ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の独り芝居(3)3
 
 神についての対話 3
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 
 
疲れたのか、楽山の理路の破綻が目立ちます。若者も老人も楽山です。楽山の自我であり、我欲であり、利己であり、自己優越の快感モドキなのです。これくらい、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は救いがたいほど思い上がるということです。
 
対話形式にするときに、独り芝居と言われることを予想しなかったのでしょうか、不思議ですが、理屈を言いながら破たんし、的を外してますから、あちこち、予測も抜けてくるのでしょう。宗教という重大なテーマに、サイクリングでもするような気やすさで出かけたのだから、転倒することになります。 
 
*神について知る方法
若者 「人には神のことは分からないという意見は分かりました。ただ正直言って、僕には、それはとてもさみしい考え方のように感じられます。人はどんなに努力しても、神のことを知ることはできないとしたら、堪らなくさみしいですし、残念です」
老人 「そうか。それだったら、きみは人は神のことを知ることができると考えたらいいよ」
若者 「えっ!? そんなことができるんですか」
老人 「できるというか、そういう考え方もあるにはあるね」
若者 「たとえば?」
老人 「たとえば、人には神性が備わっていて、本質的には神と同質であり、それによって神を知ることができるとか…」
 
楽山は、人に神性が備わっている、と言っています。神と人の違いが、まるで分かっていない人の、決定的な妄言です。楽山には、神も人も、相互に交流などできないから、扱う対象になるのでしょう。楽山が、いつか教祖にでもなって、神の位置に立ちたいからでしょうか。
 
 
若者 「あとは…」
老人 「人は自力では神を知ることはできないが、神からの働きかけによって神とは何であるかを知らされることがあるとか…」
 
神からの働きかけが、神からだと、どうして分かるのでしょう。楽山は、自らの神性を主張したいのでしょうか。教祖願望なのでしょうか。呆れた無理解による、恐れを知らない発言です。
 
神の導きかもしれないと思うときはあります。その場合には、それが否定されないあいだ、その正邪や善悪の最終的な判断を神に任せて、人は、そのことを考えて判断し行動し、経過と結果と気持ちを正直に祈って神に捧げるのです。
 
それが、信仰者の生き方であり、神と違う不完全な人間の生き方であります。実際には、そのときの陶酔気分であることもあり、我流の因縁付けだということもあります。やはり神の導きであったかという気持ちになることもあるでしょう。前もって知ることは、地上の人間には出来ないことです。
 
大事なことは、そこで、個人の信仰が、固定ではなく、反省と学習という真っ当な道であるかどうかが試されるのです。楽山に、今まで、見られたことのないものです。
 
楽山は、霊だけでなく、神も分かるっぽいと思っているのでしょうか。実際には、紙に書かれたものの表面的な意味としてしか受け取っていないし、ましてや、一般の書籍についても、実に気安く、他者の意見の断片を紙切れのようにしか利用して来なかった楽山であります。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変の御方です。これらの中に、人間の手に負えるものは一つもありません。人に神性を備わっているなどは、反キリストの世迷言に過ぎません。
 
 
若者 「つまり人であっても、神を知ることができる可能性はあるんですね」
老人 「これらによって真に神を知ることができるかどうか、できたかどうかは証明のしようがないことだから、できるとも、できないとも断定はできないけれども、そういう可能性を含んだ考え方があるのは確かだ」
若者 「僕には、人には神のことは分からないとするより、こちらの考え方が合っているみたいです。なんだか、心にピッタリする感じです」
老人 「それなら、そちらの方を選択したらいい。というか、他人がとやかく言ったところで、きみの宗教的な選択を止めることはできないだろう」
 
神を知る、ということについて、断定はできない、と言いながら、知る可能性を含んだ考え方があるのは確かだ、と言っています。「可能性」なのに「確かだ」とは、滅裂に近いボンヤリ言語だと思います。だから、楽山にとってだけ「ピッタリする感じ」なのでしょう。
 
神を知るという言い方は語弊があります。聖書の記事から知り得ることはあるでしょう。しかし、それは、神の意志と行為や辻褄を理解するには、あまりにも拙劣で未熟な理解なのです。思い込み信仰やカルトの入り口になりやすいところです。
 
一貫性の無い理路、遠回しで何も示せない思慮、これは楽山の癖なのでしょう。私が、楽山に、何も書くな、と言いたくなる理由です。楽山の記事は、読者を、楽山の恣意に誘導する性質を、企みとして、必ず持っていると言ってよいのです。それが楽山の目的だからです。
 
 
若者 「そうですね。僕はこちらを選ぶことにします。…あれ、でも困ったな。やっぱり人には神のことは分からないというのも一理あるように思えます。どうも、どちらか一方だけを信じ、もう一方は完全に捨て去るということはできないみたいです。どうしたもんでしょう」
老人 「その点は、私もきみと変わらないさ。神は不可知と思いながらも、分かると思うこともある。人の心は揺れているのが自然な状態であろうし、その揺れを止めるのは仏陀でもなければ無理だろう」
若者 「それを聞いて安心できました。今日はいろいろな話を聞けてよかったです。ぜひまたお話を聞かせてください」
老人 「よろこんで」
若者 「わあ、よかった。それでは今日はありがとうございました」
老人 「こちらこそ、ありがとう。さようなら」
 
「僕はこちらを選ぶことにします」という楽山は恐怖です。後で否定的なことを書いていますが、これもボンヤリ言語の印象付けでしょう。神を理解する立場は人間にはありません。楽山が今のまま自己中・無反省・無責任であるあいだ、神の恵みを感受する信仰にも、届くことはありません。
 
楽山は、人の心の揺れのを止めるのは仏陀でもなければ・・と言っています。どこから仏陀が飛び出してくるのでしょう。楽山の、まるで本気でない、気安さが表れています。結局、反キリストの楽山にとって、神も仏も、笑って済ませるような、オモチャに過ぎないということでしょう。
 
「一理ある」という薄い言葉理解で、神を判断している楽山です。最後は、楽山が、楽山に、礼を言っている場面ですが、恥ずかしくないのでしょうか、恥を知らないのでしょうか。詭弁だらけの自己主張~妄想。自己顕示欲はあっても、罪悪感も羞恥心もない独り芝居です。
 
反キリストの楽山が、神の信じ方を云々することで、この記事が、意地の悪い詭弁そして刷り込みだと分かるのです。どこまでも白々しいインチキで、楽山だけが、支持されているという妄想の世界に住んでいます。緩やかに発狂してゆく病気が、この楽山に典型的な体質的人格障害です。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
超常趣味であり、超常現象が好きで、霊が分かると思っている。
理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害と思う。
特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
障害の自覚に、全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリを気取って、分かっているという我執から離れられないようです。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、好感を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、あるいは、元信者かどうかも、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで、または、本の中の引用で、理解したと慢心する。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
対話形式とか、記事の体裁を変えても無駄だと思います。責任を持って堂々と自分の意見を言うことが出来ない者ほど、凝ったつもりの、実際は、とても臭い芝居を用意するのでしょう。そして、バレていることにも気づかないのでしょう。
 
楽山の書いたものを読むのは止めたほうがいいと思います。嘘と詭弁だけは年季が入っているからです。理路を、ある程度、批判的に読めるのでないと、なんとなく、そうか・・などと受け取りやすい書き方をしてきます。そこに、楽山は、あぐらをかいてきたのでしょう。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 
色あせた色褪せた独り芝居の果て

色褪せた色褪せた独り芝居の果て
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月27日、再録+加筆)
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が繰り返す
明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはつまり、棒氏は、自分の失敗パターンを認識し、同じパターンにはまらないようにするという反省の教えを実践できてないということです。
余計なお節介かもしれませんが、守護霊がどうした、アンチがどうしたというよりも、まずは、心の教をきちんと学び、実践することをおすすめします!
午前6:55 · 2022年6月26日·Twitter Web App
 
楽山は、まず、自分の失敗を認めない人です。楽山は「心の教をきちんと学び、実践すること」など、したことはないと思います。楽山は、まったく「余計なお節介」だけをしていますが、人のことを、とやかく言う資格などない人です。楽山は、宗教と信仰の、最悪の背教者そして偽善者なのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
そんなことができるってことは、自己陶酔、ナルシスっぷりは、ジャイアンを軽く超えとる(笑
午後8:15 · 2021年6月23日·Twitter Web App
 
OR批判のようですが、楽山は、相変わらず、他者を笑うことが生き甲斐のようです。笑止と言うべき自分を見ることだけは出来ない楽山です。つまり、病識も自覚もない楽山です。楽山こそが「自己陶酔、ナルシスっぷり」を表しているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己陶酔とナルシズムと不感不応の鈍感と薄情な独り芝居に生きている楽山は、恐らく感動も共感もしたことはないと思います。しかし、反省という言葉だけ使うのと同じように、感動という言葉も使ってきました。つまり、気安い見せかけと誘導の芝居には何も実感がないのです。
 
情けないほど、楽山には、宗教性が見られません。心に受け取る器がないようです。だから、楽山が聖書や本を読んだことにして書いても、何も糧にも参考にもなりません。嫌がらせをしたいだけのサイコパスだと思います。もっと悪くなるかもしれません。どうか楽山にだけは関わらないでください。
 
 
 
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  楽山の独り芝居(2)3
 
 神についての対話 2 
 楽山日記(LD) 2020年06月21日
  を改めて批判。
 
 
楽山が悪意の人であることが表れています。信仰が分からないから、信仰について、文句が言いたいのでしょう。そして、終わりに、小説から、ふざけたことを言って、楽山の大好きな三文芝居で、自分で自分を褒めて、神を笑う気持ち悪さなのです。
 
努力している信仰者も非信仰者も、たくさんいるでしょうに、楽山は、反キリストとして、自覚もなく、努力もせず、教祖願望的な、霊が分かるっぽい特別の地位を欲して主張しているのだろうと思います。
 
神を、いないだの、そして、人を、決めつけだのと、崩れた理屈に納めたつもりの楽山が、いちばん決めつけと自己満悦の権化でありながら、決めつけはよくないと書いても、何の説得力もないのです。楽山の、自己愛こそ、自己中こそ、無反省こそ、楽山が決めつけた自分信仰です。
 
楽山は、対話形式にして、工夫をしたつもりで、ますます、演技的になって、芝居がかってる、わざとらしい、などと思われることを予想しなかったのでしょうか。
 
自分に酔う者は、芝居の度合いを増すことで、ますます、いい気になり、観客つまり読者がどう思うかが分からなくなるようです。まさに、自己顕示欲が、自らを滅ぼしてゆく楽山の独り芝居です。
 
 
*神のイメージの幅
若者 「えぇっと、ちょっと待ってください。いま、お話を聞きながら、妙なことを考えてしまったのですが…」
老人 「妙なこと? どんなことだい?」
若者 「い、いえ、やっぱりいいです。すごくバカバカしいことなんです」
 
とても気持ちの悪い謙虚芝居です。このような対話形式でなくても、「とほほ」など、楽山は、同情を誘いたいのか、この手の作為の白々しい芝居をしてきます。舌打ちをして耐えるしかありません。
 
 
老人 「ひらめきや思い付きには、あまり自己検閲をかけすぎない方がいいと思うよ」
若者 「そうですか。では言いますけど、あなたの意見は、人には神のことは分からないのだから、『神は~である』とは断言できないし、『神が××であるなら~だろう』と仮定として話すか、『私には神は~と思える』と感想を話すくらいしかできず、誰かが抱く神のイメージについて確信をもって正しいとも、間違っているとも言えないということですよね」
 
楽山が、神を、自分の理屈で云々している時点で、否定し揶揄するためだと分かりますし、人と違う神の存在について安易な思い込みの中の神?をいじくっているだけということが明らかであり、人が神の正邪を云々するという見当外れもいいとこです。
 
楽山は、自らの不良品の倉庫で、自らの出来損ないの堂々巡りをしているだけで、直観的な洞察が皆無のために、自分の小理屈で神を語るという、むしろ、いちばん的外れなことをしており、楽山だけが、無益な精神作業だと分からない亡者となっています。
 
神を、表現だけ「だろう」の推測で語っても、楽山には、神などいるもんかという否定を刷り込むための、誘い水であるに過ぎず、そのことが、楽山の我執の唯我独尊の有頂天世界には、いかなる共感もないことを表して、人間の崩れ方を見せる結果になります。
 
 
老人 「そうだ。他人が抱いている神のイメージについては、共感したりしなかったりはできるが、どういうイメージが正解であるかは分からないのだから、正しいとか、間違っているとかは言えない」
若者 「そこで僕は思ったのです。それでは、もし『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人がいても、それを否定できないのではありませんか? これはおかしくありませんか?」
老人 「神は残酷だということについては、私の記憶では、たしか、スティーヴン・キングの『デスぺレーション』にそういう表現があったね。主人公の少年は、親友が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、牧師の下に通い、信仰に目覚め、その後は多大な犠牲を払いながらも、邪悪な存在と闘い、その活動を阻止するという物語なんだ。少年は自分には邪悪な存在の活動を防ぐ使命があり、その使命を果たすために自分が霊的なことに目覚める必要があり、そのきっかけとして友人が事故に遭うことが計画されていたことに気づき、神は残酷だと呟いていた。運命論的な考え方、すべては神の摂理によって支配されているという考え方からゆけば、悲劇は神によって予定されていたことになるわけだし、そういう感想を持つのは致し方ない面はあるだろうし、そこに真理は少しも含まれていないということはないだろうな」
 
「『神は残酷であり、邪悪である』というイメージを語る人」・・これこそ、楽山なのです。自分で若者に疑問を言わせ、自分で老人に説明をさせています。条件法で、神を語る楽山は、同じやり方の詭弁でしか答えることが出来ません。神は、条件の対象にはなりません。神は、信じ仰ぐ対象です。
 
本当に、楽山は、神が嫌いで信じないのなら、何も書かなければよいのに、・・ならば・・、という言い方の対象に、神をおとしめて、摂理の使命・・的な話のネタにしています。何処にも、糧になるものがないのが、楽山の、捏造フィクションの、それこそ、運命なのです。
 
楽山のように、神を、登場人物として、自身の貧弱な辻褄合わせで語れると思う者は、神について、キリストについて、人についても、何か良きものを、感じることも、受け取ることもないでしょう。
 
「真理は少しも含まれていないということはないだろうな」・・楽山の、二重否定です。大事なところで、確証がないのか、ごまかしたいのか、曖昧な表現が表れます。とても気色の悪い婉曲表現、まるで祟りのように楽山の内部を巡る因業のボンヤリ言語です。
 
こういう人と遣り取りすると、絶望的な疲労を受け取ることになると知ったので、私は、批判記事だけにして、コメントの遣り取りをやめました。長々と、愚にもつかぬ表面的な理屈、即ち、屁理屈を並べて、疲労させてゆくのが、実感というものを持ち得ない楽山の手口なのです。
 
楽山の書く思い付きの文章の邪悪さは、神を否定しながら、他に、救いも、救いにつながるヒントも書けないことにあります。自己愛が強いからでしょう。文句だけ言って、責任を負わない楽山は、他者も、自分の言ったことさえも、不感不応で気にしない体質なのです。
 
 
信仰者は、いかなる悲劇があっても、キリストの愛を忘れることの出来ない人間です。臆病や疑いのために、キリストのもとを離れる人もいるでしょう。また戻ってくる人もいるでしょう。信仰は、一度で決定することではなく、正直でありうるなら、神の愛の寛容によって、いつでも、やり直せるのです。
 
信仰は洗礼を受ければ後は心配ないという信仰ではなく、様々な疑惑という経緯があって離れても、主のもとに帰る道があります。ゆえに、少なくとも、楽山のような者の意見を真に受けるよりは、はるかにマシだと言えます。楽山は、無益な言葉によって他者の人格を破壊する方向だけなのです。
 
キリスト信仰は、境地の固定ではなく、成長するための道です。楽山は、常同的で非生産的なことを繰り返して、言い得たと思うわけですから、成長できない、そして、成長しないでいいと思っているようです。これは、人間を生かす思想ではなく、徒労の反復妄想です。
 
そういう腐敗に腐敗を重ねるような人生は、楽山やシャロームなどの限られた厚顔無恥の異常者にとどめるために、私は書いています。彼らに、誰も、近づかないでください。
 
 
若者 「神は邪悪であるというイメージについてはどうですか」
老人 「『神は善であろう』と仮定すれば、神のイメージは善から外れるものは認められないことになるけれども、『神はすべてであろう』としたらそのイメージは必ずしも善に限定さなければならないというわけではなくなるだろうね。『神は善悪を超越しているだろう』としても、そのイメージは善に限定されるものではなくなる」
 
学者みたいな書き方をしていますが、邪悪なことも起こして、放置しているから、神は邪悪だぁ・・という妄想の刷り込みです。元々、人が、神の善悪を云々することが傲慢であります。信仰者は、既に、生きるための幸いを受け取っているからです。
 
楽山の言い分は、自分が正しく視野が広い、という妄想の土台から言っているだけです。限定されない神のイメージを、楽山の、字面の善と悪と善悪、という言葉で書いて満悦しているのです。"善悪を超越" という言葉を安易に使う楽山は、何も分からないまま、反キリストの策略の泡を吹いています。
 
人は、神の正しさが分かるから信仰者になるのではありません。それも、私のブログに書いてきました。信仰は、神の義と善に従うためにあるのではありません。それは、人間には出来ないのです。そんなことも分からないで、いちゃもんで誘導する楽山は、呆れた幼稚としか言いようがありません。
 
不完全で罪深い人間が、神に対して出来るのは、祈りにおいて、精いっぱい正直であることだけです。それが、信仰なのです。神は、人間に完全な義のないことを承知の上で、正直だけで、信仰の義を与える御方です。人間の側からは、そうとしか、神について考えようがないのです。
 
楽山は、都合の悪いことは無視して、自己顕示欲を小細工で論理的に見せかけて、自身をインテリっぽく見せかけるために、中庸みたいなことを、前から書いていますが、実際は、通念的字面に終始して、何も言えなくなる虚無へ誘っているだけの悪魔性です。
 
楽山は、信仰の救いについて、体験がないために、何も理解していません。さらに、分からないのだからという謙虚さもないために、書くことを控えることもせず、反キリストらしく、無秩序に、いちゃもんをつけてきます。
 
楽山は、自らの混乱を伝染しようとしているだけです。恐らく、よほど、お仲間以外の、誰からも相手にされなかったのだろうと思います。実際、混乱を招いて、共感も責任感もない楽山は、けっして相手にしてはいけない相手なのです。
 
 
若者 「神は善であると言い切れないのだとすると、なんだか辛いですね。僕はやっぱり神は善だと信じたいです」
老人 「宗教のなかには、神のことを善神と悪神に分けているものもある。住民に虐殺命令を下したり、さほどの落ち度もない人物を不幸のどん底に突き落としてその反応を見てみようという悪魔の提案を受け入れる神もいる。また世界の神話には、現代的視点から見たら、とても善なる存在とは思えぬ神々が描かれている。神は善であるとは限らないという考え方は、そう珍しいものではないよ」
若者 「うーん、確かにそうですね」
 
今度は、神を虐殺魔に仕立て上げたいようです。仕立てあげる文章を書いた時点で、虐殺魔の心を持っているのは、書いた人、つまり、楽山だと自分で言っているようなものです。楽山の、敬虔とは逆の、破壊的放言は、楽山自身の何らかの不遇に対する復讐なのでしょうか。
 
「神は善であると言い切れない」・・ひどい虚言~妄想です。人は神の絶対の善を知りえないということです。楽山は、自分の善悪の判断に、どれほど舞い上がっているのでしょう。むしろ、楽山こそが、神に対する善悪の判断はもちろん、人の善悪の判断も出来ない厚顔無恥なのです。
 
「神のことを善神と悪神に分けている」・・それは、キリスト信仰とは何の関係もありません。悪魔のことなら、それを、神とは呼びません。
 
神の与える救いは、地上と御国を含んでいるので、楽山のように、現世が不服で、神に文句を言って、神を否定するのは、自己中の極みでしょう。キリスト信仰は、分からないことをも、神にお任せする信仰です。だらだらと、愚にもつかず、疲労しか与えない楽山の独り芝居とは違うのです。
 
楽山は、まるで、聖書の話を、これをやったから神はおかしい、という、けなし方ですが、神を机上の対象にしている時点で、分からない楽山の不感と、それに見合わない高慢が明らかになるのです。神を仰ぐのではなく、神?を頭の中に概念として捏造して、幼稚な云々遊びをしているのが楽山です。
 
楽山が言ったことに、「うーん、確かにそうですね」と、楽山が答える。笑止のインチキ芝居の自己顕示であります。時と場合を弁えない楽山、"自分が何をしているか分からずにいるのです" という聖句を思い出します。
 
私は、楽山のボンヤリ言語で、楽山のようなボンヤリ人間が増えるのを、できる範囲で防ぎたいと、切に願っています。それこそ、悪魔のように、訂正不能に何度も屁理屈をこねてくる楽山に、決して、近づかないでください。
 
楽山は、人間らしい活性と生産性がないために、同じことを言ってくるのです。問答形式にしたところで無駄なのです。中身は、知らない世界まで知ったことにしないと気の済まない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病的ナルシストの常習的な醜い生業です。
 
 
老人 「善悪の基準は、時代、地域などによって変化するものだ。だから古代人が善なる神をイメージしたとしても、それは現代人からみればとても善とは思えず、理解不能なものになることもありえる。今きみが精一杯に善なる神をイメージしたとしても、それは未来の人々と共有できる善なる神とは限らないし、どちらかといえば理解されない可能性の方が高いのではないだろうか」
若者 「そうかもしれません」
 
楽山の捏造神?概念は、世界中を網羅して、様々な神の像を空想で書いてきます。そのことが、既に、楽山には信じるに値する神がいない、そして、自らを、神と同等に書いてくる傲慢だということを表しているのです。
 
人は、精いっぱい善なる神をイメージして信じるのではありません。神の正しさは、不可知の神の、不可知の善として、人は、祈りにおいて、反省し、黙想し、正直に告白するのが信仰です。それ以上は、人には出来ません。それが絶対孤独から逃れる信仰の道なのです。
 
楽山の、信仰についての勘違いは、殆ど妄想化しているので、交流や議論は無意味であり、批判をせざるを得ないのです。この妄想的確信ゆえに、楽山は、人間らしい良心の感受と気づきをもって信仰を理解する、ということができないのです。
 
また、それゆえに、楽山は、自身が信仰を理解できないものだから、手段を選ばず自分を高めたくて、手段を選ばず敵意を表して、神も人も貶めてきます。対話形式だから、分かりやすくなるような要素は、楽山の主張にはありません。姑息な楽山の独り芝居です。
 
 
老人 「そうであれば、きみが神は善であると考え、イメージしたとしても、それはあくまで個人的なイメージにすぎず、それに賛同しない人が現れて、『この若者は、到底、善とは思えぬ邪悪な存在を神だとしている。これは神に対する冒涜だ!』と噛みついてくることもあるかもしれない」
若者 「世の中には、いろいろな人がいますからね。まさかとは思いますが、ひょっとすると、そんなことも起こり得るかもしれません。少なくとも絶対ないとは言い切れないですね」
老人 「人には、絶対なんてことは言えないからね」
 
楽山にも絶対はないのです。老人も若者も楽山です。ともに、邪悪な神を刷り込んでいます。楽山の語る神は、楽山の神であり、邪悪な存在であり、楽山自身なのです。
 
楽山は、結局、楽山の言うような、幼稚で、無反省で、無責任で、乱暴で、訂正不能の、反キリスト思想を、自己正当化し、自画自賛して、馬脚をあらわしているだけなのです。人間の原罪による不完全性も理解できず、赦されて救われることもなく、どこまでも自己満悦妄想を語っているだけです。
 
神の善は、地上では、人のものとはならないことを、人は判断しているに過ぎないことを弁えるべきことも、私は書いてきました。しかし、楽山の言は、おとしめるためだけに、キリスト教を信じるとこうなりますよ的なことを捏造しながら書いてくる裏の闇の印象操作です。
 
「絶対ないとは言い切れない」、これは、だから注意するべきだ、という意味ですが、楽山は、自身の文章と思想に溢れている偽りに、全く、意を注がず、こちらに向けてきます。そういう人が、言っている、ということを忘れないでください。
 
楽山は、キリスト信仰への、いちゃもんを否定されることを、迫害であるかのように言って、真実の殉教者であるかのような書き方をしています。安い詭弁です。むしろ、楽山は、生まれて今まで嘘吐きの悪魔性だと、絶対ないとは言い切れない、楽山に近づかないように・・ということになるでしょう。
 
 
*宗教批判について 
若者 「これまでお話をうかがって、前よりずっと、あなたの考えを理解できてきたように思います」
老人 「それはよかった」
若者 「でも、あの……」
老人 「どうしたんだい?」
若者 「すいません。また疑問がわいてきてしまったんです」
老人 「どんな疑問かな?」
若者 「ええっと、ですね…あなたの考え方は、神は不可知であって、人には分からないものだということでしたね」
老人 「そうだ」
若者 「だから、人には『神は~である』と断定的には言えないと」
老人 「そうだ」
若者 「神について語るときは、『神は××とすると、~であろう』と限定的に言うか、『私には神は~と感じられる』というように感想を言うくらいしかできないと」
老人 「そうだ」
若者 「神については確かなことは知り得ないのだから、他の人が語る神について、それがどういうものであっても、それについて正しいとも、間違っているとも断言できないとも」
老人 「そうだ」
 
楽山が、楽山に、良かった、良かった、と言う独り芝居です。人の言うことを無視するだけの楽山が、感想を言うくらいに重みがないなら、書かないことです。空しい惑わしであり、悪質な刷り込みであり、かつ、実際に、楽山は、発言の責任をいっさい負わない人です。
 
楽山の卑怯さが全開です。神について、楽山が好きなように言うのを、正しいとも間違っているとも言うな!・・と言いたいようです。ですから、言います。楽山は、邪悪で、間違っています。否定される宗教思想は、このまま、多くの人が信じたら、社会悪に結ぶ付くものです。
 
楽山の、自己中、無反省、無視、訂正不能、虚言、無理解、などの体質は、社会悪やサイコパスに、そのまま当てはまるでしょう。宗教を、自己愛や自己中で語れないことは明らかであり、反省しなければ、いつか、犯罪に結びつく恐れが大であるからです。野放しにして、宣伝させてはいけません。
 
楽山は、明らかに間違っているのです。しかも、故意なのです。ゆえに、反キリストなのです。違法行為がないと逮捕は出来ませんが、批判は、言論の自由だから、いつでも出来るのです。その批判に対して、見苦しい愚痴と嘘と詭弁と三文芝居を返してくるのが楽山なのです。
 
 
若者 「そこで一つ疑問があるのです。あなたの考え方からゆくと、間違った宗教を批判することはできなくなるのではありませんか。世界には、反社会的なカルト宗教というものがあります。神を自称する教祖もいます。人には神のことは分からなず、他の人が語る神について断固否定することはできないのだとすると、そのようなカルト宗教や教祖を批判することはできなくなってしまうのではありませんか。これはおかしいです」
 
楽山の宗教批判が、あまりに低劣な嫌がらせだから、批判しています。知識もなく、思考も詭弁だらけで、かつ、共感性が皆無の楽山は、正当な議論など出来ない人です。キリスト教とカルトをごっちゃにして、批判にもならない、いちゃもんだけの楽山です。芝居を書いても無駄なのです。
 
 
老人 「たしかに、きみの言う通りだ。でもそれは宗教的な見地からは有効な批判はできないというだけのことで、他の面からはいくらでも批判はできるんだよ」
若者 「はあ…、それはどういうことですか」
老人 「人には神について確かなことは分からないのだから、カルト教団が語る神について、それは正しいとも、間違っているとも断言できないし、その教祖が神であるかどうかも確実なことは言えないけれども、その教団および教祖が、違法行為や人権侵害行為をしているならばそれを指摘することは可能だ。教祖の言行不一致や奇行についても指摘できる。教義に論理的矛盾があればそれも指摘できる」
 
楽山は、カルトの定義を、違法行為の有無だと言いました。今も言っています。既に、私は、それに対して、カルトは、犯罪に及ぶ前日はカルトではないのか、と書きました。
 
上のことは、カルトの定義ではなく、逮捕できるかどうかの基準に過ぎません。特にネットの時代においては、カルトを早期に発見して、何よりも批判をすることが必要だとも書きました。
 
まさに、カルトに対しても、キリスト教に対しても、訂正不能と無反省と無視を貫いて自己中と不整な自説を広めようとしている楽山は、カルトと同質の批判対象なのです。矛盾がどうこう以前に、楽山の言は、何も整っていないのです。
 
しかも、結果としてではなく、故意なのです。都合の悪いことを総て無視して、同じことを、手を変え品を変えて、今回は、独り言で恐ろしく長い対話を捏造して、また、言ってくるのです。
 
 
若者 「つまり宗教的な見地からは確実なことは言えないとしても、人権、法律、道徳、倫理、論理などの見地からは意見が言えるということですか」
老人 「そうだ。しかしその宗教において、神は、人権、法律、道徳、倫理、論理などは超越し、何らの束縛もうけないとしており、信者たちがそれを信じているならば、それらに基づく批判はさほど有効なものではなくなるだろう」
若者 「うーん。そういう宗教や教祖が間違っていることを証明するのは無理なんでしょうか。それができないなんて納得できないし、すごく悔しいです」
老人 「それをするためには、神とは何かという問題を解決しなければならないし、それができない以上は、どうにも仕方ないことだね」
若者 「そうですか…」
 
神とは何かという問題を解決しなければと言っています。神とは何か、分かるなら、その神?は、人知を超えた神ではなく、信仰にもなりえないと思います。宗教の基本的な見方が、楽山には出来ていないようで、とても、幼稚です。
 
楽山の扱い方で、神とは何か、分かると言うなら、それは、楽山の、真っ赤な嘘です。いちばん信仰に大切なことが、自己愛・自己中ゆえに、楽山は分からないまま、いちゃもんだけを言っています。あたかも、議論しているかのような小細工を弄して。
 
独り芝居の楽山は、問うたつもりで、主張しており、不可知と言いながら、ならば、解決しなければと言い、かつ、「どうにも仕方ない」 と言う始末です。信頼度ゼロのペテン師です。
 
 
*到底、神とは思えない神
老人 「タイトルは失念したが、ずいぶん前に、酒場に入りびたる天使が出てくる小説を読んだことがあるよ」
若者 「天使が酒場に入りびたってるんですか?」
老人 「そうだよ。小説の主人公のところに、ある人物が訪ねてきて、自分は天使だというんだ。でもその人物は酒場に出入りしていて、とても天使には見えない。だから主人公は、『酒場に入りびたる天使なんかいるわけがない。あいつが天使であるはずがない。でももし本当に天使であったとしたら、それを信じなかった自分はいったいどうなるんだ? 不信仰の罪を犯すことになるのか?』と悩むんだ」
若者 「結末はどうなるんですか」
老人 「主人公は、信じることを選択するんだよ。そして実際、その者は本当に天使だったんだ」
若者 「酒場の天使ですか…どうにもイメージできません」
老人 「私もきみと同じだよ。でも神は全能であり、なんにでもなることができるとしたら、酒場で泥酔している姿で現れないとも限らないだろう。それだったら神が何らかの目的をもって、カルト教祖として現れないとも限らないだろう。場合によっては、空飛ぶスパゲッティモンスターとして現れることもあるかもしれない」
若者 「ははは。それは冗談でしょう。もし冗談でなければ、いくら何でも極論過ぎてついていけません(苦笑)」
老人 「まあ、なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいいだろうね。せいぜい自分には神はこうであると思われるという程度にしておいた方がいい」
 
楽山の「神はこうであると思われる」は、暴言と言ってよいほどの悪性です。命題ではなく、印象操作だからです。邪悪で半端な知能犯は、このように、一見理屈であるなのような詭弁を弄してくるということです。語尾を曖昧にしても、悪意の決めつけは、その執拗さによって、表れてくるのです。
 
フィクションである小説に出てきた神?を、真顔で、神の前提として話を進めている楽山の詭弁に気づいてほしいと思います。「(苦笑)」は、その軽さを表しているのです。楽山は、卑怯で汚い男です。
 
酒場で泥酔、カルト教祖、空飛ぶスパゲッティモンスター、という神、・・これは、明らかに、楽山の悪意による侮辱です。酒びたりの天使の、宗教的発言・行為を書かず、酒びたりというイメージだけで、あざ笑いの対象としています。これも詭弁でしょう。
 
そして、「なんにしろ、神とは何であるかは分からないのだから、神はこうである、こうであるはずだという風に、決めつけるのは止めた方がいい」と言っています。印象操作や刷り込みは、婉曲の分、いっそう、悪質な決めつけです。議論のあり方を自己中で破壊する楽山に近づかないでください。
 
聖書に表された神は、全知全能・絶対完全・永遠不変という人間の手に負えない御方です。キリストは、人に共感する救い主です。ゆえに、キリスト・イエスを、神と人の間の仲保者という言い方もあります。楽山のような矮小な病質者に語れることは何もありません。
 
聖書についても信仰についても短絡した意見しか持ちえない楽山は、その一方的な思想から、神を、雲か霞のような、薄ぼんやりとした存在感のないものという印象を吹き込みたいようです。楽山は、固定観念で云々しますが、神とキリストは、人が固定できる存在ではないのです。
 
楽山にとって、神という存在は、ボンヤリした存在に過ぎないのでしょう。そこが、字面だけで考える楽山の宗教観の限界であり、即ち、神について語る心の資質を、楽山は持っていないということが、楽山によって、示されているのです。
 
にもかかわらず、神を、机上で決めつけて、神がいるならなぜ悪があるのか、などと、けなしてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、神を、楽山の字面だけの理屈の中で決めつけてきたのです。楽山のような偽善者がいるから、むしろ信仰は必要であり、批判しないと社会悪になるでしょう。
 
私は、何度も、神とその意志と行為を決めつけてはいけない、と書いてきました。決めつけないことが、私の信仰観の中心の一つだからです。決めつけてはいけないと言いながら悪い印象を吹き込んでゆくのが、楽山という狡猾な偽善者なのです。
 
こちらの言い分を、無視するのが、楽山という先入観の形骸のような人です。それは、読書にも表れてきました。学者や評論家と肩を並べるかのように、都合の良いところだけ引用して、自身の軽率で拙劣な理路の中に置いて利用し満悦するのが楽山です。
 
今回も、ふざけて、満悦し、神を、高みから見下ろして、神を冗談のネタにして笑う楽山です。まさに、楽山が、今、野放しになっていることが、神様どうしてですか、という祈りにつながると言えるでしょう。書くたびに、書いた文章に斬られてゆく楽山を、暴露してゆきます。
 
楽山の独り芝居の詭弁と悪意に対しては、私が書けるあいだ、改めて批判を書いて、何度でも投稿また再投稿してゆくしかありません。楽山は、反キリストの偽善者の典型です。
 
 
詭弁が招くのは末路

詭弁が招くのは末路
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月26日、再録+加筆)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
 
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
青年の初めて着た背広姿が
 
いつも歩く散歩道の一歩一歩
死を弄(もてあそ)べる老人が
 
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
 
  徒
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
 
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
 
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
 
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
「徒」は、信徒の徒と、徒(いたずら)のつもりです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、恐らく、小中学校の頃から自己中であったろうと思われます。自慢をするが、実体のない人なのでしょう。それで、受けのよい体裁だけを身につけてきたのだろうと思います。ふつう、足らざるを思えば努力するものですが、怠慢のため、嘘に走り、気取りだけを覚えたのだろうと思います。
 
そういう気取りで、その場を凌げることもあり、褒められることもあったのでしょう。大人になってからも、続けている人だと思います。しかし、その総決算は、気が付けばだれもいないという末路において顕著となるでしょう。まだ、ずっと、同じことを続けている楽山です。
 
 
 
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  無理解の感想文
 
 楽山日記(LD)2022年06月24日
 『釈尊のさとり』増谷文雄著
 
 
楽山の感想文には、飾り言葉はあっても、どこが、どのように、・・という解説がありません。理解してないからだと思います。小学校で、感想を聞かれて、よかった、または、感動した、エヘヘ、などと答えるようなものでしょう。この嫌な雰囲気は、楽山の言に表れてくることがあります。
 
楽山が、勉強・学習しないで、自慢げに書いてくるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴でもあります。この障害ゆえに、楽山は、書いたことに責任を負わず、また、反省せず、悪いことを、みな、他人のせいにします。
 
 
*再読
ここのところ仏教関連の書籍は読んでなかったので、ひさしぶりに本書を再読してみた。
特に印象に残ったところは以下の通り。
 
「以下の通り」と言って、その感想の内容の貧相なことです。この程度の感想なら、書かないほうがマシではないかと思います。努力も、実感も、内容が表れていない短い文章になっています。楽山には、文章を公開しているという自覚がないようです。
 
 
*直感
一つ目は、釈尊のさとりは直感であって、そのあと思惟によってまとめられたというところである。直感を得ておわりではなく、そのあとの作業の丁寧さ、粘り強さには感動する。
 
どう「作業の丁寧さ、粘り強さ」であったか、楽山は書けないのです。内容に触れないで褒めるのは、楽山が内容を理解していないことを表しています。「直感であって、そのあと思惟によってまとめられた」・・そういう書き方が表しているのは、ほめとけばええじゃろ・・で、読んだことにする人です。
 
 
*初転法輪
二つ目は、五人の比丘たちは、釈尊の説法を聞いて、その内容をすぐに理解したわけではなかったという話である。何日にもわたって、釈尊は五人の比丘たちが理解するまで話し続け、五人の比丘たちもそれを聞き続けたと…。双方の粘り強さには感服する。
 
感想は「粘り強さ」だそうです。「感服」したのだそうです。文章を書いて公開すれば、その文章についての感想も生まれます。わざわざ、読んだけど理解できなかったのでこの程度を、書く必要ありましたか、という感想をいだかれても不思議のない文章になっています。
 
 
*悪魔
三つ目は、悪魔とは色受想行識であるという指摘である。これは前に記事にしたことがあるが、仏典には、釈尊がそのように語ったと書いてあるというのは説得力がある。これは縁起、無我、五蘊仮和合…などからしても、よく納得できる説明ではある。
 
そして、「色受想行識縁起」「無我、五蘊仮和合」と、難解な言葉を書いて、「よく納得できる説明」と書いています。説明がありません。人に文章を見せるということを全然自覚していないようです。そういう自己満足の独り言なら、公開しないで、ノートに書くにとどめてほしいと思います。
 
(ネットより)
五蘊(ごうん)とは
そもそも五蘊とは、人間は1つの肉体的要素と、4つの精神的要素の、合わせて5つの要素で構成されていると説く仏教の思想である。
色しき(ルーパ)
受じゅ(ヴェダナー)
想そう(サムジャナ)
行ぎょう(サンスカーラ)
識しき(ヴィジュニャーナ)
色 → 物体
受 → 感受
想 → 表象
行 → 意志
識 → 認識
禅の視点 - life より
 
(ネットより)
個々の事物は因縁によって五蘊が仮に集まってできたものであるということを五蘊仮和合(ごうんけわごう)という[4]。五蘊仮和合は、特に有情の個体については、我として執着するような実体がないことを表す[4][注釈 2]。
五蘊(Wiki)
 
ざっと言えば、物体など現象を、受け取って、頭の中でイメージして、行動の意志が生まれ、認識に至る・・ということらしいです。詳しいことは知りません。
楽山は、平気で宗教などの専門用語を使ってきますが、解説して理解を促す気はないのです。世辞は言っても、気遣いはしないようです。
 
 
なぜ、楽山に対して、このようなことを書くかと言えば、この無責任さで、勝手に決めつけて、キリスト教や信仰を侮辱してきたからです。こちらの批判を無視して、反対も賛成も書いたから責任問題は発生しないなどと書いてくる始末です。こういう人がいると議論が成り立たないので批判を続けています。
 
あらゆるところに言葉についての不始末が表れてくる楽山です。言論についての、書いて公開するということについての、分別や節操が、まるで無いのです。このような文章は、ノートにでも書いて、公開しないでほしいものです。読者に、時間の浪費をもたらすだけです。
 
無反省で無責任に、言いっぱなし、それが、私との関係でも、3年以上続いています。つまり、言うには言うが、責任は取らない、訂正もしない、インテリ気取りで、訂正不能、書いたら忘れる能天気な楽山に、付き合う人がいなくなるのを、心から願って止みません。
 
楽山についての評価は病質ということで、記事を読んでも、変わることはなさそうですが、先日、楽山から遣り取りを求めて来たことがあります。また疲労させるつもりでしょうか、今さら何を言っている・・ということです。楽山は、嘘と詭弁による真実の追求の阻害因子です。
 
楽山の害毒を経験した者としては、成り立たない遣り取りで病的に疲れることは、一度でたくさんであり、もはや同じ選択はしないのです。楽山に限っては、私のブログのコメント欄、および、私のツイッターには、出入り禁止です。私も、楽山のサイトに書き込むことは、一切していません。
 
 
瓦礫を誇る者

瓦礫を誇る者
 
 
(2022年06月25日)
 
 
 
  バラバラになって
 
奇妙なやつだ
死んでいるはずなのに
バラバラになって
半分焼け焦げた肉片が
あちこちに転がっている
 
黒焦げになったのや
まだくすぶっているのもある
口と鼻の一部が
瓦礫の上に斜めに傾いたまま
少し離れて片方は飛び出した眼球から
原形をとどめない髪の頭部までが
逆さになって
言い残したことでもあったのか
唇はしきりに動かしているし
目はキョロキョロとあたりを見回したり
時々こちらを見ている
声にならないので何を言っているのかわからないが
むごたらしさ以外の何かを
伝えようとしているように思えてくる
ひょっとしたら彼も
隣に転がっている私を何か言いたげな
妙なやつだと不思議がっているのかもしれぬ
誰かが私を持ち上げた
天と地が大きく回った
 
反応がない
周りの人たち
口を動かし声を出そうとするのだが
出てないらしい
 
ドーンと
音と衝撃のようなものがあって・・・
そこまでしか覚えていない
ライトはやけに明るいが
もともと暗い部屋だなここは
 
胴体と手足を並べている人
その足首は違うよ
私のじゃない
気づいたらしくどこかへ持っていった
別の人はしげしげと眺めては何か書いている
皮膚や肉を切り取ってガラスの皿やビンに入れながら
話しあっている別の人たち
メスを入れるのか痛くはないが
幾人かは書類を持ってすでに去った
やがてライトが消され
カバーをかける一人を残して皆去って行く
 
とても暗いよ
ちょっと待ってもらえないかな
まだあるんだ言いたいこと
たくさん持って私ここに
まだ・・・ある・・・のに
 
 
  無人の駅
 
迎えるためか
見送るためか
無人の駅のホームで
一人の老人が待っていた
 
ここは廃線が決まっていた
すでに汽車が通る予定はなかった
人にそう言われても
「だから行かなければ」と
老人は毎日
一人で立って待っていた
 
廃線が決まってからまもなくだった
砂利が敷き詰められた
もう線路はなかった
人にそう言われても
「だから見つけなければ」と
しゃがみ込んで老人は
まだ待っていた
 
かつて駅だった空き地
子供たちが遊んでいる
老人の姿はない
隣接した国道にバス停
バスが着いた
「セイリケンヲオトリクダサイ・・・」
 
駅とは呼ばれない崩れた廃屋
ホームとは呼ばれない潰されたコンクリート
埃にまみれた瓦礫や板の中に
伝言板らしきものが落ちていた
「コクウ ニテ 」
読める字はそれだけだった
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「実践するのは難しいんだよなあ」「これも一種の、人間の性なんでしょうかね。」・・あとに、エヘヘか、楽山の好きな、トホホでもついてきそうな、成り立たない言い逃れです。反省が楽山にだけは難しいから、楽山は病的ナルシストと呼ばれるのです。楽山の、砕けた表現は、警戒するべきでしょう。
 
 
 
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  楽山の偽善性2
 
 楽山日記(LD) 2020年06月17日
 『読む力 現代の羅針盤となる150冊』松岡正剛・佐藤優 著
 
 
楽山は、有名人、知識人、学者、などインテリが大好きです。しかし、自分に好都合なところだけを引用したり、賛同したりして、結局、自分もインテリだと言いたいだけの自己顕示欲だということが、以前から、表れており、信頼度はゼロなのです。
 
 
常々、もっと本が読みたい、もっと読解力を身につけたいと思っているので、タイトルにひかれて読んでみた。その中身はどうかといえば、どうも自分には高尚過ぎてついていけないところも多いのだが、全体的には期待した通り面白くて一気に読んでしまった。
 
一気に読んだと言っている楽山が言いたいことはというと・・
 
面白かったところをいくつか挙げるとすると、まずは宗教の通俗化についての話がある。恐らくは学者が書いた宗教関連書籍のことを念頭においての発言のようだが、佐藤優は「面白くないし、本質において宗教を信じる人の内在的論理がわからない。これはセンスの問題ですからどうしようもないです」(p.219)とし、さらには著名な宗教学者の名を出して、「読んでいると、本当に眠くなってくる」(同上)とバッサリ切り捨てているのには驚いたし、おかしくもあった。信仰のある人には、この発言に賛成する人は多そうではある。
 
いかなるジャンルの本にも、文章にも、面白いものと、面白くないものは、あるでしょう。面白くないだけなら、読むのをやめることも出来るわけです。しかし、楽山は、面白くないと書いてある本が大好きなようです。
 
宗教は、宗教自体の問題もありますが、楽山のように、興味本位で読んでいるだけだと、楽山のように、自分を見ず、反省もできないような、揶揄するだけの偽インテリにしかならないと思います。あざ笑って悦に入る者は、恐らく、いかなる宗教も信仰も理解できないでしょう。
 
楽山の書く文章は、面白くないだけでなく、有害な文章でもあります。何よりも、共感が全くなく、書いた人の妄想とインテリ気取りと無理な自慢だけというのもあるから厄介なのです。宗教と信仰にとって、妨害行為になるので、批判しないといけないからです。
 
ここで、楽山は、知識人の口から、眠くなる、という感想を持ってきます。全か無で、いつも、自分と同じ意見を漁っては、書いてくるのが、楽山の特徴です。キリスト教、面白くない、というのを、印象付けたいのでしょう。いちばん面白くなくて有害なのは、楽山自身です。
 
「眠くなってくる」だけなら、読むのをやめればよいのです。つまり、楽山は、バカにすることで生き甲斐を感じる人だということです。こういう人は、弱い人に対しても、同じような態度で、おとしめて笑う、ということがあるので、決して近づいてはいけないと思います。
 
楽山の文章は、面白くないだけでなく、狡くて、嘘や詭弁が溢れており、汚い口で、読者をマイナス方向に誘導してきますから、キリスト者としては、読むのをやめるだけでなく、抗議の批判を書くことになります。誰も、一人も、楽山に、近づいてほしくないからです。
 
 
もう一つ本書のなかで面白かったところを挙げるとすると、渡部昇一が高く評価されているところだ。「世間は「右側」の色でしか見ていないけれども、非常に優れたカトリック知識人だということは、やっぱり記録に残しておかなければいけない」(p.178)と、佐藤優は最上級の評価をしてベタ褒めをしている。
 
渡部昇一のことは、よく知りません。Wikiによると、宗教の著作より、はるかに、政治思想の著作が多いようです。しかし、楽山は、カトリック知識人ということを重視しています。そういう立場の人のことを書いて、自分を高め、宗教と低く見なして、やはり、悦に入るのでしょう。
 
 
自分は渡部昇一は大好きで愛読していた時期があったのだが、そのうちに言ってることがあんまり大雑把すぎると思いはじめて遠退き、「書痴の楽園」を見てやっぱり面白いと思いなおしそのままになっていたのだった。でも根が単純なので、氏を高評価している文章を読むと、また読みたくてたまらなくなってくる。口述筆記のものは読みやすくていいが、そうではない初期のエッセイなどは特に中身が濃くて、着眼点も新鮮で面白かったと記憶している。いま読み返しても以前のように面白いと思えるか試してみたい。
 
ぐだぐだと書いているようですが、言葉の字面だけを並べてキリスト教をおとしめ、今までほとんど聖書も本も理解できていないことが明らかになっているところの、楽山にとって、新鮮で面白かったというのは、どういうことでしょう。説明できないから、面白かったと書くだけではないでしょうか。
 
 
あとは、「読む力」ではなくて、書く方の話も面白かった。文章を書く際には誰に向けて書くか、その対象となる読者を明確にしておくべきだとか、書評における引用の必要性やケチをつけないことという心得も興味深かった。これらは文章作法の基本ではあろうが、ともすれば忘れがちなことでもあろうし、文章を書く毎に再確認しておくべきことである。
 
「ケチをつけないこと」を当てつけています。私は、ケチをつけているのではなく、楽山が語る宗教と信仰の記事を、ほぼ、全否定しているのです。自己愛と自己中は、宗教と信仰には縁はないのです。楽山は、反省と学習が出来ないので、読むことも、書くことも、まともに出来ていません。
 
というのは、楽山は、反省と学習ができない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。自分の気に入った文言だけしか、読み取らないし、書くことも出来ないのです。読めば読むほど、書けば書くほど、その自己中だけが、表れてくるでしょう。
 
 
本書はタイトル通りに、本、読書についての話題は豊富であるし、読むべき本のリストも提示されているので、本好きにとって楽しい本である。ただし一読すれば、まちがいなく読書欲を刺激されて、濫読したくてたまらなくなってしまうので、読書時間を十分に確保できている時以外は読むのは控えた方が無難ではある。そうしないと読みたいのに読めないというストレスで大変なことになるだろうから。
 
楽山のように、自己愛による自尊過大の人は、心で読む、心に深みを感じる、ということが出来ないし、そういう深みや人間味を感じさせる文章になっていないという事実経過が、書いてくる文章に表れてきました。楽山が、読んで面白いとか、分かったと思って、書くことは災いにしかなりません。
 
そういう人は、乱読も、熟読も、少なくとも、その感想文が、誰かの糧になるということはないのです。この記事も、解説につながることは、何も書いていません。自身の意見も、一般の意見も、書かず、解説もしていないことを、見逃してはなりません。楽山は、以前から、そういう人です。
 
読むのは勝手だが、書いて公表すれば責任が生じることを知らないのです。だから、好きなように、平気で他者を侮辱してきます。小学校の作文も、採点がついて、公表されるのは優秀作品だけでしょう。扱っているテーマはとても大きいのに、楽山には、小学生レベルの心得も出来ていないのです。
 
自己主張ばかりして、不都合な他者の意見つまり批判を無視している楽山は、いつまでも、自由に伴う責任というものを、自覚できずにいるのでしょうか。それは、読者家としてはもちろん、常識人として、人として、失格なのです。
 
 
 
    今までに表れてきたこと。楽山についての資料まとめ。
    このまとめ記事は、加筆修正しながら、
    前半は前の記事と重複しますが、
    これからも、たびたび再録することになるでしょう。
 
 楽山についての、資料を、繰り返しもありますが、まとめて、
 加筆しておきます。
 
自己愛が強く自己中である。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)。
 
平気で嘘を吐く。世辞と、謙虚芝居と、様々な詭弁を弄して、柔和と中立に見せかける。
 
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。しかも訂正不能である。
 
理路が常識的にも浅く、理解も出来ない。特に批判に対しては不感不応、または、無視するだけ。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く成り立たない。障害に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から、いつまでも離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。広く、人間として好ましい心が無い。
 
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
 
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
 
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
 
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
 
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
 
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山は、学習の結果としての自身の顔を持ちません。ゆえに、反キリストでありながら、キリスト教に執着したりなど、一定の見解もなく、求めることもなく、いくつもの良さそうな仮面を作っては見せびらかし、自己顕示して自己満足するだけなのです。
 
ボンヤリ言語は、狭義には、少し誇張した例で言うと、・・であるに違いないと言えなくもない、といったような、二重否定の肯定で、自信の無さよりも、謙遜味を出すこと、あるいは、あとでつけ込まれないように、安全策を施したつもりでしょうか。
 
まるで、無事に帰ってくるかどうか分からない自分の発言という船を見送る不安を減らすための、虚空相手の自慰行為のような癖が染みついているのでしょうか。こう言っとけば、柔和で中立と思ってくれるじゃろ・・という書き方が多い。
 
それと、ボンヤリ言語は、加えて、文脈の進め方として、回りくどく、粘着するような言い方をして、読者が、ああそうですか、というような、めんどくさがりながら、同意するという、角の立たない受け入れをしてくれるように誘導してくることが多い。
 
私の経験から、いい文章は、その一部にでも、大なり小なり、はっとするような感動を伴います。そういう文章を誰もが書きたいと思うし、努力するのでしょう。しかし、楽山には、その方向に努力する意志もなく、既に、感動を、自己満足で置き換えている。
 
そのために、読んで、否定はしにくいが、退屈であり、平凡であるのに、よく読んで批判されることが、いちいち不当にしか思えないのでしょう。楽山の実際は、読書においては、楽山は、本当の自己満足を打ち砕くような感動をしたことがないのでしょう。
 
だから、字面の辻褄があっただけでも、文字列検索一致だけでも、涙した、などと、また、自分の言葉で表現できないために、そのまま、あっと驚いた、などという、原始的な書き方をすることになっているのだろうと思います。
 
上のような言葉の悩みは、私にもありますし、多かれ少なかれ、誰にもあるのかもしれませんが、だからといって、あんまり、白々しい、まんま表現だけで書いて、それで、そのあとに満悦するなんてことはないと思います。それに、言ったことには責任が伴うことを、普通は知っています。
 
ましてや、謙虚な自分を、トホホ言語の謙虚芝居の、わざとらしい書き方で表したつもりになるというのも、これも、同じ、まんまだけの、字面だけのものになるわけです。「反省、とほほ」などという言い方が、典型になります。
 
即ち、楽山は、自身の、字面の平面を、いつも、滑っているだけになり、他者の言葉を借りて、文章を書き、それで足りるとか出来たとか、のつもりになっている間、どこにも届かない字面のジレンマが続くことになり、だます方向に行ってしまうのだろうと思います。
 
言語表現に向かない人は、絵を描くとか、音楽とかの、別の世界にという可能性もありますが、少なくとも、言葉と伝達の、一対一対応という幻想に満悦固定してしまって、字面=言いたい内容として、書いた書いたと満悦し、批判に当てつけだけ書いてくる間は、どうにもならないのです。
 
 
参考までに、前に何度も、結果だけは書いてきたことですが、次は、シャロームshalom と楽山の関係を示している事実です。
 
  偽善者の自滅
 
シャロームのことです。自滅というのはシャロームの言論・信条の自滅のことです。私は、シャロームには、キリスト者に不可欠の、罪の意識がないと思ったので、それと問いただしていました。すると、シャロームは言ったのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」
 
シャロームは、悔い改めて罪を認める、ということを否定したのです。これは、いかなるキリスト教、キリスト信仰にも、ありえないこと、というより、反キリストの証明になります。当然、そこを、追及することになります。
 
すると、シャロームは、その場を繕うような、白々しい詭弁で言い逃れをしてきます。
 
「悔い改めは、神が与える」
 
シャロームは、神が与えるなら、悔い改める、今は違う、とでも言いたかったのでしょう。
 
しかし、この文脈で、この発言は、シャロームがキリスト者ではないことを表しているのです。
 
なぜなら、シャロームが、今に至って悔い改めをしないのは、神が、シャロームに、悔い改めに必要な信仰の導きを与えていないということになるからです。つまり、シャロームは、自身がキリスト者でないことを、自ら証明してしまっているのです。
 
そして、このシャロームの言説に、無条件で賛同したのが、楽山なのです。楽山は、シャロームの妄想発言に賛同しました。このことは、楽山が、自主性の無い人であり、シャロームの、成りすまし、親族、仲間、そのいずれかであることを、楽山が、自ら、証明したことになります。
 
 
参考までに、神が人を悔い改めに導くという聖句です。↓
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
 (ローマ2:3-5、新約聖書)
 
神を信じて善人になりましたという信仰の因果ではなく、神の前に、キリストの前に、悔い改めて、正直に告白した、あるいは、弱みを見せざるを得なかった人が、キリストによって、救われていることを覚えてください。救われないパリサイ人は、讃美はするが、告白の正直さがなかったのです。
 
 
偽善の花と鼻

偽善の花と鼻
 
 
(2020年06月18日)
(2022年06月19日、再録+加筆)
 
 
 
楽山のツイッター
 
★こも/楽山日記3
@komo266
図をよく見ると、
「人間の自己中心主義」というよりも、
「人間の男の自己中心主義」になってるじゃないか。
宗教は、神という上位の存在を想定するものだから、それを信じれば信じるほど、何でも上か下かでしか見られなくなるのかもしれないな。
 
図(省略)には、人間が三角形の頂点にある EGO と題された絵と、人間が動物の円の中にある NATURE と題された絵が描いてあります。様々な生命という意味で意義はあるでしょう。しかし、楽山のような自己中心の欲望しか持っていない者が、これを宗教否定に使うのは、著しい妄想的筋違いであります。
 
楽山はいつも、他者を、上から見下ろして勝手な文句ばかり言います。「何でも上か下かでしか見られなく」なっているのは、まさに、楽山であります。またしても、斬るための発信によって、楽山が斬られているという証拠なのです。楽山の口は災いです。楽山は、カルト的決めつけの害虫です。
 
正常な信仰においては、神のみが上であり、その下に不完全で罪深い人間がいるということです。楽山は、そのことを、まるで理解していません。理解できないのに、文句だけは書いてくるのです。いちゃもんしか言えない楽山、・・こうなったら、おしまいかもしれません。
 
楽山は、ここしばらくの間、私の知っている楽山ブログでは記事を書いていませんが、他にブログがあるのかもしれません。さらに、このように、ツイッターで、持ち前の実に嫌らしい捨て台詞のような筆致で当てつけをしてきます。あらゆる人間の良心のセンスを持たない病質者です。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  求めよ
 
求めよ、さらば与えられん
・・・・・
あまりにも有名な聖書の言葉
しかしいったい何が与えられるのであろうか
言うまでもないことだが、求めればいつでも
欲しいものが与えられることではないわけで
むしろ苦難の時の霊的な賜物というべきか
勇気や安らぎに似たものか
こころゆくまで苦悩を表現したときに感じる
昇華作用のようなものがあるかもしれない
精神的効用と言ってしまえばそれまでだし
表現する相手によっては損をしたような気色にもなる
しかし相手が神様となると事情は違うだろう
はかない独り言のように思えても
限りない包容といつくしみを
忘れかけている者にとって
祈り求めることは違った働きを持つ
 
無限といっても有限といっても
奇跡といっても気休めといっても
霊的といっても心理的といっても
心の底の底、奥の奥まで
人にわかるはずもなく
またそこまで理解する必要もない
祈り求めることは
生きた働きをもって返されれば充分である
 
偽りのない
正直な祈りは
告白を伴って受けとめられ
信仰がまさに絶えんとするきわに
神と人との契約
基督と個人とのきずなによって約束された
閉じた目のぬくもりを身近に目覚めさせるだろう
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
良心と良識のある人間でありたい人は、楽山と交流や議論をしてはいけません。楽山は、だますための嘘と詭弁だけを身に着けていて、まともそうに見える屁理屈へ誘導し、異常な疲労を与える病原だからです。楽山は、ただの無神論というレベルではなく、悪意の軍団なのかもしれません。
 
 
 
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  笑止い自慢の楽山2
 
 「ヨブの信仰」羽仁もと子著
 楽山日記(LD)2020年06月16日
 
 
(辞書より)
笑止い(しょうしい):気の毒、滑稽。(東北・信越地方で)恥ずかしい、おしょしい。
笑止(しょうし):大変なこと。困ったこと。気の毒なこと。笑うべきこと。おかしいこと。恥ずかしく思うこと。
( Ex-word 広辞苑 )
 
 
楽山は意地になっているのでしょうか。それとも、びくともしないことを示したいのでしょうか。出力は、受け取れば、必ず、その性質が表れます。
 
その積み重ねがあり、そこに問題があれば、自然の流れとして、問題点についての資料が多ければ多いほど、詳細な文章となって返されることになります。楽山は、鈍感~無視~厚顔を鍛えるために、それを望んでいるのでしょうか。驚くべき不感不応で、書き続けているのです。
 
 
 楽山の偽善性
  改めて、今までに表れてきたことから現状の、楽山についての資料まとめ。
  
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であろう。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という障害の自覚に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
トホホ言語と芝居で、同情を誘い、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
このような小細工をすることで、楽山の文章は、何ともじれったく辛気臭いものになっている。
 
アドラー心理学、実は、アドラー教という自己中推進カルトの宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を少しばかり字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
以上の多くは、シャロームと共通である。楽山は、シャロームや易坊の、キャラを変えた芝居の成りすましではないかという疑惑がある。でなければ、親族か、カルト仲間か、筆致を変えているが、内容が、実に、よく似ている。
 
この楽山の資料まとめは、必要があれば修正加筆して、これからも載せるつもりです。
 
 
楽山は、他者の言葉を借りて、自分を高めようとしてきました。いかなる他者の言葉を引用しようとも、楽山が選んで自己満足のために書いてきたものなので、楽山の意見として、責任を追及し、批判することになります。
 
 
『羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。
 
「あっと驚かされる」「ストンと収まる」「涙が出る」・・大嘘です。ヨブは、悲劇に遭って神が助けてくれないので裏切り、自己正当化をして、神と議論したいなどと、神に悪態をつきます。しかし、神が顕れて叱りつけると、すぐに、悔い改めました。
 
ですから、ヨブは、神を "信じきっている" というのは、間違いです。
 
苦痛の中でも、神を信じ切っていたのは、キリストだけです。
 
私たち信仰者は、神が目に見えない地上の世界に住んでいます。したがって、代わりに与えられた聖書から、感じ取り、考え、信仰を受け取ってゆく必要があります。
 
そう考えると、楽山の無理解の経過から、妙に納得、胸にストン、というのは、嘘であり、実際は、分かっているふう、ちゃんと読んでいるふうを装っている嘘であり芝居に過ぎない、ということが感じ取れるわけです。
 
ましてや、涙が出る、に至っては、今までの記事とコメントの流れ、文章の中の前後関係から言って、質量の無い文脈の典型で、嘘吐きペテン師である楽山の、ふざけた三文芝居であることも分かるのです。
 
文章を読むときに、その文章だけではなく、過去の文章とその主張の流れを把握しておくことが大切です。過去と一致せず、反省もしていないならば、言い逃れの嘘と判断できるでしょう。
 
楽山にとって、言葉は、真実を表す手段ではなく、自分をよく見せる安いツールでしかないと思います。ここまで、平気で、偽りを続ける楽山に、毛ほどの信頼も寄せてはいけません。
 
楽山の 隠された悪意の本性は、随所に、深みの無い、まともな文脈の無い、罪悪感の無い、皮のような垢のような思い付きの、泡を吹くような、きれいごとによって、化けの皮が剥がされてゆくでしょう。
 
ここに至って、なお、平気で、恐らく笑いながら、白々しい記事を書いてくるところに、楽山の、不治の病巣の深さが表れてきます。もはや、悪魔性、全開です。
 
 
宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。
 
本音の疑問なら、私も祈りにおいて言うし嘆くことこともあります。しかしながら、楽山のように、嘘を吐き、だまし目的で語るところの、おとしめと、けなし言葉と、嘘の納得を、受け入れる神ではないのです。
 
楽山は、神を知らないから平気で言っていますが、露骨な悪意を、平気な顔で、今に至るまで、神に対して、さらし続けているということです。恐ろしいことなのです。
 
 
でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、
 
神の愛を信じていないから、恨み言を、だまし文句を多用して、平然と言えるような根腐れ者もいる、ということが、楽山を通して分かるわけです。
 
肯定的な文言が、ことごとく世辞や嘘や芝居であるような偽善者が、神に受け入れられることは決してないことが、聖書を読めば、どういう人が救われ、どういう人が敵となったか、キリストの言葉を知れば、ふつう、分かるのです。到底、赦されないことを、楽山は、言い続けてきました。
 
楽山は、人間性のない乾燥麻薬のような害毒だから、反省も成長も後悔もしないでいられるのです。凝固した人格が、麻薬のような粉の言をまき散らしながら、人格を失ってゆくプロセスが、楽山を通して表れています。
 
このリスクは、神の裁きが下るまでは、人間が、自分の自由意志で、回避するしかないのです。それまでの間、楽山は、束の間の全能感に浸ることになるでしょう。
 
 
だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。
 
このことを信じている楽山なら、今までの、そして、今回の、嘘と偽善と自己中、ましてや、霊が分かるっぽい慢心に至ることはなかったわけです。ここに至っても、あるいは、ここに至るほどに、楽山の言を、楽山自身の言が否定している、ということに、全然、気づかない楽山です。
 
 
この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。
 
神は、キリストは、偽善者に対しては、対立し、批判しました。楽山の言は、信仰を求める心からの不敬発言ではなく、神と人を騙そうとする偽善の反信仰発言です。こういうことを平気で言ってくるのは、聖書のキリストの言葉を、楽山が、まるで受け取っていないことの証拠です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書)
 
 
こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。
 
今になって、何を自慢しているのでしょう。しかも、"現実以上に" リアルに感じる、と言っているのは、自分が霊能者だと、自慢しているのです。病巣が、むき出しになってきました。どこまでも、自己正当化を図るゆえに、ますます、病巣を露わにする偽善者、楽山です。楽山にリアルはありません。
 
 
即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。
 
楽山の幼少時代は知りませんが、他人に甘い自分というのは、自身のボンヤリ言語にかこつけて、またしても自慢であり、今度は、やさしさ自慢と自己満悦であります。楽山は、とても卑怯で陰険な人です。「大甘な神しか考えられないのだから仕方ない」で、正当化できる何ものもありません。
 
このように、発言が、いちいち自慢ベースで語られるのが、病原ナルシストの特徴です。シャロームも同様でした。意識しなくても自慢してしまうようになってしまうのでしょう。
 
「大甘な神しか考えられない」・・だから、楽山は、知恵もなく、情緒もなく、良心もなく、キリスト者ではなく、中立でもなく、偽善を生業(なりわい)とする偽善の反キリスト、宗教詐欺師なのです。これも証拠と言ってよいでしょう。
 
 
羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。
 
引用元のことは知りません。しかし、楽山が、興味を持つと、ろくなことはないでしょう。楽山の感じている神と近いと言われることは、最大の背教、最大の裏切り、最大のペテン、最大の侮辱だからです。
 
 
本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。
 
楽山の聖書や書物の誤読と曲解については、今までも書いてきました。それに、何の弁明もしないまま、「文語体の方も」「見てみたくなるなあ」などと、これもボンヤリ言語ですが、恥ずかしげもなく書いてくるところなど、次々に、自らの偽善性を、虚偽性を、自ら証明している楽山です。
 
優しさと親しみと冷静を装う楽山の、今回の記事も、「なるなあ」排泄も、前の「言えなくもない」も、ボンヤリ言語であり、嘘っぱちであります。そのたびに、反キリストぶりを表しているのです。
 
はっきりと物が言えないくせに、前の記事で、他者の言葉を引用して「キレる高齢者、暴走老人」などと当てつけてくる楽山の、どこが中庸でしょう、どこが中立でしょう、どこが柔和でしょう、どこが弱いでしょう。楽山にあるのは、高慢と、無反省と、自己中の、厚顔無恥だけなのです。
 
 
真っ赤な嘘だらけ

真っ赤な嘘だらけ
 
 
(2020年06月17日)
(2022年06月18日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから嘘が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  (抜粋)
 
はじめに言葉ありき、言葉は神なりき
真実の言葉を語りたかったのです
しかし言葉が人に渡ったとき嘘が生まれ
人の中で言葉がもまれればもまれるほど
それは踏みつけられ、互いにむさぼり
言葉は人の中で死んでいくのです
 
 
  涙の定め
 
売れない役者の嘘の涙
売れる役者から買った涙
忘れたくないのは
演じることのできない
孤独な舞台に立たされて
売ることも買うこともできない涙
を受け止める器(うつわ)において
忘れたはずの涙も
今流している涙も
隠して耐えることをしなくても
いずれ必ず乾く定めを持っており
元々涙は売ることも
買うこともできないということだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の白々しい嘘は、神によって、全て見抜かれています。それだけでなく、今までの経過を知っておれば、人によって見抜かれてもいます。どれだけ長い間、嘘を吐いてきたのでしょう。嘘は、結局、嘘を吐いた者に返ってくるのです。とんでもない人格を破壊するために。
 
 
 
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