ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:嘘

 
  汚い読書2
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。
 
しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。
 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。それは、宗教でも信仰でもなく、超常の魔法を意味しています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解によるものではないと思います。
 
まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、
 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかということになるのです。
 
(ネットより)
【超自然主義】 の解説
《supernaturalism》哲学・宗教学などで、理性では説明のつかない事象の存在を認め、これを超自然的な力や神の啓示・奇跡などによって説明しようとする立場。
 
上のような言い方で、現実離れした超自然の世界を夢想して、そこから、他者を愚かしいと言うことが、楽山には快感なのでしょうか。楽山は、スーパーナチュラルになりたいのでしょうか、既に、なっていると言いたいのでしょうか。実に、アンナチュラルで、愚かしいことです。
 
後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。
 
楽山の筆致は、いつものように、曖昧なボンヤリ言語ですから、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。
 
そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい?自覚の楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。楽山は、殆ど、超常奇跡信仰の天国みたいな話を作っています。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、実に幼稚な空想と言うべき誤謬にしてしまいました。つまり、子供の発達心理学の話を捻じ曲げて、心霊の話として読むという酷い誤読であります。楽山は無理解ということの根拠であります。
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。無神経で成り立たない理屈遊びです。
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるためには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、自分を超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界が存在する可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の思い込み超能力を指示も支持もしてなどいないのです。こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。何も実のあることを語れない楽山です。
 
また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。
 
楽山は、「判然としない」と言いながら、心霊主義的に「おおよその意味は了解できそう」と言っています。つまり、楽山が理解と言うとき、理解は、心霊のように、判然としていないことになります。
 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度によって、一定の位置を占めるだけなのです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、カルト精神に、学者の名前まで利用して巻き込もうとしているのでしょうか。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えているようなものです。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。
 
とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。
 
「即日可能というわけではないだろうが」「誰にでも可能のはず」と言って、いつかは自分も出来る、誰でもできる、と言っています。空約束を語って恥ずかしくないのでしょうか。
 
直ぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい超能力者?であることを、やんわり、ボンヤリと、しかも、強調しているのです。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。悪霊になるからです。
 
楽山は、なんとか、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうる、ということを暗示したいようだが、今まで、ずっと、鋭く深い洞察や共感の欠片も見られない楽山の文章からは、もはや、すべて、思い上がりの思い込みに過ぎないことは明らかであり、一切は、無意味な作り話に過ぎないと分かる記事になっています。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも悪用する楽山が表れているだけです。
 
最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、
 
実在界・理想世界に興味と関心と思い込みが薄いならば、こういう厚かましく超常を語る記事は書かないはずなのです。
 
つまり、真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を飾るためだけに書いてきたとしか思えないものです。ナルシシストの自己顕示欲と、それに全く値しない楽山の実態と実体だけが浮き彫りになってきた経過です。
 
やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。
 
文脈から、超自然主義の超常の理想世界がなつかしいのだそうです。昔そこに自分はいた、という、今度は、昔話でも捏造したいのでしょうか。
 
楽山の霊が分かるっぽい?自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 
結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、
 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、中にあるという言い方をして、一般的な事柄に見せかけて、自分を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使うのが、楽山の詭弁屋たるゆえんなのです。
 
ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになる、という妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びることを夢見ているなら、寒気のすることです。霊能というものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 
それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。楽山が自然体と言っているのは、周りが何と言おうと無視して平気でいることでしょう。つまり、無反応で一方的な凝固体です。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、何を言いたいのか分からなかったり、言うまでもない当たり前のことであったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、作為的にバカ丁寧であったり、わざとらしい芝居がかったものであったり、奇奇怪怪なものだらけです。
 
自然というより、不自然さらに不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりで、載せてくるのです。
 
楽山は、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には、大方、負の、心霊と超常には、大方、正の、印象の刷り込みをしてきました。それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。体質的な、精神の異常であり、病質であり、虚妄の泥の風呂に浸かっているようなものです。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、奇跡の霊力が降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てる喩えだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して、印象操作をして、自己顕示してくる楽山に対しては、やはり、自己愛性人格障害、という見方をせざるを得ないのかもしれません。シャロームに対する判断と極めて近い判断になりますから、体質的なものか、それとも、悪意ある企みか、いすれであるかにかかわらず、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に似合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、黙ることしかありません。しかし、楽山は、既に2年半、黙らないようですから、逐一、批判を貼りつけるしかないでしょう。
 
 
誰をだます気か

誰をだます気か
 
 
(2020年02月20日)
 
 
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  分かったふう?2
 
 2020年01月30日  楽山日記(LD)
 『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』
 ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳
 
http://mn266z.blog.jp/archives/23315368.html
  の批判記事を加筆して再録。
 
 
ドーキンスという人は、科学者で、無神論者のようです。無神論者には、自分の知性で、必要なものは賄(まかな)える、という、自己愛性の強い人が多いように思います。卑近な例では、自己愛性人格の者は、宗教嫌いの無神論者の楽山と、自分信仰のカルトであるシャロームがいます。
 
(ネットより)
クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの進化生物学者・動物行動学者である。
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている[35]。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている[36]。
『盲目の時計職人』では次のように述べている。
ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論はダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。[37]
 
神は、学問によって説明する対象ではありません。説明できる対象でもありません。神は、学問のように何かを説明するためにあるのでもありません。神を学問と同列に考えることは出来ません。
 
宗教は信仰のためにあり、信仰は、神を詳しく知るためではなく、人を、むしろ、神との関係において、自他という人間を通して、その存在と当為を、深く知るためにあります。
 
神を信じる信仰は、人間が、神と違って不完全ゆえの罪の性質という限界があることを弁えて、人間らしく生きるためにあるのです。そのために、キリスト教では聖書から、神と違う人間の罪性を学ぶことが必要だという考え方であります。
 
聖書を読んで神のような完全になる・・などというのは、カルトの妄想に過ぎません。
 
本書はドーキンスの代表作だけども、まだ読んでいなかったので、ざっと斜め読みしてみたのだが、自分にとっては程度が高すぎて難しい本である。でもドーキンスの著作はあれこれつまみ読みしているので、見覚えのある論点、お馴染みの話が散見されるのは楽しい。
 
楽山は、自分では、ろくな記事を書けないのか、ドーキンスの記事を借りて、気色の悪い独特な婉曲表現であるボンヤリ言語をもって、神と信仰を否定してきました。狡くて卑怯な人だと思います。
 
楽山にとって「お馴染みの話」というのは、楽山と同じ反キリストの方向を示していると、楽山が勝手に思い込んでいるだけの、神についての極めて安易で幼稚な捏造の筋書きに過ぎません。そこから、一歩も、成長しないのが、楽山の特徴なのです。
 
自分は迷信深い性質なので、こういう本を読んでどうやら神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じてしまい、無神論にどっぷりハマり続けるということはできないのではあるが、それでもドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う。
 
楽山が、迷信深いから神の臨在を感じると言っていることを見逃さないでください。信じるどころか、楽山にとって、恐らく最初から、神と迷信は同列なのです。迷信深いのなら、神についても、信仰についても、学問についても、書くことが迷信になるでしょう。
 
楽山は、またしても、神を引き寄せて、自分は特別と思わせたいようですが、実際には「神は存在しないらしいと一時的に思いはしても、また少しすれば神の臨在を感じて」しまうことは、ないと思います。神の臨在を感じたなら信じるはずだからです。つまり嘘です。楽山は、ただ、自分が神聖を感じることができると自慢したいのでしょう。これも、嘘だと思います。症状かもしれません。
 
楽山は、神の臨在を感じながら、無神論を理解しているようなことを言う、つまり、どっちも分かっている、という、嘘っぱちの立場にいる妄想的学者気取りです。
 
いつも、はっきり言わず、どっちつかずであるように装っていますが、楽山が神に親和するときの、神の臨在、というのは、実に、いかなる宗教とも思えないような、気色の悪いオカルト興味の飾りで出来ています。こうやって、楽山は、心の中の正気を失い、妄想様観念を、ぶくぶくと膨らませてきたのでしょう。
 
楽山が信じているのは、自らの、霊が分かるっぽい自覚だけです。そういう思い込みがあるために、楽山は、神、宗教、信仰、心霊、など超常について自分は語れる、という訂正不能の妄念の奴隷として、読めば、浅はかさが表れているだけのような自慢の記事を書いてくるのです。
 
楽山は、まるで宗教について評論家にでもなったかのような態度で、ああでもないこうでもない、でも神はいないと、深みも意義もない繰り言を書いてきているに過ぎません。
 
そういう自覚によって、宗教についての単なる感想にとどまらない是非を語ろうとして、失敗しては、なお反省はせずに、病識のない自意識だけの記事を、また、批判に答えることもなく、性懲りもなく、書いてくるのです。自己愛性人格障害のサイコパスを思わせる危険な人だと思っています。
 
「ドーキンスの本を読めば、今自分が生きていること、地球上に奇跡としか思えないほどのすばらしい生物があふれていることなどについて、神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ない」・・楽山は、地上の生命の素晴らしさを説明できるというのでしょうか。だったら、説明してください、ということなのですが、楽山は、一度も、そういう深みのある文章を書いたことはありません。
 
>神を持ち出すことなく説明ができるということは認めざるを得ないように思う<
 
神は、持ち出される存在ではなく、また、何かの説明に使われる存在でもありません。神は、この浅はかな楽山などに付き合ったり、突き放されたりするような存在ではありません。
 
この幼稚な安っぽい楽山の妄想に付き合わされる人は、犠牲者でしかないのです。よく平気で、これだけ整わない作り話が出来るものだと思います。
 
楽山は、人間らしい理路から外れる度合いの分だけ、人格が破壊されている表れとなるでしょう。何でもわかっているという誤った自尊~妄想を表しながら、かつ、自分は柔和だと思わせたがるのは、まさに、カルト的な精神詐欺師の特徴と言ってもいいと思います。
 
とある書物…うろ覚えだけども『パパラギ』だったかな…では、自然は神のものであったが、この木は俺のものだなどという人々のために、神は貧しくなってしまった云々という話があったと思うが、この話に乗っかって言うならば、人々の所有権によって神は貧しくなったように、進化論によって神は創造者としての地位をも失ってしまったと言えるのかもしれぬ。
 
神は、人の所有権によって貧しくはなりません。神は、楽山などによって否定されることもありません。そういう神?は、楽山の机上のオモチャに過ぎません。つまり、楽山は、神の悪口を言っているに過ぎません。楽山のオモチャの神?は、実に容易に、否定されるのでしょう。
 
これが、楽山の本音だと思います。神を、机上の概念か、自分の批評の下にある類人格としてしか扱えないのです。そのような人の言論は、永遠に神について語れることはないと断言できるでしょう。
 
信仰は、人が神に対する身の程を知ることを前提としていますから、楽山のような身の程知らずには、信仰が芽生えることはないと思います。
 
楽山が、書けば書くほど、表れてくるのは、救いようのない慢心に満たされて、自己正当化し保身しようとする醜い人格に他なりません。神は貧しくなったと書いていますが、神に貧富はありません。楽山は、心の貧困によって、人間でさえなくなりつつあります。
 
自分はもともと創造論者ではなく、生物の進化についてはごく自然に受け入れてはいたのではあるが、
 
自然に受け入れて・・というこの時点で、自然に、ということさえ、当たり前の先入観の固定観念になっている、ということからも、楽山の無反省な不自然さが表れています。いかなる論者にもなれない者の、知的な本を読んでるからというだけの自己満悦です。
 
恐らく、読書をしても、表層だけしか受け取っていないと思います。それで、本と、人と、神の、是非を語ろうとする楽山なのです。身の程を弁えない言論の浅さは、読む人の思考を乱して疲労させるだけで、考察の糧にも資料にも対象にもならず、自尊だけが異常に目立っていて、百害あって一利ないことを特徴としています。
 
そこには神の意思があったのだろうとは考えていたので、神の存在も、その意思も関係なしに、進化は成立しうるというのはやはり驚かないではいられないし、こういう驚きを与えてくれたドーキンスと、ドーキンスの著作を教えてくれた知人には感謝したいと思う。もちろんダーウィンにも…。
 
神の行為も意志も関係も、誰も確定的に知ることはないのです。しかし、楽山は、神の存在と意志が関係していないと分かるような進め方をするのです。不確定要素を確定的に語る楽山の虚言です。
 
そして、進化論の成立を、既成のことのように語ります。進化論を知っているのでしょうか。否、楽山は、身近にかかわってくる人の気持ちも分からない人だと思います。そこで成り立っていない人が、いったい何を得て感謝しているのでしょう。
 
そして、同じように、知っている、分かっている、というスタンスで、学者に感謝を述べるのは、自分も、同等の並びにいるつもりなのでしょう。よく読めば、楽山の病的ナルシシズムぶりは、いたるところに表れてくるのです。
 
楽山の、分かったふう?の気取り、というのは、いかなる信仰にも反する態度ですし、宗教と信仰の名を上げながら、まるで理解していない楽山の、机上や手のひらで堂々巡りをする繰り言であり、一歩も進んでいない足踏みであり地団駄であります。それを、思慮だと勘違いしているのです。
 
愚かでありながら、それに気づかない者が、三途の川の石積みのように空しく、見ようとしない目と、聞こうとしない耳と、感じようとしない心と、考えようとしない頭で、その時その時の欲望でたどる結末への不毛の砂地で、そこは目に見えない多くの虫の巣食う下肥(しもごえ)となるでしょう。
 
それを、ブログに書いて、人に見せようとする自己顕示欲が、かえって、楽山の不遜の怖さを見せつけています。楽山は、自己のためには、いかなる嘘も、印象操作も、詭弁も、手段を選ばず使うカルト的偽善者です。楽山やシャロームなどの易坊類に共通してみられる特徴です。
 
楽山は、心~精神が破壊されていると思います。そして、さらに、他の人の心を破壊するだろうと思います。恐らく体質的なもので、約2年の批判に対しても、無反応で無反省そして無責任で無神経ですから、治る見込みもないのでしょう。自覚~病識もなく、ゆえに、自己中の絶対から、人をだますことしか出来なくなっています。
 
楽山は、こちらが無反省と書けば、「反省。トホホ」などと書いてくる。反省の内実に相当する文章がないので、嘘なのですが、反省という言葉だけ書いてくる。「トホホ」については、むしろ、書いてやったぞ、これでいいだろ、と言われているようで、逆効果なのだが、それも気づかないわけです。
 
共感もなく、反省もせず、鼻先の人参を追い求めるように、批評家気取りで発信だけを続ける病的なナルシシストは、誰もいない砂漠で叫びながら骨になってゆく宿命から逃れられないのでしょうか。
 
誰とも人間らしい共感が成り立たず、深い理解もなく、見せかけの読書自慢と心霊の話をして、世辞の褒め言葉を待っているような、楽山の軽薄な文章を決して真に受けないでください。
 
 
自己顕示欲だけ

自己顕示欲だけ
 
 
(2021円02月19日、一部加筆)
 
 
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  楽な芝居2
 
 2020年01月25日
 「わたしの心は恐れない」(詩編27)
  楽山日記(LD) → 批判を再録+加筆。
  
 
シャロームの仲間であり、カルト宣伝者として、ねちねち書いてきた楽山ですが、しばらく、黙っていたかと思ったら、まとめて書いてきました。自分の悪をすっかり棚に上げて。
 
どんなときも、何を言われても、自分を真善美の立場に置くナルシストの典型的な自己宣伝の文章です。数々の失言とカルト贔屓(ひいき)を明らかにされても、なお、自己顕示欲が働いて、謙譲芝居付きの、詭弁と印象操作の、人生に何の実りももたらさない作文です。
 
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)
聖書の詩編を通読したいと思いつつ、近頃は他のことばかりして読書を中断していたのではあるが、再び頁を開いてみたらすぐに良い言葉に出会えた。
ヤハウェはわが光、わが救い。
わたしは誰をか恐れよう。
ヤハウェはわが命の砦、
わたしは誰をかおじ恐れよう。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、pp.61-62)
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
自分はクリスチャンではないし、聖書の神を信仰しているのでもないが、それでもこの言葉を読むと心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する。
ノンクリの自分でもこうなるということは、聖書には宗教の壁を超えた何かがあるということなのだろうか。こういうことをすぐに神の実在に結び付けることは躊躇されるけれども、自分とは全然関係ないだろう数千年前の外国で書かれた言葉が心にしみるというのは不思議と言えば不思議ではある。
 
以前から、無神論の本などで、キリスト教を揶揄し否定してきたのが楽山ですから、
 
心に力がわいてくる。元気が出てくる。神様がついていてくださる、守ってくださると思えたら、勇気百倍。こういうときは神様の力を実感する
 
・・これだけ、わざとらしい歯の浮くようなセリフを、平気で並べてくる楽山なのです。
 
真っ赤な嘘だと思います。あざとい・・。
 
楽山の文章は、いろいろ読んできましたが、楽山に、少年のような清々しさは皆無です。
 
 
 2020年01月25日
 キリスト教では輸血を禁ずることはない? (異端とカルト)
 
その宗教がカルトかどうかは、異端、異教かどうかで判定されないというのはよく分かる。もしそれが是とされるなら、A教の教義によって「B教は異端、異教であってカルトだ」といえば、B教の教義によって「A教は異端、異教であってカルトだ」ということも可能となる。
 
詭弁です。算術的論理による詭弁です。両方言うじゃないか、という言い分は、全く、どっちが正しいかを考えない理屈です。これを空論と言います。心ない者の言論の特徴なのです。
 
多くの人が信じたらどうなるか、ということを考えれば、明らかなことがあります。反社会に結び付く思想が信条になっておれば、カルトとして批判するべきなのです。
 
そもそも、言論の自由には、責任が伴います。楽山は、自分の言ったことの責任を取ったことがありません。批判を無視して、さも道理であるように、楽山が書くことには、大方、的外れと嘘が付きまとってきました。
 
それを、私は今まで書いてきましたが、楽山には、"仏様の気持ちが分かるっぽい" 霊感?の自覚のわりに、人間としての感性がないので、組み立てられないのです。そして短絡した幼稚で単純な理屈を出して、結論を下しています。
 
そうなれば、各宗教がたがいにカルトと呼び合うことにもなり、そういう状況を一般からみたら宗教はすべてカルトだということにもなってしまいかねない。
 
楽山の言い分は、こういうことで終わるのです。では、楽山は、どうやってカルトかどうかを決めるのでしょう。楽山自身が、カルトだから、自己弁護しているに過ぎません。つまり、言い合いになるから、どれもカルトとは言えない、という幼稚に短絡した詭弁なのです。
 
やはりカルトかどうかは、特定の宗教教義による正邪判断ではなく、人権という視点から判断するのがもっとも公平であり、客観的だろう。個人的には人権なるものも一種の思想であり、宗教でもあると感ずるところもなきにしもあらずではあるが、少なくとも、特定の宗教教義による判断よりも普遍性、客観性どちらの面でも上であるのは間違いなかろう。
 
このことについては、前に、何度か、書いてきたのですが、読んでいないのでしょうか、それとも、気に入らないことは無視するというアドラー教にしたがっているのでしょうか、また、同じことを書いています。宗教気取りで、内容を見ないで、犯罪行為に及ぶまで待てと言うのでしょうか。
 
もう一度、上に書いたこと、反社会に結び付く思想が信条になっておればカルトなのです。
 
実際問題としては、自分の常識感覚や一般社会の基準から見て、異様な風袋、言動をする宗教団体をみれば、カルトだと感じてしまうわけではあるが、そこは相手の信教、表現の自由を尊重することとして、その団体がカルトかどうかの判断は、人権侵害や違法行為のあるなしを確認してからにすべきなのだろう。
 
人権侵害や違法行為のあるなし、というのは、逮捕できるか、裁判できるか、という基準であり、カルトの定義でも基準でもありません。
 
社会悪につながる邪悪な思想や言動を勧める教えはカルトです。つまり逮捕は出来ないが、批判は出来るということです。
 
このように、弁明できないのに、同じことを言ってくるのが、カルトの特徴であり、カルトである状況証拠となり、批判の動機を強める原因になってきたのです。楽山の体質は、紛れもなく、カルトです。ゆえに、カルトを擁護しているのです。
 
いつ読んでも恣意的な作為であり、清々しいところが、まるで感じられない楽山の作文です。
 
この手続きを怠ってしまうと、人権侵害をするカルトを批判しようとして人権侵害を犯してしまうという、まさにミイラ取りがミイラになったと言われるような事態に陥らないとも限らないし、ここはぜひとも注意が必要ではある。
 
人権侵害を犯してしまう、つまり、強制力のことでしょう。一見、道理のようなことを何度も言って刷り込もうとするのが、これも、カルトの特徴です。警察を見れば分かるように、反社会的行為に及ぶならば、人権は制限されて当たり前です。
 
シャロームは、明らかなカルトですし、最近は、"名無し"と名乗るようになって、荒らしの本性を表し、嫌がらせばかりして、馬脚を隠さなくなりました。
 
カルトは、違法行為に走る前日まで、カルトではなかったのでしょうか。楽山は、前から、カルトが、物を盗むか、だますか、人を殺してから、カルトと呼べと言っているのです。
 
反論も出来ないのに、また同じことを書いてくる楽山こそ、歩き出したカルトの亡霊であります。
 
楽山は、作為に満ちており、微塵の清々しさもありません。
 
 
 2020年01月26日
 心を悩ますな(詩編37)
 
 
*悩まず、苛々せずにいること
最近は、カルトについてあれこれ書くことが増えていたのだが、詩編を読んでいたら、こんな言葉があった。
悪をなす者のために心を悩ましたり、
不義を行う者のためにいらだったりしないように。
その人たちは草のようにたちまち枯れ
青草のようにしおれてしまうのだから。
(『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2016年、p.87)
読書をしているとき、自分の抱えている問題に対して、ドンピシャの答えと出会うというのは間々あることではあるが、今回もそうなったようだ。
 
 (詩篇、口語訳)
37:1
悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2
彼らはやがて草のように衰え、
青菜のようにしおれるからである。
 (詩篇37:1-2、旧約聖書)
 
悪を為す者、不義を行う者として、誰を決めつけているか、草のように枯れ、しおれてしまう、という聖句を誰に当てつけているかを考えると、呪いをかけているようで、身の毛が弥立つほど気色の悪い楽山の体質です。
 
ふつう、こういう切り返しのある言葉については、自分の悪はどうかと考えるものですが、楽山は、ドンピシャとの答えとばかり、のぼせ上がって、内省もせず、載せてしまうのです。
 
嘘と詭弁で悪をなし不義を行うのは、楽山です。早く、衰え、しおれてほしいのです。
 
楽山は、幼稚であり、単純に短絡する無思慮であり、清々しさの欠片もありません。
 
そういえば西洋の小説で、聖書占いについて読んだことがあった。悩みがあるとき、聖書を無作為に開けば、そこに答えがあるという話だ。自分は聖書占いをしたわけではないけれども、カルトについてあれこれ考え、書いていたときに、聖書を読み、上のような言葉と出会うと、アドバイスをもらったような気にもなるし、偶然以上の何かを感じないでもない。もちろんそんなのは妄想だとはわかってはいるけれど、根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ。
 
「根が迷信深いのでついそう感じてしまう」のなら、はっきり否定するべきでしょう。しかし、楽山は、感じてしまうことを否定せず、霊が分かるっぽい自分を表す性癖があります。つまり「根が迷信深いのでついそう感じてしまうのだ」と言いながら、それを肯定しているのです。
 
「感じてしまうのだ」という「のだ」の強意の語尾で、迷信深い自分よりも、霊が分かるっぽい自分の霊感をひけらかし、にもかかわらず、そういう迷信深い自分は愚かだから書かないでおく、ということが楽山はできないのです。
 
迷信深いと自分で言ってる楽山が、呆れたことに、迷信深いことをそのまま書いて、批判者を侮辱してきているということです。どこまで、けがれて、そのけがれを、そのまま、出してくるのでしょう。
 
批判にくじけないのではなく、批判を無視して迷信の世界に、本心は、埋没したいのではないかと思いますが、それを、独りの感慨に納めることができず、人に向かって顕示することに、傍若無人のナルシストの姿があります。
 
楽山の自虐芝居は、謙虚だと見せかけるための、作為の予防線です。
 
*善は楽しい!
 ところで、上の言葉には、次の言葉が続いている。
ヤハウェに信頼して善を行なえ、
この地に留まって真実をもって糧とせよ。
ヤハウェによって喜び楽しめ、
彼は君の心の願いをかなえてくださるだろう。
(注:「ヤハウェ」の「ハ」は、書籍では「ェ」のように小さい「ハ」になっている)
悪は長くは続かず、いずれ自滅するから、そんなことに関わるよりも、まずは自分が善を行うことに専念せよというのは、わりとよく聞く話ではある。でもそれとともに、喜び、楽しむことを推奨しているところは、ハッとさせられる。
 
 (詩篇、口語訳)
37:3
主に信頼して善を行え。
そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4
主によって喜びをなせ。
主はあなたの心の願いをかなえられる。
 (詩篇37:3-4、旧約聖書)
 
最善が何で、最悪が何かさえ弁えない楽山であるのに、善を行い喜び楽しめというところに、独りで、ハッとさせられるそうです。何て中身の薄い、単純な読み方と書き方でしょう。
 
カルトの味方をして、カルトの正当化をして、同じことを言い張って、進んだつもりで、自身の言葉のミイラになった楽山が、また、うろつき出しています。
 
どんなに苦しくとも、それを耐え忍びつつ善を行えというのは悲壮感が漂うけれども、善を行いつつ喜び楽しめというのは愉快な心持ちがする。
 
善を分かっておらず、善とは縁のない楽山が、限りなく詭弁に近い言葉遊びをしています。
 
楽山は、いつも、楽でいたいようです。だから、心を悩ませる真実からは、いつも、目を背けてきました。そういうことが、惜しみなく表れる楽山です。ここ2年は、総て批判になったことも、改めて、間違いではなかったと思います。
 
耐え忍ぶことなく、悪と偽善に短絡している楽山です。誰が、真に受けて騙されるでしょう。まさに、人の弱みにつけ込むような文章です。
 
楽山には、ひとかけらの清々しさもなく、短絡した文言で人を惑わせます。
 
でも考えてみれば、善とは本来、苦しく耐えるものではなく、喜ばしくも楽しいものではあるかもしれない。
 
また単純に、聖句から悟りを開いたかのように、善の本来を、説き出しました。決して、楽山に対して、素直になってはいけません。楽山は、作為の小細工の洗脳および煽動家です。
 
良心に素直でいられるときは心は軽いものであろうし、そうであれば善とは喜びであり、楽しみでもあるとも言えるだろう。とすれば、自分が善にとどまっているかどうかは、自分は今、喜び楽しんでいるかを自問してみれば、おおよその見当はつけられそうだ。喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろうが、少なくともこれは一つの目安にはできそうではある
 
逆必ずしも真ならず、という、シンプルな論理を無視しています。目安にもなりません。悪と偽善を悦び、他者を、だまし、傷つける楽山のような者がいるからです。
 
「おおよその見当はつけられそう」と言いながら、見せかけの謙譲「喜楽を感じるからといって、即それが善であるとは言えなかろう」と言い訳して、反省力があるかのような書き方の上で、しかし、しっかり「少なくともこれは一つの目安にはできそう」と言って終わりです。こういうのを、印象操作というのです。こういうやり方をする卑怯な人に対しては、全否定するしかないのです。
 
楽山の言い分には、全く深みがありません。だから、曖昧な言い方しかしないのです。しかし、曖昧にボンヤリ言語で書いて、それで言い得たと満足するのでしょう。ごまかしが、すさまじいです。
 
深みを覗くことをしないか出来ないことの言い訳のように、自分を低くするのではなく、真実を安く見積もって、悦び楽しむことが善の目安というところに、じわじわと持ってゆく詭弁です。楽山の背伸びは、自覚もなく、安い言葉で満たして膨満する肥満の腹のようです。
 
楽山には、嫌というほどの否定で対処する他にない、という、動機付けを、こちらに毎度毎度してくるのです。楽山には気づきがないからでしょう。裏があるだけの平板で薄っぺらな自己満悦・霊感?零感ナルシストです。
 
覚えてください。楽山の作為は、見かけの言葉だけで、柔和とは真逆です。楽山は、宗教など、全く信じてはいません。宗教を、観念で、もてあそんでいるだけです。なのに、聖句に、的外れの、わざとらしい嘘の感想を書いています。総て、自分の霊感?零感を自分で褒めているだけです。
 
子供だましのような幼稚な内容、私がボンヤリ言語と呼んでいるところの、ふらふら、否定も肯定もしないわりに、無根拠に、すりこんでくる詭弁、深い情感のない泥濘なのが明らかなのに、それをごまかすかのような、見かけだけ派手な感動言葉、これらは、シャロームの当てつけの丁寧語と並んで偽善者である楽山の変わらぬ筆致です。
 
読むたびに、何か汚いものを押し当てられて汚れてゆくような不快を感じます。読んでも、生きるのに、何の役にも立ちません。付け焼刃の知識で自らの捻じれた知性?を捻じれた作文で見せて、保身のために独り痙攣しているようなものです。楽山に、近づかないでください。
 
楽山は、清々しさなど影も形もない人です。
 
 
裏側

うらがわ
 
祈り「主よ、私が、安穏としませぬように、そして、できることをする、ということに、全身全霊を注げますように、少しばかりの勇気と、くじけない忍耐力と、祈る心をお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
 
 
(2021年02月17日、再録・同日一部修正)
 
 
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  楽山のペテン2
 
  2020年02月08日
 「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」ドーキンス著
 楽山日記(LD)
  に対する批判記事を加筆して再録。
 
 
楽山は、またしても、無神論の学者らしいドーキンスの本から引用して、ゴタクを並べてきました。既に、私は、楽山の、見当違いの宗教・信仰理解を、批判してきましたが、楽山は、何の反論も弁明も出来ないにもかかわらず、また、書いてくるのです。
 
楽山は、まだ、HSや、アドラー教から自由になっておらず、また、およそ、実質のない自らの心霊理解にも囚われたままであることが明らかになってきたという経過です。もしかしたら、楽山は、カルトを捨てたのではなく、カルトに捨てられたか、あるいは、新たなカルト形成に向かっているのかもしれません。
 
楽山は、人の言うことを無視することに快感を覚えるのかもしれません。経過することの内容に、楽山は、関心をすべて捨てることができる異常者なのでしょう。笑っているとしか思えないほど、平気で無視するのでしょう。
 
そうやって時間が経過して、私のほうには、楽山批判が、2年分蓄積されてきました。どこまでも無視する楽山に対して、批判するほうは、はてしなく批判を積んでゆくことを、務めとするしかありません。そういう場合、結果は、読者に委ねるしかないのです。
 
つまり、誰も、楽山に関わることのありませぬようにと、願うしかないのです。決して、楽山を変えることではなく、あとは、正常な神経を持っている読者が、害虫のように楽山を嫌い、楽山を相手にしないことを期待するしかないということです。そのための根拠が、楽山批判であります。
 
楽山は、本当に、恐ろしい生きものです。いつまでも、自分を見ず、はてしなく、どこまでも、人に文句を言い続けられる男、それが、楽山です。今日も、何事もなかったかのように、ツイッターに、誰かをおとしめる文句を書き込んでいます。徹底した変質者であります。
 
そうやって、日常感覚も経験も、都合の悪いことを、総て無視して、自らの人格を破壊してきたのでしょう。異常人格、人格破壊、精神病質、といった病態のもたらす冷笑が、そして、人間が、おしまいになると、こうなる、という破壊的現象が、ここに表れているのです。
 
「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」は、著者のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』に収録されている文章であるが、十歳の娘への手紙という体裁で書かれているので分かり易くてよい。
内容は大雑把に言えば、観察し、証拠があるものについては信じてよいが、伝統(伝説)、権威、啓示(お告げ)には注意が必要だというものである。
 
観察し、証拠があるものについては、正当なのだから、まず、信じる必要がないのです。
 
私は、超常を根拠にする言い分については、決めつけや妄想である可能性があり、注意したほうがよいと言ってきました。
 
例えば、シャロームshalomの聖霊体験や神の啓示については、全くの大嘘で、さらに、その文章の滅裂と無法と無根拠が表す非人間性から、反信仰の産物であり教義も信仰も全くの嘘っぱちであることと併せて、自分権威の成り上がりのカルト妄想だと判断しています。
 
また、楽山が、霊が分かるっぽい高慢からの極めて幼稚な短絡の思い込みや、偽牧師シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。悔い改めは(自分でしなくても)神が与える」などというあり得ない信条?に無条件の味方をしたこと、また、楽山の、とても卑怯で嫌らしい騙しの印象操作や詭弁や柔和芝居や婉曲表現のボンヤリ言語と併せて、信用度ゼロのカルトであると判断しています。
 
ここでも、楽山は、間違いを全く自覚していません。観察して証拠があるから信じるのは、事実などの実証が必要なことについての話であって、信仰はそのようなものではありません。
 
信仰は、癒しや慰めそして共感など、情緒的な体験を通して思慮を起こして信じるのであり、キリスト信仰は、決して論理的実証的証明など出来ないものとして、ダイレクトに生きている人間に問うてくるのです。決定するのは、生きるのに必要かどうかだけです。
 
信仰は、伝統、権威、偽牧師シャロームが言う啓示?など、信仰外のものに、支配されてはいけません。しかし、同時に、一方では、楽山のように、理解があるかのように見せかけて、ボンヤリやんわり否定してくる偽善者の言などに左右されてはいけないものです。
 
ここまで、的外れなことを執拗に書いてくる楽山は、とても気持ちの悪い反信仰、そして、反キリストと判断せざるを得ません。何か信仰とは全く別のものに囚われているのでしょう。
 
伝統宗教といっても、親から子へ、子から孫へと幾世代にもわたって伝えられてきたというだけで、それが真実だという証拠はなく、証拠がないなら何十年、何百年とどんなに長く伝えられてきたとしても嘘が真実になるというわけもない、
 
このように、嘘吐きの楽山の言も、この地上で信じると、社会にも個人にも悪い推測と予想しか生まれない誘導として、人間にとっては百害あって一利なきもの、人を惑わし、そそのかすものとして否定されるべき邪教であり、楽山個人の我欲への執着がもたらしたものと言わざるを得ません。
 
楽山に、何かを教える資格はありません。約2年の批判によって、楽山は、無反省、無責任、無理解、無神経の、詭弁や、煽りをしてきただけであり、そして、ひどい嘘吐きであることが、明らかになっています。
 
私を信じる必要はありません。私は、参考にしてもらえば十分です。しかし、詭弁と虚偽だけの専門家である楽山だけは、決して、信じてはいけません。相手にしてもいけません。近づいてもいけないと思います。
 
権威があるからといってその者が絶対に間違わないというわけでもない、一つのことを考えに考え、祈りに祈り、やがてそれが真実だというお告げを得たと確信したとしても、それが真実だという証拠がないなら信じるには足らないなどとしていて、なかなかに辛辣である。
 
また、楽山は、証拠のことを書いている楽山です。証拠ではなく、信仰に必要なのは、癒しと救いとして、必要だという実感だけです。
 
むしろ、楽山が、しつこく書いてくるのは、何らかの人にまさる権威か名声を欲しがっているのでしょう。そういう自己顕示欲を支えているのは、霊が分かるっぽい自身への我執に他ならないと思います。とても病的なナルシシスト(ナルシスト)なのです。
 
また宗教が信じられてきた理由についてはこのような主張をしている。動物は生き延びるためにその環境に適した体をもつものであり、動物である人もこれと同じく環境に適応しようとするものであって、特に子供は生き延びるためにも自分の生きようとする社会環境に関する情報を得る必要があり、大人から聞いた話をすぐに信じるようにできている。
 
ずいぶん、大人と子供を舐めた見方をしている楽山です。宗教は、楽山の言うような、大人の話を子供が信じるなどという次元のものではありません。クリスチャンの家庭であっても、信仰告白は自分で自発的にするものです。個人によって違いはありますが、大人になって、改めて、判断することであります。
 
楽山は、宗教なんて親から刷り込まれたものだから信じるな・・という極めて短絡した先入観を与えようとしています。これが楽山であり、詭弁によって刷り込んで、宗教をおとしめてきますが、全く理解するセンスを持たずに、いちゃもんだけを言うのです。
 
実質としての支えとならなければ、いずれ、空しい信仰?は捨てられるでしょうし、大人の分別を弁えるのですが、その成長がないと、カルトとなり、妄想的となり、自己中となり、いずれ、社会と人間に害を与える存在となるでしょう。楽山は、逆方向の典型として、空しい反キリストなのです。
 
楽山は、そういう成長過程での取捨選択ができなかったのでしょう。それを、人のせいに、キリスト教のせいにしてもらっても、困りますし、大迷惑なのです。
 
聞いたことを、いつまでも、信じたまま、言い続けるのは、引っ込みがつかなくなったカルトか、それこそ、楽山のような我執によって、むしろ、逆に、怨念のようなものが、くすぶり続けているからだろうと思います。欲求不満が、我執を凝り固まらせたのかもしれません。
 
楽山は「大人から聞いた話をすぐに信じる」のでしょうか。いつまでも子供なのでしょうか。あるいは、逆に、大人から、ろくな話を聞いていない人でしょうか。それで、怨念を募らせてきたのでしょうか。なぜか、確かに、楽山は、大人としての反省力と責任感を養い損なっています。
 
そのため、良い情報だけでなく、時には根拠に乏しい間違った情報をも信じ込んでしまいがちである。証拠の無い宗教が長くつづいてきたのは、人々が何でも信じてしまう幼い頃に、大人たちからそれを刷り込まれ続けた結果であろう云々。
 
根拠に乏しい情報というのは、他者の勝手な受け売りで悪用して、信仰も神も、何も理解できないのに、ときには褒めたり、また別の時には否定したりする楽山の言というのが、いちばん当てはまってきたのです。きたならしい詭弁で侮辱する以外、何も出来ない楽山を信用しないでください。
 
およそ説明にも癒しにもならない繰り言で、逆に刷り込みだと否定する楽山こそ、今まで、刷り込み、吹き込み、誘導してきた悪だくみの権化であります。
 
仏様の気持ちがわかるっぽい自覚の楽山の、幼稚な自覚と我執が、子供の時から今に至るまで、楽山の人格を支えているとしたら、とても、みじめで哀れな成長不全なのです。大人の節操を養い損ねている楽山です。
 
本書の副題は「なぜ科学は「神」を必要としないのか」というものであるし、収録されている文章も上のようにキツイ宗教批判が多い。いやはやドーキンスはやっぱり宗教に対して容赦ない。でもこの本気さが魅力でもある。
 
科学は、実証できるものだけを扱います。ゆえに、神、信仰、霊、などというものは、実験も出来ないわけですから、科学が神を対象にしないし必要ともしないのは、当然のことなのです。楽山は、その粗野な根性そのままに、科学も神も語れないから、喧嘩を見るように楽しんでいるだけです。
 
科学によって、宗教を否定するのは、科学教の信者であります。宗教まがいのカルトに酷い目にあった人でないならば、宗教を否定するのは、大方、先入観によるか、自己顕示欲によるものでしょう。
 
科学は宗教を追求できません。宗教は科学を追求できません。
 
楽山は、正常人に教えることは出来ません。正常人は、楽山に学んではいけません。楽山は、あまりにも劣悪であり、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、責任を負わず、今もネットに居座って、罠を掛けてきます。引っかかったら、人生を破壊されます。
 
信仰を持つか否かではなく、何よりも、楽山の罠にかかったら人生は終わり、というくらい破壊的だと思っていてたほうがよいのです。陰険で狡猾なだけで、清々しさの欠片もない楽山です。
 
他者の言うことを全く受け取らないで、楽山は書いてくるのです。楽山の、他人事のように語って、信仰を、まだ一度も真剣に自分の課題としたことのない与太話の嘘っぱちに、惑わされないように注意してください。楽山が、キリスト教批判に魅力を感じるのは、楽山が、その無反省・無責任の素質において、既に反キリストだからです。
 
楽山は、信仰を知らないで、信仰芝居をしたり、信仰を目の仇にしながら、信仰をまじめに考えているふうに見せかけているだけのインチキです。
 
信じてもいい理由と信じてはいけない理由、などということを、我欲に合うものだから、本から勝手な解釈で鵜呑みにして、楽山が納得しているつもりのことこそが、楽山の宗教観が、信仰ではなく、一種の個人カルトの教条の屁理屈であり、人を罠にかけるようなカルト的な悪趣味の我執なのです。
 
楽山の主張の中のカルトの証拠となるものとして、すなわち、楽山が何も観察せず見通していないこと、信仰に担保?となるような証拠を求める態度、ボンヤリ言語による印象の刷り込み、魅力としての説得力も共感性も全くない表面的で信仰としては空疎な理屈、これらが、今まで楽山の表してきた邪悪な手法なのです。つまり、楽山こそが、宗教批判に見せかけたカルトなのです。
 
楽山は、証拠がないじゃろ、という、宗教には全く当てはまらないことで、宗教と信仰を否定しようとしてきます。汚い男です。心が無く、余裕がなく、深みのない、自己中の人格が表れています。
 
切実な必要からの実感のある疑問によって、宗教批判をする人は、宗教にとっても、貴重な糧となる存在になりうる人です。そういう人には、宗教人は、誠意を尽くして、説明の用意をするべきでしょう。楽山のような者は、切実さもなく、ただ、凶暴で一方的な、詭弁屋に過ぎません。誰も相手にしてはいけない人格です。決して、正常人の人格ではありません。
 
観察せず、根拠も証拠もなく、楽山の表す情報は嘘と詭弁だらけで、それなのに、宗教の悪い印象を刷り込もうとする楽山こそ、批判され否定されるべきなのです。楽山は、詭弁で印象を刷り込む反キリストそして楽山の自己のカルト思想宣伝者です。自己中と自己愛と決めつけが、無反省と無理解と無反応と無責任と無神経が、いたるところに表れてきています。
 
しかも、このように条件を付けて、大方、否定しながら、一方では、聖書の言葉を引用して、感動したかのように、また、ときには、祈っているかのような嘘のクリスチャン芝居を重ねてきたペテン師が楽山なのです。次元の低さと、自覚の無さが、書いたことに表れています。
 
楽山の主張は、よく読めば、整った思想や思考や共感が全く見られないほどの次元の低いペテンだと分かります。学者の名前を出したり、本を引用したり、刷り込みや印象操作をしたりするのは、自分では、宗教についても信仰についても、整ったことが何も書けないからなのです。楽山が、いくら安い造花で飾っても無駄なのです。
 
 
造花のペテン

造花のペテン
 
 
(2020年02月10日、同日一部修正)
(2021年02月15日、再録+加筆)
 
 
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  楽山の醜態加速(2)
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 
 
もう一度、楽山の記事を取り上げます。楽山が引用した小説の台詞のようですが、
 
神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
 
この台詞は、結局、自分を無傷で守ってくれるなら神を信じてもいいぞ、傷を負うたら信じるもんか、という皮肉の意味に取れるだろうと思います。これは、楽山が言ってたのと同じような、宗教への、ありふれた、いちゃもんです。そのような個人に都合のよい条件を付けられて働く神は、どれだけ思い込み信じ込んでも、どこにもいません。
 
しかしながら、楽山は、「人の思考や感情は経験の影響を受けるもの」「信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にある」という解釈で話をしています。偉そうな書き方ですが、どうつながっているのか、理解不能な解釈です。環境や経験の影響が表れているなら、それを引用し書くべきところです。
 
楽山は、無反省・無責任のために、理路を学べていないので、自己中心にしか話や記事を勧めることができない、意味不明の理路不全の文章しか書けない人なのです。にもかかわらず、言い張りの執拗さだけが、いつまでも続いています。振り回されないように、ご注意願います。
 
おかしな楽山が、気づくことなく、気づかれることなく、人の心を、狂わせ、おかしくしてゆく文章を書いているとしか思えません。鎧(よろい)のつもりで、まともに見せかける言葉を書いた馬糞紙(ばふんし)を、自らにペタペタ貼り付けるしかない楽山。
 
(ネットより)馬糞紙:
麦藁(わら)などを原料とした質の悪い厚紙のこと。馬糞紙というのは外観からの連想による名前で、一般にはボール紙とよばれ、板紙として紙箱や書物の表紙の材料とされる。
 
何も産みださない無産業ロボットが、楽山だと思います。生産性が、積極性が、共感性が、切実さが、説得力が、何もないと思います。楽山の文章は、こういう熟語や言葉を言っておけば、ちょうどいいじゃろ・・という気安さだけで書かれているようです。
 
文章が苦手でも、経験から、これだけは言っておきたいという文章には、それなりの説得力があるものですが、楽山の文章には、説得力の欠片も無いのです。作為だけで、立派そうに見せかけて通念的な言葉を並べるだけだからでしょう。
 
楽山の宗教観は、キリスト信仰を、社会通念におとしめます。そして、そこで、神を信じ過ぎないのが、真っ当な信仰で、信じ過ぎるとカルトになるという、きわめて単純な見方を示してきました。
 
そういうのがキリスト信仰なら、私は、キリスト教を信じることさえ、キリスト教に関わることさえ、なかっただろうと思います。
 
いい加減であることを理想みたいに語る楽山は、一度も、神、信仰、人生について、洞察といえるほど何かはっとさせるような、深い見方を表したことがありません。
 
楽山は、そういう深い見方を、もともと何も持っていないからです。約2年半にわたって、何も、受け取って実になるようなものがありません。
 
つまり、楽山は、いい加減であることが大好きなのでしょう。いい加減さにおいてだけ、楽山は、徹底しています。そして、それは、楽山において、人の意見を無視することから生まれてきます。
 
そのように、信仰を台無しにして、では楽山が、何か人を救えるようなものを提示したかというと、通念的な道徳だけであって、聞かなくても知っているようなことばかりなのです。深みがない人というのは、自分を信用する他者の深みを奪って、均された平坦な人間に変えてゆきます。
 
そして、そこに、つまり他者の心に、楽山の好きなように、楽山の隠し持っている偏向した思想、恐らく右翼的な思想と命令系統を、植え付けてゆきたいのかもしれません。これは、他でもない、非人間的な、ホラーなのです。
 
楽山は、今までに、2度以上、過激な右翼思想家を支持する記事を書いたことがあります。つまり、楽山は、柔和な人どころか、訂正不能の偏屈であり、詭弁によって、じわじわ危険思想を刷り込む洗脳者・煽動家ではないかと思っています。
 
主張するのは人間の言動だが、植え付け刷り込むのは非人間の謀略である。楽山は後者です。
 
 
ちなみに、自己愛が強く、他者を省みない、無反省・無責任でしかない、・・そういう人が就く職業は何かと考えた場合に、一つ思い浮かぶのは、占い師です。そういう全能気取りのナルシストで、市井のインチキ占い師でもやっているのか、と思える人もいたということを付け加えておきます。
 
 
shuutai醜態

醜態2
 
 
(2021年02月14日)
 
 
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