられた。本書で説明されているのは、宗教の基礎の基礎であろうに、それさえ知らないことばかりだというのには凹まないではいられない。とほほ。
 
何ごとも「深く掘り下げてはいない」のが、楽山の特徴です。楽をしたい、快感を得たい、心優しい人ですねと褒められたい、そのために嘘を吐く、私が、偽の反省として名付けた、トホホ言語の「凹まないではいられない」「とほほ。」です。弱みを見せたように見せかける楽山の印象操作です。
 
何故なら、今までの、得意げな、自慢げな、キリスト教否定の言は、間違っていたこと総ての反省と修正の芝居だけでは、いかなる立派なことを言ったつもりでも、嘘臭さだけしか伝わってこないために成り立つことはなく、虚偽から虚無へ向かうだけだからです。
 
つまり、このような楽山の言い逃れの詭弁は今に始まったことではなく、自分は心構えが出来ている人、という印象を、表面的な言辞をもって、後付けで吹き込もうとする印象操作として続いています。
 
今さら、反省めいた発言だけしても、長い無反省の履歴が否定しているのです。その時その場で、都合の良い方向に持っていこうとする楽山の自己正当化の作為が、刹那的に続くだけで、恐らく、何を言ったかの記憶もなく、エサを求める小動物の所業になっています。
 
 
でもおかげで学習意欲を掻き立てられたのはよかった。自分は年を取って知識欲は減退し、向学心も枯れてしまった気はしていたのだが、そういうわけでもなかったようだ。これはうれしい発見ではある。
とりあえずは、前々から気づいていたことではあるが、本書を読んで自分は神道など日本の宗教についての知識が足りないことがよく分かったので、その方面を意識的に調べてみるつもり。
 
人の言うことを無視してきた前歴と、著名人らしい人の言葉から都合の良い言葉を自己正当化に利用してきた前歴は、消えようもなく、読まれるたびに、語られるたびに、楽山の怠慢と自己中と性根の狡さを物語ります。今までのことからは、謙虚芝居が気持ち悪いだけです。
 
今さら、「宗教に関する知識の不足を実感」「学習意欲を掻き立てられ」などと書いてくるのは、楽山が、反省もするし学習意欲もある自分、という方向に印象付けるためなのです。それは、今までの経過が、ことごとく否定しているのです。
 
人間の性根つまり体質は、そんなに軽く改めることは出来ないだろうと思います。つまり、楽山は、これから何を主張するにしても、言いたい放題というわけにはいかなくなるということです。前後関係を気にしない楽山は、それも、気にしないでしょうけれど。
 
自分を作為的に美化することは、自分の首を絞めることです。
 
修正なき反省のきれいごとは通用しないのだから、楽山は、反省・学習が嘘ならば、どんどん、荷が重くなってゆく、ということです。
 
嘘の前提の上に、真実を積むことは出来ないのです。
 
 
 知的正直さについて(『嘘をつくなかれ』大川隆法著)
 2020年07月01日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、HSを批判していたようですが、大川隆法の本を出してきました。それで、あとのほうで、閉じてしまったと書いていますが、批判するのかと思ったら、そうでもないようです。その段階で、記事を書いて公開するには不十分だと考えないのでしょうか。
 
つまり、楽山にとって、宗教とは、その程度のものだということでしょう。万事において、いい加減で、自分勝手な楽山です。自分が書いたのだから、公開しても大丈夫と思うところは、自己愛性人格障害NPDならではと言うべきか。
 
それとも、以前から、白々しい嘘を吐いてきた楽山です。挑発的なことを言って、疲労させ、イライラさせるだけが目的で、結局、笑いたいのでしょうか。
 
学習障害というより、学習する気がない、勉強大嫌い、都合の良い言葉だけ漁っている、我執だけが訂正不能であるために、書くことを止めない、だまし方だけを、次から次に練ってくる、それが楽山だと、思っています。1年余り、記事を読み、批判した経験からです。
 
 
先日、大型書店に立ち寄ったついでに、アンチHS界隈で話題になっていた『嘘をつくなかれ』をチラ見してみたら、知的正直についての説明で、試験でカンニングしてはいけないとか、問題集の回答をみてはいけないとか、基礎からきちんと勉強しようとか、そういう学校の勉強法のことばかり説明されていたので驚いた。
 
正直さに、知的も情的もないと思います。難しいことはありません。楽山に対しては、ただ、嘘を吐くなかれ、ということだけです。つまり、楽山は、自ら賛同した意見を、自ら裏切ってきた、ということです。自分が嘘を吐くのはよいとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いてきたのに、当然の勉強と学習について、何を、「驚いた」のでしょう。その正直さを、楽山は、一度も、身につけたことがありません。楽山にとって都合の良い、自分に従え、自分を尊べ、他者を無視しろ、他者にかまうな、というような内容を期待していたのでしょうか。
 
 
自分は、知的正直とは、自分の心に正直になり、分かるものは分かる、分からないものは分からないとすればよいのであり、分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふりをする必要はないということだと思っていた。
 
正直とは、自分の言いたい放題ではないということです。書いていることとは逆に、楽山は、分からないものを分からないと言わずに、分かっている前提で語り、かつ、人の意見も批判も受け取らずに、ごまかしのボンヤリ言語と詭弁で、我欲の自己顕示だけを書き続けています。
 
「分からないにもかかわらず見栄を張って分かっているふり」をしてきたのは、まさに、楽山その人であります。短絡した理路、部分で全体を語る、全体のおおまかなことを個別に当てはめる、意味の似て非なる言葉を混同して自己正当化をする、などが、楽山の詭弁の履歴として残っています。
 
その証拠に、楽山は、批判に対して、一度も、反論も弁明も成り立ったことがありません。それで、同じことを、文章の形だけ変えて、まともに見せかけながら、繰り返すしかなくなっているのです。
 
こういう人の言うことを真に受けていると、真実は、うすぼんやりとした霧の中に隠れてしまい、否定も肯定もせずに、感動なしに、なんとなく受け取った気分のようなものになります。それが、楽山特有のボンヤリ言語による、意識されにくいところの、嘘と詭弁であり、果ては、人格破壊なのです。
 
 
たとえ世間的にはどんなに高く評価されており、名著とされているものであっても、その良さが分からなかったら分からないとし、世間的にはさして注目されていない雑書の類であっても自分は価値があると思うなら価値があるとするなど。
 
分からないと言わずに、極めて拙劣な知識と思考で、表面的に肯定するか、逆に否定してきたのが、楽山です。しかも、その前提になっているのは、楽山の頭の中の皮相な概念であり、とても、根拠になどならないことです。つまり、楽山の、自分勝手なサディスト宣言になっています。
 
つまり、楽山は、自分の自己顕示欲の価値観を反省しないばかりか、その欲に従う欲望への、信じ込み告白をしているのです。自分の邪悪な欲求だけで動いているのは、悪魔です。つまり、楽山は、悪魔への信仰告白をしています。
 
例えば、神がいるなら悪があるのはおかしいと、楽山は言いますが、真実は逆で、神への信仰は、むしろ、楽山のような者からの悪と偽善に、苦しめられたところから、自らの不完全と非力を知って、救いとして求められてゆくものです。
 
 
でも本書では知的正直について語りながらも、こういうことには触れられず、学校の勉強の話ばかり…。これには唖然としてしまい本書を読み続けることができず中途で閉じてしまったのであるが、はたして本書の後半では勉強法だけでなく、自分の気持ちを偽らないことについても説明されているのだろうか。どうだろう。いずれ再チャレして、どうなっているか確かめるつもりではあるが、大川隆法と自分とでは、渡部昇一の『知的生活の方法』という同じ本を読んでも、その理解にはこれだけ違いがあるというのは面白いことだなと思う。
 
誤解の可能性の何が面白いのでしょう。結局、HS批判にも何にもならない記事を書いたということです。何も、まとまらない、これが、楽山の、思想?なのでしょう。誰のためにもならず、生きるヒントにもならず、散逸し霧散してゆく楽山の妄想に、誰も付き合わないことを、祈り願っています。
 
楽山は、恐らく、勉強が大嫌いなのでしょう。殆ど根拠もなく「自分の気持ちを偽らないこと」を、他者の意見を無視して我を張ることの正当化に置き換えて、宗教と信仰について、何も本質を知らないまま、訂正不能に妄想的に否定し、偏見だけを書き続けてきたのです。
 
その分、平気で、人を無視してきました。人に嘘を吐いてきました。人に詭弁とボンヤリ言語で刷り込みをしてきました。楽山が言っていることは、自分の身勝手な自尊過大に従って人を、余計なもののように無視することでしかありません。
 
根っから、虚偽であり、嘘であり、罪悪感がなく、だます者であるからこそ、詭弁の誘導を2年以上してきて、2年以上批判されてきて、なお、今も、平気で、書き続けることが出来るのです。恥ずかしいという感情がないのです。
 
「自分の気持を偽らないこと」を、人をだますことに置き換えている楽山です。
 
訂正不能の妄言には、成長可能な批判を、当て続けなくてはいけません。
 
言葉を裏切る者は、結局、言葉に裏切られるのです。
 
 
ウソつき

ウソつき
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月15日、再録+加筆)
 
 
 
  置き忘れ
 
君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  うた
 
いつか うたも
うたを うたうことも
おおきな こえを だす
あそびに すぎなく
さけに よえば
わらうほど
よわくなりましたね
ほんとうは べつの うたを
つよい うたを
つづれるほどに
ペンを はしらせたい
うたが すべてではなく
すべてが うたではなく
ウソが あそんでいる
ことばに のって
ちがう くにへ ・・・
そのくには どこにあるのか
また みちに まよいましたね
あさの きずが みつけられない
 
 
  裏切り
 
肌と肌は
合わせられた汗が乾くように
いつか離れてゆくだろう
残されて冷めた皮膚の下に
毒々しい鮮血の筋肉を
ときおり凍らせ
ときおり焼きながら滅ぼすまで
 
影と影は
互いに召されたように遠く
いつか盲信のように
沈黙の厚い衣を纏(まと)い
すでに独りであることさえ
忘れながら踞(うずくま)るだろう
影は一滴の黒い雫(しずく)を落とすが
それは何処にも到達しない
もはや土に帰るよりも先に葬られ
薄れゆく皮肉である
 
 
  冬の生殖
 
胸は吹き抜けの希望に満ちている
くまなく暖めるのは至難の業(わざ)だ
腹は吹き溜まりの欲望に満ちている
ほどよく排泄しないと痼(しこり)になる
頭は吹きさらしの妄念に満ちている
直しても整えても破裂し続ける炎症だ
飛んでけ飛んでけ
消えるも加わるも風の生殖だ
枯(から)びた指南の技(わざ)だ
 
 
 
  理由+
 
私は、宗教と信仰というものを、自分が、生きられるか生きられないか、という考え方をするしかないので、上手く生きるかどうかは、二の次です。ご利益などは、私の思いにおいては、圏外です。
 
しかし、巷の宗教、特にカルトの話を聞くと、上手に生きる、楽しく生きる、完全になる、何らかの利益を得る、満足する、というものばかりのようです。
 
上手には生きられません、楽しいばかりではありません、人間は不完全です、ご利益など、満足など、無理です、自己中です、というふうにしか見えないのが、私が見る世界です。自分の心を見れば、悔いることや、嫌なことのほうが、より多く、思い出されるからです。内にも外にも。
 
それを耐えて生きるには、生き甲斐というより、むしろ、生きる理由が必要です。なぜ、悲しかったり苦しかったりの人生を、生きることに耐えなければいけないのでしょうと、仰ぐところに、私の場合、神、そして、キリストがいる、という成り行きであります。
 
そのことを無視することは出来ません。そこに、現実と、信仰の、交差点があります。
 
楽山が言うような超常と空想の話は、全く宗教にも信仰にも根拠を持ちません。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないことを、「人間の性」と言っています。人間の性(さが)ではなく、反省しないのは、非人間、人でなし、ということです。楽山は、反省せず責任を負わずに生きてゆけると思っているようですが、それは人間ではなくなることです。その通りに、破壊された人格の末路を踏んでゆくのでしょう。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  嘘の履歴2
 
 2020年03月01日 楽山日記(LD)
 間違いがある書物は、無価値なのだろうか? 
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 再び、加筆して批判。
 
 
偉大な人の間違いは、間違いを補って余りあるような業績があるから、なお、偉大なのです。楽山に、あり余るのは、嘘と詭弁の、うんざりするような履歴だけです。
 
楽山は、このような暗示的な文章で、なにげなく、もっともらしく、怖い印象を刷り込んできます。そして、嘘を吐いている自分を、間違っていても正しい、と言い始めたのです。それが、今に始まったことではない、楽山のやり方です。
 
『宗教的経験の諸相』を読んでいて、このくだりを読んだときは、思わず膝を打って「やった!」と言いたくなるほど共感できた。
書物というものは、おのれの運命の危機と闘いぬいた偉大な魂をもった人間の内的経験の真実の記録でさえあれば、たとえ多くの誤謬や激情が含まれていようとも、また人間の故意の作為がそこにあったとしても、りっぱに一つの啓示たりうる、ということを認めるものであれば、聖書ははるかに有利な評価を受けることであろう。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 」
 
楽山の言は、おのれの運命の危機と闘うことから徹底的に逃げて、先人の偉大な魂を悪用するところの、偽善者の表面的ボンヤリ言語の虚偽の記録であるために、誤謬ではなく、作為の嘘と妄想観念であり、また楽山独特の故意の印象操作、刷り込み、詭弁を弄するために、啓示どころか、一つの意見としても、悪意の企みに満ちていて、成立することは決してありえず、人間の醜さの掃きだめのようなものになってゆくのです。
 
楽山は、自分が間違っていることを、正当化するために、一生懸命書いたから間違っていてもいいんだよ、というふうに読解を捻じ曲げて、学者の聖書に対する評価という能力を、自分に当てはめようとしているのです。それは、そのまま、楽山の、ねじけた根性の病理を表しています。
 
もう一度書いておきます。偉大な先人の間違いは、間違いを補って余りあるような洞察という業績があるから、なお、偉大なのです。
 
楽山は、このことを、気づかないのか、作為的にか、書きません。何故なら、訂正することもしない楽山に有り余るのは、業績とは真逆の、嘘と詭弁の、うんざりするような履歴だけなので、聖書を理解できないのに当てはめるなら聖書と本の悪用であり、自己正当化に引用するのなら、そのまま、、愚かさを隠蔽するための偽善なのです。
 
楽山には、「人間の内的経験の真実の記録」など、どこにもありません。楽山は、全然、違います。真逆です。人の良心を、平気で、裏切り、踏みにじる男です。
 
間違っても正しい、という、めちゃくちゃな矛盾律を、主張していることが、楽山の、読書にも表れるてくる幼児性なのです。
 
聖書には歴史的に実際にあった出来事が書いてあり、間違いは一切ないという考え方もあるだろうけれども、その記述はすべてが歴史的事実そのままであるとまでは言えないが、だからといってそのことを理由として宗教的古典的価値までも完全否定されるとは限らないという考え方もあるだろうし、自分はどちらかといえば後者寄りの立場なので、本書のこの箇所には大いに納得できる。
 
楽山は、決して宗教に価値など認めていないことが、2年にわたって表れてきました。このように宗教に賛同するようなこという舌で、また、神を否定してくるのだから、相手にしてはいけないのです。
 
聖書から、何も受け取らず、文脈も読めず、ただ、史実かどうかだけに、趣味的興味をもって、舌でベロベロと舐めるように軽く読んだつもりになっている自己満悦から、高名な学者の言うことを、自分に都合よく曲解して、聖なる書と言われるものを、自己正当化という欲望の痰ツボにしています。楽山の書く文章は、その痰ツボに、ばい菌だらけの黄色い唾を吐く行為であります。
 
聖書の価値は、古典的価値などではありません。生きるために必要な縁(よすが)として読んでいる人もいるわけです。それを嘲笑う楽山は、聖書の価値など全く分からない人です。
 
楽山は、聖書の価値など全く分からないことが今まで表れてきたのに、分かっているかのように、上から見下ろして笑うだけの、批評家気取りに過ぎません。新しいこと、身近なこと、自分のこと、何も分からないのに、古典的価値を云々する資格はありません。
 
またこの考え方は聖書以外でも通用するように思う。たとえば、物語は、間違いや破綻があったとしても、その価値を失うとは限らないというのは常識であろうし、音楽の方面では、「ベートーベンは偉大であったゆえに、その間違いも偉大であった」という批評があったりもする。おそらくこれらは真実の一端を示しているだろう。
 
醜い自己正当化が続いています。どういう根性を持ったら、聖書や、ベートーベンをネタにして、自分もそうだよ、だから、自分が間違っても偉大だよ、・・みたいに、おのれを正当化するような、汚い真似ができるのでしょう。こういう我執からの引用が、楽山の偽善地獄のあゆみなのでしょう。
 
間違いは少ない方がいいし、間違いを減らす努力は必要ではあろうが、でもそれ以上にもっと大切なことがあり、これこそがそのものの最終的な価値を決定するというのは本当だと思う。
 
「もっと大切なことがあり、これこそがそのものの最終的な価値を決定するというのは本当だと思う」・・楽山は何を表したつもりでしょう。決めつけだけを書いて、表現として恐ろしく抽象的な誉め言葉に過ぎず、なまぬるくて気持ちが悪いです。
 
間違いと、故意の嘘は違います。
 
楽山は、理路と情緒がないのに、作為と悪意だけがあるために、先人の書いたものや人格について、無反省に、自分に都合の良いところだけを、全体の文脈を弁えもせず、先人に対して畏敬の欠片もなく、つまみ食いのように、褒めまくったり、笑ったりしている盗人です。
 
楽山の言には、原初的価値も、最終的価値も、将来の成長も、全く見られません。体のいいだけの丁寧言葉で、人を、批評し批判しておきながら、わが身を見ない楽山は、どこまでもどこまでも、楽をして、いい気持になりたいだけの、楽な山登りの高慢以外ではなく、山から沼に堕ちたものであり、一途に有害であり、汲み取るべき価値など、微塵もない迷惑物質です。
 
*追記 2020.3.1
いつものことながら、書名は失念してしまったのだが、とある本で、聖書の記述に矛盾があることについて、それは意図的なものだとする話を読んだことがある。
もし聖書に矛盾がなく、一つの正しい解釈が成立し得るとしたならば、必ずや自分は聖書を正しく解釈し、その戒めを守っているとして、自己を誇る輩が出てくるだろうから、あえて矛盾した記述をすることで、唯一の正しい解釈を打ち立てることができないようにし、そのような輩が出ないようにしているのだと…。
 
楽山は、自分の矛盾には全くの不感不応でありながら、いつも、他者をネタにして、他者を悪者にして、それを憐れむ自分としての自己正当化を図ります。楽山が、他者を褒めるとき、それは、楽山にとって利用価値がある、ということでしかありません。汚い欲望の根性、全開です。
 
楽山が聖書を褒めることには、まるで信頼性がありません。楽山は聖書の心を理解していないからです。なのに、前に、けなしたことを中和するかのように、褒めておけばよいじゃろ・・とばかり、気安く、生ぬるく、舐めているのです。この粘着性は、ナメクジかヒルのようです。
 
聖書の解釈は多様ですが、楽山の話にだけは、全面的に不同意です。それは、楽山批判を始めてから変わることのない方針であります。楽山は、平気で嘘と詭弁を振り回す精神の詐欺師です。
 
自分はこれを読んで、聖書に矛盾があったとしても、さほど気にならなくなった。ただひとつ気になるのは、こういう考え方は、カルト教団が知れば悪用しそうだということだ。カルト教団は教義に疑問を持つ信者には、こんな風に説明して煙に巻きそうだなと。「教祖様の教えに、矛盾があるように思えることもあるかもしれません。でもそれは決して、教祖様がその場その場でいい加減なことを話していたからだということではありません。教えに矛盾があるのは理由があるのです。その理由とは…」
 
今、まさに、楽山が、自己の正当化と誇大化のために、自己満悦のために、悪用しています。
 
他者を見ても、自分を見ようとしない楽山です。ここまで、平気で、詭弁の策を弄する楽山には、責任感も罪悪感もないので、人の矛盾を指摘する資格はないと思います。その原因は、楽山の自己愛性パーソナリティ障害であります。
 
「…」で、ごまかしているので、説得力皆無の、中身のない文章になっています。楽山にとっては、自己正当化に結び付けたという慢心だけ得られれば、理路はどうでもよいということが表れています。
 
宗教の聖典、教義に矛盾があったからといって、その宗教的価値が全否定されるわけではないのは当然ではある。でもこの考え方は時と場合によっては、本来それほどの価値がないものにさえ価値ありと誤認させることにもなりかねない危うさが含まれていなくもないわけで、この点は注意が必要である。
 
つまり、「価値がないものにさえ価値ありと誤認させること」、これを当てはめようとしているのは、まさに、楽山だということです。
 
間違いというより欠損と嘘だらけの楽山を信用してはいけないと思います。注意・警戒だけを向けるべき対象です。楽山に、決して近づかないでください。楽山は、同類になることを求めて、価値があるかのような、インテリぶった、もっともらしい文章の体をもって、近寄ってくるのです。
 
このようにして、嘘吐きや詭弁屋というのは、名のある他者のことを述べて、間違ってばかりの自分も正しいと刷り込むような書き方が得意のようですが、結局は、自分を斬ることになるのです。
 
そこを明らかにして、そのうえで考えるならば、楽山を、間違っても、丁寧な説明ですね、学者レベルですね、とか、たとえ社交の世辞でも、褒めて言ってしまうことのないように、注意・警戒が必要です。
 
楽山は、軽い世辞で、安上がりに舞い上がる人です。それが、ボンヤリ言語です。批判的に読めない人は、無視してください。
 
学者の名前を出して、その人の本に書いてあるからお墨付きであるかのような書き方で、楽山は、自己正当化の誤謬を故意に認めさせるように、言葉だけ拾って歪曲しています。まるで、笑いながら嘘を吐いて、世辞を受け取ったら悦ぶというのが、既に目に見えるような、気色の悪い自己顕示欲の表れですから、けっして真に受けてはいけません。
 
 
ねっからうそつき

根っから嘘吐き
 
 
(2020年03月03日、同日一部修正)
(2021年03月06日、加筆して再録) 
 
 
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  楽山の偽り
 
 2021年02月25日
 楽山の「幸福とは何だろう?ブログ」
 大川裕太氏のこと(宏洋と広報チャンネル)
  抜粋して批判
 
 
楽山は、自説ではなくて批判なら、自分が書いてもいいだろうと思うのでしょうか。評論家気取り全開といっていい筆致です。誰に対する批判であれ、自己愛の身勝手さで書いている楽山には、批判する資格はないと思います。
 
楽山の、約2年半の履歴が、言論者~批判者としての楽山を否定しています。
 
「あるまい」「なかろうか」「難しいだろう」「有効な教訓だと思う」というようなアドバイス的な書き方をしている楽山は、反省もせず、責任も負わずに書いてくる人です。
 
楽山は、誰の忠告も、誰も批判も、受け取らず、聞かず、無視して、書いているということを忘れてはいけません。むしろ、このような受け狙いの丁寧語をボンヤリ言語と呼んで警戒しています。バランスがとれているように見せかける柔和芝居に、どうか、だまされないでください。
 
*双方の動画を見て思ったこと
広報チャンネルの「確証がないのに変なタイトルをつけて名誉棄損してる」という主張は正論だと思う。タイトルの最後に「?」をつけておけば、確たる証拠もなしに何を言ってもいいというわけでもあるまい。
 
確証もなく、根拠もなく、初歩的な理解もなく、確たる証拠もなしに、キリスト教の悪口を、印象操作と詭弁で広めようとしてきた厚顔無恥の楽山は、誰に対しても、アドバイスできるような人ではありません。楽山が使う批判の言葉は、楽山に返ってゆきます。
 
ただ広報チャンネルは、本人でもないのに女性問題はないと断言して大丈夫なのだろうか。こういうことは秘め事であって他人には分からぬことであろうし、断言は本人にしかできないのではなかろうか。
 
もちろん本人でもないし、信者でもないのに、神はいないと、刷り込もうとしてきたのが楽山です。いい加減に信じるのが望ましい宗教というようなことを言ってきたこともあり、全くの無理解で、著しく宗教と信仰の的を外したクレームで、いちゃもんをつけてきたのが楽山です。楽山の無知のシリーズには、批判を当てるしかありません。楽山は、あらゆる問題を無視する人です。
 
教団内の自由恋愛については、宏洋氏の話に驚きはない。大川隆法の結婚相手は一度目も二度目も信者職員だ。その子供たちも、宏洋氏以外はみな、HSの信者や職員と結婚してる。このことからすると、大川家の面々は、信者職員を恋愛および結婚の対象としては見ていないと言い切ることは難しいだろう。
 
「信者職員を恋愛および結婚の対象としては見て」はいけないと、楽山は言いたいのでしょうか。そう見ているのが事実なのに、見ていないと言うことが間違いだと言っているのでしょうか。
 
楽山は、平気で嘘を吐いて、せいぜい、st問題とか言って、おとしめの言葉を返してくることしかできない人です。そういう体質しか持っていないと判断しています。付き合えば、いつか、逆らって苦言を呈したときに、ひどい目に遭います。
 
恐ろしい自分信仰を、バランスが取れていると思い込んで、さらに、責任逃れのために、批判して、のちに、賛同めいたことを言う、というような、いい加減さで、ごまかしているネットの猥雑なワームの一人だと判断しています。
 
批判に答えることなく、批判を受け取ることもなく、ふつうを装って、書いてくる楽山の、目的は、今も不明ですが、楽山については、主張も、結局、不明であります。
 
楽山は、子供のときからの霊が分かるっぽい自覚から、宗教を離れて自分の言に従うことを欲しているようですから、既に、カルト教祖気取りなのかもしれません。カルトの犠牲者ではないと思います。
 
今言っていることの責任を、いっさい負う気がない、ということだけは忘れないでほしいと思います。まともに反応できる心がないのです。過去には、心理学の話を、霊の話にすり替えて、成り立たない非合理の妄想を、分かったふうに、吹聴していました。
 
古い話ではあるが、フライデー騒動のときに、支部で「マスコミはお金と異性問題を攻めてくるから注意してください」という指導があったことを今でもよく覚えているけれども、こういうスキャンダルを聞くと、これは今でも有効な教訓だと思う。
 
楽山が、批判を無視して書いてくることを心に留めて、注意してください。楽山は、大きなスキャンダルと萌芽として、準備状態なのかもしれませんし、上から物を言う立場に快感を感じているだけなのかもしれません。
 
楽山の言は、スキャンダルではなく、一途に災いであり、不祥事なのです。楽山からは有益な教訓は出てきません。益を奪うものであって、益を与えられるものではないのです。
 
楽山は、柔和なインテリ気取りで書いてきますが、真実の追求に必要な節操も理路も弁えておらず、情感も共感も持ち得ない病質者です。
 
ボンヤリ言語と呼んでいる婉曲表現の丁寧語と、トホホ言語と呼んでいる謙譲・反省芝居で、まともに見せかけてきます。楽山において、バランスは、書く動機において、既に、壊れています。
 
こういう楽山の見かけの腰の低さは、詐欺師の勧誘に似ているとともに、インチキ占い師や、インチキ商売の勧誘に、よく見られるものであります。さらに狡猾かもしれません。
 
こちらとしては、もはや、無理解と無責任だけをネチネチ返してきて過剰な疲労しか与えない楽山に対しては、直接のコメントの遣り取りをする愚を避けて、専ら批判記事をブログに書くことにして、偽善者の資料としてゆくつもりです。
 
 
偽りの柔和芝居

偽りの柔和芝居
 
 
(2021年02月26日)
 
 
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  楽山の上から目線
 
 2021年02月21日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 信仰と現実(ツイート保存)
 抜粋して批判。
 
 
性懲りもなく、次から次に、何かを書いてくる楽山は、そのたびに、恥ずかしい悪名のHNをさらすことになっています。
 
上から目線で、アドバイスふうに、刷り込んでくる楽山は、自己愛・自己中による人格破綻の進行する様を表しているに過ぎません。
 
よく知りもしないHSについて、私は、とやかく言うつもりはありませんが、宗教を知るだけの器を持たないのに、信仰について何も分かっていないのに、的外れのまま、資格も視野もなく、とやかく言ってくる楽山に対しては、批判を貼りつけるしかありません。
 
*内面
想像するに、上のような状況にある時の信者の内面は、次のようになっている。
信仰心旺盛のとき…「HSの教えは本物だ。人にはみな仏性があるのだから、この教えが本物であることは分かるはずだ。たとえアンチであっても、この教えを知ったら改心しないではいられないだろう」と奇跡の改心を信じている。または「自分はアンチを折伏する使命がある」と宗教的使命感に燃えている。
現実主義、合理主義に変わるとき…HSの教えを説いても、アンチから反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ、奇跡の改心を信じなくなり、「アンチと不毛な議論をしていても仕方がない。自分の話を聞く人にだけ話そう。救える者から救ってゆこう」という現実主義、合理主義的な路線に転換する。
 
楽山が言っている「立て板に水」とは、どういう意味でしょう。
 
(ネットより)
立て板に水(たていたにみず): よどみなく、すらすらと話すことのたとえ。
 
「反論されるばかりで、立て板に水という状態がつづくと、HSの教えの万能性への信頼は薄れ」という表現で、意味が通じるでしょうか。切りがない徒労、無駄に時が過ぎる、という意味を言いたいのでしょうか。辞書くらい引いたらどうでしょう。
 
楽山の、"横板に雨垂れ" のような記事です。言うたびに疑問と誤謬だらけの表現と内容の、楽山の言葉が詰まってゆくようで、先が見えません。
 
楽山にとって、旺盛な信仰は、現実主義や合理主義と対立するものなのでしょうか。むしろ、楽山の宗教観が、現実や合理から乖離していることを表しています。前に書いたと思いますが、楽山は、信仰を、非現実で、非合理の、夢・幻・お伽噺として見ていることが表れています。
 
信仰は、この世を生きるためにあるものですから、楽山の信仰話が、いかに甚だしい先入観と偏見で出来ているかが分かります。すなわち、こういう楽山のような人の話を真に受けていると、信仰者は、現実離れしてゆく非合理のために、堂々巡りとなり、無駄に疲れるということを表しています。
 
人間は、現実の中で生きているわけですから、現実離れしたり、合理を考えなくなったりすることは、即、生きることが困難になることではないでしょうか。そうなっているのが、楽山なのです。
 
なお、信仰というものは、人が正確に伝えられるものではありません。楽山は、深みのない教条主義的な宗教観か、夢物語の奇跡信仰という概念しか持たないので、教えを伝える奇跡の改心という魔法を信じることを信仰だと思い込んでいます。いたずらに混乱させる楽山を相手にしないでください。
 
楽山は、安易な概念から、軽口をたたいて、分析して整理したつもりになります。信仰に必須であるところの心の深みがなく、共感性を持ち得ないからです。
 
楽山は、誰の心配もしていません。聞く人を自分より劣った者と見なして、上から眺めることを楽しんでいるだけです。相手にしないでください。
 
ただし自分の説法能力、感化力の乏しさは反省しない。自分の言葉を受け入れぬアンチはけしからんと、すべてアンチが悪いとする。
 
楽山の言に、説得力が見られたことは、一度もありません。楽山は、嘘と詭弁で誘導することを、説法能力とか感化力とか思っているのでしょうか。楽山のそれは、だますことです。
 
楽山は、自分の言葉を受け入れない者や否定したり批判したりする者は、けしからんと反論や批判をする代わりに、話にならないと無視しますが、いちばん話にならないのは、楽山その人であります。
 
言っておきますが、楽山は、すべての不祥事を人のせいにします。楽山は、非を認めたことがありません。楽山が、今まで、言ってきた「反省」「トホホ」「共感」などの謙譲言葉~芝居は、言葉だけで、全く内実がありません。
 
アンチに関わってきては退散することを繰り返す信者は、この二つの心理状況を行ったり来たりしてるのだろう。
 
楽山の、自らを一度も省みることなく、他者を上から目線で眺めて、批評家気取りで意見する、という姿勢と態度は、そのまま、本当の先生は自分だと言っているのと同じです。
 
「信者は、行ったり来たりしている」・・ここに最大級の軽蔑が表れていることを見逃してはいけません。楽山には、思いやりや共感という高等感情がないので、気遣いが出来ないのです。丁寧語を使っても、性根は、とても冷酷です。
 
*信仰の敗北
ちなみに私は無宗教なので、信仰によって考えるより、現実主義、合理主義寄りの考え方をしている。奇跡の改心は絶対に無いとは思わないが、人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない。
 
楽山は、自己愛性の人格の異常です。宗教を理解していませんが、自分のお粗末な頭と心だけを絶対化して宗教・思想を語ります。霊が分かるっぽい?自覚があり、ホラー趣味と同レベルで宗教を語り、現実主義とも合理主義とも交点すらありません。
 
「奇跡の改心」について「絶対に無いとは思わないが」と言っている楽山の頭の中にある "奇跡" は、魔法みたいな奇跡だと思います。その前提で、「絶対に無いとは思わないが」と奇跡には否定的であることは、心の奇跡を否定する先入観につながります。心というものを知らない者の言であります。
 
「人は基本変わらないものであろうし、人を変えようとしても仕方がない」と言っている楽山は、自分で言っている通り、通念と先入観の絶望的奴隷として訂正不能に陥っています。ゆえに、そのことは、学習不能となって、信仰の敗北というより、楽山だけの絶望的敗北となっているのです。
 
>私はこういう考え方なので、
 
楽山の考え方は、あってはならない考え方です。現状が、うまくいっていないことを自覚することは、進歩し成長するために必須なのですが、楽山には、この自覚がないのです。
 
KENTO氏がアンチから距離を取ろうとするのは理解できる。特定の信仰を他人に押し付けようとするのも、押し付けられるのも迷惑なことであるし、そういうことから離れるのはよいことだ。でも信仰者がこういう考え方をするようになるということは、ある意味、信仰の敗北ではあろうし、このことはきちんと自覚してほしく思う。
 
信仰は、まず、「押し付け」られるようなものではありません。楽山は、押し付けていないつもりのようですが、代わりに、嘘と詭弁で刷り込んできます。「とても迷惑なこと」です。
 
押し付けはよくないと明確に書くべきところを「そういうことから離れるのはよいことだ」と書けば、宗教から離れる印象になります。乱暴な理路と筆致です。
 
「信仰の敗北」「このことは自覚してほしく思う」・・楽山は、信仰について、その望ましい在り方も、勝利も敗北もを理解しておらず、信仰を感受できてもいないのに、さも分かってるふうに言ってくる、ということを忘れないでほしいと思います。
 
繰り返しますが、押しつけはよくないと言う楽山は、嘘と詭弁で、だましてくるのです。自分を大切にしてください。決して、楽山を、相手にしてはいけません。楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
 
上から見る者

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(2021年02月22日)
 
 
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